五・一五事件
犬養毅(1855-1932)は膨大な漢籍の蔵書の整理に困っていた。「だれかよい人はおらんかのう」と息子の犬養健に話した。「菊池にでも聞いてみます。きっと見つかりますよ」菊池とは文芸春秋の菊池寛である。そしてある日、「お父さん、いい人が見つかりました」「おおそうか」と犬養も喜んだ。「その人はいつ来るね」「お父さんのいいときに、いつでも」「おお、そうか。それは有難い」
当日、犬養家に現れた人は意外に若い人だった。もっと意外だったのは海老茶の袴をはいていた女性だったことだ。桃子という名の若い女性は、笑みをたたえて自己紹介をした。77歳の背中をまるめた老人と24歳の桃子との取り合わせも漢籍を仲立ちにしたものであったが、異様なものであった。それは桜の花びらの舞う季節だった。
5月15日はよく晴れた日曜日だった。犬養毅は総理官邸でくつろいだ休日を過ごした。夕方5時半ごろ、三上卓海軍中尉と黒岩予備少尉ほか陸軍士官候補生ら5名が首相への面会を申し入れた。同時に裏門にも陸海軍の将校が現れ、やはり首相に面会を申し出た。受付係や巡査が、対応に手間取っていると、正門組は警備の巡査一人を射殺し、一人に重傷を負わせて官邸内に乱入した。犬養は健やその夫人、孫の道子たちとくつろいで夕食をとろうとしていたときであった。犬養は「話せばわかる、あっちへ行って話を聞こう」と将校たちを日本間のほうへ案内した。「何しに来たか、わかるだろう。何か、いうことがあればいえ」三上がそう言って、犬養が身を乗り出すようにして話し出そうとしたとき、正面にいた海軍中尉山岸宏が叫んだ。「問答無用!撃て!」すかさず三上や黒岩が犬養めがけて引き金を引いた。そうして首相が倒れるのを見て、一行は引き揚げた。犬養は、翌朝早く息をひきとった。事件を聞いた桃子は直ちに官邸に駆けつけた。桃子とは、戦後、英米児童文学の紹介や「ノンちゃん雲にのる」などの創作でも知られる石井桃子である。
« 蛮社の獄はじまる(1839年) | トップページ | 沖縄本土復帰記念日 »
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2014年5月14日 (水) 23時19分