春秋の五覇
五覇 周初1000余国あったと伝えられた諸国も春秋初めは140余国となり、魯、衛、晋、鄭、曹、蔡、燕、斉、宋、陳、楚、秦の12国と周と呉をくわえた14国が「史記」十二諸侯年表には記されている。その他に杞憂(キ)、薜(セツ)、虢(カク)、刑(ケイ)、邾(シュ)などがあった。この中から「春秋の五覇」といわれる覇者が出現した。5という数は後世五行思想に基づくもので実数ではない。斉桓公、晋文公、楚荘王、呉闔閭、越勾践(荀子の王覇篇の説)や斉桓公、晋文公、宋襄公、秦穆公、楚荘王(西漢の趙岐の孟子の注の説)がある。五覇のなかでも呉越の争いは有名である。呉王闔閭は、越王勾践に撃破され、その折の矢傷がもとで死ぬ。臨終に際し息子の夫差に、「必ず越に復讐して余の無念を晴らせ」と遺命した。父の後を継いで呉王となった夫差は、夜ごと薪の上に臥して、復讐の心を研ぎすました。こうして会稽山の戦いに越を破った。敗れた勾践は、常にかたわらに肝をおき、飲食にこれを嘗め、その苦い味をかみしめては、復讐の念をつのらせた。数年後、勾践は呉を攻めて夫差ほ破った。勾践は、准河を渡り、斉・晋の諸侯と徐州に会し、呉に代わって天下の覇者となつた。
晋の滅亡 晋では晋侯の実権が衰え、実力者であった知伯が趙を攻め、晋陽の戦いがおこった(前455)。3年続いた戦いにより、知伯は敗れ、晋の領土は趙、韓、魏によって三分された。(前453)
それから50年ほどしての前403年に周王朝から趙・韓・魏が正式に諸侯としての称号を賜ったので、一般にはこの年をもって戦国時代の始まりとする。
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