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2024年7月11日 (木)

ラーメンの日

ぼくらの少年発明王

いつも明るい えがおの中に

輝くひとみも いきいきと

ゆめはとぶとぶ 宇宙のはてへ

そこから生れる大発明

    子どもの頃みたフジテレビ系の番組「少年発明王」(昭和36年)、上高田少年合唱団が歌う主題歌を聞くと「チキンラーメン」の記憶とダブってくる。おそらく日清食品の提供だったと思う。同じ頃、映画館で家族全員でみた石原裕次郎主演の映画「堂堂たる人生」。倒産寸前の玩具会社をアイデアで若いサラリーマン中部周平(石原裕次郎)が救うという物語。風邪で寝込んだ中部の下宿先に同僚OLの石岡いさみ(芦川いづみ)が見舞いに来て、チキンラーメンをつくるシーンが印象的であった。

   つまりケペルの子供時代、インスタントラーメンがようやく家庭に普及した頃で、チキンラーメン1袋35円だった。「少年サンデー」が40円の時代であるから、少し高い値段であろう。「少年サンデー」といえば、あの頃「おばけのQ太郎」に頻繁に登場する眼鏡でパーマをかけた小池さんという人も何故か必ずラーメンを食べていた。

    このように子供にとってラーメンは大人気の食品であったが、明治生まれのオヤジは何故かラーメンといわず「支那そば」といっていた。国鉄のことを大人は「省線」(戦前は鉄道省だった)といったのは素直に理解できたが、ラーメンを「支那そば」と呼ぶことには抵抗感があった。

  ところでラーメンの「ラー」って何か?中国語の拉麺がそのままラーメンになったというのが定説である。そもそも「拉麺(ラーミエン)」とは、中央アジアの麺・ラグマンが語源である。明治33年頃、浅草の来々軒は中国料理だったが、なかでも「支那そば」「南京そば」と言われた中華麺は人気だった。そこに王文彩というロシア革命の亡命料理人が、手延べでさっさと麺をつくり、「ラーメン」と称した。

    だがラーメンの語源は諸説あり、これよりのちの大正10年、北海道大学の前の竹屋食堂の大久タツが中国風の麺を出した。好了(ハオ・ラー)=料理ができた、とロースーメン(肉絲麺)の合成語、これをもって日本でのラーメンの発祥とする説もある。(NHK番組「チコちゃんに叱られる」)番組によると、タツさんが支那という差別的なニュアンスのある言葉を、中国人留学生に聞かせたくないという食堂のおかみさなの優しさから、ラーメンという呼称が考えられたという。

    大正期には、夜鳴きそば、夜鳴きうどんを真似て、チャルメラを鳴らしながら町々を周る屋台が全国で現れるようになった。ラメーンの具材には、チャーシュー、メンマ、ネギ、のり、コーン、ナルト、焼豚などが一般的である。

     しかしながら、戦前においては、「ラーメン」は店で食べるもので、一般的には「支那そば」「シナソバ」「中華ソバ」という呼び名が普通であった。『日本の味探求事典』(東京堂)によれば、「ラーメンという言葉が初めて使われたのは、昭和25~27年頃である」とある。かなり断定的に年代を決めているのは、おそらくその頃、ラーメン屋が急激に増加したのであろう。「ラーメン」という言葉そのものは、昭和5年の「モダン辞典」に「ラーメン(食)支那そば」と記載されている。

    つまり、昭和25年以降は、「ラーメン」は「支那そば」「中華そば」と同じように用いられていた。しかし、昭和33年8月、安藤百福が日清食品を設立し、チキンラーメンの名で発売するや、爆発的な売れ行きとなった。これによって「ラーメン」という呼び方が一般的になったということはいうまでもないであろう。(7月11日)

 

 

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