赤垣源蔵、徳利の別れ
赤垣源蔵は大の酒好き。脇坂淡路守に仕える塩山伊左衛門という兄がいた。ある雪の夜、源蔵は貧乏徳利と土産の品をさげて、芝新銭座にある兄の家をひょっこり訪ねた。折悪しく兄は留守で、嫂は癪で臥せていた。いつもは着たきり雀の源蔵は、今日に限って珍しく小袖を着ていたが、下女のおすぎに暫く待たせてもらうと断わって、横になってひと眠りした。目が覚めたが兄はまだ帰らない。すると源蔵は、兄の羽織を出させ、衣紋かけに通して柱にかけ、湯呑みに冷や酒を注いでその前におくと、居ずまいを正して両手をつき、「兄上、今日はお暇乞いに参りましたが御不在、源蔵、力なく戻ります」といって、ホロリとひとしずく、おすぎに遠方へ行くといって、帰っていった。
その夜、兄は若党をつれて帰ってきたが、明くれば元禄15年12月15日、雪の朝の日本晴れ。大勢の者が、「仇討ちの引きあげだ」と叫びながら駆けて行く。よく聞くと、赤穂の浪人が吉良上野介の屋敷へ討ち入り、引きあげる途中だという。伊左衛門は驚いて、すぐ若党を走らせた。若党は返り血を浴びた源蔵に会い、槍につけた短冊や笛、癪の薬、小判などを貰って帰ってきた。伊左衛門は源蔵が残したた貧乏徳利とそれらの品物を床の間におき、その前に両手をついて、「源蔵、昨日は残念であった」と語りかけた。
これをみたおすぎはたまげて、「昨日は源蔵さまが着物に口をきいていらっしゃいましたが、今日は、旦那さまが徳利に口をきいていらっしゃいます」
さて、このことが脇坂淡路守のお耳に入り、伊左衛門は五十石の加増、貧乏徳利は脇坂家の家宝になり、徳利の入った箱には、「忠義赤垣の徳利」と墨くろぐろと書かれたという。(参考:「決定版忠臣蔵のすべて」人物往来社)
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