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2024年10月30日 (水)

アルフレッド・シスレー夫妻の愛

 印象派の巨匠アルフレッド・シスレーは1839年のこの日、ウィリアム・シスレーとその妻フィリシアの子としてパリに生れる。印象派の画家たちの中で、つねに運動の中心的位置にいたにもかかわらずアルフレッド・シスレー(11839-1899)の生涯については、判然としないところが多い。控えめな性格と、隠遁生活のために、彼の私生活も画家としての生涯も、埋め尽くせない空白の部分が多く残されてしまう。ほとんど風景しか描かなかったため、妻や子どもや友人の肖像画すら一枚もないのである。

   アルフレッド・シスレーの祖父トマス・シスレーは、イギリス人で、フランスの贅沢品をロンドンに輸入する貿易商として成功し、フランス女性と結婚した。息子のウィリアム・シスレー(1799-1879)は、1830年代、パリの自社倉庫を管理するためにフランスに移り住み、その後パリで独自の事業を営むようになった。1839年10月30日、4番目の子としてアルフレッド・シスレーが生まれたのも、ここパリであった。

   シスレーの幼少期や青年期についてはほとんど何も分かっていない。一家は繁栄し、家庭も愛情に満ちていたようである。父親は、画家になるという息子の選択に当初は反対したものの、後には経済的に彼を支援し、その画家仲間たちを自宅に歓待するようになった。1860年代初めには、モネ、ルノワール、バジールなどの多くの若い画家たちが彼のアトリエに集まった。ルノワールが描いたシスレーの肖像画からは、シスレーは身だしなみの整った気さくな人物のように見受けられる。しかし同時に、彼のきまじめな一面、すなわち絵画に対する彼の思い入れの深まりと、その作品や人生を特徴づけるようになる内向性や慎み深さもほのめかしている。

   1860年代半ば、彼は画家のモデルをしていたウジェニー・レクーゼク(1834-98)という女性と関係を持つようになる。ウジェニーは1867年にシスレーの息子ピエールを、1869年には娘ジャンヌ・アデルを生んだ。シスレーはこの密通がもとで、すでに妻を亡くしていた父ウィリアムと仲たがいしたらしく、父は彼への援助を中止してしまったようだ。シスレーが60年代の終わり頃、しきりに金銭苦を訴えていたのはこれが一因だと思われる。

   ウジェニーという女性については、いまだによく分かっていない。ルノワールは彼女のことを「とても繊細な性格で、極めて育ちのよい」人であったと回想している。彼女の写真は全く残っておらず、シスレーの作品の中で、風景に混じってぼんやりと描かれているだけである。手紙の中でも彼は、ウジェニーに関して遠回しに触れているに過ぎない。彼女について恐らく最も直接言及したのは、全く目の見えない時期、ずっと自分を辛抱強く支えてくれた彼女に手向けたシスレーの弔辞であろう。「私が落ち込んでいるとき、私の良き勇敢な友がいつもこう言ってくれました。『私たちは最後まで闘い抜かなければならないのよ』と」。

   1870年、普仏戦争が起こった。戦争は、シスレーにさんざんな結果をもたらした。父親の事業が破綻して一家は貧困の中に投げ出された。プロイセン軍がパリを包囲すると、彼はブージヴァルの家からルヴェシェンヌに近い小村ヴォワザンに移った。この地で生活した間、シスレーの才能は急速に成熟に向かっていった。

   シスレーの晩年、1897年の夏、シスレーはイギリスのコーンウォールとウェールズを訪れる。そしてカーディフの登記所でウジェニーとの婚姻届を提出した。だがシスレー夫妻の結婚期間はほんの1年余りであった。1898年、シスレー夫人は舌がんにかかり、苦しみながら死んでいった。翌年1月、その後を追うようにシスレーもがんで亡くなった。シスレー夫婦の墓は同じモレ・シュル・ロワンの墓地に埋葬された。その生涯の大半を貧困のうちに送ったが、シスレーの死後まもなく、批評家たちの賞賛と絵画の高騰で、今日誰もが印象派の巨匠の一人として認めるようになった。(『シスレー 週刊アートギャラリー92』デアゴスティー二・ジャパン)

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