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2025年4月13日 (日)

巌流島の決闘

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 江戸時代の絵では武蔵のほうが若く描かれている

   宮本武蔵と佐々木小次郎が長門の船島で試合した巌流島の決闘は時代劇などで広く知られ、名高い武術の試合である。ところが手元の日本史年表などで調べると、巌流島の決闘は載っていないことが多い。(「日本史年表・地図」(吉川弘文館)「コンサイス世界年表」(三省堂) )これは 信頼できる史料が乏しいことによるものである。決闘の期日も慶長17年説、慶長19年説など諸説ある。「二天記」には「慶長十七年四月」と記されているので、慶長17年(1612年)4月13日とするのが一般的である。巌流を俗に佐々木小次郎と当てているが、これも後年の芝居で名づけられたもので根拠はない。中条流富田勢源の弟子であったことから武蔵よりだいぶんと高齢であったと考えられる。「沼田家記」によれば、武蔵の一撃で気を失った小次郎は、その後いったん目を覚ましたものの、巌流島に来ていた武蔵の弟子たちに寄ってたかって殺されたと記されている。このほかに、武蔵は決闘の時間に遅れず、小次郎の長い刀より長い刀を用いて勝利した説、弟子が倒した説、などなど諸説紛々たり。そもそも決闘が実際に行われていたかどうかすら疑わしい。漁業権をめぐる漁師たちの争いが武蔵・小次郎の決闘となったのではないかと専門家は語る。とかく伝説というものは、年代を経るにしたがって変貌していく。宮本武蔵は「五輪書」に人生に六十余度の勝負をして一度も負けなかったと記しているが、相手の中で大家といわれるものは吉岡一門だけで剣聖どころか田舎剣客にすぎない。講談や小説で武蔵はいちばんの剣豪にまつりあげられたといえる。

   このほか武蔵の伝記で関ヶ原合戦に初陣として参戦し負け組と伝わるが、福田正秀は武蔵西軍説を否定し、東軍黒田如水軍に父無二と共に「九州の関ヶ原」豊後合戦に出陣したことを論証している。

 

 

 

 

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コメント

武蔵と小次郎の決闘も曖昧という歴史家・・ですか。歴史はロマンも消してしまうか・・。

私が随分前に読んだ、歴史に残る出来事、時代考証の本では、弟子が多数で倒した説でした。その本では、「刃傷松の廊下」事件も、吉良上野介は、今で言えば多忙な官僚であり、浅野内匠頭の母方の実家の家系に「癇気」という、ヒステリーのような神経症の気質の遺伝があり、浅野内匠頭も、その傾向があったとの記述がありました。歴史の真実は、わかりませんね。

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