少年よ、大志を抱け
1877年のこの日、札幌農学校のクラーク博士(1826-1877)が帰国の途につく。 開拓使は北海道開拓のための教育機関の設置を図り、アメリカの農務局長H・ケプロンの建言によって明治5年東京芝増上寺内に開拓使仮学校を開き、ついで女学校を設置した。明治8年、これを札幌に移して札幌学校と改称(女学校も移したが、翌年廃止)、さらに規模を拡大して高等農学校とするにあたり、アメリカ駐在の吉田清成公使に委嘱してアメリカのマサチューセッツ農科大学校長クラークを招き、彼は明治9年来日した。ただちにクラークが教頭に就任、校制を編成し、同年8月開校、翌月札幌農学校と改称した。生徒は卒業後5ヵ年間開拓使に奉職する規定とし、学科も広範であった。教師はアメリカ人が多くアメリカ式教育が施された。クラークのキリスト教に基づく人格教育は独特な学風を作り出し、アメリカ式の牧畜経営の理論と実際を教授し、植物採集実験に生徒と行動をともにし、実業教育に成果があった。クラークは、わずか1年たらずの在任期間に、生徒の信頼を集め、多方面にわたって有為な人材を送り出した。佐藤昌介などは直接の、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾、佐久間信恭などは間接の弟子である。なお、名言「少年よ、大志を抱け」 Boys,be ambitious は、クラークがかの島松の駅頭、学生たちに馬上より送った言葉である。クラークは帰国後、大学辞任後鉱山業に関係したが、失敗したという。クラークが日本に残したものの一つに学校運動会がある。ルーツは明治11年5月25日、クラークが提唱した札幌農学校で開催された遊戯会であるといわれている。ちなみに日本最初の運動会は明治7年3月21日、築地の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で運動会「競闘遊技会」が開催された。( keyword;William Smith Clark 、4月16日)
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クラーク博士は北海道のシンボルです。(◎´∀`)ノ
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年4月16日 (火) 06時27分