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1185年のこの日、一ノ谷の戦いで敗れて屋島に逃れた平家を源義経が奇襲した屋島の合戦があった。この戦で船上の扇の的を射落とす功名を得た若武者、那須与一だがその後どうなった。死亡時期は文治五年、建久元年など諸説あるが、わずか22歳で京で病死してしまったといわれる。ただし、関西地方には、那須与一には7人の子があり、近江にそれぞれが寺を建立し、弘誓寺(滋賀県東近江市)も7ヵ寺のひとつとされる。与一は病にかかり顔がかわってしまっため出家し、貞永元年に中風のため摂津国で没した。享年64歳。弘前大学教授夫人殺人事件で無罪となった那須隆は那須家36代当主。(2月19日)
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