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2025年5月17日 (土)

縄文期から弥生期へ

Photo 勝坂式縄文土器

 

    朝日新聞しつもん!ドラえもん「田んぼで米づくりがはじまった弥生時代。どうして弥生とよばれるようになったのかな」答えは、「この時代の土器がでた地名から」もちろん知っていた。ではなぜ「縄文は大森ではないのか?」と考える。ふつう考古学では初めて遺物が出土した地名を命名されることが多い。オーリニャック、グラヴェット、マドレーヌ、ソリュートレ、タルドノワ、ムスティエなどみなフランスの地名である。「弥生」は東京都文京区にある弥生町。縄文土器の発見者はエドワード・モース(1838-1925)である。彼は発見から2年後の1879年に刊行した本の中で「cord marked pottery」としている。1886年に白井光太郎(1863-1932)が「縄紋土器」とし、1888年に神田孝平が「縄文土器」とした。しかし坪井正五郎(1863-1913)は「貝塚土器」と名称を使い、「貝塚土器」のほうが一般的であった。浜田耕作(1881-1938)が「縄紋土器」を使った。今日では、「弥生土器」と対比するため「縄文土器」「縄文文化」という語が用いられる。

 地質学では更新世にあたる旧石器時代は、日本列島が大陸と陸続きになることがあった。約3万数千年前、ナウマンゾウやオオツノジカなどの大型動物とともに、人類も日本列島に住むようになった。更新世末に気候が温暖化した結果、海面が上昇し、約1万年前の完新世に入るころまでには日本は大陸と切り離されて日本列島となった。無土器文化はいつ頃だろうか?旧石器時代の捏造事件で旧石器時代に否定的な学者が多くいる。しかし近年、広島県廿日市市の山間部にある冠遺跡で4万2300年前の石器が発見された。日本列島でも旧石器時代中期から後期まで連続して旧石器時代が存在していたことになる。

   縄文文化はいつ成立したのだろうか。その時期についてはまだ結論がでていない。縄文土器はおよそ1万1000年前から造られはじめ、2000年前まで続いた。研究者は便宜上、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期と、6つの大きな時代に区分している。縄文土器の基本的な形は深鉢である。夏島貝塚の放射性炭素法による年代測定では9500年前だったといわれる。前3000年ごろの最も隆盛をきわめた中期には、火炎土器とよばれる特徴的なデザインの土器がみられる。狩猟漁撈採集を生業とする縄文時代は竪穴式住居で暮らし、多くの土地では、ある程度生活すると資源が枯渇します。食べるものがなくなると、別の土地に移動して、しばらくしてまた枯渇したら元の土地に戻ってくる・・・というサイクルを繰り返していました。しかし石川県の真脇遺跡では、縄文時代前期の約6000年前から2500年前より、約4000年にわたって人々が同じ土地で生活していたことがわかっています。そして集団漁業によりイルカを食べていたそうです。また国内最大級の環状木柱列が発掘され祭祀をもった文明と考えられる。5000カ所以上の旧石器時代の遺跡が確認されている。

縄文晩期、北九州にやって来た渡来人によって水田稲作技術が伝来した。水稲耕作は板付・菜畑遺跡の発掘により、九州北部では紀元前10世紀にさかのぼるとされるが、本州における本格的な稲作の開始は紀元前4世紀とされる。弥生式土器の形態・形式は前期・中期・後期に分けられるが、壺・甕・高坏・鉢といった器形に分かれていった。

 

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