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2024年7月28日 (日)

第一次世界大戦おこる(1914年)

 大正3年6月28日、ボスニアの首都サライェヴォを訪問中のオーストリア皇太子夫妻が、セルビア一青年、ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺されるという事件(サラエボ事件)がおきた。翌7月28日、オーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦すると、これをきっかけにドイツ、オーストリアの同盟国側と、ロシア・フランス・イギリスの連合国側との間に戦争がはじまった。ドイツは、中立国ベルギーに侵入してフランスをやぶり、ついで全軍をロシアとの戦いに投入する計画(シュリーフェン・プラン)により、パリに急進撃した。しかし、イギリスとフランスの連合軍の反撃にあい、短期決戦のもくろみは失敗し、ここに第一次世界大戦となった。戦争は、勃発したときはせいぜい半年つづくものと思われた。ところが、予想を裏切って4年以上にわたる長期戦になり、しかも物量戦にもなったため、国家は、経済全体を戦争を支えるために動員し、国民の日常生活にも大きく干渉した。

 日本は、日英同盟にもとづいて連合国側に加わり、ドイツに宣戦を布告して参戦した。陸軍はドイツのアジアにおける根拠地青島をおとしいれ、海軍はドイツ領の南洋諸島を占領した。中国での権益の拡大をはかった大隈内閣は、翌大正4年、袁世凱政府に二十一か条の要求を示し、その大部分を承認させた。  Schlieffen-Plan

 

 

 

 

 

 

2024年7月27日 (土)

スイカの日

P001   スイカがスーパーでよく売られている。スイカは夏の果物を代表する「横綱」であり、スイカの縞模様を綱に見立て、七(な)2(ツー)七(な)で「夏の綱」とよむ語呂合わせから。スイカが中国から渡来したのは南北朝時代である。義堂周信の漢詩集「空華集」の中で「西瓜」を詠じている。このときは、中国人に倣って「西瓜」を「シャアカ」と発音していたが、時代を経るにしたがって、日本人の発音しやすい「スイカ」に変わってきた、しかし、スイカはなかなか日本人には広まらなかった。当時の人々は赤い果肉が生首を思い出すので食べられなかったという。江戸時代にも由比正雪の乱の翌年、承応元年にスイカが出回ったが、正雪の首だといって食べられなかったという話が伝わる。江戸にスイカが広まったのは万治のころで、京都に広まったのは、寛文から延宝以後とある。明和7年以降、スイカは夏の味覚として広く庶民にまで食べられるようになった。(7月27日)

 

 

ばら寿司と倹約令

  本日は「ちらし寿司の日」。岡山のちらし寿司「ばら寿司」が生まれる切っ掛けとなった備前岡山藩主・池田光政の天和2年の命日。光政は庶民の奢侈を禁止した。特に、神輿・だんじり等を用いた派手な祭礼を禁じ、元日・祭礼・祝宴以外での飲酒を禁じた。このため、備前は米どころであるにもかかわらず、銘酒が育たなかった。現在岡山名物となっている「ばら寿司」の誕生にも光政の倹約令が絡んでいる。倹約令の1つに食事は一汁一菜というのがあり、対抗策として魚や野菜を御飯に混ぜ込んで、これで一菜と称したという。(7月27日)

 

 

2024年7月25日 (木)

ゲルダ・タロー

Gerda20taro20portrait    ゲルダ・タロー(1910-1937)は女性戦場カメラマン。本名はゲルタ・ポホイル。アンドレ・フリードマンと出会い、彼の助手となり、2人の写真は架空のアメリカ人写真家ロバート・キャパの作品として発表される。ゲルダは1937年7月25日、スペイン戦争の取材中、ブルネテで亡くなる。

 

 

 

 

 

Heisi  NHKスペシャル「沢木耕太郎推理ドキュメント運命の一枚」。キャパがスペイン内戦のさなかに撮った「崩れ落ちる兵士」。銃弾によって身体を撃ち抜かれた兵士の死の瞬間を捉えたとされるこの写真は、キャパを時代の寵児に押し上げた。この写真は訓練中に撮られたもので、男は撃たれたのではなく躓いただけ、そして実際に撮ったのはゲルダだったと沢木は推理している。(Gerda Taro,Brunete)

2024年7月24日 (水)

「うなぎと梅干し」は本当に食べ合わせが悪いのか?

07_27_1r_2  本日は土用の丑の日。そして土用の丑の日にはウナギを食べる習慣がある。むかしからウナギと梅干を一緒に食べると体に良くないと言い伝えられている。医学的な根拠はなく、あくまで迷信のたぐいである。いったい何故そのような迷信が生まれたのだろうか。一般的には、贅沢を戒めるためだろうと考えられるが、こうした「食い合わせ」は古代中国の陰陽五行にもとづくものという説がある。宇宙のすべては、木・火・土・金・水の5種類の元素からできているという五行説があった。この5種類の元素は、人間の5つの内臓と、5つの味覚に結びつけられ、そこから「食禁(食べると害になるもの)」と「食宜(健康によい食べ物)」という考え方が生れた。この考え方は日本にも伝えられ、その後、食禁は「食い合わせ」として、貝原益軒の「養生訓」にも登場し、一般へ広まったといわれている。「スイカと天ぷら」「カニと柿」「ミカンとナツメ」「ギンナンとウナギ」などが紹介されている。しかし科学的にみて食品成分が化学反応して毒素になるということはなさそうだ。だが、食中毒の多い季節、消化のわるいものは十分に注意が必要である。現代の栄養学では、中華食堂定番の「ラーメンと焼飯」など炭水化物摂取量が増えるため「合食禁」の悪例といえる。 西洋では果物のイチゴとバナナがよくない食べ合わせと言われている。

 

 

我れ色を好まず

   古来から、「英雄豪傑、色を好む」と言うが、権力と地位と富がすべて備われば女から自然とよってくるものである。英語でプレイボーイPlayboy、イタリア語seduttore、スペイン語でブルラドルburlador(色事師)、セドゥラトルseductor(誘惑者)、日本には「艶福家」という奇妙な言葉がある。その他「女たらし」「伊達男」「絶倫男」「もて男」など表現はさまざま。西洋はカサノバやドン・ファンを代表とするなら、本邦では業平、光源氏、歴史上の人物では豊臣秀吉や伊藤博文は好色家で知られ、平成の色男は石田純一。平成元年7月24日、宇野宗佑首相が神楽坂の芸者との醜聞が発覚して退陣したのは極めて異例なケース。総理在任期間はわずか69日だった。レーサーのネルソン・ピケはつねに複数の女性がいて誰が正妻かわからないほどの伊達男だった。ビル・クリントン大統領は研修生モニカとは肉体関係を否定したが、ドレスの青い精液がDNA鑑定でクリントン自身のものと断定され、男を下げた。日本でも女性問題で男をさげたセレブリティは枚挙に遑ない。横山ノックもセクハラ事件で晩節を汚したといえるだろう。艶福家にはたえず女性スキャンダルがつきまとう。

2024年7月22日 (月)

バディ・アドラー

Tumblr_lpspch2tfa1qbeqtno1_500   バティ・アドラーはアメリカ映画20世紀フォックスのプロデューサー。1960年のこの日、肺がんで死去。「地上より永遠に」でアカデミー作品賞を受賞。「慕情」でも同賞をノミネートされた。「南太平洋」、マリリン・モンローの「バス停留所」のプロデュースにも携わる。妻は女優のアニタ・ルイーズ。Buddy Adler(7月22日)

 

 

 

 

2024年7月21日 (日)

吉川英治と「宮本武蔵」

 作家吉川英治は、病父に代わって、母を助け、弟妹の為にも一家の稼ぎ手7となっ小学校卒業を目前に奉公に出た。独学で作家となった彼は、読者にどんな境遇に立たされても夢と希望を持つことを説き続けた。彼は、「ぼくの書いたもので、のちのちまでも残るであろうものがあるとすれば、それは「宮本武蔵」と「神州天馬侠」だろう」と人に語った。吉川英治が宮本武蔵を描く以前の武蔵のイメージは武芸の達人ではあっても、必ずしも深い人格の持ち主として扱われていたわけではない。あるとき、直木三十五は武蔵がそれほど強くなかったと断じ、吉川と論争になった。「僕は作家だから小説で書く」として、やがてそれが朝日新聞に連載されることになった(昭和10年8月から昭和14年7月)。新聞社も宮本武蔵という講談向けの素材に難色を示し、吉川をあきらめさせようとしたが、吉川の熱意に負けて当初200回の予定で連載が開始された。

どうなるものか、この天地の大きな動きが。もう人間の個々の振舞いなどは、秋かぜの中の一片の木の葉でしかない。なるようになってしまえ。武蔵(たけぞう)は、そう思った。

   このような書き出しで始まる小説だが、当初、武蔵(たけぞう)から武蔵(むさし)にならないので、編集部では「武蔵はまだか」と問題となった。やがて読者たちの間で次回を読むのが楽しみと評判となり、新聞小説がこれぼと広範な読者を獲得したのは空前の出来事で、全部で1000回を超えることとなった。吉川「宮本武蔵」で繰り返し描かれているのは、武蔵の精神的な成長過程である。手のつけられない乱暴者であった武蔵は、沢庵によって千年杉に括りつけられ、人間の勇気を説かれる。それがきっかけとなり、「今から生まれ直したい。人間と生まれたのは大きな使命を持って出て来たのだということがわかった」と、人間としての自己に目覚める。そして、武蔵は、剣の道によって、「どこまで自分を人間として高めうるかやってみよう」と決心を固め、修行の旅に出かける。槍で名高い奈良の宝蔵院での闘いや、洛北蓮台寺での吉岡清十郎との戦いなどを経て、佐々木小次郎との巌流島の決闘。武蔵が小次郎に勝利したのは、力や天佑以上のものであった。小次郎が信じていたものは、技や力の剣であり、武蔵の信じていたものは精神の剣であった。

ヘミングウェイ生家

 

   アメリカ・イリノイ州オークパーク。シカゴから西へ約16㎞に位置するこの町は、1800年代後半に開発されたニュータウンである。レイ・クロック(マクドナルド創業者)、バローズ(類人猿ターザンの作者)、フランク・ロイド・ライト(帝国ホテルの設計者)などこの町ゆかりの有名人は多いが、なかでもアーネスト・ヘミングウェイの生家があることで知られる。へミングウェイは1899年7月21日、姉マーセリンに次いで2番目の子としてここで生まれた。最近この生家が52万5000ドルで売りに出されているらしい。(Ernest Hemingway,Oak Park)

2024年7月20日 (土)

マクドナルド マクドナルド1号店  

 昭和46年7月20日、銀座三越1階にマクドナルド1号店がオープンした。ハンバーグを主力商品として、世界規模で展開するファーストフードチェーン店・マクドナルド。マクドナルドはアメリカの大量消費文化やアメリカ帝国による経済支配の象徴と考えられ、各国の民族主義派・保守派や、環境保護活動家、反グローバリズム運動家の攻撃目標となるケースが少なくない。当時、日本人は「ハンバーガー」という食べ物にはなじみがなく、敗戦国という反米思想も一部には残っており懸念する要素もあった。ハンバーガー80円、チーズバーガー100円、コーラ50円。1号店は大変な評判になり、日本各地に続々と店舗が作られ、ファストフードが身近なものとなっていく。日本人は好奇心が旺盛で、新しいものはどんどん受け入れる国民性がある。反米は杞憂のものであった。

 

 

ラテンアメリカ諸国の独立(歴史総合)

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サン・マルティン(左)とシモン・ボリバル(右)

 ラテンアメリカ諸国の独立運動は1810年ごろより活発化した。アルゼンチン(1816年)・チリ(1816年)・コロンビア(1819年)・ペルー(1821年)・メキシコ(1821年)その他が相次いで独立を宣言したが、なかでもコロンビアやボリビア(1825年)の解放の指導者シモン・ボリヴァル(1783-1830)の軍隊は強力で、イスパニア軍に決定的打撃を与えることに成功した。中米諸小国の間には1823年中央アメリカ共和国が組織され、ポルトガル領のブラジルも1822年立憲君主国として独立した。

    コロンビアは、1810年のこの日、スペインから独立を宣言した。8月7日、シモン・ボリバル、フランシスコ・サンタンデルの革命軍がスペイン軍を撃滅した。フランス革命に刺激されて、1810年代からラテン・アメリカの植民地にクリオーリョを主体とする独立運動が広がり、アルゼンチン、チリ、ペルー、メキシコその他の諸国がスペインの支配から、またブラジルがポルトガルの支配から独立した。ボリバルは1819年スペイン軍を破ってコロンビアの解放に成功、ベネズエラとエクアドルを含む大コロンビア共和国を構想してその大統領に就任した。時を同じくしてサン・マルティン(1778-1850)によるペルー解放が完成すると、両者が会見してペルーもボリバルの支配下に入った。さらにアルド・ペルー地方を解放してボリビア共和国を樹立してその臨時大統領に就任した。しかし大コロンビア共和国の解体で失望、隠退してサン・マルタンで病没。( Colombia,Simon Bolivar,San Martin,Francisco Santander、7月20日 )

アリストテレスの弟子

Alexander_aristotle

世界史の教科書で有名なチャールズ・ラプラントの挿絵(1866年) 一部分が多く、全体を紹介したものは少ない

    英雄アレクサンドロス大王(前356-前323)は紀元前356年のこの日、マケドニアで生まれた。彼は東方遠征による世界帝国の形成者という世界史上、最も重要な人物であるがアレクサンドロス自身は、もともとインドまで広がる大帝国の建設を本気で考えていたのであろうか。ただ言えることは、未知なるものに向かっていく精神の旺盛な若者であったということだけは確かであろう。アレクサンドロスがまだ皇太子のころ、13歳から16歳まで(前343年頃)、当時の最高の学者アリストテレス(前384-前322)から直接、学問を学んでいることはよく知られるところである。二人の子弟関係がどのようなものであったかは詳しいことは明らかではない。最高の賢者と最高の帝王との出会い。「すべての人間は生まれつき知ることを欲する」というアリストテレスの言葉から推測すれば、ヘレニズム精神がいかに培われたか興味深いものがある。(AlexandrosⅢ,Aristotles,7月20日)

2024年7月19日 (金)

禁門の変

  元治元年のこの日、禁門の変がおこる。蛤御門の変ともいう。長州兵が蛤御門に迫ると、会津・桑名の兵と射ち合いになった。頃合を見計らった薩摩も長州兵へ射ちかけたので、ついに長州兵は大敗して退いた。長州藩の久坂玄瑞らは鷹司輔熙邸に立て篭もるが、会津・薩摩・幕府軍の攻撃を受けて焼失する。玄瑞は寺島忠三郎と共に自刃する。数え年25歳だった。真木和泉は山崎天王山で自刃する。(7月19日)

Photo 
   久坂玄瑞        

 

 

 

 

2024年7月17日 (水)

東京名物「空気の缶詰」

   本日は「東京の日」。1868年のこの日、「江戸」から「東京(とうけい)」に改称された。東京都知事選、2020年の東京オリンピックと、やっぱり話題の中心はいつも東京である。 「♪東京へはもう何度も行きましたね。きみが住む 美し都…」フォーク・グループ「マイ・ペース」が歌う「東京」がヒットしていた頃、東京タワーでは「空気の缶詰」が発売された。(正確には昭和43年9月1日から)地方に住む者にとってはまだ東京は憧れの土地。東京タワー見物の記念に東京の空気を買ってかえろうとする人も多かった。ただし汚れた空気、名づけてスモッグ缶詰。お値段は1個120円なり。それでも飛ぶように売れたよき時代だった。これをまねてのちには「富士山の缶詰」も販売されたが、「スモッグ缶詰」のほうが歴史は古い。(7月17日)

 

 

2024年7月16日 (火)

インノケンティウス3世

83c839383m83p839383e83b83e83x82r9_2     1212年、ナバス・デ・トロサの戦いでカトリック軍がイスラム軍を破る。以後イベリア半島のイスラム勢力は衰退の一途をたどる。37歳で176代のローマ教皇に就任インノケンティウス(1161-1216)は教皇権の絶頂期の教皇で、第4回十字軍を提唱し、フランス南部にアルビジョワ十字軍を派遣して弾圧したり、「教皇は太陽、皇帝は月」と演説して、教皇の至上性を主張した。少年十字軍(1212)やアッシジの聖フランチェスコ(1181-1226)もインノケンティウス3世の時代の話である。1216年7月16日、55歳で急死する。

2024年7月15日 (月)

円空と芭蕉

Photo     生涯を旅の中に送った漂白の詩人といえば「奥の細道」の俳人・松尾芭蕉(1644-1694)を思いうかべるだろう。だが円空(1632-1695)という謎の僧も苦難の旅を生涯続けながら、10万とも12万ともいわれる多数の仏像を彫り続けた。円空は元禄8年7月15日に関市の弥勒寺で亡くなっているが、芭蕉も前年に世を去っているので、二人が旅の途中に出会っている可能性もある。だが二人の旅は対照的だったともいわれる。自己を追求した芭蕉に対して、円空は他者救済に自らの生涯を捧げた。富士川で芭蕉は捨て子に出会うが、食べ物を与えたものの、「汝の性のつたなきを泣け」と突き放して去っていく。円空は美濃の宿に泊まっていた。宿屋の主人は円空の身なりをみて、寒さしのぎの半纏を贈った。ところが円空は旅の途中で物乞いの女に出会いその半纏をあげただけでなく、持っていた金もすべて与えてしまった、という逸話が残されている。江戸時代初期、みちのくは未開の地という観があるが、円空は芭蕉よりもさらに遠く、北海道に渡り、2年ほど滞在している。芭蕉の旅にくらべ、円空の旅は想像を絶する過酷なものだったであろう。

 

 

2024年7月14日 (日)

ハーマン・メルヴィル「白鯨」

    1814年、北米捕鯨業の中心マサチューセッツ州ニュー・ベドフォード。海にあこがれを求めてやってきた、風来坊のイシュメールは「捕鯨館ピーター・コフィーン」に宿を求め、同室の銛打ちクィークェグと無二の親友になる。クィークェグは全身刺青だらけの蛮人だが案外の善人である。翌日イシュメールは、教会で昔は銛師だったマップル神父の説教を聴いた後、奇妙な男エリジャーの警告にも屈せず、老朽捕鯨船ピークォド号の乗組員に雇われる。船長の名はエイハブ。鯨骨の義足を不気味に響かせ、顔面に深い傷痕を持つ彼の姿には、威厳と共に何かしら陰惨な、物に憑かれたような感じがあった。彼は以前、モビィ・ディックと呼ぶ白鯨に片足をもぎ取られて以来、復讐の一念に凝り固まっていた。

   今度の航海も目的は同じ。何も知らずに乗り組んだ荒くれ船員たちは、一日、彼の白鯨追跡宣言に驚いたが船長の狂熱ぶりに感染、賞金のスペイン金貨を得んものと夢中になる。唯一人理性を失わぬ一等運転士スターバックは、神を恐れぬこの行為に反対したが一蹴された。鯨群を追うピークォド号は、途中、ロンドンに船籍を持つサミュエル・エンダビイ号に出会う。船長のブーマーが白鯨を捕り逃したというと、エイハブは怒って彼を自分の船に追い帰す。やがて同じ捕鯨仲間のレイチェル号にもめくりあう。ガーデナー船長は、12歳になる息子を先日、海で見失い、血眼になって探し回っている。だが彼の協力の懇請も、エイハブには時間の浪費としか思えない。

    数刻後、嵐が船を襲う。だが強風にもエイハブは帆を下ろせと命じない。怒ったスターバックとエイハブは豪雨の中に対立。だがエイハブの形相と白鯨への執念に、スターバックもたじろぐも、嵐は去る。

    遂に宿敵のモビイ・ディックを発見し、4隻のボートが下ろされ、巨鯨との戦闘が開始される。しかしモビィ・ディックの背中へよじ上がり憎悪の銛をぶちこむ。エイハブは銛鋼の巻込まれ、怒り立った鯨もろとも、海中に姿を没する。ボートは白鯨の巨大な尾で砕け散り、スターバックが指揮するピークォド号も沈没。ただ一人生き残ったイシュメールは、クィークェグが船大工に作らせてあった棺桶の背で一昼夜を漂流した後、レイチェル号に救い上げられた。

                            *

   あらすじを紹介すると、単なる海洋冒険小説のようだが、原作のすごさは、詳細な記述、作者の知識の豊富さに感心させられる。「白鯨」を皮肉って「鯨学講義」とか「捕鯨ハンドブック」と名づけてもよさそうな、詳細なものです。そして、鯨とは何かをめぐってありとあらゆる知識と思想をてんこもりにして、結局「わからん」というのだから始末が悪い。自分にはすべてがわかると信、科学で武装した唯我主義者エイハブの破滅に作家メルヴィルのいわゆる不可知論が反映されている。メルヴィルはカント以下のドイツ・ロマン派哲学の影響下に思いっきり、知と不可知をめぐる大哲学小説を書いた。文学には楽しませる面のほかに、「教える」という知的な面があって、その両面が面白い具合に絡まりあった時、長い年月や国境を越えて読み継がれる名作がうまれるのである。

 

 

2024年7月13日 (土)

焼いてるふたり

 読売テレビの深夜ドラマ。マッチングアプリで知り合った健太と千尋。お互いをよく知らないまま夫婦になった二人は、毎週末のBBQでじっくり仲を深めていく。第2話に登場した料理は、イカやタコ・エビなどをたっぷりと混ぜ合わせた「アヒージョ」。原作はハナツカシオリの人気漫画。

 

2024年7月11日 (木)

水戸黄門の「黄門」とは何か?

   今日は映画やドラマで知られる「水戸黄門」のモデルとなった徳川光圀の誕生日。どうして彼が「水戸黄門」「黄門さま」として庶民に親しまれてたのか知っている?当時は、老中や若年寄などの幕府の官職のほかに、京都の天皇からもらう官職があった。光圀が天皇からもらったのは、中納言という官職で、この別称が「黄門」である。つまり光圀だけでなく歴代の水戸藩主は全員水戸黄門である。広辞苑の説明によれば、「唐の門下省の次官である黄門侍郎の職掌に似ているからいう。中納言の唐名。」とある。映画やテレビでは助さん格さんを連れて旅に出たことになっているが、実際には、諸国はおろか、ほとんど旅に出ることはなかった。学問好きの光圀は「大日本史」の編纂事業に専念していた。(7月11日)

 

 

生活インフラとしてのコンビニ

Photo  本日7月11日は「セブンイレブンの日」。コンビニエンスストアとは年中無休で長時間の営業を行い、小規模な店舗において主に食品、日用雑貨など多数の品種を扱う形態の小売店。略称は「コンビニ」。1927年、アメリカのテキサス州オーククリフという小さな町でコンビニ「サウスランド社」が誕生した。創業者は当時26歳だったジョー・トンプソンという青年だった。日本でのコンビニは1974年に東京豊洲店がセブンイレブン第1号。翌年にはローソンも開業した。1983年ころ全国に7000店舗しかなかったコンビニは現在は5万店舗を超えている。

  「コンビエンスストア conveience store」「便利なお店」「コンビニ」という言葉は、いつ頃から使われるようになったのか?レファレンス協同データーベースの事例を読むと、言葉としての「コンビニストア」の初出は日経テレコム21で、1976年にみられるものの、現代用語の基礎知識が1990年版から掲載されていることなどから、「1990年代初めにはコンビニという表現がかなり一般化してくる」という結論を下している。確かに下図の店舗数の推移をみても90年代がコンビニ業界の成長期とみるのは正しい。

  だが私の記憶では、都市部ではこれより早く店舗が増加し、社会に定着してきたような感じがする。セブンイレブンだけの推移をみると、1980年に1000店舗となり、1984年に2000店舗、1987に年に3000店舗、1990年に4000店舗に到達している。1986年にはドラマ「深夜にようこそ」(山田太一脚本)全4話が放送されている。コンビニは80年代に日本各地に浸透していった。

 

 

 

 

院政と平氏の台頭

 保元2年(1156年)のこの日、保元の乱おこる。後三条天皇は子の白河天皇に位を譲って院庁をおいたが、病気のため早く亡くなった。その意志を受け継いだのが白河天皇であり、1086年、弟の輔仁親王への皇位継承を嫌ってにわかに幼少の堀河天皇に譲位したのち、上皇として院庁を開き、ついで天皇を後見しながら政治の実権を握る院政を行うようになった。やがて堀河天皇の死後には、白河は孫の鳥羽を天皇に据えて、本格的な院政を開始することになった。このような院政は、もともと自分の系統に皇位を継承させようとするところから始まったもので、白河上皇のあとも、鳥羽・後白河上皇と3上皇の院政が100年余り続き、法や慣習にこだわらずに、上皇が政治の実権を行使した。院政のもとでは院庁から下される文書の院庁下文や、上皇の命令を伝える院宣が権威をもつようになり、朝廷の政治に大きな影響力を与えるようになった。保元・平治の乱を通じて、貴族社会内部争いも武士の力で解決されることが明らかとなり、武家の棟梁としての平清盛の地位と権力は急速に高まった。(7月11日)

 

 

2024年7月10日 (水)

磐越線

 磐越線とは、JR東日本の磐越東線、磐越西線を含む、いわき駅・新津駅間の鉄道路線の総称である。磐越東線は、いわき駅から阿武隈山地を横断、小野新町駅・三春駅を経て郡山駅に至る。磐越西線は、郡山駅から会津若松駅を経由して新潟県の新津駅に至る。

 

油を売る

Abura_uri  7月10日は「潤滑油の日」。OILを半回転させると710に見えることから。

 無駄話に時を過ごすことを「油を売る」という。江戸時代の「油売り」からでた言葉で、婦女に髪油(つばき油)を売る者が世間話などをしてゆっくり話し込んで商売をしてことから、その様子が怠けているように見えたことから転じた言葉となってうまれた。一説には行灯油ともいわれる。(ことばの疑問)

 

 

2024年7月 7日 (日)

盧溝橋事件おこる

    昭和12年7月7日、北京西南の盧溝橋で起きた日本軍と中国軍との衝突事件は、もともとは銃が聞こえただけの小事件だった。陸軍参謀本部作戦課長の河辺虎太郎(1890-1960)の元に届いたのは8日早朝のことだった。「厄介なことが起こったな」それが軍務課長・柴山兼四郎の電話の第一声だった。第三課長・武藤章は「愉快なことが起こったね」と言っていた。一方はこれを何かもみ潰しをしなければならなぬという風に思い、一方では此奴は面白いから油をかけて燃やそうという気持ちの違いがある。(「河辺虎太郎少将回想応答録」)不拡大派と拡大派の対立を象徴するような言葉だった。小事件が全面衝突に発展して、日本が破滅への道を歩んだのは、後の歴史が語る通りである。このとき第1連隊長として攻撃命令を行い指揮を取っていたのは、のちにインパール作戦で多くの部下を餓死させた牟田口廉也である。

  盧溝橋事件を契機に起こった日中戦争は国家総力戦となり、政府による国民の戦争への総動員と国家総動員法をてことする戦時統制経済への移行が強力に推進された。昭和14年9月に第二次世界大戦が勃発すると、日本は不介入を声明したが、翌年には日独伊三国同盟を結んで米英との対立を深め、国内では大政翼賛会を結成し、ファシズム体制を成立させた。昭和16年12月、日本は真珠湾攻撃を行いアジア・太平洋戦争へと突入した。

2024年7月 6日 (土)

家定は暗愚だったのか

    第13代将軍徳川家定が倒れたのは安政5年6月25日であるから、死の11日前である。この日は諸大名に総登城が命ぜられ、紀州慶福(7月21日家茂と改名)を世嗣に決定した旨の発表があり、そのお広めとして慶福以下に御対顔があったその日である。家定はそのあと急に工合が悪くなり、当時大奥に勤めていた佐々鎮子の話によると、松の廊下から人につかまってお出になったという。そしてそのまま回復を見ず、7月6日申の下刻(午後5時)亡くなった。数え年35歳である。死因はコレラという説もある。

    家定は12代将軍・家慶の三男で、「幼少にて重き疱瘡に罹り給ひ、満面の痘痕に醜くなららせれ、且病身がちなる上、俗に謂ゆる癇症にて、眼口時々痙攣し、首また之に従い、一見笑ふべき奇態を為し、言語も亦やや訥して吃るが如くなりけり」(「徳川慶喜公伝」)といった気の毒な生立ちで、成人するとその癖を恥じて人に会うのを厭い、「御簾中は前後三人まで迎へられしかど、曽て男女の語らひもなら」ざる状態で、ひどい抑鬱症に陥っていたらしい。大河ドラマ「篤姫」で家定を好演した堺雅人と原作者の宮尾登美子が文藝春秋で対談している。それによると宮尾登美子は家定の癇症を水銀中毒だったとしている。「徳川家に限らず、貴族の奥さんは自分で子供を育てずに、乳母を雇って、お乳を飲ませます。その乳母が厚塗りのお化粧をしていて、赤ちゃんが舐めるんですよ、白粉を」そして宮尾は「(家定は)さほど暗愚じゃなかった」と言っている。

 

 

2024年7月 5日 (金)

ビキニスタイルの日

Lillis320090801121144zzz_moran_mari   本日は「ビキニスタイルの日」。昭和21年、ルイ・ルアール(1897-1984)が、パリで世界で最も小さい水着として、ビキニスタイルの水着を発表した。発表の4日前にアメリカがおこなったビキニ環礁(マーシャル諸島)での水爆実験になぞらえて「衝撃的」という意味で命名した。だが当時は、乳房を覆う部分がずれ落ちることが多くて、まだまだ着用する女性はいなかった。1950年代のハリウッド女優たちの水着姿をみてもビキニはあまりない。アメリカでは1960年代まで一般のビーチでの使用は禁止されていた。日本でもビキニは1950年代に紹介されたが、ほとんど普及しなかった。1960年に田代みどりのカヴァー曲「ビキニスタイルのお嬢さん」がヒットすると、ビキニへの関心が高まった。

 

 

 

 1960年代になるとラクウェル・ウェルチ主演の映画「恐竜百万年」でビキニのような衣装が話題となり、ビキニが世界的に流行し、70年代日本ではハワイからアグネス・ラムが来日し、グラビア界に登場するや爆発的な人気となった。1980年、ミノルタカメラのCMで宮崎美子が木陰でTシャツとGパンを脱いでビキニ姿になり話題となった。(Bikini,Louis Reard,ルイ・レアード,7月5日)

 

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ブリジッド・バルドー(当時17歳)の「ビキニの裸女」(1952)は先駆的なビキニ・スタイルである

 

 

 

 

 

 

2024年7月 2日 (火)

「初恋の味」カルピス

 カルピスの創業者・三島海雲は、明治11年のこの日、大阪府豊島郡下萱野村(現・箕面市)に生まれた。大正8年、乳酸菌飲料カルピスを発売した。100年以上の歴史を持つが、戦後の一時期、あまり飲まれない時期もあった。山口瞳の小説に「昭和の日本人」がある。「カルピスという飲料がある。いま、東京銀座の表りの喫茶店でカルピスを飲ませる店は、ほとんど、ない。あつたとしてもカルピスをオーダーするときは、ちょっと気後れを感ずる。」と記されている。昭和37年発表の短編で、高度成長期、コーラやジュースなどの他の飲料に押されて営業不振の時期があった。しかし実際のカルピスの売れ行きは令和5年の現在まで、日本人に飲まれ続け流行遅れでも古さを感じるでもなくロングセラー商品として定着している。 

  大正13年、カルピスの広告でパナマ帽を被った黒人がストローでカルピスを飲んでいるマークが現れた。だが平成元年には差別思想につながるとしてこのマークは廃止された。(7月2日)

 

亀の子たわしとダーツ

Photo_2     本日は「たわしの日」。かつてどこの家庭の台所でもみられた「亀の子たわし」。棕櫚などの繊維を短く切り揃えて、楕円形に束ねたブラシ。焦げついた鍋の底をゴシゴシこするのによいが、ステンレス製を擦ると傷がつくのが最大の欠点。最近は合成のスポンジたわしに洗剤を染み込ませて洗浄するようになったので「亀の子たわし」は台所から消えてしまった。だが身近な日用品「亀の子たわし」は日本発明史の金字塔といわれる。1908年、東京の醤油屋の奉公人、西尾正左衛門(画像)が樽の掃除のために考案した。1915年7月2日、「束子」として特許を取得した。だが昭和の後半には束子はテレビ番組「関口宏の東京フレンドパーク」のダーツの外れの景品となった。これによって、束子が一番低級品の商品という印象を国民に与えてしまった。水切りの簀子を洗うときなど便利なものだと思うが。

   一方のダーツの起源を知っているだろうか?ダーツとは、ダーツボードと呼ばれる円形の的から、一定の距離から手投げの矢を投げ、得られた得点により優劣を競う射的競技である。15世紀後半、イギリスのバラ戦争の時代、酒場にたむろしていた兵士たちが、余興でワイン樽めがけて矢を放つようになったことがダーツの起こりと言われている。戦争が続くにつれて木樽がなかなか手に入らなくなると、大木を切って作られる丸太が樽の代用品として使われるようになった。丸太には年輪があるので、それを利用してゲーム性がさらに高まった。1896年にブライアン・ガムリンによってボードに番号をつけて点数配置が考案され、ダーツはスポーツとして一気に広まったいった。

2024年7月 1日 (月)

ジャック・カルティエとカナダ

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 カナダは、世界でロシアに次いで2番目に大きい国で、その面積は998.5万平方㎞です。(日本の面積の26.4倍) 1864年、ケベック決議が採択されイギリスの4つの植民地が連邦を結成してカナダとなった。そして1867年7月1日、イギリス連邦カナダ自治領が成立した。これを記念して毎年7月1日はカナダ建国記念日とされている。カナダの探検はフランス人が始まりで、16世紀はカナダの一部はフランス領であったが、1763年のパリ条約によりフランスからイギリスへ割譲された。カナダという国名は、1535年、インディアンのイロコイ族のカナタ(Kanata=小屋の集落)という言葉を、この地に来た探険家ジャック・カルティエ(1491-1557)が地名と思い込んだことからついたという。Jacques   Cartier

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