天正遣欧少年使節
天正10年1月、九州のキリシタン大名大村・大友・有馬の三侯は、宣教師バリニャーニの勧めによりローマ法王グレゴリー13世とイスパニア国王のもとに4人の少年使節団を派遣した。しかし、この年6月、本能寺の変がおこる。天正12年7月5日、伊東マンショ(満所)、千々石ミゲル(清左衛門)、中浦ジュリアン、原マルチノらはポルトガルのリスボンに到着した。天正13年2月22日、ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見する。使節の少年たちは14,15歳であったが、いずれも礼儀正しく馬上豊かに胸を張って町を歩いたので、人々の驚嘆を浴び、法王や国王にも好印象を与えた。8年後帰国した時は、すでにキリスト教禁制で少年たちの活動の場はなかった。しかし、日本とヨーロッパを結ぶ役割を果たしたことは重要である。それからの4人の人生は過酷なものであった。伊東マンショは43歳で病死した。中浦ジュリアンは逆さ吊りの刑で殉教した。原マルチノは追放されマカオで死んだ。千々石ミゲルは唯一棄教したといわれる。だが近年お墓が発掘され棄教していないという説もある。
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