フランス革命
18世紀末のフランスでは、流血をともなう革命によって、古い体制が打ち砕かれ、国民国家が誕生した。王政から共和政へ展開する政局は複雑である。革命前の国王政府は、けっして単純に反動的だったわけではない。むしろ、時代の要請にあった近代的な改革を試みようとしていた。1789年5月ルイ16世は反対する貴族に圧されて175年ぶりに三部会を招集した。1789年6月20日、農民・市民らの第三身分代表議員らがヴェルサイユ宮殿で「球戯場の誓い」を宣言。7月9日に憲法制定国民議会ほ制定。7月14日、パリの民衆は武装蜂起し、バスチーユ牢獄を襲撃した。これにより反革命軍来襲のデマとともに農民暴動と各都市の武装という無政府状態がはじまった。騒乱はただちにフランス全土に波及し、ヴェルサイユのルイ16世にも伝えられた。このときルイが「暴動か」とたずねると、側近は「いえ、陛下、革命でございます」と答えたと伝えられる。以後10年にわたって続くフランス革命の、これが始まりである。同年8月26日に人間の自由と平等、国民主権などを謳った「人権宣言」が採択された。
1932年公開の映画Le Quatorze Juillet(7月14日)の邦題が「巴里祭」だったことから、日本ではこの日を「パリ祭」と呼ばれるが、正式には「革命記念日」。バスティーユ牢獄は、14世紀シャルル5世のときパリ防衛の目的で築かれた要塞で、ブルボン朝のもとでは政治犯を投獄する牢獄として使用され、専制政治の象徴とみられていた。だが民衆がバスティーユを襲撃したのは、武器を得る目的であり、実際に解放された囚人は精神障碍者2人、文書偽造犯2人、非行貴族1人の計7人で、政治犯はひとりもいなかった。民衆は100人以上の死傷者を出しながらも、バスティーユを陥落させた。フランス語のbastilleは、要塞を意味する。要塞は革命後に解体され、痕跡は残っていない。現在はバイティーユ広場となっている。革命はロベスピエールらジャコバン派の恐怖政治を経て、テルミドールのクーデター(1794年)がおこり革命の嵐は10年間続くが、ナポレオンが国民の支持を得て、1799年11月9日、「プリュ―メル18日」のクーデターで政権を掌握する。フランス革命によって旧時代の地代生活者が没落し、新しい市民階級が登場する。(Fernch Revolution,Bastille、7月14日)
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