下関条約調印(1895年)
1895年3月20日、下関の春帆楼で第1回の講和会議が開かれた。ところが思いがけない事件が起こった。24日、李鴻章は小山六之助という青年に狙撃され、顔に重傷を負ったのである。28日、伊藤博文首相全権大使として派遣された外務大臣陸奥宗光は病床の李鴻章を訪問して日清戦争休戦の件を相談した。そして3月30日、両国の全権大使は休戦条約に署名調印したのである。講和条約は越えて4月17日、春帆楼において締結された。一般に馬関条約と呼ばれる。
これによって清国は、朝鮮の独立、遼東半島・台湾・澎湖島を日本へ割譲、日本を最恵国待遇にすることを承認、および新たに沙市・重慶・蘇州・杭州を日本に解放することが定められた。ところが三国干渉が加わり、日本はこれに妥協した。
1894年7月25日開戦した戦いは、平壌・黄海・大連・旅順などで日本の勝利に終わり、1895年2月、北洋艦隊は降伏した。(3月30日)
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尖閣問題で中国のごり押しを批判している日本人だが、歴史を見れば過去日本は大陸で好きなことやってきたのであって、あまり中国を悪し様に言えない気もします・・・(*≧m≦*)
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年4月17日 (水) 10時03分