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2025年4月30日 (水)

火の用心

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    火災はいつ発生するかわからない。出火の原因は煙草などの不始末、漏電、飛び火、放火、落雷などの理由が考えられる。過去の有名な火事の原因を調べてもさまざまである。天智9年(670年)のこの日、法隆寺が落雷により全焼している。昭和25年11月18日、国鉄京都駅全焼。原因は駅構内の配電室から出火。昭和24年1月26日午前7時20分、法隆寺金堂の壁画が焼失した。電気座布団のスイッチの切り忘れが原因だった。2ヵ月前には石川県立図書館が類焼している。昭和23年11月15日午後11時50分に発生している。同年2月26日には強風によって東京永田町が火の海となる。新築したばかりの総理庁庁舎に延焼し多くの重要書類が失われた。昭和25年7月2日には金閣寺が炎上した。若い僧侶の動機には不明な部分もある。金閣寺に対するねたみ、とか、英雄死をとげるつもりが死にきれなかったとか謎である。この事件をすばやく三島由紀夫は小説「金閣寺」として発表し、「炎上」と題して映画化している。映画の中では、住職が戒律を犯して女色におぼれることを知り、堕落を意識するようになり、金閣寺に放火したことになっている。(4月30日) 参考:「京都の歴史10」京都市史編さん所

 

 

 

 

2025年4月29日 (火)

昭和の日

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 明治・大正・昭和・平成・令和・・・と元号は変わっていきましたが、昭和の建物や制度、映画や歌謡曲など、まだまだコンテンツとしてよく耳にし、目にします。今年は昭和100年、「あんぱん」「波うららかに、めおと日和」など放送中のドラマも昭和だとなぜかほっこりと感じる。令和の時代に昭和レトロブームが到来した。しかし現実はさぞかしきびしかったであろう。天皇陛下の玉音放送で、突然の敗戦を知らされた私たち親世代の気持ちはさぞかし複雑であったであろう。ある者は、「日本が負けるはずはない」「絶対にデマだ」と思い、ある者は「よかった。新しい出発点だ!」「ほっとした」と感じていた。

   しかし、敗戦は事実であり、戦争は終わった。廃墟と化した町からも、やがて、平和への願いをこめた再建のつち音が聞えてきた。

   だが、祖国のためにと信じて戦場に散った若者たち、戦争で肉親を失い、家を焼かれた人々、身一つで帰国した引揚者たち…戦争の傷あとは深かった。原爆症で今なお苦しむ人さえある。われわれは、二度と戦争を起こさず、未来の明るい幸福な社会を築くために、最大限の努力を傾けねばならない。

      *

未来の人間よ

君達こそ人間らしく生活してくれるだろう

愚かなことをくり返さずに

幸福に生活してくれるだろう

すべての人がよろこべるよう

働いてくれるだろう

         武者小路実篤

お茶の文化史

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カワラケツメイの花

 

   日本には製法の違いによって、玉露、抹茶、煎茶、番茶、ほうじ茶、粉茶、茎茶、玄米茶などいろいな種類のお茶がある。地方にも独自のお茶がある。冨山のバタバタ茶、出雲(島根県)のボテボテ茶、愛媛のボテ茶、沖縄のブクブク茶。このほかにも、いわゆるお茶ではないが、茶の代用として波布茶、クニ茶、マテ茶、甘茶、麦茶などがある。カワラケツメイ(河原決明、エビスグサの類)を原料として、茎葉を干してきざんで、合歓茶、豆茶、浜茶、弘法茶などのお茶があり、利尿剤としても用いられている。このほかアマチャヅル茶、カリン茶、ビワ茶、柿の葉茶など特種なお茶もある。

 

   茶は雲南省に近いインドのアッサム地方が原産地といわれ、古代に四川に伝わり、揚子江流域にひろがり、2・3世紀ごろからすでに飲まれていたというが、主として医薬として用いられ、3世紀には「茶」という字はなかった。三国時代以降、仏教ことに禅宗と結びついて、座禅の眠気ざましから喫茶が流行した。

 

  中国から日本にもたらされた茶は、栄西が「喫茶養生記」で茶の効能を説いたように、当初は寺院での修行や薬用として飲用されていた。やがて各地で栽培が広がるが、宇治の茶師は、幕府の許可を得て高品質の碾茶の製造を独占していた。富裕層が好んだ抹茶とは違い、庶民は色が赤黒く味も粗末な「煎じ茶」を飲んでいた。そのな中、永谷宗円(1681-1718)は15年の歳月をかけて製造法を研究し、青製煎茶製法を考案した。宗円は完成した茶を携えて江戸に赴き、茶商の山本嘉兵衛に販売を託したところ、たちまち評判となり、以後「宇治の煎茶」は日本を代表する茶となった。煎茶中興の祖といわれるのが、新たな茶禅一味の境地を開いた売茶翁こと高遊外(1675-1763)。「清風瑣言」という煎茶書を他に送り、文人と煎茶の関係を深めるうえで大きな貢献を果たした上田秋成。化成期以後は、とりわけ京洛の文人墨客を中心に、広範な流行をみ、煎茶は多才な芸術家たちの交遊には欠かせないものになっていた。頼山陽、田能村竹田、青木木米、僧雲華、浦上春琴といった多士済済の顔ぶれが、江戸時代後期の文化史に独特の色彩を添えている。

 

 

柿の葉寿司

 志賀直哉は「奈良には旨いもんがない」と言ったそうだが、柿の葉寿司を食べたことがなかったのだろうか。酢飯に、鯖や鮭の切り身と合わせ、柿の葉で包んで押し寿司にしている。奈良の名物と知られているが、もともとは紀州とも加賀ともいわれる。最近はスーパーの店頭でも売られて、よく食べることがある。

2025年4月28日 (月)

大型連休

 ゴールデンウィークも中盤。海や山、川へのレジャーを計画している人も多い。高速道路の渋滞にご用心。大型連休中は、ほとんどの医療機関が休診となるので高齢者にとっては不安な日々が続く。銀行、郵便局も休業。すべての国民が喜んでいるわけではなく、迷惑な季節と考えている高齢者層もいるだろう。そもそもゴールデンウィークとは何か。むかし「飛び石連休」などといっていたが、いろいろな法改正で振替休日などで9日から10日くらい連休がつながるようになった。ゴールデンウィークの呼称の起源は大映常務取締役であった松山英夫によって作成された宣伝用語といわれる。NHKでは商業的な色彩が強いことばとして原則「大型連休」を使うことにしている。ただし略語としてGWは使われている。ほんとうに、大型連休は必要なのであろうか。29日は「昭和の日」、3日が「憲法記念日」4日が「みどりの日」、5日が「こどもの日」。祝祭日の起源や由来はそれぞれ異なるが、大型連休導入の真のねらいは経済効果である。昭和は百貨店での買い物、近郊の遊園地への行楽、近くの公園や山へのハイキングなどの日帰り旅行が一般的であった。近年になって大型イベントや海外旅行も盛んとなり、大きな経済効果を生み出すビジネス・チャンスとなっている。しかし、本来の意味をしっかりと周知することが大切ではないだろうか。

 

アルハンブラ宮殿

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Dscn0046   スペインのグラナダにあるアルハンブラ宮殿。711年のこの日、イスラム教徒のムーア人が、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に侵入し、アルハンブラの丘を占領し定住した。創建当時、軍事要塞アルカサーバだけが建てられていた(現在、宮殿の最も西の部分)。アルハンブラ宮殿が完成したのは、13世紀ナスル朝グラナダ王国ムハンマド1世(在位1232-1273)の時代で、ムハンマド7世(在位1392-1408)のとき漸く全体が完成した。したがってアルハンブラ宮殿は13~14世紀にかけて造営された城郭宮殿であると共に、グラナダ王国全盛時代の遺構でもある。アルハンブラとはアラビア語で「赤い城」を意味する。1377年頃の着工の獅子の中庭(パティオ)が有名である。12頭の獅子の口頭から泉水が流出する仕掛けになっている。天井やアーチは繊細な装飾模様(アラベスク)で覆われている。1492年1月2日、グラナダはついにキリスト教徒に攻略され、ナスル朝最後の王ボアブディル(1460-1527)は落城の途中、宮殿を振り返って惜別の涙を流したという。(Alhambra,Granada,Boabdil、4月28日)

日本人物伝・左甚五郎

   慶安4年(1651年)のこの日、日光東照宮の眠り猫などで知られる江戸寛永の名工・左甚五郎が56歳で逝去した。播磨国明石の生まれで、京都に出て禁裏大工の棟梁遊佐与平次に師事し、豊臣秀吉・徳川家康とも面識があった。寛永12年、師のあとを継いで禁裏大工の棟梁となった。日光東照宮・上野寛永寺の造営に従事したが、晩年は讃岐国高松の松平家に召しかかえられ、そこで没した。東照宮の眠り猫寛永寺の水呑み竜などは彼の作とされるが、いずれも疑わしい。その作品があまりにも精巧をきわめたために、それらが抜け出て行動するという伝説がある。甚五郎は、きわめてさっぱりとした性格で、すこしもモノに対する執着というものが無かった。だから貯えているものがなくれば、その業につとめるという有様だった。ある人がこれを諌めると、甚五郎はニッコリとして、

 たのしみは貧しさにあり梅の花

と詠じたという。ただし類似の歌は「講談・紀伊国屋文左衛門」にもある。(4月28日)

 

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 左甚五郎作「大黒天」 

 

   左甚五郎のまとまった伝記資料は講談などでお馴染みの人物のわりに少ない。出身地も播磨明石、紀伊根来、讃岐高松など諸説ある。

 

匠左甚五郎伝 柳沢武運三 福老館 1888

 

左甚五郎 名人奇談 中村兵衛 大学館 1908

 

左甚五郎 山本瑞雲 書画骨董雑誌100  1916

 

左甚五郎利勝の略史 香川県先哲宣揚会編刊 1934

 

名匠左小刀実記左甚五郎伝  左光挙 世界社 1953

 

讃岐と左甚五郎:考証左甚考  左光挙 先哲宣揚会 1958

 

左甚五郎考 森本一雄 飛騨春秋35  1959

 

 

 

 

 

 

 

 

桑港と洛杉磯

  1952年のこの日、サンフランシスコ平和条約発効記念日。なぜサンフランシスコは桑港と表記するのだろうか。もともとは桑方西斯果哥と宛てられたのが、略されたらしい。中国では「圣弗朗西斯科」と書く。ロサンゼルスはむかしの表記は「洛杉機」だったが、いまは「洛杉磯」(ルゥオーサンチー)が一般的。外国地名の漢字、読めますか。(当て字) 4月28日

 

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華盛頓   ワシントン

 

巴爾的摩 ボルチモア

 

特倫頓   トレイトン

 

費城(費府) フィラデルフィア

 

波土頓   ボストン

 

多倫多   トロント

 

芝加寿   シカゴ

 

密爾沃基  ミルウォーキー

 

印第安納波利斯 インディアナポリス

 

辛辛那堤   シンシナティ

 

哥倫布     コロンバス

 

亜特蘭大    アトランタ

 

梅肯       メーコン

 

杰克遜維爾  ジャクソンヴィル

 

新奥爾良    ニューオーリンズ

 

休斯敦     ヒューストン

 

奥斯汀     オースティン

 

阿爾伯克基  アルバカーキー

 

菲尼克斯    フェニックス

 

西雅日      シアトル

 

丹佛        デンバー

 

明尼阿波利朗  ミネアポリス

 

聖路易      セントルイス

 

哈里斯堡     ハリスバーグ

 

奥爾巴尼     オークバニ

 

金斯頓      キングストン

 

布法囉      バファロー

 

伊利        エリー

 

克利夫蘭     クリーブランド

 

哈密爾頓     ハミルトン

 

底特律      デトロイト

 

麦迪遜      マジソン

 

加里        ゲーリ

 

南本徳      サウスベント

 

皮奥里亜     ペオリア

 

里土満      リッチモンド

 

査爾維登斯   チャールストン

 

普囉維登斯    プロヴィデンス

 

波特蘭      ポーツマス

 

林奇堡      リンチバーグ

2025年4月27日 (日)

悪妻の日

Img_0005   「良妻に恵まれれば、幸福になれるだろう。悪妻を持てば哲学者になれる」本日はソクラテスの命日だが、悪妻の日でもある。文豪シェイクスピアの8歳年上のアン・ハサウェイも一般には悪妻として知られている。夏目漱石の妻はどうだろうか。 夏目漱石は第五高等学校(現熊本大学)の英語教師時代に、中根鏡子と見合い結婚している。「俺は学者で勉強しなければならないのだから、おまえなんかにかまってはいられない。それは承知していてもらいたい」といっている。夏目鏡子は通説では「悪妻」という評判であった。しかし2011年夏、古書市で鏡子の3通の手紙が発見された。明治43年の日付があり、漱石の修善寺大患の容態を心配したり、家庭のことや門下生のことを思いやる妻らしい面がみえる。鏡子は悪妻ではない。(4月27日)

サルタナ沈没事故

 1865年のこの日、アメリカのミシシッピ川を就航していた蒸気船サルタナ号で爆発・火災事故が発生し、翌日には沈没した。およそ2500人が乗船していたが、1450人以上(1700人とする説もある)が死亡した。当時、南北戦争の後であり、リンカン大統領暗殺事件もあって、世相が混乱しており、北部の新聞は余り大きく取り上げることもなく、責任の追及もあいまいなまま、事故は一般社会から忘れ去られた。(4月27日)

 

 

 

2025年4月26日 (土)

戦後日本の経済発展

 

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   日本の国内生産(GDP)は、米国、中国に次ぐ世界第3位である。戦争によって廃墟と化した日本は「戦後80年」の間に、2度も五輪開催国となって平和主義を希求する世界有数の先進国となった。だが現在の繁栄は廃墟と壕舎の窮乏生活の戦後から始まる。戦争のもたらす恐るべき破壊と損耗について改めて知っておく必要がある。戦争でこうむった国民の被害は、310万人をのぼる多数の戦死傷病者を出したことにある。また空襲によって住居や職場を失い、家族が路頭に迷ったこともある。また戦後の食糧不足から栄養不良となり、餓死したものも多数いたであろう。こうした国民生活の窮乏はなかなか数値に表しにくいものである。岩波講座日本歴史 現代4には「戦時戦後の国富統計」が掲載されている(45頁、島恭彦「戦争と国家独占資本主義」)。これをみても1945年の国富総額は1935年の基準から著しく低下している。

 

1935年 76,309

1945年 53,958

   (単位,百万円)

 戦後、昭和24年までは経済混乱によりインフレが進行していた。自動車産業はドッジラインによる不況もあっで低迷が続いていた。しかし、朝鮮戦争の勃発でアメリカから大量の自動車の注文がおこり、日本経済の復興のきざしがみえた。つまり戦後日本の経済成長の過程には3つのターニング・ポイントがある。1つ目は昭和25年に勃発した朝鮮戦争である。この戦争の兵站基地となった日本では、起死回生の特需ブームに湧いた。2つ目は「もはや戦後ではない」と言い切った昭和31年の経済白書。この言葉通りにゆとりある大衆社会状況が生まれた。3つ目は高度成長のひとつのシンボルとなっている国民所得倍増計画がスタートした昭和37年である。池田勇人は安保闘争による左右の対立を緩和させた。日本はGNP大国に上昇し、伝統的な貧困から脱出した。しかし、物価、環境などの面で新しい難問も発生した。昭和39年のオリンピック東京大会、昭和45年の大阪での日本万国博覧会は、世界に開かれた平和な経済国家としてよみがえつた戦後日本を象徴するイベントとなった。豊かさの象徴と呼ばれていたのが、次々と登場する新しい家庭電化製品である。「三種の神器」といわれた白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫に始まり、昭和35年ごろには、カラーテレビ、クーラー、ステレオが登場。さらに、ラジオにはFMが加わり、洗濯機は脱水装置付き、冷蔵庫は冷凍庫付きと、新たな技術開発が日進月歩で進んだ。家庭製品を一つ買いそろえるごとに生活レベルが一ランク上がると誰もが信じ、事実、新製品は爆発的に売れた。なぜ日本が世界有数の経済大国にまで発展できたのだろう。戦後の経済成長は予想をはるかに超えたものであった。戦後の日本経済の発展の原因をめぐっては今日、さまざまな角度からの研究が行われている。たとえば、戦後欧米から積極的に新技術を導入し、それを体現化した民間設備投資が精力的に展開されたこと、さらに欧米経済の長期的繁栄に支えられて輸出が世界貿易の増加テンポをはるかに上回つて伸び続けたこと、などが発展の原動力になったとする説明などはその代表的な例である。また、戦後の西ドイツが住宅重視の経済復興に力を入れたのに対し、日本は民間設備投資主導型の高度成長を可能にした、という研究がある。このほか、「日本株式会社」といった表現にみられるように、政治と民間との協力がうまくいったことを強調する説、さらに経営学的アプローチとして、労使協調路線による「日本的経済」に発展の原因を求めようとする分析も盛んである。最近では日本人の勤勉精神にスポットライトを当てて、日本経済発展の原因を探ろうとする試みも始まっている。このように、戦後の経済発展の原因をめぐっては、経済学的アプローチだけではなく、日本人の精神風土の分析など経済学以外の学問分野からの研究も盛んになっている。

 最新の統計によると、2021年の日本の実質GDP実額は536.8兆円で。内閣府による成長率は前年より2.5%増になる見通しである。しかし国交省のよる統計不正が明らかとなり、その影響はどのくらいなのか「現時点では不明」としている。

 しかし、戦後経済成長の負の面も注目する必要がある。工業化により多くの労働者が大都市圏に移動し、都市化が進んだが、地方都市では過疎化が進展し、地域格差が問題となった。また、急激な経済成長は深刻な公害や環境破壊をもたらし、日本でも四大公害訴訟が大きな問題となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

江戸の渡来象ブーム

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   本日は「象の日」である。1729年、海をわたって2頭の像が交趾(ベトナム)からやってきた。貿易商人の鄭大成が徳川吉宗の命で中国船で輸入したのだ。うち1頭は病死したが、残るオス1頭は享保13年(1728)3月、長崎を出発、4月26日には伏見から京都に入った。「爵位のない者が宮中に入つた例はない」「では象に従四位の位を授けよう」となり、28日に叙されたうえで、中御門天皇、霊元上皇に拝謁した。その後29日に京都をたち、東海道を下って、5月25日江戸に到着した。初めてパンダが来日したときのような江戸のフィーバーぶりだった。そして5月27日には将軍吉宗と対面した。象は浜御殿で13年間生活し、1741年4月に、多摩郡中野村(東京都八王子市)の源助にお預かりとなる。

 

 

2025年4月25日 (金)

虎徹の真偽

Chofusaikojikondozazo   新選組局長、近藤勇は慶応4年のこの日、板橋宿の入口にあった馬捨場(現在の北区滝野川)で斬首された。板橋駅滝野川口に供養碑がある。

  近藤勇の差料といえば虎徹。だが、その刀は無銘であったとか、偽物であるとか、諸説紛々として、真偽は謎に包まれている。明治の官僚、金子堅太郎が近藤の刀を所持していたという話がある。その名刀は関東大震災で焼失してしまった。新聞記者の中村勝五郎の談によると、「若い時、金子から近藤の虎徹を見せられた。世間では近藤の虎徹は偽物だと言っていますが、あれは本物だった」と証言している。(4月25日)

 

 

 

 

 

 

矢島柳堂

 志賀直哉の短編に「矢島柳堂」(大正14年)という作品がある。妹のお種とともに暮らす画家の矢島が、弟子の今西との会話で、藤のつるが右巻きか、左巻きかというたわいない話の内容だが、はたして矢島柳堂という人物が実在したのか、架空なのか小説を読んだだけではではわからない。だいたい志賀の作品の登場する主要な人物には架空の人物がほとんどである。伊達騒動を題材にした有名な「赤西蠣太」にしても原田甲斐は実名ででてくるが、主人公の赤西蠣太は架空名である。これは志賀の小説作法の根幹として、歴史から離れて、創作を意識したからであろう。歴史を叙述するのではなく、芸術を重んじているのである。矢島柳堂、赤西蠣太、いずれも志賀自身の面影が感じられるような人物として描かれている。矢島柳堂という人物名がどこから思いついたのか定かではないが、架空名であることは疑いない事だろう。

 

ペンギンの語源

71567764b155b98891a67f8d622d2124  本日は「世界ペンギンの日」。南極大陸のアデリーペンギンが、夏の繁殖後に海に移動する途中、毎年この日前後にマ

クマード基地を通過することから、ペンギン研究者が制定。ペンギンの語源はラテン語ピングウィス pinguis(肥満)に由来する。それがスペイン語の「太っちょ」を表わすピングウィーゴ penguigoが生まれ、16世紀に英語圏に入ってペンギン penguinになった。他説として、「白い頭」を意味するウェールズ語から生まれたとする説もある。本来、北半球で「ペンギン」と呼ばれていたオオウミガラス(現在は絶滅)の頭が白いからである。1586年トーマス・キャベンディッシュが世界一周した際にアルゼンチン南端のフエゴ島に上陸したウェールズ人がペンギンを見て「ペン・グィン pen gwyn」と呼んだのが語源といわれる。

  松井簡治(1863-1945)は1日33語を作業の目標として、20余年の歳月をかけて「大日本国語辞典」を完成した。「オックスフォード英語大辞典」の編者ジェームズ・マレー(1837-1915)の目安も同じく1日33語だった。たぶん3日坊主に終わるかもしれないが、1日33英単語を覚えよう!(4月25日)

 

alligator        ワニ

 

bat       コウモリ

 

beetle     カブトムシ

 

chick     ひよこ

 

cockroach   ゴキブリ

 

cricket      こおろぎ

 

dolphin      イルカ

 

donkey      ろば

 

duck       あひる

 

fly        ハエ

 

frog       かえる

 

giraffe      キリン

 

goat       やぎ

 

gorilla      ゴリラ

 

grasshopper  キリギリス

 

hen        めんどり

 

hipopotamus  かば

 

insect      昆虫

 

kitten       子猫

 

ladybug     てんとうむし

 

lark        ひばり

 

mole        もぐら 

 

mouse      二十日鼠

 

ostrich      ダチョウ

 

owl        ふくろう

 

parrot       オウム

 

peacock     くじゃく 

 

pigeon       鳩

 

puppy                子犬

 

raccoon dog   たぬき

 

rooster      おんどり

 

stork        コウノトリ

 

ptarmigan  ライチョウ

 

small owl          コノハズク

 

grebe              カイツブリ

 

shrike              モズ

 

cuckoo            ホトトギス

 

Japanese  nightingale ウグイス

 

skylark            ヒバリ

 

phesant           キジ

 

sea gull           カモメ

 

thrush            ツグミ

 

albatross            あほうどり

 

eel                    うなぎ

 

earthworm    みみず

 

firefly       ほたる

 

flea        のみ 

 

frog        かえる

 

gecko       やもり

 

gnat        ぶよ

 

tarsier      メガネザル

 

newt        イモリ

 

lizard       トカゲ

 

gecko               ヤモリ

 

cobra                コブラ

 

chameleon        カメレオン

 

iguana               イグアナ

 

soft-shelled turtle スッポン

 

reindeer             トナカイ

 

parrot                  オウム

 

squid                   イカ

ギロチンの日

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  1792年のこの日、のちにフランス国歌になる「ラ・マルセイエーズ」が作曲された。同じ日、フランス国民会議で、断頭装置ギロチンが正式処刑道具として採用することが採択された。2本の柱の間に吊るして刃を落とし、柱の間にうつ伏せ状態にさせた受刑者の首を切断する執行装置である。その呼び名は解剖学者ギロチンに由来するといわれる。しかし、これは事実ではない。断頭装置は少なくとも13世紀からヨーロッパにすでに存在していた。イタリアでは「マナイア」、イギリスでは「メイドン(処女)」、ドイツでは「ディーレ」「ホッペル」「ドラブラ」などと呼ばれた。時は流れて18世紀フランス。ジョセフ・ギロチンはギロチンは機械的な装置を使用することによって受刑者に無駄な苦痛を与えず、人道的な処刑を行うように、議会に提案した人である。処刑具の開発には関わっていない。ギヨタンから名前をとったギヨチーヌGuillotine(ドイツ語読みでギロチン)が広まった。一般にはギヨチンがギロチンを発明したかのような印象がある。正確はジョゼフ・ギヨタンという医師とギロチンとは別で、ギロチンとは「ギヨタンの息子」を意味する。彼の親類は、この機械に名前を使用することをやめてくれるように政府に依頼したが、この言葉が広く認知されてしまったので、やむなく姓を変更したという。フランス革命まで、首をはねる死刑は貴族に限られていたが、ギロチンの発明が王侯貴族(ルイ16世とマリー・アントワネット)ばかりか、ダントンやロベスピエール、一般人もその対象になった。死刑執行人は代々「ムッシュ・ド・パリ」と呼ばれて、担当を格式を持っていた。1967年9月10日、フランスで最後のギロチンによる死刑執行が行われた。1981年、ミッテラン大統領の提案に基づき、ギロチンの使用中止が提案された。ギロチンだけでなく、死刑そのものが廃止され、フランスは西ヨーロッパの大半の諸国と並んで死刑のない国になった。(4月25日)

 

 

2025年4月24日 (木)

近代の日本文学史概観

  明治の初めから現代まで、およそ150年間の日本の文学史は、ひとことでいえば、日本文化が世界に目覚め世界に向かって、ひらかれていく過程であった。明治維新によって江戸幕府が崩壊し、代わって天皇親政の新政府が生まれ、日本は新しい国家を築いていく。しかし、明治維新による政治上・社会上の変革が、ただちに近代文学創出の道をひらいたわけではない。明治にはいって、教育が普及して文盲が少なくなり、また出版業が発達して新聞・雑誌・書籍の刊行がさかんとなり、文学が広く国民の間に読まれる素地ができたといえる。明治初年は江戸文学の系統をひいた仮名垣魯文の「安愚楽鍋」などのいわゆる戯作文学が盛んであった。明治10年代には、翻訳文学と政治小説が流行した。自由民権運動の発展につれ、その思想を宣伝し国民に啓発するための政治小説が盛んになった。矢野竜渓の「経国美談」などがその代表である。文明開化は西洋事情の紹介を目的とする翻訳物が盛んとなったが、明治20年前後になると欧化政策に対する批判、反動としての国粋主義が台頭し、雑誌の創刊が相次ぐなど、さまざまな混沌と萌芽をはらむ思想の新しい動きが見えてきた。ついで、新体詩の連動を先駆として、坪内逍遥の「小説神髄」や二葉亭四迷の「浮雲」は近代小説の出発を告げる文学史の上の記念碑的作品となったが、まだ当時の読者に十分には受け入れられるものではなかった。明治30年代の文壇の主流を占めたのは、「多情多恨」「金色夜叉」などを書いた尾崎紅葉を中心とする硯友社のグループであった。広津柳浪・泉鏡花らがこの一派から出ている。紅葉に対して、明治文壇の双璧と目されたのは幸田露伴である。紅葉・露伴の擬古典主義を批判して起こったのが、人間の自由な感情を重視する「文学界」を中心とする浪漫主義の運動であり、北村透谷・島崎藤村らによって大きな文学運動となった。日露戦争前後になると、フランスやロシアの文芸思潮の影響のもとに自然主義の文学が流行し、写実主義の文学理念が新しい形で復活した。こうした文壇の流れにあって独自の存在を示していたのは森鷗外と夏目漱石である。鷗外ははじめ「舞姫」などのロマン主義的な作品を発表したが、のちにはしだいに歴史小説に傾いた。また漱石は「吾輩は猫である」で作家生活に入り、西欧の近代的個人主義を踏まえて社会の俗悪さに鋭い批判の目を向けたが、「心」「道草」「明暗」などの晩年の作品では醜い人間のエゴイズムとの対決から、いわゆる則天去私という東洋的な悟りの倫理が追求されている。鷗外も漱石も大正・昭和の文学に大きな影響を及ぼした。明治末から大正期にかけては、西洋の思想や文化を積極的に取り入れようとする傾向がみられた。いわゆる大正デモクラシーや昭和モダニズムの流行である。これらは日本帝国主義、軍国主義の台頭によって消失する。戦時下、太宰治は純粋な芸術を守った一人だが、戦後発表した「斜陽」は傑作のひとつである。やがて第二次世界大戦後のアメリカを中心とする西洋合理主義によって日本の文学も新機軸を見出す。三島由紀夫、遠藤周作、安部公房、石原慎太郎、開高健、大江健三郎などが戦後文学をけん引した。とくに大江健三郎は昭和32年文壇に登場して以来およそ60年間、文学から政治まで、現実社会のさまざまなジャンルに発言し、大きな影響力をもった。令和5年3月3日、大江健三郎が没したことをメルクマールとして捉え近代日本文学の終焉とみることができよう。参考:中村光夫「明治文学史」 筑摩書房 1963

植物学の日

Makino20sai  文久2年のこの日、植物分類学者の牧野富太郎が、土佐国高岡郡佐川村西町組101番屋敷(現・佐川町)に生まれた。生家岸屋は名字帯刀を許された酒造業と雑貨商を営む裕福な商家である。幼少から父母を失い祖母浪子の手で養育された。明治7年、佐川町に小学校が開校されたので、下等一級に入学した。しかし授業に飽き足らず、明治8年退学。これが、彼が受けた正規の学校教育のすべてである。

    この逸話は小学校を退学したころの話。その頃、近くに住む西村尚貞という医師が小野蘭山の「本草綱目啓蒙」の写本を数冊持っていた。富太郎はたのんでこれを借り、行燈の灯の下で、一心にこの端本を筆写した。この苦心して写した写本をたよりにして、採集してきた植物と照合し、名前を考定してみたが、それらの端本では、ないものが多くて用をなさなくなっていた。なんとかして、完本がほしいと祖母浪子に願ったところ、すでに富太郎の才能を見抜いていた浪子は、高価な「重訂本草綱目啓蒙」全20巻を、すぐに町の洋物屋の鳥羽屋へ命じて、大阪から取り寄せてもらった。牧野少年の喜びと感激は生涯忘れぬものとなった。祖母浪子は、牧野富太郎が26歳の明治20年5月6日、78歳で没した。(4月24日)

燃えつきた車両・桜木町事件

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  ゆずの歌に「桜木町」がある。ただしこの歌はJRの桜木町駅ではなく、東急東横線の桜木町駅である(現在は廃止されている)。旧国鉄の桜木町駅は明治5年、日本で最初に鉄道が開通した時に、初代の横浜駅として開業した。その後、東海道本線の延伸に伴い「横浜駅」の名称を現在の横浜駅に譲り、大正4年に「桜木町駅」に改称した。現在付近は観光客の多いみなとみらい地区や中華街へ向かう根岸線の桜木町で横浜市の中心地区としてにぎわいをみせている。1951年のこの日、桜木町駅で、国電車両が火災、わずか10分で、あっという間に火の海となり、車両は全焼、死者106人、負傷者92人という大惨事があった。被害大きくしたのはモハ63形と呼ばれる電車の構造の欠陥にあった。モハ63形電車は、昭和19年に登場した、代用材を使った危険な車両で、天井がペンキ塗りの車両は火のまわりが速く、被害を大きくしたのである。戦争の後遺症が招いた事故であった。(4月24日)

 

 

2025年4月23日 (水)

三国干渉問題

    最初の本格的な対外戦争である日清戦争に勝利し、下関講和条約調印した日本であったが、明治28年のこの日、露・独・仏が遼東半島の清への返還の勧告、いわゆる三国干渉が起こり、同年5月10日、日本は遼東半島を清に還付、同年11月8日に調印し、世論は沸騰した。このときの国民協会の『報告』で、党派の異同をこえて挙国一致し、「勤倹以テ薪ニ臥シ胆ヲ嘗メ大ニ国力ヲ養成シ盛ニ軍備ヲ拡張シ以テ速ニ其準備ヲ整ヘザル可カラズ」と、当時さかんにとなえられた「臥薪嘗胆」の必要を説き、国力の充実と軍備拡張という、国民協会ほんらいのスローガンを高唱している。

    こうして国民各層のなかに遼東還附への無念の思いは、西洋列強の力のまえに屈服させられた屈辱感となり、それは政府や新聞・雑誌がとなえる「臥薪嘗胆」の合言葉のなかに容易にみちびかれ、日清戦争後にはじまる膨大な軍備拡張を中心とする、いわゆる戦後経営を受容する素地をつくらせたのである。(4月23日)

 

 

 

2025年4月22日 (火)

偶然に発見された国ブラジル

  大阪・関西万博。アマゾンや大湿地帯パンタナールなどのバイオーム(生物群系)を仮想空間で探訪する、ユニークな展示が楽しめる人気のブラジル館。ブラジル(Brazil)の面積は851万k㎡で、日本の約23倍、世界5位の大国である。現在、経済発展の著しい国をそれぞれの頭文字をとってブリクス(BRICS)と呼んでいる。Bはブラジル。

   ポルトガル王マヌエル大王は1500年3月、ペドロ・アルヴァレス・カブラル(1467-1520)を艦長とする13隻の艦隊をインドに派遣した。途中、嵐にあって西へ大きく流されて、4月22日、予想もしていなかった陸地を発見し、現在のブラジル北東部、バイーア州ポルトセグーロに漂着。これがブラジル(ポルトガル語でBrasil)だった。大西洋はインド洋につながっているであろうという予測はあるので、カブラルは意図的に西へ進路をとったという説もある。カブラルは本国へ報告のために帰港させた船の積荷の一部に赤色染料の木パウ・ブラジル(別名ブラジルボク)があったので、その木に因んでこの地がブラジルと呼ばれるようになったとある。また一説にはパウ・ブラジルが炎々たる赤色だったので、ポルトガル語の「brassa(赤熱した)」から植民地名に使ったともされる。ボルガルは当初あまりブラジルに関心を示さなかったが、フランス人などがブラジル海岸を嵐らし始めたため、アルフォンソ・デ・ソーザを派遣し、1532年ブラジルの最初の植民市サンビセンテを創設した。

 

 

 

 

2025年4月21日 (月)

日本の地形と気象

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  わが国は、ユーラシア大陸の東側に位置する弧状に連なる島国で、4つの大きな島と小さな島々から成り立っている。その島の数は、昭和62年、海上保安庁が「海上保安の現況」において、北海道・本州・四国・九州を含めて日本の構成島6852島と発表している。領域の長さは、オホーツク海を臨む最北端・択捉島カムイワッカ岬から最南端の太平洋を隔てて米領北マリアナ諸島と隣り合っている沖ノ鳥島まで南北約2800kmある。排他的経済水域を接していない最東端・南鳥島(マーカス島)から、東シナ海を挟んで中国大陸および台湾島と隣り合っている最西端・与那国島西崎まで東西約2500kmある。日本付近にはオホーツク海気団、シベリア気団、小笠原気団が現れ気候に影響を与えている。また台風の進路による被害も多い。日本の地形の特色は、ユーラシアプレート、北米プレート、太平洋プレート、フィリピン海プートの4枚のプレートが出会う場所にあり、地震が発生しやすい。防災への備えが大切である。

 四季の変化に富むわが国は、気象災害が多い。

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  与那国島西崎(いりざき)

 

 

 

 

噂の「ナウル台座」

 4月13日に開幕した大阪・関西万博をめぐっては、早速、様々な声がSNSにあふれている。アメリカパピリオが人気だが、誰もどこにあるか知らない太平洋の小さな国の展示物に話題が集まっている。共同館コモンズBに出展されているナウル共和国の「ナウル台座」である。白い円形の台座の上には何も置かれていない。不思議だが説明もない。だが「何もない国」の展示物だが、見る人によって何かが伝わってくるらしい。思えば月の石もただの石である。大屋根リングも清水の舞台を真似たと言うが、材木を繋いだものにすぎない。禅寺の石庭のようなもので、真実は見る人の心にあるものなのだ。

パーニーパットの戦い(1526年)

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  16世紀前半、ムガル帝国は、軍事財政制度を柱に統治と支配を広めていった。ムガル帝国は、中央アジアから進出したイスラーム国家であり、少数派として多数派のヒンドゥー勢力を支配しなければならなかった。その際に採用しているのは、官位に応じた軍馬を維持することを定めたマンサブダール制と、担当する統治地域からの税収入を給与として与える給与地制とも呼ばれるジャーギール制という2つの制度を組み合わせた軍事財政制度であった。パーニーパットはデリーの北方約90㎞にある。1526年4月21日、バーブル(ティムールの5代の子孫)がロディー朝のイブラヒムを討って、デリーとアグラを占領し、ムガール帝国の基礎を築いた。約100頭の象軍を主力とするローディー朝の10万の大軍を、1万2000の兵で打ち破ることができたのは、鉄砲という火砲を用いたことと騎兵を利用したためといわれている。( keyword;Battle of Panipat,Babur,Ibrahim )

2025年4月20日 (日)

郵政記念日

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 楽浪出土の封泥

 

    4月20日は「郵政記念日」。昭和9年、逓信省によって「逓信記念日」と制定されたことに因む。手紙を運ぶ近代郵便制度は1635年にイギリスででき、ローランド・ヒルが1837年にペニー郵便制を提案したが、通信の歴史は人間の歴史とともにある。最も古い記録では前1500年頃、古代エジプト第12王朝時代にすでに手紙を運ぶ飛脚を職業とする者がいた。しかし郵便が一定の組織をもち定期的な通信を行うように制度化されたのは、古代アケメネス朝ペルシアの駅制である。この駅制はアンガライオンと呼ばれた。前500年代にキュロス王が創設し、ダレイオス王が完成したこの駅制は広大な版図内に首府を中心として一定の距離に宿泊所を設けて、馬と馬丁を置き、騎馬による継走によって手紙を運ぶという通信機関であった。ペルシアに劣らず古い郵便制度をもっているのが中国である。周代の頃からあると推察されるが、漢の時代に整備された。のちに封泥が発見された。信書としてしたためた木簡に発送するとき封緘をした。それは木簡を縄で縛り、そのうえに泥を押しつけ、泥のうえに印を押捺する。封緘に用いられた泥だから封泥とよばれた。従って封泥のウラ側には縄のあとがくぼんで見られる。郵便物は郵亭をリレー式に運ばれた。angaraion

穀雨

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 春に日照りの日がつづくと不作になるといわれる。晩春の頃の雨は、農作物にとって恵となり、百穀をうるおす。きょう20日は二十四節気の一つ「穀雨(こくう」。春雨が降って百穀を潤すの意。

 

河越城の戦い(1546年)

  天文15年のこの日、北条氏康が上杉憲政の居城・河越城に侵攻し、勝利した。この戦いの結果、扇谷上杉家は滅亡し、関東管領の山内上杉家も勢力を失った。一方、北条家は戦国大名としての地位を固めることになる。しかし河越夜戦に関しては不明な点が多く、大規模な合戦はなかったとする説もある。(4月20日)

 

 

夏目漱石「こころ」

    1914年のこの日、夏目漱石の「心 先生の遺書」(後に『こころ』に改題)が朝日新聞に連載を開始する。

  私は暑中休暇に鎌倉へ行って、そこの海岸で先生を知った。はじめ白い皮膚の西洋人といっしょだった先生を、私は好奇心で見守っていた。幾日か海でいっしょに泳ぐうちに、先生と懇意になることができた。東京へ帰ってから先生の宅を訪ねた。奥さんから、先生が雑司ヶ谷の墓地へ行っていると教えられ、私も墓地へ行った。先生は毎月その日に友人の墓参をする習慣だったのだ。それから、私はしばしば先生の宅へ行くようになった。はたで見ているかぎり、先生と奥さんは仲のいい夫婦であった。二人で音楽会や芝居に行き、ときには箱根や日光へ1週間ぐらいの旅行をする。私は二人の結婚の奥に、はなやかなロマンスの存在さえ仮定していた。しかし先生は、恋は「罪悪だから気をつけないといけない」と言った。私がその意味を問い返すと、先生は「雑司ヶ谷の友人の墓地へ私がなぜ毎月参るのか知っていますか」と逆に質問してきて私を混乱させた。それ以上の説明を先生から聞くことはできなかった。先生が珍しく会合に出かけた夜、私は頼まれて奥さんと留守番をした。奥さんは、先生がだんだん人の顔を見るのも嫌いになり、会にもめったに出ないと嘆いた。奥さんの解釈では、世間を嫌い人間を嫌う先生は、その人間の一人として奥さんをも嫌っている、という。それでいて奥さんは、先生が奥さんと離れれば不幸になるだけだ、ということをはっきり理解していた。

Photo_10     私の父が病気になった。東京を離れて、しばらく国へ帰った。病気が小康を得たので、私はまた学校へもどり、卒業論文にとりかかった。そのころ先生は、私に家の財産をはっきりしておくほうがよい、と言った。親戚や兄弟がいくらよい人間でも「いざという間際に、急に悪人に変はるんだから恐ろしいのです」、先生の口調は苦々しげであった。大学を卒業して私は国に帰った。父の病状はあまり変わっていなかった。父は赤飯を炊いて、卒業披露の客を呼ぶと言った。私は仰々しいのが嫌いだったが、学問をさせると人間が理屈っぽくなるという父の一言で、反対するのをやめた。その言葉のなかに、父の私に対する一切の不平があるように思えたから。しかし、招待の日が来ないうちに明治天皇の御病気が報じられた。披露は自然と沙汰止みになった。

 

   そのころ、父と母とが私の仕事に大きな期待をもっていることがわかった。母は、私の尊敬している先生がいずれは仕事の口を捜してくれるものと決めこんでいた。それでもどうにか私が東京へ出て仕事が見つかるまで、学資を送ることを約束してくれた。しかし、私が上京する間際に、父は風呂場で倒れた。九州の兄を呼び返した。妹の夫も駆けつけてきた。新聞は乃木大将の死を報じた。先生から会いたいという電報がきたが、私は父の病気が急変したので上京できない由を知らせた。父の病気はさらに進んだ。「乃木大将に済まない、私もすぐ御後から」とうわごとを言うようになった。そんなとき、小包のように分厚い封書が届いた。それは先生の遺書だった。「此手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもう此の世には居ないでせう」という一節が目にしみた。私は母や兄にも断らず、停車場へ急ぎ、東京行きの汽車に飛び乗った。ごうごう鳴る三等列車のなかで、私は先生の遺書を取り出して、はじめから終わりまで目を通した。「上・先生と私」「中・両親と私」と書き継がれた「こころ」は、ここで最後の章である「下・先生と遺書」に移る。私がそれまで見てきた先生なる一人の思想家のいわば精神の生い立ちが、その遺書によって解明されるのだが、そこには人間の性格に根強くはびこるエゴイズムを追求し、やがて晩年に「則天去私」の境地にたどりつく漱石の、創作活動の全契機が示されている。先生はその財産を叔父に奪われた。信頼していた叔父が、父の遺産を手にするや善人から悪人に一変した。先生はその衝撃で人間への信頼を失うが、自分だけはそんな人間ではないと信じていた。ところがその自分も、自分を信頼しきっていた友人Kを裏切ることによって、いまの奥さんと結婚することに成功した。Kは自殺をとげた。その結果からいえば、叔父がやったことよりも自分のやったことのほうがひどい。先生は、他人を呪い嫌った自分自身を同様に呪い嫌った。それはまた償いきれない罪の自覚でもあった。その苦しみに悩みぬいたあげく、乃木大将の殉死に触発されて、先生は自殺を決行する。それはまた、天皇に始まって天皇に終わった明治の精神の最も強い影響を受けた先生にとって、一つの殉死でもあった。そして「こころ」で自我否定の道を切り開いた漱石は、のちに「道草」において、自己の我を捨てさり、「則天去私」の新しい境地へ踏み入ることになったのである。(引用文献:友野大助「日本名作事典」平凡社)4月20日

 

 

東京国立博物館で「モナ・リザ展」の一般公開(1974年)

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   昭和49年のこの日、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」が東京国立博物館で公開された。連日超満員の盛況で6月10日までに入場者数は150万人を越えた。展示初日に赤いスプレーを吹きつけようとした女性がいたがすぐに逮捕された。「モナ・リザ」は、この世でもっとも有名な絵画で、またもっとも謎の多い一枚でもあり「3密」がある。たとえば、この絵が描かれた正確な年(推定では1503年から1506年にかけて)、描かれた場所、そしてモデルの名前すらいまだに解明されていない。広く知られているMONNA LISAという呼び名も画家自身がつけたものではなく、16世紀の美術史家ジョルジオ・ヴァザーリの著書「美術家列伝」の中に書かれたものである。その著書によればモデルはフィレンツェの有力市民フランチェスコ・ジョコンド夫人のエリザべッタであるとしている。彼女の愛称リサに、女性に対する尊称「モナ」を付けて命名された。「モナ・リサ」を3つのパーツで読み解く。

① 口元

モデルをジョコンド夫人と仮定すれば、幼い愛娘を亡くしたばかりの夫人が黒いヴェールと喪服姿であることは当然のことであろう。しかしなぜ深い悲しみの夫人が口元に微笑みをたたえているのか謎である。

② 眉

当時の女性の眉は美人の条件の一つだった。レオナルドの「白貂を抱く貴婦人」(チャルトリスキ美術館蔵)にも眉があった。そうしたことから「モナ・リザ」にも当初は眉が描かれていたといわれる。歳月の経過により絵の具が風化して眉が消えたといわれる。

③ 爪

「モナ・リザ」は結局、依頼主に渡されることなく、レオナルドが死ぬまで所有していたとされる。手の部分が未完成とされる。最近の赤外線検査によって、最初、爪の部分が描かれていたが、その後、薄く消していたことが新たにわかった。なぜ爪を消したのだろうか。

   レオナルドは完全主義のため、完成された大作はほとんどなかった。(4月20日)

 


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2025年4月19日 (土)

大谷翔平が産休

 ドジャースの大谷翔平選手が18日、妻の真美子さんの出産に備えて産休制度「父親リスト」に入った。同日のレンジャーズ戦で今季初の欠場となったが、チームは山本由伸の好投で4連勝を飾った。 

   翔平は夜中たらいを持ち歩き (厄介)

 野球のヒーローも普段と勝手がちがう。たらいに湯を入れて待っているが、ソワソワ、ウロウロするばかりで落ち着かない。

 

 

水兵リーベぼくの船

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   高校の化学で習う元素周期表。原子番号1の水素から原子番号20のカルシウムまでは「水兵リーベ僕の船、なあ間があるシップス クラークか?」と覚えるそうだ。H,He,Li,Be,B,C,N,O,F,Ne,Na,Mg,Al,Si,P,S,Cl,Ar,K,Ca。現在、知られている化学元素の数は118。

 

太宰治の死について

Photo_2  「人間失格」「斜陽」「津軽」など死後68 年を経た今でも読み継がれ、日本近代文学作家の中でダントツの人気がある太宰治だが、昭和23 年6月13日、山崎富栄(画像)という戦争未亡人と玉川上水に入水自殺した。山崎富栄(1919-1948)は、日本で最初の美容学校の創立者である山崎晴弘、信子夫妻の末娘として、大正8年9月東京市本郷区東竹町に生まれた。小学校を優等の成績で卒業後、京華高女に進みのち錦秋高女に転じて同校卒業。その後もYWCAに進学して聖書、英語、演劇の研究に励み、さらに慶応義塾大学の聴講生として学ぶかたわら、銀座松屋前の美容院の経営を任されていた。

   昭和19年12月、三井物産本社の飯田富美女史の世話で、同社員・奥名修一と結婚したが、わずか二週間後に修一は単身マニラに赴任となり、そのまま現地入隊して戦闘に参加、激戦のさなか生死不明になってしまった。修一を羽田空港に身送ったあと、銀座の美容院が罹災し、お茶の水美容学校の講師として父母を援けていた富栄は、昭和20年の東京大空襲で学校が全焼してしまい、やむなく家族と共に滋賀県八日市町へ疎開した。

   昭和21年、富栄は義姉と一緒に鎌倉に戻って美容院を経営する。その年の秋、美容学校を再建するまで一時的に三鷹駅前の美容院に勤めることになり、下連雀の野川家に身を寄せた。敗戦直前、甲府から太宰治が、三鷹下連雀の旧居に戻ってきたのも、富栄が鎌倉から三鷹に移ったのと、ほぼ同じ頃であった。

 

   山崎富栄の住む野川家は、太宰の仕事場である小料理屋「千草」と、ほぼ正面に向かい合っていた。昭和22年3月27日の夜、三鷹駅前の屋台で、運命的な二人は出会う。

 

   その頃、太宰は太田静子の日記をもとに「斜陽」を書き初めていたのだが、静子の存在を出産まぢかの妻に知られ、もはや文通さえ困難になりつつあった。夏も終わりの頃から太宰の病状は悪化の一途を辿り、富栄は勤めを辞めて看病と秘書の仕事に専念することになった。この頃より、仕事部屋は富栄の部屋に移された。秋、静子に女児が誕生し、太宰は「治子」と命名した。養育費の送金は富栄がした。翌23年の冬、たび重なる喀血に死期近しとさとった太宰は、これまでの一切を傾けて「如是我聞」「人間失格」を書き上げる。6月13日の夜、二人は小雨降りしきる玉川上水に入水して心中する。

 

   病気と闘いながらの太宰の晩年の名作誕生の陰には、太宰治をめぐる三人の女性、津島美知子・太田静子・山崎富栄のそれぞれの愛があった。

 

参考文献:安藤宏「太宰治の恍惚と不安」国文学 平成元年三月号臨時増刊号

 

「太宰治氏の死について」座談会 椎名麟三、福田恒存、梅崎春生、楢崎勤、林芙美子、伊藤整、豊田三郎 「文芸時代1巻8号」1948年8月

 

「太宰治氏の死について」座談会 林芙美子、福田恒存、梅崎春生、伊藤整、豊田三郎、椎名麟三 「進路」1948年8月

 

辰野隆「太宰治の死について」(『凡愚問答』所収) 1955年

 

志賀直哉「太宰治の死」(『文藝』5-10   河出書房 1948年10月)

饅頭祭

   奈良の漢国神社(かんごうじんじゃ)にある林神社では、毎年4月19日に饅頭祭が開催される。貞和5年(1349年)に宋から日本に渡来した僧、林浄因(りんじょういん)が日本に初めて饅頭を伝えたとして知られており、神社に祀られている。

 

病気を表す英語 医療英語

 癌は英語で「cancer」です。語源は「蟹(かに)」。ギリシアの名医ヒポクラテスが進行した乳がん組織の血管が浮き出たような様態でカニの甲羅のように硬いことから命名したことに由来している。癌を治せる病気にしようというキャンペーン「delets C」のため、炭酸飲料「C.C.レモン」の「C」が消された商品が販売されている。いろいろな病気を集めてみました。医療英語集。

 

appendicitis      虫垂炎

 

amnesia           記憶喪失

 

autism             自閉症

 

bowel movements 便通

 

blood  pressure   血圧

 

catheter  カテーテル

 

chap  あかぎれ、しもやけ

 

diabetes    糖尿病

 

ejaculetion   射精

 

somnambulism  夢遊病

 

nyctophobia     暗闇恐怖症

 

Kinesophobia  運動恐怖症

 

Misophonia  音恐怖症

 

bed wetting      夜尿症

 

belly button   おへそ

 

forgetfulness    健忘症

 

alcoholics         アルコール中毒症

 

alcoholic dependency  アルコール依存症

 

starvation        餓死

 

heat disorder   熱中症

 

phobia             恐怖症

 

anthrophobia  対人恐怖症

 

antibiotics  抗生物質

 

exnophobia    外国人恐怖症

 

acrophobia    高所恐怖症

 

triskaidekaphobia 13恐怖症

 

claustrophobia  閉所恐怖症

 

ombrophobia   雨恐怖症

 

erythrophobia  赤面恐怖症

 

mysophobia   不潔恐怖症        

 

aphasia        失語症

 

autism         自閉症

 

suicide        自殺

 

amnesia      記憶喪失症

 

obsession   強迫観念、妄想などが取り憑くこと

 

asphyxia     仮死状態

 

disease       病気

 

thoracic diaphragm  横隔膜

 

prohibition   禁酒

 

get a crick in my neck  寝違える

 

get carsick   乗り物酔いになる

 

poor  circulation  冷え症

 

monomania   モノマニア、偏執狂

 

hypnotism    催眠術

 

bladder        膀胱

 

insomnia     不眠症

 

atopy          アトピー。先天性過敏症。atopos(奇妙な)というギリシャ語に由来する。

 

nosebleed      鼻血

 

strained back  ぎっくり腰

 

sphincter    肛門活約筋

 

flasher         露出狂

 

locomotive syndrome 運動器症候群

 

cerebral infarction   脳梗塞   

 

disinfection    消毒

 

pregnacy      妊娠

 

abortion      妊娠中絶

 

infertility     不妊症

 

cramp        けいれん

 

gastrospasm  胃けいれん

 

clitoromegaly  陰核巨大症

 

phallitis         陰茎炎

 

hydrophobia   狂犬病

 

bruxism        歯軋り ブラキシズム

 

cavity           虫歯

 

chilblain        しもやけ

 

Hubris Syndrome ヒュブリス・シンドローム(傲慢症候群)

 

tiredness  疲労

 

exhaustion  極度の疲労

 

cervical spine injury  頸椎損傷

 

easy delivery  安産

 

rabies    狂犬病

 

osteopath  整骨医

 

hymen    処女膜

 

hearing aid  補聴器

 

heat rash  あせも

 

hypochondrie  ヒポコンデリー 心気症

 

suppressant  食欲抑制剤

 

placebo   偽薬

 

glaucoma  緑内障

 

cataracts  白内障

 

arthritis    関節炎

 

hay fever   花粉症

 

empyema  蓄膿症

 

leg cramp  脚がつる、こむら返り

 

stillbirth    死産

 

parasite    寄生虫

 

hyperemia  充血

 

examination 検診

 

lactation     授乳

 

esophgus   食道

 

disinfection 消毒

 

apnea        無呼吸

 

slipped disc 椎間板ヘルニア

 

stomach ulcer  胃潰瘍

 

thyroid gland    甲状腺

 

measles       はしか

 

cancer       がん

 

epilepsy     てんかん

 

prescription  処方箋

 

cabin fever  僻地や狭い空間で生活するときに生ずる情緒不安定。閉所性発熱。

 

respiratory 呼吸器

 

gargle       うがい

 

New coronavirus  新型コロナウイルス 

 

infection      感染

 

saliva    唾液

 

spit   唾を吐く

 

sprain   捻挫

 

obesity 肥満

 

ultravioiet ray   紫外線

 

(医学英語,medical sciences)

 

 

地図の日

Orai07b 寛政12年(1800年)4月19日、伊能忠敬(1745-1818)が蝦夷測量に出発した日を記念して本日は「地図の日」。文化13年(1816年)の測量完了までに4万km、つまり地球を一周歩いた距離に等しい。地図の編纂は死後3年目の文政4年(1821年)に高橋景保によって完成し幕府に上呈した。これが日本沿海與地全図(伊能図)である。大図214枚、中図8枚、小図3枚。それまでは日本の正確な実測図はなかった。オルテリウス地図帳のテイセラ日本図(1595年)には蝦夷地の未記入で、本州も不正確である。伊能忠敬の実測図をシーボルトが持ち帰ってから日本の地図が世界図に正確に記るされる。

  ではなぜ地図は北が上なのか?大航海時代、羅針盤もない頃、船乗りは地軸のほぼ真北に位置する北極星を目印にして、地図で航海したからと考えられる。

 

 

 

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オルテリウス地図帳(1595)

2025年4月18日 (金)

蘭亭序(「ラ」事項索引)

Kaenophytikum_01 [ ラ ] 

「ラポール」 rapporl 心理療法において、治療者とクライアントの間の親和的で相互信頼的な関係や雰囲気が存在する状態をラポールがあるという。▽「ライーヤトワーリー制度」とはイギリスがインドを植民地として支配する時に導入した地税徴収制度。ライーヤトとはペルシア語で農民を意味し、ライーヤトワーリーとは個別農民ごとに地税額決定法といった意味になる。イギリスはインドを植民地化していく過程でさまざまな地税徴収の方法を導入した。▽「ライ・ハウス事件」1681年イギリス国王チャールズ2世の後継をめぐる事件。▽「ライスウィック条約」1697年アウグスブルク同盟戦争後の平和条約。▽「ライテク」第二次大戦時のマラヤ共産党書記長。▽「ラーゲルシュテッテン」古生物学で特に保存状態の良い化石を産する土地のこと。▽「ライチョウ」海抜2400m以上の山に住んでいる。▽「ラチェット効果」所得が減少しても、消費はその後もしばらく減少分程減らずにそれまでの消費水準を維持しようとすること。▽「ラパッロ条約」1920年イタリアとセルヴアの間で調印された条約。▽「ラバルム」ギリシア文字のX・Pを組み合わせた形で、イエス・キリストの象徴。▽「ラフレシア」インドネシア原産の世界で一番大きな花。▽「ララビアータ」ドイツの作家パウル・フォン・ハイゼの代表的短編小説。▽「ラカンカ」羅漢果。ウリ科。乾燥品が輸入される。原産地中国ではその効能から「神果」と呼ばれて珍重されてきた。▽「ラザロ徴候」脳死とされる患者が自発的に手や足を動かすこと。新訳聖書ヨハネ福音書に記されたイエスの死者蘇生の奇跡に因む。▽「ラシュタット条約」1714年神聖ローマ帝国とフランスとの間に結ばれたスペイン継承戦争の講和条約。▽「ラマーズ法」出産時の女性の苦痛を和らげる、呼吸法などを用いた無痛分娩法。1951年、フランスの産婦人科医師フェルナン・ラマーズが考案。▽「ラマピテクス」進化史上サルと人類を結ぶ最古のヒト科生物と考えられていたが、現在ではヒト科説は否定され、オランウータンにつながる系統という説が有力である▽「ラムサール条約」1971年イランのラムサールで「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」として採択された。▽「ラムゼイハント症候群」水痘帯状疱疹ウィルスによって生ずる顔面神経麻痺を主徴とする疾患。発見者ジェームズ・ラムゼイハントの名前が冠せられる。▽「蘭奢待(らんじゃたい)」東大寺正倉院に収蔵されている香木。▽「ランペドゥーザ島」地中海のシチリア島南方にあるイタリア領最南端の島。「死ぬまでに行きたい世界の絶景」で世界1位として紹介されたことで近年観光地として人気が高い。(ららら)

 

礼記
来国俊(らいくにとし)
雷汞(らいこう)
ライサン島(ハワイ)
頼山陽
ライスウィック条約
ライチョウ
ライデン
雷電海岸(北海道岩内町)
雷電為右衛門
ライト兄弟
ライ・ハウス事件
ライプチヒ
ライブドア事件(2006年)
ライプニッツ
頼三樹三郎
ライ麦畑でつかまえて
ライムライト
ライーヤトワーリー制度
ライラック
ライン川
ラインディア湖(カナダ)
ラインラント
羅臼
ラウリオン銀山
ラオコーン
ラオス
ラキ火山
ラクスマン
酪農
洛陽
ラクレット
楽浪郡
ラクロス
ラケダイモン
ラーゲルシュテッテン
ラゴプス・ムタ(ライチョウの学名)
ラサール
ラザロ徴候
ラジオ
ラジオゾンデ
裸子植物
ラージプート族
ラージプート絵画
らしゃめん
ラシュタット条約(1714年)
羅生門方式
羅針盤
ラスコー
ラスベガス
ラチェット効果
ラヂオ焼き
ラッダイト運動
ラップランド
ラティフンディウム
ラテンアメリカ
ラテン語
ラテン人
ラトヴィア
ラ・トゥール
ラドガ湖
ラナンキュラス
ラネーフスカヤ夫人(チェホフ「桜の園」の女主人)
ラバウル
ラバシエガ洞窟(スペイン)
ラパッロ条約(1920年)
ラハブ
ラバ・ヌイ国立公園
ラパ・ヌイ島(イースター島)
ラバルム
ラパロ条約
ラバン
ラピスラズリ
ラピタ人
ラファイエット
ラファエロ
ラプラース
ラプラタ川
ラブラドル海流
ラブレー
ラフレシア
ラポール(信頼関係)
ラマ教
ラーマ5世
ラマーズ法
ラマッス(人面有翼牡牛像)
ラマヌジャン賞
ラマピテクス
ラーマーヤナ
ラマルク
ラ・マルセイエーズ
ラ・マンチャの男
ラミダス猿人
ラムサウ(ドイツ)
ラムサール条約
ラムゼイハント症候群
ラーメン構造
拉孟・騰越の戦い(1944年)
ララビアータ(ハイゼの短編小説)
ララヒッパリ
ララ物資
ラワン材
ランカウイ島(マレーシア)
ランカスター家
ラングーン
ランケ
蘭渓道隆
ランゲルハンス島
ランサン王国
蘭奢待
ランチメイト症候群
蘭亭序
ランブルフィシュ
ランペドゥーザ島
ランボルギーニ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

孔子生卒年の謎

200111_10_n051kousigazou     孔子の生年は前552年、あるいは前551年という説もありはっきりしない。そめためかどうか知らないが、釈迦やキリストのように生誕を祝うという風習がない。名は丘(きゅう)、字は仲尼。父は叔梁紇、母は顔徴在。父母の年齢がかなり離れていたので、子どもが生まれるかどうか、とくに母は心配だった。そこで、祈祷師でもある母は「尼丘に祈り、孔子を得たり」近くの尼丘山に祈って、孔子をさずかることができた。ある記録によると、魯国の襄公22年(前551)8月27日(新暦9月28日)に魯国の昌平郷・陬邑(現在の山東省曲阜県東南の鄹城)で生まれ、魯国の哀公の16年(前479)2月11日(新暦3月9日)に魯国・曲阜で死んだとされている。4月18日という説もある。生年についても諸説がある。原因は周と魯とで暦が異なるからで古来何人もの偉い学者が調べてもはっきりとわからない。孔子の生まれ月については、10月と11月との二つの異なった本文がある。「春秋公羊伝」は「襄公21年(前552)10月1日庚子孔子生」とする。同穀梁伝は「21年庚子、孔子10月の後に生まれる」とする。

   生まれ年については、『春秋』の襄公21年と『史記』の襄公22年誕生説がある。「史記集解索隠正義礼記」は、周の正月は11月なので、「史記・孔子世家」の22年は実際は21年になる、という。現在の中国の暦法で、前551年9月28日とするのが妥当であろう。台湾では9月28日を孔子の誕生日としている。

 

 

令義解(「リ」事項索引)

 「リカオン」中型の犬くらいの大きさで、一見ハイエナに似る。白地に黒と黄褐色が不規則に入り混じり、尾先は白い。ほぼアフリカ一帯に広く分布する。▽「リアウ諸島」スマトラ島東方にあり、シンガポール南方に位置する。主な島はビンタン島。シンガポール海峡に面する諸島でもあり、周辺海域は通航船舶量が多い。▽「リサジュー図形」互いに直交する二つの単振動を合成して得られる二次元運動の軌道が描く図形。▽「リヴィエラ」フランス・イタリアにまたがる保養地として名高い地中海沿岸の地名。▽「李璮の乱」1262年李璮が元朝に離反した事件。▽「李舜臣(りしゅんしん)」1545-98。朝鮮王朝の武将。亀甲船で豊臣秀吉軍を撃退した救国の英雄。イ・スンシン。▽「リッカート尺度」アンケートなどで使われる心理検査的回答の一種であり、各種調査で広く使われている。▽「李定国」明末の武将。張献忠の養子で、その四部将の一人。張の死後、明の永暦帝に従い、晋王に封じられた。永暦帝の死とともに1662年病死。▽「李提摩太(りていまた)」イギリス人宣教師ティモシー・リチャード。▽「リミニ勅書」1226年神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がプロシアに対する主権をドイツ騎士団に授与した勅書。▽「琉球王国」1429年、中山王尚巴志が南山王他魯毎を滅ぼして三山を統一。首里城を首都とする。1879年まで450年間、国家として存在した。▽「龍頭岩」高さ10mほどの岩。済州島観光の名所。▽「リンゴ事件」1933年、大学野球早慶戦で判定に抗議された慶大水原茂選手に早大側スタンドからリンゴの芯が投げられ、水原が投げ返したために応援団が衝突した事件。▽「リンボク」現生のバラ科サクラ属の樹木。(りりり)

リアウ諸島(インドネシア)
リア王
リアス式海岸
リヴァイアサン
リヴィエラ
リウトプランド
リエカ(クロアチア)
リエゴ革命
リェージュ(ベルギー)
リオガジェゴス(アルゼンチン)
リオグランデ
リオデジャネイロ(ブラジル)
リオムニ(赤道ギニア)
リオン湾(フランス)
リカオン
リカードの比較生産費説
力道山
裏急後重
陸九淵
陸象山
六朝文化
六鎮の乱
リークドシクティス・プロブマティカス
六諭
リクルート事件
里甲制
リゴリズム(厳格主義)
リサジューの図形
リーグニッツの戦い
李舜臣
李承晩ライン
リス氷期
リスボン
リーゼガング現象
リソホスファチデートアシルトランスフェラーゼ
李璮の乱
リチウム
リッカート尺度
リットン調査団
リップ・ヴァン・ウィンクル
律令格式
リディア
李定国
李提摩太
リトアニア
リトルビッグホーンの戦い
李白
理藩院
リビア
リービヒ
リベリア共和国
リボソーム
リマ症候群
リマン海流
リーマン・ショック
リミニ勅書
リリーマルレーン
龍ヶ崎地震(茨城県南部、1921年)
琉球王国
劉勰
劉暁波(りゅうぎょうは)
劉少奇
龍頭岩
劉邦
リュクルゴス制
リュサンドロス
リュッツェンの戦い(1632年)
リューリク
令義解(833年)
呂不韋
梁啓超
聊斎志異
両シチリア王国
梁塵秘抄
両税法
旅順
リンガジャチ協定
リンカン
リンゴ事件
リンゴの歌
リン酸
リンディスファーン修道院
リンドバーグ
リンネ
リンパ
リンボク

2025年4月17日 (木)

東西冷戦の変化とウクライナ侵攻

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米ソ首脳のウィーン会談(1961年6月)

 

220pxbernard_baruch_cph_3b33468    第二次世界大戦後のアメリカとソ連との対立は、殺戮を伴う直接手段にはいたらなかったが、国際緊張が続く状態であったため、この情勢を「冷たい戦争」と表現した。「冷戦」(Cold War)という語は、バーナード・バルーク(画像、1870-1965)が1947年4月16日に初めて使い、ウォルター・リップマン(1889-1974)がこの年に出版した著書のタイトルに使い、1948年10月24日、バルークが上院で「冷戦」という言葉を使った事から、ジャーナリズムに定着した。だが、この冷たい戦争も長くは続かなかった。両陣営は平和のうちに共存することができる、という声が高くなり、ここに「雪どけ」が始まった。「雪どけ」は、ロシアの作家イリヤ・エレンブルグの小説(1955年)の題名である。

    東西の対立が続くなか米ソは核開発競走ほ行い、ベルリンの壁が築かれた。1962年キューバ危機では、核戦争寸前にまで米ソ間の緊張は高まった。ドイツ、ベトナム、朝鮮半島が二分された。そして朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争など米ソの代理戦争が起こり、巨額の軍事費は、米ソ両国の経済にとって大きな負担となった。アジアでは、インド・パキスタン・中国が国境紛争などをきっかけに核兵器を開発した。中東ではイスラエルが核兵器を所有していると言われている。そして日本は西側諸国の一員として冷戦体制に組み込まれ、ベトナム戦争では米軍の出撃基地となった。今なお米軍基地がおかれるなど、沖縄は米軍のアジアでの前線基地となっている。ソビエト連邦はアメリカと肩を並べるほどの大国となったが、経済政策の失敗などから、1989年11月ベルリンの壁崩壊からおよそ2年後、ソ漣は解体し、1991年冷戦は終結した。冷戦後は国を越えた世界の一体化(グローバル化)が進展したが、地球規模での環境問題や格差問題などの課題が浮き彫りになった。2001年9月、ニューヨークの世界貿易センタービルにハイジャックされた2機の飛行機が突入して多数の死傷者がでた。アメリカはアルカーイダの犯行と断定し、潜伏先のアフガニスタンへの攻撃を行った。またロシアのプーチン大統領は冷戦後東へ拡大するNATOに徐々に不満を強め、2022年3月ついにロシアはウクライナに侵攻し、戦争はいまも継続している。2022年の段階で世界には、12720の核弾頭があると推定されている。( Barnard Baruch,Walter Lippmann,Ilya Ehrenburg、世界史 )

季節の移り変わりを愉しむ

 「鳥啼き花咲きて春融融」(了庵清欲))

 

 桜は散ったがツツジが咲くころになった。いろいろな生き物たちも、すがたをあらわしはじめています。一年をみても今が一番よい季節だが、五月病といって、新しい環境に適応できずに心の病気にかかる人も多いと聞く。心を静めて、机を拭って明るい日差しの下、読書の時間をつくろう。

 

恐竜の日

Owen   1923年のこの日、ローイ・チャップマン・アンドルーズ(1884-1960)がゴビ砂漠へ向けて北京を出発した。その後、5年間で、恐竜の卵の化石を初めて発見した。

   恐竜という生き物が、かつてこの地球に存在したことが明らかになったのは、19世紀初めのことである。イギリスにおいて、まずメガロザウルスが1824年に、イグアナドンが1825年に正式に報告された。1842年、リチャード・オーウェン(画像)は、恐竜とは「かつて陸上に栄えていた大きな爬虫類であり、体の下にまっすぐ足をのばして歩き、仙椎を5個持つ生き物である」という定義を発表した。そしてオーウェンは、このような特徴を持つ動物を「ダイノサウルス」(ギリシア語で「恐ろしいトカゲ」)と命名した。2億3000万年前、恐竜たちは地球に現れて、1億5000  万年以上にわたって進化、繁栄した。その恐竜たちが滅んだのは約6550万年前。絶滅の原因には諸説あったが、最近の研究で巨大隕石の衝突によって、地球の気候が大きく変わったためという説がほぼ確実となっている。

 

   恐竜は進化の道筋にそって次の6つのグループに分類される。

獣脚類・・・・カルノタウルス、デイノニクス

竜脚形類・・・・・プラテオサウルス、マメンチサウルス

原始的な鳥盤類・・・・レソトサウルス

装盾類・・・・・ステゴサウルス、アンキロサウルス

鳥脚類・・・・・パラサウロロフス、ヘテロドンサウルス

周飾頭類・・・・・パキケファロサウルス、トリケラトプスむ

(Roy Chapman Andrews,Richard Owen,dinosaur) 4月17日

下関条約調印(1895年)

123   1895年3月20日、下関の春帆楼で第1回の講和会議が開かれた。ところが思いがけない事件が起こった。24日、李鴻章は小山六之助という青年に狙撃され、顔に重傷を負ったのである。28日、伊藤博文首相全権大使として派遣された外務大臣陸奥宗光は病床の李鴻章を訪問して日清戦争休戦の件を相談した。そして3月30日、両国の全権大使は休戦条約に署名調印したのである。講和条約は越えて4月17日、春帆楼において締結された。一般に馬関条約と呼ばれる。

     これによって清国は、朝鮮の独立、遼東半島・台湾・澎湖島を日本へ割譲、日本を最恵国待遇にすることを承認、および新たに沙市・重慶・蘇州・杭州を日本に解放することが定められた。ところが三国干渉が加わり、日本はこれに妥協した。

    1894年7月25日開戦した戦いは、平壌・黄海・大連・旅順などで日本の勝利に終わり、1895年2月、北洋艦隊は降伏した。(3月30日)

 

 

 

 

 

日光東照宮

Photo_6     元和2年4月17日、駿府城において75歳の天寿をまっとうした徳川家康の遺骸は、久能山の仮殿に移された。生前病状の悪化を自覚した家康は、4月2日に本多正純、金地院崇伝、南光坊天海を召して、遺体は駿河の久能山に、葬礼は江戸の増上寺で、位牌は三河の大樹寺に立つるべきことを命じたのち、1周忌後に、下野の日光山に小堂を建てるて御霊を勧請し、関八州の鎮守とすべきことを遺言した。これを受けて、同年10月には幕府より日光山に東照宮の社地が選定され、11月17日には造営に着手し、1周忌にあたる4月17日には、主要な社殿が完成した。 

   この元和の造営を指揮した奉行は、本多上野介正純で、藤堂和泉守高虎が補佐し、建築の計画にあたったのは、幕府の大工頭中井大和守正清(1565-1619)であった。正清は奈良・法隆寺大工の中村家の出身で、家康の生前、格別の愛顧を受け、久能山の仮殿も建てた。 

    この元和創建の東照宮は、寛永の造替ですっかり破却されてしまい、伝わらないが、大河直躬、内藤昌両博士の研究によると、本社はやはり権現造で、その周囲を玉垣がかこみ、正面には唐門を開いていた。またその外周に回廊と楼門があり、ほかに本地堂、仮殿、御供所、水盤、厩、神庫、輪蔵、奥社拝殿、奥社宝塔が存在していたことがわかる。元和3年4月の遷宮後も、境内整備の工事は進められ、元和4年には現存する石の大鳥居を黒田長政が、石の水盤を鍋島勝茂が献納しており、また中神庫は元和5年に建てられている。造替に際して、本地堂、奥社拝殿、奥社宝塔は、群馬県の世良田の長楽寺に移されたと伝えられていたが、近年、長楽寺の東照宮拝殿が、社伝のごとく、神柩を安置していた奥社の拝殿を移築したものであることが明らかとなった。これによると、元和創建の東照宮は、現在の寛永造替のものほど装飾が派手ではなかったと推察される。 

 

    家康薨去後、ちょうど20年をめざして、寛永11年11月に開始された造替は、秋元但馬守泰朝を造営奉行とし、建築の総指揮をとったのは幕府作事方の大棟梁、甲良豊後守宗広であった。甲良氏は近江の出身で、建仁寺流を名のり、平内氏とならんで、江戸時代を通じて幕府作事方大棟梁の地位にあった。なお、一族の古い作品として、近江の油日神社楼門が現存している。寛永造替の東照宮では、それまでの和様と違い、禅宗様を基調として統一をはかり、これまでの大社や古社の本殿ではみられぬ様式で、このような発想自体、当時としては異例のものであったとみられる。それが大きな抵抗もなく受け入れられたのは、日光が男女山の山岳信仰の霊場、すなわち神仏混交の地であったからであろう。 

   東照宮の構成は、その基本的な社殿の形式を、すでに平安末期に成立した北野神社に負っており、その全体構成は、豊臣秀吉をまつる豊国廟を強く意識して成立したものとみられる。

    東照宮の鎮座する恒例山は、円錐形の神奈備山で、本社の位置には、かつて二荒山神社(現在、東照宮の地主神)がまつられ、三神庫付近には常行堂や法華寺などが存在した。寛永造替の附属社殿の数は、創建時のものより圧倒的に多くなっているが、種類においてはほぼ同じで、神與舎が新しくあらわれるのみである。

    表参道の大鳥居をすぎ、表門をくぐると、東照宮の空間が巧みに展開する。東照宮の中核は、本社と奥社であるが、本社にいたる空間の構成は、石垣でかこまれた表門前の広場(千人枡形)、それより斜路をもって水盤舎にいたる空間、銅鳥居より陽明門にかけて、階段によって高まりをみせながら展開する対照的な空間、陽明門をくぐり、唐門・透塀など本社の正面を広くみせた前庭、そして透塀でかこまれる奥の本社の一郭があり、深い緑にしげる杉木立を背景に鎮座する。

   このように、建物の種類や空間構成をみると、寛永造替の東照宮は、それまでの霊廟の附属社殿を、大規模な計画によって再構成し、またその配置方法に巧みな創意と工夫をこらしたものとみることができる。その後の全国の神社や寺院に与えた影響には、いろいろな意味でいちじるしいものがあった。

    徳川家康の家臣・松平正綱(1576-1648)は慶安元年(1648)、20年をかけて日光東照宮への参道に杉を植林した。日光街道の日光から今市間の8.5キロ、御成街道の今市から大沢間の10.7キロ、会津街道の今市から大桑間の3.9キロ、例幣使街道の今市から小倉間の13.9キロ、計37キロにわたり、約13,700本の日光杉並木が現存している。3つの街道を合わせて「日光杉並木街道」と呼んでいる。(参考文献:「名宝日本の美術31」小学館)

2025年4月16日 (水)

鹿苑寺

    1397年のこの日、足利義満の北山別荘の上棟式が行われた。通称は金閣寺と呼ばれるが、正式名称は鹿苑寺。芥川賞作家の綿矢りさは数年前から京都に住んでいる。お奨めスポットはどこか、と訊かれたら「金閣寺です」という答えだった。「愛読書は?」と訊くと、「風と共に去りぬと太宰治です」と。あくまで自然流の女性である。(4月16日)

 

 

少年よ、大志を抱け

Thumb5    1877年のこの日、札幌農学校のクラーク博士(1826-1877)が帰国の途につく。 開拓使は北海道開拓のための教育機関の設置を図り、アメリカの農務局長H・ケプロンの建言によって明治5年東京芝増上寺内に開拓使仮学校を開き、ついで女学校を設置した。明治8年、これを札幌に移して札幌学校と改称(女学校も移したが、翌年廃止)、さらに規模を拡大して高等農学校とするにあたり、アメリカ駐在の吉田清成公使に委嘱してアメリカのマサチューセッツ農科大学校長クラークを招き、彼は明治9年来日した。ただちにクラークが教頭に就任、校制を編成し、同年8月開校、翌月札幌農学校と改称した。生徒は卒業後5ヵ年間開拓使に奉職する規定とし、学科も広範であった。教師はアメリカ人が多くアメリカ式教育が施された。クラークのキリスト教に基づく人格教育は独特な学風を作り出し、アメリカ式の牧畜経営の理論と実際を教授し、植物採集実験に生徒と行動をともにし、実業教育に成果があった。クラークは、わずか1年たらずの在任期間に、生徒の信頼を集め、多方面にわたって有為な人材を送り出した。佐藤昌介などは直接の、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾、佐久間信恭などは間接の弟子である。なお、名言「少年よ、大志を抱け」 Boys,be  ambitious は、クラークがかの島松の駅頭、学生たちに馬上より送った言葉である。クラークは帰国後、大学辞任後鉱山業に関係したが、失敗したという。クラークが日本に残したものの一つに学校運動会がある。ルーツは明治11年5月25日、クラークが提唱した札幌農学校で開催された遊戯会であるといわれている。ちなみに日本最初の運動会は明治7年3月21日、築地の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で運動会「競闘遊技会」が開催された。( keyword;William Smith Clark 、4月16日)

2025年4月15日 (火)

グレタ・ガルボ忌

  1990年のこの日、グレタ・ガルボ(1905年生まれ)が84歳で死去した。きら星のごとく女神がひしめくハリウッドにあって、最高に美しく輝くスターは、おそらくグレタ・ガルボであろう。映画史上もっともフォトジェニックな面立ちといわれるガルボの写真を何枚も見比べてみても、彼女の変幻自在な表情のため同一人物とは思われないほどである。と、言っても彼女につけられた渾名は「スウェーデンの美のスフィンクス」である。エキゾチックでミステリアスではあるが、図体がでかく、無表情で無愛想、どこか得体の知れない女という嘲笑が込められている。「変幻自在な無表情」「無個性で個性的」な顔立ちに神秘性を感じ、美の女神として崇め、ひれ伏したのであろうか。その謎を解くカギは、やはり「笑わない」ということであろう。ほとんどの女優は笑顔をチャーム・ポイントにするであろう。ところがガルボは、眉をひそめて不快そうな顔をしていても美しかった。否、怒ったときの顔が一番美しいという人もいる。1941年、36歳で引退した。ガルボの人気はアメリカよりも海外で高かった。第二次世界大戦によって映画の海外配給が無くなったことも引退を早めた理由の一つである。映画「グレタ・ガルボのすべて」(2006年)には1949年のカメラテストの映像が紹介されている。戦後、映画復帰を目指したこともあったが、結局、映画に出演することは一度もなかった。グレタ・ガルボとマレーネ・ディートリッヒはよく比較されることが多い。映画デビューはともに1922年だが、ガルボのほうが4歳年下である。(4月15日)

 

 

2025年4月14日 (月)

リンカーン「死の枕」

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  1865年のこの日、第16代大統領エイブラハム・リンカーンはフォード劇場でジョン・ウィルクス・ブースに暗殺された。直後、通りの向かいのピーターセンハウスに運ばれ手当てをうけたが、しばらく昏睡の後、翌日、午前7時21分に亡くなった。そのときリンカーンが使用した枕が展示されている。(Abraham Lincoln,Petersen House,pillow、4月14日)

タイタニック号、沈没事故(1912年)

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  イギリスのホワイト・スター社の豪華客船タイタニック号が、1912年4月11日、ニューヨークまでの処女航海にイギリス・サウサンプトンから出航。4日後の14日、午後11時45分、ニューファンドランド島沖で氷山に衝突し、翌日未明、沈没した。 タイタニック号の沈没は、世界大戦を除けば、20世紀の最大の悲劇の1つである。エドワード・ジョン・スミス船長(1850-1912)は非常信号CQDを、ついでSOSの発信を命ずる。救命ボートは、乗員乗客2208人に対して、半数分しかなかったので、婦人と子供だけにボートに乗ることが許された。やがてSOSを受信したカーパチア号が現場に到着したが、同船が救助したのは695人、結局1513人が死亡した。タイタニック号の事故原因は、氷山との衝突ではなく、石炭庫に積載された石炭火災で出港前から発生していたとする説がある。火災により隔壁の強度が低下し、浸水開始から2時間で沈没した。( keyword;Titanic,Belfast,Southampton,Edward Jhon Smith、4月14日 )

2025年4月13日 (日)

巌流島の決闘

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 江戸時代の絵では武蔵のほうが若く描かれている

   宮本武蔵と佐々木小次郎が長門の船島で試合した巌流島の決闘は時代劇などで広く知られ、名高い武術の試合である。ところが手元の日本史年表などで調べると、巌流島の決闘は載っていないことが多い。(「日本史年表・地図」(吉川弘文館)「コンサイス世界年表」(三省堂) )これは 信頼できる史料が乏しいことによるものである。決闘の期日も慶長17年説、慶長19年説など諸説ある。「二天記」には「慶長十七年四月」と記されているので、慶長17年(1612年)4月13日とするのが一般的である。巌流を俗に佐々木小次郎と当てているが、これも後年の芝居で名づけられたもので根拠はない。中条流富田勢源の弟子であったことから武蔵よりだいぶんと高齢であったと考えられる。「沼田家記」によれば、武蔵の一撃で気を失った小次郎は、その後いったん目を覚ましたものの、巌流島に来ていた武蔵の弟子たちに寄ってたかって殺されたと記されている。このほかに、武蔵は決闘の時間に遅れず、小次郎の長い刀より長い刀を用いて勝利した説、弟子が倒した説、などなど諸説紛々たり。そもそも決闘が実際に行われていたかどうかすら疑わしい。漁業権をめぐる漁師たちの争いが武蔵・小次郎の決闘となったのではないかと専門家は語る。とかく伝説というものは、年代を経るにしたがって変貌していく。宮本武蔵は「五輪書」に人生に六十余度の勝負をして一度も負けなかったと記しているが、相手の中で大家といわれるものは吉岡一門だけで剣聖どころか田舎剣客にすぎない。講談や小説で武蔵はいちばんの剣豪にまつりあげられたといえる。

   このほか武蔵の伝記で関ヶ原合戦に初陣として参戦し負け組と伝わるが、福田正秀は武蔵西軍説を否定し、東軍黒田如水軍に父無二と共に「九州の関ヶ原」豊後合戦に出陣したことを論証している。

 

 

 

 

喫茶店の日

    歌人の穂村弘は言う。「カフェと古書店がある街は、良い街…」と。もともとヨーロッパにはタヴェルヌやキャバレのような酩酊の場所はあったが、覚醒作用の伴うコーヒーを飲む場所はなかった。イギリスのオックスフォードに最初のコーヒーハウスができたのは1650年のこと。ジェイコブスという。カフェは近代市民社会の発展と共に普及していった。日本で初めてのカフェは東京上野下谷に明治21年4月13日、「可否茶館」が開業した。鄭永慶(18859-1895)という中国名前だが日本人。洋館2階建てで、新聞・雑誌を置いて閲覧させ、ビリヤード場、トランプ、クリケット、碁、将棋、図書室などが設けられていた。コーヒー1杯が1銭5厘。しかし赤字続きで明治24年に倒産。翌年、鄭は西村鶴吉という名前で渡米し、シアトルで没する。明治34年ごろに新聞を閲覧させるミルクホールが出現する。昭和9年「喫茶店」が急増し、学生や文化人が愛用するようになった。そのころ東京に喫茶店は1万5000店を数えたという。

 喫茶店といえば名古屋。名古屋には喫茶店が多く、地元の人はもちろん観光客からも愛されているお店があります。なぜ名古屋には喫茶店が多いのでしようか?歴史的に考えると、尾張地方は江戸時代からお茶を楽しむ茶の湯文化がありました。庶民の間でもお茶をたしなむ習慣があったため、喫茶店文化も自然に受け入れられ、発展していきました。この「おもてなしの心」が、モーニングといったサービスにもつながった考えられています(4月13日)

 

 

2025年4月12日 (土)

パンの日

Img_0735_3  「パンさえあれば、たいていの悲しみには堪えられる」セルバンテス

 

 コメ価格高騰で、主食をパンに切り替える家庭が増えている。本日は「パンの日」。 日本語パン pan は、ポルトガル語 pao から来ている。1600年ごろ、長崎に来たポルトガル人が、その製法を教えたのである。ところが、日本は米、大麦、アワ、ヒエなどを、粒のままで煮て食べる粒食民族だったため、小麦粉で作るパンは、あまり口にあわなかったとみえ、それほど普及しなかった。   天保12年のこの日、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門が軍用携帯食糧として乾パンを作った。これが日本で初めて焼かれたパンと言われている。昭和58年、パン食普及協議会が制定。明治になっても、どちらかというと菓子パンとして発達したのがパンの歴史である。アンパンを発明したり、ジャムパンやクリームパンなどがさかんに作られ、おやつがわりとして食べられていた。

Img_3939    日本の家庭でパンを食べるようになったのは、1900年以降で、文化人が好んで洋食として取り入れたからである。志賀直哉は大正時代末期からすでにパン、バター、牛乳という朝食スタイルだった。一般大衆がパン食になるのは、学校給食が普及した戦後からである。今では、あんパン、ジャムパンといった菓子パンからホットドック、クロワッサンやマカロンといったスイーツの種類も豊富になった。最近は炭火であぶったチョリソーを、半分に切ったフランスパンにソーセージをはさんだアルゼンチンのチョリパンが日本でも食べられる。

 

1egyptbreadmakinggranger     世界でパンを初めて食べだしたのは古代エジプト人である。6000年前ナイル流域に定着しだしたころから、ひたすらパンを主食にしてきた。パンつくりは女の仕事で、そのころ「パンをふくらます技術」は秘中の秘としてエジプト人の間に守られていたが、イオニアを経てギリシアへ、さらにローマへ伝わった。ローマ時代にはパン屋やパンの工場もできていたことが、ポンペイの遺跡発掘で、わかっている。その後、ルネサンスの勃興とともにその技術は向上し各国に広まったが、フランスにおいて特に著しい発達を遂げた。一方、イギリスには古代ローマから伝えられたものが山高の独自の形態を生み出し、現在のアメリカのパンの元祖となり、中央アジアに始まるライ麦パンはロシア・ドイツなどで発展した。(choripan) 4月12日

 

テレビを楽しむ。でも見過ぎは要注意!!

   テレビ放送が始まって70年が過ぎた。1日のテレビの視聴時間は総務省の調査によれば平日3時間強、休日3時間半、高齢者ほど長い傾向にある(2020年国民生活時間調査)。オーストラリアのクイーンズランド大学の研究によると、「テレビを1日1時間見る生活を続けた場合、早死のリスクが8%高まる」。つまりテレビを1時間見ると寿命を22分縮めるという結果が出された。また英国の調査によると、「1日に3.5時間以上テレビ視聴で6年後に記憶力低下におちいる」テレビの見過ぎは要注意だ。

 日本では1953年2月にNHK、同年9月に民放放送の日本テレビが開局し、本格的なテレビ放送がはじまった。といっても初期のテレビは番組制作力が足らず、アメリカの人気番組を吹き替え放送で流していた。やがて古い名作映画もテレビで見れるようになると、テレビの受信契約数は増えて行った。

「こんなにテレビばっかり見ていると、ばかになっちゃう」。英語で表現すると。

If I keep watching so much TV,I'll turn into a zombie.「ばか」は「zombie(魂の抜けたような状態にある人)」

   といっても、地上波、BS、CS、4K、スカパー、ケーブルTV全91チャンネルのほかにも配信ドラマ、Tver,Amazonプライムビデオ・U-NEXT・Huluなどによるインターネットの動画配信サービスでお好みの番組が視聴可能なので、見逃すのももったいない。毎日テレビを見続けても、制作された番組や映画の1%も見ることはできない。いまや半数以上の人は倍速で視聴しているが、鑑賞した感じがしない。面白いものだけを選んで見るのが賢明である。テレビやインターネットは功罪半ばする機器である。テレビを見ながら食事をするのはマナー違反という意見もある。しかしある調査によると、「テレビを見ながら食事をするほうだ」と答えた人は、全体で71.3%という高い結果が出ていた。情報収集に活用したり、娯楽・リクレーションとして使う。最近の調査によると、「家にテレビはない」という子どもは国語力が低いという結果もでている。

 広瀬アリス主演の学園ドラマ「なんで私が神説教」初回放送、イジメに真っ向立ち向かう新任教師・麗美静に喝采。オークラの脚本もよい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年4月11日 (金)

愛煙家・毛沢東と鄧小平

Photo_3   毛沢東は酒を飲まなかったがタバコを嗜んだ。1日あたり50本から60本のタバコを吸っていた。鄧小平は酒もタバコも嗜んだ。鄧小平は率直な発言で人々から愛された政治家である。今日の中国の経済発展は鄧小平の先見の明なくしてはありえない。彼は1日何百本のタバコを吸っていた。93歳まで生きたが「私がこんなに長生きしたのはタバコを吸ったお陰だ」と言っている。もちろん彼が吸っていたのは専用の高級タバコ。上海で製造される「熊猫香烟」(Panda cigarettes)。1956年から今も作られているが、1箱300元(4500円)と高い。

毛沢東死後、中国のトップは華国鋒であったが、1978年に鄧小平によって失脚させられた。鄧小平は、中国の事実上の最高指導者となり、開放政策をすすめた。1982年国家主席制の復活に伴い、李先念が第三代国家主席に選出された。以降、楊尚昆、江沢民、胡錦涛、習近平へと続く。

 

 

地球一周は4万キロ

Eratosthenesmap   本日はメートル法公布記念日。1921年のこの日、改正度量衡法が公布され、法律でメートル法を採用することが定められた。

 フランス語「メートル」(metro)は古代ギリシア語「メトロール」(ものさし、測ることの意)からの造語である。もともと子午線上の北極から赤道までを1万キロと決めて、1000万分の1の長さが1メートルとなった。1791年にラヴォアジエなど学者らが検討し、1795年フランス科学アカデミーで決められたが、「メートル」はすぐには普及しなかった。1837年にメートル法以外の単位使用を禁じ、1875年メートル条約が締結された。

   むかし古代アレクサンドリアの学者エラトステネスは太陽の角度から地球の大きさを推定した。彼の計算では、

5000スタディオン×(360度÷7度12分)=2500000スタディオン。

   1スタディウスは178mと推定されているので、44500㎞になる。本当の地球の全周は4万キロなので1割程大きいだけである。エラトステネスは実測困難な対象も、幾何学の応用で、地球の近似値を測定したのである。

   ところで地球一周、つまり赤道の全周は約4万キロだが、もっと正確な数値はあるのだろうか。かつての地理の参考書には、赤道の全周40076、5938㎞という数字が載せられていた。これはヘイフォード楕円体で推計した地球恒数のひとつである。アメリカの測地学者ジョン・フィルモア・ヘイフォード(1868-1925)が1909年に提案した準拠楕円体で、1924年にスペイン・マドリードで開かれた国際測地学・地球物理学連合総会によって世界的に認められた。現在は赤道の周囲は40075.017㎞とされている。現在、1メートルの定義は1983年に「光が299792458分の1秒間に進む距離」とされている。( keyword;Eratosthenes,Alexandria,Syena,metre,Lavoisier 、4月11日)

ガッツポーズの起源

Photo_10  喜びと悲しみ、愛着と嫌悪、幸福と不幸、成功と失敗など、人は様々な感情の状態をもち、快をもとめて不快をさけようとする。身体に表出される感情の変化は恥ずかしい時に赤面し、恐れた時に蒼白になるなど、自律神経系の働きによる表出にはじまり、意志的な支配する姿勢・ポーズにいたるまで、他から認知されうる種々の変化として捉えられる。

    スポーツでの喜びのポーズといえば、野球でみられるハイ・タッチ、サッカーではトンボ返りをしたり、飛び上がって喜ぶものもいる。なかでもガッツポーズは勝利を意味する最高の決めポーズである。こうした人間のもつ喜怒哀楽の感情を身体動作で全身を使って観衆にアピールすることは多くのスポーツで許されている。ただし日本での柔道、剣道、空手などの武道では禁じられている。相撲も当然のこと禁じられている。かつて朝青龍が勝ち名乗りを受けた後、土俵上で両手を突き上げた。これがガッツポーズであるのか、「ばんざい」なのか意見の分かれるところだが、内館牧子は「絶対にいけない」と批判し、鶴田卓彦は「わたし個人としては違和感がなかった」として意見が分かれた。ガッツポーズが相撲の品格を落すものという強い姿勢を示さないと、他のスポーツのように派手なアクションが次々と出て「スモウレスリング」となるであろう。また野球界でも「ガッツポーズは相手に失礼」という不文律がある。大リーグではホームランを打った後の派手なガッツポーズ等は行ってはいけない行為とされている。高校野球でもガッツポーズなどのパフォーマンスは禁止されている。

Imagecaxc11iy   ところがテニスとか卓球とか小さい球の競技は、一球ごとに必ず拳を握りしめる。福原愛は「サーッ!」と掛け声でガッツポーズを連発。スポーツによって考え方が違うようである。本日は「ガッツポーズの日」。1974年のこの日、ガッツ石松がボクシングWBCライト級タイトルマッチでチャンピオンのロドルフォ・ゴンザレスにKO勝ちした。この時両手を挙げて喜びを表わした姿を新聞記者の柏英樹が「ガッツポーズ」と表現したのが、ガッツポーズが広まるきっかけとなった、と巷間では言われているが、これは正確ではない。「勇気、気力、根性」という意味で外来語「ガッツ」が使われだしたのは1964年の東京オリンピック以降で、1970年ころには和製英語「ガッツポーズ」は既にボウリング界などで一般的に使われていた。1972年11月30日発行のボウリング雑誌「週刊ガッツボウル」が、ストライクを取った時のポーズをガッツポーズと言っている。(4月11日)

 

 

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  日本でガッツポーズが生まれたのは、昭和30年代の「鉄人28号」「鉄腕アトム」らヒーローたちの決めポーズの影響が大きいと思われる。

 

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2025年4月10日 (木)

ルイ3世(西フランク王)

  879年のこの日、ルイ3世は父王ルイ2世の崩御をうけ、弟カルロマン2世とともに西フランク国の王位に就く。フランク王国はカール大帝の死後、3分割されたが、西フランク王国(のちのフランス王国)は、シャルル2世、ルイ2世と継いだ。ルイ3世は882年、狩猟中に事故で崩御。カルロマン2世も2年後に事故死する。(4月10日)

 

2025年4月 9日 (水)

奴隷解放宣言(1862年)

    1861年4月、南部軍のサムター要塞に対する攻撃をもって南北戦争の火ぶたが切られた。経済力の点では北部は圧倒的に優勢だったが、南部にはリーのような有能な将軍がいて、戦争の前半は南部に有利に展開した。しかし戦局が北軍の優勢に転じ始めるのは、1862年9月のアンティタムの戦いころからである。1863年7月1~3日ゲティスバーク会戦で北軍は勝利した。そのころすでにミシシッピー川は全域にわたって北軍に制圧され、シャーマン将軍はアトランタからジョージア州の海岸部に向かって徹底的な破壊作戦を行ない、さらにカロライナへ北上した。一方、引き続く激戦の背後では、南北ともに慎重な外交戦略を展開していた。南部連合にとってはヨーロッパ、とくにイギリスに南部独立を承認させることに、連邦にとってはそれを阻止することが、外交の優先課題だった。1862年9月、イギリスが南部承認の気配をみせると、9月22日、リンカーンは軍総司令部の権限で1863年1月1日を期し占領地域の奴隷を解放する「奴隷解放予備宣言」を発した。リンカーンのこの卓越した政治行動によって、イギリスその他のヨーロッパ諸国の南部承認は中止となった。1865年4月9日、グラント将軍に追われたリー将軍とその軍隊は、バージニア州アポマトックスで降伏、南北戦争はここに事実上終了した。リンカーンがフォード劇場で暗殺者ジョン・ウィルクス・ブースに撃たれたのは4月14日である。リンカーンの死は殉教としてとらえられ、「キリストは人間を尊いものとするために死に、リンカーンは人間を自由にするために死んだ」、あるいは「イエス・キリストは世界のために死に、エイブラハム・リンカーンはかれの国のために死んだ」という言葉が語られ、リンカーンはアメリカ最高の偉人として伝説化されていった。(9月22日)

2025年4月 8日 (火)

春秋の五覇

五覇 周初1000余国あったと伝えられた諸国も春秋初めは140余国となり、魯、衛、晋、鄭、曹、蔡、燕、斉、宋、陳、楚、秦の12国と周と呉をくわえた14国が「史記」十二諸侯年表には記されている。その他に杞憂(キ)、薜(セツ)、虢(カク)、刑(ケイ)、邾(シュ)などがあった。この中から「春秋の五覇」といわれる覇者が出現した。5という数は後世五行思想に基づくもので実数ではない。斉桓公、晋文公、楚荘王、呉闔閭、越勾践(荀子の王覇篇の説)や斉桓公、晋文公、宋襄公、秦穆公、楚荘王(西漢の趙岐の孟子の注の説)がある。五覇のなかでも呉越の争いは有名である。呉王闔閭は、越王勾践に撃破され、その折の矢傷がもとで死ぬ。臨終に際し息子の夫差に、「必ず越に復讐して余の無念を晴らせ」と遺命した。父の後を継いで呉王となった夫差は、夜ごと薪の上に臥して、復讐の心を研ぎすました。こうして会稽山の戦いに越を破った。敗れた勾践は、常にかたわらに肝をおき、飲食にこれを嘗め、その苦い味をかみしめては、復讐の念をつのらせた。数年後、勾践は呉を攻めて夫差ほ破った。勾践は、准河を渡り、斉・晋の諸侯と徐州に会し、呉に代わって天下の覇者となつた。

晋の滅亡 晋では晋侯の実権が衰え、実力者であった知伯が趙を攻め、晋陽の戦いがおこった(前455)。3年続いた戦いにより、知伯は敗れ、晋の領土は趙、韓、魏によって三分された。(前453)

   それから50年ほどしての前403年に周王朝から趙・韓・魏が正式に諸侯としての称号を賜ったので、一般にはこの年をもって戦国時代の始まりとする。

ピカソはなぜいつも横縞シャツを着ているのか?

P_picasso2   画家パブロ・ルイス・イ・ピカソは1881年10月25日スペイン南部の港町マラガに生れた(プラサ・デ・ラ・メルセド36番地)。父ドン・ホセ・ルイス・ブラスコはマラガ州立サン・テルモ工芸学校の図画教師、母マリア・ピカソ・ロペスはアンダルシア出身。したがってパブロ・ルイス・ピカソがスペインの通常の呼び名であるが、父の姓ルイスはアンダルシアではよくある姓なので、1901年以降は署名から削って「パブロ・ピカソ」(Pablo Picasso)としている。ネットでもピカソの本名が長いことが話題になっている。マラガ市役所にある出生届には「 Pablo Diego  Jose Francisco de Paula Juan Nepomuceno Maria de los Remedios Cipriano de la Santisima Trinidad Ruiz y Picasso 」(パブロ、ディエゴ、ホセ、フランシスコ、デ、パクラ、ファン、ネポムセーノ、マリア、デ、ロス、レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、デ、ラ、サンティシマ、トリニダード、ルイス、イ、ピカソ)と書かれている。スペインでは名前の長さは家柄が古くて由緒正しいものであることを示している。また名前は長いほど幸福がやどると信じられてきた。パブロは一人息子で、美しい顔立ちのうえに早熟な才能に恵まれていたので、小さいころから愛情に慣れっこになり、これは生涯彼につきまとった。ピカソの写真を見ると多くは横縞のシャツを着ている。これは彼が港町マラガの生まれで生来、海が好きだからなのだろう。ピカソのポーターは「バスク」柄といわれるもの。バスク地方の漁師が仕事着として着ていたもので、バスク州ゲルニカがナチスに空爆されたことを忘れないという決意があるのであろう。1973年4月8日、南仏ムージャンの自宅で死去した。享年91歳。

 

 

 

 

 

灌仏会

 本日は「花まつり」。釈迦の誕生会の日に各宗寺院で行われるはなやかな行事。大阪の四天王寺の花祭はことに有名である。太子は誕生するとただちに六方にむかって、それぞれ七歩ふみだして「天上天下唯我独尊」ととなえたという。釈迦は現在のネパール国、ヒマラヤ山麓タラーイ地方のカビラヴァストゥで釈迦族の王子として生まれた。紀元前563年といわれるが、生没年には諸説ある。(4月8日)

 

2025年4月 6日 (日)

相原尚褧(あいはらなおぶみ)

   1882年4月6日岐阜遊説中の板垣退助を刺した暴漢。相原尚褧は愛知県東海市横須賀の小学校教員であり、東京日日新聞の保守主義に傾倒していた。そのため自由党を敵視しており、板垣の遊説を知ると、板垣の殺害を決意する。前日、自由党員に扮し、岐阜の玉井屋に泊まる。この時、殺害のために板垣との面会を試みたが断られる。そして翌日、犯行に及ぶ。傷は全身7ヵ所にも及んだが、いずれも致命傷にはいたらなかった。事件後、岐阜重罪裁判所で裁判を受ける。相原は無期懲役の判決を受けるが、1889年、大日本国憲法発布の恩赦で釈放される。釈放後、板垣の元に謝罪に訪れる。板垣は罪を許した。相原は北海道の殖民事業に携わるため北海道へ向かうが、その途上の船上で行方不明となる。自殺したとも、誤って海に転落したとも相原の背後にいた板垣襲撃を計画したものに殺害されたともいわれており、真相は不明である。

 

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板垣退助が刺された時の短刀(高知市立自由民権記念館)

 

 

地震のあとで

 土曜ドラマ「地震のあとで」1話。1995年1月。東京。自宅でニュースを見続けていた妻の未名が突然、家を出ていく。残された夫の小村は茫然自失のまま、謎の小包を届けるため釧路へ赴く。そこでケイコとシマオという名前の2人の女性と出会う。ラブホに留まりシマオと関係を持つ。未名は死んだのか、生きているのか?2人の女は宇宙人なのか?震災で亡くなった多くの人々の名前がニュースで告げられる。未名というのは「名前がまだ決まっていない、本当の名はあとでつける」と父が言っていたらしい。この世の人間の存在性が不確かなものではないだろうか。原作は村上春樹の短編小説。喪失を伴う奇妙で美しき世界を見事に映像化している。

 

板垣死すとも、自由は死せず

090607ep000 1882年のこの日、板垣退助は、岐阜で演説を行っての帰途に刺客に襲われた。そのときの名文句が「板垣死すとも、自由は死せず」である。はたしてこの言葉が板垣の口から出たものかどうか確証はないが、一説では司法官で歴史学者の尾佐竹猛(おさたけたけし)によったもの、あるいは犯人を取り押さえた内藤魯一(ないとうろいち)がいったもの、日本立憲政党新聞の記者・小室信介の創作説などと諸説ある。このとき板垣は死なず、本当に亡くなるのは事件から37年のちである。

   事件は午後6時すぎ、愛知県の士族相原尚褧(なおぶみ)が、演説を終えて会場の玄関から出てきた板垣を襲い、短刀で胸を刺した。板垣の受けた傷は、胸・頬・両手など合計7ヶ所であるが、いずれも致命傷にはいたらなかった。しかし板垣遭難の報は全国に飛び、各地の自由党員は手に手に刀や鉄砲を持って岐阜に駆けつけ、政府弾劾の声をあげた。こうして板垣は、自由主義の英雄となった。現在遭難の地・岐阜公園内に建てられた板垣退助の銅像がある。(4月6日)

2025年4月 5日 (土)

イースター島の発見(1722年)

  探検家ヤーコプ・ロッへフェーン(1659-1729)はオランダのミデルブルフに生まれた。1683年、公証人となる。1690年、ハルデルワイク大学で法律を修め、1707年から1714年までバダビアで裁判官となる。1715年、帰国。のち海軍提督となり1721年から1722年、オランダからホーン岬経由で太平洋へはいる。ファン・フェルナンデス諸島に立ち寄り、さらに航海を続け、1722年4月5日、イースター(キリスト復活祭)の日に、小さな島を発見する。海岸にそって煙が立ちのぼり、遠くから緑なす丘が見える。ロッへフェーンは、この島にイースター島という名前をつけた。島のシンボルとなっている巨大な石造(モアイ像)に関して航海日誌にこう書いている。

「わたしたちはかれらが、建立したすばらしく高い石像のまえで、火をたくことに気づいた。そしてその後、像の足元に頭を下げてうずくまり、手のひらをあわせ、交互に上げたり下げたりすることも知った。大きな、あるいは太い木材もないのに、どうしてこんなものを立てることができたのか、わたしたちには理解できなかった」

    そのころはまだ島のモアイの半数ほどが、まだ直立していたとある。像の調査に関しては、後世の探検家たちに残されたのである。

    モアイ像の石切り場はラノララクにある。そこから80トンもあるモアイ像はどのようにして運搬したのであろうか?2011年、テリー・ハントとカール・リポはある学説を発表した。巨大なモアイ像はロープと人の力だけで左右に揺らし、直立で移動したという。この方法を実験によって証明した。18人で3方向からロープを引っ張ると、40分で100mの移動が可能であった。巨石像の遺跡のほかに、「ロンゴロンゴ」とよはせれる表意文字がのこされているが、いまだに解読されていない。

(Terry Hunt,Carl Lipo,Moai,Jacob Roggeveen,Easter Island )

宣教医ベッテルハイム

 弘化3年(1846年)のこの日、イギリス軍艦が琉球に来航した。この船にはハンガリー出身のイギリス宣教医バーナード・ジョン・ベッテルハイム(1811-1870)が乗船していた。彼は那覇の護国寺を拠点に8年間滞在し、キリスト教の伝道に勤めた。(4月5日)

 

 

大英博物館(歴史総合)

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 イギリスは産業革命の結果、工業化を達成し、海外市場を求めて国外進出を行い世界最大の植民地帝国を築いた。 ロンドンにある大英博物館はハンス・スローン卿の古美術品を中心として1753年4月5日に誕生し、国が買い上げ、1759年1月15日から一般にも開館した。7つの海に君臨した大帝国の象徴である。初代館長は著名なゴーウィン・ナイト(1713-1772)。現在、世界中からの観光客で毎日混雑している。古代からの世界の美術品を収集しており、その展示品の多さに圧倒されて、本当にじっくりと作品を鑑賞することはなかなかできない。古代文化の遺品ことに彫刻や原始民族の手になる芸術作品が多く、東洋の美術品も多い。19世紀から20世紀にかけてヨーロッパ人たちが学術調査探検隊と称して、世界各地から文物を盗み海外に持ち出した、不法流出品が多数ある。日本の古美術品も幕末から明治にかけて海外に流出された名品が多数あるだろう。これらの返還運動を政府や日本人団体が起こしている話はあまり聞かない。日本人は案外と古美術には関心がないのではないだろうか。最近、韓国の利川市で、植民地時代に日本が持ち出した石塔を返してほしいという署名運動が起こっているという報道があった。現在、東京都港区のホテルオークラ東京に隣接する大倉集古館が所蔵している五重の石塔(高麗時代初期)である。大倉喜八郎が1918年に日本に持ち出したとされる。同館では、要望には応じられないとしている。悩ましい問題である。

   思えば、中央アジア探検が一番盛んだったころ、へディン、スタイン、ぺリオ、ル・コック等のヨーロッパ人は多数の発掘品を本国に持ち帰っている。わが国の大谷探検隊も第3回のときに、橘瑞超、吉川小一郎によって敦煌千仏洞の仏教文物が日本に多数もたらされた。1900年、王道士によって第17窟とよばれる蔵経洞の宝庫が発見されるや、敦煌のその名は世界に知れ渡った。ロシアのオブルーチェス、イギリスのスタイン、フランスのぺリオ、ドイツのル・コック、グリュンヴェーデルなどがやってきて、貴重な古文書を運び去ってしまった。なかでも最も悪辣なのが、アメリカのラングドン・ウォーナー(Langdon Warner 1881-1955)である。1923年、莫高窟に来て価値ある経巻が残り少ないとみるや、唐代の美しい塑像や壁画を剥がして盗み去っている。彼は日本の文化財を空襲の対象から外すよう進言した人物とされるが、近年異論もある。

 大英博物館、正面入口からすぐ近くに古代エジプトの展示室がある。古代エジプト王国の偉大なファラオの1人、アメンホテプ3世の黒色御影石の座像が二体ある。大きい方の左足踵の後ろにベルゾーニという名前が刻まれている。このG・B・ベルゾーニは驚くべきイタリア人で、一時はロンドン各地の縁日で「力自慢」として生計を立てていたが、後に、エジプトの最重量級の彫刻数体を元々の建設地からロンドンへの船積み地点であるナイル河岸まで運ぶという大役を果たした人です。重さが7~8トンもある像ですから相当な偉業と言えるでしょう。古代エジプトでは「ファラオの呪い」というのがあったが、仏教の世界は慈悲と寛大なのか、盗掘者はなぜか長寿を全うし、自然死なのである。大英博物館のスタインの敦煌文書やパリのギメ美術館のぺリオの敦煌文書を見ると、流出文物問題は今世紀の美術館・博物館の課題となりそうだ。( keyword;British Museum,Hans Sloane,Gowin Knight )

小栗上野介忠順と群馬

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倉渕・水沼河原にある供養碑には「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」と刻まれている
 

 再来年放送のNHK大河ドラマ(2027年)は、小栗上野介忠順を主人公とした「逆賊の幕臣」に決まった。小栗はこれまでの大河ドラマにも何度か描かれており、例えば「青天を衝く」では武田真治が演じている。彼の近代化への功績は数多い。はじめてアメリカから軍艦を買い入れたのも、現在の横須賀の地に造船所と鉄工所を創設したのも、湯島鋳造所を改善して大砲や小銃、新兵器などの製造に力を尽くしたのもすべて小栗上野介の力である。また、フランス陸軍から教師を招来し、はじめてフランス式の強力な陸軍をつくりあげた。また日本における徴兵制度の基礎ともいうべき「賦兵の制」をつくり、洋式訓練を行ったのも彼である。明治元年、岩倉具定から上野介追捕令が出され、5月27日、権田村鳥川(群馬県高崎市倉渕)のほとりで斬首された。42歳の若さだった。赤城山麓には上野介が幕府の軍用金を埋めたといわれる伝説がいまも残る。(4月6日)

2025年4月 4日 (金)

バーナードの組織の3要素

 米国経営学者のチェスター・バーナードが1938年に著書「経営者の役割」の中で提唱された。組織が成立するための必要条件としてコミュニケーション、貢献意欲、共通目的の3つの要素が必要不可欠であり、どれか一つでも欠けている場合は、組織は不完全であり機能しなくなる。

 

 

2025年4月 3日 (木)

エドワード懺悔王の戴冠式 (1043年)

 1043年のこの日、エドワード懺悔王がウィンチェスター寺院で戴冠した。王は信仰心に篤く、ウェストミンスター寺院を建て替えたりするなど、のちに聖人に列せられた。しかし政治的には無能で、ゲルマン民族アングロ・サクソン部族系のウェセックス王家の娘と結婚したものの、ノルマン人を重用したため、義父ゴドゥィンと対立した。懺悔王の死後、ハロルド2世が即位するが、ヘイスティングスの戦いでハロルド2世が戦死し、ノルマンディー公ギヨ―ム2世によってノルマン・コンクエストが確立する。(4月3日)

世界の中心で、愛をさけぶ

  「世界の中心で、愛をさけぶ」は、2001年4月20日発行の片山恭一のベストセラー小説である。巷説では、紫咲コウの本の帯にある「泣きながら一気に読みました」というコピーが若者たちにブームの火をつけたといわれている。ただ小説の評価としては、初恋の相手が白血病で死ぬというベタな話が「あまりに通俗的」(朝日新聞2003.12.3記事)であり、斉藤美奈子も香山リカら評論家(?)の意見も若者たちは経験が少ないので陳腐な内容であってもそれを新鮮に感じるという程度の評価であった。ところで紫咲コウのコピーの元ネタは雑誌「ダ・ヴィンチ」のインタビュー記事である。「『世界の中心で、愛をさけぶ』は、久々に純粋に物語として楽しめた作品。本屋さんでみつけて、たまには恋愛ものもいいかなと思って。(笑)これは、泣きながら一気に読みました。それに、全体にユーモアもあって、ちょっとしたひとことも面白いんですよ」とある。

   斉藤美奈子や香山リカには、理解できない、あるいは感じとれない部分を紫咲コウは楽しんで読み取っていたようだ。そのベストセラーの謎をライターズ・ジム(見崎鉄)は「謎解き世界の中心で、愛をさけぶ」という本で丹念な作品研究をしていて面白い。単なる便乗本ではない。とりあえず今回はヒロインの広瀬アキを中心にまだ小説を読んでないかたのために紹介しよう。

広瀬アキのプロフィール 風の谷のナウシカに似ている。性格は明るく勉強もできるために男子に人気がある。中学2年で同じクラスになる前からアキは朔太郎(小説の主人公)のことを見ており、彼の音楽の趣味(ロック)も知っていた。だが自分はロックは苦手で聞かない。また、音楽の授業で歌を歌わされたとき声が小さくて恥をかいたことがある。音痴なのかもしれない。小さいころから、ほとんど風邪もひいたことがなかったのに白血病で夭折する。

名前の謎 朔太郎は、つきあって4年近くもたつのに、アキの本名を季節の「秋」だと思っていた。それが間違いだということをアキの死の数日前に知る。本当の名前は「廣瀬亜紀」が正しい。また、彼女自身も自分の名前を「アキ」と片仮名で書いていた。その理由をアキの母は「面倒くさがり屋なのよ」と言っていた。この自分の名前に対する無頓着さを見崎鉄は次のように分析している。

   つまり「廣瀬亜紀」を「広瀬アキ」と簡略化して書くことに、どういう意味があるのでしょうか。普通、人は「広瀬」が「廣瀬」であることに特別さを見出し、面倒くさくても「廣瀬」と書くものではないでしようか。とくに名前にアイデンティティを託している人はそうですし、女性のほうが姓名判断などの占いを信じる傾向が強いから、なるべく正確に書こうとするものです。アキはこの点で変わっています。アキが漢字で「亜紀」と書かなかったために、名前のもつ呪術効果、つまり父親の願いである「白亜紀のように生命が栄えること」が発揮されなかつたのかもしれません。しかし「廣瀬亜紀」という文字はいかにも重い感じがすることも事実です。アキは自分の名前を「広瀬アキ」と書くことによって、両親の託した思いと表意文字としての漢字の二重の重みから自分を解き放ち軽くなりたかったのかもしれません。では、なぜ平仮名で「あき」とせずに片仮名で「アキ」としたのでしょうか。それは片仮名にしたほうが、「本当は漢字の名前だけど省略して片仮名で書いている」という「省略している」感じがよく伝わるからです。平仮名で「あき」と書いてしまうと、それが本当の記名だと誤解されてしまいますが、片仮名のほうがその可能性が少ないと言えます。また、小説として読むときも、平仮名で「あき」という名前でしたら地の文に埋もれて非常に読みにくくなりますが、片仮名でしたら名前がパッと目に入ってきます。アキが名前に頓着しないたちであることをよくあらわしているのが、朔太郎の呼び方です。「朔太郎」という時代がかった名前を大胆に省略して「朔ちゃん」にしてしまいます。アキの頭の中ではたぶん、もっと簡単に「サクちゃん」となっていたことでしょう。アキの名前に対する無頓着さは、彼女がおおざっぱな性格であることを表わしています。アキが深刻にならないことでこの小説は暗さから救われています。

   紫咲コウが指摘する「全体にユーモアがあって」と見崎鉄のいう「アキが深刻にならないことで小説は暗さから救われている」とは共通するものがある。容姿はナウシカに似た少女、透明感(実在感の希薄性)、無頓着さと明るさ、これらヒロイン広瀬アキの性格をうまく表出できたことが成功の要因の一つと考えられる。

 なお映画化に際しては片山恭一の小説では説明不足な部分があるので、脚本家が17年後の朔太郎と藤村律子との結婚を基本にオーストラリアのアキの遺灰をまくというラストシーンを加筆した。律子は当時9歳で、母親が亜紀と同じ病院に入院していて、2人は知り合いになった。手品を教えてもらうかわりに、亜紀の声を録音したテープを高校の下駄箱に入れる約束をした。しかし最後のテープだけは交通事故に遭い渡せなかった。結婚を前に控えて幼少期に育った四国の町へ赴いた。そこである真実にたどり着く。死んだ亜紀のことが忘れられない朔太郎と一緒にオーストラリアへ行って遺灰をまいて、「二人で世界の中心をつくろう」と誓う。ドラマは綾瀬はるか、山田孝之でこれも大ヒットした。

余談ながら、「萩原朔太郎」と「白亜紀」は百科辞典の項目では、五十音順のため、ほとんど同じページに並んでいるのも面白い偶然である。

 

 

2025年4月 2日 (水)

小渕恵三急死(2000年)

   小渕恵三は今でも国民に愛される政治家の1人である。それはこんな有名な逸話によるからだろう。就任するやニューヨーク・タイムズ紙に「何をしても食べられない冷めたピザのような人」と紹介された。つまり「冷めたピザほどの魅力しかない」という意味である。普通ならば一国の首相に対して友好国のアメリカがあまりに無礼であると怒るところであるが、小渕はピザを用意して記者たちに振舞いながら「冷めたピザでも食べてみればなかなか味わいがあるんだよ」といった。そしてピザを手にして微笑む小渕の写真がタイム誌1998年10月5日号の表紙を飾った。人柄の小渕の面目躍如たる逸話である。逆にそのユーモアが日本では大うけして人気が高まった。

    この年、流行ったものが「バイアグラ」。それまでED治療薬はヤミで1錠1万から5万円くらいだった。ようやく厚生労働省が翌年に認可して、1錠当たり1500円から2000円くらいなった。副作用があるので、まだ市販薬は存在せず、医師の処方箋がないと購入できない薬である。

   ところで小渕首相は2000年4月2日、脳梗塞で順天堂大学医院に緊急入院、意識不明になった。そして5月14日、急死した。まだ62歳という若さだった。同年6月、竹下登(76)も死去。

 




 

 

 

 

人名エポニム研究

Mainimg 1895年のこの日、ドイツの物理学者レントゲンはX線を発見した。X線は体の内部の様子を撮影することができるので、発見者の名前を使って「レントゲン撮影」と呼ばれる。たとえば、パンなどに肉や野菜等の具を挟んだサンドイッチがイギリスの貴族、第4代サンドイッチ伯爵ジョン・モンタギュー(1718-1792)に由来している話は有名だが、このようにすでに存在する物の名前を使って命名された新しい物の名前をエポニムという。賭博好きのサンドイッチ伯爵はトーストにコールドビーフをはさんで、食事をしながら賭博をできるよう工夫した。これがサンドイッチの始まりである。

建築
このほか考案者の名前が命名されたものに立体パズル、ルービックキューブがある。ハンガリーの建築家エルノー・ルービックは、川の流れる様子から発明のヒントを得て作られたという。もっとも代表的な人名エポニムの一つにエッフェル塔がある。この世界一のノッポの塔を設計したアレクサンドル・エッフェルの身長は152㎝と小柄であった。

社会
競馬のダービーとは、1780年英国のダービー伯が、エプソムの競馬に多額の賞金をかけたのがはじまりという。フランスの要塞マジノ線は国防相アンドレ・マジノにちなむ。ナウマン象はハインリッヒ・ナウマンというドイツの地質学者に由来する。回転連発銃はその発明者ガトリングに由来する。女性の外部生殖器「バルトリン腺」。デンマークの解剖学者カスパール・バルトリヌス(1655-1738)に由来する人名エポニム。団結して排斥することを「ボイコット」というが、イギリスの横暴な大尉チャールズ・カニンガム・ボイコットの名前に由来している。ブーゲンビリアという花は探検家ブーガンヴィル(1729-1811)に因んでいる。19世紀のラッダイツ運動とネッド・ラッド。影絵のことを「シルエット」というが、フランスの大蔵大臣エティエンヌ・ド・シルエット(1709-1767)に由来する。彼は、倹約家で、肖像画を描かせるのに高価な絵の具は使わずに、黒一色のものにせよと主張し、輪郭だけの肖像画が流行したためシルエットの名前が使われた。

科学 ディーゼルエンジンは発明者のルドルフ・ディーゼルに因む。ハレー彗星は発見者エドモンド・ハレー、ハッブル宇宙望遠鏡は宇宙の膨張を発見したエドウィン・ハッブルに因んでいる。周波数の単位ヘルツや電気抵抗の単位オーム、温度の単位「華氏(ファーレンハイト)」、放射能の単位キュリー、放射線量の単位シーベルト、エビングハウス曲線、ドップラー効果、ラマン効果、モンロー効果、ゼーベック効果もみんな人名エポニム。

経済 株価指標「ダウ」チャールズ・ダウ

服飾 女学生がはくスポーツ用のブルマはアメリカの女性解放運動家アメリア・ジェンクス・ブルーマー(1818-1894)の名前に因んでいる。

音楽 ピアノの教則本バイエル。音楽家フェルディナント・バイエル。サクソフォン発明者アドルフ・サックス。ハモンドオルガン。

医学 X線の発見者レントゲン(1845-1923)、モールス信号のサミュエル・モールス(1791-1872)、鉛筆(コンテ)のニコラ・ジャック・コンテ、視力検査表ランドルト環のエドマンド・ランドルト(1846-1926)など。医学・疾病名には人名エポニムが多い。マルピーギ小体、パーキンソン病、ハンセン病、アルツハイマー病、ベーチェット病、メニエール病、レイノー病、アスペルガー症候群、ダウン症、バセドー病、ギラン・バレー症候群、サルモネラ菌など。ドルビー・サラウンド技術開発者レイ・ドルビー(1933-2013)。ゴルジ腱器官。バビンスキー反射。ラムゼイ・ハント症候群。

日本 川柳の柄井川柳、金時豆の坂田金時、隠元豆の隠元隆琦などが人名に由来する代表例である。ちなみに日本で溺死体のことを土佐衛門と呼んだり、馴れ合い勝負を八百長といったり、覗き魔のことを出歯亀といったりするのは、エポニムなのだろうか。ハヤシライスは丸善の創業者である早矢仕有的(はやし・ゆうてき)に由来する。歌舞伎の佐野川市松(1722-1762)は1741年「高野心中」で衣装に用いた、白と紺の袴の柄が人気をよび、「市松模様」と呼ばれるようになった。避妊法のオギノ式は産婦人科医荻野久作が考案。参考:「英語エポニム事典 人名をルーツにした英語」シリル・ビーチング著 法学書院 (11月8日)

 

 

悲劇のペイン・スチュワート

Photo_6    ゴルフの起源は古く15世紀にさかのぼれるが、競技としては、1744年のこの日、スコットランドでオープン競技が開催されたのが世界最初である。スコットランド人によってイギリス各地でゴルフが行われるようになって、1860年には全英オープンが開催される。1890年にはアメリカでも流行が始まり、1895年に第1回全米オープンゴルフが開かれた。ウィリー・アンダーソン、ボビー・ジョーンズ、ベン・ホーガン、アーノルド・パーマー、ジャック・ニクラウス、ゲーリー・プレーヤーなど名選手が現れ、ゴルフは世界的なスポーツとなった。

 

    1999年10月25日、ペイン・スチュワート(画像)は自家用ジェット機でトーナメント開催地に向かう途中墜落死した。全米オープン優勝からわずか4ヵ月後のことであった。トレードマークのタモ・シャンターの帽子とニッカー・ポッカー姿の人気者だった。タイガー・ウッズが初優勝するのは翌年のことである。(4月2日)

 

 

2025年4月 1日 (火)

「馬鹿」の語源

Img_0   相手をバカと罵るとき、漢字で馬と鹿を合わせて書く。この言葉の由来は諸説あり、真偽がはっきりしない。有名なのは、中国故事「鹿をさして馬となす 指鹿為馬」(史記秦始皇紀)の故事から出たとする説である。秦の二世皇帝胡亥は、趙高の計略で学問はさせられず、天下の快楽をつくして生涯を過ごした。あるとき、趙高は、皇帝に鹿を献じ、「馬を献上いたします」と言ったという。変なことを言うと思った皇帝は、左右の臣下に馬か鹿かと問いを発した。だまってしまう者、趙高におべっかを使って馬だという者、いや鹿だと直言する者、皇帝はわけがわからずにいる。しかし趙高は鹿だといった者を見覚えておいて、あとで無実の罪を着せて、すっかり殺してしまった。かくて彼にたてをつく者は一人もいなくなったという。「史記」の記述がもとになって馬鹿という言葉が生まれたといわれる。しかし趙高の故事を現代語「ばか」と直接に結びつけるのにはいささか無理がある。「鹿」を「か」と読むのは日本での読み方で、中国では「ばろく」となるはずだから、この説はあとからのこじ付けであろう。第2の説は白居易の詩「杏為梁」にある「馬家の宅」に由来する説。「君見ずや 馬家(ばか)の宅は尚お猶お存し、宅問題して棒誠図を作すを」から来ているとする。第3は仏教語説。広辞苑では「梵語モカ moha(慕何)、すなわち無知の意からか。古くは僧侶の隠語。馬鹿は当て字」とあり、サンスクリットの「モーハMoha」に由来すると説く。これが慕可(ぼうか)となり、さらに馬鹿の字があてられた。ほかにも日本語になったサンスクリットは多くある。奈落、卒塔婆、韋駄天、境内、涅槃、娑婆、菩薩、鳥居、荼毘、あばた、沙門、伽藍、舎利、錦、玄関、旦那、達磨など。先日放送の「チコちゃんに叱られる」で上手にまとめていた。つまり起源はサンスクリットでそれが中国に入って「慕何」という漢字表記になった。漢の司馬遷が「史記」を書く。室町時代に史記が日本でも広く読まれ、「馬鹿」が定着する、という流れであろう。(Mahallaka)

 

 

 

 

 

 

雑誌「白樺」創刊

Photo_9     明治43年のこの日、雑誌「白樺」が創刊される。「白樺」の中心人物の一人が志賀直哉である。明治40年、志賀直哉は24歳のとき、家の女中の一人と結婚する決意をしたが、父の志賀直温に反対される。結局、女中は家を追われて、事件はうやむやに終わったが、直哉と父との対立はどうしょうもないものになっていった。この出来事を書いたのが「大津順吉」である。直哉はそのために一層文学志望の決意を固くする。

 明治41年には、同級生の武者小路実篤・木下利玄・正親町公和(おおぎまちきんかず)らと4人で、回覧雑誌「望野」を作った。この年「或る朝」「網走まで」「速夫の妹」等を書いた。明治43年4月、直哉は、「望野」の仲間に有島武郎・有島生馬・里見弴・児島喜八郎・柳宗悦らを加えて、同人雑誌「白樺」を創刊した。「白樺」はそれから大正12年8月まで継続し(計160号)、その中から多くの作家を生んだ。同誌はその人道主義・個人主義・理想主義によって、大正期の文学・芸術・思想の運動の中心になり「白樺派」と近代文学史に位置づけされる。同人には、ほかに田中雨村・園池公致(そのいけきんゆき)・三浦直介・小泉鉄(こいずみまがね)・高村光太郎・長与善郎・日下諗(くさかしん)等がいる。白樺派の作家たちの共通点がある。ペンネームや雅号は使わず本名である。私小説が多い。ホイットマンやトルストイなどの影響を強く受けている。ロダンやセザンヌ・ゴッホ・ゴーギャンら新しい西洋美術を日本にいち早く紹介した。華族出身で学習院という共通項が多いが、思想的には個人差がある。志賀と武者とは理想主義に大きく隔たりが見られた。個人思想の枠内とする志賀に対して、武者は社会活動として実行することを唱えた。志賀の初期の短編「鳥尾の病気」に同人が仮名で描かれている。鳥尾が志賀で、私が木下利玄だといわれている。当時、志賀は怒りっぽくって、自分は神経衰弱ではないかと思っていたふしがある。自身の事を戯画化したのがこの作品である。(4月1日)

三鬼忌

水枕ガバリと寒い海がある

 

(高熱に耐えるため水まくらをして安静にしていた。ふと頭を動かすと、ガバリと水まくらが鳴った。その陰鬱な音は、病人の記憶の底から、広く寒々とした海を思い起こさせ、同時に窓外に冬の大森の海が見えて、なんともいえない不安感が襲ってきたのであった。)

 

算術の少年しのび泣けり夏

 

(算数の問題に長い間取り組んでいた少年は、どうしてもそれを解くすべがわからず、ついにシクシクと泣き出してしまった。長い夏の日も傾き、はや夕闇が迫ってきた。)

 

暗く暑く大群集と花火待つ

 

(花火大会に集まった大群集。やみの中で花火を待っていると、人いきれとおりからの暑さでむんむんするほどである。自分も今その中のひとりとして、花火の上がるのをじっと待っているのである。)

 

O0233028310552713956    西東三鬼(さいとうさんき、1900-1962)の忌日。本名は斎藤敬直(けいちょく)。明治33年5月15日、岡山県津山市南新座に生まれる。父は斎藤敬止は郡視学、母登勢。6歳で父を失い、その後は長兄の扶養を受けた。大正8年9月、二人ぐらしをつづけた母の死に遭い、東京の長兄に引き取られ、大正14年、日本歯科専卒業、長兄在勤の関係で12月渡航、シンガポールで開業。しかし、昭和3年済南事変が起こり、日貨排斥による不況とチフスの大患のため休院をつづけ、失意のうちに帰国した。昭和8年、東京神田共立病院歯科部長に就任。昭和9年、32歳の時、患者に俳句会にすすめられて作句に志す。このころ新興俳句の勃興期であった。日野草城、吉岡禅寺洞、山口誓子に師事するが、平畑静塔に誘われて京大俳句に参加する。新興俳句陣の花形となり、「俳句の魔術師」といわれた。昭和15年8月末日、京大俳句事件に絡み治安維持法違反で検挙された。11月起訴猶予となったが、爾来たのしまず、俳句も放棄する。昭和17年、神戸に移る。戦後俳誌「天狼」創刊に加わったが、昭和27年から「断崖」を主宰。昭和37年1月、発病、胃がんで4月1日葉山の寓居で没した(西東忌、三鬼忌)。享年62歳。主な句集は「夜の桃」(昭和25年)「今日」(昭和26年)「変身」(昭和37年)など。

エイプリル・フール

Aprilfools 「万博跡地に吉原遊郭できる」「大谷翔平の愛犬デコピン、誘拐される」「能登に大油田発見」「奈良の大仏、深夜に消失」「巨人坂本、電撃引退」・・・知の限りを尽くした虚言で世間を騒がす、より多くの人々をダマせた者が王者となる、1年で最も痛快な日、それが4月1日だ。別名4月ばか、April Fool、万愚節。友人たちをかついで興じる日。この習慣の起源については定説はない。16世紀頃からフランスで始まった習慣とされる。フランス語でPoisson d'Avril(4月の魚)といい、この時期よく捕れるサバのことを指している。1564年にシャルル9世がいまの暦であるグレゴリオ暦にかえたが、なかなか浸透しない。そこである貴族が4月1日に公爵の屋敷でパーティーがあるという嘘の招待状を出したのがはじまりといわれている。民衆が王に反発して、4月1日を「嘘の新年」として位置づけ、バカ騒ぎをするようになったという説もある。だが「4月ばか」の慣習は18世紀初めまではそれほど一般に広まらなかった。イングランドでは、もっとも好まれた遊びは「無駄なお使い」に出すことであり、Aが犠牲者をBのところに使いに出すと、Bはさらに彼をCに送る。こうして犠牲者は、気づくまであちこちにやられるのである。北欧のスウェーデンでもエイプリルフールは盛んである。April skamt  アプリール・ファムト(四月冗談)という。一説によるとエイプリルフールは、キリストの死んだ日と関係するといわれる。キリストが死んだ日は春分の日(ニサン)の新月の日から14日たった日といわれる。(4月1日)

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