絵島生島事件(1714年)
正徳4年1月12日、家継の生母月光院の代参として年寄の絵島が増上寺の家宣の廟に詣でたが、その帰りに木挽町の山村座の芝居を見物して主役の生島新五郎らと遊興したことが露見し、大奥の門限に遅れ、いわゆる「絵島事件」にまで発展した。生島新五郎は当時人気絶頂の歌舞伎役者だった。生島は三宅島に流れされた。三宅島は東京から南南西175km伊豆諸島のほぼ中央で、大島、八丈島についで三番目に大きい島である。事代主命が渡島し、付近の島々を治めたという伝説があり、12の延喜式内社があることから宮家島といったのが島名の起源という。また8世紀に多治比直人三宅麿が流されたことによるとの説もある。源為朝の居住跡、竹内式部の墓などもある。江戸時代は流刑地で生島新五郎は正徳4年(1714)から寛保2年(1742)まで28年間、この島に流された。
絵島は正徳4年3月5日、信濃高遠(現・長野県伊那市)へ三宅島へ流され、そのほか処罰者は大奥・御用商人・歌舞伎界に及んで1500人にものぼった。28年間、囲屋敷幽閉の末、病に倒れた絵島は生島の名を呼びつづけて、その生涯を終わった。寛保2年2月、生島は徳川吉宗により赦免され、江戸に戻ったが翌年、小網町で没した。舟橋聖一の新聞小説「絵島生島」(東京新聞昭和28年9月~29年11月)を原作に淡島千景、市川海老蔵(11代目市川團十郎)主演で「絵島生島」(大庭秀雄監督、昭和30年)が映画化されている。近年では「大奥」(2006年)で仲間由紀恵、西島秀俊が演じる。
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