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2024年10月31日 (木)

ハロウィーン

Halloween1     10月31日はハロウィーン。むかし、11月1日は万聖節とよばれ、前の晩に死者が地中からよみがえるとされていた。ハロウィーンの最初の頃は、生きている人間にとりつこうとする幽霊を追い払うための厳粛な儀式だった。幽霊の恐怖が薄れていくとともに、おそろしいハロウィーンは楽しい儀式に変った。19世紀にアイルランドの海外移住者がそのままこの習慣をアメリカに持ち込んだ。ただしお化けちょうちん(ジャック・オー・ランタン)は材料不足のためカブからカボチャに変えざるをえなかった。子どもたちがお化けのお面などをかぶったり仮装したりして、「Trick or Treat(お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ)」と唱えて近くの家を一軒ずつ訪ねる。(Halloween,Jack-o'-lantern)

2024年10月30日 (水)

アルフレッド・シスレー夫妻の愛

 印象派の巨匠アルフレッド・シスレーは1839年のこの日、ウィリアム・シスレーとその妻フィリシアの子としてパリに生れる。印象派の画家たちの中で、つねに運動の中心的位置にいたにもかかわらずアルフレッド・シスレー(11839-1899)の生涯については、判然としないところが多い。控えめな性格と、隠遁生活のために、彼の私生活も画家としての生涯も、埋め尽くせない空白の部分が多く残されてしまう。ほとんど風景しか描かなかったため、妻や子どもや友人の肖像画すら一枚もないのである。

   アルフレッド・シスレーの祖父トマス・シスレーは、イギリス人で、フランスの贅沢品をロンドンに輸入する貿易商として成功し、フランス女性と結婚した。息子のウィリアム・シスレー(1799-1879)は、1830年代、パリの自社倉庫を管理するためにフランスに移り住み、その後パリで独自の事業を営むようになった。1839年10月30日、4番目の子としてアルフレッド・シスレーが生まれたのも、ここパリであった。

   シスレーの幼少期や青年期についてはほとんど何も分かっていない。一家は繁栄し、家庭も愛情に満ちていたようである。父親は、画家になるという息子の選択に当初は反対したものの、後には経済的に彼を支援し、その画家仲間たちを自宅に歓待するようになった。1860年代初めには、モネ、ルノワール、バジールなどの多くの若い画家たちが彼のアトリエに集まった。ルノワールが描いたシスレーの肖像画からは、シスレーは身だしなみの整った気さくな人物のように見受けられる。しかし同時に、彼のきまじめな一面、すなわち絵画に対する彼の思い入れの深まりと、その作品や人生を特徴づけるようになる内向性や慎み深さもほのめかしている。

   1860年代半ば、彼は画家のモデルをしていたウジェニー・レクーゼク(1834-98)という女性と関係を持つようになる。ウジェニーは1867年にシスレーの息子ピエールを、1869年には娘ジャンヌ・アデルを生んだ。シスレーはこの密通がもとで、すでに妻を亡くしていた父ウィリアムと仲たがいしたらしく、父は彼への援助を中止してしまったようだ。シスレーが60年代の終わり頃、しきりに金銭苦を訴えていたのはこれが一因だと思われる。

   ウジェニーという女性については、いまだによく分かっていない。ルノワールは彼女のことを「とても繊細な性格で、極めて育ちのよい」人であったと回想している。彼女の写真は全く残っておらず、シスレーの作品の中で、風景に混じってぼんやりと描かれているだけである。手紙の中でも彼は、ウジェニーに関して遠回しに触れているに過ぎない。彼女について恐らく最も直接言及したのは、全く目の見えない時期、ずっと自分を辛抱強く支えてくれた彼女に手向けたシスレーの弔辞であろう。「私が落ち込んでいるとき、私の良き勇敢な友がいつもこう言ってくれました。『私たちは最後まで闘い抜かなければならないのよ』と」。

   1870年、普仏戦争が起こった。戦争は、シスレーにさんざんな結果をもたらした。父親の事業が破綻して一家は貧困の中に投げ出された。プロイセン軍がパリを包囲すると、彼はブージヴァルの家からルヴェシェンヌに近い小村ヴォワザンに移った。この地で生活した間、シスレーの才能は急速に成熟に向かっていった。

   シスレーの晩年、1897年の夏、シスレーはイギリスのコーンウォールとウェールズを訪れる。そしてカーディフの登記所でウジェニーとの婚姻届を提出した。だがシスレー夫妻の結婚期間はほんの1年余りであった。1898年、シスレー夫人は舌がんにかかり、苦しみながら死んでいった。翌年1月、その後を追うようにシスレーもがんで亡くなった。シスレー夫婦の墓は同じモレ・シュル・ロワンの墓地に埋葬された。その生涯の大半を貧困のうちに送ったが、シスレーの死後まもなく、批評家たちの賞賛と絵画の高騰で、今日誰もが印象派の巨匠の一人として認めるようになった。(『シスレー 週刊アートギャラリー92』デアゴスティー二・ジャパン)

2024年10月29日 (火)

インターネットの日

4e781b2ca4aaefce0486765a023e3b37   現代は情報の時代である。日本人のおよそ9割の人がインターネットやスマホを毎日1回以上、利用している(総務省2019年統計89.8%)。まさに高度情報社会である。これほど多くの人がテレビなどのように受け身で情報を得るのではなく、自ら必要な情報を求める時代になるとは誰が予測したであろうか。SNSが急激に普及して、情報を得ることや共有することが簡単になり、便利になっていく反面、「炎上」「バッシング」という言葉をよく目にしたり耳にする機会が多くなっきた。気象情報や防災情報など命を守る安全面においても重要度が増している。情報について基礎から学ぶことが大切になっている。ところで日本において「情報化社会」とか「情報社会」とか言われ出したのはいつ頃からであろうか。情報が新たな行動を起こすための原動力となりうるものとして意識されるようになったのは、1950年代以降のことである。インターネットは開発当初、軍事目的の情報通信媒体であったが、1990年代に商業利用が始まると急速に普及した。「新詳地理資料CPOMPLETE」6頁によると、

1990年代半ば 携帯電話が普及する
2007年ごろ スマートフォンが登場する

 10月29日は「インターネットの日」。1969年のこの日、インターネットの元型であるARPAネットで初めての通信が行われた。カリフォルニア大学ロサンゼルス校からスタンフォード研究所に接続し、「LOGIN」と入力して「LO」まで送信した所でシステムがダウンした。NPLサーチで「情報」「知識」をキーワードにして検索すると、初期の文献がヒットする。

1963年 藤川正信「第二の知識の本」

1967年 川添登「情報社会と思想の自立」 展望107

1968年 増田米二「情報社会入門:コンピュータは人間社会を変える」

1969年 林雄二郎「情報化社会:ハードな社会からソフトな社会へ」

 林雄二郎の著書は有名で「情報化社会」をわが国で最初に紹介したといわれる。しかし、それ以前からビジネスの世界では「情報収集」が企業の存立にとても重要との認識が広まっていた。それは1960年代の高度成長期であり、慶應図書館学科の藤川正信が情報の重要性を唱えた嚆矢である。その後、有田恭助の「情報の集め方」(カッパ・ビジネス、1964年)は梶山季之の産業スパイ物のブームを背景にベストセラーとなった。書き出しは「人間の一生は、情報収集の連続である。私たちは、この世に生を受けたときから、死に至るまでのあいだ、つねに、外部の情報を集め、それを分析して行動を決める、という仕事を行なっている」。著書は産業スパイが反社会的行為であり、いかに正々堂々と情報を収集するか、その意義を説いている。いまのような情報検索システムが普及する以前は、図書館の目録カードがこの役割を果たしていた。わたしは1970年代に図書館の整理業務にたずさわり、目録の編成に心血をそそいだ。しかし、書名目録、分類目録は機能したが、主題から検索できる件名目録は充分な成果をあげることができなかった。件名目録は日本図書館協会より刊行された基本件名標目表にある統制語によって構成される。つまり今のネット検索のように何でも思いつくワードで検索できるのではなく、限定されたワードしかヒットしない。利用者も件名目録の特性を十分に理解する人はなく、件名目録が十分に活用した図書館はほとんどなかった。現在このBSHが現場でどれくらい活用されているかしる由もないが、おそらく自然消滅のような状態になっているのだろう。しかし図書館学における検索機能が何らかの形で現代の情報検索機能に反映されているものと思っている。

    このような情報化社会にあって、反対に「情報はいらない」「新聞は読まない」と豪語する有名人がいる。タレントの長嶋一茂さんだ。元プロ野球選手で、現在はテレビのバラエティ番組などでその顔を見ない日はないほどの売れっ子タレントぶりの活躍である。発言内容の天然ぶりと苦労しらずの人柄が面白い。なぜコメンテーターをしながら、多くの知識を入れようとしないのか。ネットでエゴサーチをすると不快な記事を読むからかもしれない。「勉強しない」とかの発言も反知性主義とみることもできる。経済的な不安を知らずに育った一茂さんは、一種の貴族的な地位にあり、勉強したり、世間に認められようという立身出世主義は皆無の生き方をしてきた。広く多くの情報を入手して正しい結論を導くのではなく、自己の直感でコメントするようである。現代マスコミの寵児がこの情報の時代に情報を全否定することも面白い。つまり誰でもが簡単に情報が入手できるので、総合的な知識とか、いわゆる教養とは要らないと考える。反知性主義のようなものが若者たちの間に自然と広まっていることを憂慮している。

 

 

 

 

 

 

 

秋は灯火親しむべし

  この一行に逢いにきた

 10月27日から「秋の読書週間」が11月9日まで行われる。今年で第78回を重ねるが、第1回はまだ戦火の傷痕がいたるところに残っている1947年11月17日から開催された。それから70有余年、「読書週間」は日本の国民的行事として定着してきた。今年の標語は「この一冊に、ありがとう」、コロナ禍のなかでも全国各地でさまざまな本に関する展示や行事が開かれる。

   どうして読書の秋といわれるのだろうか?すでに1918年の読売新聞には「読書の秋」という表現が使われている(1918年9月21日付)から日本語としておよそ100年以上の歴史を経ている。それ以前から「燈火親しむの候」という時候のあいさつは定着していた。一説によると「読書の秋」はどうやら中国の風習にあるといわれる。故事は唐の詩人、韓愈が息子に贈った詩に由来する。

時 秋にして積雨霽(は)れ

新涼 郊墟に入る

燈火 稍 親しむべく

簡編巻舒すべし

降り続く長雨がやんで、空がすっきりと晴れ渡り、郊外の丘では、秋を感じさせる涼しさが感じられる。そんな秋の夜長は、明かりをつけて、そのもとで読書をするのに適した季節だ。図書館で一日おこもり読書も贅沢な時間のすごしかた。

  唐代の詩人、韓愈は愛息に対して詩を贈って勉強を勤しむことを励ましたのである。ここから「灯火親しむべし」という語が生まれた。

 

おしぼりの日

   いろいろある記念日のなかでも「おしぼりの日」の理由がかなり苦しい。10月は「て(ten)」の語呂合わせと10本の指から。29日は「ふ(2)く(9)」(拭く)の語呂合わせで、「手を拭く」からきている。「おしぼり」は日本独特の習慣で英語には「おしぼり」のあたる決まった単語はない。「a moist hand towel」と表現する。「おしぼり」はもともと、お公家さんが客人を家に招く時に出していた「濡れた布」がはじまり。その後、江戸時代に木綿の手拭いが広まり、旅籠で客が桶の水に手拭いを浸して手足をぬぐった、「しぼる」行為から「おしぼり」という言葉が生まれたといわれる。(10月29日)

2024年10月28日 (月)

ミルウィウス橋の戦い

Battle20of20milvio   312年のこの日、コンスタンティヌス帝(274-337)が、マクセンティウスをローマ郊外のミルウィウス橋で敗死させる。戦いのときコンスタンティヌス帝は天空に十字架(ラバルム)と「汝これに勝て」との文字が浮かんでいるのを見て勝利を収め、ローマに入城した。マクセンティウスは橋から落ちて溺死した。彼の2人の遺児は処刑され、彼に連なる者はみな殺害された。コンスタンティヌス1世は西ローマ帝国の単独皇帝となり、313年2月3日ミラノ勅令を発布。キリスト教会を公認し、禁教令を廃しする。(Millvio,ConstantinusⅠ、10月28日)

2024年10月27日 (日)

吉田松陰先生御真影の謎

0045_r  大河ドラマ「花燃ゆ」は幕末・明治維新の精神的支柱であった吉田松陰の妹「文(ふみ)」の目を通して幕末・維新の動乱を描いたドラマだった。これまで吉田松陰の御真影は存在しないと思っていた。だが国立国会図書館の「近代日本人の肖像」に左のような画像が掲載されている。写実的な絵画のような、絵画に修正を加えた写真のような怪しげなシロモノである。実物と似ているのか、松下村塾生の渡辺嵩蔵にみせたところ、松陰のものではないと否定している。真相は謎に包まれている。

   安政6年のこの日、安政の大獄で捕らえられた吉田松陰が小塚原刑場で処刑された。松陰が萩の野山獄から江戸に送られた理由は、安政の大獄で獄死した梅田雲浜が、萩で吉田松陰に会ったことを話したためだった。評定所が松陰に質問したのは、安政3年冬、雲浜と話した内容と、京都の御所に手紙を置いたのが松陰ではないのか、という2点。これは違うという松陰の主張が了解された。そこで、松陰は意見を聞いてもらえる絶好の機会だと思い、「倒幕のために公卿に手紙を出した。そして幕府の間部詮勝を迎え撃つことを計画した」と告白した。評定所の役人は、予想もしなかった老中暗殺計画に驚いた。評定所の判断は最初島流しだったが、大老井伊直弼が死罪に書き直したといわれている。死刑を受けると松陰は、辞世の詩を詠み、人々に別れを告げた。「吾れ今、国の為に死す。死して君親に負(そむ)かず。悠々たり、天地の事、鑑照、明神に在り」 維新の先覚者として種をまいた松陰は30歳でこの世を去った。(10月27日)

2024年10月26日 (土)

柿の日

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  子規

   今日は「柿の日」。明治28年10月19日、正岡子規は静養先の松山から広島、須磨、大阪を経て奈良に至る。10月26日、宿泊した奈良の老舗旅館「對山楼」で御所柿という柿を食べた。そのうまさに感動したところ、東大寺の鐘が鳴った。東大寺としなかったのは、法隆寺の御所柿が有名だからだろう。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」いかにも秋だなぁと、しみじみ感じる句である。数年前に子規の妹の孫である造園家・正岡明が「子規の庭」を對山楼の跡地に造った。

 

里古りて柿の木もたぬ家もなし 芭蕉

 

熟れ柿を溜め若者の消えし村 古田舟水

 

これを見て美濃の豊かさ富有柿 誓子

 

渋柿も熟れて王維の詩集哉  漱石

 

 

2024年10月25日 (金)

山形県長井市の人口推移

    1988年のこの日、山形県のJR東日本長井線(赤湯~荒砥30.6㎞)が第三セクター・山形鉄道に転換した。

  山形県南部に位置する長井市(人口28,539人)は江戸中期、元禄の頃より最上川の舟運が盛んになり米沢藩の表玄関として藩内屈指の商業都市として発展してきた。市内には陣屋や蔵が数多く残されている。人口の推移をみると、1947年をピークに減少している。この減少は新規学卒者が大都市へ流出したのが主な原因である。1975年以降、Uターンや「ふるさと回帰」などでわずかながら増加傾向がみられたが、1985年以降、再び緩やかながら減少傾向にある。映画「スウィング・ガールズ」(2004年)のロケ地であったことから近年観光客が増加している。(10月25日)

長井市の人口推移

1970年   33,221
1975年   33,023
1980年   33,286
1985年   33,490
1990年   33,260
1995年   33,727
2000年   31,987
2005年   30,929
2010年   29,476
2015年   27,757
2020年   26,543

 

 

2024年10月24日 (木)

トリコロール記念日

Lrg_20459702     1794年のこの日、フランス国民公会が、現在フランスの国旗となっている青・白・赤の三色旗(トリコロール)を国旗の象徴と定めた。フランス革命の時、市民軍はパリ市の色である赤と青の帽章をつけた。革命が全国に広がって市民軍は国民軍となり、その総司令官に任命されたラファイエットは、「市民と王家が協力して新しい国を作るべき」として、帽章に王家の色である白が加えられた。王政は1791年に廃止されたが、この3色を使った三色旗は国民軍のシンボルとなった。ちなみに世界最初のトリコロールは1608年のオランダの旗である。最初は赤・白・青の順だったが、青が空を背景にすると見えにくいので、赤と青の順を変えた。この青・白・赤の3色ですが、きれいな3等分ではないことは意外と知られていない。青30・白33・赤37と赤が1番太いです。これは眼の錯覚を考慮して採用されています。(10月24日)

 

 

 

 

 

 

世界恐慌と株価大暴落

  いまから95年前の今日、1929年10月24日、ニューヨーク・ウォール街の株式取引所で株価が大暴落、これが世界恐慌にきっかけとなった。これは「暗黒の木曜日」と呼ばれる。そして58年後の1987年10月19日の月曜日にニューヨーク証券取引所で株価が急落した。ブラック・マンデーである。それは1929年の「暗黒の木曜日」と29日の「暗黒の火曜日」を上回る、史上最大の508ドル32セント安、下げ率22.6%(ダウ工業株30種平均)を記録。暴落は、ヨーロッパや日本の株式市場に波及、各市場で空前の下げ幅を記録する。20日の東京証券取引所でも過去最大の14.9%、3836円48銭安を記録した。2008年のリーマンショックの影響では日経平均株価も大暴落を起こし6000円台にまで下落した。(Black Monday)

2024年10月23日 (水)

中国の北と南「曹操の時代」

   西暦200年のこの日、曹操が袁紹の烏巣の陣に夜襲、官渡の戦いに勝利した。

  曹操(155-220)。字は孟徳、一名吉利(きつり)、幼名を阿瞞(あまん)という。沛国譙県(安徽省)の人。魏の太祖、武帝。父の曹嵩は、宦官曹騰の養子に迎えられ、のち大尉の位を一億銭をもって買いとった人物である。曹操は、手のつけられぬ不良少年時代を過ごすが、やがて首都警備隊長に就任、厳格な取り締まりによって都中ふるえあがらせた。

   184年、黄巾の乱が起きると、近衛騎兵隊長として頴川の戦場に派遣され、功績をあげた。その後、いったん郷里に引きこもったが、首都防衛のため西園八校尉が新設されると、積極的意欲を示して典軍校尉となった。

   189年、大将軍の何進らが反宦官クーデターを起こしたが、曹操は傍観者の立場をとった。やがて都を制圧した董卓に協力を求められるが、その傍若無人の振舞いに嫌気がさし、これを断わり、変装変名して都を脱出、陳留で反董卓の兵をあげた。

  192年、董卓が呂布に殺され、英雄たちが争いあう戦国時代的状況が現出する。以後、曹操は、青州の黄巾軍を討伐して自軍に編入し、さらに大義名分を得るため献帝を本拠地の許に迎えて、袁紹と対抗する強大な勢力をきずきあげた。

   200年、官渡で袁紹を破り、ここで曹操の覇権はゆるぎないものとなった。ついで208年、荊州の劉琮を降伏させ、一気に呉をめざした。しかし、呉の孫権と劉備の連合軍に、赤壁で大敗をくらい、以後、魏・呉・蜀の鼎立時代を迎える。とはいえ、天下の三分の二は曹操の支配下にあり、216年には魏王となった。こうして群雄割拠の時代から三国時代が導かれた。中国の北と南という「概念」はこうして作られたわけである。だいたい3世紀から6世紀にわたる400年間は中国の分裂の時代である。そして曹操は220年、66歳で病死する。

    許劭は曹操を評して「治世の能臣、乱世の姦雄」と評している。屯田制を施行し、農業生産に安定をもたらすなど政治的手腕を発揮し、戦略論の大家(諸家の兵法を集めた「接要」、および孫武の兵法に注釈を施した書を著わしている)にして五言詩の基礎をつくった詩人であった。政治家としても、武人としても、詩人としても曹操は傑出した人物であった。しかし中国においては、「三国志演義」の強い影響により、曹操の悪玉的な一面だけがあまりに強調されてきた。その誤った、あるいは不完全な曹操評価を是正しようとする研究が近年進んでいる。(参考:丹羽隼兵・竹内良雄「三国志人物事典」別冊歴史読本中国史シリーズ1  10月23日)

2024年10月22日 (火)

ケネディとキューバ危機

Newyorkdailynewsfrontpagecubanmissi   1962年のこの日、ジョン・F・ケネディ米大統領は、テレビ・ラジオを通じて、ソ連がキューバに中距離ミサイル基地を建設中であると演説して、キューバへの直接攻撃は避けたが海上封鎖を声明。1959年にキューバに成立した革命政府を敵視するアメリカは、1961年1月に国交を断絶、4月にケネディ政権は、亡命キューバ人部隊を使いキューバ上陸侵攻作戦を決行し、これが失敗に終わると秘密工作員を潜入させ、破壊活動をさせていた。10月24日、2隻のソ連船が海上封鎖ラインに向かって進んできた。10時25分、ソ連の船舶は封鎖ラインすれすれのところまで進んできたがピタリと止まった。さらにそこから180度転換し、もと来た航路をたどり始めた。10月の終わりには、米ソの妥協が成立し、ケネディは危機から回避することに成功した。(Cuban Missile Crisis) 10月22日 

2024年10月21日 (月)

マゼラン海峡の発見

 1520年のこの日、マゼランが南米大陸とフェゴ島の間に海峡を発見。後にマゼラン海峡と命名される。 

    日本語では海峡は海峡だが、英語ではchannelとさらに短い距離しかないstraitに分かれる。英仏間の海全体はEnglish Channelイギリス海峡であり、最も距離が短い部分だけが、Strait of Doverドーヴァー海峡(フランスではPas de Calaisカレー海峡)と呼ばれている。

   島国日本は海峡で事実上の国境をなしている。対馬海峡、宗谷海峡、根室海峡、野付海峡、択捉海峡、占守海峡、台湾海峡など。ベーリング海峡はアメリカとロシアとの国境をなす。マラッカ海峡はマレーシアとインドネシア、ホルムズ海峡はイランとオマーン、ジブラルタル海峡はスペインとモロッコの国境を隔てている。バシー海峡、スンダ海峡。(10月21日、Bering,Malacca,Hormuz,Gibraltar)

直哉忌

049siga  小説家、志賀直哉は1971年10月21日、午前11時58分、肺炎と老衰により関東中央病院で死去した。享年88歳。命日は「直哉忌」というだけで、「河童忌」(芥川龍之介)や「桜桃忌」(太宰治)のような別名はない。そういえば立派な文学記念館や作品が映画化される企画もまずない。どうやらご本人のはっきりとした遺志があるそうだ。無駄のない文章は、小説文体の理想のひとつと見なされ現在でも評価が高い。墓は東京の青山霊園にある。豪壮な墓が多く並ぶ霊園の片隅で、祖父母や父たちと並んで、彼らの墓よりは頭一つ低い位置に立つ、「小説の神様」の墓にしてはつつましい感がある。1980年3月、志賀が亡くなって9年もしてから墓が何者かに荒らされるという事件が起こった。数日後の朝、青山墓地内で志賀直哉のものらしき骨が散乱しているのが見つかった。志賀の墓から300m離れたよその家の墓の敷地の中で、その家の人が墓参りに来た際に見つけたものである。骨壷は益子焼の濱田庄司の高価なものであったためそれを目当ての犯行らしい。犯人は依然として見つかっていない。(10月21日)

2024年10月20日 (日)

道鏡、法王となる

    天平神護2年10月20日、太政大臣禅師の道鏡が法王となる。天皇に準ずる破格の位である。道鏡「続日本紀」では俗姓弓削氏。河内国志紀郡弓削に生まれる。生年は明らかでなく、義淵の弟子で孝謙天皇より年長らしいとの推定から8世紀初頭の生まれといわれる。出家後葛城山に籠り梵学と如意輪・宿曜の秘法を修得。下山、東大寺に入り、天平宝字5年近江保良山宮に孝謙天皇を看病し、忽ちに寵愛を受け、天平宝字7年少僧都に昇進。藤原仲麻呂失脚後、大臣禅師・太政大臣禅師を経て、天平神護2年、法王となる。この時、称徳(孝謙重祚)天皇には皇太子未定で、女帝は仏教政治の理想を持っていたので、太宰の長官中臣阿曽麻呂は道鏡に媚び、宇佐八幡の神託と称して、「道鏡を天位に即かしめば天下太平ならん」とした。これまで臣下が即位した例はなく、さすがの天皇も悩み、和気清麻呂を宇佐八幡につかわした。和気清麻呂は「無道の人を除くべし」という神託を奏上し道鏡の怒りをかい、名を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)とかえられて大隅国(薩摩)へ配流された。これが宇佐八幡神託事件である。

   八幡の宣託を奏上した中臣習宜(すげ)朝臣阿曽麻呂とは、どんな人物であるか。天平神護2年6月に正6位上から従5位下にのぼり、神護景雲元年9月豊前介に任ぜられ、おそらく翌2年中から3年の初めにかけての間に、太宰主神(だざいのかんつかき)となって、道鏡の弟である太宰帥弓削浄人(きよひと)の配下に属することとなった。道鏡の勢力が九州にも及んでいたことがわかる。

   参議藤原百川は清麻呂に同情し、兄の参議良継、従兄の左大臣永手らと相談して、天智天皇の孫である白壁王を迎えて位に即かせた。光仁天皇である。

   称徳天皇は宝亀元年、由義宮に滞在中に没した。8月21日、道鏡は失脚し、下野国薬師寺別当となり、宝亀3年4月7日、その地で没した。

2024年10月19日 (土)

ブルガーニン

   ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ブルガーニン(1895-1975)は1895年6月11日、ロシアのニジニ・ノヴゴロドに生まれる。ブルガーニンという旧ソ連の首相の名前はあまり記憶にない。だが山川の高校世界史には出てくる。マレンコフ後、フルシチョフ(Khrushchov)と「B・Kコンビ」を組んで、冷戦の緩和に努めた。1955年にはアイゼンハウアー、ブルガーニン、イーデン、フォールの四巨頭会談がジュネーヴでおこなわれた。しかし、反フルシチョフの事件に関与したとして1958年に首相を解任されている。わが国にとっては、ブルガーニンは記憶すべき政治家であろう。1956年10月19日、モスクワにおいて鳩山一郎・ブルガーニンとの間で日ソ共同宣言が交わされた。しかし同文書にある両国の平和条約役締結は未だ実現していない。これまで日本語で書かれたブルガーニンの評伝は1冊もない。

関係図書

ブルガーニン首相へ贈る書簡 内藤民治 カレント社 1956

2024年10月18日 (金)

ミニスカートの日

10102136534  ロンドンでバザール店を出したマリー・クワントが1958年頃から、スカート丈を短くしてミニスカートとして売り出した。やせっぽちのモデルのツイギーが膝うえ20㎝のスカートで登場し、1967年のこの日、イギリスから「ミニの女王」ツィギーが来日し、日本にもついにミニスカートブームが到来した。日本ではすでに1965年8月11日に帝人からミニスカートが発売されている。はじめてミニスカートをはいた女優は野際陽子といわれる。1967年にパリから帰国した際に野際が着用していたことで流行に火がついたという。(10月18日)

 

 

 

 

第二次世界大戦 ポツダム会談と戦後秩序の形成

Photo10  ヨーロッパで1939年に始まった第二次世界大戦と、日中戦争が続いていた太平洋の動きは、いかに関連していったのか。1941年に2つの戦線が結びつく中、連合国側はどのような戦争目的を掲げて結束し、それが戦後の国際秩序の構築にどのように影響したのだろうか。

1939年9月、ポーランドに侵入していたドイツに英仏が宣戦、第二次世界大戦が始まった。独ソ不可侵条約によりソ連もポーランドに侵入、さらにバルト三国を併合した。1940年6月にドイツがフランスを降伏させると、日本は9月にフランス領インドシナに進撃、そして日独伊三国同盟の締結にいたる。この世へろっば戦線とアジア太平洋の動きは連動していた。日本の南進に対してアメリカは石油禁輸で対抗、日米交渉は決裂し、1941年12月8日、日本軍はマレー半島に上陸するとともにハワイの真珠湾を攻撃、東条英機内閣は英米に宣戦布告した。それに先立ち、ヨーロッパでは同年6月に独ソ戦が始まっていた。8月に英米首脳が発表した太平洋憲章で連合国の戦争目的が示された。他方、日本は欧米の植民地支配からアジアを解放して「大東亜共栄圏」をつくることを戦争目的に掲げた。

 ドイツ占領下では、大量虐殺(ホロコースト)で多くのユダヤ人が犠牲になつていた。連合国側は、米英ソまたは米英中の3か国で首脳会談を開き、枢軸国の無条件降伏と戦後処理を協議しながら戦争を進めた。

   1945年8月2日、イギリス、アメリカ合衆国、ソビエト連邦の3カ国の首脳が集まって行われたポツダム会談が終了した。7月26日には、アメリカ大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において「日本の無条件降伏」を求めた全13か条からなるポツダム宣言が発表された。しかし、日本側がこれを協議している間に、8月6日広島に、9日長崎に原子爆弾が投下され、甚大な被害をうけた。ここで日本は8月15日ポツダム宣言を受諾して降伏した。この戦争で、世界では5000万人をこえる人が亡くなり、310万人の日本人が命を落とした。

 ポツダム宣言には天皇制について触れられていなかった。その理由を後年、駐日アメリカ大使館の参事官でポツダム宣言の起草者、ユジーン・ドゥ―マンは次のように語っている。「当時、国務省や世論には天皇制廃止論を唱える者が多かったが、私が苦労して廃止論者と闘ったものだ」 と。

 戦後秩序は、第二次世界大戦が終了する1945年よりも前から構築され始めた。経済面では、1944年にIMF(国際通貨基金)と世界銀行(国際復興開発銀行)の創設が決定され、米ドルを基軸通貨とする戦後の国際通貨体制(ブレトンウッズ体制)の形成につながった。また、1947年にはGATT(関税と貿易に関する一般協定)が締結され、自由貿易を基準とする戦後の国際経済秩序が形成された。政治面では、1944年のダンバートン・オークス会議を米英ソ中4か国が国際連合が基本構想をまとめ、1944年4月~6月のサンフランシスコ会議で国連憲章が採択された。こうして、戦後の国際政治秩序は国連を基軸とした集団安全保障体制として形成された。しかし、いわゆる「冷たい戦争」が始まり、世界は米・ソ両大国を中心とする2つの勢力に分裂して、その対立はしだいに激しさを増した。またアジア・アフリカでおこった民族独立・反植民地主義の運動はどのように展開されたのか。これらの点の正しい認識のうえに立ってはじめて、現代の世界情勢が歴史的に理解されるのである。

 

 

 

 

2024年10月17日 (木)

貯蓄の日

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   本日は「貯蓄の日」。日本人は世界的に貯蓄の好きな民族といわれてきた。きんさん、ぎんさんが国民的人気者になったとき、出演料はどうされているか、と質問された。すると「老後のために貯金します」と回答して話題となった。ところが最近、日本に異変が起きている。貯蓄の好きな日本人も、格差社会が拡大して、若い世代を中心に、貯蓄ゼロである世帯が急増している。物価高や増税でますます苦しむ庶民層。21.7%は貯蓄ゼロ世帯である。(10月17日)

2024年10月16日 (水)

道長「この世をば」の和歌について

この世をば我が世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば

    藤原道長は、娘・彰子を一条天皇の后妃としたが、なかなか子供が生まれない。兄・道隆の娘・定子には既に皇子が生まれているので、やきもきしていたであろう。道長は皇子誕生を吉野の金峯山にまで行って祈願する。金峯山の効験があったのか、ようやく皇子が誕生する。入内して7年目のことである。出産に際しては、今度は安産を願って、加持祈祷などを常軌を逸するほどにののしり騒ぐのである。その験厚く、無事に皇子が誕生するや、道長は、皇子の敦成(あつひら)親王、後の後一条天皇を我がものにして喜ぶ。長和5年、敦成は8歳で天皇に即位し、道長は摂政となり、権勢を振った。四人の娘を入代させ、皇室の外戚として政権を独占した。翌17年長男頼通に摂政を譲り、自分は太政大臣となりその後も勢力をふるった。道長、頼通父子は、後一条・後朱雀・後冷泉の3天皇の摂政・関白として約50年間栄華を極め、摂関政治の全盛期を現出した。

「この世をば」の歌は、寛仁2年(1018年)10月16日、四女の威子が後一条天皇の女御から皇后に昇進したのを喜んで、道長自身が即興的に詠んだといわれる。「御堂関白日記」には見えず、道長に批判的だった小野宮右大臣藤原実資の日記「小右記」に記されているため、世に知られることとなった。

 

 

2024年10月15日 (火)

秋の新ドラマ

 朝ドラ111作目の「おむすび」。橋本環奈演じるヒロイン・結が、栄養士として、人の心と未来を結んでいく平成青春グラフィティ。脚本は根本ノンジのオリジナル・ストーリー。出演は北村有起哉、麻生久実子、仲里依紗、松平健、宮崎美子らベテラン陣が脇を固める。ほかに佐野勇斗、田村芽実。不自然な会話とちくはぐな展開で低視聴率が続く。

  「マイダイアリー」清原果耶、吉川愛、見上愛、佐野勇斗。「わたしはふと、人生の日記を読み返したくなった」男女5人の繋がりを描く。「若草物語」堀田真由、仁村紗和、畑芽育、長濱ねる。「嘘解きレトリック」鈴鹿央士、松本穂香。「あのクズを殴ってやりたいんだ」奈緒、玉森裕太。「ライオンの隠れ家」柳楽優弥、齋藤飛鳥。「モンスター」趣里が型破りな弁護士を演じる。ジェシー。藤吉夏鈴。「私の町の千葉くんは」気楽に井桁弘恵主演のコメディ。「海に眠るダイヤモンド」神木隆之介。「その着せ替え人形は恋をする」永瀬莉子、野村康太。「オクラ」反町隆史、杉野遥亮。「宙わたる教室」窪田正孝、木村文乃。「全領域異常解決案」藤原竜也、広瀬アリス。「めんつゆひとり飯2」鞘師里保、筧美和子。「わたしの宝物」松本若菜、田中圭。「オクトー」飯豊まりえ、影山優佳。「D&D」藤木直人、寺島進。「無能の鷹」菜々緒、塩野瑛久。「放課後カルテ」保健室の先生・松下洸平。森川葵がまじめな小学校教師を演じている。「潜入兄妹」竜星涼、八木莉可子。「私たちが恋する理由」菊池風磨、久間田彬加。「バントマン」鈴木伸之。「未来の私にプッかまされる」網啓永、久保史緒里、高橋克典。「初めましてこんにちは、離婚してください」林芽亜里、犬飼孟貴史。「下山メシ」志田未来。「極悪女王」唐田えりか、剛力彩芽、ゆりやんレトリィバア。

 

龍馬の婚約者「千葉佐那」

 北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女。馬によく乗り、剣も強く、長刀もできて、力は並の男より強く、美貌で知られた。龍馬と知り合い、婚約したが、帰国後は疎遠になった。龍馬の死後も彼を想い、一生を独身で過ごした。明治29年10月15日、59歳で死去した。墓地は、甲府市清運寺にあり、墓石には「坂本龍馬室」と彫られている。

 

 

 

2024年10月14日 (月)

グレテ・ワイツ

4908442   女子マラソンで初めて2時間30分を切ったのはノルウェーのグレテ・ワイツである。1979年のことだった。ワイツは翌年には2時間25分42秒という驚異的な記録を樹立した。日本女子がワイツに匹敵する記録をだしたのは1992年、大阪国際女子マラソンで小鴨理水が2時間26分26秒をマークした。今も女子の優勝タイムは2時間20分台前半である。スピード時代はワイツによって出現したのだ。2011年、オスロ市内の病院で57歳で病死した。

 現在、女子マラソンの最高記録はケニアのルース・チェプンゲテイッチが2024年10日13日シカゴマラソンでだした2時間9分56秒である。

 

背番号3伝説

Photo_3 本日は昭和49年のこの日、巨人の長嶋茂雄が現役を引退した。長嶋伝説は数多くある。昭和33年の長嶋茂雄がデビュー試合、対国鉄スワローズ戦に、3番サードでスタメン出場した。国鉄のエース金田正一に4打席連続三振するものの、そのすべてが渾身のフルスイングによる三振であったことが伝説的に語り継がれている。あるとき徳光和夫が長嶋茂雄に人を紹介してもらった。そして長嶋がその場で電話番号をメモして渡してくれた。翌日、徳光が電話をかけようとするが、どう数えても番号がひと桁足りず、電話してもつながらない。後日、徳光が長嶋がメモを書いてくれた机を見ると、何とサインペンで3の字が残っていた。長嶋は紙からはみ出して3の数字を書いていたのだ。(10月14日)

 

 

 

征服王ウィリアム1世のノルマン・コンクエスト

Conquest1   ノルマンディー公のロベール2世は「悪魔公」の渾名を持つ。そのいわれは謎であるが、ある日のこと、彼は狩りの帰りに、小川で洗濯をしていた娘ヘルレブを見初め、彼女を城へ連れ込んだ。そしてその結果にできた子がギヨーム2世(1028-1087)、のちのウィリアム1世である。ギヨームは庶子であった。しかし悪魔公がエルサレムへ巡礼に出かけ、その帰路にトルコで客死してしまったので、家督は幼いギヨームに譲られることになった。わずか7歳でノルマンディー公を相続したギヨーム2世は人から侮られないよう、武芸に励んだ。1066年9月27日、エドワード懺悔王が死に、義弟ハロルドが即位すると、ギヨームはノルマンディー、フランドル、ブルターニュ各地より集めた約6000の騎士を率いてイングランド南部のヘイスティングスに侵入した。ノルマンの征服(ノルマン・コンクエスト)の始まりである。

 

The Normans conquered England in 1066.

 

ノルマン人は1066年にイングランドを征服した。

  日本でも「入れろ無理矢理(むりやり)へイスティングズ」(1066年)と暗記させられる年号だ。

    騎馬攻撃を中心とするノルマンディー公と歩兵密集陣形を得意とするイングランド王ハロルド2世とのあいだに1066年10月14日戦闘が開始された。午後4時頃、ハロルドの目に矢が命中し、ハウスカールの必死の抵抗も甲斐なくハロルドは斬り殺され、イングランドの敗北が決まる。貴族や騎士達が着ていた高価な鎖帷子はことごとく剥ぎ取られ、へイスティングズの戦場には裸の死体が累々と残された。ギヨームはその年のクリスマスにロンドンのウェストミンスター寺院で戴冠し、それよりウィリアム1世として王位に即いた。だから彼の渾名は「征服王」である。1087年、落馬事故で没した。

鉄道の日

Hayabusa_m  本日は「鉄道の日」。明治5年10月14日、新橋・横浜間に鉄道が開通した。台風のため3日延期されたが、この日、晴れの鉄道開業式が挙行された。明治天皇も試乗され、砲兵の祝砲・軍艦の賀砲がとどろき、2万人に赤飯が配られ、にぎやかな開業式であった。「鉄道記念日」は1922年に正式に決められた。1994年に「鉄道の日」と改称される。

 蒸気機関を小型化して台車や船に取り付け、交通機関の動力として利用しようという試みは、19世紀初頭のヨーロッパで起こったが、日本人の鉄道の知識は数十年遅れて、1840年代から一部の蘭学者のあいだに広まっていたと考えられる。1855年には佐賀藩精錬所で模型機関車が制作された。1864年には海軍操練所の佐藤政養(1821-1877)が鉄道知識をえる。1865年にはイギリス人トーマス・グラバー(1838-1911)が長崎・大浦海岸で英国製の蒸気機関車アイアン・デューク号、鉄道の試運転を行い300m走行した。1867年にはアメリカ公使館書記官アントン・ポートマンが江戸ー横浜間鉄道建設の免許を得たが、幕府の倒壊によって無効となった。1869年、明治政府はイギリス駐日公使ハリー・パークス(1828-1885)の進言をいれ、大隈重信・伊藤博文らが中心となって鉄道建設を決定し、1870年3月新橋ー横浜間の工事を開始した。イギリスからの資金提供と、エドモンド・モレル(1840-1871)以下のイギリス人技術者および資材が導入された。新橋ー横浜間開通に先立ち5月7日には、品川ー横浜間が仮開通していた。鉄道は陸蒸気(おかじょうき)とよばれ、客車は上等・中等・下等に分けられていた。この開通を先駆けに、鉄道は政府の重要施策となり、官営・民営による各地の鉄道建設が進められることになる。そして、1874年大阪ー神戸間、1877年京都ー大阪間、1884年上野ー高崎間、1887年仙台ー郡山間、1889年東海道が開通する。

    明治初年の鉄道開設には「鉄道の父」といわれた佐藤政養の功績が大きい。佐藤は明治4年に初代鉄道助(現在の運輸次官)に就任している。ちなみにNHK大河ドラマ「龍馬伝」では有薗芳記が演じていた。

2024年10月13日 (日)

安藤昌益の墓

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   秋田県大館市の南の郊外二井田地区に、曹洞宗温泉寺がある。この寺域に江戸時代中期の医者・思想家安藤昌益(1701-1762)の墓がある。昌益の事績は戦前までほとんどわからなかった。戦後の研究によって生年、没年、出生地、死没地なども特定できるようになった。没年は宝暦12年10月14日である。墓石には「堅勝道因士」「昌安久益信士」と戒名が刻まれている。ところが昭和60年、大館市の安達家から昌益の位牌が発見された。位牌には「帰元賢正道因禅定門」と記されている。おそらくこの戒名は三回忌の法事のとき追授されたものらしい。明和元年10月13日、跡継ぎの安藤孫左衛門は門弟たちと法事を行った。このとき魚料理でお祝いしたことが聖道院の怒りにふれた。昌益に感化された門弟たちは信仰心をもたなくなり、昌益を神として「守農太神」の石碑を各地に建てていた。代官所は、神仏を畏れぬ行為として、石碑を打ち壊し、孫左衛門に「郷(ところ)払い」を命じた。江戸時代、昌益の思想は危険思想だったのだろう。明治の狩野亨吉が昌益の「自然真営道」の稿本を発見するまで忘れられた思想家だった。

2024年10月12日 (土)

豆乳の日

 今日は豆乳の日。豆乳は、大豆を水に浸してすりつぶし、水を加えて煮つめて汁を漉した飲料である。昭和50年前後に飲料商品として豆乳が販売されるようになった。(10月12日)

 

創見は難く、模倣はやすし

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  世界史上における最も重要な業績の一つとして、すぐ思いつくのは、コロンブスのアメリカ大陸発見であろう。1492年10月12日、コロンブス率いるスペイン艦隊が西インド諸島に初上陸した。アメリカの多くの州では10月第2月曜を「コロンブス・デー」の祝日としている。

  クリストファー・コロンブス(1451-1506)は「地球は丸い」とする学説に基づき、大西洋を西に進めばアジアに到達できると考えていた。第1回航海(1492-93)は船3隻、乗員120人で、1492年8月、パロス港を出発し、カナリー諸島を経由して西航した。配下の者が航海について不安になって反抗を起こそうとするのを抑えて航海をつづけ、10月12日バハマ諸島の一つグアナハニ島に到着した。彼はこの島をサン・サルバドルと名づけた。現在のワトリング島がこれに当たるものと推定される。次にサマナ・ケイ島付近にも立ち寄ったとされる。これがアメリカ発見の端である。帰還するとコロンブスは英雄として迎えられた。しかしこの偉業をただ西へ向かって航海したら偶然に出くわしただけではないか、と評する人々もいた。コロンブスは目の前の卵を立てることができるかと質問した。誰もできないのを見た彼が教えた方法は、卵の尻をたたいて平らにすることだった。創業というものが、最初に考え、最初に実行するところに意義があるのだということを示したというコロンブスの有名な逸話は残念ながら史実ではない。この話はイタリアの建築家ブルネレスキ(1377-1446)のことといわれる。そうなると、ブルネレスキの卵という方が正確かもしれない。(Columbus)

2024年10月11日 (金)

山頭火忌

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何の草ともなしに咲いているふるさと

やつぱり一人がよろしい雑草

   本日は自由律俳句の代表的俳人種田山頭火の忌日。昭和15年10月11日、愛媛県松山で死去。享年58歳。本名・種田正一。生家は山口県西佐波令村(現・防府市)にあるが、種田家の先祖は土佐国山内家に仕えた郷士だったといわれる。居住地は土佐国香美郡。大正15年には雲水となって西日本を中心に旅し句作を行う。四国遍路の旅は2度している。1回目は昭和3年で、土佐路の札所24番から39番までを回っている。2回目は昭和14年で、徳島を立ち、高知から愛媛松山に入る約20日間の旅だった。太平洋の海を見て、「われいまここに海の青さのかぎりなし」にどのような思いがたくされていたのだろうか。この四国遍路の1年後に没している。

 

Photo_6 四国遍路日記

2024年10月10日 (木)

松永弾正、自害する(1577年)

   松永久秀(1510-1577)はもともと山城国西岡付近の商人だったという説もあるが、その氏素性は明らかでない。久秀が織田信長に仕えていたときの話である。徳川家康が信長に謁見した際、その席に一人の老人がいた。家康がその老人に、すこぶる慇懃に挨拶すると、信長がこう言ったという。

「この男は松永弾正という者で、そんなに丁重に挨拶する相手ではない。もともと小身であったのを、三好長慶に取り立てられたのに、主家に叛いたような、心のゆるせない男である。だいたいこの男は他人のまねのできないことを三つやってのけた。一つは主家の三好氏を倒したこと、二つは将軍足利義輝を殺したこと、三つは奈良の大仏を焼き払ったことである」

   この信長の紹介を聞いて、さすがの久秀も赤面して、頭から烟を立てるた。天正5年の信長の石山本願寺攻めのとき、謀反した理由の一つは、この信長の侮蔑の言にあったという。信貴山城にこもった久秀は、織田信忠軍に攻められ、城に火をかけて自害した。この日、10月10日は、10年前、久秀が東大寺大仏殿を焼き払ったその同日、同時刻だったため、人々は春日明神の祟りだと噂しあった。(参考文献:「備前老人物語」)

缶切りは缶詰ができてから半世紀後に発明された

Po20100528_0016  1877年のこの日、北海道石狩町で日本初の本格的な缶詰工場が営業を開始した。

    ドラマ「最高の離婚第7話」で八千草薫が「缶詰が発明されたのが1810年で缶切りが発明されたのが1858年。おかしいでしょ?でも、そういうことあるのよ。大事なものが後から遅れてくることもあるのよ。愛情だって、生活だって」というセリフが利いている。ところで缶詰は遠征における食料補給に悩まされていたナポレオンがフランス兵士向けの携帯食としてアイデアを募ったところ、ニコラ・アペールのアイデアが採用された。ただし瓶詰だったので重くて破損しやすいとう欠点があった。実用的な缶詰を発明したのが1810年イギリス人のピーター・デュランドで、日本の茶筒をヒントにしてブリキ缶を作った。缶切りは1858年アメリカのエズラ・J・ワーナーが発明した。では缶切りができるまでどうして開けたのか。しかたがなくハンマーと鑿で抉じ開けたらしい。(10月10日)

 

 

 

 

トマトの世界史

250pxtomatoesonthebush    本日は「トマトの日」。トマトは、南米のアンデス山脈やガラパゴス諸島の雨の降らない乾燥地帯に自生していた。紀元前1600年頃に、中央アメリカのメキシコに伝わった。ちなみに、トマトという呼び名は、メキシコ先住民の言葉、ナワトル語の「トマトゥル tomatl」が由来である。「ホオズキの実」「膨らんだ果実」を意味する。ドイツの諺に「トマトが赤くなると医者の顔が青くなる」とある。ビタミンがバランスよく含まれ栄養豊富なトマトを食べると、健康で医者いらずという意味だろうか。現代の食卓に欠かせないトマトが食べられるようになったのは、わずか200年前のことである。トマトの歴史は、地理上の発見、ルネサンス、フランス革命と世界史の重要事件が関係しているといえば大げさだろうか。トマトの原産は南米で1523年スペインの探検家コルテスが最初に本国にに持ち帰ったといわれる。1533年には、スペイン人のピサロがインカ帝国を滅ぼした。つまりコンキスタドールがスペインに持ち帰ってからである。当初、西洋の人々はトマトを有毒の植物と思い、嫌っていた。しかし南イタリアに大飢饉が何度も起こり、人々はトマトを食するようになった。18世紀フランス革命の際にはパリに進軍した南仏の義勇兵たちが、パリにトマトを持ち込んだといわれている。(10月10日)

ハルキストという不思議な存在

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   ハルキスト 葡萄酒(ワイン)片手に「来年ね!」

 今年も村上春樹のノーベル文学賞はならず。韓国の作家ハン・ガンさん(韓国・韓江だった。)

  10日夜、東京荻窪のブックカフェ「6次元」に集まったハルキストたちはさすがに落胆の色は隠せなかった。いつごろからか村上春樹のファンをハルキストと呼ぶ。村上の小説やエッセイから伺える趣味や生活スタイルに影響を受けることが多い。映画・文学・音楽・料理・マラソン・水泳・猫など都会的で冷めた感じの若者をイメージさせる。とくに団塊の世代以降に多く、戦前・戦中派は村上文学などはほとんど読まない。かつて村上といえば村上元三だった。このようなハルキストの存在を村上自身がどのように感じているかは分からない。代表的ハルキストとして内田樹がいる。彼は「村上春樹は世界的に人気があるから偉い。だから普遍的で、とうぜんノーベル賞に値する」とつねづね語っている。世界中でたくさん本が売れるということと、文学としての価値があり、永遠性があるかという問題がイコールとして捉えられるかは疑問である。本がよく読まれる、売れる、商業的な成功が全てという考えにはむしろ反対する人も多いのではないだろうか。ある意味で内田のような単純な文学観を語る人は幸せなのだろう。司馬遼太郎が時代物の大衆作家から国民的文豪といわれるようになったころ、関西大学の谷沢永一がやたらと司馬をほめあげて、解説本をたくさん出すようになった。芸術家一般に売れずに必死に書いているときはいいものが生まれるが、地位と名声、お金がたまって大家になると保守的になってつまらなくなる。ハルキストや谷沢のような存在は迷惑だが、村上にとってノーベル賞をもらわないことのほうが作家として幸運だと思いたい。海外で多和田葉子や小川洋子のように評価されている女性作家もいる。

2024年10月 9日 (水)

カッパブックスの時代

Kappa   1954年のこの日、光文社が新書版の「カッパブックス」の刊行を開始した。多湖輝「頭の体操」、岩田一男「英語に強くなる本」「英単語記憶術」、三島由紀夫「葉隠入門」、安田徳太郎「人間の歴史」「万葉集の謎」、塩月弥栄子「冠婚葬祭入門」などベストセラーを連発した。(10月9日)

内村鑑三「万朝報」を退社す

   三国干渉以来、日露関係は悪化し、世論には「臥薪嘗胆」を合言葉に、日露開戦のムードがあった。明治35年1月、日英同盟の締結により、官民の間に対露強硬策が叫ばれるようになった。東京帝国大学教授の戸水寛人、小野塚喜平次ら7人の博士らは明治36年1月に日露開戦の意見書を桂内閣に提出している。

   世論のこの動きに対して内村鑑三は開戦反対を唱えた。「万朝報」6月30日付で内村は、

「余は日露非開戦論者であるばかりでない、戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を永久に殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得やうはずはない」

と論じている。「万朝報」は明治25年、黒岩涙香によって創刊された日刊新聞で、発刊当時はあまり品のよくない暴露記事を主とした俗受けする記事が多かった。発行部数を伸ばそうと考えた黒岩は一流の人材を編集陣に招いて質の向上を図ろうとした。招聘された文筆家の中には幸徳秋水、堺枯川(堺利彦)、河上清らがいた。内村鑑三は札幌時代から親しかった黒岩四方之進(よものしん)の弟が黒岩涙香であることから、明治30年1月に英文欄主筆として迎えられた。明治31年5月23日には、新雑誌を創刊するため万朝報社を一旦退社するが、再び明治33年10月には再入社する。「万朝報」は明治30年代には東京でトップの発行部数を記録している。

 内村の堅い信念の非戦論に対して、黒岩は開戦論の立場をとったため、明治36年10月9日退社する。内村は「日露開戦に同意することを以て日本国の滅亡に同意することと確信」する旨を宣言した。

2024年10月 8日 (火)

アロー号事件

   1856年のこの日、アロー号事件おきる。広州沖に停泊中のイギリス船籍のアロー号に中国の官憲が踏み込み、海賊容疑で中国人水夫12名を捕らえた事件である。これに対してイギリス広州領事ハリー・パークスは、イギリス船籍への臨検行為を条約違反として、またイギリス国旗の引き降ろしをイギリスへの侮辱として葉名琛に抗議するとともに、これを口実に、広西でカトリック宣教師を処刑されたフランスと連合してふたたび清朝に戦いを挑んだ。1857年12月、英仏連合軍は広州を占領し、さらに北上して翌58年5月には太沽(タークー)砲台を奪い天津に迫った。6月、清朝はやむなく英仏両国、および調停者を装ったアメリカ・ロシア両国との間に天津条約を結んだ。(10月8日)

 

 

 

 

金持ちと貧乏人

  本日はドイツの医学者エルンスト・クレッチマーの誕生日。彼は1888年ヴェステンロートで生まれた。中学の保健体育で習う体格性格論で知られる。体格と気質の関係をやせ型・肥満型・闘士型の三類型で説明する。1921年の著書「体型と性格」のなかで提唱した。有名芸能人で例えれば、やせ型・高橋一生は知的でクール、もの静かで控えめなタイプ。肥満型・小林亜星は躁鬱気質で怒りっぽい。闘士型(筋骨型)は高倉健や阿部寛などは筋肉質で粘着気質といい、礼儀正しく、義理がたいタイプ。だが実際のところこの区分は大雑把で必ずしもすべて当てはまるものではない。

    作家のフィッツジェラルドは「特定の個人を書こうと思って書き出すと、いつの間にか、一つのタイプの人間を創造しているのに気づくものだが、あるタイプの人間を書こうと思って書き始めると、いつの間にかそこに生み出されているものは、全く何一つ無きに等しいことに気がつく。これはつまり、われわれ人間というものが妙な動物で、一皮むいたその下には、顔つきや話しぶりとはおよそ違った、人には知られたくない、自分でもそれとは気づかぬ一風変わったところを隠し持った存在だからだ。自分で自分のことを、「普通の正直な開けっ放しの人間」だと称する人もいるけれども、そういう人にぶつかると、私は、これは何かひとと変わったところ、おそらくは悪く変わったところがあって、そいつを隠すことにしているんだな、善良で正直で開けっ放しの人間だと自分から言明するのは、その秘匿行為をそういう形で自分に言いきかせていることにほかならないのだ、と、そう思う。タイプなどというものはないのだ。複数は存在しないのである。」(「金持ちの青年」)

  つまりフィッツジェラルドの言うように、性格のタイプなどというのはないと思う。十人十色である。あえて、人を二つに分けるとすれば、お金持ちか貧乏人、そのどちらかである。(10月8日)

 

 

2024年10月 7日 (月)

安政の大獄(1859年)

  安政5年、6年は幕末維新史上、重要な年だった。安政5年1月、幕府は日米修好通商条約調印の勅許を奏請するが、孝明天皇はそれを拒否した。6月、勅許のないまま、幕府が上記条約を調印したため、天皇は激怒する。このころ橋本左内(1834-1859)は越前藩主松平慶永の側近となり、上洛、一橋慶喜待望説を遊説。しかし、井伊直弼が大老に就任し、慶永が処罰されると左内も、安政6年10月7日、江戸伝馬町獄舎で斬首された。26歳の若さであった。頼三樹三郎、飯泉喜内の2人も刑場の露と消えた。だが井伊直弼も翌年桜田門外の変で暗殺され、安政の大獄を取り仕切った直弼の側近、長野主膳も、2年後、藩内の尊攘派岡本黄石らのクーデターで失脚、斬首された。(10月7日)

2024年10月 6日 (日)

西アジアと美人考古学者

Photo_2     文明の誕生はメソポタミアであることはよく知られている。しかしメソポタミア流域で灌漑農耕が出現するにいたるまでには、長い先史の前史があったことは言うまでもない。それを解明するには旧石器時代、中石器時代、新石器時代から金属器時代の真の文明段階にいたる綿密な考古学的調査が不可欠である。しかし文明の揺籃地である西アジア一帯は政治的に危険地帯でなかなか調査しにくい場所でもある。前1万5千年から前1万年ころの人類は森林におおわれた山脈の洞穴に住んでいたとおもわれる。シャニダールB層からは細石器をともなう中石器時代のものが発見されている。サルジ洞窟、ハゼル・メルド洞穴から中石器文化のナトゥーフ文化が知られるようになった。この段階の文化は狩猟・採集・漁撈にあるが、野生種の麦類を食糧にしていたかもしれない農耕への動きがみられるという。農耕の存在を確実に示す遺跡はイラク北部のカリム・シャヒル(前8000年)である。ハッスーナ・サマッラ期(前5000年)、初めて灌漑をおこなったハラフ期、ウバイド期、ウルク期、ジュムラト・ナスル期、そして初期シュメール人の王朝時代ウルク第1王朝へと続く。このような西アジアの先史時代の解明に貢献したのは、イギリスの女性考古学者ドロシー・ガロッド(1892-1968)である。なぜ彼女の事績が日本でほとんど紹介されないのか不思議である。(Dorothy Annie Elizabeth Garrod)

マウリッツハイス美術館(「マ」事項索引)

 「マウリッツハイス美術館」オランダのデン・ハークにある美術館。フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を所蔵する。▽「マアリブ(イエメン)」シバの女王ビルキスの居城(前10世紀頃)があったとされるアルシュ・ビルキスなどの遺跡がある。▽インドのマウシンラムは世界一雨が降る町。▽「マウマウ団(ケニア土地自由軍)」指導者デダン・キマジ・ワキウリによる1952年から植民地ケニアで起こった民族主義的独立運動。▽「纒向遺跡」奈良県桜井市にある纒向遺跡は弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大集落遺跡である。初期の大和政権の本拠地といわれ邪馬台国大和説の有力候補地。2013年に国の指定史跡となる。▽「益田岩船」奈良県橿原市にある巨大な石造物。占星術のための天体観測台という説があるが、確かなことは不明。▽「マアト山」金星にある高さ約8000mの山。▽「マクマード基地」アメリカ合衆国の南極観測基地。▽「真脇遺跡」縄文時代の代表的遺跡。大量のイルカの骨、土面、彫刻木柱、巨大木柱根などが発掘された。▽「マドゥースダナ・サラスヴァティー」1450-1550。インドのヴェーダ―ンタ学派のシャンカラ系の学者。著作「種々なる道」。▽「マングローブ」南国の海岸の象徴的な景観であるマングローブとは、木の種類の名前ではなく、熱帯・亜熱帯地域の河口に紅樹林を構成する森林のことである。▽「マンサ・ムーサ」在位1312-1337。マリ王国の王。▽「マンサブザール制」16世紀後半、インドのムガル帝国のアクバル帝が定めた軍人の位階制。32段階の官位(マンサ)が定められ、この官位に応じて俸禄が支給された。(まままま)

 

マアト山
マアリブ
マイアミビーチ(フロリダ州)
舞子
マイセン
マイセン焼
マイソール戦争
毎日新聞
マイノリティカブリ
マイマイカブリ
マイヨール
マインツ
マウシンラム
マウナケア山(ハワイ)
マウナロア山(ハワイ)
マウマウ団の乱
マウリア王朝
マウリッツハイス美術館
マウントアイザ(オーストラリア)
馬王堆漢墓
マオリ人
蒔絵
マカオ
曲垣平九郎
マガダ
マーガレット(木春菊)
槇島城の戦い(1573年)
牧野富太郎
纒向遺跡
マキャヴェリ
マグデブルクの半球
マーク・トウェーン
マグナ・カルタ
マグニツキ―法
マグマオーシャン
マクマーティン保育園裁判(1983年)
マクマード基地
マクロ経済学
マクワウリ
枕草子
マクンバ
マケドニア
マサゲテ
マザー・シプトンの洞窟
正岡子規
マザラン
益子焼
マジノ線
マジャパヒト王朝
マジャール人
マーシャル・プラン
魔女狩り
増鏡
マスカレイド(仮面舞踏会)
マスクラット
益田岩船
マーストリヒト条約
磨製石器
マゼラン
マゾヒズム
マダガスカル共和国
町年寄
マチュ・ピチュ
松江
松江重頼
松尾芭蕉
マッカーサー
マッキンリー
マッシュルーム
マディソン郡
マーティン・マルプレレット論争
マテーラの洞窟住居
マドゥスーダナ・サラスヴァティー
マナスル
曲直瀬道三
間部詮房
マニュファクチュア
マニラ
マヌ法典
マネ
間引き
マーピラの反乱
マフディー派
マホメット
間宮海峡
マヤ文明
真夜中のカウボーイ
迷える羊
マーラー
マラウィ共和国
マラッカ
マラトンの戦い
マラヤ
マラヤーラム語
マリア・ルース号事件
マリ王国
マリ共和国
マリ文書
マリモ
マルクス
マルコ・ポーロ
マルサス
マルジュ・ダービクの戦い
マルドゥク
マルヌの会戦
マルピーギ小体
マルファン症候群
丸山ワクチン
マレーシア
マレンコフ
マロロス憲法(1899年)
真脇遺跡
漫画
マングース
マングローブ
マンサブダール制
マンサ・ムーサ
マンジケルトの戦い
満州国
満州事変
満州文字
マンスール・シャ
マンチェスター
マンティネイアの戦い
マンディンゴ
政所
万成石
マンハッタン
マンハッタン計画
万宝山事件
万年筆
万葉集

 

 

 

 

ムハンマドの死後

 632年にムハンマドが没すると、アブー・バクル(在位632-634)は、離反者を討伐するとともに、アラブ部族のエネルギーをイラクやシリアなどの征服活動にに振り向けた。ムハンマドの後継者をカリフという。最初の4代を正統カリフと呼ぶ。第4代カリフのアリーは暗殺されたため、ムアーウィア1世がダマスカスにウマイヤ朝(661-750)を開いた。しかしムハンマドの娘婿アリーとその子孫にカリフ位の継承権があると主張する人々は、ムーアウィヤがカリフであることを否定し、シーア派を結成して多数はのスンナ派政権と対立していくことになる。

 

石油ショック(1973年)

  昭和48年10月6日に勃発した第4次中東戦争を契機に起こった石油ショックは、世界経済を混乱に陥れた。エネルギー需要の7割を石油に依存し、しかも99.8%を輸入、うち75%を中東諸国から輸入する日本にとって、事態は深刻であった。日本経済は、激しいインフレに見舞われた。企業は先行きのモノ不足を見込んで、原材料のストックに狂奔した。11月6日、第一次オイルショックによる節電・節約を呼びかけるため、全国の広告塔が一斉に消灯された。異常な物価の値上がりと物不足がおこった。秋になると、スーパーマーケットにイレットペーパーや洗剤を買いだめする客が殺到するさわぎまでおきた。産油国からの安い石油によって成り立ってきた先進工業国の高度経済成長は、危機におちいったのである。日本経済も、これをきっかけに低成長の時代にはいった。(10月6日)

 

 

2024年10月 5日 (土)

人名研究は楽しい

 いろいろな生き物のなかで人間だけが、自覚的に生きていることのあかしのもつものとして歴史をもっている。そのような歴史を生きた、あるいは作り上げたのは一人ひとりの人間であり、識別するために人名がそれぞれに与えられている。

政治家
 10月1日、石破茂新内閣が発足した。新しい主な閣僚は、村上誠一郎(総務相)、牧原秀樹(法相)、岩屋毅(外相)、加藤勝信(財務相、阿部俊子(文科相)などなど。

世界の元首
 1721年4月4日、ロバート・ウォルポールが初代イギリス首相に就任した。1940年のウィンストン・チャーチルが第61・63代、現首相リシ・スナクは第79代である。1789年、アメリカ合衆国ジョージ・ワシントンが初代大統領。1961年のジョン・F・ケネディは第35代。2021年、ジョー・バイデンは2021年就任で第46代。

芸能界
 TBSオールスター感謝祭。総勢85人の豪華芸能人が出演する。神木隆之介、杉咲花、坂東龍汰、齋藤飛鳥、桜井ユキ、奈緒、玉森裕太、岡崎紗絵、白石麻衣、水谷隼、織田裕二、西川きよし、あの、美川憲一、野呂佳代、猫ひろし、設楽悠太、ワタリ119、ギャビー、森脇健児、ファーストサマーウイカ、あばれる君、ハリー杉山、桃田賢斗、満島真之介、ヒコロヒーなど多士多彩な人間模様が5時間半の生中継で繰り広げられる。

オリンピック
   東京五輪では世界から205の国・地域が参加し、全種目339、およそ11000人以上選手が集まった。世界各国のさまざまな選手が連日ニュースに取り上げられ、メダルを獲得すれば一夜明けると著名人になれる。男子陸上100mのラモントマルチェル・ヤコブス、競泳男子100m自由形ケーレブ・ドレッセル、トライアスロン男子金メダル、クリスティアン・プルメンフェルト、柔道大野の対戦相手、ジョージアのラシャ・シャフダトゥアシビリ。すべて名前を暗記することは困難であるが、世界中の多くの人の記憶に残る名前であるは間違いない。

野球
 大リーグの大谷翔平。連日その勇姿がテレビ中継される。しかしドジャーズは他にも強打者が揃っている。ムーキ・ベッツ。フレディ・フリーマン。ウィル・スミス。テオスカー・ヘルナンデス。NPBセ・リーグの4番打者は、岡本和真、村上宗隆、大山悠輔、牧秀悟、中田翔、堂林翔太。

世界史、正統カリフ系図の覚え方
 ①アブー・バクル②ウマル③ウスマーン④アリー。覚え方は、①アブーは来る。②埋まる。③うゥ、すまーん(救出される)。④アリー(ありがとう)

人名事典に載っていない人名
 誰でも知っている有名人。誰も知らない無名の人々。人名はこのネット時代、もっとも重要なキーワードである。チャールズ・バーンは1780年代ロンドンで長身で有名だった人物。およそ250cmくらいあった。ロバート・ホワイトヘッドを知っているか?魚雷を発明した科学者である。アメリカ人のレイ・チャップマンを知っているか?インデアンスの遊撃手、1920年頭部に死球を受け死亡した。MLB唯一の死亡事故である。アレキサンダ―・セルカークを知っているか?スコットランドの水夫で大西洋の孤島で4年余り遭難生活した。のち小説「ロビンソン・クルーソー」のモデルとなる。ジム・フィックスを知っているか?ジョギングの創始者だが、ジョギング中に心臓発作で死亡した。

 尾崎宗吉(1915-1945)という作曲家。若くして太平洋戦争に応召して戦死したので音楽界で活躍を果たせなかった。戦地に赴く前に「夜の歌」(チェロとピアノ)の小曲を遺したが、今は密かなブームである。

  ラファエル・ヒュトロダエウスという名前を知っているか?タイトルしか知らない古典の名作、トマス・モアの「ユートピア」に登場する。彼が見聞した島の様子を語る哲学者(旅人)である。もちろん架空の人物。

   山川出版社の「世界史のための人名事典」は便利なのでよく利用している。収録項目数は1914人である。しかしとても歴史的に重要な人物が漏れていることがある。三国時代の「司馬懿」である。179年ー251年。後漢王朝に仕えていた司馬防の子。幼時から英才の誉れが高く、のちに曹操に仕え、諸葛孔明のライバルとなる。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という故事が有名で、仲達は孔明が生きていると思い退却したことになっている。この逸話は五丈原の農民たちのフィクションで、仲達はそれほど臆病ではない。なにも深追いする必要はなかったのであろう。なぜ司馬懿は歴史事典には収録されないのか不思議である。孫の司馬炎(武帝)は、266年に晋を建国し占田法・課田法を制定したので重要とされ、収録されている。中国ドラマ「三国志 Three Kingdoms」(2010)後半の第四部はほとんど司馬懿が主役格である。倪大紅が演じているが老獪でとてもよい。わざと病気のふりをして曹丕・曹爽をだます。愛妾の李依暁もとても美しい女優さん。司馬懿を恐れる曹丕がスパイとして送り込まれた。やがて司馬懿の子を宿すが、司馬懿の手によって殺害される。オリジナル・ストーリーだろうが面白い。

 

レモンの日

 きょうは「レモンの日」。英語では、レモンを使ったことわざがあります。

When life gives lemons,make lemonade.

  直訳すれば、「人生があなたにレモンを与えたならレモネードを作れば良い」ですが、レモンには困難という意味があり、つまり「人生で良くないことが起こっても、良い方向に持っていけば良い」という意味になります。

   中国漢字圏ではカタカナのような元の発音に近い音で表記する記号がないので、いろいろな外来語はすべて漢字を充てている。日本でも明治になって西洋の新しい文物が移入されると、当初は漢字表記していた。瓦斯(ガス)、珈琲(コーヒー)、煙草(タバコ)、手巾(ハンカチ)、頁(ページ)、燐寸(マッチ)、果酒(ワイン)などなど。レモンは明治4年ころイタリア人が熱海に梅とレモンを日本にもたらしたとされている。

  ある調査で「読めるけど、書けない漢字」のランキングは、1位は薔薇(ばら)、2位は檸檬(れもん)、3位は葡萄(ぶどう)である。日本人は「レモン」が入って来たとき、中国語の「檸檬(ねいもう)」を借用した。中国の古辞書には宋代にすでに「黎朦」として現れており、中国語にとって外来語である「レモン」に充てた漢字かどうかは分からない。おそらく「レモン」という外来語より古くからあったという説のほうが有力である。「檸檬」と書くようになったのは、清代のことで、「n」と「l」とが交替する広東もしくは福建方言の地からである。

Img_3   テレビ情報誌「ザテレビジョン」の表紙はなぜか有名人がレモンを手に持って写っている。1982雑誌年の創刊号で薬師丸ひろ子(当時18歳)をいい表情にするためレモンを持たせた。当時はレモンを持つお決まりはなく、以後約4年間は誰もレモンを持っていなかった。ところが、177号で荻野目洋子が「私もレモンを持ちたい」とレモンを持つ表紙が復活した。以後、レモンを持つことが定番となった。(10月5日)

 

 

 

 

 

菠夢 パイナップル

 

香蕉 バナナ

 

香木瓜 パパイヤ

 

芒果  マンゴ

 

橘子  みかん

 

甜瓜  メロン

 

荔枝  ライチ

 

萃果  りんご

 

西紅柿 トマト

 

巻心菜 キャベツ

 

黄瓜   キュウリ

 

可口可楽 コカ・コーラ

 

漢堡   ハンバーガー

 

三明治  サンドイッチ

 

比薩   ピザ

 

蔬菜   野菜

 

草苺   イチゴ

 

葡萄酒  ワイン

 

蛋     たまご

 

可可   ココア

 

奇異果  キウイ

 

 

 

 

ヘラクレイオス

 610年のこの日、ヘラクレイオス、東ローマ帝国の皇帝に即位。在位610年から641年。636年、イスラム教カリフ軍とヤルムークの戦いに大敗し、シリアを失う。(10月5日)

 

2024年10月 4日 (金)

古本屋 消える街角 そぞろ寒

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  古書の日。本屋の減少。経産省が書店の振興にプロジェクトチームを設置するという。どこまで本気なのかな。秋の到来で、それとなく感ずるほどの寒さ。漫ろ寒。うそ寒。喪中はがきが届く。ご無沙汰して知らなかった。75歳じゃ、まだ死ぬには早すぎる。ご冥福をお祈りします。(10月4日)

 

 

2024年10月 3日 (木)

聖フランチェスコ

Photo サセッタ「恍惚の聖フランチェスコ」 フィレンツェ

  本日は「世界動物の日」。この日はもともとアッシジのフランチェスコの聖名祝日であるため。イタリアのアッシジの裕福な商家に生まれたフランチェスコ(1181-1226)は、やがてキリストに目覚めて、父も家業も捨てて求道生活に入る。その魅力ある人柄は「キリストに最も似た人」と評せられ、カトリック、プロテスタントを通じて最も愛せられた聖人となっている。シエナの画家サセッタ(1392-1450)は1437年から1444年にかけて聖フランチェスコの絵を多数描いている。(10月4日)

山ガール

Photo

  本日は「登山の日」。アウトドアブームで、ここ数年、女性登山者が急増。これまで中高年者が多かったが、最近は20~30歳代の女性が山登りを始める人が増えてきた。そんな彼女たちを巷では、「山ガール」と呼ぶ。明るい色の組み合わせで山男たちの視線を釘づけにする山ガール・ファッションとはどういうものなのだろうか。まず帽子は必要不可欠。背中には本格的なデカリック。上着は防水加工のマウンテンパーカ。定番の山スカート(お尻を隠すためか)かわいい柄タイツ。トレッキング・ブーツ。芸能人では杏、小島聖、KIKIなどが山ガールといわれている。自然に親しむことはいいことだが、山には危険がつきものなので1人ではなくグループ(4人~5人以上)で計画性をもって行動しよう。(10月3日)

安打製造機

 ヤクルトの青木宣親選手が引退試合で2安打を放ち、日米通算2703安打の記録を残した。これは日本人で歴代6位となる。

イチロー  4367
張本勲   3085
野村克也  2901
王貞治   2786
松井稼頭央 2705
青木宣親  2703

 巨人の坂本勇人は、通算2415安打となり、単独12位に浮上した。3000本を超えるのは微妙である。毎年100本を打ったとしても、あと6年はかかる。その時、彼はすでに41歳になっている。

 

蛇笏忌

20121016214022ba2     飯田蛇笏は昭和37年10月3日、脳出血のため山梨県境川村の自宅で死去した。77歳。主として『ホトトギス』に拠り、俳壇の流行にかかわることなく山国の自然と生活を詠いつづけた。

  芋の露 連山影を正しうす

冬になろうとしている秋の日の朝、辺りの里いも畑の大葉にびっしりと置いたように玉の露が輝いている。晴れて澄み渡った空の遠くを眺めると、南アルプスの連山がみずから姿勢を正すかの如く、くっきりとその姿を現している。

 くろがねの秋の風鈴鳴りにけり

季節外れの風鈴。そこに忘れ去られたものの一末の悲哀が感ぜられる。

 

 

2024年10月 2日 (水)

豆腐に歴史あり

Hiyayakko   本日は「豆腐の日」。森羅万象、世のいかなるものにもそれぞれに歴史がある。島国日本は、朝鮮半島経由で中国から伝来したものが多い。漢字や仏教からに箸文化の日用品や食品に至るまで数多くある。日本で最も愛される妖怪、河童も実は中国に由来するという説があるがはっきりしない。

  毎日の食卓にみる豆腐は日本人に親しみのある食材のひとつ。夏は冷奴で、冬はお鍋で1年中食べる。木綿豆腐に醤油とカツオ節が一般的な食べ方。豆腐の発明は中国人のもので、前漢の淮南王劉安といわれる。彼は学者を集めて著書を刊行したが、そのなかに「淮南王万畢術」 という本がある。それに豆腐の製法が述べられていたという。

  豆腐が我が国に渡来した時期はあまりはっきりしない。日本に伝わったのはおそらく奈良時代だろうが文献には見えず、鎌倉・室町時代に中国に留学した僧侶が、製法を覚えてきて広まったと考えられる。文安元年(1444年)の『下学集』に豆腐という語がのっている。豆腐はとくに江戸時代になって庶民にまで広まった。

    徳川家光の慶安御触書では農民に飲酒、喫茶、煙草など禁止している。また衣類は木綿以外は着用しないこととある。贅沢禁止に関連して豆腐の製造を禁止している。家光自身は豆腐が大好物だったが、農民たちが豆腐を食べると大豆が高騰することを懸念したからであろうか。(10月2日)

望遠鏡の日

09082501galileostelescope_big 人類史上、最大の発見といえば宇宙の発見だろう。それを可能にしたのは望遠鏡だ。1608年のこの日、オランダの眼鏡技師ハンス・リッペルスハイが望遠鏡を発明した。翌年にはイタリアのガリレオ・ガリレイが望遠鏡が発明されたことを知るや、自身でそれを製作し、太陽や月、木星など天体を観測した。(10月2日,Hans Lippershey)

2024年10月 1日 (火)

東南アジアの発展

  ASEANと呼ばれる東南アジア諸国連合は、インドネシア、シンガポール、タイ、フィリピン、マレーシア、ブルネイ、ベトナム、ミャンマー、ラオス、カンボジアの10ヵ国。それに東ティモールを加えると11ヵ国。少子高齢化の進んでいる日本と比べて、若い人や子供が、とても多く、近年は都市部の人口集中が進み、ジャカルタの人口は1000万人近くになっている。

東南アジアの歴史
  5世紀頃から、ボルネオ島東部にクタイ王国、西部ジャワにタルマヌガラ王国が繁栄する。7世紀にジャワ島西部にスンダ族がスンダ王国を建国。7世紀から11世紀にかけてスマトラ島南部パレンバンを本拠とするシュリ―ヴィジャヤ王国がマラッカ海峡を制圧し、南海貿易をコントロールし仏教文化が繁栄した。

 

  主要都市の人口(単位:人)

 

ジャカルタ(インドネシア)  958万
バンコク(タイ)                825万
ホーチミン(へトナム)      740万
クアラルンプール(マレーシア) 724万
シンガポール       474万
ヤンゴン(ミャンマー)      410万
スラバヤ(インドネシア)   300万
ケソンシティ(フィリピン)  268万
マニラ(フィリピン)           166万
パレンバン(インドネシア) 144万
ダバオ(フィリピン)          136万
カローカン(フィリピン)     118万
セブ(フィリピン)               72万
ジョージタウン(マレーシア)71万
ヴィエンチャン(ラオス)      70万
マラッカ(マレーシア)         50万
イロイロ(フィリピン)            36万
バギオ             25万  

 

    バンコクの中心街カオサンには100軒近い屋台が建ち並んでいる。カオサンとは「お米」という意味。

 

   タイ豆単語

 

アーハンチャーオ Ar-harn-chaao 朝ごはん

 

Photo_3 アロイ  aroi    美味しい

 

カノム   kanom  お菓子

 

カオティアン Kaao-thiang  お昼

 

カオサン  khaao-saan  米

 

シャー   shaa     お茶

 

ジャーン   jaan  お皿

 

ワーン   waanh  甘い

コーヒーの日

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 17世紀のロンドン・コーヒーハウス

  きょうは「コーヒーの日」。一杯のコーヒーを傍らにおいて過ごす時間は、私たちの1日の中で、特別に美しい時間といえるのではないだろうか。もともと西洋人は、水以外の非アルコール飲料は知らなかった。では世界で一番最初にコーヒーを飲んだのは誰なのだうか?

 コーヒーの発祥地はエチオピアでコーヒーの液汁を飲んだのが始まりですが、実を煎じて飲むことを考えついたのは、5~9世紀のアラビア人だといいます。すくなくとも13世紀頃には、イスラム世界では今日のような焙煎した豆が用いられていたようだ。1554年にはトルコのコンスタンチノープルにコーヒー店が誕生した。16世紀後半に、トルコで愛飲されていたカフヴェ(Kahve)がヨーロッパに伝わったものである。17世紀にはヴェネチアやロンドンに広まった。1650年、オックスフォードに作られた「ジェイコブス」がイギリス最初のコーヒーハウスといわれる。その2年後、アルメニア人バスクァ・ロゼがロンドンに簡素なコーヒー・ハウスを開業して評判をとり、その後続々とコーヒー・ハウスが誕生した。30年後にはロンドン市内だけで、その数3000軒にのぼったといわれる。1763年フランスでドリップ式のコーヒーが考案された。

   今日の世界的な用語、コーヒー(coffee)やカフェー(cafe)などはトルコ語から転化したもので、トルコへはアラビア語のカフワ(qahwa)から移されたものである。コーヒーに関する世界最初の記述といわれるものは、12世紀の医者アッ・ラージー(1149-1209)によるもので、彼は胃の薬として、エチオピアに原生するブンの種実から煮出して汁液「ブンカム」を使用していた。豆をいることによって苦味や香りの豊かな飲み物としたのは13世紀中頃から、飲酒の許されないイスラーム教徒のあいだでは、日常生活に欠かせない飲み物として広まったらしい。そしてその頃には、これを「ブンカム」と呼ばず、酒の名の一つを借りて「カフワ」と呼ぶようになった。これがトルコ語の「カフウェ」になり、17世紀のヨーロッパで「カフェ」あるいは「コーヒー」と呼ばれるようになったのである。ルイ14世とナポレオンはコーヒーの愛好家で知られる。イギリスのコーヒーハウスは男性しか入れなかった。やがて女性たちは紅茶を飲むようになり、19世紀中頃からアフタヌーンティーの習慣へと発展する。

   日本にコーヒーが伝わったのは、室町時代でキリスト教の布教で渡ってきたポルトガル人やスペイン人が携えてきたと考えられている。より確かな説では、江戸時代の1780年代にオランダ商人が長崎の出島に持ち込んだとされる。コーヒーの味を初めて知った日本人はおそらく幕府のオランダ通詞であろう。コーヒーに、「珈琲」の漢字を最初に当てたのは、儒学者の宇田川榕庵(1798-1846)である。

 コーヒーが健康に与える影響については科学者たちが何年にもにわたって研究してきた。飲みすぎるとカフェイン依存症につながる一方、毎日適量飲むと心臓病のリスクが下がるという報告もされている。コーヒーの健康効果についてはいまだ謎が多い。DNA遺伝子が関係しており、からだにいい人と悪い人と、人によって違いがあるらしい。(参考:「サロンとコーヒーハウス」成瀬治『大世界史』13) 10月1日

 

 

日本人のルーツはどこにある?

  大相撲中継を見ていると、「モンゴル人」とか「日本人」という言葉が何度も何度も出てくる。「日本人」という概念が人種なのか民族なのか、国籍なのかとても曖昧である。そもそも人類学などの学問上に「日本人」という人種は存在しない。モンゴロイドに含まれるのかはっきりしない。人種は体格や体質的な特徴、民族は文化的・社会的特徴からみた人類の区分であるが、厳密な意味で科学的には「人種」は存在しない、という意見すらある。

  日本人の先祖はいつ、どこからやってきたか、についての定説はない。大きく3つのルートが考えられる。①サハリン経由で北海道に渡来したとする説。②球が冷えはじめたためシベリアのヒトがアジアを南下。その一部は朝鮮半島を経由し、およそ紀元前3万年頃に日本列島に渡来したとする説。③2万年前、東南アジアに残ったヒトの一部が南西諸島を経由して日本列島に渡来したとする説。化石人骨からは③の南方起源説が有力である。1970年に沖縄県具志頭村で1万8000年前の人骨が発見された。詳しい特徴がわかるのはこの港川人だけである。断片的ながら2011年には沖縄・石垣島の白保竿根田(しらほさおねたばる)洞穴遺跡から2万4000年前の人骨が発見された。南方起源説だとすると、日本人の祖先は舟に乗ってやってきたことになる。④アメリカ・アリゾナ大学のマイケル・ハマー助教授と総合研究大学院大学の宝来聡教授によると、約5万年前にチベット周辺の中央アジアに住んでいた民族が、中国や朝鮮半島を通って日本列島にやってきたとする説。

   近年ネイチャー紙に発表された説に拠ると、日本語や韓国語はトランスユーラシア語族が起源で、約9000年前に中国東北地方の西遼河流域に住んでいたキビ・アワ栽培の農耕民だったといわれる。

 

ウィーン会議(1814年)

20110915_1996284  1812年6月フランスのナポレオンは約60万という大軍を率いてロシア遠征を行った。モスクワを占領したが、ロシアは講和に応じずロシア遠征は長引くことになり、10月フランス軍は撤退し、ロシア遠征は失敗に終わった。 ナポレオンの侵略戦争はヨーロッパの絶対主義諸国の支配機構を弱体化させ、それらの国々の反封建的勢力を助長することになった。しかしこのこと自体が、多かれ少なかれ近代市民的な発展の方向を内包させた民族的自覚を諸国民のなかに発展させることになり、ナポレオンの支配に対する解放戦争を促進させることになった。たとえばプロイセンの1807年よりのシュタイン・ハルデンベルグの改革、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」が民族的自覚をうったえたことなどは、このことを示すものである。しかしこうした解放戦争の底辺にあらわれた民族的な動きは、そのままそのまま解放戦争の成果を自己の手におさめるまでにはいたらなかった。結局、事態を主導したのは絶対主義支配を再建しようとする反動であり、正統復古主義である。1814年10月1日からオーストリアのウィーン・シェーンブルーン宮殿で「ウィーン会議」が開かれた。そうそうたる顔ぶれの列国君主や外交使節がナポレオン戦争後の欧州の領土の再分配を決めるための話し合いに集まった。主宰者メッテルニヒは独・仏・英・露・伊など90の王国、53の公国の代表約10万人をウィーンに迎えた。だが各国参加者たちの利害関係が複雑で激しく対立し、締結に至るまでに9カ月もかかった。長くかかった理由は利害対立だけではない。各国の王侯貴族がウィーンに長期滞在したため、欧州の高級娼婦たちも都に殺到し、貴族・高官たちの夜遊びの相手をし、都はバブルのような状況であった。舞踏会や宴会がくりかえされるばかりで、議事はすこしも進まな。。画像はミラノ・リソルジメント博物館が所蔵する有名な絵画である。さて、有名なこの会議の模様は「会議は踊る、されど進まず」と皮肉られたが、この言葉は次の誰の言葉か?

 

1 メッテルニヒ

2 ド・リーニュ公シャルル・ジョセフ

3 タレーラン

4    カースルレー

  正解は2番のオーストリアの将軍、シャルル・ジョゼフ・ド・リーニュ公(1735-1814)である。だが大辞泉には「フランスの代表タレーランが皮肉を込めて言った」とある。シャルル・ジョセフは数カ月後の12月13日に死んでいる。実際、誰が言った言葉なのか決定的な証拠は乏しいようだが、ウィーン会議をつねにリードしたのはターレランであった。「ヨーロッパを1792年より以前の状態に戻す」とする正統主義が採用され、フランスはなんとか領土を守ったのである。(参考文献:「会議は踊る 帝都ウィーン物語 紅の騎士ド・リーニュ候、帝都をわかす」 幅健志 三省堂)

 

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 シャルル・ジョセフ

 

 

 

 

五千円紙幣

 1957年のこの日、5000円札が発行された。C号券とも呼ばれ、表面には聖徳太子の肖像がある。発行開始当時の大卒初任給が1万3000円程度ということもあり、高度経済成長とともに高額紙幣の需要は次第に高まっていった。5000円札の改訂は4回ある。1984年からÐ号券とも呼ばれる5000円札が発行される。表面には新渡戸稲造の肖像が描かれている。2004年からE号券とも呼ばれる5000円札が発行される。表面には樋口一葉の肖像が描かれている。そして2024年からF号券とも呼ばれる5000円札が発行される。表面には津田梅子の肖像が描かれている。(10月1日)

 

 

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