ヒマラヤ登山の歴史(20世紀後半)
1945年、第二次大戦が終わると、これまで厳重な鎖国政策をとり続けていたネパールが開国し、1950年、ネパール入りしたフランス隊は、たった一度の攻撃で、人類初の8000m峰アンナブルナに初登頂してしまった。これを皮切りに53年、世界最高峰エベレストが悲願のニュージーランドの登山家エドモンド・ヒラリーとテンジンによってようやく落ち、同年、ナンガパルバットもドイツ・オーストリア隊によって登られた。こうして第二次大戦前には1つとして登られなかった8000m峰が、次々と登られ、56年5月9日、日本隊も宿願のマナスルの初登頂に成功した。そしてチベット領内にそびえる8000m峰の最後を飾るゴサインタンが、64年、中国隊によって登られた。これをもってヒマラヤの黄金時代はあっけなく去った。1970年5月11日、松浦輝夫、植村直己が日本人とし初登頂に成功する。1978年アンナプルナⅠ峰登頂に成功するも、下山で2名が転落死した。今日、100座を超す7000m峰も、目ぼしいものはほとんど登りつくされ、新しい処女峰を地図の上で見つけることもむずかしくなった。これからはすでに登られた山の別ルートによる開拓、とくにカラビナ・ハーケン・アイゼンなどを用いる人工登山、すなわち鉄の時代にはいりつつある。またスキーを使った娯楽・スポーツといった観光化と、ヒマラヤはしだいに大衆化しようとしている。
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