応仁の乱(1467年)
応仁元年(1467年)から文明8年の11年間にわたり、関東以東および南九州を除く諸国の大小名が、細川勝元(東軍)と山名持豊(西軍)とに分かれ、京都を主戦場として戦った大乱。原因は室町将軍義政は奢侈を好み、政治は夫人の日野富子やその閥族、政所執事の伊勢貞親や禅僧李瓊真蘂らの寵権臣のなすがままに動かされていた。義政は管領の斯波、畠山両氏や大名家の家督相続争いの裁許にも厳正を欠き、ために領国内両分の武力抗争にまで発展していった。政治紊乱に乗じて土一揆が類発し、おりから連年の旱水害で続出した難民が京都に流入するなど、社会不安も増大して京畿は戦雲におおわれた。始まりは、応仁元年1月18日、畠山義就が京都・上御霊社の畠山政長を襲い、応仁の乱が始まった。6月になると、戦火はさらに拡大し、京都の都は3万余戸が焼亡した。その後、将軍家に継嗣問題がおこり、細川、山名をそれぞれ盟主とする両党が形成されて中央決戦となった。勝元は宗全追討を将軍義政に強請し、応仁2年6月8日に足利義視を総大将とする追討軍を編成したが、山名方も畠山義就軍が到来し、8月には長門の大内政弘の大軍が入京したので勢いづいた。ここで勝元は後土御門天皇、後花岡上皇を迎えたが、義政が伊勢貞親を召したのに動揺した義視が出奔してしまった。かくて9月から山名方の将軍家奪還の戦いとな、10月に相国寺の激戦がおこった。これが互角に終わり、応仁の乱は長期戦化する。文明5年、持豊、勝元の東西両軍の将の相次いで死去するに及んで京都の戦火は下火となり、斯波義廉がまず領国に帰ったのをきっかけとして、諸守護大名は単独にに講和して帰国するものも現れた。文明8年11月12日(あるいは11日)、大内政弘が義政に懐柔されて右京太夫に任ぜられ所領を安堵されて帰国し、足利義視と畠山義就はそれぞれ京都を離れるにおよんで中央の戦争は終幕を告げた。大内が帰国した日を終結したとすれば、11月11日(新暦12月16日)であるが、なし崩し的になしくずし的に収まったので終りの日がはっきりしない。この乱の結果、室町幕府は完全に無力を暴露し、もはや全国的政権の実を失うことになる。また多くの守護大名たちも下剋上の風潮をともないつつ戦国の争乱の中で滅んでいった。
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