相原尚褧(あいはらなおぶみ)
1882年4月6日岐阜遊説中の板垣退助を刺した暴漢。相原尚褧は愛知県東海市横須賀の小学校教員であり、東京日日新聞の保守主義に傾倒していた。そのため自由党を敵視しており、板垣の遊説を知ると、板垣の殺害を決意する。前日、自由党員に扮し、岐阜の玉井屋に泊まる。この時、殺害のために板垣との面会を試みたが断られる。そして翌日、犯行に及ぶ。傷は全身7ヵ所にも及んだが、いずれも致命傷にはいたらなかった。事件後、岐阜重罪裁判所で裁判を受ける。相原は無期懲役の判決を受けるが、1889年、大日本国憲法発布の恩赦で釈放される。釈放後、板垣の元に謝罪に訪れる。板垣は罪を許した。相原は北海道の殖民事業に携わるため北海道へ向かうが、その途上の船上で行方不明となる。自殺したとも、誤って海に転落したとも相原の背後にいた板垣襲撃を計画したものに殺害されたともいわれており、真相は不明である。
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