夜郎国と李白
李白(701-762)は、755年11月9日の安禄山の乱の時、揚子江方面で旗揚げした永王璘(りん)の叛軍に加わった罪で夜郎へ流罪されることになった。夜郎への旅の途中、妻の宗氏にあてた李白の詩「南のかた夜郎に流されて内に寄す」がある。
南流夜郎寄内
夜郎 天外 離居を怨む
明月 楼中 音信疎なり
北雁 春帰って 看み尽きんと欲し
南来 得ず 予章の書
(通釈)私は夜郎というさいはての地に向かいつつ、きみと離ればなれの暮らしを嘆いている。月あかりのもとの高楼にいるきみからは、たよりもなかなか届けられない。北へ飛ぶ雁は春となって帰ってゆき、私が見送るうちにすっかりいなくなりそうだが、私は雁たちと反対に南へ来てしまい、予章にいるきみからの手紙を受け取ることができないのだ。
従来、李白は夜郎に向かう途中で恩赦により引き返したという説が有力であった。「NHK古典講読,漢詩李白、2007年4月ー9月」の年譜を見ても「乾元2年(759年)3月、夜郎に至たらぬうちに恩赦に遇う」とある。しかし、近年の研究によると、李白は夜郎に到着し、逗留したのち、恩赦により引き帰したと考えたほうが妥当であろう。(胡大宇「李白と夜郎」、『夜郎研究』貴州民族出版社、2000年)
ところで夜郎といえば、「夜郎自大」という四字熟語が想起されるが、この李白の時代の夜郎とは、中心的な所在地が大きくことなる。漢代の夜郎国は貴州省の西部、西南部にあり、唐代の郡県の夜郎は貴州省北部の桐梓(とうし)県夜郎壩に治所が置かれた夜郎郡夜郎県である。唐代夜郎県は五代、北宋と642年から1120年まで設置された。
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