パリ五輪のマラソンはエチオピアのタミラト・トラが優勝した。実は、大会直前に同国レンマ選手が負傷離脱したため、補欠だったトラが出場し、金メダル獲得となった。女子はオランダのシファン・ハッサンが優勝した。
紀元前6世紀後半、徐々に小アジア沿岸のギリシア都市を併呑していったペルシア帝国の支配に対してイオニア人のポリスは紀元前499年に叛乱を起こし、ギリシア本土のポリスに援護を求めた。 前490年、第2回ペルシア戦争の際、上陸するペルシア帝国の軍をアテネの名将ミルティアデスはマラトンの戦いで撃退した。9月12日、このときアテネの伝令フェイディピデス(Pheidippides)がアテネまで走り「喜びあれ(カイレイン)我が軍勝てり」(khairete,nikomen)と戦勝を告げて、絶命した。この伝説がマラソン競技の起源であることは通俗的によく知られている。詩人シモニデスがつくった伝えられている詩はつぎのように歌っている。
ヘレネスの前衛として
アテネ人はマラトンで
黄金を帯びたメディア人の
力を打倒した
しかしこのマラソン伝説は、ほんとうに歴史的事実であろうか。
まずマラソンの戦いの伝令は誰であろうか?長距離伝令のフェイディピデスの名は発音表記により、フィリッピデス(Philippides)、フェイディッピデス、ピリッピデスなど諸書により多少の違いはあるものの帝政ローマ時代の作家ルキアノス(120-180)に書かれている。そしてルキアノスはプルタルコス(50-120)の「プルターク英雄伝」をもとにしている。その中にはつぎのようにある。
ポントスのヘラクレイデスが物語るところによると、マラトンの戦いの知らせをもたらしたのは、エロイアダイ区のテルシッポスだという。しかし他方、大多数の人々が述べるところによれば、エウクレス(Eukles)という者が、完全武装のまま、身体を火照らせ戦場から急いで走って来て、国家の指導者たちの(建物の)玄関先に倒れ込み、「喜んで下さい。我が軍が勝ちました」とだけ言って、ただちに息が絶えたという。
ルキアノスの話は、このプルタルコスが引用する話をもとにして、伝令の名前だけがすり変わって成立したようである。もっとも古い歴史書であるヘロドトスの「歴史」には次のようにある。
アテナイの将軍たちはまだ市内にいる間に、まずアテナイ人のピリッピデスなる者を伝令としてスパルタへ送った。なおこの男は飛脚を業とする健脚家であった。(松平千秋訳、中央公論「世界の名著5」6-105)
その注釈によれば
写本の伝承は「ピリッピディス」と「ペイディッピデス」の二つに分かれている。後者は「馬を節約する者、馬蹄いらず」と解せられるところから、健脚の者の名として恰好だというのでいつの間にか本来のピリッピデスにとってかわったのであろうとする説がある。
ヘロドトスによれば、ペルシア軍が攻めてくることを知らせる伝令はピリッピデスであるが、アテネに戦勝をもたらした伝令は誰だったのか、全くふれられていない。マラソン伝説はルキアノスやプルタルコスなどのローマの文筆家による物語であり、戦勝の伝令者の名前を歴史的資料からは、現段階で確定することは、できないのである。
今日、フェイディッピデスの名が世界中に広まったのは、1920年代に子ども向けに書かれたヴァン・ローン著「人間の歴史の物語」(1921年)のためである。また現在のような40キロマラソンの起源はIOCのミッシェル・ブレアルが1896年にマラソンレースの国際大会を提唱したことが始まりとなっている。
近年は、マラソンブームといわれる。しかし先日、盛岡市で開かれた市民マラソン大会で参加者の60代男性が心肺停止で死亡した。まだ暑いさなかでもあり、くれぐれも健康診断を受けて体調管理を万全にしてマラソンにチャレンジしよう!
(参考: 橋場弦「マラソン伝説の起源とアテネ民主政」 歴史と地理444号 1992.8) marathon,Pheidippides
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