第二次世界大戦 ポツダム会談と戦後秩序の形成
ヨーロッパで1939年に始まった第二次世界大戦と、日中戦争が続いていた太平洋戦争の動きは、いかに関連していったのか。1941年に2つの戦線が結びつく中、連合国側はどのような戦争目的を掲げて結束し、それが戦後の国際秩序の構築にどのように影響したのだろうか。
1939年9月、ポーランドに侵入していたドイツに英仏が宣戦、第二次世界大戦が始まった。独ソ不可侵条約によりソ連もポーランドに侵入、さらにバルト三国を併合した。1940年6月にドイツがフランスを降伏させると、日本は9月にフランス領インドシナに進撃、そして日独伊三国同盟の締結にいたる。この世へろっば戦線とアジア太平洋の動きは連動していた。日本の南進に対してアメリカは石油禁輸で対抗、日米交渉は決裂し、1941年12月8日、日本軍はマレー半島に上陸するとともにハワイの真珠湾を攻撃、東条英機内閣は英米に宣戦布告した。それに先立ち、ヨーロッパでは同年6月に独ソ戦が始まっていた。8月に英米首脳が発表した太平洋憲章で連合国の戦争目的が示された。他方、日本は欧米の植民地支配からアジアを解放して「大東亜共栄圏」をつくることを戦争目的に掲げた。
ドイツ占領下では、大量虐殺(ホロコースト)で多くのユダヤ人が犠牲になつていた。連合国側は、米英ソまたは米英中の3か国で首脳会談を開き、枢軸国の無条件降伏と戦後処理を協議しながら戦争を進めた。
1945年8月2日、イギリス、アメリカ合衆国、ソビエト連邦の3カ国の首脳が集まって行われたポツダム会談が終了した。7月26日には、アメリカ大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において「日本の無条件降伏」を求めた全13か条からなるポツダム宣言が発表された。しかし、日本側がこれを協議している間に、8月6日広島に、9日長崎に原子爆弾が投下され、甚大な被害をうけた。ここで日本は8月15日ポツダム宣言を受諾して降伏した。この戦争で、世界では5000万人をこえる人が亡くなり、310万人の日本人が命を落とした。
ポツダム宣言には天皇制について触れられていなかった。その理由を後年、駐日アメリカ大使館の参事官でポツダム宣言の起草者、ユジーン・ドゥ―マンは次のように語っている。「当時、国務省や世論には天皇制廃止論を唱える者が多かったが、私が苦労して廃止論者と闘ったものだ」 と。
戦後秩序は、第二次世界大戦が終了する1945年よりも前から構築され始めた。経済面では、1944年にIMF(国際通貨基金)と世界銀行(国際復興開発銀行)の創設が決定され、米ドルを基軸通貨とする戦後の国際通貨体制(ブレトンウッズ体制)の形成につながった。また、1947年にはGATT(関税と貿易に関する一般協定)が締結され、自由貿易を基準とする戦後の国際経済秩序が形成された。政治面では、1944年のダンバートン・オークス会議を米英ソ中4か国が国際連合が基本構想をまとめ、1944年4月~6月のサンフランシスコ会議で国連憲章が採択された。こうして、戦後の国際政治秩序は国連を基軸とした集団安全保障体制として形成された。しかし、いわゆる「冷たい戦争」が始まり、世界は米・ソ両大国を中心とする2つの勢力に分裂して、その対立はしだいに激しさを増した。またアジア・アフリカでおこった民族独立・反植民地主義の運動はどのように展開されたのか。これらの点の正しい認識のうえに立ってはじめて、現代の世界情勢が歴史的に理解されるのである。
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ボツダム宣言の日・・・か・・。
三百万の日本人を死に追いやった戦争は、ついには相手方からの申し入れまで白旗を掲げなかった日本政府の責任は重い。
負け戦は迅速に終止符を打つことだのに、それをしなかった戦争責任はどうなるのだ?
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2015年7月26日 (日) 20時52分
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投稿: Mikehab | 2018年7月27日 (金) 10時48分