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2024年12月31日 (火)

大晦日の祖先祭祀の風習について

 大晦日から元日にかけて、発達した低気圧の影響で、北から東日本を中心に雪や雨、風が強く、荒れた天気となる見込み。新しい年は、平和で明るい社会であることを願いたい。青森県三戸郡五戸町では今でも年の暮れから正月にかけてミタマノママと呼ばれる風習が残っていると聞く。白餅と赤餅とを菱に切って神棚に供える。盛岡では卵のように飯を握って年の内に供え、後で苞に入れて乾かしておく。山形県最上郡安楽城村では米飯を擬宝珠形に握るのを本式とする。ミタマノママとは「御魂の飯」(みたまめし)と書き、「みたま」を御先祖様と解し、大晦日の夜の先祖祭への供物である。オミタマサマ、ミタマメシ、ミタマ、ニダマなどともいう。

     かつて日本には一年に盆(7月)と正月(12月)、先祖祭の日があった。「徒然草」第19段に「亡き人の来る夜として魂祭るわざは、このごろ都にはなきを、東の方にはなほすことにてありしこそあはれなりしか」とある。つまり兼好の時代には京都ではもう12月には祖先祭祀の風習はなくなっていたが、関東には昔の風習が残っていたようだ。お盆が仏教による魂祭りであったのに対し、大晦日の祭りは仏教的な色彩がうすれて、地方において神祭的なものになっていったのはなぜだろうか。(参考:田中久夫「みたまのめし」史泉第50号 昭和50年) 12月31日

2024年12月30日 (月)

横光利一忌

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   本日は小説家、横光利一の1947年の忌日。急性腹膜炎で49歳の若さで逝去した。作家に関わる作品や遺品、あるいは写真で紹介しようとする試みは近年さかんで、全国各地に文学館・記念館は数百あるといわれる。だが不幸にも戦前期、昭和文学の主導者であった横光利一文学記念館はない。単独館がないという意味で、展示室の類は数箇所ある。妻の横光千代の書簡が価格12000円で市場で販売されているが、記念館がないと散逸してしまう恐れがあるだろう。横光の父が測量技師で、幼い頃、各地を転々としたことも関係するであろう。生れは福島県北会津郡の東山温泉の旅館「新瀧」だった。千葉県佐倉へ移り、明治37年に母の故郷三重県阿山郡東柘植村で落ち着いた。横光利一の故郷は三重県柘植であろう。ここには柘植歴史民俗資料館や三重県立上野高校明治校舎「横光利一史料展示室」がある。妻千代の故郷山形県鶴岡市の大宝館にも展示室がある。(12月30日)

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三重県立上野高校明治校舎には中学時代の日記など所蔵し、最も充実したコレクションである

 

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  将棋をさす、川端康成と横光利一 昭和12年

2024年12月29日 (日)

2024年、お亡くなりになられた著名人

 今年も残すところあと3日となった。地震や台風・大雨などの自然災害、また火事や交通事故など不慮によって亡くなられた方々が多くいる。謹んでご冥福をお祈りいたします。ユーゴスラビアのことわざに「人の生まれと死に方は、本の表紙と裏表紙のようなものである」とある。われの生まれ方はだいたい同じであるが、死に方はさまざまだ。予期せぬ死はある日、突然にやってくる。転倒や転落、航空機や車などの交通事故。通り魔による刺殺や銃撃で一命を失うこともある。歩行中に鉄パイプが落下したり、感染症に汚染されたり、遊泳中に鮫に襲撃されたり、落雷に遭ったり、死に遭遇するケースを考えたらきりがない。食事中や入浴中でも亡くなったりする。常に死の恐怖と隣り合わせに何とか生きているのである。心穏やかに除夜の鐘を聞いて年を越したいものである。では2024年にお亡くなりになられた著名人を調べてみよう。小澤征爾(指揮者)、篠山紀信(写真家)、鈴木健二(NHKアナウンサー)、丘さとみ(女優)、桂由美(ファッションデザイナー)、唐十郎(劇作家)、中尾彬(俳優)、今くるよ(漫才師)、桂ざこば(落語家)、齋藤栄(小説家)、アヌーク・エーメ(女優)、ドナルド・サザーランド(俳優)、園まり(歌手)、桂米丸(落語家)、ジーナ・ローランズ(女優)、アラン・ドロン(俳優)、宇野鴻一郎(小説家)、マギー・スミス(女優)、ピート・ローズ(野球)、西田敏行(俳優)、高階秀爾(美術評論家)、楳図かずお(漫画家)、クインシー・ジョーンズ(ミュージシャン)、北の富士勝昭(大相撲)、谷川俊太郎(詩人)、火野正平(俳優)、グラシェラ・スサーナ(歌手)、桂雀々(落語家)、中山美穂(女優、歌手)、小倉智昭(アナウンサー)、渡辺恒雄(読売新聞社)、加茂さくら(元タカラヅカ)、森田拳次(漫画家)、オリビア・ハッセ―(女優)、ジミー・カーター(米大統領)。

 

 

 

 

 

 

シャンソンの日

5969788  本日はシャンソンの日。1990年のこの日、銀座のシャンソン喫茶の老舗「銀巴里」が閉店した。

    日本にシャンソンが紹介されたのは、昭和2年11月15日に宝塚少女歌劇団がグランド・レビュー「モン・パリ」を初演したときで、以後「パリゼット」「花詩集」などの主題歌として歌われた。そして無声映画時代「巴里の屋根の下」「巴里祭」など映画主題歌のシャンソンも流行した。またダミアの「暗い日曜日」「人の気も知らないで」が淡谷のり子の歌謡でヒットした。戦後、昭和30年にイベット・ジローが来日して、シャンソン・ブームが起った。そしてエディット・ピアフ、イブ・モンタン、ジャクリーヌ・フランソアの歌がラジオから流れた。銀座にはシャンソン喫茶「銀巴里」が出現、石井好子や越路吹雪らが活躍した。岩谷時子による訳詩もシャンソンの大衆化に貢献した。ジュリエット・グレコ、シャルル・アズナブール、エンリコ・マシアス、サルバトーレ・アダモら若手も登場した。なかでもアダモは「サン・トワ・マミー」「雪が降る」など日本で最も愛されたシャンソン歌手といえる。シャンソン歌手にはフランスだけでなく他国出身者も多い。イブ・モンタン、アダモはイタリア生れ。エンリコ・マシアスはアルジェリア生れのユダヤ人。エディット・ピアフの「愛の讃歌」。愛をテーマにした曲は数々あるが、このシャンソンほど力強く、感動的な歌がほかにあるだろうか。歌心りえが「日韓歌王戦」で注目され50歳にしてブレイクしたが、今年の紅白歌合戦にはシャンソン歌手から一人も選ばれていないのは残念だ。(12月29日)

 

 

 

 

2024年12月28日 (土)

濡れ衣

 実際に犯していない罪のことを「濡れ衣」という。身に覚えのない罪を「濡れ衣を着せられる」というのはなぜか?。筑前国に赴任した佐野近世という国司に美しい娘・春姫がいて、その溺愛ぶりに嫉妬した近世の後妻は嫌がらせをしていた。ある日、継母は漁師に金品を渡して「娘に釣り衣を盗まれた」と訴えさせられたところ、娘の部屋を覗いた近世は、娘が濡れた釣り衣を掛けて眠っている姿を見て逆上し、怒りにまかせて娘を斬ってしまったと、「筑前国続風土記」に書かれている。のちに濡衣塚(福岡県博多区)につくられた。「濡れ衣」の語源があったことを表すものである。

 

2024年12月27日 (金)

年の瀬の情景

   官公庁などの御用納めである(今は仕事納めというらしい)。明治6年1月、太政官日誌で、官庁の公休日が、1月1日から3日、6月28日から30日、12月29日から31日までと決まった。このため、お役所勤めの人は28日を御用じまいとか、御用納めと呼んだ。今年はカレンダーの関係で27日が金曜日で証券取引所も終い相場となる。このころになるとお正月飾りや門松の設置など新年を迎える準備に忙しい。各地の寺院では除夜の鐘の試しづきが行われる。市場やスーパーでは正月商品が並んで買い物客で賑わう。コロナの流行もおさまり、行動制限がない9連休の年末年始、帰省ラッシュや海外渡航も始まる。

 

 

 

師走雑感

 去年今年貫く棒の如きもの(虚子)

 年去り年改まることに一喜一憂を託した時代もすでに過ぎている。去年も今年もいまは変わりがないのである。ただ一本の棒が貫くように、そこに変化なく過ぎてゆく歳月の一日一日であるにすぎない、という老いの述懐が感じられる。今年もあと5日となり、さらに特別の哀感がただよう。テレビ番組は連ドラがおわって2024年の回顧の録画がさかんに流されている。ことしのヒット曲は「Bling-Bang-Bang-Bom」Creepy Nuts。流行語大賞は「ふてほど」。今年の漢字は「金」。能登地震、大谷翔平50-50、パリ五輪、新紙幣、闇バイト、裏金問題、紅麹、ウクライナ戦争、シリア・アサド政権崩壊。なんとなくわからない1年だった。

  12月を師走と当てる。なぜ「師走」というのか古来より諸説ある。12月は1年の終わりで皆忙しく、師匠といえども趨走(すうそう=ちょこちょこ走るの意)するというので「師趨」となり、これが「師走」となったとする。第2の説は、師は法師の意で、師が馳せ走る「師馳月」(しはせづき)であり、これが略されたものとする。第3は、漢語「歳終月」を「としはるつき」と読み、それが略されて「しはつ」となったとする新井白石の説がある。第4は、「し」は年を意味し、「はす」を「果つ」と解する説。

    「十二月」を「しはす」と読むことは、万葉集の時代にあったもので、「師走」を書いたのは平安時代になってからである。「師走の月夜の、曇りをなくさし出でたるぞ」と源氏物語総角に見える。「奥義抄」(平安後期の歌学書)には「十二月、僧をむかえ経を読ませ東西に走る故に師走というを誤れリ」とある。師走とは本来、極限という意味があったようである。

 

おせち料理の由来について

新しき年の始の初春の今日降る雪のいや頻(し)け寿詞(よごと)

   大伴家持

  年の瀬、迎春をひかえて買い物で忙しい。元日の朝、正月のお祝い膳にかかせないのが「おせち料理」である。「おせち」とは御節供(おせちく)のつまったもので、昔は五節供の節目に用いられる料理のことをいったが、次第に正月の料理だけをいうようになった。正月の祭事の食物に里いものような穀類を特別重要視する習慣は縄文時代からの穀類起源神話からもうかがえる。インドネシアの神話に、ハイヌウェレという少女の死体から芋などの作物が生まれ、人びとの主食となったという神話がある。ドイツの学者アドルフ・イエンゼン(1899-1965)はこれを「ハイヌウェレ型神話」と呼び世界に同類の神話が存在するとした。日本の記紀にみられるオオゲツヒメも縄文時代の中期に南方から渡来した可能性が高いと学者は説く。おせち料理は年神様にお供えして、家族の繁栄や、多産、豊年、長寿、家内安全のなどを願う、縁起物の家庭料理である。

   「数の子」は、にしんの卵だが、「二親・にしん」から、たくさんの子がうまれてめでたいと、子孫繁栄の縁起をかついでいる。古くからおせちに使われる。

 「田作り」は、ごまめともいい、かたくちいわしのの幼魚を炒って飴煮したもの。昔たんぼの肥料に使ったところ、たいへん米がとれたため、豊年万作を祝う農民が正月に田作りを食べるようになった。

   「黒豆」は、一年中の邪気を払い無病息災を願って屠蘇で祝うが、そのときに用いられる祝い肴のひとつ。黒豆(くろまめ)・まめ(丈夫)に暮らせるようにという縁起に因んだもの。 

 「昆布巻き」は、昆布と「よろコブ」をかけて幸福を願う。

 「海老」は長いひげをはやし、腰が曲がるまで長生きすることを願って使われる。

 「鯛」は、鯛と「めでタイ」をかけて幸福を願う。

 「くわい」は芽が出る事から「出世しますように」という縁起物です。

 「れんこん」は沢山の穴が開いていることから「先が見える・先の見通しが良い」とされる縁起物です。

 「たたきごぼう」は根がしっかり根付くことから「家の土台がしっかりするように」とされる縁起物です。

 「棒だら」は鱈腹(たらふく)食べられるという意味で腹=福から来ています。

 「栗きんとん」金団と書き、その色から黄金・財産に見たてた豊かな1年を願う料理です。

   「屠蘇」とは魏の名医華佗の処方という、年始に飲む薬・屠蘇散に由来する。屠蘇散を入れて、酒・みりんに浸して飲む。一年の邪気を払い、齢を延ばすという。平安時代から行われている。(1月1日)  参考:『江馬務著作集5』 中央公論社 P191~196

 

 

小野道風忌日

Photo_2    漢字の和様化をなしとげた平安時代の能書家小野道風(894-966)は国民にたいへん親しまれた人物である。それは柳の枝に飛びつこうとして幾たびも跳躍を試みる蛙を見て発奮、精進の結果ついに書道の奥義を極めたという逸話によるものであろう。しかしその生涯には謎が多い。道風は小野妹子の子孫で、小野篁の孫、大宰大弐小野葛絃の子である。その生年は「日本紀略」によって寛平6年に生まれ、康保3年、73歳で没したことは定説になっている。名の「道風」は本来、「みちかぜ」と訓読すべきであるが、「とうふう」と音読しているのは、唐風化の影響である。しかしながら、道風の生まれた寛平6年には菅原道真の建議により、遣唐使の派遣が停止され、道風が生きた時代は国風化が流行したときである。また若いときから書道家として認められたが、生涯官位は低く73歳で没したとき、正四位下内蔵権頭にすぎなかった。小野妹子の末裔にしては不自然であろう。生まれは愛知県の春日井市と伝えられる。小野葛絃(くずお)が任地の時、里人の娘との間に生まれたのが、小野東風だというのである。この説は尾張藩士天野信景による「塩尻」に記述され、それをうけて松平君山が「張州府志」で小野道風生誕地と述べ、以後尾張藩諸学者の通説のようになった。現在、春日井市には「道風記念館」があり、ゆるキャラの「道風くん」まで生まれた。だが、本当に道風が春日井市出身が史実であるかは疑わしい。(12月27日)

 

 

2024年12月26日 (木)

徳川家康

Photo   徳川家康(1542-1616)の人生はまさに「忍」の一文字であった。天文11年12月26日、三河の岡崎城で呱々の声をあげた。信長よりおくれること8年、秀吉からは5年。歳の順序に気がねしたわけではあるまいが、このとおりの序列で後を追い、天下をとった。元和2年4月17日(1616年5月22日)73歳で没した。死因は鯛のてんぷら説もあったが、近年は胃がん、梅毒説が有力である。ちなみにシェークスピアは同年4月23日に世を去っている。

    幼名は竹千代、父は松平広忠、母は刈谷城主水野忠政の娘於大。天文16年、三河岡崎城の広忠は、織田信長の猛攻をうけ、今川義元に援けを求めたが、このとき竹千代はわずか6歳で今川氏へ人質に送られることとなった。今川氏の本拠駿府への途中、義理の祖父である渥美郡田原城主戸田康光にだまされて信秀の手中に落ちた。康光がうけとった礼金は永楽銭五百貫とも一千貫ともいう。いずれにせよ家の仇、父の敵へ売りとばされたわけだ。だが、父広忠が信秀の脅迫にのらず毅然たる態度で臨んだのが逆に幸いして、信秀の心を打ち、人質とはいえその扱いは鄭重であった。幼い竹千代は、尾張の万松寺での人質生活のあいだに、14歳の荒くれ信長と知りあった。8歳のとき一度岡崎に戻ることがてきたが、半月ほどで再び今川氏の人質として駿府に移された。今川義元が桶狭間で仆れるまでのことであるから、前後を通じて足かけ13年の人質生活であった。しかし、その生涯をみると、ものごころついてから秀吉の死後に至るまでの50余年間、家康はいつも誰かに頭を押さえられて過ごしている。ひたすらの「忍」であった。誰にでもできることではない。家康には、信長のような鋭利で独創的な才能はない、また秀吉のような奔放・豪快、しかも機略縦横といった華やかさもない。だが、めだたぬ聡明さと組織力とで、打つ手の一石一石は実に着実であった。だからこそ波瀾ふくみの秀吉死後を無事に切り抜けとおし、ついに天下の覇権を掌中にしたのである。常用の印文には天下の匂いも布武の臭みもなく、「福徳」または「忠恕」という、道学先生を思わすような字句であったのも、いかにも家康らしいといえる。(参考:岡本良一「国民の歴史12 天下人」)

徳川家康関係図書

逸史12巻首1巻7冊 中井竹山、浅井吉兵衛等 明治9年

列祖成績20巻20冊 安積澹泊 徳川昭武 明治11-12年

仮名挿入皇朝名臣伝4 中沢寛一郎編 溝口嘉助 明治13年

東照宮実記仰晃雑誌1-9 細谷蕉露編 仰晃社 明治16年

日本百傑伝 第8編 松井広吉編 博文館 明治26年

東照宮御一代記 沼崎重孝 明治28年

徳川家康 本城正琢 公愛社 明治30年

徳川家康公 吐香散人 日吉堂 明治32年

 

 

2024年12月25日 (水)

最初の日本語聖書「西洋教草」について

  本日はクリスマス。三角帽をかぶってクラッカーを鳴らして夜遅くまでバカ騒ぎするというのは終戦後の昭和20年代後半からはじまった。お土産にケーキを買ってかえる。はじめはサラリーマンから流行した。1980年代後半のバブル時代、クリスマスは恋人と一緒に過ごすことが若者たちの間に定着してしまった。このとのきクリスマス・イブの日のホテルのスイートは予約満員。ティファニーのハートのネックレスが売れた。いまはクリスマスは家庭サービスの日となっていった、だがクリスマスコンサートを聴いたり、プレゼントをしたりするのが正しいクリスマスの過ごし方なのだろうか。だが民間気象会社ウェザーニューズの調査によると日本人の3人に1人はクリスマスに関心がない、ということがわかった。この人のなかにはクリスマスやサンタクロースがイエスの誕生と無関係であると知っていて、聖書のみを信仰のよりどころとしてる信者も含まれるのだろうか。不思議な日本のクリスマス。それはさておき、日本で聖書が本格的に日本語に訳されたのは明治になってからであるが、いつ頃であろうか。日本聖書協会が設立され「新約聖書」が完成したのは明治12年、「旧約聖書」は明治21年といわれる。しかし永田方正(1838-1911)が明治6年に訳した「西洋教草(おしえぐさ)」は抄訳とはいえ、日本人単独の手になる最初の優れた聖書の翻訳書である。「西洋教草」は教科書たることを目的としていたが、上巻には「箴言」のほとんど全部を収め、中巻には「レビ記」「申命記」「出エジプト記」「民数記」「ローマ人への手紙」「テサロニケ人への第一の手紙」「テサロニケ人への第二の手紙」中からの抄訳と「テモテへの第一二の手紙」のほぼ全部、下巻はイエスの説話を中心に四福音書などからの抄訳である。

    永田方正は天保9年3月1日、伊予国西条藩士の子として生まれ、宇高辰次郎と名づけられた。(注)木下清(1915-1994)の説によれば生年は天保15年(1844年)であるがここではコンサイス日本人名事典に従う。少年のころから英才のほまれ高く、長じて永田吉平の養子となり、永田静之助と称し、昌平坂学問所に学び、主に英書の翻訳業に励み、後に、永田方正(ほうせい)と改名した。明治14年、北海道開拓使となり、アイヌ語の研究に没頭した。アイヌ民族の叙事詩ユーカラの最初の翻訳を「東洋学芸雑誌」に発表していることでも知られている。のち「北海道蝦夷語地名解」の編纂に従事。晩年は、坪井正五郎の紹介により東京高女で国文・和歌を教えた。(参考:今西竜「永田方正君小伝」人類学雑誌27.7 明治44年、門脇清「西洋教草紹介」興文 昭和48年2、3月、木下清「聖書和訳の先覚者 永田方正略伝」史泉48 昭和49年3月)

よくある間違い事例研究

  お昼のNHKニュースで「学習指導要領のカイテイ」。テロップの文字が「改定」だった。中山果奈アナ(彼女に責任はないが)が「✕改定 〇改訂」と訂正していたけれど、中学国語レベルの誤りでよくある事例である。

  間違いは誰にでもある。だがなぜなくならないのだろうか。それを責めたり、指摘する気はないけれど、どのような間違いが起きるのか、傾向と対策を研究し、チェック体制の参考にしてもらいたい。

   NHK連続クイズホールドオン(190回)の問題。主人公が天ぷらそばを食べる場面の「その晩は久しぶりに蕎麦を食ったので、うまかったから天麩羅を四杯たいらげた。翌日何の気もなく教場へはいると、黒板いっぱいぐらいな大きな字で、天麩羅先生とかいてある。」という一節が登場する夏目漱石の小説の題名は何でしょう?正解は「坊っちゃん」。ところがテロップの文字が「坊ちゃん」と、「っ」がぬけて表記されている。よくある間違いだが、「っ」がないのは「坊ちゃんかぼちゃ」だ。▽NHK和久田万由子アナがお詫び。テロップでコロナ禍をコロナ渦(うず)と誤字。▽アイドルが青海駅(江東区)を青梅駅(多摩地区)と間違え公演に間に合わなかったというアクシデントが発生。▽流石景の新作コミックは「ドメスティックな彼女」。すぐにDVを連想してしまうが、ドメスティックとは「家庭的な」という意味。暴力的な何かと勘違いしてしまいそう。▽ポンペイはイタリア、ボンベイはインド。▽ボブ・ディランの名曲「ライク・ア・ローリングストーン」ローリング・ストーンズが好き、と勘違い。▽後鳥羽上皇の承久の乱は、長い間「じょうきゅうのらん」と読んでいたが、正しくは濁らずに「しょうきゅうのらん」という。▽ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」1830年に起きたフランス七月革命を主題にしているが、ネットをみると1789年のフランス大革命と勘違いしている人が多い。

 

 

 

 

 

 

2024年12月24日 (火)

国土面積の比較 アメリカと中国

   世界の国土面積ランキングは、一般的には一位からロシア、カナダ、アメリカ、中国、ブラジルの順番です。このなかでアメリカと中国は960万㎢でほぼ同じくらいです。しかし中国では三位が中国で四位がアメリカだと主張しています。それはどういう理由からでしょうか。

 水面積の統計上の処理によって面積が異なるからです。アメリカには五大湖と呼ばれる大きな湖があり、それをアメリカは国土面積の中に数えています。中国側は、国土の中の湖の大きさを数えなければ、中国の方が大きい、主張しています。

 

なぜ日本ではクリスマス・イブは恋人と過ごすものというイメージが根強いのか

Sc02   師走に入ると街中にクリスマス・イルミネーションが点灯され、クリスマス気分を盛り上げてくれる。クリスマスという、現在の日本にとっても馴染みのある習慣は、老いも若きも何となくうきうきする季節だろう。家のリースやツリー、クリスマス・ケーキ、そしてプレゼント。「我が持てる包の中もクリスマス」(山内山彦)だが欧米のクリスマスはキリストの生誕を祝い家族が集まって過ごすものだが、日本では宗教観はなく、恋人と過ごすものというイメージが定着している。この違いはなぜ生まれたのだろうか?

  クリスマスの歴史は長く複雑な意味をもつ。キリスト教とのつながりや、キリスト教以前の、ずっと古代に遡る、ヨーロッパ・地中海に面している諸文化の世界観や信仰の形態の影響が認められる。したがって、今日の世俗化されたサンタクロースの意味を理解するためには、キリスト教またはキリスト教以前の様々な信仰の形態の理解が前提になってくる。とくにサンタクロースは死者の象徴であると、レヴィ・ストロースが主張している。古代からのヨーロッパの民間信仰では、我々一般人にあの世から豊穣をもたらすのは、国家に認定された公式の神々ではなく、むしろ地域の小さな神々であった。これらは、多くの場合、先祖に限りなく近い性質をもっていた。現在、クリスマスが主に家族中心の祝いになっているのも、古代からのこの伝統的思想を継承しているからだと思われる。サンタクロースの根底には、冬に関する古代からのシンボリズムが認められる。キリスト教がこの複雑なシンボリズムを横領し、それをキリストの降誕と習合させた。

   このようなキリストの生誕を祝うクリスマスの風習や行事が世界中に広まったのは19世紀に入ってからのこと。とくに今日のようにみんなでお祝いするのは一冊の本がきっかけとなっている。英国の文豪チャールズ・ディケンズが1843年に書いた「クリスマス。キャロル」である。内容は守銭奴スクルージがクリスマス・イヴに超常的な体験をして改心というスートリー。ちなみにアンデルセンの「マッチ売りの少女」はその5年後の1848年のことである。クリスマスが本格的に日本に入ってきたのは、明治時代以降のことである。キリスト教の信者がそれほど多くないため、文化的な形だけが定着した。ここに日本のクリスマスの特徴がある。戦後、クリスマスは徐々の家族のイベントになっていまーきます。その後、女性の社会進出が進むとね1980年代には「恋人と過ごす日」というイメージが強くなります。1988年のJR東海のクリスマス・エクスプレスのCMは遠距離恋愛のカップルが新幹線でクリスマスに再会を果たすストーリーを描いたものだ。このCMが(歌・山下達郎)が放映されると、日本において恋人同士でクリスマスを過ごすという新たな文化が生まれるなど社会現象となった。そして「クリスマス・イブは一番大切な人のそばにいたい」というメッセージが拡散されていった。同様のイメージはバブル期のトレンディ・ドラマなどで定着されます。いわば日本のクリスマス=聖夜のイメージは電通がしかけたものであるといえる。(参考:ファビオ・ランべッリ「サンタクロースの文化史のための覚え書き」比較文化論叢 札幌大学文化学院紀要19、2007年)

2024年12月23日 (月)

チッタゴン どこにありますか?

20090405bangladesh_travels100   チッタゴンはダッカに次ぐバングラデシュの第2の都市であり、最大の海港である。人口は350万人を超え、横浜市くらいある。第2都市とは、国家・地方など、ある特定の範囲内において、第1都市に次ぐ都市のこと。アジアにおける第2都市を人口を基準としてあげてみる。

 

 

 

カンダハール(アフガニスタン)
アブダビ(アラブ首長国連邦)
アデン(イエメン)
エルサレム(イスラエル)
バスラ(イラク)
マシュハド(イラン)
デリー(インド)
スラバヤ(インドネシア)
サラーラ(オマーン)
釜山(韓国)
シアヌークビル(カンボジア)
開城(北朝鮮)
ジッダ(サウジアラビア)
アレッポ(シリア)
キャンディ(スリランカ)
チエンマイ(タイ)
高雄市(台湾)
北京(中国)
アンカラ(トルコ)
バクタプル(ネパール)
ラホール(パキスタン)
ラマラ(パレスチナ自治区)
セブ(フィリピン)
パロ(ブータン)
トゥトン(ブルネイ)
ハノイ(ベトナム)
ジョージタウン(マレーシア)
マンダレー(ミャンマー)
ダルハン(モンゴル)
アカバ(ヨルダン)
ルアンパバーン(ラオス)
トリポリ(レバノン)

 

 

 

(Chittagong)

ぬりかべ(「ヌ」事項索引)

 「ぬりかべ」夜道を歩く者の前に突然立ちはだかり、行く手を遮るという悪戯をする妖怪。▽「ヌクレオチド」ヌクレオシドにリン酸基が結合した物質。▽「布引の滝」(神戸市)は平安貴族が風雅を楽しんだ景勝地として「伊勢物語」第87段などでも広く知られている。▽「ヌーヴェル・ヴァーグ」1959年頃フランスに起こった映画運動。「新しい波」を意味する。代表作「いちこ同志」「大人は判ってくれない」「勝手にしゃがれ」▽「ヌース」Nousギリシア語。心、またはその本質としての理性を意味する。▽「ヌートリア」げっ歯目のイリネズミ科に属する哺乳類。南米原産。▽「白膠木の耳五倍子」ぬるでのみみふし。アブラムシ科の昆虫。(ぬぬぬぬ)

ヌー(怒江)
ヌアクショット(モーリタニア)
ヌイイ条約(1919年)
ヌーヴェル・ヴァーグ
鵺(ぬえ)
ヌエバ・エスパーニャ副王領
ヌエボラレド(メキシコ)
ヌオロ(イタリア)
額田王
ぬかに釘
糠平温泉
泥濘
ヌクアロファ(トンガ)
ヌクレイン
ヌクレオチド
ヌサンタラ(インドネシア)
ヌーシャテル(スイス)
ヌジャメナ(チャド)
ヌース
淳足柵(ぬたりのき)
ヌートバー(榎田達治)
ヌドラ(ザンビア)
ヌートリア
沼河比売(ぬなかわひめ)
ヌニェス・デ・アルセ
ヌーノ・ベッテンコート(ギタリスト)
沼波瓊音(ぬまなみけいおん)
布引五本松堰堤
布引の滝(神戸市)
ぬばたまの
ヌビア砂漠(エジプト)
ヌバール(フランス)
ヌーボー・ロマン
沼津市(静岡県)
沼間守一
ヌマ・ポンピリウス
ヌミディア
ヌラーゲ
ぬりかべ
ヌルスタン(カザフスタン)
ヌルッラバイ宮殿
ヌルデ
白膠木の耳五倍子(ぬるでのみみふし)
ヌルハチ
ヌルミ
温湯温泉(ぬるゆおんせん)
ヌレデバ
ヌワラ・エリヤ(スリランカ)
ヌンチャク

 

 

東京タワーの名付け親は11歳の女の子だった

Photo_3   1958年のこの日、東京タワーが完成し、完工式が行われた。東京タワーの正式名称は日本電波塔(にっぽんでんぱとう)。愛称は1958年10月9日に開かれた審査会で決定した。86,269通の応募のうち、一番多かった愛称は「昭和塔」で、続いて「日本塔」「平和塔」だった。審査委員のひとり徳川夢声が「ピタリと表しているのは東京タワーを置いて他にありませんな」と推挙し、その結果「東京タワー」に決定した。「東京タワー」と応募した223通のうち、抽選で当選した神奈川県の小学5年生、高田幸子さんに賞金10万円が贈られた。(12月23日)

2024年12月22日 (日)

ベート―ヴェン「運命」

  1808年のこの日、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」と第6番「田園」がウィーンでベートーヴェン自身の指揮により初演される。交響曲第5番ハ短調(作品67)を「運命」と呼ぶのは日本だけで、外国ではほとんど通用しない。ベートーヴェンのレコードの解説に由来しているらしい。一説によると、本野虫太郎の「音楽倶楽部」第4巻第10号(昭和4年)の記事「名曲の解説ベートーヴェンの第五交響曲運命ハ短調」が「運命」という言葉がタイトルに使われた最初だという。長らく「運命」は日本だけが使われていたと考えられていたが、最近はドイツでも運命Schicksalssinfonieと使い初められているらしい。((12月22日)

 

 

探検の世界史

 未知の地域を踏破し、調査する事業を探検というが、探検の歴史はそのまま人類の地理的な知識の発展史といえる。 NHKスペシャル「幻の山カカボラジ」2014年3人の日本人登山家の登頂ドキメンタリー。あとわずかのところまで来たものの雪山で断念する。

前1100年 アッシリアのティグラト・ピレセル1世、ティグリス川を探る
前989年、周の穆王、洛陽からウルムチ、オムスク付近までを探る(穆天子伝)
前7世紀末 フェニキア人、エジプト王ネコ(前610~595)の命により、アフリカ海岸を探検
前630年  ギリシアのコラエウス、エーゲ海から地中海を渡り、ジブラルタル海峡を通る。初めて大西洋に達したギリシア人となる
前510年  ペルシアのシラックス、インダス川より出帆、アラビア半島をまわって、エジプトに至る
前470年  カルタゴのハンノ、アフリカの西海岸をシェルブロ海峡まで探検
前401年  ペルシアのギリシア人傭兵クセノフォンの脱出行(~前400年)
前332-326年  マケドニアのアレクサンドロス大王、軍勢をひきいて、中央アジア、エジプト、ペルシアを征服、インダス川に至る
前304年 シリアのメガステネス、大使としてインドへ派遣される
前218年 カルタゴのハンニバル、軍勢をひきいて、スペインからアルプスを越え、イタリアに侵入
前120年 ギリシアのエウドクソス、エウエルゲテス2世によって、エジプトからインドへの海のルートを見つけるため派遣される
前56年 ローマのユリウス・カエサル、フランス・ドイツ・イギリスに遠征
前20年 ローマのストラボン、地理学的な情報を求めて、ヨーロッパ・アジア・エジプト、そしてリビアを旅行した
60-70年 ディオゲネスがナイルの源を見つける
84年    ローマのユリウス・アグリコーラ、イングランドを周航
97年    後漢の班超が甘英をペルシャ湾まで派遣
102年   李広、フェルガナ遠征に成功
114年   ローマがメソポタミアまで遠征し、この時ローマ帝国の境域が最大となる
150年   プトレマイオス、「地理学」を出版
166年   大秦王安敦の使者が中国に来る
255年   ゴート人、ギリシアを侵略する
399年   法顕のインド旅行「仏国記」が書かれる(~414年)
629年   玄奘のインド大旅行(~645年)
730年   イギリスの聖ウィリーバルドがサウザンプトンからイェルサレムに至り、イギリス人として聖地に最初の足跡を残す
1291年  マルコ・ポーロの東方旅行(~1295年)
1325年  イブン・バトゥータがアフリカ・アラビア・ペルシア・インド・中国と大旅行(~1354年)
1445年  ポルトガルのジョアン・フェルナンデス、ヴェルデ岬を発見
1488年  バーソロミュー・ディアス、喜望峰に到達
1492年  コロンブス、北米発見
1497-1499年 アメリゴ・ベスプッチの航海
1498年  バスコダ・ガマ、インド航路の発見
1498年  ジョン・カボット、北米海岸を発見
1500年  カブラル、ブラジル発見
1501-1502年 アメリゴ・ベスプッチ、ブラジル海岸踏査
1508年  カボット、北米を探検し、ハドソン湾を発見し、フロリダまで達した
1513年  バルボア、太平洋を発見
1513年  ポンセ・デ・レオン、フロリダを発見
1519-1522年 マゼラン一行の世界周航
1526年  カボット、ラプラタ川流域を探検(~1527)
1567年  スペインのメンダーニャ、太平洋を航海、ソロモン諸島を発見
1580年   イギリスの海賊フランシス・ドレークが世界一周を達成
1648年   セミョン・デジニョフ、ロシア・チュクチ半島のデジニョフ岬に到達
1701年  イギリスのダンピアがオーストラリア、ニューギニアを探検
1768年  イギリスのジェイムズ・クック、世界周航に成功。ニューカレドニア諸島を発見
1811年  ユングフラウが初登頂された
1849年  イギリスのリヴィングストン、カラハリ砂漠を超えてアフリカ奥地を探検。ザンベジ川およびヴィクトリア湖を発見(~1973)
1858年  イギリスのバリントンがスイスのアイガーを初登頂に成功。
1858年  イギリスのジョン・スピーク、ヴィクトリア湖およびナイル川の源を発見
1878~79年 スウェーデンのノルデンショルド、北極海からベーリング海峡をぬけ、北東航路をひらいた
1880年  イギリスのウィンバー、南米のチンボラソ山に登頂
1893年  スウェーデンのスウェン・ヘディン、チベットおよびモンゴルを探検(~1907年)
1898年  ジョシュア・スローカルが史上初の単独世界一周を達成 
1901年  アニー・エドソン・テイラーが初めてナイアガラ滝を樽に入って下り、生還に成功。
1909年  アメリカのロバート・ピアリー、北極点に到達
1911年  ノルウェーのアムンゼン、南極点に到達
1912年  デンマークの貨客船セランディア号、世界初のエンジンにより航海
1922年  イギリスの探検家マロリーは、当時の最高到達高度、エベレスト8225mに達する
1926年  アメリカのバードとベネット、飛行船で北極点飛行に成功
1927年  アメリカのリンドバーグ、大西洋の横断飛行に成功
1929年  アメリカのバード、南極にリトル・アメリカ基地を設営、飛行機で南極点上を飛ぶ
1947年  ノルウェーのトール・ヘイエルダールがコンティキ号でペルー~ポリネシア8300キロの太平洋漂流実験に成功
1953年  イギリスのヒラリーおよびネパールのテンジン、エヴェレスト山に登頂
1961年  ソ連のガガリーン、ヴォストーク1号に乗って、人類最初の宇宙飛行に成功
1969年  アポロ11号、人類初の月世界到達成功した。全世界の何十億の人がテレビを通じて見守る中を、アームストロングが初めて月面を歩いた人間となった。
1976年  植村直己、グリーンランド~カナダ~アラスカの犬ぞり一人旅に成功
1979年  長谷川恒男、アルプス三大北壁の冬期単独登攀に成功

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年12月21日 (土)

南海トラフ巨大地震(「ナ」事項索引)

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   「ナナカマド」バラ科の落葉高木。赤く染まる紅葉や果実が美しいので、北海道や東北地方では街路樹としてよく植えられる。燃えにくい木で、7日間、竈に入れることで極上の炭を得ることができるため、名づけられたと考えられる。▽「内藤千代子」1893-1925。小説家。「女学世界」に多くの恋愛小説を発表した。▽「ナカダ文化」上エジプトのバダリー期に続く、先王朝時代の文化。ナカダ遺跡はルクソールの北方30㎞にある。▽「ナビ派」19世紀末のパリで活動した、前衛的な芸術家の集団。▽「夏島貝塚」神奈川県横須賀市にある約9500年前の縄文時代早期の貝塚。▽「ナムトン工業地域」韓国の南東部の沿岸部に形成された工業地域。プサンで造船業と機械工業、ウルサンで石油化学工業と自動車工業、ボハンで鉄鋼業が発達している。▽「南北問題」北半球に位置する先進諸国と南半球に位置する後進諸国との経済格差に集約される国際経済の構造的諸問題をいう。1959年にイギリスのロイド銀行頭取オリヴァー・フランクスによって初めて用いられたことば。▽「ナミブ砂漠」アフリカ・ナミビア共和国にある砂漠。▽「ナラタージュ」映画などで、ある人物の語りや回想によって過去を再現する手法。▽「ナラムシン」紀元前2155頃ー紀元前2119頃。古代メソポタミアのアッカド王朝の大王。大規模な遠征を繰り返し帝国の最大版図を築いたが、そのために反乱が起こり、王朝滅亡の原因になった。▽「南海トラフ」西日本には、日本の南から移動してくるフィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込む南海トラフとよばれる場所がある。この南海トラフでは、東海地震、東南海地震、南海地震という三つの海溝型地震が過去に繰り返し発生している。特徴としては、地震発生の間隔が100年~150年ほどであること、そして、ときに三つが連動して巨大地震になることである。▽「ナングスー・チェーク」タイの葬儀頒布本。(なななな)

ナイアガラ
ナイアガラ運動
奈井江(北海道)
内科
内閣
内閣大学士(明代)
ナイキスト線図
ナイジェリア
ナイティンゲール
内藤湖南
内藤千代子
ナイポール
ナイメーヘンの和約(1678年)
内陸アジア
ナイル川
ナイルのたまもの
ナイロビ
ナヴァロンの要塞
ナウマンゾウ
ナウル
中井竹山
直江兼続
直木三十五
中江兆民
長岡京
中岡慎太郎
長崎県
長崎親切
長崎高資
中里恒子
長篠の戦い
中先代の乱(1335年)
永田町
ナカダ文化
中臣鎌足
中大兄皇子
中野正剛
中浜万次郎
中原中也
中村正直
ナーガールジュナ(竜樹)
長屋王
今帰仁(なきじん)
ナギブ
南雲忠一
嘆きの壁
勿来関
名古屋
ナゴルノカラバフ
ナザレ(イスラエル)
ナジ・イムレ
名塩紙
ナショナリズム
ナショナルジオグラフィック協会
ナスカ(ペルー)
那須火山帯
那須与一
ナスダック
ナスル朝
ナセル
ナチス
夏島貝塚
ナッシュビル(テネシー州)
夏目漱石
ナーナタ
ナトコ映写機
ナトゥフィアン文化
ナバス・デ・トロサの戦い
ナビ派
ナブッコ(ヴェルディの歌劇)
鍋島騒動
ナホトカ号重油流出事故(1997年)
ナポリ王国
ナポリタン・マステイフ(犬)
ナポレオン1世
ナポレオンフィッシュ
生麦事件
ナミビア共和国
ナミブ砂漠
ナムトン工業地域
ナメクジ
納屋助左衛門
奈良
ナラタージュ
ナラムシン
ナーランダー僧院
ナルヴァの戦い
鳴滝塾
ナルコレプシー
鳴門秘帖
ナルマダ川(インド)
ナロードニキ
ナワトル語
名和長年
南ア戦争
南極
南海寄帰内法伝
南海トラフ巨大地震
南曲
南京
南京事件
南京条約
ナングスー・チェーク
ナンシーの戦い
軟性憲法
南船北馬
ナンタケット島
ナンダ朝
ナンダコット
ナン・タルン(タイの影絵劇)
南都七大寺
ナントの勅令
南蛮貿易
南北問題
南明

 

 

 

 

 

 

 

 

人はなぜ山に登るのか?

Clark0508  近年、老若男女の多くの人たちが山を訪れる、戦後3回目の登山ブームと言われている。ただ単に山に登りたい、自然を楽しみたいと思う人から、体を鍛えたい、野草や森林、さらに星空や地質などより専門的に自然を観察したいという人まで、登山への想いはひと様ざまである。

「なぜ山にのぼるのか」という問いに対して、イギリスの著名な登山家ジョージ・マロリーが「そこに山があるからだ」と言ったのは、今からちょうど100年前のことだ。この有名な文句は、実は「なぜエベレストに登るのか」という質問に対するジョージ・マロリーの回答である。いつしか一般的な「人はなぜに登るのか?」と言い換えられて広まっているが、もともとは世界最高峰のエベレストに限定している。

    歴史記録としてはエベレスト初登頂は1953年5月29日、エドモンド・ヒラリー(1919-2008)とテンジン・ノルゲイ(1914-1986)が成功した。だが2人に遡ること29年前の1924年6月8日に、マロリーとアービンが世界の高みを極めていた可能性がある。1999年、エベレスト北面8160mの地点で、マロリーの遺体が発見された。そして標高8490mの地点からマロリーが使用した№9酸素ボンベが発見されている。これはマロリーは帰還の際に絶命したと考えられ、登頂に成功したことを推測させるものである。だが決定的な証拠となるコダックのカメラが未だ発見されていない。マロリーがエヴェレスト初登頂したか否かは謎のままである。

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ヒラリーとテンジンは登頂後、何杯も紅茶を飲んで、かわききった喉をうるおした

冬至

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山国の 虚空日わたる 冬至かな(蛇笏)

 

    「冬至冬中冬はじめ」。暦のうえでは冬の真ん中にあたるが、実際の気候では、これから厳しい本当の冬が始まる。

   「冬至に柚子湯に入ると1年中風邪をひかない」という。「冬至」と「湯治(とうじ)」とかけられており、また柚子だけに「融通(ゆうずう)が利くように」という願いが込められている。

 また冬至の日に「かぼちゃ」を食べる風習がある。それほど古いものではなく、幕末から明治にかけて、東京で広まった風習と考えられます。

国定忠治、磔刑となる

Photo1 国定忠治慰霊碑

 

   戦前の日本の時代劇でいちばん人気があったヒーローは、四十七士の面々を別とすれば、「赤城の山も今宵限り」でおなじみの国定忠治(1810-1850)ではあるまいか。舞台では澤田正二郎だが、活動写真ではギョロリと目玉をむいた尾上松之助が国定忠治を演じている。「国定忠治(日光円蔵と国定忠治)」(大正3年)、「国定忠治」(大正7年)など。だが目玉の松ちゃんの映画は歌舞伎調で女優を使わず女形がでている。阪東妻三郎などのスマートな役者が現れると古臭く感じられた。そんなとき昭和2年に大河内伝次郎の「忠治旅日記」三部作が大ヒットした。群馬県の誇るモダニズムの詩人・萩原朔太郎も国定忠治に入れ込んでわざわざ自転車で忠治の墓まで出かけて詠んだ詩がある。

 

 わが村に来りし時

 上州の蚕すでに終りて

 農家みな冬の閾を閉ざしたり

 太陽は埃に暗く

 悽而たる竹藪の影

 人生の貧しき惨苦を感ずるなり。

 見よ 此処に無用の石

 路傍の笹の風に吹かれて

 無頼の眠りたる墓は立てり。

   萩原朔太郎は、おそらく伊藤大輔の映画「忠治旅日記」を見たことであろう。彼の訪れた忠治の墓は金城山養寿寺(伊勢崎市国定町)の墓だろう。これとは別に忠治の処刑場跡には「侠客国定忠治慰霊碑」がある。(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)

   国定忠治が大戸で磔刑になったのは41歳のときである。嘉永3年12月21日。師走で雪が降って、錆槍が縦横に突き刺した。忠治には一人の男の子がいたことはあまり知られていない。もちろん勘太郎ではない。勘太郎は勘助の子である。大谷国次(1844-1867)、幼名を寅次という。忠治の刑死後、その母お貞は寅次を連れて、貞の父である大久保一角の生地・野州都賀郡大久保村へ行き、出流山千手院にたくして僧となり千乗と名乗った。寅次は生来、武芸が好きであり、僧になることを好まず武術家になることを志し、還俗する。戊辰戦争の折には、慶応3年、官軍の出流山挙兵のとき、大谷刑部と改名し、軍資の調達に奔走する。岩船山の戦いで幕府軍に捕らえられて、慶応3年12月18日、佐野河原で処刑された。わずか24歳であった。大谷国次の名前は人名事典に収録されているが、勘太郎より年上であるが、お芝居には登場しないのはなぜだろうか。中風で病む忠治を訪ねて成長した国次と親子の対面。そのとき名刀の小松五郎義兼を渡され、父の形見の名刀を抱いて国次は幕末の国事に大活躍というチャンバラ映画があってもよさそうに思うのだが。どうやら国次の実在性を疑問視する学者もあるらしい。

2024年12月20日 (金)

ナルマダ川

 インドの地形は、3つの地域に分かれる。つまり、北部インド、デカン地方、南部インドで、これは地理的な自然区分である。北部インドは、北側ではヒマラヤ山脈が境界となっており、南の境界はナルマダ川とヴィンディヤ山脈である。ナルマダ川は全長1290kmでインドの中部をおおむね東西方向に流れている。南インドとデカン王朝の国境地帯となり係争地となった。ヒンドゥー教の聖なる河の一つで、沿岸には聖地が多くある。

英領インドにおける高等文官制度

 1853年のセポイの反乱が起きたのち、イギリスはインドをたんに搾取の対象と考えるのではだめだということに気づく。そのため、東インド会社なよるインド支配を廃止し、これに代わる直接統治のための新しい行税機構を作った。インド高等文官制度(Indian Civil Service)といわれるもので、千人前後のエリート青年が大植民地を管理する精鋭として送り込まれた。1880年代以降、道路網や運河、鉄道などが急速に整備された。

参考:「1880年代英領インドにおける植民地官僚制改革問題について」本田毅彦 史林73巻1号 1990年  

2024年12月19日 (木)

大岡越前と天一坊事件

 宝暦元年のこの日、大岡忠相死す。公正な裁判で名奉行とよばれ、映画などでは天一坊事件が広く知られている。享保14年(1729年)4月21日、将軍吉宗の落胤を名乗る天一坊改行(1699-1729)が品川で死罪の上、獄門となった。天一坊のもとに集まっていた常楽院(赤川大膳)や山内伊賀亮など浪人たちも遠島や江戸払いとなる。

    天一坊の正体は紀州田辺の生まれで、幼名は半之助というが真偽は定かではない。「大岡政談」では宝沢(ほうたく)という感応院というお寺の小坊主となっている。享保日録等の史料に見え、天一坊は実在の人物と思われるが、将軍家を揺るがすような大事件ではなかった。大岡忠相の名裁きの一つとされるが、実際には大岡忠相はこの事件には全く関係していない。(12月19日)

 

 

2024年12月18日 (水)

恥ずかしながら知らなかった本当の話

Photo_4  壇蜜が語る。「いまだに私、壇が苗字で、蜜が名前っていうのが、なかなか気づいてもらえない。どちらかというと、林修さんとか森泉さんの仲間に入るんですよ。瑛太さんとか優香さんの仲間ではなく」 例えが的確で頭がいいことがわかる。 つまり姓は壇、名は蜜。知らなかった~。ずっと「壇蜜」とは一つ括りと思っていた。壇蜜に年賀状やファンレターを書くとき、宛名は「壇」と「蜜」の間はすこし空けておくのが正しい。▽日本エレキテル連合のネタ「ダメよ~ダメダメ」のフレーズが大流行。実は白塗りメイクの女性、未亡人の朱美ちゃんはダッチワイフという設定だった。▽競馬の有馬記念。関西には有馬温泉があるので、有馬という地名と関係するのかとずっと思っていた。政治家、有馬頼寧(1884-1957)に因む名称である。▽30年以上も知らなかったこと。石川ひとみ「マリンブルーに溶けないで」(1982年)とてもハッピーな感じの夏の海の歌。ところが詩の意味は、失恋した女性が海に身を投げたという内容だった。▽ネプリーグの問題。「タンポポは何科?」林修先生はアブラナ科と回答。正解はキク科。国語が専門なので理科や社会には弱いところがある▽今更ながら「あまちゃん」南部ダイバーの歌をyoutubeで聴く。ドラマ用の歌ではなく実際にある歌。南部潜りの魂を謡うカッコイイ男の歌だ。ちなみに種市高校が実在し、アキの初恋の人、種市先輩の名前につかわれている。

 

 

 

 

 

 

インドの多様性と統一性

  インドには14億以上の人々が日本の約9倍の面積にあたる広い国土に住んでいる。UNFPAの推計によると、インドの人口は14億4,170万人(2024年現在)に達し、中国をぬいて世界一の人口になっている。その人種と民族もきわめて複雑な構成を示している。言語は方言を含むと800種類以上が数えられる。法律で認められている言語は、ヒンディー語、ベンガル語、マラーティー語、テルグ語、タミル語、ウルドゥー語、グジャラート語、カンナダ語、オリアー語、パンジャーブ語、マラヤ―ラム語、サンスクリット語、オリヤー語、ビハール語、ラージャスターン語、アッサム語、ビリー語、サンタル語、カシミール語などの22言語がある。言語の問題は、この国の文化的統一をはかるうえで非常に重要な意味をもっている。

  インドは「嫌悪すべきものと崇高なもののすべてを包含している」「インドの多様性ときたら大変なものである。それはもう、はっきりとしたものだ」という、ジャワハルラール・ネルーの言葉に示されるように、多様性を持ち、はげしい矛盾に満ちた複雑な国である。われわれはインドの歴史を研究すればするほどインド文化が、単一の基盤から成り立っているのではないことを教えられる。インドの美術や文化をみても、紀元前2500年頃にインダス河流域に繁栄したインダス文化は現在ではパキスタンの領土となっている。また西暦1世紀頃から起こったガンダーラ美術も従来はインド美術として考えられているがやはり現在の領域でいえばパキスタンの美術として考えなければならない。つまりインドという名称は、インド大陸だけをさす場合と、東西パキスタンを含めて拡大されたインドの2つがある。「インド亜大陸」といえば、バングラデシュ・ネパール・ブータンなどの国々を含めることが多い。

  そもそもインドという地名の語源は、インド・アーリア人の言語で「川」を意味する「シンドゥ(sindhu)という語にある。この普通名詞が、彼らがインドで接した大河、インダス川の意味にも使われるようになりさらに、インダス川の流れる広大な土地の意味にもなった。この「シンドゥ」という地名をペルシア人がなまって「ヒンドゥ」と呼び、さらにこれをギリシア人がなまって「インディア」と呼んだ。このギリシア語なまりが、ヨーロッパで使われるようになったのである。

   ヒンドゥー社会は、ヴァルナによる身分枠と各自が生まれながらに属するジャーティとよばれる社会集団によって規定されてきた。このヴァルナとジャーティを合わせたインド特有の社会制度がカースト制度である。今日では、カースト制度による差別は憲法で禁止されているが、現実社会にはいまもなお結婚などに根強く残っている。

13世紀にイスラーム教がインドに伝わり、ヒンドゥー教の影響を受け生まれたイスラーム文化、ムガール帝国の庇護下で発展した。17世紀後半、アウランゼーブ帝は、ジズヤの復活やヒンドゥー教寺院の破壊など、ヒンドゥー文化への抑圧策をとった。そのため彼らの離反を招き、帝国内は混乱に陥る。さらにイギリスやフランスがインドへの進出を狙っており、帝国に危機が迫っていた。

参考文献:「アーリヤ人の誕生」長田俊樹 講談社学術文庫

 

 

 

 

東京駅開業(大正3年)

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  6年の歳月をかけた東京駅は、大正3年3月19日、完成し、その年の12月18日に完成式と開業が行われた。設計者は辰野金吾(画像 1854-1919)。鉄骨レンガ、石材造りの3階建て。ルネサンス調建造物として近代西洋建築の頂点を示している。 

931   100年以上の歴史ある東京駅だが、最大の事件といえば、大正10年に起きた原首相の暗殺事件であろう。原敬(1856-1921)は11月4日、中岡艮一により刺殺された。66歳。背後関係はいまだ不明である。

2024年12月17日 (火)

最後の仇討ち

 明治13年のこの日、臼井六郎が父母と妹の仇討ちをした。安政4年、秋月藩の家老臼井亘理が干城隊の山本克己(のち一瀬直久と改名)に殺害された。その後、成人した息子の六郎は一瀬に復讐を志し、明治13年に念願を成就した。当時の新聞は美挙として報じたが、すでに「仇討ち禁止令」が発令されており、仇討ちは当時の法律では死罪に当たる。なんとか終身刑に原型されたが、服役した。のちに大日本帝国憲法発令により特赦を受け、釈放される。後半生の人生は詳細は述べる暇がないが市井の人として60歳で他界した。明治の人物としては「日本最後の仇討ち」として著名らしく、あの森鴎外も紀行文「みちの記」(明治23年)に記している。(12月17日)

2024年12月16日 (月)

紙の記念日

  本日は「紙の記念日」。明治8年のこの日、東京・王子の抄紙会社の工場で営業運転を開始した。抄紙会社は渋沢栄一が大蔵省紙幣寮から民間企業として独立させたもので、王子製紙の前身。製紙法は古く中国、後漢の宦官蔡倫によって発明されたもので、その後改良により実用化され周辺諸国に広がり、東アジア文化圏の礎となった。8世紀唐代になってイスラム世界に伝わった。751年タラス川の戦いで唐が大敗した際、捕虜となってサマルカンドに連行された兵士の中に紙すき職工がいた。アッバース朝ではサマルカンドに製紙工場を設けて紙をつくらせ、やがてバグダッドをはじめとするイスラム世界の各地に製紙工場が設立された。ルートはサマルカンド(751年)→バグダッド(794年)→カイロ(900年)→コルドバ(1144年)→ナポリ(13世紀)→フランス(1320年)→イギリスには1494年に製法が伝わった。(12月16日、世界史)

参考:「紙の歴史」 桑原隲蔵 芸文2-9、10  1911
「紙幣発達史」 曽我部静雄 印刷庁 1951
「中国製紙技術史」 潘吉星著 佐藤武敏訳 平凡社 1980

風呂敷の話

 物を包むのに用いる方形の布を「風呂敷」と呼んでいる。起源は奈良時代に遡ることができるが、平安時代には「平包(ひらづつみ)」と呼ばれて、庶民が衣類を包んで頭にのせて運んでいる様子が描かれている。江戸時代、銭湯が盛んとなり、風呂に敷く布を包むことから「風呂敷」と広く呼ばれるようになった。また江戸時代から、女たちが「お高祖(こそ)頭巾」として用いられている。(参考:風呂敷関係年表 竹村昭彦「風呂敷」日貿出版社 2008年)

 

2024年12月15日 (日)

年賀状じまい

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   郵便も やや遠のきし 六日かな (蘭聚)

 そろそろ年賀状の準備をする頃となった。やはり正月の楽しみは年賀状だろう。江戸時代には武家も町人も、年始回りで、新年の挨拶をした。江戸城には元日早朝から、将軍家に挨拶する人たちがぞくぞくと集まってきた。町人も得意先や近所に年始回り。職人は親方のところへ、子供も寺子屋のお師匠さんに挨拶に行った。ただ、年始回りに行ったが、先生も年始回りに行って留守だった、とか、あまりに年始客が多すぎていちいち顔を出していられない、という場合もあった。そういうときは、玄関に置いてある帳面に名前を書いて帰った。それでも、先生の家が遠方だったりして、どうしても回りきれないところが出てくる。そのため、松の内が終わってから、年賀状を書いて飛脚に託したり、お使いの人に持って行かせたりした。

   明治になっても、年始回りの習慣は続いた。ただ、社会的にも個人的にも人々の交際範囲は広がり、松の内の年始回りでは追いつかなくなった。いきおい、年賀状ですませるのだが、その時期に日本にも普及しだした郵便制度である。明治6年、郵便葉書の発行により、はがきで年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。もちろん、このころは年が明けてから書いた。ところが、知恵者がいて、正月に配達する年賀状を暮れのうちから受けつけたらどうだろう、と思いついた。明治32年、年賀郵便特別取扱制度ができた。明治38年には全国どこの郵便局でも前年のうちに年賀状を受け付けることになった。昭和12年には現在のように12月15日から25日までの間に投函する、元日に届く年賀郵便の特別扱いが開始された。ちなみにお年玉付き年賀状は昭和25年に始まり、京都の林正治(1909-1990)のアイデアである。近年は高齢化やメール、SNSの普及で、2003年が44億枚をピークで、そこから減少傾向となり、2021年はついに20億枚を下回っている。わが家でも郵便料金も値上がりしたし、私も体調が悪いので「年賀状じまい」にしている。

2024年12月14日 (土)

荼毘に付す(日本語になったサンスクリット語)

 サンスクリットは古代から中世にかけて、インド亜大陸や東南アジアにおいて用いられてきた言語。現在の母語話者は少ないが死語ではなく、インドでは憲法で認知された22の公用語の1つである。漢語で「梵語」という。漢字で音写され、その漢字音が日本で変化した結果、元の発音とは大きく異なるものが多い。日本には仏教経由で伝来した語が多い。

 「旦那」は寺院や僧侶に布施をする「施主」や「檀家」の意味として主に僧侶が用いる言葉であったが、旦那の語は一般に広まり、妻が夫を、商家の奉公人が主人を呼ぶときに用いる敬称となった。

   「彼岸」とはその名の通り「岸の向こう」。その向こうの岸とは悟りの世界のこと。サンスクリットではバーラミター(波羅密多)という。「河の向こう」の意味。迷いの世界(此岸)に対する言葉であるが、日本の信仰では死後は阿弥陀如来の導きにより人は彼岸に渡ることができる、と考えられているため、彼岸の仏事の習慣がある。

 「閼伽(あか)」は本来「価値あるもの」の意味。仏前に供える神聖な水や花を呼ぶようになった。

「荼毘に付す」は、火葬をするを意味する。サンスクリット語の「ジャーベティ」の音の漢訳。「荼(だ)」という漢字は、「茶」ではなく、苦しみや害悪という意味があり、「毘(び)」は助けるという意味がある。

    このほか日本語にはサンスクリットからきた言葉は多い。「お盆」は「ウラバンナ」に由来する。「刹那」は「クシャナ」に由来。時間の最小単位。「奈落」は「ナラカ」に由来。地獄を意味する。「涅槃」は「ニルヴァーナ」に由来。「鳥居」は「トーラナ」に由来。アーチ型の門を意味する。お布施。「僧伽」は「サンガ」に由来する。僧侶のこと。(Sanskrit,ullambana,naraka,dana,samgha,stapa)

阿闍梨(アーチャルヤ)、奈落、伽藍、塔、卒塔婆(ストゥーパ)、旦那(ダーナ・パティ)、しくゃみ、韋駄天、境内、達磨、餓鬼、舎利(、シャーリ)、涅槃(ニルヴァーナ)、娑婆(シャバ)、菩薩(ボーティサットバ)、鳥居、(トーラナ)、痘痕、お盆(ウラバンナ)、彼岸、荼毘、鉢(パートラ)、かわら(カバーラ)、栴檀、空、沙門、袈裟、月、飛鳥、かさぶた(アルブタ)、玄関、、相好、馬鹿、おっかあ、とうさん。

 

 

なぜ日本人は忠臣蔵が好きなのか

Img_0029 市川海老蔵の天川屋義平

 

   本日は赤穂義士討ち入りの日。今日の時刻では15日の午前4時頃だが、むかしから慣例として14日に祭りがある。映画「最後の忠臣蔵」舞台あいさつで、佐藤浩市が共演の桜庭ななみを暴露。大石内蔵助の娘・可音を演じる桜庭は初め忠臣蔵の話を全然知らなかった。亡君復讐劇ということも、赤穂義挙も、内匠頭と上野介も、松の廊下刃傷も、四十七士吉良邸討ち入りも、本懐達成、高輪泉岳寺墓参も知らない。つまり若い人で知らない世代もでてくるから、忠臣蔵はいつも新鮮な話で永遠に終わらないということだ。視点を変えれば、いくらでも話のタネはつきない。増上寺畳替、烏帽子大紋、脇坂淡路守、判官切腹、赤穂開城、勘平と定九郎、与市兵衛、お軽・勘平、山科閑居、一力茶屋、南部坂雪の別れ、徳利の別れ、天川屋義平、垣見五郎兵衛、神崎与五郎東下り、加古川本蔵、堪忍袋詫び証文、笹売り源五、毛利小平太など脱盟者、茶会、吉良邸絵図面、本所松阪町、俵星玄蕃、清水一角、南部坂雪の別れ、寺坂吉衛門など忠臣蔵外伝、エピソードの宝庫つまり忠臣蔵。それにしても日本人は忠臣蔵が大好きである。ところが最近は新作が無くなったのはなぜだろうか?理由は忠臣蔵はオールスター総出演が相場で、ギャラや製作費に膨大なお金がかかり儲からないからであろう。 (12月14日)

 

 

赤垣源蔵、徳利の別れ

Ce183902a51dd0f0f20a0788acc8fe14   赤垣源蔵は大の酒好き。脇坂淡路守に仕える塩山伊左衛門という兄がいた。ある雪の夜、源蔵は貧乏徳利と土産の品をさげて、芝新銭座にある兄の家をひょっこり訪ねた。折悪しく兄は留守で、嫂は癪で臥せていた。いつもは着たきり雀の源蔵は、今日に限って珍しく小袖を着ていたが、下女のおすぎに暫く待たせてもらうと断わって、横になってひと眠りした。目が覚めたが兄はまだ帰らない。すると源蔵は、兄の羽織を出させ、衣紋かけに通して柱にかけ、湯呑みに冷や酒を注いでその前におくと、居ずまいを正して両手をつき、「兄上、今日はお暇乞いに参りましたが御不在、源蔵、力なく戻ります」といって、ホロリとひとしずく、おすぎに遠方へ行くといって、帰っていった。

   その夜、兄は若党をつれて帰ってきたが、明くれば元禄15年12月15日、雪の朝の日本晴れ。大勢の者が、「仇討ちの引きあげだ」と叫びながら駆けて行く。よく聞くと、赤穂の浪人が吉良上野介の屋敷へ討ち入り、引きあげる途中だという。伊左衛門は驚いて、すぐ若党を走らせた。若党は返り血を浴びた源蔵に会い、槍につけた短冊や笛、癪の薬、小判などを貰って帰ってきた。伊左衛門は源蔵が残したた貧乏徳利とそれらの品物を床の間におき、その前に両手をついて、「源蔵、昨日は残念であった」と語りかけた。

   これをみたおすぎはたまげて、「昨日は源蔵さまが着物に口をきいていらっしゃいましたが、今日は、旦那さまが徳利に口をきいていらっしゃいます」

   さて、このことが脇坂淡路守のお耳に入り、伊左衛門は五十石の加増、貧乏徳利は脇坂家の家宝になり、徳利の入った箱には、「忠義赤垣の徳利」と墨くろぐろと書かれたという。(参考:「決定版忠臣蔵のすべて」人物往来社)

2024年12月13日 (金)

13日の金曜日

Friday13b   13日の金曜日が不吉で悪い出来事が起きる、というのは英語圏の多くとドイツ、フランスなどで広まっている迷信である。金曜日がなぜ不吉なのか。イエス・キリストが磔刑されたのが金曜日とされるが、聖書には13日の記述はみられない。Fridayという言葉は北欧神話の神フリッグから来ており、フリッグが「金曜日に悪魔を招いて悪事を企んでいる」と信じられるようになったから。金曜日に13を合わせて13日の金曜日を不吉とする風習は、古文献には見られず、19世紀になってから成立したとする意見がある。13を不吉な数とするのは、キリストの最後の晩餐に13人の人がいたことから生じたものであろう。1980年の映画「13日の金曜日」(1980)では殺人鬼ジェイソンがキャンプ場を舞台に若者たちを次々と惨殺するというホラー作品で、この影響によって、この日を不吉とする考えは世界的に広まった。しかし13日の金曜日=不吉で悪い出来事がおこる、という警戒感から、交通事故などを避けるため、事故件数は通常より少なく、安全な日という報告もなされている。2015年の11月13日の金曜日、パリで同時多発テロが発生し、120人以上が死亡した。金曜日が不吉な出来事が起こることはケネディや安倍晋三の事例でも見られるようだ。

 

 

2024年12月12日 (木)

ラディゲとベアトリス

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 ベアトリス・ヘイスティングス

   1914年、モディリアーニ(1884-1920)は、ザッキン(1890-1967)の紹介でイギリスの女流詩人でジャーナリストであるベアトリス・へイスティングス(1879-1943)を知る。彼女は北アフリカに生まれ、へイスティングスと結婚するも、間もなく別居。ロンドンへ行き週刊誌「ニューエイジ」のパリ特派員としてモンパルナスのノルヴァン街13番地に住んでいた。詩人エズラ・バウンドを発見し、小説家キャサリン・マンスフィールドと交友があった。モディリアーニは教養が高く、女権論者の5歳年上のベアトリスに惹かれた。やがて2人は恋仲となり同棲する。ベアトリスをめぐる詩人マックス・ジャコブ(1876-1944)との三角関係も1916年半ばには破局を迎えた。その後、ベアトリスはかつてモディリアーニから紹介されたレイモン・ラディゲ(1903-1923)と関係を持つようになる。ラディゲは年上女性との体験をもとに「肉体の悪魔」を1919年ころから書き始め、1923年に完成しベストセラーとなった。ラディゲは腸チフスにかかり、1923年12月12日、パリの病院で20歳の若い生涯を閉じた。ベアトリスはその後ファシズムのシンパとなったが、1943年に自殺している。翌年、ベアトリスの昔の恋人マックス・ジャコブもユダヤ人強制収容所で病死している。

2024年12月11日 (水)

長いタイトル、短いタイトル

Photo_3     楽曲や映画、小説にとって、そのタイトルをどう付けるか、というのは言うまでもなく大問題。2013年12月11日に発売されたAKB48のタイトルがやたらと長かった。「鈴懸の木の道で「君の微笑みを夢に見る」と言ってしまったら僕たちの関係はどう変わってしまうのか、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの」。何と76字ある。miwaの新曲「あなたがここにいて抱きしめることができるなら」は22字。

   小説では2014年刊行の村上春樹の新作も長かった。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年に」は20字。2010年のベストセラー「もしドラ」は33文字あった。2011年の「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」や浅田次郎のエッセイ「君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい」は19文字。奇抜で刺激的なタイトルで人の目をひこうという魂胆がみえる。ワンセンテンスがタイトルとなるのは片山恭一の「世界の中心で、愛をさけぶ」あたりからの流行だろうか。作家が小説のタイトルをつけるには、それなりの思い入れがあるのだろうが、こうしてダラダラと長いタイトルが出てくるのだが、むしろ漢字一文字という題名が、ことさら強い印象がのこる。漱石「心」「門」、芥川龍之介「鼻」、森鷗外「雁」、長塚節「土」、谷崎潤一郎「卍」「鍵」、丹羽文雄「顔」などなど。

2024年12月10日 (火)

三億円事件の日

Img_785584_61955498_0     1968年12月10日午前9時20分頃、東芝府中工場従業員のボーナスのための現金約3億円を積んだ日本信託銀行の現金輸送車が府中刑務所北側の路上で後を追ってきた白バイ警官に止められた。白バイ警官は爆発物らしき物を発見、行員たちが車外へ出て避難すると、運転席に乗り込みそのまま走り去った。このようにして3億円はまんまと奪われてしまったのである。1968年当時の3億円は現在の貨幣価値に直すと約10億円にあたる。1988年12月に民事時効が成立。戦後最大の未解決事件となった

2024年12月 9日 (月)

漱石忌

Photo_2   夏目漱石は大正5年11月21日、築地の精養軒における辰野隆、江川久子(山田三良)の結婚披露式に出席した。翌日、机上の原稿紙に189と『明暗』の回数を書いたままうつぶせ、ひとり苦しんでいた。胃潰瘍の5度目の発作が起こった。真鍋嘉一郎が主治医となったが、11月28日、大内出血があり、12月9日午後6時50分、永眠。享年49歳。12日、青山斎場で葬儀が行われた。導師は釈宗演。戒名は「文献院古道漱石居士」。狩野亨吉が友人代表として弔辞を読む。28日、雑司ヶ谷墓地に埋葬された。漱石の死は明治という時代が終わったという感がある。

   その最期は、物静かに「有難い」と一口云って息を引き取ったと伝えられる。(別冊太陽、夏目漱石)漱石の臨終記録は、このほかに、

いよいよ臨終となった時、寝間着の胸をはだけ、「ここに水をかけてくれ!死ぬと困るから…」と叫んで意識を失い、そのまま息を引き取っている。

   とある。「則天去私」の境地とは程遠いが、おそらくこちらが真実であろう。

  また漱石家もその頃、家族8人、鏡子夫人、長男純一(1907生)、長女筆子(1899生)、次女恒子(1901-1936)、三女栄子(1903生)、四女愛子(1905生)、次男伸六(1908生)が住んでいた。それに、小宮豊隆、阿部次郎、森田草平、内田百閒、赤木桁平、松根東洋城、野上豊一郎、鈴木三重吉、岩波茂雄、安倍能成などの木曜会のメンバーたちが臨終にいたであろう。(未確認)

つまり漱石の最期はかなり賑やかなものだったと想像される。

  漱石の脳がエタノールに漬けられた状態で、東京大学医学部で保管されている。その重さは1425グラムで、日本人の男子の平均より75グラム重く、天才的頭脳の型であった。

 

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Photo  道後温泉本館三階の一室「漱石の間」には「則天去私」の掛け軸がある。直筆ではなく平田抱山が書いた偽物。そこには「小さな私を去って自然にゆだねて生きる」と簡潔な説明がある。弟子の小宮豊隆は「漱石先生は晩年に至って則天去私という悟りの境地に達しておられた」と書いている。東洋的な調和の境地はすでに初期の作品にもみれるが、漱石自身が晩年に至るまで「則天去私」という言葉を一度も書き残していないことから、ついに最後まで悟りの境地に達することができなかったのではないだろうか。つまり則天去私とは漱石の晩年の思想というより、悲願、こうありたい、という切実な求道であった。

 漱石揮毫の「則天去私」の四文字は最晩年に仙紙半紙より短い紙に、行書体で書かれたもの。日本文章学院編「文章日記」(大正5年)に初めて掲載されている。(参考:石崎等「漱石と則天去私」 跡見学園短期大学紀要 1978-03)

 

 

2024年12月 8日 (日)

なぜ年末になると第九が演奏されるのか?

 1824年5月7日、ウィーンのケルントナートア劇場においてベートーヴェンの交響曲第9番がはじめて演奏された日である。ベートーベン自身が指揮した。合唱曲「歓喜に寄す」が入った第九は、今日、世界中で平和と国際協調のための賛歌とされ、もっとも有名で人気のあるクラシック作品のひとつである。ところで日本では、第九は年末の風物詩といわれ、12月になると毎年全国各地でコンサートが開催される。その理由は明らかでないが、ベルリンでは戦前からニューイヤーコンサートとして、大みそかの深夜に、ただ幾第九を演奏することが多かった。その風習が日本に持ち込まれたのかもしれない。年末に第九を演奏するというのは、もともと第一次世界大戦後、平和を願うドイツのライプツィヒで始まった。いまでも伝統行事として、大晦日に第九の演奏会が開かれている。だが海外では、年末にはヘンデルの「メサイア」(ハレルヤコーラスで有名な曲)が一般で、第九を演奏することは少ない。ではなぜ、日本に第九演奏が定着したのか?これには諸説あるが、太平洋戦争で亡くなった人々への鎮魂歌だったという意味が大きい。日本交響楽団(現NHK交響楽団)が1947年12月9、10、13日にレオニード・クロイツァー指揮(1884-1953)で3夜も第九の演奏会で成功を収めた。これが契機となって全国各地でも第九の演奏会が行われた。つまり、第九の演奏は貧乏な楽団員にとって年越しの餅代稼ぎとなった。第九は大合唱付きで、チケットがさばきやすかった。また12月はベートーヴェンの誕生月でもあることや、日本人に第九は絶大な人気があることがあげられる。

 

 

吉良邸討ち入りにかかる費用は?

 映画「決算!忠臣蔵」。原作は山本博文の「忠臣蔵の決算書」(新潮選書)討ち入りには莫大なお金がかかる。江戸と上方を往復する交通費、浪士たちの江戸での生活費、武器購入などの軍事費、浅野内匠頭の墓を建てる、などなどの仏事にも多大な費用がいる。内蔵助の敵をあざむくための祇園での放蕩は史実であろうか。さまざまな謎がわいてくる。神奈川県の箱根神社には「預金候金銀受払帳」の原本が所蔵されている。同社は仇討の元祖として有名な曽我兄弟と深い関わりを持ち、江戸時代には既に「仇討の神様」として広く知られていたのである。この史料によると討ち入りにかかった総額は約969両(現在の金額で約8200万円)と計上されている。最後に討ち入りのために江戸に下る旅費は、1人一律3両が渡されたとある。

 

太平洋戦争開戦記念日

十二月八日よ母が寒がりぬ(榎本好宏)

  昭和16年12月8日。この日から何年経っても、日本人には決して忘れられない日である。この日を境に人々は戦争に巻き込まれ、多くの人々の運命が暗転した。陸軍がマレー半島に上陸してイギリス軍を攻撃し、同時に海軍がハワイの真珠湾を攻撃した。米大統領ルーズベルトはこれを激しく非難して、アメリカ国民を結束させた。昭和17年6月、ミッドウェー海戦において日本は主要航空母艦3隻の沈没をはじめ致命的な敗北を喫した。8月には米軍はガダルカナル島上陸し反攻体制をととのえ始めた。昭和19年7月、日本軍がサイパン島で全滅、8月グアム島・テニアン島も占領された。米軍の進攻はさらに進み、昭和20年3月には小笠原諸島南端の硫黄島が、6月には沖縄本島が攻略され、日本の敗戦は濃厚となった。しかし、軍部は「一億玉砕」を叫び、本土決戦を強く主張した。昭和20年7月28日、無条件降伏を勧告したポツダム宣言が発表されたが、日本はこれを「黙殺する」との談話を発表した。米軍は8月6日広島、9日長崎に原子爆弾を投下した。昭和天皇は14日の御前会議でポツダム宣言の受諾を決定し、翌15日、降伏をラジオで放送し、ここに太平洋戦争は終結した。

  昭和39年に集英社から刊行された「昭和戦争文学全集」の第4巻には昭和16年12月8日の対米英戦争開始から昭和17年5月のコレヒドール攻略、珊瑚海海戦頃までの、緒戦の時期に関する記録・作品が収められている。なかでも12月8日の記録としては、太宰治、坂口安吾、伊藤整、高村光太郎、徳田秋声など諸家のものがあるが、上林暁の「歴史の日」(「新潮」昭和17年2月号)という手記が一番素直な気持ちで当時の空気を今日のわれわれに伝えているような気がする。

昭和16年12月8日は、遂に歴史の日になってしまった。(中略)隣のラジオが突然臨時ニュースの放送をはじめたのであった。「大本営陸海軍部発表、12月8日午前6時、帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れリ」(中略)その時、妹が庭で干し物をしていて、隣の女中が、垣根越しに、話しかけている。何を話しているのかと思って耳を立てると、「今朝はとってもひどい霜ね」と隣の女中が言った。「屋根が雪みたようでしたね」と妹が答えた。戦争のはじまった朝だから、霜の印象が深いのにちがいない。そうかと思って、私は目をあげた。隣の屋根が水びたしになって濡れている。うちの樋からは湯気が立っている。私はそれを見ながら、戦争のはじまった朝に、隣の女中が、霜の話をしたのが、印象に深く残るであろうと思った。

    当時、上林暁(1902-1980)は39歳。妻の繁子が昭和14年から入院中であった。上林は9年間患い死んでいった妻のことを書いた一連の作品「聖ヨハネ病院にて」(1946)などで知られる作家である。この「歴史の日」でも病妻のことに触れている。自分の心境を書く小説家と、未曾有の国家的事件発生でとまどう不安な心理状況が文面からうかがえる。

2024年12月 7日 (土)

クリスマスツリーの日

Tumblr_mfhf4o9lle1qbn3ato1_500  本日は「クリスマスツリーの日」。明治19年、横浜で外国人船員のために、日本初のクリスマスツリーが飾られたことによる。日本人が初めてクリスマスを祝ったのは、明治7年、米国長老教会の宣教師の指導の下、原胤昭(1853-1942)が東京・築地湊の第一長老教会で催したクリスマス祝会で、戸田忠厚という者が裃をつけ、大小脇差を携えて、大森カツラをかぶったお殿様姿でサンタクロースとして登場した。同年中、この教会で受洗し後牧師となる田村直臣も、この祝会に参加したが、「さんたくろすがとんなものか見たことはなく、クリスマスとどう関係があるかも知らず、ただのその名前が大変奇妙に聞えた」と述懐している。明治31年、進藤信義が日曜学校の子供向け教材として作成した冊子「さんたくろう」(三太九郎)の扉絵は、ロバを従えクリスマスツリーを抱えて、ややドイツ風のサンタクロースであった。(12月7日)

キケロとカティリナ事件

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 元老院で演説するキケロ(左)  マッカリ筆のフレスコ画

   紀元前43年のこの日、古代ローマの政治家マルクス・トゥッリウス・キケロが暗殺される。雄弁家キケロといえば。カティリナ事件が知られる。没落貴族カティリナは、エトルリアを中心として各地に植民しているスラの退役兵など不平分子を戦力基盤としてクーデターを計画していた。前63年、執政官キケロは元老院でカティリナを激しく非難し、死刑にするように提案した。カトも賛意を示したが、カエサルはカティリナが有罪であることには同意したが、懲役にするべきと主張し二人は対立する。カトはカエサルがカティリナ派と共謀したとして攻撃した。カティリナはイタリア北部へ逃れて挙兵したが、ローマ軍との戦いで敗死した。キケロは三頭政治の混乱期に共和制擁護に努めたが、前43年アントニウスの部下に暗殺されて首と手はローマに曝された。(Marcus Tullius Cicero,12月7日)

2024年12月 6日 (金)

サンタの服が赤いのはコカ・コーラの広告がきっかけ

Photo_4     一般に、イエスは12月25日に生れたとされている。「クリスマス」は「キリストのミサ」、つまりキリスト降誕を祝うミサを意味する。しかし聖書にはイエスの誕生の日付は記されていない。12月25日は、農耕神サトゥルヌスを讃えるサトゥルナリア祭やローマのソルとペルシャのミトラという太陽神の祝祭を合体させたものである。それらの異教の祝祭日を教皇ユリウス1世が西暦350年にキリスト教の誕生日であると宣言したことにはじまる。研究者によると、実際のイエスの誕生日は古代ユダヤ暦のエタニムの月(9~10月)だそうだ。初期キリスト教の伝道者たちはイエスの誕生を祝ったりせず、イエスの死だけを記念して祝った。もちろんサンタクロースの話などはイエスと無関係。小アジア(現在のトルコ)のミラの聖ニコラウス大司教に由来する。聖ニコラウスを意味するオランダ語がなまって「シンテルクラース」から派生した。聖ニコラウスは西暦270年から345年(または352年12月6日)のミュラという地で大主教をつとめた立派なかたで実在した可能性が高い。2017年英国オックスフォード大学で遺骨を年代測定したところねその死亡時期がサンタクロース伝説と一致した。聖ニコラウスの墓とみられるものが2022年にトルコの教会遺蹟で発見されている。

  今日の、赤と白の衣裳に白いあご髭をたくわえた優しそうなおじいさんのサンタは、当時の有名な画家ハッドン・サンドプロムが描いたコカ・コーラの広告(1931年)が世界中に広がって、知られるようになった。クリスマスにプレゼントを贈ったり、ゲームを楽しんだり、パーティで馬鹿騒ぎすることは、古代ローマ人の太陽の誕生を祝うという偽りの宗教に由来する習慣である。教会の指導者たちは、真理を教えることよりも、教会の信者席をいっぱいにすることに熱心になり、コンサートとか行事を催している。クリスマスに愛する異性と夜を過ごすという日本の風潮も嘆かわしいもの。世俗化・商業化されたクリスマスは地域経済の活性化に大きく貢献していると人はいうかもしれない。しかし経済的負担をかけることは神の崇拝とは無縁のことである。最近ではデパートなどショッピング・センター以外にも公共の場でも大きなクリスマス・ツリーをみかける。ツリーを飾る習慣は、ドイツで行われていた樹木信仰を取り入れたもので、19世紀以降に北ヨーロッパや北米に広まった。イエスをたたえるはずの時が、子供をだます時になるのはおかしなことではないだろうか?

 

 

 

 

2024年12月 5日 (木)

ヒュースケン暗殺(1860年)

Photo  万延元年12月5日、プロイセン使節のもとからアメリカ公使館への帰途、三田でハリスの秘書兼通訳ヘンリー・ヒュースケン(1832-1860)が薩摩の浪士(伊牟田尚平、神田橋直助、樋渡八兵衛ほか4人)に斬られ、翌日に死亡した。攘夷派がはじめて外国使節を殺傷した事件であった。ヒュースケンはオランダ人で、蘭・英・仏語を操る上に、明るく社交的な性格から、日本語もすぐに習得した。語学力を買われ、イギリス・プロイセン両国の条約交渉にも通訳として協力している。ヒュースケン暗殺前後にプロイセンとの交渉にあたっていた幕府高官、堀利熙(1818-1860)が自決している。ヒュースケン殺害は、各国の駐日外交団に大きな衝撃を与えた。主謀者、伊牟田尚平(1832-1862)は鬼界ヶ島に流刑される。幕府はオランダのヒュースケンの母ジュアンネに、賠償金として洋銀1万ドルを支払い事件を落着させた。(Henry Heusken)

2024年12月 4日 (水)

歩きたいのよ狸穴

44923231_624   地名の読み方は難しい。かつて東京にロシア大使館があるので有名な「狸穴町」という町名があった(現在は町名変更で麻布二丁目)。「まみあな」と読む。「別れても好きな人」の二番の歌詞に「狸穴」がでてくる。のちに「高輪」に変更された。

竹田城跡がある兵庫県朝来市は「あさご」、和歌山県西牟婁郡の朝来駅は「あっそ」と読む。佐賀県有田町は「ありた」、みかんで有名な和歌山県有田市は「ありだ」と読む。

    むかし連続クイズホールドオンで「放出」の読みが出題されていた。大阪人なら分かるが、他府県の人にはなかなか読みにくい地名。「はなてん」大阪鶴見区の地名。ハナチイデがなまったという。「放出」は本来、寝殿または母屋から続けて外へ建て出した建物のことをいう。

    ちょっと北海道から沖縄まで難読地名の旅に出かけます。(廃止地名も含めた)

北海道釧路町 「冬窓床」 ぶいま

 

青森県 「温湯温泉」 ぬるゆおんせん

 

岩手県 「花原市」 けばらいち

 

宮城県 「鬼首」 おにこうべ

 

秋田県 「鹿角市」 かづのし

 

山形県 「及位」 のぞき

 

福島県 「牛転」 うしころばし

 

茨城県 「水海道市」 みつかいどう

 

栃木県 「石裂山」 おざくさん

 

群馬県 「嬬恋村」 つまごいむら

 

埼玉県 「幸手市」 さってし

 

千葉県 「行川アイランド」 なめかわ

 

東京都 「福生市」 ふっさし

 

神奈川県 「酒匂川」 さかわがわ

 

富山県 「婦負」 ねい

 

石川県 「羽咋」 はくい

 

愛知県 「幡豆」 はず

 

京都府 「綴喜」 つづき

 

奈良県 「櫛羅」 くじら

 

兵庫県 「宍粟」 しそう

 

和歌山県 「学文路」 かむろ

 

島根県 「簸川」 ひかわ

 

愛媛県 「馬刀新」 まてがた

 

福岡県 「猿喰」 さるはみ

 

長崎県 「西彼杵」 にしそのぎ

 

佐賀県 「馬渡島」 まだらしま

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほ」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Jose_de_san_martin_por_navez     ホセ・デ・サン・マルティン(1778-1850)はアルゼンチンの軍人。南アメリカ諸国をスペインから独立されるために活躍した。1822年ボリーバルとの会談の結果、すべての地位を辞職し、フランスに亡命、貧窮のうちブーローニュで没した。▽「ポーラ・ラドクリフ」女子マラソン世界記録保持者、2時間15分25秒。▽「ポール・アンリ・チリ―・ドルバック」1723-1789。フランス語で著作活動をしたドイツ出身の哲学者。▽「ポール・ベルナ」フランスの児童文学者。「首のない馬」1908-1994。Jose de San Martin。▽「ポール・モラン」フランスの作家・外交官。代表作は「夜ひらく」。▽「ホーレス・ケプロン」明治初期、北海道の開拓顧問を務める。▽「ポンセ・デ・リオン」1474-1513。スペインの探検家。1513年フロリダを発見。

ボー・ブリッジス
ホー・シャオシェン
ホー・チ・ミン
ホアキン・フェニックス
ホイットニー・ヒューストン
ホーギー・カーマイケル
ホセ・アルベルト・ムヒカ・ユルダノ
ホセ・エチェガライ・イ・アイサギレ
ホセ・オルテガ・イ・ガセット
ホセ・パディーヤ・サンチェス
ホセ・フェラー
ボニー・ベデリア
ホノリウス
ポッパエア・サビナ
ボニー・ライト
ボビー・ジョーンズ
ボビー・ダーリン
ボブ・ケイン
ボブ・ディラン
ボブ・ホスキンス
ボブ・ホープ
ホープ・ラング
ボボ・ブラジル
ホーマー・ハルバート
ホメイニ師
ボーヤイ・ヤーノシュ
ポーラ・ネグリ
ポーラ・ラドクリフ
ポリー・ウォーカー
ホリー・ハンター
ボリス・ジョンソン
ボリス・チチェーリン
ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン
ポリス・カーロフ
ポリス・パステルナーク
ポーリーヌ・レアージュ
ポール・アレン
ポール・アザール
ポール・アンカ
ポール・アンリ・チリ―・ドルバック
ポール・ヴァーホーヴェン
ポール・ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュ
ポール・ウォーカー
ポール・オースター
ポール・ギャリコ
ポール・グリーングラス
ポール・ゴーギャン
ポール・サミュエルソン
ポール・ジアマティー
ポール・シニャック
ポール・ジュリアス・ロイター
ポール・スコフィールド
ポール・ストランド
ポール・セザンヌ
ポール・ティベッツ
ポール・デルヴォー
ポール・トーマス・アンダーソン
ポール・ニザン
ポール・ニューマン
ポール・ハギス
ポール・フレデリク・サイモン
ポール・ベタニー
ポール・ベルナ
ポール・ヘンリード
ポール・モラン
ポール・モーリア
ポール・ラマディエ
ポール・ラングラン
ポール・ロジャー・ローレンス
ホルヘ・ルイス・ボルヘス
ポル・ポト
ポール・マッカートニー
ポール・ムニ
ホルスト・ケーラー
ホルスト・ブッフホルツ
ホルへ・ルイス・ボルヘス
ホルローギン・チョイバルサン
ホレーショ・アルジャー
ホレーショ・ゲイツ
ホレーショ・ネルソン
ホレス・ウォルポール
ホーレス・ケプロン
ポレスワフ1世(ポーランド)
ポーレット・ゴダード
ポン・ジュノ
ポンセ・デ・レオン

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   ポール・ヘンリード(写真左)はナチを避け渡米したオーストリア出身のスター。「カサブランカ」では反ナチスの指導者ラズロを演じた。

 

 

聖バルバラの日

 1世紀ごろ、ローマ帝国は、国家の神々の尊崇を人民の義務とはしたが、諸宗教に寛容なことが統治の良策であると考え、国家宗教を外形的に認めるならば、これとならんで他宗教を崇拝することは妨げなかった。キリスト教は、その特異な性格のため異教徒の民衆のあいだで早くから憎悪されていたが、はじめユダヤ教の一派と認められていたから、アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウスなどの皇帝たちはおおむね寛容に取り扱っていた。国家による迫害はきわめてまれで、64年のネロの迫害も、ローマ市の大火災の責任を民衆に憎悪されているキリスト教徒に転嫁しようという特殊事情にもとづくものであり、迫害の範囲もローマ市に限られていた。エルサレム陥落後、キリスト教とユダヤ教の対立、キリスト教の独立の存在が明らかとなり、つづいて皇帝崇拝が強化されていく時代にキリスト教徒が皇帝崇拝を拒絶するにおよんで、ドミティアヌス、トラヤヌス、ハドリアヌス、マルクス・アウレリウスなどの治下に、やや大規模な迫害がおこなわれた。しかしこれらも全帝国にわたるものではなく、また継続的なものでもなかった。迫害されたキリスト教徒は、地下に深く迷路のように掘られたカタコンベなどに逃れて信仰を続けた。キリスト教への信仰に目覚めた少女バルバラが処刑された。303年、伝統的なローマの神々への信仰を重んじ、皇帝崇拝を強制したディオクレティアヌス帝が大迫害を行ったが、ますます増える信者の勢いに、迫害より懐柔と、313年、コンスタンティヌス帝はミラノ勅令によってキリスト教を公認。たちまち教会組織が整えられ、聖職者の身分が生れた。(catacombe、12月4日)

2024年12月 3日 (火)

芸能人同士の結婚

   純烈の後上翔太&元AKBの横山由依が結婚を発表。2人はどこで知り合ったのだろう。最近はドラマや映画で共演してそのまま現実の世界でも結婚なんて話がよくある。高畑充希&岡田将生、星野源&新垣結衣が典型だろう。岡田准一&宮崎あおい、福山雅治&吹石一恵、片岡愛之助&藤原紀香、高橋一生&飯豊まりえ、山田裕貴&西野七瀬、松岡茉優&有岡大貴、向井理&国仲涼子、堀北真希&山本耕史などなど続々と結婚ラッシュ。福山と吹石は共演作はなにか?調べてみたが大河ドラマ出演は「龍馬伝」と「平清盛」でニアミスしたものの、共演はない。むかし同じ映画会社の所属のスター同士の結婚は禁止だったそうだ。それを破って結婚したのが石原裕次郎。「狂った果実」で共演した北原三枝と4年後には豪華な結婚式を挙げている。

デルマーバ半島

   アメリカの半島といえば「フロリダ半島」や「カリフォルニア半島」がいちばんに浮かぶが、デルマーバ半島という地名はあまり聞かない。デラウエア湾とチェサピーク湾とに挟まれたワシントンに近い位置にあり、重要な地名であるが、学校では教えないし、「地名・地理辞典」(数研出版社)にもない。デルマーバという地名は、デラウェア州(DELaware)、メリーランド州(MARyland)、バージニア州(VirginiA)からの合成地名である。世界の主な半島は、面積規模の順で、アラビア半島、インド半島、ラブラドル半島、スカンジナビア半島、イベリア半島、インドシナ半島、アナトリア半島、バルカン半島、カムチャツカ半島、マレー半島、朝鮮半島、ヨーク岬半島、イタリア半島、バハ・カリフォルニア半島、フロリダ半島、ブーシア半島、ソマリア半島など。インドネシアのスラウェシ島のミナハサ半島は北から東方向へ長さ約600㎞と非常に細長く伸びている半島である。(ちなみにJRの東京~大阪間が556.4㎞)。

 

 

 

 

 

 

芸能人の運命を左右する改名あれこれ

   生瀬勝久の当初の芸名は「槍魔栗三助(やりまくりさんすけ)」だった。最近では、桜庭ななみが宮内ひとみ、岡田健史が水上恒司、能年玲奈が独立騒動で芸名を「のん」と改名している。芸名は芸能人の命だ。五木ひろしは成功するまでに、5回改名している。川中美幸は春日はるみ、夏川りみは星美里、壇蜜は齋藤支静加という旧名がある。華原朋美には三浦彩香、遠峯ありさ、という旧名がある。

   むかしから改名して成功した芸能人は多い。林長二郎が長谷川一夫、城健三郎が若山富三郎、柴田吾郎が田宮二郎、峰岸龍之介が峰岸徹、安田道代が大楠道代、丸山明宏が美輪明宏、悠木千帆が樹木希林、ラビット関根が関根勤、高樹沙耶が益戸育江、浜崎くるみが浜崎あゆみ。漢字を平仮名に、あるいはその反対の場合もある。柳ユーレイ→柳憂怜、柏原よしえ→芳恵、大谷みつほ→允保。伊藤麻衣子→いとうまいこ、にしきのあきら→錦野旦。唐木淳→黒木憲ジュニア。元ほっしゃん→星田英利。横綱若乃花(本名:花田勝)は風水建築デザイナー直居由美里のアドバイスで芸名を「花田虎上(まさる)に改名している。最も多く改名した芸能人は池田裕子(画像)。本名の三門裕子。堀内裕子→桐生裕子→桐生ユウ子→桐生ゆう子→絵門ゆう子。

 

 

みかんの日

Photo_4 きょうは「みかんの日」。「いいみっか(3日)ん」の語呂合わせ。市場でミカンがみかける頃となった。日本の正月風景は、家族で囲んだ炬燵があり、その上に必ずミカンがあるというのが定番である。日本のミカンはオレンジと違い、テレビを観ながらでも手で皮がむけることからアメリカでは「テレビオレンジ」という愛称があるそうだ。とくに温州ミカンは、日本の全柑橘生産量の約4分の3を占めている。温州ミカンの歴史は意外と新しく、明治時代中期以降のことである。有吉佐和子の小説「有田川」には、「紀州ミカン」が「温州ミカン」と移り変わる明治33年当時のようすが描かれている。果実が100gにもなる温州ミカンと50gほどの小ミカンでは勝負は明らかだった。温州(うんしゅう)みかんの呼び名は、江戸時代の本草学者が中国のミカンの名産地である浙江省温州府という古名に因んだものである。原産地は浙江省とは無関係で、鹿児島県出水郡長島町であり、筑後地方に入って各地に広まった。

   近年は温州市は高度な経済発展をとげる中国人が住むところとして、「温州商人」という呼称がある。投資と商才に長けた人たちをさす。(12月3日)

 

 

 

 

2024年12月 2日 (月)

皇帝ナポレオン(1804年)

   1804年のこの日、ナポレオン・ボナパルトの戴冠式がローマ教皇ピウス7世臨席下、パリのノートルダム大聖堂で行われフランス皇帝に即位した。慣例では、フランスのランス大司教が王冠をかぶせるところ、ナポレオンはみずから戴冠し、皇后ジョセフィーヌに自分の手で王冠を授け、自己の権力を誇示した。ナポレオンは、みずからを、1000年前にローマ皇帝として戴冠したカール大帝になぞらえていた。皇帝の依頼で大作を制作した画家ダヴィッドは完成に手こずり、実際に出来上がったのは戴冠式から3年の後のことであった。(12月2日)

2024年12月 1日 (日)

師走の語源

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 きょうから12月、「師走(しわす)」とは、読んで字の如く、「師(僧侶)が忙しく走り回る月」のことだから、というのは俗説で、12月を「しはす」というのは万葉時代からのことばである。

しはすには 沫雪(あわゆき)降ると 知らぬかも 梅の花咲く 含(ふふ)めらずして

 「万葉集」にこの一首だけ「しはす」がでてくる。

    江戸時代の学者、新井白石は万葉時代に「極」の字を読んで「ハツ」というので、俗に「極月」の字を用いて「しはす」と読んだと説いている。

    では「しはす」をなぜ「師走」と書くようになったのか、諸説があってはっきりしない。平安時代の仁明天皇の承和5年12月から仏名会という行事が行われるようになって、法師がお経を読むため、師匠も趨走するので、「師趨(しすう)」という。「師馳月(しはせづき)」であるともいい、それが略されたものだという。広辞苑を引くと「師走比丘尼」(しわすびくに)という語がある。「おちぶれて姿のみすぼらしい比丘尼」という意味。「師走坊主」「師走浪人」という語もある。江戸時代には師走は「人が極限状態にまでおちぶれやつれること」の形容でもあった。師走とは本来、極限という意味があって、1年の終りと言う意味で「師走」という漢字が充てられたのだろうか。「大言海」では「歳極」(としはす)の略転、あるいは「万事、為果(しは)つ月」の意からきたのではないかとしている。

     12月の別称は他にも多数ある。春待月、親子月、極月、梅初月、年よ積月、暮古月、三冬月、厳月、臘月、弟月、除月、蜡月(せきつき)、窮月、小歳、暮節、暮歳、嘉平、清祀、凋年、未垂、窮年、四極、三余、大呂、残冬、黄冬、晩冬などがある。(12月1日)

なんとなく しはすの空に なりにけり あはれかさなる 年の数かな

 

 

メイフラワー号(「メ」事項索引)

 「メイフラワー号」1620年、宗教上の迫害をのがれて清教徒30人を含む102人を乗せたメイフラワー号はイギリスのプリマス港を出帆し、大西洋を約65日かかって渡り、アメリカ東部マサチューセッツ州のコッド岬に到着し、のちプリマスに上陸した。彼らはやがてピルグリム・ファーザーズとよばれることになる。▽「メソロンギオン」ギリシア南部の町。イギリスの詩人バイロンはギリシア独立戦争に参加後、この町で客死した。▽「メーメル地方」バルト海に面したリトアニアに属する地域で、現在はクライぺダと呼ばれる。▽「明応の政変」1493年、足利義澄を擁した細川政元が将軍足利義稙を排斥し、幕府の実権を握る。(めめめ)


目明(めあかし)
雌阿寒温泉
メアリ1世
メアリ―・セレスト号
明応の政変
迷宮入り
メイエルホリド
冥王星
明月記
名刺
明治維新
明治神宮
名神高速道路
メイソン・ディクソン線
命題
明徳の乱
明白な天命
メイフラワー号
メイラード反応
名誉革命
明暦の大火
明六社
メガステネス
目からウロコ
メキシコ
メキシコ革命
メグレ警部
メシア
メスティーソ
珍敷塚古墳(めずらしづか)
メソアメリカ文明
メソジスト
メゾチント
メソポタミア
メソロンギオン(ギリシア)
メダカ
メタセコイア
メダルチギ
メッカ
メッテルニヒ
滅満興漢
馬手(めて)
メーデー
メディア
メディチ家
メディナ
メディナ・デル・カンポ条約
メーテルリンク
メトロポリタン美術館
メナンドロス
目には目を、歯には歯を
メニエール症候群
メネラウスの定理
メバラゲシ
メービウスの帯
メフメト2世
めまい
メーメル地方(リトアニア)
目安箱
目病み女に風邪ひき男
メラネシア
メランヒトン
メリーさんのひつじ
メリナ王国
メルセン条約
メロヴィング朝
メロエ
メロエ文字
メロリアの戦(1284)
メーン州
メンサ
免罪符
メンシェヴィキ
メンデル
メンデルスゾーン
メンフィス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画の日

 現在、いつでも家で映画が簡単に観られるようになった。でもやっぱり映画は映画館で観たいものである。神戸湊川神社前の高橋鉄砲店の2代目店主の高橋信治、大阪心斎橋の三木福時計店店主の三木福助がリネル商会(神戸居留地14番)を通じてキネトスコープを輸入し、神戸の料亭「宇治川常盤」で明治29年11月17日に上映したのが日本で最初の映画公開である。キネトスコープとはエジソンが発明したもので、レンズをのぞいて箱の中の動画を見る装置。

    一般の人にもキネトスコープを公開しようということで、神戸花隈の有料貸席「神戸倶楽部」が11月25日から12月1日まで興行された。馬車と自転車の競走などの簡単な映像であったが、好評だった。「12月1日は映画の日」というのは、これに因んできりのよい日という理由で昭和31年に制定されたものである。▽「ターミネーター」シリーズ最新作「ターミネーター・ニューフェイト」が公開中だが、興行的に世界中でコケたらしい。▽最新の恋愛映画は「ラスト・クリスマス」エミリア・クラークとヘンリー・ゴールディング。でもエミリアは33歳で大人女子。相手役のヘンリー・ゴールディングはマレーシアのイケメン俳優。▽「花束みたいな恋をした」恋愛映画に事故・難病・三角関係などがない。ハッピーエンドではない。現代の若い二人の同棲記録か。二人が結ばれない映画はあまり当たらないというがコロナ禍にもかかわらず大ヒットした。「草原の輝き」や「シェルブールの雨傘」のような結ばれないアン・ハッピーエンドのラブストーリー。

ハリウッド物語

Wilcoxdaeida    本日は「映画の日」。映画の聖地ハリウッドは、1923年7月13日、ハリウッドの象徴ともいえる看板が設置された。ロサンゼルス市郊外にある映画産業の中心地ハリウッドは1884年に禁酒運動家であるホーレス・ウィルコックス夫妻がその運動を広めるためにこの地を訪れ、ここに理想の村を建てる計画を立て、48万5600㎡の土地を購入した。1884年2月1日この地を「Hollywood(ひいらぎの森)」と命名した夫人のダイエダ・ウィルコックス(1862-1914)が考えたものといわれている。

 

Al_christie_sm   20世紀の初めの頃、映画はニューヨークやシカゴで撮影製作されていた。MPPCというエジソンのトラストが映画産業を支配していたが、トラストに加入していないアル・クリスティー(1881-1941)が新天地ハリウッドへ逃れ、ここで映画を作った。これがロサンゼルスのタレー座で大いに当たり、これがハリウッドと映画との第一歩となった。

 

 

 

 

 

Laemmlejr     東部でユニヴァーサル映画社を1909年に創立していたカール・レムレ(1867-1939)という映画興業家は1914年にハリウッドに移転。ときあたかも第一次世界大戦の勃発で、これまで映画製作していたイタリア、フランス、ドイツが困難となり、アメリカはその映画市場が発展した。D・W・グリフィス、セシル・B・デミル、さらに喜劇のチャールズ・チャップリンなどがこのハリウッドに集まり、ついにアメリカ映画は世界を征服する勢いを示したのである。

 

(Hollywood,Harvey Wilcox,Daeida Wilcox,Al Christie,Carl Laemmle、7月13日)

標語誕生

Img_1494464_51243906_0  1972年のこの日、交通安全標語「せまい日本そんなに急いでどこへ行く」が最優秀となる。それにちなんで本日は「標語の日」(そんなのないよ)。最近は、多くの人が知る標語があまりないようだ。

   戦時中は勇ましいスローガンが巷に氾濫していた。「欲しがりません、勝つまでは」「撃ちてし止まむ」「進め一億火の玉だ」など。1939年8月、国民精神総動員本部は「ぜいたくは敵だ」、1940年8月1日には「日本人ならぜいたくは出来ない筈だ」の立看板1500本を東京市内に立てた。(12月1日)

 

 

 

Ph_shouwa_08 Photo

 

   戦後は交通安全のスローガンが有名だ。「注意一秒、ケガ一生」「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」「とびだすな車は急に止まれない」「せまい日本そんなに急いでどこへ行く」せまい日本の標語は高知県警土佐署の現役巡査だった岡本定之助の作品で、道の駅梼原に石碑が建てられた。(slogan,12月1日)

 

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