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蔵書が極めて多いことを「汗牛充棟」という。運ぶときには牛に汗をかかせ、家で積み上げるときには棟木まで届く、の意味。先日、「徹子の部屋」に出演していた上白石萌音が面白い四字熟語として紹介していた。若い世代には新鮮に聞こえる知識かもしれないが、漢字検定ではよく出る四字熟語だろう。しかし本当の意味は少し違う。唐の人、柳宗元の「陸文通先生墓表」が出典で、「いたずらに他をけなし自らを良しとする無益な書物が世に多く残されていることを嘆く」意味で使われている。たとえば、「私は蔵書家で汗牛充棟のごとく本があります」と使った場合、あまり価値のない本がズラリと並んでいます、と言う意味になるということです。
大相撲名古屋場所は平幕の琴勝峰吉成が初優勝を飾った。ここ数場所は怪我で番付を落としていたが、押しも四つも取れる怪力の持ち主である。愛称「テバ」は本名「手計富士紀」からくる。「手計(てばかり)」は全国約360人の珍しい名字だ。ここでは「珍しい名字」の有名人を探す。
「私があなたといる理由」に出演の蓮佛美沙子。「蓮佛」とは珍しい苗字だが、芸名ではなく本名だそうだ。鳥取県出身で、全国でおよそ100人ほどいるらしい。
剛力彩芽 「剛力」は全国で約60人
薬師丸ひろ子 「薬師丸」は全国で約20人
能年玲奈 「能年」は全国で約30人
夏焼雅 「夏焼」は全国で約20人
蓼丸綾(綾瀬はるかの本名) 「蓼丸」は全国で約10人しかいない。おそらく2~3世帯くらいか。
能年の語源は長畝(ながうね)。長畝とは「長くのびた田んぼの畝(うね)」のこと。これが南畝(なんうね)へと変化する。南畝とは作物がよく実る田んぼという意味。こういう変化を地名の佳字化という。そして「なんうね」が「のうねん」と変化する。
オランダの画家ゴッホの自殺死はいわゆる「アンナチュラル・デス」Unnatural Deathである。その死を多くの専門家たちが究明しようとするが未だ謎である。敬虔な信仰心を持っていたゴッホの銃での自殺死は不可解である。ゴッホは1890年7月27日にピストルで自殺を図り、2日後の29日午前1時半に死んだ、と一般に知られている。とくに「カラスのいる麦畑」という絵を描き上げて、その場でピストル自殺をしたと思っている人が多い。それはカーク・ダグラスの映画「炎の人ゴッホ」の影響によるもので、あのシーンはあくまで演出でしかない。有名な「カラスのいる麦畑」が絶筆ではないことは、7月10日頃のテオ宛ての手紙にこの絵と思われる記述があることから明らかである。最晩年と思われる作品は全部で25点あるが、どの絵が絶筆であるかは決定する根拠がなく明らかではない。
ゴッホの25作品の中でとくに変わった1枚がある。「シャポンヴァルのグレの茅葺き家」である。シャボンヴァルとはオーヴェルから1駅はなれた村である。この絵の中には3人の男性が描かれているが、奇妙なのは左端にいる2人である。身なりのみすぼらしい青年のように見える。ゴッホの死に関する話には2人の不良少年(おそらく兄弟)のことがしばしば噂にあがる。そのころゴッホを変人扱いする不良の少年が、女性たちに偽りの誘惑をさせたり、コーヒーに塩を入れたり、ゴッホをからかったりイジメていたらしい。ゴッホとはピストルの件でもトラブルがあった。当時、フランスで人気のあった「ワイルド・ウエスト・ショー」の真似をして少年たちがピストルで遊んでいた。それをみたゴッホが本物のピストルを少年が持ち歩くのは危険を考え、2人からピストルを取り上げた。だが少年がゴッホのラヴ―下宿屋にしのび込んでピストルを奪い返した。そして27日、下宿屋から1.5キロ離れた場所へゴッホを呼び出し、ゴッホを脅している時に誤ってゴッホの胸を撃ってしまう。2人の少年たちは傷を負ったゴッホを夜中に抱えて下宿屋のベッドまで運び逃走してしまった。ゴッホにはまだ意識はあったが、事件を明らかにすることなくそのまま29日に死んだ。なぜ真相を明らかにしなかったのだろうか。事故死よりも自殺のほうが、経済的な負担をかけているテオのために絵が売れると考えたのか。それはあまりにも穿ちすきな勘ぐりで、不良少年の前途を考え、「もはやこれまで。これも人生」とあきらめ、少年たちをかばったというのが真実に近いのではないだろうか。ともかくも手紙のなかでも自殺を嫌悪するゴッホが、自殺をするというのは不自然である。(Les Chaumes du Gre a Chaponval 作品番号F780/JH2115)
昭和7年の夏、淡路島の洲本に海水浴に行った時のこと。海岸に「小さな軽石が一面」に浮いている。海底火山の噴火で吹き出した軽石が流れついたものだろう。一つを拾ってみた。五六十メートル離れた所で、また拾った。宿の座敷で、ふたつの軽石の割れ目を合わせてみると、ぴったりと合う。もと1つであった軽石が分れ分れになったのを、主人公は無数のものの中から拾ってしまった、と語る。昭和14年に「改造」に発表したものであるが、昭和37年「モラエス」「クマ」と合わせて三篇で「盲亀浮木」と題して「一体それはなんだろう」を付している。偶然と必然、夢と現実、それらの一致、確率が志賀文学の重要なテーマであった。「盲亀浮木」百年に一度水面に浮かび出る盲目の亀が、浮木に出会ってその穴に入ろうとするという寓話から、会うことがきわめて難しいことのたとえをいう。
1593年のこの日、フランス国王アンリ4世はサン・ドニ大聖堂でプロテスタントからカトリックに改宗した。5年後には、アンリ4世は「ナントの勅令」を発布し、実質的に宗教戦争を終息させた。
アンリ3世(在位1574-1589)が熱狂的なドミニコ会士の凶刃によって暗殺されヴァロア朝が絶えると、1589年、ナヴァル王であったブルボン家のアンリ4世(1553-1610、在位1589-1610)がフランス国王に登った。プロテスタントであったアンリ4世は、即位に際してカトリックに改宗し、その一方、1598年にはナントの勅令を発して、ユグノーにも信仰の自由と市民権を認める政策をとった。ブルボン家のアンリ4世は35歳、均斉がとれた身体、活気にあふれ、威厳に満ちた歴戦のつわもの、柔軟な知性と明敏な政治力を持っていた。プロテスタントとカトリック双方の信頼を勝ち得て、フランスの王権は急速に強化された。シュリー公(マクシミリアン・ド・べテューヌ、1559-1641)を財務官に起用して、財政改革と農業保護にあたらせた。王とほとんど同年輩で、その同志にして友人、宗教内乱歴戦の勇将、王に改革をすすめこそすれ、自分はつねにルターとカルヴァンの肖像を壁にかけていた気難しく頑固な人物は、勤勉そのもの、吝嗇なまでに節約家であった。「耕作と牧畜とはフランスの二つの乳房」とは、彼の有名な言葉である。シュリー公にとって国土の復興とは、フランス農村の立て直しをはかることであった。農業とそれに従事する人間だけが、フランスに国富と平和をもたらす、というのが、彼の信念であった。もちろんシュリー公の仕事にも限界はあった。農業中心で商業、工業にはあまり関心がなかった。だが、明敏なアンリ4世は養蚕、絹織物、ゴブラン織などの工業をおこし、海外貿易に力をいれた。サミュエル・ド・シャンプラン(1567-1635)がカナダを探検してケベック植民地などの建設がはじめられ、東インド会社がつくられたのも、アンリ4世の治世のことである。
アンリ4世は色事でも勇名をはせたが、一説に恋人の数は56人以上に及ぶという。最初の妻であるマルグリッド・ド・ヴァロアとはサン・バルテルミの虐殺という忌まわしい事件のため別居状態が続き、子供もなかった。アンリ4世はガブリエル・デストレとの結婚を望んでいたが、1599年4月にガブリエルは24歳の若さで急死した。身分の低さからガブリエルを嫌ったマルグリッドも、メディチ家の娘マリー・ド・メディシス(1573-1642)との縁組には応じた。国王47歳、新しい王妃は26歳であった。二人の結婚式は、1600年10月5日にフィレンツェ大聖堂で挙行された。アンリ4世は政務多忙のためフランスを離れられなかったので、トスカーナ大公が新郎の代理となった。荘厳な結婚式と1週間に及ぶ祝祭のあと、マリーは金襴緞子で飾られた豪華なガレー船でマルセイユに向けて船出した。そしてリヨンで初めてアンリ4世にまみえ、1600年11月にその地で結婚の儀は完了をみた。イタリア人のマリーはフランス語が喋れなかったため宮廷での暮らしは孤独だった。それを紛らすためか、マリーの浪費癖は尋常ではなく、毎日のように宝石を購入したりする生活だった。だが翌年の9月には世継ぎであるルイ13世を出産した。アンリ4世も放蕩を自重し、自分が不在の場合に王政の全権をマリーに与える布告を出した。夫妻の生活を取戻しやっとこれから王宮での穏やかな生活を送ることができると思われたが、1610年5月14日、狂信的なカトリック教徒フランソワ・ラヴァイヤックによってアンリ4世は暗殺された。国民の驚き、悲しみは、祖父により、父によって、子々孫々にまで語りつがれた。フランスの王のなかで、これほど死をいたまれた王はあるまいといわれる。勇敢で良識があり、陽気で豪放で庶民的なこの王はまことに国民から敬愛されていた。(7月25日)
「黒ネコのタンゴ」の歌手、皆川おさむさんが23日、慢性腎不全で死去した。62歳だった。当時6歳10カ月のとき、昭和44年10月レーコーディグして、220万枚の大ヒットとなった。翌年に大坂万博開幕が迫っていた時期、左卜全の「老人と子供のポルカ」などと共に子供歌手ブームが起きた。
ちなみに昭和の歌謡曲のレコード売上ベストテン。1位「およげ、たいやきくん」457.7万枚。2位「女のみち」、3位「黒ネコのタンゴ」、4位「恋の季節」、5位「なみだの操」、6位「クリスマス・イブ」、7位「夢追い酒」、8位「星影のワルツ」、9位「あなた」、10位「ダンシング・オールナイト」
1911年のこの日、アメリカの探検家ハイラム・ビンガム3世がペルーのマチュ・ピチュ遺跡を発見した。ビンガムは映画「インディ・ジョーンズのモデルといわれる。しかしビンガムは、最初の発見者ではなく、既に地元では存在が知られていた遺跡を確認して、最初に学術調査をしただけである。▽アルゼンチン。スペイン語アルヘンチナとは「銀」を意味する。▽ブラジル。ポルトガル語ブラスとは「赤い木」を意味する。▽チリとはスペイン語で「とうがらし」を意味する。▽コロンビアは「コロンブスの国」を意味する。▽エクアドルはスペイン語で「赤道」を意味する。▽ペルーはインカ帝国で「川」を意味する「ビル」がスペイン語表記で転化した。▽ベネズエラはスペイン語で「小さなベニス」という意味。▽ボリビアは革命家シモン・ボリバルに因む。▽スリナムは「スリナム川」にちなむ。▽ラプラタ川が注ぐ、ウルグアイはインディアン語で「川」の意味。▽ガイアナはインディアン語で「豊かな水の地」の意味。(7月24日)
大正7年のこの日、富山県魚津の主婦たちが米の県外移出を阻止する行動から米騒動が全国に拡大していった。米騒動は8月になって勢いを増し、8月10日には京都と名古屋で大規模な騒動がおきる。13日には18市40町30村におよび、16日にかけて米騒動のピークをむかえる。騒動は、青森・岩手・秋田・沖縄の4県を除いて全国に波及し、9月11日の三池炭鉱を最後に収束。騒動鎮圧のために各地に警察や軍隊が出動し、約30人の死者をだした。7786人が起訴され、一審で2人が死刑、12人が無期懲役となる。この事件で9月21日に寺内正毅内閣が総辞職した。
一般に米騒動は大正7年が有名であるが、明治23年1月18日にも富山市で300人余が市役所に押しかけるのを機に、各地に米騒動が広がっている。(7月23日)
コンサイス日本人名事典は架空人名もかなり採録している。例えば多羅尾伴内、金田一耕助、丹下左膳、猿飛佐助などである。人名事典に実在の人物しか採録しないとすれば、弁慶、石川五右衛門、一心太助、左甚五郎など半ば伝説化して架空説もある人物などの選択がむずかしくなるからであろう。広辞苑も一応は架空人物を載せている。光源氏という項目がある。しかし多羅尾伴内のような人物はないので、積極的ではなさそうだ。実用性を追求するならば、銭形平次、俵星玄蕃、鞍馬天狗、矢吹丈、星飛雄馬、花形満、古代進、初音ミク、シャーロック・ホームズ、ジュリアン・ソレル、エイハブ、スカーレット・オハラ、サラ・コナーズ、リチャード・キンブル、インディ・ジョーンズ等という架空人名が載っている架空人名事典が必須だと考えるのだがいかがであろうか。
作家や脚本家が作品の登場人物の名前を決めるのは、どのような考えがあってのことかあまり分からない。小説家の夢野久作は「小説の登場人物の名前を選ぶのは、自分の子供の名前や、自分のペンネームを決めるよりもはるかに苦心するのである」と書いている。
社会科「中学生の地図」を見る。中国東北部とロシアとの国境地帯にハンカ湖(中国名は興凱湖)という広大な淡水湖がある。黒澤明監督の映画「デルス・ウザーラ」のロケ地としても使われたことがある。面積は4190k㎡で東アジアでは洞庭湖に次ぐ大きさを有する(琵琶湖の6.2倍)。中生代の終りには海と連結していたが、第三紀の初めにシホーテ・アリンの造山作用により生じた構造湖である。直線距離からいえば日本とはかなり近いが、なぜかその存在すら知られていない不思議な湖である。ハンカ湖とハバロフスク北部のアニユイ川河畔で捕獲された98例の鳥類の腎臓からreal-time PCRによりウエストナイルウイルスの遺伝子検出を行ったが、いずれも検体からもウイルス遺伝子は検出されなかった。しかし、微量中和法により血清の得られた91例中うち15例からウエストナイルウイルス抗体が検出され、極東ロシアで野鳥においてウエストナイルウイルスの感染のあることが示唆された。極東ロシアからは日本に渡り鳥が多数飛来することから、今後わが国におけるウエストナイル熱の防疫体制の強化が強く望まれる。
きょうは「海の日」。地球上の約4分の3を占める海洋は、国際貿易の海上交通路である。本棚から海に関する本を集めてみた。「海と魚」宇田道隆 築地書館。「海の教科書」柏野祐二 講談社ブルーバックス。
ある番組で若い女性が選んだ「海が似合う男性有名人は誰?」のランキングを紹介する。1位は反町隆史。以下、速水もこみち、山下智久、伊藤英明、坂口憲二、木村拓哉、向井理、ATSUSHI、市原隼人、桑田圭祐。ちなみにケペルが選ぶ海が似合う芸能人は、鳥羽一郎、加山雄三、石原裕次郎、森繁久弥、松方弘樹、三島由紀夫、アラン・ドロン、リチャード・イーガン(海底の黄金、避暑地の出来事)、ギルバート・ローランド、ジョニー・デップなど。
これに対して山が似合う男は、今上天皇、新田次郎、井上靖、太陽にほえろのロッキー刑事(木之元亮)、加藤文太郎、西堀栄三郎、杉野遥亮などと少ない。
本日は「日本三景の日」。林鵞峰の1618年の誕生日に因んでいる。日本には「三大○○」と称される名所がある。三大桜は三春滝桜・神代桜・淡墨桜、三名城は名古屋城・姫路城・熊本城、三名園は偕楽園・兼六園・後楽園、三名瀑は華厳の滝・袋田の滝・那智の滝、三古湯は有馬温泉・白浜温泉・道後温泉。三奇橋は甲斐の猿橋、錦帯橋、愛本橋。しかし、古くから知られるのは松島・天橋立・宮島の日本三景であろう。17世紀、林鵞峰が『日本国事跡考』で絶賛したことに始まる。とくに松島は日本三景随一と称され、芭蕉が旅したことはあまりに有名である。元禄の頃はまだ街道も整備されていなかったが、八代将軍吉宗以後、旅籠も整備されて不便なく旅ができるようになり、各地の名勝は賑った。箱根の関所の手前までなら、通行手形もいらず近場の旅が楽しめる。箱根七湯、江ノ島詣、金沢八景。相州大山詣。江戸から北では、日光東照宮の参拝。華厳の滝など。(7月21日)
アメリカ・イリノイ州オークパーク。シカゴから西へ約16㎞に位置するこの町は、1800年代後半に開発されたニュータウンである。レイ・クロック(マクドナルド創業者)、バローズ(類人猿ターザンの作者)、フランク・ロイド・ライト(帝国ホテルの設計者)などこの町ゆかりの有名人は多いが、なかでもアーネスト・ヘミングウェイの生家があることで知られる。へミングウェイは1899年7月21日、姉マーセリンに次いで2番目の子としてここで生まれた。最近この生家が52万5000ドルで売りに出されているらしい。(Ernest Hemingway,Oak Park)
なぜサッカー試合後ユニフォームを交換するようになったのか?チコちゃんの答えは「フランス代表がイングランド代表のユニフォームを欲しがったから」。サッカーに限らずユニフォーム交換はお互いへのリスペクトを表すものとしてバスケットボールやラグビーでもおなじような慣習がありますが、サッカーがその起源と言われています。ユニフォーム交換の最も古い記録は1931年のフランスVSイングランドの試合で、フランスがイングランドを破ると言う歴史的大勝利を収めた。ところが、フランス側は帰国してもそれを信じてもらえるのか?という心配事を抱えており、何らかの証拠を持って帰国したいと考えたフランスはイングランドのユニフォームを戦利品としてもらうことにした。ただで貰うのは気が引けるので交換を提案したというのが有力な説である。やがて、たがいの健闘を称え合うという意味合いでユニフォーム交換は世界に浸透していった。もともとフランスとイギリスの間には長い戦争の歴史が関連していたといわれる。14世紀から始まった百年戦争や、17世紀後半から続いた第二次百年戦争、18世紀の植民地戦争、フランス革命に対してはイギリスは対仏同盟を指導して、その波及を阻止しようとした。
1960年代のアメリカはベトナム戦争を背景に学生の反戦運動が始まった。フォークやロックは「愛と平和」や「体制への抵抗」をうたいあげヒッピー文化が花開く。日本でも激しい学生運動が巻き起こり、東大安田講堂や新宿騒乱など大事件が相次いだ。世界が争乱のさなかにあった1968年12月、アポロ8号が宇宙から青く美しい地球の映像を届けた。
1969年7月16日、二ール・アームストロング船長、マイケル・コリンズ、エドウィン・オルドリンの3名を乗せたアポロ11号はケネディ宇宙センターから発射され、7月20日、アームストロングとオルドリンは人類として初めて月面に降り立った。
That's one small step for a man,one giant leap for mankind.
「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」とのメッセージを地球に送った。この瞬間はテレビでも放送され世界中が固唾を呑んで見守った。(Apollo,Neil Armstrong,Michael Collins,Edwin Aldrin,Jr.)
現代史を記憶する方法は最も印象に残った事件を中心に、他の出来事を関連づけて覚えるのがよい。この年のヒット曲。いしだあゆみ「ブルーライト・ヨコハマ」、カルメンマキ「「時には母のない子のように」、ピンキーとキラーズ「恋の季節」、内山田洋とクールファイブ「長崎は今日も雨だった」。流行語「オー・モーレツ!」、「あっと驚くタメゴロー」。洋画は、スティーブ・マックイーン「ブリット、アラン・ドロン「ジェフ」、ダスティン・ホフマン「真夜中のカーボーイ」。
現代史を記憶する方法は最も印象に残った事件を中心に、他の事柄を関連づけて覚えるのがよい。1977年7月18日、キャンディーズは解散宣言をした。この年、ピンクレディーは「ウォンテッド」「UFO」のヒットを飛ばしている。沢田研二「勝手にしやがれ」。小説では三田誠広「僕って何」、池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」が芥川賞を受賞。アイドルでは榊原郁恵、大場久美子、高田みずえがデビュー。洋楽ではバリー・マニロウ。映画界は「人間の証明」「幸福の黄色いハンカチ」「宇宙戦艦ヤマト」「ロッキー」「サスペリア」。NHK放送の米国ドラマ「大草原の小さな家」が人気。アル・パチーノがトップスターだった。円高差益。東京外国為替市場で、1ドル260円を割る。
1956年7月17日に発表された経済白書の結語には、太平洋戦争後の日本の復興が終了したことを指して「もはや戦後ではない」として「回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる」と結んだ。この言葉は経済企画庁の調査課長であった後藤誉之助(1916-1960)が用いたとされる。しかし言葉の初出は、評論家、中野好夫が文藝春秋2月号に掲載されたエッセー「もはや戦後ではない」である。
ところで、この「もはや」という語は、日本が復興期から脱して、神武景気に沸く明るい未来を目の前にした状況を表現したものと誤解されることが多いが、当時の「もはや」に込めた認識は今日的解釈とは正反対で、「今までは戦後復興ということで、成長の伸び代が多大にあったが、戦前の生産水準にまで回復してしまった以上、この先、この成長をどうやって続けたらよいものだろうか」という不安な思いが込められている。
では、なぜ「もはや戦後ではない。油断せずにこの成長を持続しなければならない」という警告を正しく受け止められなかったのか。世論やマスコミ、大衆メディアにも責任はあるだろう。同年3月に発表された石原慎太郎の「太陽の季節」がベストセラーとなり、神武景気とも重なり、太陽族といわれる享楽的な若者が流行していた。このような享楽的な社会傾向が、経済白書を誤解したのではないだろうか。
1841年のこの日、イギリスの絵入り諷刺週刊誌「パンチ」が発刊された。「漫画の日」は、ほかに手塚治虫の誕生日の11月3日と、命日にあたる2月9日が定められている。いまや日本の漫画は世界的に高い評価を受けている。英語で「MANGA」と呼ばれ、コミック(comic)やカートゥーン(cartoon)とは別格扱いされている。戦後貸本漫画の全盛期は昭和30年から34年まで。単行本だけでなく月刊児童漫画誌も一夜貸しで貸し出していた。当時、人気は「赤胴鈴之助」「月光仮面」「ジャングル大帝」「ダルマくん」「イガグリくん」「よたろうくん」「背番号0」「ライナーくん」「まぼろし探偵」「天馬天兵」「もうれつ先生」「ジャジャ馬くん」などなど。(7月17日)
ナポレオン1世の甥で、第二共和政大統領のルイ・ナポレオンは1852年ナポレオン3世として第二帝政の皇帝となった。しかしその対外政策は、ほとんど成功しなかった。メキシコの遠征に失敗し、普墺戦争における中立の代償としてライン左岸を要求してビスマルクの拒否にあい、1867年にはオランダからルクセンブルグを買収しようとして、ビスマルクに妨げられ果たしえなかった。ドイツをつねに分裂状態に置くことはフランスの伝統的政策であったが、ナポレオン3世がビスマルクの巧妙な外交政策に妨げられ、これ以上プロシアの強大化を許すことはフランスの安全をおびやかすものであったから、ナポレオン3世は、プロシアと対立する南ドイツ諸邦と結ぶために積極的に働きかけた。いっぽうビスマルクは、フランスとの衝突の不可避を予期して軍備の拡張を進め、ナポレオン3世の領土的野心を暴露してドイツ国民の敵愾心をあおり、秘密のうちに南ドイツ諸邦と攻守同盟を結んでフランスに対抗した。こうしてドイツ統一の完成にあたり、プロシア・フランスの決戦はさけられない情勢となったが、衝突の直接の動機となったのは、スペイン王位継承問題であった。
1868年にスペインに革命が起こり、新政府はプロシア王の一族レオポルド親王を国王に立てようとした(1870)。これに対しフランスの世論は大いに沸騰し、ナポレオン3世は欧州の勢力均衡を破壊するという理由で、プロシア王に強硬な反対意見を通告した。1870年7月13日、ビスマルクは、一計を案じ、西ドイツの温泉場エムスで休養中のプロシア王とフランス大使ベネデッチの会見を報じた電文を、フランス大使が不当な要求をしたかのように内容をゆがめて発表した。この有名なエムス電報事件という策略により、大いにドイツ国民は激昂し、対仏戦争に結集させることに成功した。同時にフランス人の敵愾心は爆発し、議会は1870年7月17日プロシアに宣戦を布告した。ナポレオン3世は病気にもかかわらず、軍の指揮をとったが、プロシア軍に撃破されスダンに追い込まれ、普仏戦争はわずか40日間の戦いでフランスの大敗に終った。1871年1月、ヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝として戴冠式を行い、ドイツ帝国が誕生した。(参考:吉岡力「世界史の研究」)
西洋史の流れをみると、その本流には絶えずイギリスとフランスとの抗争の歴史がある。イギリス、フランスの関係は北フランスのノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服してノルマン王朝(1066-1154)を開いたのにはじまる。12世紀、ノルマン家の断絶によってフランスのアンジュー伯がイングランド王家を継いだため、イングランド王は同時にフランスの封建諸侯としてフランスに広大な領土を有することとなった。これが英仏百年戦争(1339-1453)の原因となる。百年戦争は断続的に続いたが、概してイングランドが優勢であった。百年戦争の結果、英仏の封建社会の崩壊が急速に進み、中央集権の機運が大いに促進された。フランスはルイ11世(在位1461-1483)、チャールズ8世(在位1483-1498)、イギリスではヘンリー8世(在位1509-1547)のときにいたり、強力な絶対主義国家が確立された。
17、18世紀のフランス・ブルボン家とドイツのハプスブルク家がヨーロッパ大陸の支配を争ったが、イギリスはその間に介在しつつ、植民地支配をフランスと争そった。7年戦争(1756-1763)も英仏抗争の一環であり、イギリスの国務相ウィリアム・ピット(大ピット、1708-1778)はプロシアに経済支援をしたものの、軍隊を派遣せず、海外でフランスの植民地攻撃に主力を注いだ。そのためプロシアのフレデリック大王は守勢を続け、1760年、一時はベルリンがロシア軍に占領された。しかし、1762年ロシアでかねてフレデリック大王の賛美者であったピーター3世が即位すると、急にオーストリアと絶って大王と同盟した。そのうえ翌1763年には英仏間の植民地戦争が終り、パリ条約に従ってフランス軍ばドイツから撤兵した結果、形勢が一変して1763年フベルトゥスブルクの和約が成立した。
イギリスはフランス革命に対しては対仏同盟を指導してその波及を阻止した。トラファルガーの海戦(1805年)などのナポレオン戦争(1799-1815)はフランスのイギリスに対する反撃の意味をもつが、ワーテルローの戦(1815年)のフランス軍の大敗でついに成功しなかった。(Battle of Trafalger)
1993年のこの日、横浜ランドマークタワー(高さ296m)が開業。超高層ビルでは高さ日本一。しかし2014年春に完成する「あべのハルカス」(大阪市阿倍野区)高さ300mが高さで横浜を抜き、日本一高いビルとなる。現在の日本一高いビルは2023年に竣工した麻布台ヒルズ「トーチタワー」で高さ330mである。(7月16日)
地中海の東に浮ぶキプロス島。ここには歴史を物語る文化的建造物や遺跡が多数ある。前7000年頃には人が住んでいた。ギリシア人はアラシアと呼んでいた。エジプト、ギリシア、ペルシア、ローマなどの侵略と支配に晒された。首都レフコシア(ニコシア)の城壁と砦に囲まれた旧市街にも名所や遺跡が多い。1960年8月16日、イギリスから独立した。だが1974年7月15日、マカリオス大統領(1913-1977)が追放されて以来、南のキプロス共和国と北キプロス・トルコ共和国(トルコ軍実効支配地域)に分断されている。レフコシアはプトレマイオス1世(前367-前282)の息子レフコスによって再建されたので、レフコス(Lefkos)と地名接尾辞イア-iaの合成地名か。英語名ニコシアは、ギリシア神話の勝利の女神ニケに由来する。ラルナカの西南40kmのところにあるレフカラ村には、レオナルド・ダ・ヴィンチが1481年に訪れ、ミラノ教会に寄贈するためにレースを購入したと伝えられている。しかしダ・ヴィンチのキプロス旅行は年譜などには見当たらず、伝承の域をでないものであろう。
2015年1月13日、北キプロス・トルコ共和国初代大統領ラウフ・デンクタシュ(1924-2012)がニコシアの病院で亡くなった。トルコ共和国初代大統領ケマル・アタテュルク(1881-1938)の名前を覚えるようにラウフの名も記憶にとどめたい。
第二次大戦の末期、ペルーの港町カボ・ブランコを舞台に、海底に沈んだ財宝をめぐってさまざまな人々が暗躍するアクション映画。日本では「太陽のエトランゼ」「灼熱のカボ・ブランコ 狼たちの野望」などのタイトルで公開された。1979年制作。チャールズ・ブロンソン、ドミニク・サンだ、ジェースン・ロバーズ、フェルナンド・レー。
18世紀末のフランスでは、流血をともなう革命によって、古い体制が打ち砕かれ、国民国家が誕生した。王政から共和政へ展開する政局は複雑である。革命前の国王政府は、けっして単純に反動的だったわけではない。むしろ、時代の要請にあった近代的な改革を試みようとしていた。1789年5月ルイ16世は反対する貴族に圧されて175年ぶりに三部会を招集した。1789年6月20日、農民・市民らの第三身分代表議員らがヴェルサイユ宮殿で「球戯場の誓い」を宣言。7月9日に憲法制定国民議会ほ制定。7月14日、パリの民衆は武装蜂起し、バスチーユ牢獄を襲撃した。これにより反革命軍来襲のデマとともに農民暴動と各都市の武装という無政府状態がはじまった。騒乱はただちにフランス全土に波及し、ヴェルサイユのルイ16世にも伝えられた。このときルイが「暴動か」とたずねると、側近は「いえ、陛下、革命でございます」と答えたと伝えられる。以後10年にわたって続くフランス革命の、これが始まりである。同年8月26日に人間の自由と平等、国民主権などを謳った「人権宣言」が採択された。
1932年公開の映画Le Quatorze Juillet(7月14日)の邦題が「巴里祭」だったことから、日本ではこの日を「パリ祭」と呼ばれるが、正式には「革命記念日」。バスティーユ牢獄は、14世紀シャルル5世のときパリ防衛の目的で築かれた要塞で、ブルボン朝のもとでは政治犯を投獄する牢獄として使用され、専制政治の象徴とみられていた。だが民衆がバスティーユを襲撃したのは、武器を得る目的であり、実際に解放された囚人は精神障碍者2人、文書偽造犯2人、非行貴族1人の計7人で、政治犯はひとりもいなかった。民衆は100人以上の死傷者を出しながらも、バスティーユを陥落させた。フランス語のbastilleは、要塞を意味する。要塞は革命後に解体され、痕跡は残っていない。現在はバイティーユ広場となっている。革命はロベスピエールらジャコバン派の恐怖政治を経て、テルミドールのクーデター(1794年)がおこり革命の嵐は10年間続くが、ナポレオンが国民の支持を得て、1799年11月9日、「プリュ―メル18日」のクーデターで政権を掌握する。フランス革命によって旧時代の地代生活者が没落し、新しい市民階級が登場する。(Fernch Revolution,Bastille、7月14日)
70年代から80年代にかけて覚えやすくシンプルなメロディで今なお多くの人々の記憶に残っている女性アイドルたちの楽曲。天地真理の登場はそれまでのフォークと歌謡ポップスの流れに乗った形で、幅広い年齢層にアピールを広げていった。そして山口百恵、松田聖子、中森明菜らスターが現れる。ここでは90年代「アイドル冬の時代」を迎えるまでの30年間の中からセレクトしてみよう。
01 天地真理 若葉の季節
02 南沙織 傷つく世代
03 麻丘めぐみ わたしの彼は左きき
04アグネス・チャン 草原の輝き
05 桜田淳子 夏にご用心
06 山口百恵 冬の色
07 浅田美代子 しあわせの一番星
08 キャンディーズ 年下の男の子
09 松本ちえこ 卒業試験
10 太田裕美 九月の雨
11 木之内みどり 横浜いれぶん
12 岩崎宏美 ファンタジー
13 相本久美子 涙のドライブ
14 香坂みゆき レイラ
15 石野真子 日曜日はストレンジャー
16 手塚さとみ ボビーに片想い
17 森まどか ひまわりの夏
18 岡崎ひとみ ひとこと言えば
19 徳丸純子 哀の心話
20 岡田奈々 手編みのセーター
21 大橋惠里子 経験シーズン
22 小林美樹 人魚の夏
23 金井夕子 パステル・ラブ
24 松田聖子 瑠璃色の地球
25 中森明菜 DESIRE 情熱
26 河合奈保子 ハーフムーン・セレナーデ
27 柏原芳恵 最愛
28 甲斐智枝美 マーマレード気分
29 石坂智子 ありがとう
30 浜田朱里 青い花火
31 岩崎良美 あなた色のマノン
32 三原順子 セクシー・ナイト
33 佐藤恵利 ラブ・スケッチ
34 中山圭子 パパが私を愛してる
35 日高のり子 初恋サンシャイン
36 伊藤つかさ 少女人形
37 小泉今日子 なんてったってアイドル
38 石川秀美 ゆれて湘南
39 早見優 急いで!初恋
40 松本伊代 センチメンタル・ジャーニー
41 坂上とし恵 黒い瞳
42 原田知世 悲しいくらいほんとの話
43 桑田靖子 脱・プラトニック
44 花井その子「キューピッドLOVE」
45 小出広美「チェンジLOVE」
46 原真佑美「決心」
47 佐久間レイ「はみだし天使」
48 太田貴子「夏にあわてないで」
49 河上幸恵「ブルーエトランゼ」
50 横田早苗「哀愁Dream」
51 菊池陽子「風色タッチ」
52 渡瀬麻紀「i love You」
デンマークにある1583年オープンのデュアハウスバッケン(右画像)が世界最古の遊園地といわれる。1728年にはロンドンでヴォクスホル・ガーデンが開園した。動物園で最も古いのは1752年にオーストリアのウィーンにできたシェーンブルン動物園。1793年にはフランスのパリのジャルダン・プラント動物園、1828年にはロンドン動物園が創設され、のち一般にも公開された。世界最大級の美術品を収集するルーヴル美術館は1692年以来収集されていたが、正式には1793年がオープンとなっている。動物園の原型ともいえるのは、メソポタミアや古代中国などにみられる。例えば、紀元前9世紀イラク北部を支配したアッシリア帝国はでは、征服地かに猛獣や珍奇な動物を集めることで自らの富や権力を誇示したのである。「チコちゃんに叱られる」関西大学の溝井裕一教授の解説によると、アシュル・ナツィルパル2世が、王都にライオンや象、ダチョウなどを飼育していたという。
図書館の歴史は古代メソポタミアの粘土板のように紀元前7世紀のアッシリアの図書館にまでさかのぼるが、一般公開となると、賢明王と称されるフランスのシャルル5世の国立図書館が1364年にルーヴル城に開館しており最古の図書館である。当初はわずか1200冊だったが、この図書館がカペー朝、ヴァロワ朝、ブルボン朝と王家が変わっても順調に発展を続ける。16世紀フランソワ1世は学者、芸術家を保護し、フランスにおけるルネサンスの発達を援助した。ギュイヨーム・ビュデを王室図書館長に任命し図書館の蔵書を増やしていった。これが現在1300万冊を蔵するフランス国立図書館の基礎となっている。(ビブリオテーク・ナショナル・ド・フランスの起源)。
1886年のこの日、日本標準時(JST)明石市を通る「東経135度」子午線が定められた。(7月13日)
アンタッチャブルとは「触れられない、または影響を受けない」の意味。物理的な接触だけでなく、法的、社会的、道徳的な影響から免れている状態を表す。米国財務省捜査官たちのチーム「アンタッチャブル」のリーダーだったエリオット・ネス。パン屋の息子としてシカゴに生まれたネス(1903-1957)は学校の成績も優秀で、義兄が捜査官(後のFBI)だったことから、シカゴの大学を卒業すると警察官になった。その後、義兄の紹介で、弱冠26歳でFBIの禁酒法秘密取締官のリーダーとなり、禁酒法を守るために敢然とアル・カポネに戦いを挑んで、2年半をかけて刑務所送りを果たした。アンタッチャブル解散後、1935年クリーブランド地方政府の治安本部長に就任するも、1942年に飲酒運転で当て逃げ事故を起こし辞任させられる。オスカー・フレイリーが彼の実伝を書いたが、この本が出版される直前にネスは心臓発作で亡くなった。
ハン・ソロやインディ・ジョーンズなどのヒーロー役で知られるハリソン・フォードは1942年7月13日、イリノイ州シカゴで生まれた。今年でもう83歳で、今は映画界から引退している。 外国人名をカタカナ表記するとき、幾つかの表記が生ずることがある。これを「表記のゆれ」とか「表記われ」とか言う。たとえばシェイクスピアも昔はシェークスピアと表記されることが多かった。シャーロック・ホームズの友人 Watson の表記は「ワトソン」と「ワトスン」があるが、一般に「ワトソン」が多い。ところがビートルズの George Harrison ジョージ・ハリスンは「ハリスン」である。俳優の Harrison Ford は「ハリソン・フォード」と表記されることが多い。だが洋画雑誌「スクリーン」では「ハリスン・フォード」で統一されている。医学生の教科書「ハリソン内科学」の著者ティンズリ―・ハリソンも同じ綴りのHarrisonなので「ハリソン」の方が一般的だとおもうが。原音に近いほうを採用するのが原則ながら、「表記の揺れ」は永遠の課題なのだうか。
「デーヴィッド・クロケット」1786-1836。アラモの戦で玉砕したアメリカの国民的英雄。一般にはデビー・クロケットと呼ばれる。▽内科学のバイブルと言われ、世界中の医師・医学生の教科書になっている「ハリソン内科学」、著者はテインズリー・ランドルフ・ハリソン(1900-1978)。Tinsley Randolph Harison。▽「ティック・クァン・ドック」南ベトナムで焼身自殺した僧侶。▽「デニス・イヴァーノヴィチ・フォンヴィージン」1745-92。ロシアの劇作家・啓蒙思想家。上流社会や農奴制下の地主階級を風刺した写実的な作品を発表。代表作は喜劇「旅団長」「親がかり」など。「フォンウィジン」とも表記される。
ディアナ・ダービン
ディアーヌ・ド・ポワチエ
ディエゴ・アルマンド・マラドーナ
ディエゴ・デ・アルマグロ
デイエゴ・ベラスケス
デイエゴ・リベラ
ディオゲネス
ディオニシウス・エクシグウス
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ
ティック・クァン・ドック
ディック・フランシス
デイジー・リドリー
ディディウス・ユリアヌス
ディートリヒ・フォン・コルティッツ
ディナ・エルシリア・ボルアルテ・セガラ
ティナ・ターナー
ディノ・デ・ラウレンティス
ディミトリー・イヴァノヴィッチ・ピーサレフ
ディミトリ―・ティオムキン
デイム・ジュディ・デンチ
デイム・マギー・スミス
ティム・バートン
ティム・ロビンス
ティムール
ティモシー・ケリー
ティモシー・ハットン
ティモシー・ブラッドリー
ディーン・アチソン
ティンズリ―・ランドルフ・ハリソン
デーヴィッド・イーストン
デーヴィッド・O・セルズニック
デーヴィッド・キャメロン
デーヴィッド・クリスチャン
デーヴィッド・クロケット
デーヴィッド・クローネンバーク
デーヴィッド・コレンスウェット
デーヴィッド・ジャンセン
デーヴィッド・スーシェ
デーヴィッド・ストラザーン
デーヴィッド・ソウル
デーヴィッド・ディンキンズ
デーヴィッド・ドゥコヴニー
デーヴィッド・ニーブン
デーヴィッド・ハミルトン
デーヴィッド・ヒューム
デーヴィッド・ファラガット
デーヴィッド・ブッシュネル
デーヴィッド・フィンチャー
デーヴィッド・ベッカム
デーヴィッド・ベラスコ
デーヴィッド・ボウイ
デーヴィッド・リカード
デーヴィッド・リースマン
デーヴィッド・リヴィングストン
デーヴィッド・リンチ
デーヴィッド・ロイド・ジョージ
デーヴィッド・ワーナー
テウデリク1世
テオドシウス1世(ローマ皇帝)
テオドル・オビアン・ンゲマ
テオドール・アドルノ
テオドール・アーベル
テオドール・ギルベルト・モレル
テオドール・ジェリコー
テオドール・ド・ブライ
テーオドール・ヘルツル
テオドール・モムゼン
テオドール・ルソー
テオドール・レルヒ
デオドロ・ダ・フォンセカ
テオフィル・ゴーティエ
テキサス・ガイナン
テクラ・バダジェフスカ
デジデリウス・エラスムス
テスラン・ド・ボール
テータム・オニール
デダン・キマジ・ワキウリ
テックス・リッター
テッド・ウィリアムズ
テドロス・アダノム・ゲブレイェスス
デニス・イヴァーノヴィチ・フォンヴィージン
デニス・クエイド
デニス・ヘイズ
テネシー・ウィリアムズ
デビー・レイノルズ
デーブ・スペクター
デボラ・ウォーリー
デボラ・カー
デミー・ムーア
テリー・サバラス
テリーザ・メイ
デール・カーネギー
デレク・ジーター
テレサ・テン
テレサ・ベルガンサ
テレサ・ライト
テレンス・スタンプ
デーン・デハーン
テンジン・ノルゲイ
ハリー博士(ピーターオトゥール・オトゥール)は大学に研究室をもち、生物学の研究に日々取り組んでいる。が、それは表向きの姿。彼は自宅の実験室に大学の器材を持ち込み、30年前に亡くなった最愛の妻ルーシーの細胞をひそかに培養し続けていたのだ。いつか現代によみがえる日を夢見て。
ルーシーの細胞を育てるため、卵子の必要に迫られたハリーは、若くて健康な女性の卵子を求めて街をさまよう。ところが、卵子を提供しようなんて女性がそうそういようはずもない。疲れ果ててカフェにたどりついたハリーは、そこで泣いている女の子メリー(マーゴット・ヘミングウェー)をみつけた。妊娠したらしく、それが理由でボーイフレンドにもふられ、お金はないし途方にくれているのだという。気の毒に思ったハリーが、メリを診断したところ妊娠は勘違い。お礼に何でもしてくれるという彼女の申し出にハリーが卵子提供をお願いしたのはいうまでもない。
ぶつかりあいながらも次第にひかれあう二人のファンタジックなラブ・ストリー。1986年作品。監督はアイバン・バザール。全編を流れる優美な音楽はシルベスター・レベーの手によるもの。
コンビニや駅の売店、自動販売機、どこでも気軽に飲めるコーヒーですが、集中力を高める効能があるカフェインは、大量に摂取すると中毒を起こし、最悪の場合、死亡するリスクもある。俳優のディーン・フジオカはコーヒー党で、大量に飲みすぎて、なかなかやめられないらしい。コーヒーの飲みすぎに注意しよう!18世紀スウェーデンの王グスタフ3世は、コーヒーが毒だと信じていた。それを証明するべく、王は1人の殺人犯に死ぬまで毎日コーヒーを飲み続ける刑を科した。比較のため、別の殺人犯が毎日紅茶を飲む条件で釈放された。実験の監督と、検死の医師が2名雇われた。いの一番に死んだのは、医者だった。ついで王がストックホルムの劇場で反対派から銃で撃たれて死亡した。そして、殺人犯の1人が83歳で死んだ。紅茶を飲み続けた方の囚人だった。結局コーヒー有害説を立証できなかった。その後、コーヒーは世界中に普及していく。フランスの文豪バルザックは毎日50杯のコーヒーを20年間も飲み続けた。51歳で早逝したがコーヒー中毒ではなく過食による糖尿病が原因といわれる。彼によると「コーヒーを胃に入れると、脱兎のごとくアイデアが沸き上がるという」。
最近のある調査によると、コーヒーを1日に2杯から4杯飲む人は、まったく飲まない人よりも自殺する確率が50%も低くなるという。コーヒーを定期的に飲まないと頭痛がする、気分が落ち込むなどいう人がいるが、カフェインには緩やかな抗うつ剤のような役割があるらしい。
世界でいちばんコーヒーを飲んでいる国はどこ?コーヒー製品の国内供給涼をランキングすると、第1位はアメリカ、2位フィリピン、3位フラジル、4位日本、5位ドイツでした。もちろん人口割りの調査で比べと、北欧ヨーロッパも多い。
コーヒー党の有名人といえば、遠藤周作、高倉健。松本清張は煙草もコーヒーもよく飲んだが天寿を全うしている。 世界一の長寿王ハビエル・ペレイラ翁はなんと167歳!(非公認)まで生きて、彼は長寿の秘訣を「くよくよせずにたくさんコーヒーを飲んでうまい葉巻を吸うことさ」といっている。この名言はコロンビアの記念切手に書かれている。(Javier Pereira)
ぼくらの少年発明王
いつも明るい えがおの中に
輝くひとみも いきいきと
ゆめはとぶとぶ 宇宙のはてへ
そこから生れる大発明
子どもの頃みたフジテレビ系の番組「少年発明王」(昭和36年)、上高田少年合唱団が歌う主題歌を聞くと「チキンラーメン」の記憶とダブってくる。おそらく日清食品の提供だったと思う。同じ頃、映画館で家族全員でみた石原裕次郎主演の映画「堂堂たる人生」。倒産寸前の玩具会社をアイデアで若いサラリーマン中部周平(石原裕次郎)が救うという物語。風邪で寝込んだ中部の下宿先に同僚OLの石岡いさみ(芦川いづみ)が見舞いに来て、チキンラーメンをつくるシーンが印象的であった。
つまりケペルの子供時代、インスタントラーメンがようやく家庭に普及した頃で、チキンラーメン1袋35円だった。「少年サンデー」が40円の時代であるから、少し高い値段であろう。「少年サンデー」といえば、あの頃「おばけのQ太郎」に頻繁に登場する眼鏡でパーマをかけた小池さんという人も何故か必ずラーメンを食べていた。
このように子供にとってラーメンは大人気の食品であったが、明治生まれのオヤジは何故かラーメンといわず「支那そば」といっていた。国鉄のことを大人は「省線」(戦前は鉄道省だった)といったのは素直に理解できたが、ラーメンを「支那そば」と呼ぶことには抵抗感があった。
ところでラーメンの「ラー」って何か?中国語の拉麺がそのままラーメンになったというのが定説である。そもそも「拉麺(ラーミエン)」とは、中央アジアの麺・ラグマンが語源である。明治33年頃、浅草の来々軒は中国料理だったが、なかでも「支那そば」「南京そば」と言われた中華麺は人気だった。そこに王文彩というロシア革命の亡命料理人が、手延べでさっさと麺をつくり、「ラーメン」と称した。
だがラーメンの語源は諸説あり、これよりのちの大正10年、北海道大学の前の竹屋食堂の大久タツが中国風の麺を出した。好了(ハオ・ラー)=料理ができた、とロースーメン(肉絲麺)の合成語、これをもって日本でのラーメンの発祥とする説もある。(NHK番組「チコちゃんに叱られる」)番組によると、タツさんが支那という差別的なニュアンスのある言葉を、中国人留学生に聞かせたくないという食堂のおかみさなの優しさから、ラーメンという呼称が考えられたという。
大正期には、夜鳴きそば、夜鳴きうどんを真似て、チャルメラを鳴らしながら町々を周る屋台が全国で現れるようになった。ラメーンの具材には、チャーシュー、メンマ、ネギ、のり、コーン、ナルト、焼豚などが一般的である。
しかしながら、戦前においては、「ラーメン」は店で食べるもので、一般的には「支那そば」「シナソバ」「中華ソバ」という呼び名が普通であった。『日本の味探求事典』(東京堂)によれば、「ラーメンという言葉が初めて使われたのは、昭和25~27年頃である」とある。かなり断定的に年代を決めているのは、おそらくその頃、ラーメン屋が急激に増加したのであろう。「ラーメン」という言葉そのものは、昭和5年の「モダン辞典」に「ラーメン(食)支那そば」と記載されている。
つまり、昭和25年以降は、「ラーメン」は「支那そば」「中華そば」と同じように用いられていた。しかし、昭和33年8月、安藤百福が日清食品を設立し、チキンラーメンの名で発売するや、爆発的な売れ行きとなった。これによって「ラーメン」という呼び方が一般的になったということはいうまでもないであろう。(7月11日)
元禄3年のこの日、5代将軍徳川綱吉によって湯島聖堂が建てられた。喜怒哀楽は人間の本来誰しもが持っている感情である。ただ、これに振り回されると、道義を見失うことがある。孔子も本当は激しく感情的な人であったかもしれない。弟子の顔回が死んだとき、「ああ、天はわれをほろぼした」と嘆き悲しんだ。喜怒哀楽に関しては『中庸』にふれている。「喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂う。発して皆な節に中る、之を和と謂う。中なる者は、天下の大本なり。和なる者は、天下の達道なり。中和を致して、天地位し、万物育す」とある。考えや行動などが1つの立場に偏らず中正であり、過不足なくさりとて単純に中間をとればよいというのではなく、極端にならないことがよい。(黄紹祖「孔子之喜怒哀楽」 1987年)7月9日
乳臭(にゅうしゅう)。未熟者。赤ん坊のように、その口が乳臭い若者、という意。「乳臭が取れない若者」。(出典:史記・高祖紀) 同じく史記が由来の言葉。「穎脱」えいだつ。才能が特にすぐれていること。
1868年から1年半にわたる戊辰戦争は武士の時代の終わりを告げ、これからの時代は国民皆兵制が必要であることを立証した。しかし西洋史ではおよそ500年ほど前にすでにゼンパハの戦い(1386年)でオーストリア騎士軍がスイスの歩兵軍に敗れており、戦史の上では中世から近代に移行しつつあった。
1386年7月9日、スイス中部、ルツェルン北西部ゼンパハ近郊でスイスの独立軍はハプスブルク家の城砦を前年12月に占拠し、近隣農民に市民権を付与して都市領域支配の拡大を図った。これに対して、ハプスブルク家はレオポルト3世指揮下の騎士軍を派遣したが、ルツェルンは原初三邦の援軍を受けた。戦いは当初、スイス側が不利であったが、オーストリアの重装備の騎士軍は狭い土地で長槍とヘレバルデ(槍と鉞を兼ねた武器)で武装した農民軍の密集部隊の突撃に遭って、大敗し、レオポルト3世は敗死した。オーストリア騎士軍が民兵に負けたこの戦いは西欧戦史上画期的なことであった。日本も戦国時代に足軽など民兵が登場したが、徳川幕府の平定により、兵制では西欧諸国に大きく遅れることになる。Sempach,Luzen
2022年のこの日、自民党の安倍晋三元首相が奈良市の近鉄大和西大寺駅前で参院選の応援演説中に、元海上自衛隊員の山上徹也容疑者に背後から銃撃された。心肺停止の状態で病院に搬送されたが、午後5時3分に死亡が確認された。同年9月、日本武道館で国葬儀が実施された。(7月8日)
BSプレミアムは何度も同じ作品を放送している。ストーリーや結末がわかっていても、何度観ても楽しめる映画がある。その反対に面白くても一度観たら十分という映画もある。その違いはどこにあるのか。第1のポイントはカタルシス効果のある、なしがその違いを生むと考える。たとえば映画「スピード」(1994)。主役はキアヌー・リーブスで見所はアクションであることは言うまでもないが、実は女性のサンドラ・ブロックがバスを運転することで全編に緊張感が生れている。このようなカタルシスを生む映画は何度観ても楽しめることができる。第2のポイントは主演者が豪華であること。パニック映画の代表作「ポセイドン・アドベンチャー」は顛覆した豪華客船が舞台の群像劇で、一種のグランドホテル形式である。「ナバロンの要塞」や「大脱走」(1963)のようなオールスターの戦争アクションも楽しい。マックイーンが草原をバイクで疾走することでカタルシスが生ずる。「ターミネーター」(1984)「インディー・ジョーンズ魔宮の伝説」(1985)「トップガン」(1986)などヒットシリーズの第1作は新鮮さがある。だがアクション映画だけにカタルシスがあるのではない。韓国映画のハン・ソッキュの「八月のクリスマス」(1998)やイ・ビョンホンの「我が心のオルガン」(1999)にも清涼感がある。カタルシスとは抑圧されて無意識の中にとどまっていた精神的外傷によるしこりを、言語・行為または情動として外部に表出することによって消散させようとする心理療法の技術をいう。アリストテレスは悲劇を見て涙をながしたり、恐怖を味わったりすることによって心の中のしこりが浄化できると考えた。アルフレッド・ヒッチコックは現代人の不安や恐れという心理をドラマ化して、スリラーやサスペンスという分野を開拓した。「ダイヤルMを廻せ」(1954)「めまい」(1958)「北北西に進路を取れ」(1959)「鳥」(1963)など何度観ても楽しめる。第2は多くのスターが出演する映画。「大脱走」(1963)はそれぞれの個性ある俳優の名前を覚えるだけでも楽しみがある。「大脱走」の出演者の多くは故人となった。存命している俳優は?土処理を考案したアシュレー役のデヴィッド・マッカラムは83歳になる。暗いトンネル工事のためトラウマになる青年ウィリーはジョン・レイトン。現在80歳。当時は歌手として有名で「霧の中のジョニー」が大ヒットしていた。1963年には映画主題歌「大脱走のマーチ」をリリースしている。第3のポイントは「永遠のマンネリズム」。渥美清主演の「男はつらいよ」シリーズや勝新太郎の座頭市などは、一度見た映画でもすぐに忘れて2度見しても楽しめる。恋愛ものは「ローマの休日」「ある愛の詩」「ノッティングヒルの恋人」など何度も観れる。定番で王道なのにスターの魅力があるからだろうか。昨日のNHKBSプレミアム。1000人の乗客を乗せた大陸横断列車内に広まる細菌感染の危機と事件の隠蔽を謀る軍の恐るべき陰謀を描く「カサンドラ・クロス」(1976)。カサンドラ・クロスとは大鉄橋の名前。これまで何度もプレミアムで再放送しているが、パニック&サスペンス&豪華キャストでついつい見てしまう。「恐怖の報酬」や「ダイヤルMを回せ」「手錠のままの脱獄」のような古いサスペンス。アニメ「この世界の片隅に」(2016)も2度観たがその都度発見がある。第4のポイントは映像がエネルギッシュであること。フランシス・コッポラの「ゴッドファーザー」3部作や「地獄の黙示録」(1979)などが典型である。ウッディー・アレンの「アニー・ホール」「ハンナとその姉妹」など放送されることはないようだ。性的虐待疑惑のあおりで放送できないのだろうか。

日本軍の南方の防衛線であったマリアナ諸島のサイパンは、昭和19年6月15日にはアメリカ軍が上陸し、日本軍との激しい戦闘となった。7日、日本軍守備隊は玉砕し(バンザイ突撃)、2日後の7月9日、サイパンの日本軍部隊は完全に全滅した。サイパンの戦は、アメリカ軍が太平洋戦争で初めての多数の民間人と遭遇した戦闘であった。日本人民間人の死者はおよそ8000人と推測されている。同島に航空基地を確保した米軍は、日本本土への本格的な空爆の準備が着々と進められた。
太平洋戦争中、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦など主要な海戦の指揮をとった南雲忠一の名前は広く知られている。真珠湾作戦での詰めの甘さを指摘されることが多いが、南雲の最期についてはあまり語られることは少ない。サイパン迎撃作戦の指揮をとり7月6日に自決した。(一説に翌7日)。国立国会図書館憲政資料室には南雲忠一文書として日記、ノート等6点が収蔵されている。(参考:児島襄「悲劇の提督」)
天正10年1月、九州のキリシタン大名大村・大友・有馬の三侯は、宣教師バリニャーニの勧めによりローマ法王グレゴリー13世とイスパニア国王のもとに4人の少年使節団を派遣した。しかし、この年6月、本能寺の変がおこる。天正12年7月5日、伊東マンショ(満所)、千々石ミゲル(清左衛門)、中浦ジュリアン、原マルチノらはポルトガルのリスボンに到着した。天正13年2月22日、ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見する。使節の少年たちは14,15歳であったが、いずれも礼儀正しく馬上豊かに胸を張って町を歩いたので、人々の驚嘆を浴び、法王や国王にも好印象を与えた。8年後帰国した時は、すでにキリスト教禁制で少年たちの活動の場はなかった。しかし、日本とヨーロッパを結ぶ役割を果たしたことは重要である。それからの4人の人生は過酷なものであった。伊東マンショは43歳で病死した。中浦ジュリアンは逆さ吊りの刑で殉教した。原マルチノは追放されマカオで死んだ。千々石ミゲルは唯一棄教したといわれる。だが近年お墓が発掘され棄教していないという説もある。
宝永6年のこの日、第6代将軍・徳川家宣の四男・鍋松が生まれた。生母は喜世、のちの月光院。鍋松は正徳3年に第7代将軍に就任したが、正徳6年にわずか8歳で死去した。史上最年少で任官し、また史上最年少で死去した征夷大将軍である。幼少であったので、幕政の実権は側用人の間部詮房が握っていた。室鳩巣の手紙によれば、聡明仁慈でふるまいも静かで上品だったという。家継の死によって秀忠の流れの男系男子は途絶えた。(7月3日)
本日は「ソフトクリームの日」。昭和26年のこの日、明治神宮外苑で行われたアメリカ独立記念日を祝う進駐軍主催のカーニバルの模擬店で、日本で初めてソフトクリームが販売された。正式には「ソフトアイスクリーム」という。ふつうのアイスクリームに比べ、食感がやわらかくて、子どもや若い女性に人気がある。コーンカップの上にのせた渦巻状のアイスクリームは戦後からのものだが、シャーベットのアイスクリームそのものは明治からすでにあった。「銀座の函館屋という、食料品店、その奥が今で言う喫茶部になっていて、そこで喰ったアイスクリームを覚えている。小さなガラスのコップに、山盛りになっている。そのアイスクリームの山のてっぺんから少しずつ舐めて行く時の悦び。明治40何年ぐらいの、銀座だった」と古川緑波は書いている(甘話休題)。7月3日
ローマ時代の史劇映画「ベン・ハー」(ジャック・ヒューストン主演)を観る。「ベン・ハー」はサイレントの時代から何度かつくられたが1925年と1959年の作品がよく知られている。史劇は数多くのエキストラが登場するので、その中から未来のスターが現われることもある。1907年のときはウィリアム・S・ハートが、1925年はゲーリー・クーパーが、1959年はジュリアーノ・ジェンマがローマの兵士としてエキストラで出演している。二枚目主演級男優たちのデビュー作品を調べる。
1914年 チャールズ・チャップリン「成功争ひ」
1915年 エリッヒ・フォン・ストロハイム「国民の創生」
1915年 ダグラス・フェアバンクス「快男子」
1916年 ジョン・ギルバート「慧眼」
1916年 ハロルド・ロイド「水車番人」
1916年 エリッヒ・フォン・シュトロハイム「イントレランス」
1917年 エミール・ヤニングス「男になったら」
1918年 ルドルフ・バレンチノ「社交界の花形」
1919年 ベラ・ルゴシ「女ハムレット」
1919年 ポリス・カーロフ「ダグラス大王」
1920年 ジョン・バリモア「狂へる悪魔」
1924年 クラーク・ゲーブル「禁断の楽園」
1924年 ビクター・マクラグレン「街の恋人形」
1925年 ジョン・ウェイン「大学のブラウン」
1928年 ランドルフ・スコット「三人水兵恋行脚」
1929年 ジョエル・マクリー「船出の朝」
1929年 フレドリック・マーチ「ワイルド・パーティー」
1930年 ジェームズ・ギャグニー「地獄の一丁目」
1930年 ハンフリー・ボガート「哄笑の世界」
1931年 シャルル・ボワイエ「素晴らしき嘘」
1931年 ジョージ・ラフト「速成成金」
1932年 ウォルター・ピジョン「女優と真実」
1932年 ケーリー・グラント「その夜」
1932年 ジャック・ホーキンス「謎の下宿人」
1932年 ジョニー・ワイズミュラー「類猿人ターザン」
1932年 タイロン・パワー「鉄血士官校」
1933年 ジャン・ギャバン「トンネル」
1934年 ジャン・マレー「かりそめの幸福」
1934年 デヴィッド・ニーヴン「クレオパトラ」
1934年 レイ・ミランド「恋と胃袋」
1934年 ロバート・テーラー「我が家の誇り」
1935年 エロール・フリン「踊り込み花嫁」
1935年 ジェームズ・スチュワート「舗道の殺人」
1935年 フレッド・マクマレイ「輝ける百合」
1935年 ヘンリー・フォンダ「運河のそよ風」
1936年 ローレンス・オリビエ「お気に召すまま」
1937年 ジェームズ・メイスン「無敵艦隊」
1937年 ボブ・ホープ「百万弗大放送」
1937年 レックス・ハリソン「男は神に非ず」
1939年 ウィリアム・ホールデン「ゴールデン・ボーイ」
1940年 ヴィクター・マチュア「紀元前百万年」
1940年 ダナ・アンドリュース「西部の男」
1940年 ロバート・ミッチャム「曠野の逆襲」
1940年 ロバート・ライアン「悪の血統」
1941年 グレン・フォード「掠奪の町」
1941年 オーソン・ウェルズ「市民ケーン」
1941年 スターリング・ヘイドン「ヴァージニア」
1944年 グレゴリー・ペック「炎のロシア戦線」
1944年 ピーター・フィンチ「攻撃命令」
1945年 ジェラール・フィリップ「星のない国」
1945年 ルイ・ジュールダン「呪われた抱擁」
1946年 カーク・ダグラス「呪いの血」
1947年 マルチェロ・マストロヤンニ「レ・ミゼラブル」
1948年 ダーク・ボガード「四重奏」
1948年 モンゴメリー・クリフト「赤い河」
1948年 ロック・ハドソン「特攻戦闘機中隊」
1949年 ラフ・ヴァローネ「にがい米」
1949年 ユル・プリンナー「ニューヨーク港」
1950年 チャールトン・ヘストン「虐殺の街」
1950年 マーロン・ブランド「男たち」
1951年 ジェームス・ディーン「折れた銃剣」
1951年 チャールズ・ブロンソン「赤い空」
1953年 アンソニー・パーキンス「女優」
1954年 クリント・イーストウッド「半漁人の逆襲」
1954年 ポール・ニューマン「銀の盃」
1955年 ジャン・ルイ・トランティニャン「空と海の間に」
1956年 ジェームズ・ガーナ―「ロケット・パイロット」
1957年 アラン・ドロン「女が事件にからむ時」(日本未公開)
1958年 スティーブ・マックイーン「人喰いアメーバの恐怖」
1960年 ピーター・オトゥール「海賊船」
1961年 ウォーレン・ベイテイ「草原の輝き」
以下、書きかけ
ジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)は1778年5月20日、身体の衰えを感じ、パリから30キロ離れたジラルダン侯爵(1735-1808)の領地エルムノンヴィルに移った。ここで6月初旬、ヴォルテールの訃報を聞いた。そのときルソーは「わたくしの存在はかれに結びつけられていた。かれが死んだ今、わたくしは、かれに続いて早くゆかねばならない」と語ったという。
ここでルソーは楽譜を写すことや植物採集をして過ごした。そして7月2日、午前11時、妻テレーズに見取られながら亡くなった。彼はテレーズに「気をおとさないようにしなさい。見てごらん、空はなんときれいに澄んでいることだろう。わたしはあそこへ行くんだよ」といった。享年67歳だった。
彼の遺体は、この地の湖にあるポプラ島に一端は埋葬されたが、1794年、パリのパンテオンの偉人墓地にヴォルテールと共に埋葬されている。
大河ドラマ「べらぼう」第25回。天明3年(1783年)は、飢饉や疫病に追い打ちをかけるように、浅間山の大噴火があり、大災害の年であった。遠く離れたヨーロッパでも次のような記録が残されている。ギルバート・ホワイト(1720-1793)の「セルボーンの博物誌」は古典的名著である。セルボーンという場所はイギリスのハンプシャー州の寒村。1789年、フランス革命と同じ年に刊行されている。「1783年の夏は、驚くべき異常な夏で、恐ろしい現象があいついで起こった」とある。この恐ろしい現象は実は日本とも深く関係している。浅間山は天明3年(1783年)5月9日から8月5日にかけて活動が活発化し、6月25日には大噴火が起こった。この時の噴煙は成層圏にまで達し、その後数年にわたって、そこに滞留したため、世界的な気候の寒冷化をもたらした。気温の低下は平均で、セ氏1.5度に達したと推定される。浅間山の噴火によって日本では天明の大飢饉が全国に及ぶ。津軽藩では、天明3年9月から翌年6月までの餓死者は、男女合計81702人といわれる。菅江真澄は旅日記「楚堵賀浜風(そとがはまかぜ)」の天明5年8月の項に、草むらに山と積まれた餓死者の白骨を目にし、飢饉の惨状を記録している。1783年6月8日、アイスランドのラキ火山が噴火した。火山灰などの影響により数年にわたりヨーロッパが異常気象に見舞われる。噴火の直後から小麦の不作がフランスを襲った。小麦価格の高騰がみられるような社会不安がフランス革命の原因となったと考えられる。気候変動が世界史を動かすことがある。近年、4世紀後半から始まった民族大移動によるローマ帝国の滅亡や中国南北朝時代は寒冷化による気候変動が一因と考えられている。
近い将来、学校の世界史の教科書が大きく書きかえられるかもしれない。これまで歴史と自然科学は別物として区別されてきた。しかし人類誕生から歴史をかんがえるのではなく、宇宙に目を向けてビッグバンから解き明かすべきであろう。デーヴィッド・クリスチャンが提唱するビッグヒストリーがDVDなどで浸透している。歴史は全宇宙の壮大な物語の中から、人類の過去と未来を研究する学問へと変わろうとしている。
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