龍馬暗殺の謎
慶応3年11月15日、龍馬は京都近江屋で中岡慎太郎と共に何者かに暗殺された。暗殺グループは京都見廻組という説が有力である。見廻組は佐々木只三郎(1833-1868)を与頭とし、渡辺吉太郎、高橋安三郎、桂早之助、土肥仲茂、桜井大三郎、今井信郎らが暗殺に関与していたとされる。近年、龍馬を斬ったとされる小太刀が発見された。刀の持ち主は見廻組の一人である桂早之助である。つまり佐々木只三郎の指揮のもと桂早之助が龍馬を斬ったのだ。だが佐々木も桂も翌年の鳥羽伏見の戦であっけなく戦死したので、事件の詮議はされなかった。新史料の小太刀の鑑定については未だ謎が残る。只三郎は明治20年まで生きていたという異説もある(「会津剣道誌」1967年)。ネット上では佐々木只三郎の晩年の写真を見ることができる。
だが龍馬の暗殺犯を当時海援隊は紀州藩の三浦休太郎と見ていた。海援隊士は三浦の常宿・天満屋を襲撃している。新選組が三浦を護衛したので逃げのびた。やはり龍馬暗殺に新選組が関与していたという説も捨てきれない。新選組の前野五郎(1845-1892)は三浦休太郎と親しく、天満屋事件のときも同席している。前野には実に不審な行動が多い。佐幕と尊皇を渡り歩いている。鳥羽伏見の戦で敗走した前野は甲州勝沼に参戦。その後、永倉新八をたよって靖兵隊へ入隊し東北各地を転戦した。のち薩摩に従軍の加納道之助に投降、ここで薩摩軍に加えられたという。加納は新選組から離脱し高台寺党を結成し、のち薩摩軍に加わった。おそらく前野とは新選組時代からの仲間だったであろう。前野が龍馬暗殺犯だったと知った薩摩の桐野らは近江屋事件を不問にしたと考えられる。明治になって前野は札幌の薄野で妓楼を経営して財産を築いた。その私財を投じて、岡本監輔の千島開発に出資し、自ら択捉島へ渡った。明治25年4月19日、沙那郡磯谷山中に狩猟中、磯谷川に架かる丸太橋から転落、渓流に押し流されるうちに、猟銃が暴発、弾丸が喉から頭を貫いて即死した。そして近江屋事件は迷宮入りとなった。
« 七五三 | トップページ | 綺麗なのに「声が残念…」 »
「日本史」カテゴリの記事
- 河越城の戦い(1546年)(2024.04.20)
- かえり船(2024.03.23)
- 鍋島騒動(2024.03.20)
- 勘解由使(2024.01.14)
- 藤原兼家(2024.01.12)
ご挨拶を省略させていただきまして・・・唐突では御座いますが、
私の父方祖父母各々の祖父(つまりは自分の曾々祖父)は長州と会津の士族でした。
前者は吉川城主の小姓、後者は剣の達人で直心陰流伝承者らしく、ちなみに後者は晩年の永倉新八と共に撮影された写真があります。
道内には歴史上こうした子孫も多いとは思われますが、
面白いことに札幌市(隣接の区内)に、
前野五郎と坂本(龍馬)本家の墓石があります。
歴史とは不思議なものです。
お祭りの「よさこい=YOSAKOI」繋がりも必然的だったのか、とも感じさせられてしまいますよ。
突撃コメントとなってしましたが・・・これにて失礼いたします__。
投稿: 某検索にての通行人 | 2013年6月 2日 (日) 03時17分