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2024年12月29日 (日)

2024年、お亡くなりになられた著名人

 今年も残すところあと3日となった。地震や台風・大雨などの自然災害、また火事や交通事故など不慮によって亡くなられた方々が多くいる。謹んでご冥福をお祈りいたします。ユーゴスラビアのことわざに「人の生まれと死に方は、本の表紙と裏表紙のようなものである」とある。われの生まれ方はだいたい同じであるが、死に方はさまざまだ。予期せぬ死はある日、突然にやってくる。転倒や転落、航空機や車などの交通事故。通り魔による刺殺や銃撃で一命を失うこともある。歩行中に鉄パイプが落下したり、感染症に汚染されたり、遊泳中に鮫に襲撃されたり、落雷に遭ったり、死に遭遇するケースを考えたらきりがない。食事中や入浴中でも亡くなったりする。常に死の恐怖と隣り合わせに何とか生きているのである。心穏やかに除夜の鐘を聞いて年を越したいものである。では2024年にお亡くなりになられた著名人を調べてみよう。小澤征爾(指揮者)、篠山紀信(写真家)、鈴木健二(NHKアナウンサー)、丘さとみ(女優)、桂由美(ファッションデザイナー)、唐十郎(劇作家)、中尾彬(俳優)、今くるよ(漫才師)、桂ざこば(落語家)、齋藤栄(小説家)、アヌーク・エーメ(女優)、ドナルド・サザーランド(俳優)、園まり(歌手)、桂米丸(落語家)、ジーナ・ローランズ(女優)、アラン・ドロン(俳優)、宇野鴻一郎(小説家)、マギー・スミス(女優)、ピート・ローズ(野球)、西田敏行(俳優)、高階秀爾(美術評論家)、楳図かずお(漫画家)、クインシー・ジョーンズ(ミュージシャン)、北の富士勝昭(大相撲)、谷川俊太郎(詩人)、火野正平(俳優)、グラシェラ・スサーナ(歌手)、桂雀々(落語家)、中山美穂(女優、歌手)、小倉智昭(アナウンサー)、渡辺恒雄(読売新聞社)、加茂さくら(元タカラヅカ)、森田拳次(漫画家)、オリビア・ハッセ―(女優)、ジミー・カーター(米大統領)。

 

 

 

 

 

 

2024年12月28日 (土)

濡れ衣

 実際に犯していない罪のことを「濡れ衣」という。身に覚えのない罪を「濡れ衣を着せられる」というのはなぜか?。筑前国に赴任した佐野近世という国司に美しい娘・春姫がいて、その溺愛ぶりに嫉妬した近世の後妻は嫌がらせをしていた。ある日、継母は漁師に金品を渡して「娘に釣り衣を盗まれた」と訴えさせられたところ、娘の部屋を覗いた近世は、娘が濡れた釣り衣を掛けて眠っている姿を見て逆上し、怒りにまかせて娘を斬ってしまったと、「筑前国続風土記」に書かれている。のちに濡衣塚(福岡県博多区)につくられた。「濡れ衣」の語源があったことを表すものである。

 

2024年12月27日 (金)

年の瀬の情景

   官公庁などの御用納めである(今は仕事納めというらしい)。明治6年1月、太政官日誌で、官庁の公休日が、1月1日から3日、6月28日から30日、12月29日から31日までと決まった。このため、お役所勤めの人は28日を御用じまいとか、御用納めと呼んだ。今年はカレンダーの関係で27日が金曜日で証券取引所も終い相場となる。このころになるとお正月飾りや門松の設置など新年を迎える準備に忙しい。各地の寺院では除夜の鐘の試しづきが行われる。市場やスーパーでは正月商品が並んで買い物客で賑わう。コロナの流行もおさまり、行動制限がない9連休の年末年始、帰省ラッシュや海外渡航も始まる。

 

 

 

2024年12月25日 (水)

最初の日本語聖書「西洋教草」について

  本日はクリスマス。三角帽をかぶってクラッカーを鳴らして夜遅くまでバカ騒ぎするというのは終戦後の昭和20年代後半からはじまった。お土産にケーキを買ってかえる。はじめはサラリーマンから流行した。1980年代後半のバブル時代、クリスマスは恋人と一緒に過ごすことが若者たちの間に定着してしまった。このとのきクリスマス・イブの日のホテルのスイートは予約満員。ティファニーのハートのネックレスが売れた。いまはクリスマスは家庭サービスの日となっていった、だがクリスマスコンサートを聴いたり、プレゼントをしたりするのが正しいクリスマスの過ごし方なのだろうか。だが民間気象会社ウェザーニューズの調査によると日本人の3人に1人はクリスマスに関心がない、ということがわかった。この人のなかにはクリスマスやサンタクロースがイエスの誕生と無関係であると知っていて、聖書のみを信仰のよりどころとしてる信者も含まれるのだろうか。不思議な日本のクリスマス。それはさておき、日本で聖書が本格的に日本語に訳されたのは明治になってからであるが、いつ頃であろうか。日本聖書協会が設立され「新約聖書」が完成したのは明治12年、「旧約聖書」は明治21年といわれる。しかし永田方正(1838-1911)が明治6年に訳した「西洋教草(おしえぐさ)」は抄訳とはいえ、日本人単独の手になる最初の優れた聖書の翻訳書である。「西洋教草」は教科書たることを目的としていたが、上巻には「箴言」のほとんど全部を収め、中巻には「レビ記」「申命記」「出エジプト記」「民数記」「ローマ人への手紙」「テサロニケ人への第一の手紙」「テサロニケ人への第二の手紙」中からの抄訳と「テモテへの第一二の手紙」のほぼ全部、下巻はイエスの説話を中心に四福音書などからの抄訳である。

    永田方正は天保9年3月1日、伊予国西条藩士の子として生まれ、宇高辰次郎と名づけられた。(注)木下清(1915-1994)の説によれば生年は天保15年(1844年)であるがここではコンサイス日本人名事典に従う。少年のころから英才のほまれ高く、長じて永田吉平の養子となり、永田静之助と称し、昌平坂学問所に学び、主に英書の翻訳業に励み、後に、永田方正(ほうせい)と改名した。明治14年、北海道開拓使となり、アイヌ語の研究に没頭した。アイヌ民族の叙事詩ユーカラの最初の翻訳を「東洋学芸雑誌」に発表していることでも知られている。のち「北海道蝦夷語地名解」の編纂に従事。晩年は、坪井正五郎の紹介により東京高女で国文・和歌を教えた。(参考:今西竜「永田方正君小伝」人類学雑誌27.7 明治44年、門脇清「西洋教草紹介」興文 昭和48年2、3月、木下清「聖書和訳の先覚者 永田方正略伝」史泉48 昭和49年3月)

2024年12月24日 (火)

国土面積の比較 アメリカと中国

   世界の国土面積ランキングは、一般的には一位からロシア、カナダ、アメリカ、中国、ブラジルの順番です。このなかでアメリカと中国は960万㎢でほぼ同じくらいです。しかし中国では三位が中国で四位がアメリカだと主張しています。それはどういう理由からでしょうか。

 水面積の統計上の処理によって面積が異なるからです。アメリカには五大湖と呼ばれる大きな湖があり、それをアメリカは国土面積の中に数えています。中国側は、国土の中の湖の大きさを数えなければ、中国の方が大きい、主張しています。

 

なぜ日本ではクリスマス・イブは恋人と過ごすものというイメージが根強いのか

Sc02   師走に入ると街中にクリスマス・イルミネーションが点灯され、クリスマス気分を盛り上げてくれる。クリスマスという、現在の日本にとっても馴染みのある習慣は、老いも若きも何となくうきうきする季節だろう。家のリースやツリー、クリスマス・ケーキ、そしてプレゼント。「我が持てる包の中もクリスマス」(山内山彦)だが欧米のクリスマスはキリストの生誕を祝い家族が集まって過ごすものだが、日本では宗教観はなく、恋人と過ごすものというイメージが定着している。この違いはなぜ生まれたのだろうか?

  クリスマスの歴史は長く複雑な意味をもつ。キリスト教とのつながりや、キリスト教以前の、ずっと古代に遡る、ヨーロッパ・地中海に面している諸文化の世界観や信仰の形態の影響が認められる。したがって、今日の世俗化されたサンタクロースの意味を理解するためには、キリスト教またはキリスト教以前の様々な信仰の形態の理解が前提になってくる。とくにサンタクロースは死者の象徴であると、レヴィ・ストロースが主張している。古代からのヨーロッパの民間信仰では、我々一般人にあの世から豊穣をもたらすのは、国家に認定された公式の神々ではなく、むしろ地域の小さな神々であった。これらは、多くの場合、先祖に限りなく近い性質をもっていた。現在、クリスマスが主に家族中心の祝いになっているのも、古代からのこの伝統的思想を継承しているからだと思われる。サンタクロースの根底には、冬に関する古代からのシンボリズムが認められる。キリスト教がこの複雑なシンボリズムを横領し、それをキリストの降誕と習合させた。

   このようなキリストの生誕を祝うクリスマスの風習や行事が世界中に広まったのは19世紀に入ってからのこと。とくに今日のようにみんなでお祝いするのは一冊の本がきっかけとなっている。英国の文豪チャールズ・ディケンズが1843年に書いた「クリスマス。キャロル」である。内容は守銭奴スクルージがクリスマス・イヴに超常的な体験をして改心というスートリー。ちなみにアンデルセンの「マッチ売りの少女」はその5年後の1848年のことである。クリスマスが本格的に日本に入ってきたのは、明治時代以降のことである。キリスト教の信者がそれほど多くないため、文化的な形だけが定着した。ここに日本のクリスマスの特徴がある。戦後、クリスマスは徐々の家族のイベントになっていまーきます。その後、女性の社会進出が進むとね1980年代には「恋人と過ごす日」というイメージが強くなります。1988年のJR東海のクリスマス・エクスプレスのCMは遠距離恋愛のカップルが新幹線でクリスマスに再会を果たすストーリーを描いたものだ。このCMが(歌・山下達郎)が放映されると、日本において恋人同士でクリスマスを過ごすという新たな文化が生まれるなど社会現象となった。そして「クリスマス・イブは一番大切な人のそばにいたい」というメッセージが拡散されていった。同様のイメージはバブル期のトレンディ・ドラマなどで定着されます。いわば日本のクリスマス=聖夜のイメージは電通がしかけたものであるといえる。(参考:ファビオ・ランべッリ「サンタクロースの文化史のための覚え書き」比較文化論叢 札幌大学文化学院紀要19、2007年)

2024年12月23日 (月)

チッタゴン どこにありますか?

20090405bangladesh_travels100   チッタゴンはダッカに次ぐバングラデシュの第2の都市であり、最大の海港である。人口は350万人を超え、横浜市くらいある。第2都市とは、国家・地方など、ある特定の範囲内において、第1都市に次ぐ都市のこと。アジアにおける第2都市を人口を基準としてあげてみる。

 

 

 

カンダハール(アフガニスタン)
アブダビ(アラブ首長国連邦)
アデン(イエメン)
エルサレム(イスラエル)
バスラ(イラク)
マシュハド(イラン)
デリー(インド)
スラバヤ(インドネシア)
サラーラ(オマーン)
釜山(韓国)
シアヌークビル(カンボジア)
開城(北朝鮮)
ジッダ(サウジアラビア)
アレッポ(シリア)
キャンディ(スリランカ)
チエンマイ(タイ)
高雄市(台湾)
北京(中国)
アンカラ(トルコ)
バクタプル(ネパール)
ラホール(パキスタン)
ラマラ(パレスチナ自治区)
セブ(フィリピン)
パロ(ブータン)
トゥトン(ブルネイ)
ハノイ(ベトナム)
ジョージタウン(マレーシア)
マンダレー(ミャンマー)
ダルハン(モンゴル)
アカバ(ヨルダン)
ルアンパバーン(ラオス)
トリポリ(レバノン)

 

 

 

(Chittagong)

2024年12月22日 (日)

ベート―ヴェン「運命」

  1808年のこの日、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」と第6番「田園」がウィーンでベートーヴェン自身の指揮により初演される。交響曲第5番ハ短調(作品67)を「運命」と呼ぶのは日本だけで、外国ではほとんど通用しない。ベートーヴェンのレコードの解説に由来しているらしい。一説によると、本野虫太郎の「音楽倶楽部」第4巻第10号(昭和4年)の記事「名曲の解説ベートーヴェンの第五交響曲運命ハ短調」が「運命」という言葉がタイトルに使われた最初だという。長らく「運命」は日本だけが使われていたと考えられていたが、最近はドイツでも運命Schicksalssinfonieと使い初められているらしい。((12月22日)

 

 

探検の世界史

 未知の地域を踏破し、調査する事業を探検というが、探検の歴史はそのまま人類の地理的な知識の発展史といえる。 NHKスペシャル「幻の山カカボラジ」2014年3人の日本人登山家の登頂ドキメンタリー。あとわずかのところまで来たものの雪山で断念する。

前1100年 アッシリアのティグラト・ピレセル1世、ティグリス川を探る
前989年、周の穆王、洛陽からウルムチ、オムスク付近までを探る(穆天子伝)
前7世紀末 フェニキア人、エジプト王ネコ(前610~595)の命により、アフリカ海岸を探検
前630年  ギリシアのコラエウス、エーゲ海から地中海を渡り、ジブラルタル海峡を通る。初めて大西洋に達したギリシア人となる
前510年  ペルシアのシラックス、インダス川より出帆、アラビア半島をまわって、エジプトに至る
前470年  カルタゴのハンノ、アフリカの西海岸をシェルブロ海峡まで探検
前401年  ペルシアのギリシア人傭兵クセノフォンの脱出行(~前400年)
前332-326年  マケドニアのアレクサンドロス大王、軍勢をひきいて、中央アジア、エジプト、ペルシアを征服、インダス川に至る
前304年 シリアのメガステネス、大使としてインドへ派遣される
前218年 カルタゴのハンニバル、軍勢をひきいて、スペインからアルプスを越え、イタリアに侵入
前120年 ギリシアのエウドクソス、エウエルゲテス2世によって、エジプトからインドへの海のルートを見つけるため派遣される
前56年 ローマのユリウス・カエサル、フランス・ドイツ・イギリスに遠征
前20年 ローマのストラボン、地理学的な情報を求めて、ヨーロッパ・アジア・エジプト、そしてリビアを旅行した
60-70年 ディオゲネスがナイルの源を見つける
84年    ローマのユリウス・アグリコーラ、イングランドを周航
97年    後漢の班超が甘英をペルシャ湾まで派遣
102年   李広、フェルガナ遠征に成功
114年   ローマがメソポタミアまで遠征し、この時ローマ帝国の境域が最大となる
150年   プトレマイオス、「地理学」を出版
166年   大秦王安敦の使者が中国に来る
255年   ゴート人、ギリシアを侵略する
399年   法顕のインド旅行「仏国記」が書かれる(~414年)
629年   玄奘のインド大旅行(~645年)
730年   イギリスの聖ウィリーバルドがサウザンプトンからイェルサレムに至り、イギリス人として聖地に最初の足跡を残す
1291年  マルコ・ポーロの東方旅行(~1295年)
1325年  イブン・バトゥータがアフリカ・アラビア・ペルシア・インド・中国と大旅行(~1354年)
1445年  ポルトガルのジョアン・フェルナンデス、ヴェルデ岬を発見
1488年  バーソロミュー・ディアス、喜望峰に到達
1492年  コロンブス、北米発見
1497-1499年 アメリゴ・ベスプッチの航海
1498年  バスコダ・ガマ、インド航路の発見
1498年  ジョン・カボット、北米海岸を発見
1500年  カブラル、ブラジル発見
1501-1502年 アメリゴ・ベスプッチ、ブラジル海岸踏査
1508年  カボット、北米を探検し、ハドソン湾を発見し、フロリダまで達した
1513年  バルボア、太平洋を発見
1513年  ポンセ・デ・レオン、フロリダを発見
1519-1522年 マゼラン一行の世界周航
1526年  カボット、ラプラタ川流域を探検(~1527)
1567年  スペインのメンダーニャ、太平洋を航海、ソロモン諸島を発見
1580年   イギリスの海賊フランシス・ドレークが世界一周を達成
1648年   セミョン・デジニョフ、ロシア・チュクチ半島のデジニョフ岬に到達
1701年  イギリスのダンピアがオーストラリア、ニューギニアを探検
1768年  イギリスのジェイムズ・クック、世界周航に成功。ニューカレドニア諸島を発見
1811年  ユングフラウが初登頂された
1849年  イギリスのリヴィングストン、カラハリ砂漠を超えてアフリカ奥地を探検。ザンベジ川およびヴィクトリア湖を発見(~1973)
1858年  イギリスのチャールズ・バリントンがスイスのアイガーを初登頂に成功。
1858年  イギリスのジョン・スピーク、ヴィクトリア湖およびナイル川の源を発見
1878~79年 スウェーデンのノルデンショルド、北極海からベーリング海峡をぬけ、北東航路をひらいた
1880年  イギリスのウィンバー、南米のチンボラソ山に登頂
1893年  スウェーデンのスウェン・ヘディン、チベットおよびモンゴルを探検(~1907年)
1898年  ジョシュア・スローカルが史上初の単独世界一周を達成 
1901年  アニー・エドソン・テイラーが初めてナイアガラ滝を樽に入って下り、生還に成功。
1909年  アメリカのロバート・ピアリー、北極点に到達
1911年  ノルウェーのアムンゼン、南極点に到達
1912年  デンマークの貨客船セランディア号、世界初のエンジンにより航海
1922年  イギリスの探検家マロリーは、当時の最高到達高度、エベレスト8225mに達する
1926年  アメリカのバードとベネット、飛行船で北極点飛行に成功
1927年  アメリカのリンドバーグ、大西洋の横断飛行に成功
1929年  アメリカのバード、南極にリトル・アメリカ基地を設営、飛行機で南極点上を飛ぶ
1947年  ノルウェーのトール・ヘイエルダールがコンティキ号でペルー~ポリネシア8300キロの太平洋漂流実験に成功
1953年  イギリスのヒラリーおよびネパールのテンジン、エヴェレスト山に登頂
1961年  ソ連のガガリーン、ヴォストーク1号に乗って、人類最初の宇宙飛行に成功
1969年  アポロ11号、人類初の月世界到達成功した。全世界の何十億の人がテレビを通じて見守る中を、アームストロングが初めて月面を歩いた人間となった。
1976年  植村直己、グリーンランド~カナダ~アラスカの犬ぞり一人旅に成功
1979年  長谷川恒男、アルプス三大北壁の冬期単独登攀に成功

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年12月21日 (土)

国定忠治、磔刑となる

Photo1 国定忠治慰霊碑

 

   戦前の日本の時代劇でいちばん人気があったヒーローは、四十七士の面々を別とすれば、「赤城の山も今宵限り」でおなじみの国定忠治(1810-1850)ではあるまいか。舞台では澤田正二郎だが、活動写真ではギョロリと目玉をむいた尾上松之助が国定忠治を演じている。「国定忠治(日光円蔵と国定忠治)」(大正3年)、「国定忠治」(大正7年)など。だが目玉の松ちゃんの映画は歌舞伎調で女優を使わず女形がでている。阪東妻三郎などのスマートな役者が現れると古臭く感じられた。そんなとき昭和2年に大河内伝次郎の「忠治旅日記」三部作が大ヒットした。群馬県の誇るモダニズムの詩人・萩原朔太郎も国定忠治に入れ込んでわざわざ自転車で忠治の墓まで出かけて詠んだ詩がある。

 

 わが村に来りし時

 上州の蚕すでに終りて

 農家みな冬の閾を閉ざしたり

 太陽は埃に暗く

 悽而たる竹藪の影

 人生の貧しき惨苦を感ずるなり。

 見よ 此処に無用の石

 路傍の笹の風に吹かれて

 無頼の眠りたる墓は立てり。

   萩原朔太郎は、おそらく伊藤大輔の映画「忠治旅日記」を見たことであろう。彼の訪れた忠治の墓は金城山養寿寺(伊勢崎市国定町)の墓だろう。これとは別に忠治の処刑場跡には「侠客国定忠治慰霊碑」がある。(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)

   国定忠治が大戸で磔刑になったのは41歳のときである。嘉永3年12月21日。師走で雪が降って、錆槍が縦横に突き刺した。忠治には一人の男の子がいたことはあまり知られていない。もちろん勘太郎ではない。勘太郎は勘助の子である。大谷国次(1844-1867)、幼名を寅次という。忠治の刑死後、その母お貞は寅次を連れて、貞の父である大久保一角の生地・野州都賀郡大久保村へ行き、出流山千手院にたくして僧となり千乗と名乗った。寅次は生来、武芸が好きであり、僧になることを好まず武術家になることを志し、還俗する。戊辰戦争の折には、慶応3年、官軍の出流山挙兵のとき、大谷刑部と改名し、軍資の調達に奔走する。岩船山の戦いで幕府軍に捕らえられて、慶応3年12月18日、佐野河原で処刑された。わずか24歳であった。大谷国次の名前は人名事典に収録されているが、勘太郎より年上であるが、お芝居には登場しないのはなぜだろうか。中風で病む忠治を訪ねて成長した国次と親子の対面。そのとき名刀の小松五郎義兼を渡され、父の形見の名刀を抱いて国次は幕末の国事に大活躍というチャンバラ映画があってもよさそうに思うのだが。どうやら国次の実在性を疑問視する学者もあるらしい。

2024年12月20日 (金)

ナルマダ川

 インドの地形は、3つの地域に分かれる。つまり、北部インド、デカン地方、南部インドで、これは地理的な自然区分である。北部インドは、北側ではヒマラヤ山脈が境界となっており、南の境界はナルマダ川とヴィンディヤ山脈である。ナルマダ川は全長1290kmでインドの中部をおおむね東西方向に流れている。南インドとデカン王朝の国境地帯となり係争地となった。ヒンドゥー教の聖なる河の一つで、沿岸には聖地が多くある。

英領インドにおける高等文官制度

 1853年のセポイの反乱が起きたのち、イギリスはインドをたんに搾取の対象と考えるのではだめだということに気づく。そのため、東インド会社なよるインド支配を廃止し、これに代わる直接統治のための新しい行税機構を作った。インド高等文官制度(Indian Civil Service)といわれるもので、千人前後のエリート青年が大植民地を管理する精鋭として送り込まれた。1880年代以降、道路網や運河、鉄道などが急速に整備された。

参考:「1880年代英領インドにおける植民地官僚制改革問題について」本田毅彦 史林73巻1号 1990年  

2024年12月19日 (木)

大岡越前と天一坊事件

 宝暦元年のこの日、大岡忠相死す。公正な裁判で名奉行とよばれ、映画などでは天一坊事件が広く知られている。享保14年(1729年)4月21日、将軍吉宗の落胤を名乗る天一坊改行(1699-1729)が品川で死罪の上、獄門となった。天一坊のもとに集まっていた常楽院(赤川大膳)や山内伊賀亮など浪人たちも遠島や江戸払いとなる。

    天一坊の正体は紀州田辺の生まれで、幼名は半之助というが真偽は定かではない。「大岡政談」では宝沢(ほうたく)という感応院というお寺の小坊主となっている。享保日録等の史料に見え、天一坊は実在の人物と思われるが、将軍家を揺るがすような大事件ではなかった。大岡忠相の名裁きの一つとされるが、実際には大岡忠相はこの事件には全く関係していない。(12月19日)

 

 

2024年12月18日 (水)

インドの多様性と統一性

  インドには14億以上の人々が日本の約9倍の面積にあたる広い国土に住んでいる。UNFPAの推計によると、インドの人口は14億4,170万人(2024年現在)に達し、中国をぬいて世界一の人口になっている。その人種と民族もきわめて複雑な構成を示している。言語は方言を含むと800種類以上が数えられる。法律で認められている言語は、ヒンディー語、ベンガル語、マラーティー語、テルグ語、タミル語、ウルドゥー語、グジャラート語、カンナダ語、オリアー語、パンジャーブ語、マラヤ―ラム語、サンスクリット語、オリヤー語、ビハール語、ラージャスターン語、アッサム語、ビリー語、サンタル語、カシミール語などの22言語がある。言語の問題は、この国の文化的統一をはかるうえで非常に重要な意味をもっている。

  インドは「嫌悪すべきものと崇高なもののすべてを包含している」「インドの多様性ときたら大変なものである。それはもう、はっきりとしたものだ」という、ジャワハルラール・ネルーの言葉に示されるように、多様性を持ち、はげしい矛盾に満ちた複雑な国である。われわれはインドの歴史を研究すればするほどインド文化が、単一の基盤から成り立っているのではないことを教えられる。インドの美術や文化をみても、紀元前2500年頃にインダス河流域に繁栄したインダス文化は現在ではパキスタンの領土となっている。また西暦1世紀頃から起こったガンダーラ美術も従来はインド美術として考えられているがやはり現在の領域でいえばパキスタンの美術として考えなければならない。つまりインドという名称は、インド大陸だけをさす場合と、東西パキスタンを含めて拡大されたインドの2つがある。「インド亜大陸」といえば、バングラデシュ・ネパール・ブータンなどの国々を含めることが多い。

  そもそもインドという地名の語源は、インド・アーリア人の言語で「川」を意味する「シンドゥ(sindhu)という語にある。この普通名詞が、彼らがインドで接した大河、インダス川の意味にも使われるようになりさらに、インダス川の流れる広大な土地の意味にもなった。この「シンドゥ」という地名をペルシア人がなまって「ヒンドゥ」と呼び、さらにこれをギリシア人がなまって「インディア」と呼んだ。このギリシア語なまりが、ヨーロッパで使われるようになったのである。

   ヒンドゥー社会は、ヴァルナによる身分枠と各自が生まれながらに属するジャーティとよばれる社会集団によって規定されてきた。このヴァルナとジャーティを合わせたインド特有の社会制度がカースト制度である。今日では、カースト制度による差別は憲法で禁止されているが、現実社会にはいまもなお結婚などに根強く残っている。

13世紀にイスラーム教がインドに伝わり、ヒンドゥー教の影響を受け生まれたイスラーム文化、ムガール帝国の庇護下で発展した。17世紀後半、アウランゼーブ帝は、ジズヤの復活やヒンドゥー教寺院の破壊など、ヒンドゥー文化への抑圧策をとった。そのため彼らの離反を招き、帝国内は混乱に陥る。さらにイギリスやフランスがインドへの進出を狙っており、帝国に危機が迫っていた。

参考文献:「アーリヤ人の誕生」長田俊樹 講談社学術文庫

 

 

 

 

ハリウッドのイタリア女優

  イタリア女優ヴィルナ・リージ2014年12月18日、ローマの自宅で死去した。60年代ハリウッドに進出し国際派女優として活躍。イタリア女優がハリウッド進出の成功例が数少ないのは、ドイツのエルケ・ソマーのように語学が堪能でないと言葉の壁がある。ソフィア・ローレンやクラウディア・カルディナーレですら大成功したとはいえない。戦後、イタリアからハリウッドに進出した女優を年代順にあげてみる。

 

アリダ・ヴァリ 「パラダイン夫人の恋」  1947

 

ジーナ・ロロブリジーダ 「悪魔をやっつけろ」 1953

 

ピア・アンジェリ「傷だらけの栄光」 1956

 

ソフィア・ローレン「誇りと情熱」 1957

 

クラウディア・カルディナーレ「ピンクの豹」 1963

 

ヴィルナ・リージ「女房の殺し方教えます」 1965

 

シルヴァ・コシナ「キッスは殺しのサイン」 1967

 

モニカ・ベルッチ「ドラキュラ」 1992

東京駅開業(大正3年)

Photo

  6年の歳月をかけた東京駅は、大正3年3月19日、完成し、その年の12月18日に完成式と開業が行われた。設計者は辰野金吾(画像 1854-1919)。鉄骨レンガ、石材造りの3階建て。ルネサンス調建造物として近代西洋建築の頂点を示している。 

931   100年以上の歴史ある東京駅だが、最大の事件といえば、大正10年に起きた原首相の暗殺事件であろう。原敬(1856-1921)は11月4日、中岡艮一により刺殺された。66歳。背後関係はいまだ不明である。

2024年12月16日 (月)

風呂敷の話

 物を包むのに用いる方形の布を「風呂敷」と呼んでいる。起源は奈良時代に遡ることができるが、平安時代には「平包(ひらづつみ)」と呼ばれて、庶民が衣類を包んで頭にのせて運んでいる様子が描かれている。江戸時代、銭湯が盛んとなり、風呂に敷く布を包むことから「風呂敷」と広く呼ばれるようになった。また江戸時代から、女たちが「お高祖(こそ)頭巾」として用いられている。(参考:風呂敷関係年表 竹村昭彦「風呂敷」日貿出版社 2008年)

 

2024年12月15日 (日)

年賀状じまい

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   郵便も やや遠のきし 六日かな (蘭聚)

 そろそろ年賀状の準備をする頃となった。やはり正月の楽しみは年賀状だろう。江戸時代には武家も町人も、年始回りで、新年の挨拶をした。江戸城には元日早朝から、将軍家に挨拶する人たちがぞくぞくと集まってきた。町人も得意先や近所に年始回り。職人は親方のところへ、子供も寺子屋のお師匠さんに挨拶に行った。ただ、年始回りに行ったが、先生も年始回りに行って留守だった、とか、あまりに年始客が多すぎていちいち顔を出していられない、という場合もあった。そういうときは、玄関に置いてある帳面に名前を書いて帰った。それでも、先生の家が遠方だったりして、どうしても回りきれないところが出てくる。そのため、松の内が終わってから、年賀状を書いて飛脚に託したり、お使いの人に持って行かせたりした。

   明治になっても、年始回りの習慣は続いた。ただ、社会的にも個人的にも人々の交際範囲は広がり、松の内の年始回りでは追いつかなくなった。いきおい、年賀状ですませるのだが、その時期に日本にも普及しだした郵便制度である。明治6年、郵便葉書の発行により、はがきで年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。もちろん、このころは年が明けてから書いた。ところが、知恵者がいて、正月に配達する年賀状を暮れのうちから受けつけたらどうだろう、と思いついた。明治32年、年賀郵便特別取扱制度ができた。明治38年には全国どこの郵便局でも前年のうちに年賀状を受け付けることになった。昭和12年には現在のように12月15日から25日までの間に投函する、元日に届く年賀郵便の特別扱いが開始された。ちなみにお年玉付き年賀状は昭和25年に始まり、京都の林正治(1909-1990)のアイデアである。近年は高齢化やメール、SNSの普及で、2003年が44億枚をピークで、そこから減少傾向となり、2021年はついに20億枚を下回っている。わが家でも郵便料金も値上がりしたし、私も体調が悪いので「年賀状じまい」にしている。

風と共に去りぬ

  映画史上ナンバーワンの文芸大作、南北戦争をはさんだスカーレット・オハラの波乱万丈の人生を描くMGM映画「風と共に去りぬ」。1939年12月15日、アトランタで映画「風と共に去りぬ」が封切りされ、以後世界中で公開された。日本公開は戦後で昭和27年9月だった。GWTWと頭文字だけで愛称されている映画史上最も人気が高い作品の一つだろう。いまから80年ほど前の作品だが主要キャストで存命している俳優はいるのか?妹役のイヴリン・キースは2008年に91歳で、アン・ラザフォードも2012年に94歳で亡くなっている。生存する出演者は子役のエキストラを除いてはおそらくいないだろう。スカーレット、バトラー、アシュレー、メラニー、不朽の名作を支えた4人の俳優の中で、一番早く亡くなったのはレスリー・ハワードである。第二次大戦に従軍し、1943年6月1日、飛行機が敵機の攻撃を受けて、戦死した。

 

 

 

2024年12月14日 (土)

荼毘に付す(日本語になったサンスクリット語)

 サンスクリットは古代から中世にかけて、インド亜大陸や東南アジアにおいて用いられてきた言語。現在の母語話者は少ないが死語ではなく、インドでは憲法で認知された22の公用語の1つである。漢語で「梵語」という。漢字で音写され、その漢字音が日本で変化した結果、元の発音とは大きく異なるものが多い。日本には仏教経由で伝来した語が多い。

 「旦那」は寺院や僧侶に布施をする「施主」や「檀家」の意味として主に僧侶が用いる言葉であったが、旦那の語は一般に広まり、妻が夫を、商家の奉公人が主人を呼ぶときに用いる敬称となった。

   「彼岸」とはその名の通り「岸の向こう」。その向こうの岸とは悟りの世界のこと。サンスクリットではバーラミター(波羅密多)という。「河の向こう」の意味。迷いの世界(此岸)に対する言葉であるが、日本の信仰では死後は阿弥陀如来の導きにより人は彼岸に渡ることができる、と考えられているため、彼岸の仏事の習慣がある。

 「閼伽(あか)」は本来「価値あるもの」の意味。仏前に供える神聖な水や花を呼ぶようになった。

「荼毘に付す」は、火葬をするを意味する。サンスクリット語の「ジャーベティ」の音の漢訳。「荼(だ)」という漢字は、「茶」ではなく、苦しみや害悪という意味があり、「毘(び)」は助けるという意味がある。

    このほか日本語にはサンスクリットからきた言葉は多い。「お盆」は「ウラバンナ」に由来する。「刹那」は「クシャナ」に由来。時間の最小単位。「奈落」は「ナラカ」に由来。地獄を意味する。「涅槃」は「ニルヴァーナ」に由来。「鳥居」は「トーラナ」に由来。アーチ型の門を意味する。お布施。「僧伽」は「サンガ」に由来する。僧侶のこと。(Sanskrit,ullambana,naraka,dana,samgha,stapa)

阿闍梨(アーチャルヤ)、奈落、伽藍、塔、卒塔婆(ストゥーパ)、旦那(ダーナ・パティ)、しくゃみ、韋駄天、境内、達磨、餓鬼、舎利(、シャーリ)、涅槃(ニルヴァーナ)、娑婆(シャバ)、菩薩(ボーティサットバ)、鳥居、(トーラナ)、痘痕、お盆(ウラバンナ)、彼岸、荼毘、鉢(パートラ)、かわら(カバーラ)、栴檀、空、沙門、袈裟、月、飛鳥、かさぶた(アルブタ)、玄関、、相好、馬鹿、おっかあ、とうさん。

 

 

なぜ日本人は忠臣蔵が好きなのか

Img_0029 市川海老蔵の天川屋義平

 

   本日は赤穂義士討ち入りの日。今日の時刻では15日の午前4時頃だが、むかしから慣例として14日に祭りがある。映画「最後の忠臣蔵」舞台あいさつで、佐藤浩市が共演の桜庭ななみを暴露。大石内蔵助の娘・可音を演じる桜庭は初め忠臣蔵の話を全然知らなかった。亡君復讐劇ということも、赤穂義挙も、内匠頭と上野介も、松の廊下刃傷も、四十七士吉良邸討ち入りも、本懐達成、高輪泉岳寺墓参も知らない。つまり若い人で知らない世代もでてくるから、忠臣蔵はいつも新鮮な話で永遠に終わらないということだ。視点を変えれば、いくらでも話のタネはつきない。増上寺畳替、烏帽子大紋、脇坂淡路守、判官切腹、赤穂開城、勘平と定九郎、与市兵衛、お軽・勘平、山科閑居、一力茶屋、南部坂雪の別れ、徳利の別れ、天川屋義平、垣見五郎兵衛、神崎与五郎東下り、加古川本蔵、堪忍袋詫び証文、笹売り源五、毛利小平太など脱盟者、茶会、吉良邸絵図面、本所松阪町、俵星玄蕃、清水一角、南部坂雪の別れ、寺坂吉衛門など忠臣蔵外伝、エピソードの宝庫つまり忠臣蔵。それにしても日本人は忠臣蔵が大好きである。ところが最近は新作が無くなったのはなぜだろうか?理由は忠臣蔵はオールスター総出演が相場で、ギャラや製作費に膨大なお金がかかり儲からないからであろう。 (12月14日)

 

 

2024年12月12日 (木)

ラディゲとベアトリス

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 ベアトリス・ヘイスティングス

   1914年、モディリアーニ(1884-1920)は、ザッキン(1890-1967)の紹介でイギリスの女流詩人でジャーナリストであるベアトリス・へイスティングス(1879-1943)を知る。彼女は北アフリカに生まれ、へイスティングスと結婚するも、間もなく別居。ロンドンへ行き週刊誌「ニューエイジ」のパリ特派員としてモンパルナスのノルヴァン街13番地に住んでいた。詩人エズラ・バウンドを発見し、小説家キャサリン・マンスフィールドと交友があった。モディリアーニは教養が高く、女権論者の5歳年上のベアトリスに惹かれた。やがて2人は恋仲となり同棲する。ベアトリスをめぐる詩人マックス・ジャコブ(1876-1944)との三角関係も1916年半ばには破局を迎えた。その後、ベアトリスはかつてモディリアーニから紹介されたレイモン・ラディゲ(1903-1923)と関係を持つようになる。ラディゲは年上女性との体験をもとに「肉体の悪魔」を1919年ころから書き始め、1923年に完成しベストセラーとなった。ラディゲは腸チフスにかかり、1923年12月12日、パリの病院で20歳の若い生涯を閉じた。ベアトリスはその後ファシズムのシンパとなったが、1943年に自殺している。翌年、ベアトリスの昔の恋人マックス・ジャコブもユダヤ人強制収容所で病死している。

2024年12月 8日 (日)

吉良邸討ち入りにかかる費用は?

 映画「決算!忠臣蔵」。原作は山本博文の「忠臣蔵の決算書」(新潮選書)討ち入りには莫大なお金がかかる。江戸と上方を往復する交通費、浪士たちの江戸での生活費、武器購入などの軍事費、浅野内匠頭の墓を建てる、などなどの仏事にも多大な費用がいる。内蔵助の敵をあざむくための祇園での放蕩は史実であろうか。さまざまな謎がわいてくる。神奈川県の箱根神社には「預金候金銀受払帳」の原本が所蔵されている。同社は仇討の元祖として有名な曽我兄弟と深い関わりを持ち、江戸時代には既に「仇討の神様」として広く知られていたのである。この史料によると討ち入りにかかった総額は約969両(現在の金額で約8200万円)と計上されている。最後に討ち入りのために江戸に下る旅費は、1人一律3両が渡されたとある。

 

太平洋戦争開戦記念日

十二月八日よ母が寒がりぬ(榎本好宏)

  昭和16年12月8日。この日から何年経っても、日本人には決して忘れられない日である。この日を境に人々は戦争に巻き込まれ、多くの人々の運命が暗転した。陸軍がマレー半島に上陸してイギリス軍を攻撃し、同時に海軍がハワイの真珠湾を攻撃した。米大統領ルーズベルトはこれを激しく非難して、アメリカ国民を結束させた。昭和17年6月、ミッドウェー海戦において日本は主要航空母艦3隻の沈没をはじめ致命的な敗北を喫した。8月には米軍はガダルカナル島上陸し反攻体制をととのえ始めた。昭和19年7月、日本軍がサイパン島で全滅、8月グアム島・テニアン島も占領された。米軍の進攻はさらに進み、昭和20年3月には小笠原諸島南端の硫黄島が、6月には沖縄本島が攻略され、日本の敗戦は濃厚となった。しかし、軍部は「一億玉砕」を叫び、本土決戦を強く主張した。昭和20年7月28日、無条件降伏を勧告したポツダム宣言が発表されたが、日本はこれを「黙殺する」との談話を発表した。米軍は8月6日広島、9日長崎に原子爆弾を投下した。昭和天皇は14日の御前会議でポツダム宣言の受諾を決定し、翌15日、降伏をラジオで放送し、ここに太平洋戦争は終結した。

  昭和39年に集英社から刊行された「昭和戦争文学全集」の第4巻には昭和16年12月8日の対米英戦争開始から昭和17年5月のコレヒドール攻略、珊瑚海海戦頃までの、緒戦の時期に関する記録・作品が収められている。なかでも12月8日の記録としては、太宰治、坂口安吾、伊藤整、高村光太郎、徳田秋声など諸家のものがあるが、上林暁の「歴史の日」(「新潮」昭和17年2月号)という手記が一番素直な気持ちで当時の空気を今日のわれわれに伝えているような気がする。

昭和16年12月8日は、遂に歴史の日になってしまった。(中略)隣のラジオが突然臨時ニュースの放送をはじめたのであった。「大本営陸海軍部発表、12月8日午前6時、帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れリ」(中略)その時、妹が庭で干し物をしていて、隣の女中が、垣根越しに、話しかけている。何を話しているのかと思って耳を立てると、「今朝はとってもひどい霜ね」と隣の女中が言った。「屋根が雪みたようでしたね」と妹が答えた。戦争のはじまった朝だから、霜の印象が深いのにちがいない。そうかと思って、私は目をあげた。隣の屋根が水びたしになって濡れている。うちの樋からは湯気が立っている。私はそれを見ながら、戦争のはじまった朝に、隣の女中が、霜の話をしたのが、印象に深く残るであろうと思った。

    当時、上林暁(1902-1980)は39歳。妻の繁子が昭和14年から入院中であった。上林は9年間患い死んでいった妻のことを書いた一連の作品「聖ヨハネ病院にて」(1946)などで知られる作家である。この「歴史の日」でも病妻のことに触れている。自分の心境を書く小説家と、未曾有の国家的事件発生でとまどう不安な心理状況が文面からうかがえる。

2024年12月 7日 (土)

クリスマスツリーの日

Tumblr_mfhf4o9lle1qbn3ato1_500  本日は「クリスマスツリーの日」。明治19年、横浜で外国人船員のために、日本初のクリスマスツリーが飾られたことによる。日本人が初めてクリスマスを祝ったのは、明治7年、米国長老教会の宣教師の指導の下、原胤昭(1853-1942)が東京・築地湊の第一長老教会で催したクリスマス祝会で、戸田忠厚という者が裃をつけ、大小脇差を携えて、大森カツラをかぶったお殿様姿でサンタクロースとして登場した。同年中、この教会で受洗し後牧師となる田村直臣も、この祝会に参加したが、「さんたくろすがとんなものか見たことはなく、クリスマスとどう関係があるかも知らず、ただのその名前が大変奇妙に聞えた」と述懐している。明治31年、進藤信義が日曜学校の子供向け教材として作成した冊子「さんたくろう」(三太九郎)の扉絵は、ロバを従えクリスマスツリーを抱えて、ややドイツ風のサンタクロースであった。(12月7日)

キケロとカティリナ事件

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 元老院で演説するキケロ(左)  マッカリ筆のフレスコ画

   紀元前43年のこの日、古代ローマの政治家マルクス・トゥッリウス・キケロが暗殺される。雄弁家キケロといえば。カティリナ事件が知られる。没落貴族カティリナは、エトルリアを中心として各地に植民しているスラの退役兵など不平分子を戦力基盤としてクーデターを計画していた。前63年、執政官キケロは元老院でカティリナを激しく非難し、死刑にするように提案した。カトも賛意を示したが、カエサルはカティリナが有罪であることには同意したが、懲役にするべきと主張し二人は対立する。カトはカエサルがカティリナ派と共謀したとして攻撃した。カティリナはイタリア北部へ逃れて挙兵したが、ローマ軍との戦いで敗死した。キケロは三頭政治の混乱期に共和制擁護に努めたが、前43年アントニウスの部下に暗殺されて首と手はローマに曝された。(Marcus Tullius Cicero,12月7日)

2024年12月 4日 (水)

歩きたいのよ狸穴

44923231_624   地名の読み方は難しい。かつて東京にロシア大使館があるので有名な「狸穴町」という町名があった(現在は町名変更で麻布二丁目)。「まみあな」と読む。「別れても好きな人」の二番の歌詞に「狸穴」がでてくる。のちに「高輪」に変更された。

竹田城跡がある兵庫県朝来市は「あさご」、和歌山県西牟婁郡の朝来駅は「あっそ」と読む。佐賀県有田町は「ありた」、みかんで有名な和歌山県有田市は「ありだ」と読む。

    むかし連続クイズホールドオンで「放出」の読みが出題されていた。大阪人なら分かるが、他府県の人にはなかなか読みにくい地名。「はなてん」大阪鶴見区の地名。ハナチイデがなまったという。「放出」は本来、寝殿または母屋から続けて外へ建て出した建物のことをいう。

    ちょっと北海道から沖縄まで難読地名の旅に出かけます。(廃止地名も含めた)

北海道釧路町 「冬窓床」 ぶいま

 

青森県 「温湯温泉」 ぬるゆおんせん

 

岩手県 「花原市」 けばらいち

 

宮城県 「鬼首」 おにこうべ

 

秋田県 「鹿角市」 かづのし

 

山形県 「及位」 のぞき

 

福島県 「牛転」 うしころばし

 

茨城県 「水海道市」 みつかいどう

 

栃木県 「石裂山」 おざくさん

 

群馬県 「嬬恋村」 つまごいむら

 

埼玉県 「幸手市」 さってし

 

千葉県 「行川アイランド」 なめかわ

 

東京都 「福生市」 ふっさし

 

神奈川県 「酒匂川」 さかわがわ

 

富山県 「婦負」 ねい

 

石川県 「羽咋」 はくい

 

愛知県 「幡豆」 はず

 

京都府 「綴喜」 つづき

 

奈良県 「櫛羅」 くじら

 

兵庫県 「宍粟」 しそう

 

和歌山県 「学文路」 かむろ

 

島根県 「簸川」 ひかわ

 

愛媛県 「馬刀新」 まてがた

 

福岡県 「猿喰」 さるはみ

 

長崎県 「西彼杵」 にしそのぎ

 

佐賀県 「馬渡島」 まだらしま

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

聖バルバラの日

 1世紀ごろ、ローマ帝国は、国家の神々の尊崇を人民の義務とはしたが、諸宗教に寛容なことが統治の良策であると考え、国家宗教を外形的に認めるならば、これとならんで他宗教を崇拝することは妨げなかった。キリスト教は、その特異な性格のため異教徒の民衆のあいだで早くから憎悪されていたが、はじめユダヤ教の一派と認められていたから、アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウスなどの皇帝たちはおおむね寛容に取り扱っていた。国家による迫害はきわめてまれで、64年のネロの迫害も、ローマ市の大火災の責任を民衆に憎悪されているキリスト教徒に転嫁しようという特殊事情にもとづくものであり、迫害の範囲もローマ市に限られていた。エルサレム陥落後、キリスト教とユダヤ教の対立、キリスト教の独立の存在が明らかとなり、つづいて皇帝崇拝が強化されていく時代にキリスト教徒が皇帝崇拝を拒絶するにおよんで、ドミティアヌス、トラヤヌス、ハドリアヌス、マルクス・アウレリウスなどの治下に、やや大規模な迫害がおこなわれた。しかしこれらも全帝国にわたるものではなく、また継続的なものでもなかった。迫害されたキリスト教徒は、地下に深く迷路のように掘られたカタコンベなどに逃れて信仰を続けた。キリスト教への信仰に目覚めた少女バルバラが処刑された。303年、伝統的なローマの神々への信仰を重んじ、皇帝崇拝を強制したディオクレティアヌス帝が大迫害を行ったが、ますます増える信者の勢いに、迫害より懐柔と、313年、コンスタンティヌス帝はミラノ勅令によってキリスト教を公認。たちまち教会組織が整えられ、聖職者の身分が生れた。(catacombe、12月4日)

2024年12月 3日 (火)

芸能人同士の結婚

   純烈の後上翔太&元AKBの横山由依が結婚を発表。2人はどこで知り合ったのだろう。最近はドラマや映画で共演してそのまま現実の世界でも結婚なんて話がよくある。高畑充希&岡田将生、星野源&新垣結衣が典型だろう。岡田准一&宮崎あおい、福山雅治&吹石一恵、片岡愛之助&藤原紀香、高橋一生&飯豊まりえ、山田裕貴&西野七瀬、松岡茉優&有岡大貴、向井理&国仲涼子、堀北真希&山本耕史などなど続々と結婚ラッシュ。福山と吹石は共演作はなにか?調べてみたが大河ドラマ出演は「龍馬伝」と「平清盛」でニアミスしたものの、共演はない。むかし同じ映画会社の所属のスター同士の結婚は禁止だったそうだ。それを破って結婚したのが石原裕次郎。「狂った果実」で共演した北原三枝と4年後には豪華な結婚式を挙げている。

デルマーバ半島

   アメリカの半島といえば「フロリダ半島」や「カリフォルニア半島」がいちばんに浮かぶが、デルマーバ半島という地名はあまり聞かない。デラウエア湾とチェサピーク湾とに挟まれたワシントンに近い位置にあり、重要な地名であるが、学校では教えないし、「地名・地理辞典」(数研出版社)にもない。デルマーバという地名は、デラウェア州(DELaware)、メリーランド州(MARyland)、バージニア州(VirginiA)からの合成地名である。世界の主な半島は、面積規模の順で、アラビア半島、インド半島、ラブラドル半島、スカンジナビア半島、イベリア半島、インドシナ半島、アナトリア半島、バルカン半島、カムチャツカ半島、マレー半島、朝鮮半島、ヨーク岬半島、イタリア半島、バハ・カリフォルニア半島、フロリダ半島、ブーシア半島、ソマリア半島など。インドネシアのスラウェシ島のミナハサ半島は北から東方向へ長さ約600㎞と非常に細長く伸びている半島である。(ちなみにJRの東京~大阪間が556.4㎞)。

 

 

 

 

 

 

みかんの日

Photo_4 きょうは「みかんの日」。「いいみっか(3日)ん」の語呂合わせ。市場でミカンがみかける頃となった。日本の正月風景は、家族で囲んだ炬燵があり、その上に必ずミカンがあるというのが定番である。日本のミカンはオレンジと違い、テレビを観ながらでも手で皮がむけることからアメリカでは「テレビオレンジ」という愛称があるそうだ。とくに温州ミカンは、日本の全柑橘生産量の約4分の3を占めている。温州ミカンの歴史は意外と新しく、明治時代中期以降のことである。有吉佐和子の小説「有田川」には、「紀州ミカン」が「温州ミカン」と移り変わる明治33年当時のようすが描かれている。果実が100gにもなる温州ミカンと50gほどの小ミカンでは勝負は明らかだった。温州(うんしゅう)みかんの呼び名は、江戸時代の本草学者が中国のミカンの名産地である浙江省温州府という古名に因んだものである。原産地は浙江省とは無関係で、鹿児島県出水郡長島町であり、筑後地方に入って各地に広まった。

   近年は温州市は高度な経済発展をとげる中国人が住むところとして、「温州商人」という呼称がある。投資と商才に長けた人たちをさす。(12月3日)

 

 

 

 

2024年12月 2日 (月)

皇帝ナポレオン(1804年)

   1804年のこの日、ナポレオン・ボナパルトの戴冠式がローマ教皇ピウス7世臨席下、パリのノートルダム大聖堂で行われフランス皇帝に即位した。慣例では、フランスのランス大司教が王冠をかぶせるところ、ナポレオンはみずから戴冠し、皇后ジョセフィーヌに自分の手で王冠を授け、自己の権力を誇示した。ナポレオンは、みずからを、1000年前にローマ皇帝として戴冠したカール大帝になぞらえていた。皇帝の依頼で大作を制作した画家ダヴィッドは完成に手こずり、実際に出来上がったのは戴冠式から3年の後のことであった。(12月2日)

2024年12月 1日 (日)

師走の語源

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 きょうから12月、「師走(しわす)」とは、読んで字の如く、「師(僧侶)が忙しく走り回る月」のことだから、というのは俗説で、12月を「しはす」というのは万葉時代からのことばである。

しはすには 沫雪(あわゆき)降ると 知らぬかも 梅の花咲く 含(ふふ)めらずして

 「万葉集」にこの一首だけ「しはす」がでてくる。

    江戸時代の学者、新井白石は万葉時代に「極」の字を読んで「ハツ」というので、俗に「極月」の字を用いて「しはす」と読んだと説いている。

    では「しはす」をなぜ「師走」と書くようになったのか、諸説があってはっきりしない。平安時代の仁明天皇の承和5年12月から仏名会という行事が行われるようになって、法師がお経を読むため、師匠も趨走するので、「師趨(しすう)」という。「師馳月(しはせづき)」であるともいい、それが略されたものだという。広辞苑を引くと「師走比丘尼」(しわすびくに)という語がある。「おちぶれて姿のみすぼらしい比丘尼」という意味。「師走坊主」「師走浪人」という語もある。江戸時代には師走は「人が極限状態にまでおちぶれやつれること」の形容でもあった。師走とは本来、極限という意味があって、1年の終りと言う意味で「師走」という漢字が充てられたのだろうか。「大言海」では「歳極」(としはす)の略転、あるいは「万事、為果(しは)つ月」の意からきたのではないかとしている。

     12月の別称は他にも多数ある。春待月、親子月、極月、梅初月、年よ積月、暮古月、三冬月、厳月、臘月、弟月、除月、蜡月(せきつき)、窮月、小歳、暮節、暮歳、嘉平、清祀、凋年、未垂、窮年、四極、三余、大呂、残冬、黄冬、晩冬などがある。(12月1日)

なんとなく しはすの空に なりにけり あはれかさなる 年の数かな

 

 

メイフラワー号(「メ」事項索引)

 「メイフラワー号」1620年、宗教上の迫害をのがれて清教徒30人を含む102人を乗せたメイフラワー号はイギリスのプリマス港を出帆し、大西洋を約65日かかって渡り、アメリカ東部マサチューセッツ州のコッド岬に到着し、のちプリマスに上陸した。彼らはやがてピルグリム・ファーザーズとよばれることになる。▽「メソロンギオン」ギリシア南部の町。イギリスの詩人バイロンはギリシア独立戦争に参加後、この町で客死した。▽「メーメル地方」バルト海に面したリトアニアに属する地域で、現在はクライぺダと呼ばれる。▽「明応の政変」1493年、足利義澄を擁した細川政元が将軍足利義稙を排斥し、幕府の実権を握る。(めめめ)


目明(めあかし)
雌阿寒温泉
メアリ1世
メアリ―・セレスト号
明応の政変
迷宮入り
メイエルホリド
冥王星
明月記
名刺
明治維新
明治神宮
名神高速道路(1963年)
メイソン・ディクソン線
命題
明徳の乱
明白な天命
メイフラワー号
メイラード反応
名誉革命
明暦の大火
明六社
メガステネス
目からウロコ
メキシコ
メキシコ革命
メグレ警部
メシア
メスティーソ
珍敷塚古墳(めずらしづか)
メソアメリカ文明
メソジスト
メゾチント
メソポタミア
メソロンギオン(ギリシア)
メダカ
メタセコイア
メダルチギ
メッカ
メッテルニヒ
滅満興漢
馬手(めて)
メーデー
メディア
メディチ家
メディナ
メディナ・デル・カンポ条約
メーテルリンク
メトロポリタン美術館
メナンドロス
目には目を、歯には歯を
メニエール症候群
メネラウスの定理
メバラゲシ
メービウスの帯
メフメト2世
めまい
メーメル地方(リトアニア)
目安箱
目病み女に風邪ひき男
メラネシア
メランヒトン
メリーさんのひつじ
メリナ王国
メルセン条約
メロヴィング朝
メロエ
メロエ文字
メロリアの戦(1284)
メロンパン
メーン州
メンサ
免罪符
メンシェヴィキ
メンデル
メンデルスゾーン
メンフィス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画の日

 現在、いつでも家で映画が簡単に観られるようになった。でもやっぱり映画は映画館で観たいものである。神戸湊川神社前の高橋鉄砲店の2代目店主の高橋信治、大阪心斎橋の三木福時計店店主の三木福助がリネル商会(神戸居留地14番)を通じてキネトスコープを輸入し、神戸の料亭「宇治川常盤」で明治29年11月17日に上映したのが日本で最初の映画公開である。キネトスコープとはエジソンが発明したもので、レンズをのぞいて箱の中の動画を見る装置。

    一般の人にもキネトスコープを公開しようということで、神戸花隈の有料貸席「神戸倶楽部」が11月25日から12月1日まで興行された。馬車と自転車の競走などの簡単な映像であったが、好評だった。「12月1日は映画の日」というのは、これに因んできりのよい日という理由で昭和31年に制定されたものである。▽「ターミネーター」シリーズ最新作「ターミネーター・ニューフェイト」が公開中だが、興行的に世界中でコケたらしい。▽最新の恋愛映画は「ラスト・クリスマス」エミリア・クラークとヘンリー・ゴールディング。でもエミリアは33歳で大人女子。相手役のヘンリー・ゴールディングはマレーシアのイケメン俳優。▽「花束みたいな恋をした」恋愛映画に事故・難病・三角関係などがない。ハッピーエンドではない。現代の若い二人の同棲記録か。二人が結ばれない映画はあまり当たらないというがコロナ禍にもかかわらず大ヒットした。「草原の輝き」や「シェルブールの雨傘」のような結ばれないアン・ハッピーエンドのラブストーリー。

ハリウッド物語

Wilcoxdaeida    本日は「映画の日」。映画の聖地ハリウッドは、1923年7月13日、ハリウッドの象徴ともいえる看板が設置された。ロサンゼルス市郊外にある映画産業の中心地ハリウッドは1884年に禁酒運動家であるホーレス・ウィルコックス夫妻がその運動を広めるためにこの地を訪れ、ここに理想の村を建てる計画を立て、48万5600㎡の土地を購入した。1884年2月1日この地を「Hollywood(ひいらぎの森)」と命名した夫人のダイエダ・ウィルコックス(1862-1914)が考えたものといわれている。

 

Al_christie_sm   20世紀の初めの頃、映画はニューヨークやシカゴで撮影製作されていた。MPPCというエジソンのトラストが映画産業を支配していたが、トラストに加入していないアル・クリスティー(1881-1941)が新天地ハリウッドへ逃れ、ここで映画を作った。これがロサンゼルスのタレー座で大いに当たり、これがハリウッドと映画との第一歩となった。

 

 

 

 

 

Laemmlejr     東部でユニヴァーサル映画社を1909年に創立していたカール・レムレ(1867-1939)という映画興業家は1914年にハリウッドに移転。ときあたかも第一次世界大戦の勃発で、これまで映画製作していたイタリア、フランス、ドイツが困難となり、アメリカはその映画市場が発展した。D・W・グリフィス、セシル・B・デミル、さらに喜劇のチャールズ・チャップリンなどがこのハリウッドに集まり、ついにアメリカ映画は世界を征服する勢いを示したのである。

 

(Hollywood,Harvey Wilcox,Daeida Wilcox,Al Christie,Carl Laemmle、7月13日)

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