咸臨丸出航記念日
咸臨丸は幕府が海軍創建のためオランダに発注し、安政4年、キンデルダイクの造船所で完成のうえ日本に回航、咸臨丸と命名した。長さ26間余(約47m)、幅4間余(約7m)、砲12門を備えた。万延元年1月13日、咸臨丸は日米修好通商条約の批准書を交換するため品川沖を出帆、19日に浦賀を出港した。木村摂津守喜毅(1830-1901)が提督、勝海舟(1823-1899)が艦長であった。福澤諭吉やジョン万次郎らも乗船していた。万次郎以外の船員は大半が船酔いで、技量・経験に優れたジョン・ブルック大尉(1826-1906)他、アメリカ人乗員の助けをかりて、2月26日にサンフランシスコに入港した。勝海舟は船酔いで私室にこもったままで、艦長らしき仕事は何一つやらなかった。ところが上陸が目前になると「俺が艦長だ」といわんばかりの態度だった。福澤は勝の態度に嫌気がさしたのか、終生、2人の仲は悪かった。晩年「痩我慢の説」を著して勝海舟を批判している。福澤と木村との交遊は明治になっても続いた。ジョン・ブルックはサンフランシスコ到着後の咸臨丸の修理や滞在費をアメリカ政府が負担するように働きかけ、歓迎準備に力を尽くしている。日本軍艦初の太平洋横断の快挙の陰にブルック大尉の援助があったのだ。(John Mercer Brooke)
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