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鶴岡八幡宮で盛大に源実朝の右大臣拝賀式が承久元年(1219年)1月27日に行われた。早咲きの梅の花を見て、「出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春をわするな」と詠んだ。辞世の歌のような悲しいひびきがある。その儀式の夜、日暮れから降りはじめた雪はしんしんと積もった。実朝が雪の石段を下りたところ、頼家の遺児の公暁はイチョウの木の陰から突然おどり出して、将軍実朝を殺し、太刀持ちの源仲章も斬り伏せた。公暁は実朝暗殺のあと、三浦義村を頼ったが、義村に裏切られ、長尾定景に謀殺されてしまった。将軍実朝は30歳に満たない若い命を散らし、公暁も死に、ここに源氏の嫡流が断絶してしまった。
鶴岡八幡宮の石段わきには「公暁の隠れ銀杏」といわれるイチョウの大木があった。高さ約30m、周囲6.8m、樹齢800年以上ともいわれている。ところが2010年3月夜の強風のため、この大木が倒れてしまった。樹齢800年であれば、公暁が隠れたイチョウの木はこれ以前の木かもしれない。それにしても「公暁の隠れ銀杏」の話は江戸時代以降に見られることで、慈円の「愚管抄」などの鎌倉時代の文献には、イチョウのことは一つも書かれていない。このことから史実ではなさそうだ。現在、倒伏した大銀杏の樹幹が鎌倉文華館カフェに置かれている。この実朝暗殺が、公暁一人の計画でなかったことはほぼ推察できる。しかし、これが北条義時の陰謀であるのか、あるいは三浦義村が暗殺計画の黒幕であるのか(永井路子の小説『炎環』)。さまざまな憶測は可能であるが、その真相はいまだに歴史上の謎につつまれている。
大相撲初場所は大混戦である。14日目で西前頭14枚目の金峰山が2敗で首位。3敗の豊昇龍、王鵬が首位に1差で続き、3人が千秋楽まで優勝賜杯を競う。大活躍の金峰山(きんぼうざん)はこんなに強かったのか。知らなかった。金峰山晴樹。本名はバルタダル・イエルシン。カザフスタン共和国アルマトイ州の出身。アルマトイ州は同国の南東部のキルギス共和国と中国の国境近くに位置する。27歳。身長195cmメートル、体重180㎏の巨体で将来が楽しみである。ところで四股名は金峰山はどこにある山なのか。全国には広く知られている山だけで三つある。親方の故郷の山に由来するといわれているので、熊本県にある金峰山のことで、標高665mである。「きんぼうざん」と読む。あの夏目漱石も熊本時代に登っている。力士の金峰山の読み方は、相撲解説者の琴風が「きんぽうざん」とか「きんぼうさん」とか誤読しているので混乱している。
山梨県にある金峰山は標高2599mで、日本百名山の一つにも選ばれている。山梨では「きんぷさん」、長野では「きんぽうさん」と読む。奈良県の金峰山は古くから修験道の聖地として知られ、「きんぷせん」と読み、正しくは「金峯山」と書く。ややこし、ややこし。
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オーロラは、太陽で発生した太陽フレアなどで発生した電気を帯びた粒子が地球に到達し、大気中の粒子と衝突して発光する現象。北極や南極にあらわれるオーロラはさまざまな色の光がいくえにも重なり、夜空にゆれ動く虹のカーテンのように美しい光景である。オーロラはまれに低緯度でも観測されることがある。1953年から54年にかけて北海道の測候所で北西の空に淡紅色のオーロラが観測された。また地球上だけではなく、火星や木星・土星、それに天王星でも見られる。
「オーロラ(aurora)」というのはローマ神話の暁の女神アウロラ(Aurora)に由来する。しかし北欧においてはオーロラという言葉はあまり一般的ではない。ノルウェーゴ語やデンマーク語ではオーロラのことを「nordlys(ノーリス)」と呼ぶ。スウェーデン語でも「norrsken(ノルシェーン)」といい、どちらも「北の光」という意味である。フィンランド語だけは大きくちがって、「revontulia(レヴォントゥリア)」という。
日本最低気温の日に因み、寒い日にはホットケーキを食べて暖まってもらおうと制定された。本日は「ホットケーキの日」。人には誰にでもそれぞれの好きな食べ物があるので調べてみよう。バイデン大統領はアイスクリーム。ドラえもんの好物といえばもちろんドラ焼きであるが、ドラミちゃんの好物はメロンパン。ラーメン大好き小池さん。バガボンパパの好物レバニラ炒め。キン肉マンは牛丼。ハクション大魔王はハンバーグ。刑事コロンボの好物はチリコンカーン。逸ノ城はモンゴルの肉まん(jマットンボーズ)。全米オープンテニスから凱旋帰国した錦織圭「ノドグロが食べたい」。阿部寛はイケメンに似合わず焼きいもが大好き。若尾文子も甘党で好物はモンブランと大福餅。オバマ大統領が6歳の時、鎌倉を訪れ抹茶アイスクリームを食べた。2014年、大統領を招いた宮中晩餐会においても、抹茶アイスが供された。伍代夏子の実家は渋谷区代々木八幡の魚屋。「家が近所だったこともあり、いつも島倉千代子がお魚を買いに来てくださった。よくタコを買っていました」と語る。誰にでも好物がある。ベートーヴェンはアイスクリーム。「今年の冬は暖かいので氷が少なく、アイスクリームが食べられるかどうか心配だ」と日記に書いている。 正岡子規も夏目漱石も甘いものが大好きだった。大隈重信はメロンの味に感激して自宅の温室でメロンを栽培した。「メロンを食べると125歳まで生きられる」と常々豪語していたが、83歳で歿した。1月25日
著名人の好きな食べ物。
小沢昭一 蕎麦
岸田文雄 広島風お好み焼き
石破茂 カレー
大谷翔平 チーズステーキ
忽那汐里 納豆
松岡茉優 納豆
西郷隆盛 ウナギ
齋藤京子 ラーメン
斎藤茂吉 ウナギ
獅子文六 お汁粉
東海林さだお ラーメン
関根勤 カレーライス
郷ひろみ スイカ
醍醐天皇 わらび餅
佐々木希 ラーメン
高浜虚子 おでん
谷原章介 納豆
手塚治虫 チョコレート
徳川家定 スイーツ(芋、カステラ)
徳川家康 鯛の天ぷら、ニンニク
徳川慶喜 豚肉
夏目漱石 羊羹、もなか、カステラ
南原清隆 うどん
西内まりあ カリカリ梅
林家三平 かきもち茶漬け
正岡子規 ココア
向田邦子 水羊羹
森鴎外 まんじゅう茶漬け
淀川長治 ウナギ
マザー・テレサ チョコレート
マリリン・モンロー ラムチョップ
ザッケローニ ピアディーナ
ロナルド・レーガン ゼリービーンズ(お菓子)
アウグストゥスの死後、かれの属するユリウス家の家系からティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロの四代の元首がユリウス=クラウディウス朝として君臨した。第3代ローマ皇帝カリグラは即位後数カ月で精神異常となり、残酷な独裁政治をおこなった。カリグラとは、正式の名前ではない。本名はガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマーニクス、という。初代皇帝アウグストゥスの娘ユーリアと、アウグストゥスの右腕といわれた将軍アグリッパとの間に生まれたアグリッピーナを母に持ち、これもローマの名家の出であるゲルマニクスを父として、西暦12年8月31日に生まれ、41年1月24日に没した。
カリグラという愛称も、「小さな軍靴」という意味だ。ローマ軍団の兵士たちは、「カリガ」と呼ぶ。25歳で即位した直後のカリグラ帝は民衆に愛され、高貴で穏健な君主だった。ところが10ヵ月のちに、重い病に罹り、回復したのちは人が変わったように暴君となった。西暦41年、カッシウス・カエレアら数人の近衛隊の者によって暗殺された。カリグラだけでなく、妻も幼い娘も殺されたという。
ところで1月24日はカリグラの命日ではあるが五賢帝の一人ハドリアヌス帝の誕生日(西暦76年)でもある。 Caligula、Hadrianus
今年の冬ドラマ、どれを観ますか?話題のドラマ、期待感したけどあまり面白くない、期待してなかったけどだんだんハマって意外と面白い、いろいろあります。
大河ドラマ「べらぼう 蔦重栄華乃夢噺」横浜流星が江戸の出版王・蔦屋重三郎を演じる。横浜流星、渡辺謙、安田顕、小芝風花、石坂浩二、中村隼人、片岡愛之助、宮沢氷魚、里見浩太朗。「TRUE COLORS」倉科カナ、毎熊克哉。「フォレスト」比嘉愛未、岩田剛典。「ホットスポット」市川実日子。「コールドサンセット」内野聖陽。「バニラな毎日」蓮佛実沙子、永作博美。「119 エマ―ジェンシーコール」清野菜名、瀬戸康史。「秘密」板垣李光人、中島裕翔。「アリスさんちの囲炉裏端」馬場ふみか、佐藤瑠雅。「まどか26歳、研修医やってます!」芳根京子、鈴木伸之。「アイシー」波瑠。「東京サラダボウル」奈緒、松田龍平。「御曹司に恋はムズすぎる」永瀬簾、山本美月、田辺桃子。「週末旅の極意」石田ひかり、甲本雅裕。「いきなり婚」斉藤京子、城田優。「コールミー・バイ・ノーネーム」工藤美桜、尾崎真花。「地獄の果てまで連れていく」佐々木希、渋谷凪咲。「うちの会社の小さい先輩の話」十味。「五十嵐夫妻は偽装他人」新川優愛、塩野瑛久、田辺桃子。「問題物件」上川隆也、内田理央。「こんなところで裏切り飯」志田彩良、伊武雅刀、前田拳太郎、守屋茜、吉田有希、大熊杏優。「プライベートバンカー」唐沢寿明、鈴木保奈美、上杉柊平。「週末旅の極意2」石田ひかり、大原優乃。「日本一の最低男 私の家族はニセモノだった」香取慎吾、志尊淳。「私の知らない私」小野花梨、馬場ふみか。「未恋」伊藤健太郎。「ふつたらどしゃぶり」伊藤あさひ、武藤潤。「私の町の千葉くんは。」井桁弘恵、山下幸輝。「クジャクのダンス、誰が見た?」広瀬すず、松山ケンイチ、間宮啓行。「法廷のドラゴン」上白石萌音、高杉真宙。「風のふく島」黒木華。「相続探偵」赤楚衛二、桜田ひより。「リラの花咲くけものみち」山田杏奈、當真あみ、萩原利久。「アンサンブル」川口春奈、松村北斗。「最高のオバハン中島ハルコ」大地真央、松本まりか。「それでも俺は、妻としたい」風間俊介、MEGUMI。「ワタシってサバサバしているから シーズン2」丸山礼。「ホンノウスイッチ」葵わかな、宮近海斗、「恋愛革命」嶋崎斗亜、吉田美月喜、仲吉玲亜、吉田伶香。「御上先生」松坂桃李、吉柳咲良。「キスでふさいでバレないで」紺野彩夏、藤井流星。「マイ・ワンナイト・ルール」足立梨花、平岡裕太、中田青渚。「家政婦クロミは腐った家族を許さない」関水渚、藤原紀香、高橋光臣。「風のふく島」大友康平。「アポロの歌」佐藤勝利、髙石あかり。「あきない世傳 金と銀2」小芝風花。2月ドラマ「リラの花咲くけものみち」山田杏奈、當真あみ、萩原利久。冬ドラマ、ほとんど1話が放送されたが、まだ見てない作品もある。「クジャクのダンス、誰が見た?」「問題物件」いまミステリーが面白い。
日本陸軍は対ロシア戦に備えて、雪中行軍の訓練を計画した。開戦した場合、津軽海峡と陸奥湾を封鎖されると、青森・弘前、青森・八戸間の交通は八甲田山系を縦断する道路を利用せざるを得なくなるが、雪深い冬期の交通が可能か否か、未だ確認されていなかった。そのため陸軍の実験行軍を決定、青森の歩兵第五連隊と弘前の歩兵第31連隊に八甲田山の縦走を命じた。明治35年1月23日6時、青森歩兵第五連隊215人(神成文吉、山口鋠)は出発する。だが途中、吹雪のため進退を決するべく作戦会議が開かれた。悪天候を見れば退却は明らかであったが、大隊長の決断で前進が決まった。こうして猛吹雪で道を迷って彷徨、25日には199人が凍死した。この大惨事は準備不足と天候の急変が原因であるが、加えて指揮官の無謀な判断が多大な犠牲を強いる結果となった。同じ時期、反対側の三本木から青森へ進んだ弘前歩兵第31連隊(福島泰蔵)は11日間にわたる全行程を踏破し、無事に青森に帰還している。新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」は二隊を対比し、自然との闘いを迫真の筆致で描いている。ちなみに福島泰蔵は3年後、日露戦争黒満台会戦において戦死している。享年38歳。
NHK番組「キャッチ」毎朝世界のニュースを放送している若い女性アナウンサーの名前が「髙𣘺彩(たかはしあや」さん。高橋さんというよくある苗字なのに、よくみるとハシゴ髙で、橋の字が異体字の「𣘺」となっている。明治期、当時は手書きで、戸籍を登録する時に間違えて申請したのか、役所の人が書き間違えてしまったのかわからないが、漢字は難しいものだ。
本日は「ジャズの日」。1月22日が何故か?JAZZの「JA」がJanuaryの先頭2文字であり、「ZZ」が「22」に似ていることからという。
ジャズといえば中高年の男性というイメージがある。ジョン・コルトレーンだ、ソニー・ロリンズだ、マイルス・デイビスだとか、ジャズにうるさいのが友達にいる。ところが最近、「女子ジャズ」という言葉が生まれ、いま若い女性にジャズがうけているというオジサンたちにちょっと嬉しいようなニュース。ジャズにもいろいろあるので、女子ジャズがどんな傾向なのかは知らない。jazzという言葉の起源は明らかではない。古くはjassと表記されていた。卑猥な意味をもつとする説や、19世紀からアメリカ南部の黒人が使っていた性行為にどの性的意味、熱狂や急速なテンポ・リズムを意味するスラングのjazzによるとする説などがある。jassという言葉の意味は様ざまに変化し、黒人音楽を、ジャズと称するようになった時期も明らかでない。ジャズのリズムはもともとアフリカのものであったが、奴隷としてアメリカにおくられたアフリカの黒人がニューオーリンズにもたらし、黒人の演奏者らによってジャズ音楽に育てられた。作曲家のジェリー・ロール・モートンは、1902年に自分のピアノ演奏スタイルをジャズを名付けたといい、後年にジャズの創始者と自称したが、信じる者はいなかった。ジャズと称される以前は、ラグタイムと混同された形でラグタイム・ミュージック、またはラグと呼ばれていた。1910年代にニューオーリンズで生まれたジャズは、1920年代にはいって、ラジオの普及とともに、急速に全米に広がった。1930年代ではスイングジャズとしてダンス音楽として広まり、戦後1950年代からジャズはフランク・シナトラなどの人気歌手によって聴く音楽として世界中に普及していく。ヨーロッパ映画のヌーヴェル・ヴァーグにもジャズが取り入れられ、日本も1960年代の映画・ドラマの音楽にもモダンジャズがバックに流れた。戦後日本の洋楽はジャズが中心だったといってよい。ケペルの趣味は、懐古的でサッチモやベニー・グッドマン、トミー・ドーシー、グレン・ミラーといったビッグバンドのスイングジャズが好みだ。もっとも自分ひとりで聞くにはいいが、BGMとしてはうるさ過ぎるので、女子ジャズといわれるものが心地よさそうだ。(New Orleans)
You'd be so nice to come home to Helen Merrill 1956
Lallaby of Birdland Sarah Vaughan 1954
You Belong To Me 雪村いづみ
Fools Rush ln(恋は愚かと言うけれど)Jimmy Dorsey 1945
Strange Fruit(奇妙な果実) Billie Holiday
世界史には非業の死をとげた人物が登場する。1793年のこの日、フランス国王ルイ16世は断頭台で公開処刑された。同年10月16日、マリー・アントワネット王妃も処刑された。クレオパトラ、楊貴妃、淀君も非業の死である。ササン朝ペルシアの最後の王ヤズデギルド3世は戦いに破れ、逃走中に総督の裏切りによって殺害された。屈原は泪羅江に入水自殺し、ソクラテスは毒杯を飲んで自ら死を選んだ。キリストの死は宗教性の強いものであるが、十字架刑によって処刑されたことは史実とみなされている。わが国では関ヶ原の戦に敗れた石田三成や西南戦争で敗れた西郷隆盛など非業の死とみなされる。大塔宮護良親王は足利直義によって惨殺された。太田道灌は扇谷家の上杉定正に招かれ風呂場で殺害された。平賀源内は破傷風とも餓死ともいわれる。頼三樹三郎、橋本左内、吉田松陰は獄舎で斬首。井伊直弼は雪の桜田門に散った。田中河内介、小栗忠順も非業の死といえる。チャールス1世、ルイ16世、ロシアのニコライ2世は皇后や1男4女とともに銃殺された。現代史においてもムッソリーニは愛人とともにパルチザンによって殺害され、遺体は逆さ吊りされた。ルーマニアのチャウシェスク、イラクのサッダーム・フセインなどの処刑も非業の死といえる。アルカイダのビン・ラディンの殺害や、生け捕り後裁判にもかけられることなく殺害されたリビアのカダフィー大佐など記憶に生々しいが、日本のメディアがもう取り上げられることも無く歴史に埋没していく。人類史とは古代から現代に至るまで余りに残酷であり、殺人という罪を繰返す歴史といえる。(Marie Antoinette,1月21日)
1892年のこの日、マサチューセッツ州スプリングフィールドのYMCAトレーニングスクール(現スプリングフィールド大学)で、同校の講師ジェームズ・ネイスミス(1861-1939)が考案したバスケット・ボールの初の公式試合が行われた。かの地は桃の産地としても有名で、初めはこの桃の籠を出して、バスケットボールのゴールに使用していた。しかし、ボールを取り出すのに手間がかかるので、やがて籠の下半分を切ってボールが籠を通り抜けるようになった
バスケットボールが日本に伝わったのは、大森兵蔵が1908年に東京YMCAで初めて紹介された。(1月20日)
今日は「家庭消火器点検の日」である。「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるほど、江戸では大火が頻繁に発生した。記録に残るものだけでも約1800件もの火事があった。明暦の大火など「大火」と呼ばれるものだけで80回を数えた。すでに江戸時代、手押しポンプ式の「龍吐水」が移動式消火器として活躍していた。二酸化炭素を使った小型の容器に詰めた携帯型消火器のルーツは、1881年にアメリカのアルモン・グランガーが発明した消火器である。(Fire extinguisher,Almon Granger,1月19日)
1905年のイラストをみると、消火器を逆さまに持ってホースから消火している様子がわかる。
本日は尾崎紅葉の小説「金色夜叉」のなかで、貫一お宮が熱海の海岸で別れた日である。この日の夜が曇り空になることを「貫一曇」と言う。
尾崎紅葉(1867-1903)、慶応4年(明治元年)1月10日(旧暦では慶応3年12月16日)、江戸芝中門前町に生まれる。本名は徳太郎。父は尾崎惣蔵、通称を武田谷斎(こくさい)という象牙彫りの名人。母は漢方医荒木舜庵の娘庸(よう)である。谷斎は屋号を芝伊勢屋という商家の出であったが、一面に赤羽織の谷斎と呼ばれる、奇行に富む幇間でもあって、紅葉はこの実父のことは生涯秘密で通した。明治28年、山田美妙らと硯友社を結成。「二人比丘尼色懺悔」「伽羅枕」「三人妻」「金色夜叉」など主要作品のほとんどを読売新聞に発表している。出世作で好評を得た雅俗折衷の文体は苦心して創造したものであったが、明治24年の「二人女房」後半から言文一致を試み、である調を用いた。表現の技巧に苦心することを文学の第一義と考え、優れた文章を書く努力を生涯続けた。
三島由紀夫は昭和43年に中央公論社から刊行された「日本の文学」編集委員でもあったが、シリーズ中の「尾崎紅葉・泉鏡花」の解説を書いている。三島の文学観がうかがえて面白い。依田百川(学海)の尾崎紅葉評を引用しているので紹介する。「当時の紅葉の小説は、一方では満天下の婦女子の紅涙もしぼったけれども、一方では、文章の巧妙練達と、また、その奇思湧くが如く、警語頗る多し!によって敬愛されていたのである。はじめは人も異としたであろうが、奇思や警句を喜ぶ態度は、その文章を味わう態度と共に、文学鑑賞の知的態度と云わねばならない。明治文学からこのような知的な読者のたのしみ方を除外すると、その魅力の大半が理解されなくなる惧れをなしとしない。鴎外にしても漱石にしてもそうである。小説中の客観描写の洗練と、日本的なリゴリズムを伴った人事物象風景それ自体の実在感や正確度を要求する態度は、自然主義や白樺派以後に固定した態度であり、このような鑑賞方法がその後の近代文学をがんじがらめにしたことは周知のとおりである。従って紅葉を読むときは、まず、一種観念的なたのしみ方から入ってゆくことが必要である。洒落や地口も、警句の頻出も、はなはだアレゴリカルな筋立ても、そういうたのしみ方なら許容されるばかりか、明治文学の持っているむしろ健康な観念的性格に素直に触れることができるのである。」と読者入門のガイダンスとしては親切丁寧な一文であろう。三島の勉強家で誠実な人柄があらわれている。
最後に尾崎紅葉の文体を鑑賞するために、有名なる「間貫一、お宮の熱海の海岸の別れの場面」の一部を紹介する。
打ち霞みたる空ながら、月の色の匂いこぼるるようにして、微白き海は縹渺として限りを知らず、たとえば無邪気な夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠げに怠りて、吹き来る風は人を酔わしめんとす。打ち連れてこの浜辺を逍遥せるは貫一と宮となりけり。
「僕はただ胸が一杯で、何も言うことが出来ない」
「堪忍して下さい」
「何もいまさら謝ることはないよ。一体今度のことはおじさんおばさんの意から出たのか、またお前さんも得心であるのか、それを聞けばいいのだから」
「…………」
「こッちへ来るまでは、僕は十分信じておった、お前さんに限ってそんな了簡のあるべきはずはないと。実は信じるも信じないもありはしない、夫婦の間で、知れきった話だ。昨夜おじさんからくわしく話しがあって、その上に頼むというおことばだ」
差しぐむ涙に彼の声は顫いぬ。
(中略)
「ああ、宮さんこうして二人が一処にいるのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言うのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、よく覚えておおき。来年の今月今夜は、貫一はどこかでこの月を見るのだか!再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!いいか、宮さん、一月十七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せるからね、月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一はどこかでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ」
(中略)
「ああ、私はどうしたらよかろう!もし私があッちへ嫁ったら、貫一さんはどうするの、それを聞かせ下さいな」
木を裂くごとく貫一は宮を突き放して、
「それじゃいよいよお前は嫁ぐ気だね!これまでに僕が言っても聴いてくれんのだね。ちぇえ、腸の腐った女!姦婦!!」
その声とともに貫一は脚をあげて宮の弱腰をはたとけたり。地響きして横さまにまろびしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣き伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるように、彼の身動きも得せず弱々とたおれたるを、なお憎さげに見やりつつ、
「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい!貴様のな、心変りをしたばかりに間貫一の男一匹はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤ってしまうのだ。学問も何ももうやめだ。この恨みのために貫一は生きながら悪魔になって、貴様のような畜生の肉を啖ってやる覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目にはかからんから、その顔をあげて、真人間でいる内の貫一の面をよく見ておかないかい。長々のご恩に預ったおじさんおばさんには一目会ってだんだんのお礼を申し上げなければ済まんのでありますけれど、仔細あって貫一はこのまま長のお暇を致しますから、随分お達者でご機嫌よろしゅう……宮さん、お前からよくそう言っておくれ、よ、もし貫一はどうしたとお訊ねなすったら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違って、熱海の浜辺から行方知れずになってしまった……」
宮はやにわに蹶ね起きて、立たんすれば脚の痛みに脆くも倒れて効なきを、ようやく這い寄りて貫一の脚に縋り付き、声と涙とを争いて、
「貫一さん、ま……ま……待って下さい。あなたはこれからど……どこへ行くのよ」
貫一さすがに驚けり、宮の衣のはだけて雪羞ずかしくあらわせる膝頭は、おびただしく血に染みて顫うなりき。
(中略)
ついに倒れし宮は再び起つべき力も失せて、ただ声を頼みに彼の名を呼ぶのみ。ようやく朧になれる貫一の影が一散に岡を登るが見えぬ。宮は身悶えしてなお呼び続けつ。やがてその黒き影の岡の頂に立てるは、こなたをまもれるならんと、宮は声の限りに呼べば、男の声もはるかに来たりぬ。
「宮さん!」
「あ、あ、あ、貫一さん!」
首を延べてみまわせども、目をみはりて眺むれども、声せし後は黒き影の沸き消すごとく失せて、それかと思いし木立の寂しげに動かず、波は悲しき音を寄せて、一月十七日の月は白く愁いぬ。宮は再び恋しい貫一の名を呼びたりき。(1月17日)
日本では松重豊さんの「孤独のグルメ」が大人気だが、食と旅の要素を持ったミニ番組は韓国でも人気がある。いまBS松竹東急放送の「パク・ハギョンの旅行記」をオオスメしたい。第1話「心を空にする」。ソウル郊外の古寺を訪ねて座禅をする。1,2,3と数を数えて瞑想にふける。内容は田舎への小旅行をし、その地の名物を食べ、さまざまな人たちとふれあう。主演のイ・ナヨンは有名な女優さんです。むかしペ・ヨンジュンの代表作「愛の群像」でヨン様の妹役だった。その後、四天王の一人ウォンビンと結婚して、現在45歳だが、その神秘的な少女性はすこしも変わっていない。
NHKニュースのテロップで学習指導要領の「かいてい」が「改定」になっていた。「改訂」が正しい。校正しているのだろうか。2023年1月14日に行われた大学入学共通テストの世界史Bの問題で「科挙」を「科拳」、ウマイヤ朝初代カリフ「ムアーウヤ」を「ムアーウィア」と誤記があった。「科挙」とは中国隋代からはじまる官僚登用試験のことで、清末まで1300年間にわたり行われた。有能な人材を採用するものであるが、日本の大学入試試験もある種の科挙制度に類似するものであるといってもあながち間違いではない。ほかにも生物で「勾配」を「匂配」というミスがあった。なぜ厳正なる試験問題に単純な校正ミスが頻発するのか、情けない話である。印刷所、校正者など秘密性を保持するため少人数で行っているのであろう。3月には尼崎の中学校で卒業証書の校正ミスが起きた。「課程」を「過程」と変換ミス。欧米ならABCと直接入力するだけだが、日本語の場合、漢字変換するので同音異義語の選択にミスが生じることが多い。
高級官僚の集まる政府でも菅政権の看板であるデジタル法案の関係資料に大量の誤りがあった。例えば「地縁」が「地緑」に、「昭和六十六」(実際には存在しない)や「海上保安長長官」(正しくは海上保安庁長官)といった誤記が計45カ所に上る。あり得ないようなミスで、「それこそデジタル技術でチェックできないのか」という声が上がっている。校閲ガールの河野悦子ならどんなリアクションをするのだろう。
よくあるミス。
×すいません。 〇すみません
✕運賃の改訂 〇運賃の改定
✕教科書の改定 〇教科書の改訂
✕専問学校 〇専門学校
咸臨丸は幕府が海軍創建のためオランダに発注し、安政4年、キンデルダイクの造船所で完成のうえ日本に回航、咸臨丸と命名した。長さ26間余(約47m)、幅4間余(約7m)、砲12門を備えた。万延元年1月13日、咸臨丸は日米修好通商条約の批准書を交換するため品川沖を出帆、19日に浦賀を出港した。木村摂津守喜毅(1830-1901)が提督、勝海舟(1823-1899)が艦長であった。福澤諭吉やジョン万次郎らも乗船していた。万次郎以外の船員は大半が船酔いで、技量・経験に優れたジョン・ブルック大尉(1826-1906)他、アメリカ人乗員の助けをかりて、2月26日にサンフランシスコに入港した。勝海舟は船酔いで私室にこもったままで、艦長らしき仕事は何一つやらなかった。ところが上陸が目前になると「俺が艦長だ」といわんばかりの態度だった。福澤は勝の態度に嫌気がさしたのか、終生、2人の仲は悪かった。晩年「痩我慢の説」を著して勝海舟を批判している。福澤と木村との交遊は明治になっても続いた。ジョン・ブルックはサンフランシスコ到着後の咸臨丸の修理や滞在費をアメリカ政府が負担するように働きかけ、歓迎準備に力を尽くしている。日本軍艦初の太平洋横断の快挙の陰にブルック大尉の援助があったのだ。(John Mercer Brooke)
本日は「スキーの日」。スポーツ選手が競技で識別のため用いる番号票をレースナンバー(racing number)、あるいは「ゼッケン」という。このゼッケンという言葉の語源は不詳で広辞苑には「馬の鞍に敷く毛布の意のドイツ語Deckeの転訛など諸説あるが未詳」とある。明治の新聞では「番号票」という語が使われていたが最初に「ゼッケン」が使われたのはいつ頃からであろうか。1911年1月12日に高田歩兵第58連隊営庭でテオドール・レルヒ少佐(1869-1945)が初めてスキー指導を行ったことはスキー史で知られているが、このときの報告書に「レルヒのゼッケンの番号は10」という記述がある。おそらくこれが「ゼッケン」という語が使われた最初であろう。(Theodor Lerch,Decken)
1851年のこの日、洪秀全は1万人ほどの民衆を率いて金田村において武双蜂起した。洪秀全は広東省花県を原籍とする。洪氏の一族は北方から移住してきた客家であり、代々農業を営んでいた。かれは早くより科挙を志したが、三度失敗した。第二の試験を広州で受験したとき、「勧世良言」というキリスト教入門書を手にいれ、大いに感動した。かれが32歳のとき、キリスト教の洗礼を受け、布教活動に従事した。かれは同志馮雲山とともに、広西で上帝会を組織し、上帝は天夫、キリストは天兄、洪秀全は天弟であるとする変形のキリスト教を説いた。そして清朝政府とその軍隊と官僚は妖魔であると説き、重税に苦しむ貧農層に信者を獲得した。また客家出身者は本地人より差別され圧迫されていたが、かれらが上帝会の会員となって、地主、富裕層である本地人の作る団連の圧迫に抵抗していた。1850年洪秀全は広西省桂平県金田村で起兵し、拝満興漢・土地均分・纏足の禁止などのスローガンをかかげて連戦連勝し、1851年には永安を陥し、太平天国と号し、官制や王号を定めた。そのご武漢を衝き、1853年には南京も陥し、そこを天京と改めた。このころより政府の内部に血なまぐさい抗争が始まり、わずか3ヶ月たらずで指導者を次々に失った。太平天国は南の巨大な財産を獲得したのち、たちまちのうちに腐敗堕落したといわれる。洪秀全自身も1864年南京が陥落すると、毒を仰いで死んだ。(1月11日)
福井の遠敷郡は江戸時代には上中村38ヵ村、下中村73ヵ村あったが、過疎の村として知られ、名田庄村の1村となり、平成18年には町村合併により、消滅した
民俗学者の宮本常一(1907-1981)が戦前から戦後にかけて日本全国を歩いて、生活が変わっていく、価値観が変わっていく様子を調査していた。日本の政治経済文化が大きく変わったのは昭和20年8月15日からと机上の歴史では思うかもしれないが、本当に変わっていったのは昭和40年前後だと思う。守屋浩の「東京へ泣いちっち」(浜口庫之助作詞・作曲)が流行ったのは昭和34年のことであるが、あのころからみんなは農村を捨てて、豊かさを求めて都会に出て行くという動きが顕著になってきた。宮本常一は昭和40年頃の農山村を、「自然が寂しい」と言った。これまで「自然が寂しい」と言った人はあまりいない。もしこれが、「自然は美しい」とするならば、 ここをちゃと刈り払ったりしている人がいるわけである。人が消え、田んぼから山から畑から人が消えていって、村が寂しくなっていくことを、村が寂しいと言わずに「自然が寂しい」と言ったのだ。しかし、宮本は、この後に、「しかし」と言っている。「しかし、そこに人の手が加わると暖かくなるんだ」と言っている。
日本は経済成長とともに若い人を中心に都市に出ていく人が増え、このような村の生活を維持することがむずかしくなった。山村や離島の集落のなかには、生活が困難になったため住民が集団移転したところもある。こうした地域は過疎地域とよばれた。最近では、さらに過疎化は進行して「限界集落」という言葉も生れている。全国的な情勢では山間地域の過疎化現象が顕著にみうけられる。限界集落をそのまま放置すると無住集落となり、多様な生活文化の喪失を招くだけではなく、豊かな森林資源などを放擲することとなり、加えて林野の荒廃で保水力の低下した危険な上流地域を生むこととなり、台風などの豪雨で災害を招くこととなる。そのため近年、「限界集落」の解消を目指す産業と生活文化の振興を図る取り組みが模索されている。人と自然を考える会・東近江市立図書館が発行した「農と森の地産地消でふるさとづくり」(社会教育活性化21世紀プラン報告書)では地域が自立して生きる仕組みづくり、地域資源を生かしたまちづくりの事例学習が紹介されている。
森の地産地消(高知県馬路村モナッカ)、東近江を循環・共生の大地に、ほんまに私が主役のまちづくり(広島県安芸高田市川根の地域づくり)
大野晃「山村の高齢化と限界集落 高知山村の実態を中心に」経済327 1991年
1918年1月11日、イギリスで30歳以上の女性に参政権を実現させた日である。ただし年間5ポンド以上の家賃を支払っている世帯主、あるいはその妻、など条件つきのものであった。イギリスで普通参政権が実施されたのは1928年のこと。世界初の女性参政権は、イギリスではなく、リチャード・セドン首相在任時のニュージーランドである。現在ニュージーランドの10ドル紙幣の肖像に使われているケイト・シェパード(1848-1934)は1893年に世界初の女性参政権実現に活躍したリーダーである。だが、日本ではそれより以前に高知県上町の女性、楠瀬喜多(1836-1928)が「戸主として納税しているのに女性だからといって選挙権がないというのはおかしい」と明治11年に県令に訴えている。明治13年、県令もその抗議に折れて、日本で初めて女性参政権を認める法令が成立している。ところが、明治政府は4年後に区町村会法を改訂して、女性を選挙から排除した法律をつくった。
世界の主要国が女性参政権が成立した年は、1893年ニュージーランド、1908年オーストラリア、1906年フィンランド、1915年デンマーク・アイスランド、1917年ソ連、1918年カナダ・ドイツ、1919年オーストリア・オランダ・ポーランド・スウェーデン、1920年アメリカ、1928年イギリス、1945年に日本である。
なお現在、国立国会図書館・図書課別室にはイギリスの婦人参政権運動家へレン・ブラックバーン(1842-1903)の「ヘレン・ブラックバーン・パンフレット・コレクション」のマイクロフイルムが所蔵されている。この資料の中には、選挙権実現の前年の動向を伝えるシェパードからブラックバーンに宛てた手紙もあり、女性参政権の世界的広がりを示す貴重な資料であろう。このほかアメリカのシカゴで初めてセツルメントを建設した社会事業家ジェイン・アダムス(1860-1935)、産児制限運動の指導者マーガレット・サンガー(1842-1903)関連の資料も含まれているという。(1月11日)
「ゆ」から始まる欧米人名は少ない。ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン(1934-1968)。1961年4月12日ボストーク1号で世界初の有人宇宙飛行を成功させたパイロット。ガガーリンの地球周回の言葉として、「地球は青かった」が有名であるが、日本以外の国では「神はいなかった」の言葉のほうがより有名である。▽「ユーハン・ルードヴィ―グ・ルーネベリ」1804ー1877。フィンランドの国民詩人。▽フェーン現象の原因を初めて熱力学的に説明したオーストラリアの気象学者ユリウス・フォン・ハン(1839-1921)。
ユアン・マグレガー
ユヴァル・ノア・ハラリ
ユーグ・カペー
ユーゴ―・ド・フリース
ユージン・アセリンスキー
ユージン・オニール
ユージン・スミス
ユジーン・ドゥ―マン
ユスタッシュ・ド・サン・ピエール
ユセフ・トルコ
ユーディ・メニューイン
ユーハン・ルードヴィーグ・ルーネベリ
ユベール・モンテイエ
ユベール・ロベール
ユマ・サーマン
ユーリ・アレクサンドロヴィッチ・ラストヴォロフ
ユーリ・アレクセービッチ・ガガーリン
ユーリ・アンドロポフ
ユーリ・ウラジーミロヴィチ・アンドロポフ
ユーリ・オガネシアン
ユリ・ゲラー
ユーリ・テミルカーノフ
ユーリー・ノルシュテイン
ユリアヌス
ユリウス3世(ローマ皇帝)
ユリウス・フォン・ハン
ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー
ユリシーズ・グラント
ユール・ブリンナー
ユルゲン・ハーバーマス
ユルゲン・プロホノフ
ユルバン・ルヴェリエ
ユン・ピョウ
古代ローマの武将・政治家ガイウス・ユリウス・カエサルは紀元前49年1月10日、手兵を率いて、ルビコン川のほとりに着いた。この小川はカエサルが軍事指揮権を持つガリア・キサルピナとポンペイウスの支配下のイタリア本国との境界になっており、軍隊を率いてこの川を越えると、国法にそむくことになる。カエサルはしばらく向こう岸をにらんでためらっていたが、ついに決心して進軍ラッパを吹かせた。
「賽は投げられたり」とギリシアの喜劇作家メナンドロスのせりふをさけびながらカエサルがルビコンの流れに馬をのり入れると、全軍も彼に従って、ポンペイウスを討とうと一斉に川を渡った。
ところでアドリア海に注ぐ世界史で最も有名なルビコン川が現在、どの川であるのか、実のところあまりはっきりしない。たくさんの川の中から、どうやらウソ川がそれだというが、嘘のようなホントの話である。(Caesar,Rubicon)
日本の総人口は1億2374万人(総務省統計局2024年12月1日)。世界で11番目。 戦後、日本の人口は増え続け、1966年に1億人を突破し、1995年頃から横這いとなった。その後2007年以降は毎年、死亡数が出生数を上回り、自然減になっている。今後は長期にわたって人口減少時代になると見られている。とくに都市と農村との地域格差が課題である。およそ90%が都市部や市街地に居住している。1日に1413人が減っている。亡くなる人の数 3784人、生まれる人の数 2371人(厚生省発表の令和2年の統計)
人口の減少は、今後は驚くべきペースで減少し、厚生労働省の予測では、2070年にはわずか8700万人にまで落ち込むと警告している。そんな中、深夜テレビでは若者向けの呑気なバラエティが放送されている。「上田と女がDEEPに吠える夜」。上田晋也、大久保佳代子、いとうあさこ。本日のゲストは島崎遥香、さくらまや、宮脇花綸、矢本悠馬。さくら「永遠の愛を信じていない」、島崎「自分から人を好きになったことがない」「結婚願望がない」「将来、老人ホームに入居するつもり」。唯一男性ゲストの矢本は現在結婚しており、結婚してよかったと語るもゲスト女性陣には響かなかった。島崎は最近「ぱるるのおひとりさま論」を出版している。おひとりさまライフを楽しく上手に過ごすためのヒントやおひとりさまについて思うことを独自の視点で綴っているエッセイ集。彼女らの意見を聞いて感じることは、家庭的なあたたかさを知らないで育つたのかなと思う。経済的な自立があるから言えるのだろうが、個人的な思い込みが多くて、個人中心、厭世的な傾向にある。少子化問題は自分たちには関係ないことと思っているようだ。
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日本の面積は、37万7975.64㎞。
海岸延長 33889㎞
領海面積 約430000平方㎞
接続水域面積 約320000平方㎞
排他的経済水域面積 約4050000平方㎞
1989年1月7日、足掛け64年にわたった「昭和」が幕を閉じた。昭和天皇は87歳と8ヵ月のご生涯だった。翌日から新しい元号「平成」がスタートした。この年、亡くなった方々には著名人が多い。2月9日に漫画家の手塚治虫、4月27日に松下幸之助、6月24日に歌手の美空ひばりが他界し、まさしく昭和の終焉を感じさせた。この年はまだバブル景気といわれた後半の時期にあたる。消費者は高額商品を買うこと、「生活の豊かさ」を感じ、海外の高級ブランド品や高機能の家電製品を買いあさった。しかし1990年をピークに景気は下降し、バブルは崩壊し、長い平成不況が続く。俳優の平泉征は、このころ芸名を「平泉成」と改名した。すると脇役として次々が舞い込み、「平成」期になって売れ出した。「雪の日や昭和は遠くなりにけり」。今年は昭和から数えると昭和100年になる。(1月8日)
江戸時代の出版文化の隆盛ぶりは、朝鮮半島から来日した朝鮮通信使の記録にも見られる。享保4年(1719年)、第9次朝鮮通信使の製述官(書記官)として来日した申維翰( シン・イハン)は、その日記「海游録」で大坂の賑わいを次のように記している。
書林や書屋があり、看板をかかげて、曰く柳枝軒、玉樹堂などなど。古今百家の文籍を貯え、またそれを復刻して販売し、貨に転じてこれを蓄える。中国の書、我が朝の諸賢の撰集も、あらざるはない
日本における万般の書の流通と書肆が書物によって利潤を得ていることに驚いたのである。朝鮮、中国ではまだ出版文化は形成していなかったが、江戸時代の出版文化の隆盛は世界的にもめずらしいものであろう。
さて、申維翰が触れた「柳枝軒」は、京都六角通御幸町西入の書肆、茨城屋小川多左衛門の軒号。この店は初代が経書や禅宗関係書の廉価販売で成功を収め、二代の時には貝原益軒の教訓書や実用書、紀行などを販売した。「玉樹堂」は、京都西堀川通仏光寺下ル町の唐本屋吉左衛門で、「唐詩鼓吹」や「明詩大観」などの漢詩関連書や伊藤仁斎・息子の東涯の詩文集や「中庸発揮」「孟子古義」といった経書注釈書などを出版した書肆である。
挿図は、江戸の蔦屋重三郎(1750-1797)の書肆「耕書堂」である。出版と販売の両方を行なっていたが、黄表紙・洒落本・狂歌集から浮世絵も扱って歌麿や写楽らを世に出した。
参考;長友千代治「江戸時代の書物と読書」 東京堂出版 2001
日本の国土の面積は、およそ37万8000㎢であるが、わずかの増減がある。小笠原諸島に西ノ島という新しい島が生まれたこともあるが(2017年に統計に増加)、通常の増加の主な理由は埋め立て事業によるものである。面積の公表は、1960年以降、国土地理院が発表している。わが国最初の統計としては、明治15年に内閣統計局によって公表されたが、大正元年に日本帝国第三十一統計年鑑に掲載された「周囲及び面積」のうち、内地の部分38万2415㎢とある。戦前の領土最大面積は、内地、樺太、台湾、朝鮮からなり、675,400㎢である。
戦後は概ね37万㎢で推移するが、百科事典などで調べると国土の増減がわかる。
1965年 377,012.04㎢
1975年 377,534,99㎢
2012年 377,954,84㎢
2024年 377,975,64㎢
浄瑠璃や歌舞伎などで広く知られるお染久松心中事件は、宝永5年1月6日、大阪で実際にあった話をもとにしている。鏑木清方(1878-1972)の日本画「野崎村」(大正2年作)は「近代日本画家が描いた歴史とロマンの女性美展」(朝日新聞社、1989)の図録表紙に使われている。お染の顔の表情、しぐさもが自然で近代美人画の特徴を代表する作品であろう。
近松半二の浄瑠璃「新版歌祭文」(安永9年)では久松は武士の倅で油屋に奉公してお染と契り、お染は五つ月の身重となるが、山家屋へ嫁入りの日が迫り、お染の母はこれを苦慮している。久松の父が久松に意見し、種々奔走するが、結局久松は蔵の中、お染は蔵の外で自害する。鏑木の絵では「あんまり逢いたさ、なつかしさ、勿たいないことながら観音さまにかこつけに、逢いに北やら南やら、知らぬ在所を厭ひもせず」と語る野崎まいりの帰りのお染の姿を描く。
4世鶴屋南北(1755-1829)の「お染久松色読販」(1813)では筋は大きく異なりラストはハッピーエンドである。千葉の家臣石津久之進はお家の重宝吉光の刀を盗まれた落度で切腹、その子久松は乳母の倅の百姓久作に弟として引取られ、刀の詮議のため、質屋をしている瓦町の油屋に丁稚奉公し、油屋の娘お染と深い仲になる。刀の盗み人鈴木弥忠太は遊里の女お糸に入揚げ、もと若党であった鬼門の喜兵衛をして刀と折紙とを油屋に質入れさせるが、その金は喜兵衛に着服されてしまう。番頭善六は、お糸に惚れている油屋の息子多三郎をそそのかして折紙を持出させ、多三郎を追出し、お染と夫婦になって油屋の身代を継ごうとするが、そのたくらみを丁稚久太郎に知られたので金を与えて久太郎を逐電させ、折紙を久作の嫁菜の苞に隠す。それが原因の誤解から、久作は油屋下男九介に殴られ、油屋の縁者松本佐四郎の仲裁で膏薬代と質流れの袷を貰う。この話を聞いた喜兵衛とお六の夫婦は、その袷と行倒れの死骸を種に油屋をゆすることを思いつく。喜兵衛とお六は油屋に死骸を持込み、弟が油屋の者に殺されたと言って金をゆするが、そこへ死んだはずの久作が現われた上に、お染の許婚山家屋清兵衛のはからいで死人が蘇生するので、ゆすりそこなって帰る。死人は河豚に当たった久太郎であった。その夜喜兵衛は油屋の蔵から吉光の刀を盗み出すが、久松はこれを殺して刀を取返し、家出したお染の跡を追う。隅田堤で久松はお染に追付き、折紙も手に入ってめでたく幕となる。(参考:「日本古典文学大系54 歌舞伎脚本集下」岩波書店)
「日本一長い駅名」はどこだと思いますか?答えは富山市五福末広町にある富山地方鉄道の「トヨタモビリティ富山Gスクエア五福町停留場」です。読み仮名が32文字、表記では26文字と日本一長い駅名です。ただし、読み仮名数については、岡山電気軌道東山本線の西大寺町停留場が「西大寺・岡山芸術創造劇場ハレノワ前停留場」が同数である。
ちなみに日本一画数の多い漢字が使われている駅名はどこだと思いますか?答えは東日本旅客鉄道五能線にある駅「驫木(とどろき)」(青森県西津軽郡深浦町)です。無人駅で駅舎は木造で待合室のみ。日本海に面し、時化の時には波がかぶることもある。「驫」は日本の駅名に使用されている漢字の中で最も画数が多い(30画)。由来は、波の音・瀬の音が響き、3頭の馬も驚いたから。映画「男はつらいよ奮闘編」では、さくら(倍賞千恵子)や太田花子(榊原るみ)が登場するシーンで駅舎やホームがつかわれている。NHK「美の壷 駅舎」でも紹介された。
高さだけが山の魅力の尺度ではない。南米エクアドルにチンボラソ山(標高6267m)がある。もちろん世界最高峰はエベレスト(標高8848m)だが、18世紀まではチンボラソが世界一高い山と考えられていた。アレキサンダ・フォン・フンボルト(1769-1859)とエメ・ボンプラン(1773-1858)の2人は1799年から1804年にかけて南米へ学術探検をおこなった。オリノコ川の探検を終えて、チンボラソを登った。2人は頂上から450mのところまでは行ったが、割れ目があって渡れず、そこから引きかえした。しかし、5875m地点まで登ったというのは、当時の最高記録だった。その後も長い間、登山家たちを寄せつけなかった。初登頂は1880年1月4日、スイス・アルプスのマッターホルンの初登頂者として有名なイギリスの登山家エドワード・ウィンパー(1840-1911)である。(Chimborazo,Ecuador)
1492年という年はコロンブスがサンサルバドル島を発見したことで有名だが、もう一つ世界史的な事件があった。1492年1月2日、スペインのグラナダでアンゴラ・カスティリャ連合軍が、ナスル朝の居城グラナダを奪回した。最後の君主ムハンマド11世はモロッコのフェズへと亡命し同朝は滅亡し、これによってレコンキスタが終結した。711年以来、約8世紀間支配していたイスラム教徒の勢力がイベリア半島から消えることになった。
豊臣秀吉は俗に1月1日に生れたとして知られるが、これは後世の創作で(絵本太閤記)、実際の誕生日は天文6年2月6日とされる。前田利家やルイス・フロイスの話によれば、秀吉の片手は「親指が1つ多かった」と言っている。専門医によれば、秀吉が多指症だった可能性はあるらしい。確実に1月1日生れの有名人は、鳩山一郎、杉原千畝、田中美知太郎、富田常雄、人見絹枝、田端義夫、長門勇、尾崎紀世彦、倉本聰、役所広司、江口洋介、堂本光一など。ジミー大西と増田明美は同年同日の元日生れである。将棋の「ひふみん」こと加藤一二三も一月一日生まれ。
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