呪われた子
1536年5月19日、イングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリンはロンドン塔で斬首刑に処せられた。ヘンリー8世は熱心なカトリック信者で、教皇から「信仰の擁護者」の称号を受けたが、王妃キャサリン・オヴ・アラゴンと離別し、宮女アン・ブーリンとの結婚問題で、その許可を教皇に求めていたが、ローマ法王クレメンス7世はこれを拒絶した。このため、ヘンリー8世はカトリックから独立して首長令を発して、イギリス国教会が成立した(1534年)。ローマ教会は「邪悪な子をもつことになるだろう」といったが、アン・ブーリンの産んだ子がイギリス国家最大の繁栄をもたらしたエリザベス女王である。
ヘンリー8世は生涯6回結婚しているが、ロシアのイワン雷帝は7回結婚している。イワン雷帝の父・モスクワ大公ヴァシーリー3世も子どもができない妃ソロモニア・サブーロヴァと離婚して、タタール出自のリトワ貴族の女エレーナ・グリンスカヤ(1510-1538)と結婚しようとしたが、ロシア正教会は反対した。1522年、大公はロシア正教会のヴァルラームを追い出し、代わりにダニエールをすえた。ダニエールは結婚を承認した。母グリンスカヤは皇太子イワンを産んだ。のちのイワン雷帝である。イワン雷帝(1530-1584)とエリザベス女王(1533-1603)はこのように教会から認められずに産まれた子である。抵抗する者には徹底的に弾圧する残忍性など共通している。エリザベスは反対派のメアリ・スチュアートを斬首し、イワン雷帝はわが息子を自らの手で殺した。世界に恐れられた専制君主は生まれながら似ている運命にあったが、激しい気性で国家繁栄の基礎を築いた。
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