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1949年のこの日、美空ひばりが「河童ブギウギ」でコロムビアレコードからデビューした。そこでこれまでの歌姫たちをデビュー曲と共にふりかえってみよう。小笠原美津子が先日、宝塚市内の病院で99歳で亡くなられた。1938年にビクターよりデビューした。2年後の「十三夜」のヒット曲や東海林太郎とのデュエット曲で知られる。榎本美佐江は戦時中は工場や軍隊の慰問などに回っていたが、1946年にテイチクに入社し、市丸の代役で歌った「十三夜」(オリジナルは1940年の小笠原美都子)がヒットした。当時レコード化されていなかったが、実質的に榎本の初ヒットといえる。鈴を鳴らしたような美声と美貌で新東宝で多数出演したが、レコード歌手として地位を確立したのは1949年ビクター移籍後のことである。由紀さおりの「ヒッチハイク娘」はどんな歌なのだろう。(7月30日)
淡谷のり子「久慈浜音頭」 1930
小唄勝太郎「島の娘」 1933
渡辺はま子 「海鳴る空」 1933
美ち奴 「さくらおけさ」 1934
笠置シヅ子「恋のステップ」 1934
二葉あき子「愛の揺り籠」 1936
菅原都々子「お父さんの歌時計」 1937
越路吹雪「ブギウギ巴里」 1946
吉岡妙子「昼も夜も」 1947
平野愛子「港が見える丘」 1947
美空ひばり「河童ブギウギ」 1949
織井茂子「安南夜船」 1949
宮城まり子「なやましブギ」 1950
江利チエミ「テネシーワルツ」 1952
ペギー葉山「ドミノ」 1952
雪村いづみ「想い出のワルツ」 1953
楠トシエ「僕は特急の機関車で」 1953
大津美子「千鳥のブルース」 1955
島倉千代子「この世の花」 1955
西田佐知子「伊那の恋唄」 1956
浜村美智子「バナナ・ボート」 1957
伊東ゆかり「かたみの十字架」 1958
ザ・ピーナッツ「可愛い花」 1959
こまどり姉妹「浅草姉妹」 1959
森山加代子「月影のナポリ」 1960
坂本スミ子「黒い天使」 1960
多摩幸子「明子の唄」 1961
弘田三枝子「子供ぢゃないの」 1961
岸洋子「たわむれないで」 1962
木の実ナナ「東京キカンボ娘」 1962
梓みちよ「ボッサ・ノバでキッス」 1962
園まり「鍛冶屋のルンバ」 1962
髙石かつ枝「旅の夜風」 1962
三沢あけみ「ふられ上手にほれ上手」 1963
九重佑三子「シェリー」 1963
いしだあゆみ「ネェ、聞いてよママ」 1964
水前寺清子「涙を抱いた渡り鳥」 1964
都はるみ「困るのことヨ」 1964
大月みやこ「母恋三味線」 1964
小林幸子「ウソツキ鴎」 1964
日野てる子「カイマナ・ヒラ」 1964
渡辺順子(黛ジュン) 「ダンケ・シェン」 1964
笹みどり「女の舞台」 1965
三船和子「ベトナムの赤い月」 1965
由紀さおり(安田章子)「ヒッチハイク娘」 1965
青江三奈「恍惚のブルース」 1966
山本リンダ「こまっちゃうナ」 1966
加藤登紀子「誰も誰も知らない」 1966
日吉ミミ「涙と艶歌船」 1967
テレサ・テン「鄧麗君の歌第1集」 1967
森山良子「この広い野原いっぱい」 1967
瀬川瑛子「涙の影法師」 1967
渚ゆう子「早くキスして」 1967
和田アキコ「星空の孤独」 1968
ちあきなおみ「雨に濡れた慕情」 1969
芹洋子「野に咲く花のように」 1969
藤圭子「新宿の女」 1969
藤野ひろ子「浜でギターを弾いてたら」 1969
安倍lt理津子「愛のきずな」 1970
北原ミレイ「ざんげの値打ちもない」 1970
八代亜紀「愛は死んでも」 1971
天地真理「水色の恋」 1971
小柳ルミ子「わたしの城下町」 1971
天童よしみ「風が吹く」 1972
森昌子「せんせい」 1972
松任谷由実「返事はいらない」 1972
谷山浩子「銀河系はやっぱりまわっている」 1972
山口いづみ「緑の季節」 1972
山口百恵「としごろ」 1973
石川さゆり「かくれんぼ」 1973
キャディーズ「あなたに夢中」 1973
川中美幸「新宿天使」 1973
高橋真梨子「ジョニィへの伝言」 1973
キム・ヨンジャ「教えてください」 1974
伊藤咲子「ひまわり娘」 1974
中島みゆき「アザミ娘のララバイ」 1975
岩崎宏美「二重唱(デュエット)」 1975
金沢明子「津軽じょんから節」ほか(LP若い民謡」収録)1975
大場久美子「あこがれ」 1977
榊原郁恵「私の先生」 1977
渡辺真知子「迷い道」 1977
矢野顕子「いろはにこんぺいとう」 1977
柴田まゆみ「白いページの中に」 1978
高見知佳「シンデレラ」 1978
竹内まりや「戻っておいで・私の時間」 1978
紅屋おかめ 「泣くなオカメちゃん」 1978
久保田早紀「異邦人」 1979
松田聖子「裸足の季節」 1980
山下久美子「バスルームから愛をこめて」 1980
小泉今日子「私の16才」 1982
中森明菜「スローモーション」 1982
原田悠里「俺に咲いた花」 1982
星ひろみ(伍代夏子)「恋の家なき子」 1982
小久保尚美「誰にも云わないで」 1983
菊池桃子「青春のいじわる」 1984
中山美穂「C」 1985
南野陽子「恥ずかしすぎて」 1985
森川美穂「教室」 1985
浅香唯「夏少女」 1985
渡辺美里「I'm free」 1985
今井美樹「黄昏のモノローグ」 1986
中村美律子「恋の肥後つばき」 1986
島津亜矢「袴をはいた渡り鳥」 1986
椎名恵「今夜はANGEL」 1986
伊藤智恵理「パラダイス・ウォーカー」 1987
伍代夏子「戻り川」 1987
坂本冬美「あばれ太鼓」 1987
森高千里「NEW SEASON」 1987
藤あや子「ふたり川」 1987
工藤静香「禁断のテレパシー」 1987
香西かおり「雨酒場」 1988
山口由子「幾千の涙を贈りたい」 1988
遊佐未森「瞳水晶」 1988
西田ひかる「ぼくらのセディ」 1988
小野リサ「カトピリ」 1989
夏川りみ(旧芸名・星美里)「しほり」 1989
林原めぐみ「約束だよ」 1989
山口弘美「つよがり」 1989
高橋由美子「Step by Step」 1990
西野妙子「A級キッス」 1990
田川寿美「女…ひとり旅」 1992
音羽しのぶ(司千恵子) 「涙という名の港町」 1992
広瀬香美「愛があれば大丈夫」 1992
藤田恵美(ルクプル)「海の底でうたう唄」 1994
安室奈美恵「太陽のSEASON」 1995
華原朋美「keep yourself alive」 1995
水森かおり「おしろい花」 1995
宇多田ヒカル「Automatic」 1998
浜崎あゆみ「poker face」 1998
椎名林檎「幸福論」 1998
aiko「あした」 1998
川野夏美「あばれ海峡」 1998
MISIA「つつみ込むように」 1998
島谷ひとみ「大阪の女」 1999
クミコ「接吻」 2000
水樹奈々「想い」 2000
中島美嘉「STARS」 2001
一青窈「もらい泣き」 2002
加藤ミリヤ「Never let go」 2004
木村カエラ「Level42」 2004
JUJU「光の中へ」 2004
Beni「harmony」 2004
Perfume 「リニアモーターガール」 2005
新妻聖子「夢の翼」 2006
青山テルマ「ONE WAY」 2007
越智志帆(superfly)「ハローハロー」 2007
ステファニー「君がいる限り」 2007
西野カナ「I」 2008
miwa「don't cry anymore」 2010
出光仁美「おんな七厘」 2010
藍井エイル「MEMORIA」 2011
家入レオ「サブリナ」 2012
杜このみ「三味線わたり鳥」 2013
大原櫻子「頑張ったっていいんじゃない」2014
あいみょん「生きていたんだよな」 2016
栞菜智世「Hear 信じあえた証」 2016
羽山みずき「紅花慕情」 2016
三浦透子「おかあさんへ」 2016
朝花美穂「なみだの峠」 2018
門松みゆき「みちのく望郷歌」 2019
鈴木愛理「Escape」 2019
望月琉叶「失恋慕情」 2020
Liyuu「Magic Words」2020
石川花「空に咲いて」 2022
梅谷心愛「磐越西線」 2023
谷崎忌 書棚に眠る本の数
本日は谷崎潤一郎の忌日(1965年没)。7月30日は他に、伊藤左千夫(1913年没)、幸田露伴(1947年没)、今日出海(1984年没)、小田実(2007年没)らの忌日であり、作家命日の特異日である。福田和也監修の「文豪ナンバーワン決定戦」という本によると、「作品の幅広さといい、人間のスケールといい、欲望の強さといい、彼の右に出る者なし。文句なしのトップオブザトップ」とある。
谷崎潤一郎(1886-1965)は79年間の生涯で何度住居を変えたのだろうか。おそらく40回を超えるだろうが、ホテル、別荘、マンションの仮住居も数えるともっと多い。とくに大正12年に箱根で関東大震災にあって以降、京都上京区等持院へ、続いて要法寺へ、そして兵庫県西宮市苦楽園に転居すると昭和18年11月まで阪神間を転々としている。有名な「細雪」は神戸市東灘区住吉東町の倚松庵で書かれたといわれる。関西ブルジョア家庭が描かれているので、神戸で執筆した印象が強いが、実際にその多くを執筆したのは熱海である。昭和17年ころから、谷崎は「細雪」を執筆のために熱海の地を選んだ。昭和17年4月には熱海の西山598番地に別荘を購入している。そして当時の居住地であった神戸が空襲にあう危険がでてきたので、昭和19年4月に熱海に疎開している。戦後、谷崎は京都の南禅寺と左京区下鴨泉町に転居したが、京都の冬の底冷えの寒さに耐えられず、昭和25年2月、再び熱海に転居し、雪後庵と名づけた。昭和39年には臨終の地となる神奈川県湯河原町吉浜字蓬ヶ平に「湘碧山房」に新築移転している。
このような引越し魔であるが、その根底には谷崎一流の美意識があるように思える。「細雪」の執筆にはあえて関西をさけて熱海を選び、「新訳源氏物語」のためには京都を選んでいる。作品を書く上げるためには、積極的に環境を変える必要があったのであろう。
パリ五輪の開会式。マリー・アントワネットに扮したと思われる女性が赤いドレスに身にまとい、自身の生首を抱えて歌い始めた。この奇抜な演出には賛否が分かれた。マリー・アントワネットはいまでも世界史で最も有名な女性の一人でエピソードも数多くある。バターをたっぷり練り込んだ生地を重ねて焼き上げたパン「クロワッサン」。クロワッサンが生まれたのは17世紀後半のオーストリアのウィーンである。オーストリアはトルコと戦争をしていた。ウィーンを包囲したオスマントルコ軍は、地下道を掘ってウィーンを陥落させようと目論んでいた。ところがある日、地下の工房で働いていたウィーンのパン職人が、トンネルの掘る怪しい音に気づいて軍に通報。彼の通報のおかげでオスマントルコ軍を撃退できたのである。オーストリアの皇帝はパン職人の功績をたたえ、喜んだパン職人は、戦勝を記念してオスマントルコの国旗に描かれた三日月の形をパンを焼いた。これがやがてフランスに伝わり、現在のクロワッサンになったといわている。それはあのマリー・アントワネットが大きくかかわっている。1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世と女帝マリア・テレジアの第15子としてウィーンのシェーンブルン宮殿で生れた。14歳でフランス王ルイ16世の妃としてベルサイユへ輿入れした。盛大な結婚式のとき、オーストリアからパン職人も連れてきて、「キプフェル」という三日月形のパンも食卓を飾った。その後、パリのパン職人も皇太子妃を歓迎する意味で、これを作るようになった。フランス語では三日月をクロワッサンというので、「キプフェル」は「クロワッサン」と名を変えて世界中で知られるようになった。
マリー・アントワネットがどんなに思慮のない、浪費家だったかを物語るエピソードは多数の残されているが、お菓子に関する話を一つ。パリの飢えたおかみさんたちが「パンをよこせ」と叫んで、雨の中をベルサイユ宮殿に押し寄せた。その時彼女は、人民どもはなんだってあんなに騒いでいるの、と側近のものにたずねた。パンがないのですからと答えると、彼女は「パンがなければブリオッシュ(一種の菓子パン)を食べればいいじゃないの」と言ったと伝えられている。
マリー・アントワネットは、軽佻浮薄、乱費贅沢の限りをつくしたといえども、一掬の涙を誘うものがある。むかし深田恭子が「わたしはチョコレートが好きでマリーもチョコが好き」とか、誕生日(11月2日)が同じで「私はマリー・アントワネットの生まれ変わり」と言っていた。
大正3年6月28日、ボスニアの首都サライェヴォを訪問中のオーストリア皇太子夫妻が、セルビア一青年、ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺されるという事件(サラエボ事件)がおきた。翌7月28日、オーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦すると、これをきっかけにドイツ、オーストリアの同盟国側と、ロシア・フランス・イギリスの連合国側との間に戦争がはじまった。ドイツは、中立国ベルギーに侵入してフランスをやぶり、ついで全軍をロシアとの戦いに投入する計画(シュリーフェン・プラン)により、パリに急進撃した。しかし、イギリスとフランスの連合軍の反撃にあい、短期決戦のもくろみは失敗し、ここに第一次世界大戦となった。戦争は、勃発したときはせいぜい半年つづくものと思われた。ところが、予想を裏切って4年以上にわたる長期戦になり、しかも物量戦にもなったため、国家は、経済全体を戦争を支えるために動員し、国民の日常生活にも大きく干渉した。
日本は、日英同盟にもとづいて連合国側に加わり、ドイツに宣戦を布告して参戦した。陸軍はドイツのアジアにおける根拠地青島をおとしいれ、海軍はドイツ領の南洋諸島を占領した。中国での権益の拡大をはかった大隈内閣は、翌大正4年、袁世凱政府に二十一か条の要求を示し、その大部分を承認させた。 Schlieffen-Plan
本日は「地名の日」。アイヌ語地名の研究家・山田秀三の命日であり、地名研究家・谷川健一の誕生日であることから。多くの地名には語源に由来する。東京の六本木。江戸時代、この土地の大名屋敷に見事な6本の松があったことに因む。
沖縄の那覇市に「おもろまち」という新しい地名がある。この地区は1987年5月に米軍基地返還後、牧港住宅地区の跡地を造成したもので、新商業地区として那覇市の中心地となりつつある。
世の中、紛らわしい地名がある。埼玉県に、ふじみ野市と富士見市とが隣り合わせに存在し、紛らわしい。群馬県太田市と島根県大田市。このようによく似た地名が外国にも存在する。
日本ではヨーロッパに位置するオーストリアと南半球のオーストラリアを混同することがしばしばある。また東ヨーロッパのモルドバ共和国とボルガのモルドヴィア共和国もよく混同される。北大西洋を隔てたアイスランドとアイルランドも紛らわしい。カナダのプリンス・エドワード島とインド洋上にあるプリンス・エドワード諸島(南アフリカ共和国)も一字違いで混同しやすい。アフリカのギアナと南米のギニア(現在はガイアナ)
国土の広いアメリカには同一地名は多い。ワシントンも東部にあるコロンビア特別区をなすワシントンD.C.と西海岸にあるワシントン州。カジノで有名なラスベガスとニューメキシコ州の賭博禁止のラスベガスという小さな町。
アメリカにはイギリスの地名をそのまま使用されることも多い。リッチモンドという地名はロンドンのリッチモンド・パークが源であるが、北米、オーストラリア、南アメリカなど世界に27もある。1620年ピューリタンが英国南西部のプリマス港を出航し、アメリカ東部マサチューセッツ州のプリマスに到着した。彼らが出発地と同じ名を名づけたとよくいわれるが、実際は同名の地に偶然に到着したのである。数年前にこの付近を探査したジョン・スミス(1580-1631)によって命名されていた。(Richmond,Plymouth)7月28日)
オランダの画家ゴッホの自殺死はいわゆる「アンナチュラル・デス」Unnatural Deathである。その死を多くの専門家たちが究明しようとするが未だ謎である。敬虔な信仰心を持っていたゴッホの銃での自殺死は不可解である。ゴッホは1890年7月27日にピストルで自殺を図り、2日後の29日午前1時半に死んだ、と一般に知られている。とくに「カラスのいる麦畑」という絵を描き上げて、その場でピストル自殺をしたと思っている人が多い。それはカーク・ダグラスの映画「炎の人ゴッホ」の影響によるもので、あのシーンはあくまで演出でしかない。有名な「カラスのいる麦畑」が絶筆ではないことは、7月10日頃のテオ宛ての手紙にこの絵と思われる記述があることから明らかである。最晩年と思われる作品は全部で25点あるが、どの絵が絶筆であるかは決定する根拠がなく明らかではない。
ゴッホの25作品の中でとくに変わった1枚がある。「シャポンヴァルのグレの茅葺き家」である。シャボンヴァルとはオーヴェルから1駅はなれた村である。この絵の中には3人の男性が描かれているが、奇妙なのは左端にいる2人である。身なりのみすぼらしい青年のように見える。ゴッホの死に関する話には2人の不良少年(おそらく兄弟)のことがしばしば噂にあがる。そのころゴッホを変人扱いする不良の少年が、女性たちに偽りの誘惑をさせたり、コーヒーに塩を入れたり、ゴッホをからかったりイジメていたらしい。ゴッホとはピストルの件でもトラブルがあった。当時、フランスで人気のあった「ワイルド・ウエスト・ショー」の真似をして少年たちがピストルで遊んでいた。それをみたゴッホが本物のピストルを少年が持ち歩くのは危険を考え、2人からピストルを取り上げた。だが少年がゴッホのラヴ―下宿屋にしのび込んでピストルを奪い返した。そして27日、下宿屋から1.5キロ離れた場所へゴッホを呼び出し、ゴッホを脅している時に誤ってゴッホの胸を撃ってしまう。2人の少年たちは傷を負ったゴッホを夜中に抱えて下宿屋のベッドまで運び逃走してしまった。ゴッホにはまだ意識はあったが、事件を明らかにすることなくそのまま29日に死んだ。なぜ真相を明らかにしなかったのだろうか。事故死よりも自殺のほうが、経済的な負担をかけているテオのために絵が売れると考えたのか。それはあまりにも穿ちすきな勘ぐりで、不良少年の前途を考え、「もはやこれまで。これも人生」とあきらめ、少年たちをかばったというのが真実に近いのではないだろうか。ともかくも手紙のなかでも自殺を嫌悪するゴッホが、自殺をするというのは不自然である。(Les Chaumes du Gre a Chaponval 作品番号F780/JH2115)
スイカがスーパーでよく売られている。スイカは夏の果物を代表する「横綱」であり、スイカの縞模様を綱に見立て、七(な)2(ツー)七(な)で「夏の綱」とよむ語呂合わせから。スイカが中国から渡来したのは南北朝時代である。義堂周信の漢詩集「空華集」の中で「西瓜」を詠じている。このときは、中国人に倣って「西瓜」を「シャアカ」と発音していたが、時代を経るにしたがって、日本人の発音しやすい「スイカ」に変わってきた、しかし、スイカはなかなか日本人には広まらなかった。当時の人々は赤い果肉が生首を思い出すので食べられなかったという。江戸時代にも由比正雪の乱の翌年、承応元年にスイカが出回ったが、正雪の首だといって食べられなかったという話が伝わる。江戸にスイカが広まったのは万治のころで、京都に広まったのは、寛文から延宝以後とある。明和7年以降、スイカは夏の味覚として広く庶民にまで食べられるようになった。(7月27日)
本日は「ちらし寿司の日」。岡山のちらし寿司「ばら寿司」が生まれる切っ掛けとなった備前岡山藩主・池田光政の天和2年の命日。光政は庶民の奢侈を禁止した。特に、神輿・だんじり等を用いた派手な祭礼を禁じ、元日・祭礼・祝宴以外での飲酒を禁じた。このため、備前は米どころであるにもかかわらず、銘酒が育たなかった。現在岡山名物となっている「ばら寿司」の誕生にも光政の倹約令が絡んでいる。倹約令の1つに食事は一汁一菜というのがあり、対抗策として魚や野菜を御飯に混ぜ込んで、これで一菜と称したという。(7月27日)
古いビデオテープで「四谷怪談」(1992年)を観る。伊吹吾朗&八木孝子の新国劇コンビである。これまで映画・ドラマでお岩を演じた女優といえば、鈴木澄子、五月信子、田中絹代、相馬千恵子、中田康子、若杉嘉津子、藤代佳子、岡田茉莉子、稲野和子、南ゆき、関根恵子、高岡早紀、小雪、柴咲コウ、菅野美穂、須藤温子など。
文政8年7月26日、江戸の中村座で「東海道四谷怪談」が初演された。四谷怪談には、江戸の元禄の頃、実際に起こった事件をモデルにしている。お岩稲荷の文書(文政10年)によると、四谷左門町に住む田宮又左衛門の娘、お岩がいた。19歳のとき疱瘡を患い、片目が潰れており、それを心配した父は浪人の伊右衛門を田宮家の婿にとった。しかし、伊右衛門が心変わりして一方的にお岩を離縁したため、お岩が狂乱して行方不明となり、その後、田宮家で異変が相次いだため、田宮邸の跡地にお岩稲荷を建てたという。これが現在の田宮神社である。現在この向かいの陽運寺にもお岩は祀られている。また、お岩の墓は妙行寺(東京都豊島区東巣鴨)にある。(7月26日)
ゲルダ・タロー(1910-1937)は女性戦場カメラマン。本名はゲルタ・ポホイル。アンドレ・フリードマンと出会い、彼の助手となり、2人の写真は架空のアメリカ人写真家ロバート・キャパの作品として発表される。ゲルダは1937年7月25日、スペイン戦争の取材中、ブルネテで亡くなる。
NHKスペシャル「沢木耕太郎推理ドキュメント運命の一枚」。キャパがスペイン内戦のさなかに撮った「崩れ落ちる兵士」。銃弾によって身体を撃ち抜かれた兵士の死の瞬間を捉えたとされるこの写真は、キャパを時代の寵児に押し上げた。この写真は訓練中に撮られたもので、男は撃たれたのではなく躓いただけ、そして実際に撮ったのはゲルダだったと沢木は推理している。(Gerda Taro,Brunete)
7月25日は「かき氷の日」。1933年のこの日にフェーン現象で山梨県で日本最高気温40.8℃を記録したのにちなんで、かき氷を食べるのにふさわしい日として日本かき氷協会が制定した。また夏氷「な(7)つ(2)ご(5)おり」の語呂合わせも制定の理由づけにされる。いまは空前のかき氷ブームで様々なかき氷が販売されている。
かき氷 泣いてたわが子 もう笑顔
かき氷は、古くは枕草子にも氷を刃物で削った削り氷に甘葛をかけたものがみえる。明治15年のエドワード・モースの日記にも、かき氷を食べたとある。明治末期から、機械製氷の普及と海水浴場の流行で全国にかき氷屋が現れる。明治42年の夏、石川啄木が東京本郷の2階の窓から外を眺めていると、氷屋の旗が目にとまる。数日前まで一膳飯屋だったのに涼しげな暖簾のかかった氷屋に変わったことに驚いている。ちなみに店先で飾られたかき氷の旗のデザインがだいた同じなのは、明治時代に氷の販売が営業許可証であった名残である。
本日は土用の丑の日。そして土用の丑の日にはウナギを食べる習慣がある。むかしからウナギと梅干を一緒に食べると体に良くないと言い伝えられている。医学的な根拠はなく、あくまで迷信のたぐいである。いったい何故そのような迷信が生まれたのだろうか。一般的には、贅沢を戒めるためだろうと考えられるが、こうした「食い合わせ」は古代中国の陰陽五行にもとづくものという説がある。宇宙のすべては、木・火・土・金・水の5種類の元素からできているという五行説があった。この5種類の元素は、人間の5つの内臓と、5つの味覚に結びつけられ、そこから「食禁(食べると害になるもの)」と「食宜(健康によい食べ物)」という考え方が生れた。この考え方は日本にも伝えられ、その後、食禁は「食い合わせ」として、貝原益軒の「養生訓」にも登場し、一般へ広まったといわれている。「スイカと天ぷら」「カニと柿」「ミカンとナツメ」「ギンナンとウナギ」などが紹介されている。しかし科学的にみて食品成分が化学反応して毒素になるということはなさそうだ。だが、食中毒の多い季節、消化のわるいものは十分に注意が必要である。現代の栄養学では、中華食堂定番の「ラーメンと焼飯」など炭水化物摂取量が増えるため「合食禁」の悪例といえる。 西洋では果物のイチゴとバナナがよくない食べ合わせと言われている。
土用うし 夫婦二人で鰻一尾
今日は「土用の丑の日」。全国的にウナギを食べる日とされているけど、なぜこの日に鰻を食べるのか、その由来を調べることは雑学研究の定番ともといえる事柄である。 そもそも天然ものの鰻は初冬が旬である。そして土用といえば、夏のことと思われがちだが、実は年に4回ある。もともとは古代中国の五行説からきたもので、宇宙は木火土金水の五元素から成ると考えられていた。そして、立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれ前の18日もしくは19日間を土用といった。つまり季節の変わり目で、土の働きが旺盛になる期間と考えたのであろう。しかし、今日では俳句の季語でも夏であるように、土用といえば夏の土用を指すのが一般的である。今年の土用の丑の日は7月24日に当たる。
ところで、土用にウナギを食べる習慣は、奈良時代からある。『万葉集』の中で大伴家持が吉田石麿という老人がいくら飯を食べてもやせているのを見て、夏やせにウナギがいいよ、とからかっている歌がある。
石麻呂に吾れもの申す。夏痩せによしといふものぞ むなぎとり召せ (いつも痩せている石麻呂君よ、夏痩せに良いという鰻でも食べたらどうかね)
だが江戸時代、夏場に鰻が売れずに困っていた。ある鰻屋が蘭学者の平賀源内に相談し、源内は、さきの大伴家持の歌を思い出し、土用の丑の日にウナギを食えば夏痩せを防ぐことができるという意味から「今日は丑の日」という看板を書いて与えたところ、たちまち広く言い伝えられウナギ屋は大繁昌した。そこで、江戸中のウナギ屋も「今日は丑の日」の看板を掲げたという。こうして「土用の丑の日には鰻」という風習が定着していったといわれる。 地方によっては、丑の日にちなんで、ウのつく食物をとると暑気にあてられないといい、うどん、うり、牛肉などを食べるところもある。
古来から、「英雄豪傑、色を好む」と言うが、権力と地位と富がすべて備われば女から自然とよってくるものである。英語でプレイボーイPlayboy、イタリア語seduttore、スペイン語でブルラドルburlador(色事師)、セドゥラトルseductor(誘惑者)、日本には「艶福家」という奇妙な言葉がある。その他「女たらし」「伊達男」「絶倫男」「もて男」など表現はさまざま。西洋はカサノバやドン・ファンを代表とするなら、本邦では業平、光源氏、歴史上の人物では豊臣秀吉や伊藤博文は好色家で知られ、平成の色男は石田純一。平成元年7月24日、宇野宗佑首相が神楽坂の芸者との醜聞が発覚して退陣したのは極めて異例なケース。総理在任期間はわずか69日だった。レーサーのネルソン・ピケはつねに複数の女性がいて誰が正妻かわからないほどの伊達男だった。ビル・クリントン大統領は研修生モニカとは肉体関係を否定したが、ドレスの青い精液がDNA鑑定でクリントン自身のものと断定され、男を下げた。日本でも女性問題で男をさげたセレブリティは枚挙に遑ない。横山ノックもセクハラ事件で晩節を汚したといえるだろう。艶福家にはたえず女性スキャンダルがつきまとう。
1979年、郵政省が「ふ」「み」と語呂あわせられる毎月23日を「ふみの日」と定めた。東京都豊島区目白に切手の博物館がある。切手の収集家として世界的に知られた水原明窓(1924-1993)が運営母体を設立し、1996年に開館した。日本および外国切手を約35万種以上収蔵する。7月23日はとくに「文月ふみの日」という。
大正7年のこの日、富山県魚津の主婦たちが米の県外移出を阻止する行動から米騒動が全国に拡大していった。米騒動は8月になって勢いを増し、8月10日には京都と名古屋で大規模な騒動がおきる。13日には18市40町30村におよび、16日にかけて米騒動のピークをむかえる。騒動は、青森・岩手・秋田・沖縄の4県を除いて全国に波及し、9月11日の三池炭鉱を最後に収束。騒動鎮圧のために各地に警察や軍隊が出動し、約30人の死者をだした。7786人が起訴され、一審で2人が死刑、12人が無期懲役となる。この事件で9月21日に寺内正毅内閣が総辞職した。
一般に米騒動は大正7年が有名であるが、明治23年1月18日にも富山市で300人余が市役所に押しかけるのを機に、各地に米騒動が広がっている。(7月23日)
天文18年(1549年)7月22日、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル(1506-1552)が6人の弟子(パウロ・ヤジロウ、ベルナルド、ロレンソ、マテオ、コスメ・デ・トルレス、フェルナンデス・ジョアン)と共に鹿児島の坊津に上陸した。ザビエルはスペイン・ナバラ生まれのバスク人。ザビエルを同地に案内したのは弟子の一人アンジロー(安次郎。弥次郎とも)だった。薩摩出身のアンジローは殺人を犯してマラッカに亡命していたところを、ザビエルと知り合った。アンジローはザビエルに従い、インドのゴアに赴き、ラテン語やキリスト教の教義を熱心に学んだ。鹿児島では当初、島津貴久の保護を受けて菩提寺福昌寺境内などで布教活動を許され、アンジローの知人や親類をはじめ、150人が洗礼を受けた。後には仏教徒からの妨害と、貿易に伴なう利益に期待した貴久の落胆から、キリスト教への改宗は禁止されるに至った。
10か月の鹿児島滞在後、ポルトガル船の平戸入港に伴ない、同地に赴き、さらに山口、泉州堺を経て京都に入ったが、状況はザビエルの布教活動を拒否するものだった。以後、山口の大内氏や豊後の大友義鎮(宗麟)に庇護を求めて、布教活動を行なった。天文20年11月20日にザビエルの乗ったポルトガル船は沖の浜からゴアに向けて出帆した。ザビエルの日本滞在はわずか2年3か月だったが、布教活動が我が国のその後に与えた影響は決して少なくない。今時の教科書では「フランシスコ・シャビエル」とスペイン語読みが併記されている。(Francisco Javier 、Francis Xavier)
作家吉川英治は、病父に代わって、母を助け、弟妹の為にも一家の稼ぎ手7となっ小学校卒業を目前に奉公に出た。独学で作家となった彼は、読者にどんな境遇に立たされても夢と希望を持つことを説き続けた。彼は、「ぼくの書いたもので、のちのちまでも残るであろうものがあるとすれば、それは「宮本武蔵」と「神州天馬侠」だろう」と人に語った。吉川英治が宮本武蔵を描く以前の武蔵のイメージは武芸の達人ではあっても、必ずしも深い人格の持ち主として扱われていたわけではない。あるとき、直木三十五は武蔵がそれほど強くなかったと断じ、吉川と論争になった。「僕は作家だから小説で書く」として、やがてそれが朝日新聞に連載されることになった(昭和10年8月から昭和14年7月)。新聞社も宮本武蔵という講談向けの素材に難色を示し、吉川をあきらめさせようとしたが、吉川の熱意に負けて当初200回の予定で連載が開始された。
どうなるものか、この天地の大きな動きが。もう人間の個々の振舞いなどは、秋かぜの中の一片の木の葉でしかない。なるようになってしまえ。武蔵(たけぞう)は、そう思った。
このような書き出しで始まる小説だが、当初、武蔵(たけぞう)から武蔵(むさし)にならないので、編集部では「武蔵はまだか」と問題となった。やがて読者たちの間で次回を読むのが楽しみと評判となり、新聞小説がこれぼと広範な読者を獲得したのは空前の出来事で、全部で1000回を超えることとなった。吉川「宮本武蔵」で繰り返し描かれているのは、武蔵の精神的な成長過程である。手のつけられない乱暴者であった武蔵は、沢庵によって千年杉に括りつけられ、人間の勇気を説かれる。それがきっかけとなり、「今から生まれ直したい。人間と生まれたのは大きな使命を持って出て来たのだということがわかった」と、人間としての自己に目覚める。そして、武蔵は、剣の道によって、「どこまで自分を人間として高めうるかやってみよう」と決心を固め、修行の旅に出かける。槍で名高い奈良の宝蔵院での闘いや、洛北蓮台寺での吉岡清十郎との戦いなどを経て、佐々木小次郎との巌流島の決闘。武蔵が小次郎に勝利したのは、力や天佑以上のものであった。小次郎が信じていたものは、技や力の剣であり、武蔵の信じていたものは精神の剣であった。
アメリカ・イリノイ州オークパーク。シカゴから西へ約16㎞に位置するこの町は、1800年代後半に開発されたニュータウンである。レイ・クロック(マクドナルド創業者)、バローズ(類人猿ターザンの作者)、フランク・ロイド・ライト(帝国ホテルの設計者)などこの町ゆかりの有名人は多いが、なかでもアーネスト・ヘミングウェイの生家があることで知られる。へミングウェイは1899年7月21日、姉マーセリンに次いで2番目の子としてここで生まれた。最近この生家が52万5000ドルで売りに出されているらしい。(Ernest Hemingway,Oak Park)
1960年代のアメリカはベトナム戦争を背景に学生の反戦運動が始まった。フォークやロックは「愛と平和」や「体制への抵抗」をうたいあげヒッピー文化が花開く。日本でも激しい学生運動が巻き起こり、東大安田講堂や新宿騒乱など大事件が相次いだ。世界が争乱のさなかにあった1968年12月、アポロ8号が宇宙から青く美しい地球の映像を届けた。
1969年7月16日、二ール・アームストロング船長、マイケル・コリンズ、エドウィン・オルドリンの3名を乗せたアポロ11号はケネディ宇宙センターから発射され、7月20日、アームストロングとオルドリンは人類として初めて月面に降り立った。
That's one small step for a man,one giant leap for mankind.
「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」とのメッセージを地球に送った。この瞬間はテレビでも放送され世界中が固唾を呑んで見守った。(Apollo,Neil Armstrong,Michael Collins,Edwin Aldrin,Jr.)
世界史の教科書で有名なチャールズ・ラプラントの挿絵(1866年) 一部分が多く、全体を紹介したものは少ない
英雄アレクサンドロス大王(前356-前323)は紀元前356年のこの日、マケドニアで生まれた。彼は東方遠征による世界帝国の形成者という世界史上、最も重要な人物であるがアレクサンドロス自身は、もともとインドまで広がる大帝国の建設を本気で考えていたのであろうか。ただ言えることは、未知なるものに向かっていく精神の旺盛な若者であったということだけは確かであろう。アレクサンドロスがまだ皇太子のころ、13歳から16歳まで(前343年頃)、当時の最高の学者アリストテレス(前384-前322)から直接、学問を学んでいることはよく知られるところである。二人の子弟関係がどのようなものであったかは詳しいことは明らかではない。最高の賢者と最高の帝王との出会い。「すべての人間は生まれつき知ることを欲する」というアリストテレスの言葉から推測すれば、ヘレニズム精神がいかに培われたか興味深いものがある。(AlexandrosⅢ,Aristotles,7月20日)
現代史を記憶する方法は最も印象に残った事件を中心に、他の事柄を関連づけて覚えるのがよい。1977年7月18日、キャンディーズは解散宣言をした。この年、ピンクレディーは「ウォンテッド」「UFO」のヒットを飛ばしている。小説では三田誠広「僕って何」、池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」が芥川賞を受賞。アイドルでは榊原郁恵、大場久美子デビュー。アーチストではバリー・マニロウ。映画界は「幸福の黄色いハンカチ」「宇宙戦艦ヤマト」「ロッキー」「サスペリア」。NHK放送の米国ドラマ「大草原の小さな家」が人気。アル・パチーノがトップスターだった。円高差益。東京外国為替市場で、1ドル260円を割る。
本日は「東京の日」。1868年のこの日、「江戸」から「東京(とうけい)」に改称された。東京都知事選、2020年の東京オリンピックと、やっぱり話題の中心はいつも東京である。 「♪東京へはもう何度も行きましたね。きみが住む 美し都…」フォーク・グループ「マイ・ペース」が歌う「東京」がヒットしていた頃、東京タワーでは「空気の缶詰」が発売された。(正確には昭和43年9月1日から)地方に住む者にとってはまだ東京は憧れの土地。東京タワー見物の記念に東京の空気を買ってかえろうとする人も多かった。ただし汚れた空気、名づけてスモッグ缶詰。お値段は1個120円なり。それでも飛ぶように売れたよき時代だった。これをまねてのちには「富士山の缶詰」も販売されたが、「スモッグ缶詰」のほうが歴史は古い。(7月17日)
1993年のこの日、横浜ランドマークタワー(高さ296m)が開業。超高層ビルでは高さ日本一。しかし2014年春に完成する「あべのハルカス」(大阪市阿倍野区)高さ300mが高さで横浜を抜き、日本一高いビルとなる。(7月16日)
日本には全国各地に一般の乗客を乗せず、何らかの目的で敷設された知られざる路線を走る「働く…列車」がいくつもある。工場への原材料・製品をコンテナに積んで走る貨物線、穀物・肥料を載せて地場産業を支える路線、セメントを載せて渓谷を走るトロッコ列車などその目的はさまざまである。テレ東の情景ドキュメンタリー番組「乗れない鉄道に乗ってみた!」。Blulray「愛知・衣浦臨海鉄道・仙台ビール工場専用線・東京モノレール工作」」Vol1.も発売されているほど鉄道オタクに人気だ。
表題の「衣浦(きぬうら)臨海鉄道」」は、1975年に開業し、現在もディーゼル機関車によって知多半島を縦断し、東海地方の物流を支えている。半田線と碧南線がある。半田線は東成岩駅から半田埠頭駅までの3.4km、碧南線は東浦駅から碧南市駅までの8.2kmを結ぶ。
コンビニや駅の売店、自動販売機、どこでも気軽に飲めるコーヒーですが、集中力を高める効能があるカフェインは、大量に摂取すると中毒を起こし、最悪の場合、死亡するリスクもある。18世紀スウェーデンの王グスタフ3世は、コーヒーが毒だと信じていた。それを証明するべく、王は1人の殺人犯に死ぬまで毎日コーヒーを飲み続ける刑を科した。比較のため、別の殺人犯が毎日紅茶を飲む条件で釈放された。実験の監督と、検死の医師が2名雇われた。いの一番に死んだのは、医者だった。ついで王がストックホルムの劇場で反対派から銃で撃たれて死亡した。そして、殺人犯の1人が83歳で死んだ。紅茶を飲み続けた方の囚人だった。結局コーヒー有害説を立証できなかった。その後、コーヒーは世界中に普及していく。フランスの文豪バルザックは毎日50杯のコーヒーを20年間も飲み続けた。51歳で早逝したがコーヒー中毒ではなく過食による糖尿病が原因といわれる。彼によると「コーヒーを胃に入れると、脱兎のごとくアイデアが沸き上がるという」。
最近のある調査によると、コーヒーを1日に2杯から4杯飲む人は、まったく飲まない人よりも自殺する確率が50%も低くなるという。コーヒーを定期的に飲まないと頭痛がする、気分が落ち込むなどいう人がいるが、カフェインには緩やかな抗うつ剤のような役割があるらしい。
世界でいちばんコーヒーを飲んでいる国はどこ?コーヒー製品の国内供給涼をランキングすると、第1位はアメリカ、2位フィリピン、3位フラジル、4位日本、5位ドイツでした。もちろん人口割りの調査で比べと、北欧ヨーロッパも多い。
コーヒー党の有名人といえば、高倉健。松本清張は煙草もコーヒーもよく飲んだが天寿を全うしている。 世界一の長寿王ハビエル・ペレイラ翁はなんと167歳!(非公認)彼は長寿の秘訣を「くよくよせずにたくさんコーヒーを飲んでうまい葉巻を吸うことさ」といっている。この名言はコロンビアの記念切手に書かれている。(Javier Pereira)
生涯を旅の中に送った漂白の詩人といえば「奥の細道」の俳人・松尾芭蕉(1644-1694)を思いうかべるだろう。だが円空(1632-1695)という謎の僧も苦難の旅を生涯続けながら、10万とも12万ともいわれる多数の仏像を彫り続けた。円空は元禄8年7月15日に関市の弥勒寺で亡くなっているが、芭蕉も前年に世を去っているので、二人が旅の途中に出会っている可能性もある。だが二人の旅は対照的だったともいわれる。自己を追求した芭蕉に対して、円空は他者救済に自らの生涯を捧げた。富士川で芭蕉は捨て子に出会うが、食べ物を与えたものの、「汝の性のつたなきを泣け」と突き放して去っていく。円空は美濃の宿に泊まっていた。宿屋の主人は円空の身なりをみて、寒さしのぎの半纏を贈った。ところが円空は旅の途中で物乞いの女に出会いその半纏をあげただけでなく、持っていた金もすべて与えてしまった、という逸話が残されている。江戸時代初期、みちのくは未開の地という観があるが、円空は芭蕉よりもさらに遠く、北海道に渡り、2年ほど滞在している。芭蕉の旅にくらべ、円空の旅は想像を絶する過酷なものだったであろう。
1814年、北米捕鯨業の中心マサチューセッツ州ニュー・ベドフォード。海にあこがれを求めてやってきた、風来坊のイシュメールは「捕鯨館ピーター・コフィーン」に宿を求め、同室の銛打ちクィークェグと無二の親友になる。クィークェグは全身刺青だらけの蛮人だが案外の善人である。翌日イシュメールは、教会で昔は銛師だったマップル神父の説教を聴いた後、奇妙な男エリジャーの警告にも屈せず、老朽捕鯨船ピークォド号の乗組員に雇われる。船長の名はエイハブ。鯨骨の義足を不気味に響かせ、顔面に深い傷痕を持つ彼の姿には、威厳と共に何かしら陰惨な、物に憑かれたような感じがあった。彼は以前、モビィ・ディックと呼ぶ白鯨に片足をもぎ取られて以来、復讐の一念に凝り固まっていた。
今度の航海も目的は同じ。何も知らずに乗り組んだ荒くれ船員たちは、一日、彼の白鯨追跡宣言に驚いたが船長の狂熱ぶりに感染、賞金のスペイン金貨を得んものと夢中になる。唯一人理性を失わぬ一等運転士スターバックは、神を恐れぬこの行為に反対したが一蹴された。鯨群を追うピークォド号は、途中、ロンドンに船籍を持つサミュエル・エンダビイ号に出会う。船長のブーマーが白鯨を捕り逃したというと、エイハブは怒って彼を自分の船に追い帰す。やがて同じ捕鯨仲間のレイチェル号にもめくりあう。ガーデナー船長は、12歳になる息子を先日、海で見失い、血眼になって探し回っている。だが彼の協力の懇請も、エイハブには時間の浪費としか思えない。
数刻後、嵐が船を襲う。だが強風にもエイハブは帆を下ろせと命じない。怒ったスターバックとエイハブは豪雨の中に対立。だがエイハブの形相と白鯨への執念に、スターバックもたじろぐも、嵐は去る。
遂に宿敵のモビイ・ディックを発見し、4隻のボートが下ろされ、巨鯨との戦闘が開始される。しかしモビィ・ディックの背中へよじ上がり憎悪の銛をぶちこむ。エイハブは銛鋼の巻込まれ、怒り立った鯨もろとも、海中に姿を没する。ボートは白鯨の巨大な尾で砕け散り、スターバックが指揮するピークォド号も沈没。ただ一人生き残ったイシュメールは、クィークェグが船大工に作らせてあった棺桶の背で一昼夜を漂流した後、レイチェル号に救い上げられた。
*
あらすじを紹介すると、単なる海洋冒険小説のようだが、原作のすごさは、詳細な記述、作者の知識の豊富さに感心させられる。「白鯨」を皮肉って「鯨学講義」とか「捕鯨ハンドブック」と名づけてもよさそうな、詳細なものです。そして、鯨とは何かをめぐってありとあらゆる知識と思想をてんこもりにして、結局「わからん」というのだから始末が悪い。自分にはすべてがわかると信、科学で武装した唯我主義者エイハブの破滅に作家メルヴィルのいわゆる不可知論が反映されている。メルヴィルはカント以下のドイツ・ロマン派哲学の影響下に思いっきり、知と不可知をめぐる大哲学小説を書いた。文学には楽しませる面のほかに、「教える」という知的な面があって、その両面が面白い具合に絡まりあった時、長い年月や国境を越えて読み継がれる名作がうまれるのである。
18世紀末のフランスでは、流血をともなう革命によって、古い体制が打ち砕かれ、国民国家が誕生した。王政から共和政へ展開する政局は複雑である。革命前の国王政府は、けっして単純に反動的だったわけではない。むしろ、時代の要請にあった近代的な改革を試みようとしていた。1789年5月ルイ16世は反対する貴族に圧されて175年ぶりに三部会を招集した。1789年6月20日、農民・市民らの第三身分代表議員らがヴェルサイユ宮殿で「球戯場の誓い」を宣言。7月9日に憲法制定国民議会ほ制定。7月14日、パリの民衆は武装蜂起し、バスチーユ牢獄を襲撃した。これにより反革命軍来襲のデマとともに農民暴動と各都市の武装という無政府状態がはじまった。騒乱はただちにフランス全土に波及し、ヴェルサイユのルイ16世にも伝えられた。このときルイが「暴動か」とたずねると、側近は「いえ、陛下、革命でございます」と答えたと伝えられる。以後10年にわたって続くフランス革命の、これが始まりである。同年8月26日に人間の自由と平等、国民主権などを謳った「人権宣言」が採択された。
1932年公開の映画Le Quatorze Juillet(7月14日)の邦題が「巴里祭」だったことから、日本ではこの日を「パリ祭」と呼ばれるが、正式には「革命記念日」。バスティーユ牢獄は、14世紀シャルル5世のときパリ防衛の目的で築かれた要塞で、ブルボン朝のもとでは政治犯を投獄する牢獄として使用され、専制政治の象徴とみられていた。だが民衆がバスティーユを襲撃したのは、武器を得る目的であり、実際に解放された囚人は精神障碍者2人、文書偽造犯2人、非行貴族1人の計7人で、政治犯はひとりもいなかった。民衆は100人以上の死傷者を出しながらも、バスティーユを陥落させた。フランス語のbastilleは、要塞を意味する。要塞は革命後に解体され、痕跡は残っていない。現在はバイティーユ広場となっている。革命はロベスピエールらジャコバン派の恐怖政治を経て、テルミドールのクーデター(1794年)がおこり革命の嵐は10年間続くが、ナポレオンが国民の支持を得て、1799年11月9日、「プリュ―メル18日」のクーデターで政権を掌握する。フランス革命によって旧時代の地代生活者が没落し、新しい市民階級が登場する。(Fernch Revolution,Bastille、7月14日)
読売テレビの深夜ドラマ。マッチングアプリで知り合った健太と千尋。お互いをよく知らないまま夫婦になった二人は、毎週末のBBQでじっくり仲を深めていく。第2話に登場した料理は、イカやタコ・エビなどをたっぷりと混ぜ合わせた「アヒージョ」。原作はハナツカシオリの人気漫画。
ジャガイモは新大陸の発見によって、原産地ペルーからヨーロッパへともたらされた。ジャガイモは栄養価もあり、保存性もよく、人々の飢えを救う大切な食物である。ジャガイモはナス科ナス属、学名はソラヌス。芽にはソラニンというサリンに似た一種の神経毒素が含まれる。今年の7月9日、鳥取県八頭町で児童がジャガイモを調理して食べた後、腹痛を訴える食中毒が発生した。
1969年のロンドンの小学校で食中毒が起きた。夏休み中、ずっと給食室にあったジャガイモが誤って給食の食材に使われた。6時間後、78人が倒れ、17人が入院。うち3人が重態となった。嘔吐、痙攣、発熱。重い患者は昏睡状態に陥ることがある。2019年7月12日、宝塚市の小学校で校内で採れたジャガイモを食べた児童13人が軽い食中毒になった。ジャガイモの芽は恐ろしい。
今日は映画やドラマで知られる「水戸黄門」のモデルとなった徳川光圀の誕生日。どうして彼が「水戸黄門」「黄門さま」として庶民に親しまれてたのか知っている?当時は、老中や若年寄などの幕府の官職のほかに、京都の天皇からもらう官職があった。光圀が天皇からもらったのは、中納言という官職で、この別称が「黄門」である。つまり光圀だけでなく歴代の水戸藩主は全員水戸黄門である。広辞苑の説明によれば、「唐の門下省の次官である黄門侍郎の職掌に似ているからいう。中納言の唐名。」とある。映画やテレビでは助さん格さんを連れて旅に出たことになっているが、実際には、諸国はおろか、ほとんど旅に出ることはなかった。学問好きの光圀は「大日本史」の編纂事業に専念していた。(7月11日)
本日7月11日は「セブンイレブンの日」。コンビニエンスストアとは年中無休で長時間の営業を行い、小規模な店舗において主に食品、日用雑貨など多数の品種を扱う形態の小売店。略称は「コンビニ」。1927年、アメリカのテキサス州オーククリフという小さな町でコンビニ「サウスランド社」が誕生した。創業者は当時26歳だったジョー・トンプソンという青年だった。日本でのコンビニは1974年に東京豊洲店がセブンイレブン第1号。翌年にはローソンも開業した。1983年ころ全国に7000店舗しかなかったコンビニは現在は5万店舗を超えている。
「コンビエンスストア conveience store」「便利なお店」「コンビニ」という言葉は、いつ頃から使われるようになったのか?レファレンス協同データーベースの事例を読むと、言葉としての「コンビニストア」の初出は日経テレコム21で、1976年にみられるものの、現代用語の基礎知識が1990年版から掲載されていることなどから、「1990年代初めにはコンビニという表現がかなり一般化してくる」という結論を下している。確かに下図の店舗数の推移をみても90年代がコンビニ業界の成長期とみるのは正しい。
だが私の記憶では、都市部ではこれより早く店舗が増加し、社会に定着してきたような感じがする。セブンイレブンだけの推移をみると、1980年に1000店舗となり、1984年に2000店舗、1987に年に3000店舗、1990年に4000店舗に到達している。1986年にはドラマ「深夜にようこそ」(山田太一脚本)全4話が放送されている。コンビニは80年代に日本各地に浸透していった。
ぼくらの少年発明王
いつも明るい えがおの中に
輝くひとみも いきいきと
ゆめはとぶとぶ 宇宙のはてへ
そこから生れる大発明
子どもの頃みたフジテレビ系の番組「少年発明王」(昭和36年)、上高田少年合唱団が歌う主題歌を聞くと「チキンラーメン」の記憶とダブってくる。おそらく日清食品の提供だったと思う。同じ頃、映画館で家族全員でみた石原裕次郎主演の映画「堂堂たる人生」。倒産寸前の玩具会社をアイデアで若いサラリーマン中部周平(石原裕次郎)が救うという物語。風邪で寝込んだ中部の下宿先に同僚OLの石岡いさみ(芦川いづみ)が見舞いに来て、チキンラーメンをつくるシーンが印象的であった。
つまりケペルの子供時代、インスタントラーメンがようやく家庭に普及した頃で、チキンラーメン1袋35円だった。「少年サンデー」が40円の時代であるから、少し高い値段であろう。「少年サンデー」といえば、あの頃「おばけのQ太郎」に頻繁に登場する眼鏡でパーマをかけた小池さんという人も何故か必ずラーメンを食べていた。
このように子供にとってラーメンは大人気の食品であったが、明治生まれのオヤジは何故かラーメンといわず「支那そば」といっていた。国鉄のことを大人は「省線」(戦前は鉄道省だった)といったのは素直に理解できたが、ラーメンを「支那そば」と呼ぶことには抵抗感があった。
ところでラーメンの「ラー」って何か?中国語の拉麺がそのままラーメンになったというのが定説である。そもそも「拉麺(ラーミエン)」とは、中央アジアの麺・ラグマンが語源である。明治33年頃、浅草の来々軒は中国料理だったが、なかでも「支那そば」「南京そば」と言われた中華麺は人気だった。そこに王文彩というロシア革命の亡命料理人が、手延べでさっさと麺をつくり、「ラーメン」と称した。
だがラーメンの語源は諸説あり、これよりのちの大正10年、北海道大学の前の竹屋食堂の大久タツが中国風の麺を出した。好了(ハオ・ラー)=料理ができた、とロースーメン(肉絲麺)の合成語、これをもって日本でのラーメンの発祥とする説もある。(NHK番組「チコちゃんに叱られる」)番組によると、タツさんが支那という差別的なニュアンスのある言葉を、中国人留学生に聞かせたくないという食堂のおかみさなの優しさから、ラーメンという呼称が考えられたという。
大正期には、夜鳴きそば、夜鳴きうどんを真似て、チャルメラを鳴らしながら町々を周る屋台が全国で現れるようになった。ラメーンの具材には、チャーシュー、メンマ、ネギ、のり、コーン、ナルト、焼豚などが一般的である。
しかしながら、戦前においては、「ラーメン」は店で食べるもので、一般的には「支那そば」「シナソバ」「中華ソバ」という呼び名が普通であった。『日本の味探求事典』(東京堂)によれば、「ラーメンという言葉が初めて使われたのは、昭和25~27年頃である」とある。かなり断定的に年代を決めているのは、おそらくその頃、ラーメン屋が急激に増加したのであろう。「ラーメン」という言葉そのものは、昭和5年の「モダン辞典」に「ラーメン(食)支那そば」と記載されている。
つまり、昭和25年以降は、「ラーメン」は「支那そば」「中華そば」と同じように用いられていた。しかし、昭和33年8月、安藤百福が日清食品を設立し、チキンラーメンの名で発売するや、爆発的な売れ行きとなった。これによって「ラーメン」という呼び方が一般的になったということはいうまでもないであろう。(7月11日)
保元2年(1156年)のこの日、保元の乱おこる。後三条天皇は子の白河天皇に位を譲って院庁をおいたが、病気のため早く亡くなった。その意志を受け継いだのが白河天皇であり、1086年、弟の輔仁親王への皇位継承を嫌ってにわかに幼少の堀河天皇に譲位したのち、上皇として院庁を開き、ついで天皇を後見しながら政治の実権を握る院政を行うようになった。やがて堀河天皇の死後には、白河は孫の鳥羽を天皇に据えて、本格的な院政を開始することになった。このような院政は、もともと自分の系統に皇位を継承させようとするところから始まったもので、白河上皇のあとも、鳥羽・後白河上皇と3上皇の院政が100年余り続き、法や慣習にこだわらずに、上皇が政治の実権を行使した。院政のもとでは院庁から下される文書の院庁下文や、上皇の命令を伝える院宣が権威をもつようになり、朝廷の政治に大きな影響力を与えるようになった。保元・平治の乱を通じて、貴族社会内部争いも武士の力で解決されることが明らかとなり、武家の棟梁としての平清盛の地位と権力は急速に高まった。(7月11日)
本日は、文政4年のこの日、「大日本沿海輿地全図」が完成し、幕府に献上した日である。彎窠羅針(わんからしん)とは、伊能忠敬が大日本沿海輿地全図を作成すめために自ら発明した方位磁石が付いている杖のこと。深川八幡宮にある忠敬銅像の右手に持っている杖のこと。(7月10日)
参考:伊能忠敬の科学的業績」保柳睦美編著 古今書院 1974
本日は納豆の日。よく煮た大豆を納豆菌で発酵させた食品が納豆である。納豆を入れた縄文土器が出土しており、日本人が古くから大豆を蛋白源として利用していたことがわかる。縄文人が何と呼んでいたか明らかではないが、後漢の中国では「豉(し)」と文献にある。平安朝の「和名抄」に「クキ」と見える。平安時代、寺院の納所(納屋)に置いていた豆が発酵して美味しかったので、売り出され、それが「納所の豆」と言われ納豆という語が生まれた。もともと納豆がよく食べるようになったのは山国である京都の人が最初であり、昔から納豆が作られ食されてきたが、江戸時代になって江戸で納豆が大流行した。早食いものが江戸っ子の気性に合っていたらしい。紀州田辺藩の原田某が書き記した随筆「江戸自慢」(安政年間成立か)の中で、「江戸に烏の鳴かぬ日はあれど、納豆売りの来ぬ日はなし」とある。このように江戸の町では、毎朝、夜明けと共に納豆売りが長屋の隅々までやってきたのである。納豆といえば水戸の名産が有名だが、意外と新しく明治になってからのことである。笹沼清左衛門が明治22年、天狗納豆を水戸駅で売り始め評判となった。(7月10日)
磐越線とは、JR東日本の磐越東線、磐越西線を含む、いわき駅・新津駅間の鉄道路線の総称である。磐越東線は、いわき駅から阿武隈山地を横断、小野新町駅・三春駅を経て郡山駅に至る。磐越西線は、郡山駅から会津若松駅を経由して新潟県の新津駅に至る。
元禄3年のこの日、5代将軍徳川綱吉によって湯島聖堂が建てられた。喜怒哀楽は人間の本来誰しもが持っている感情である。ただ、これに振り回されると、道義を見失うことがある。孔子も本当は激しく感情的な人であったかもしれない。弟子の顔回が死んだとき、「ああ、天はわれをほろぼした」と嘆き悲しんだ。喜怒哀楽に関しては『中庸』にふれている。「喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂う。発して皆な節に中る、之を和と謂う。中なる者は、天下の大本なり。和なる者は、天下の達道なり。中和を致して、天地位し、万物育す」とある。考えや行動などが1つの立場に偏らず中正であり、過不足なくさりとて単純に中間をとればよいというのではなく、極端にならないことがよい。(黄紹祖「孔子之喜怒哀楽」 1987年)7月9日
日本軍の南方の防衛線であったマリアナ諸島のサイパンは、昭和19年6月15日にはアメリカ軍が上陸し、日本軍との激しい戦闘となった。7日、日本軍守備隊は玉砕し(バンザイ突撃)、2日後の7月9日、サイパンの日本軍部隊は完全に全滅した。同島に航空基地を確保した米軍は、日本本土への本格的な空爆を開始する。
太平洋戦争中、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦など主要な海戦の指揮をとった南雲忠一の名前は広く知られている。真珠湾作戦での詰めの甘さを指摘されることが多いが、南雲の最期についてはあまり語られることは少ない。サイパン迎撃作戦の指揮をとり7月6日に自決した。(一説に翌7日)。国立国会図書館憲政資料室には南雲忠一文書として日記、ノート等6点が収蔵されている。(参考:児島襄「悲劇の提督」)
昭和12年7月7日、北京西南の盧溝橋で起きた日本軍と中国軍との衝突事件は、もともとは銃が聞こえただけの小事件だった。陸軍参謀本部作戦課長の河辺虎太郎(1890-1960)の元に届いたのは8日早朝のことだった。「厄介なことが起こったな」それが軍務課長・柴山兼四郎の電話の第一声だった。第三課長・武藤章は「愉快なことが起こったね」と言っていた。一方はこれを何かもみ潰しをしなければならなぬという風に思い、一方では此奴は面白いから油をかけて燃やそうという気持ちの違いがある。(「河辺虎太郎少将回想応答録」)不拡大派と拡大派の対立を象徴するような言葉だった。小事件が全面衝突に発展して、日本が破滅への道を歩んだのは、後の歴史が語る通りである。このとき第1連隊長として攻撃命令を行い指揮を取っていたのは、のちにインパール作戦で多くの部下を餓死させた牟田口廉也である。
盧溝橋事件を契機に起こった日中戦争は国家総力戦となり、政府による国民の戦争への総動員と国家総動員法をてことする戦時統制経済への移行が強力に推進された。昭和14年9月に第二次世界大戦が勃発すると、日本は不介入を声明したが、翌年には日独伊三国同盟を結んで米英との対立を深め、国内では大政翼賛会を結成し、ファシズム体制を成立させた。昭和16年12月、日本は真珠湾攻撃を行いアジア・太平洋戦争へと突入した。
本日は七夕(たなばた)。本来は「しちせき」と読むのが正しい。七夕の日が雨だと牽牛と織女が会えないという伝説がある。だが韓国のチルソクではちょっと違う。この日2人は会う。流す嬉し涙。そして2日間夜に雨が続けば、別れを惜しむ涙といわれている。
7月7日の夜に牽牛と織女が天の川で会うという伝説がいつごろ成立したかは明らかではない。牽牛、織女の星名は「詩経」に見えるが、ここではまだ恋物語として扱われていない。七夕伝説は、傳元(217-278)の「擬天問」や文選に引かれた漢代の古詩に、天の川の女が機を織りながら牽牛星を想い雨のように涙を流すという故事がある。つまり牽牛織女の説話はすでに漢代にラブロマンスの原型が成立していたと考えられる。唐の時代には七夕の行事が宮中で盛大に行なわれていた。日本にも8世紀には伝来している。古事記には「多那婆多」と見える。万葉集に「たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ」の歌が見える。笹に歌や文字を書いた短冊を吊るして手習いの上達を祈る風習は、中国の乞巧奠(きこうでん)という習俗に由来している。
第13代将軍徳川家定が倒れたのは安政5年6月25日であるから、死の11日前である。この日は諸大名に総登城が命ぜられ、紀州慶福(7月21日家茂と改名)を世嗣に決定した旨の発表があり、そのお広めとして慶福以下に御対顔があったその日である。家定はそのあと急に工合が悪くなり、当時大奥に勤めていた佐々鎮子の話によると、松の廊下から人につかまってお出になったという。そしてそのまま回復を見ず、7月6日申の下刻(午後5時)亡くなった。数え年35歳である。死因はコレラという説もある。
家定は12代将軍・家慶の三男で、「幼少にて重き疱瘡に罹り給ひ、満面の痘痕に醜くなららせれ、且病身がちなる上、俗に謂ゆる癇症にて、眼口時々痙攣し、首また之に従い、一見笑ふべき奇態を為し、言語も亦やや訥して吃るが如くなりけり」(「徳川慶喜公伝」)といった気の毒な生立ちで、成人するとその癖を恥じて人に会うのを厭い、「御簾中は前後三人まで迎へられしかど、曽て男女の語らひもなら」ざる状態で、ひどい抑鬱症に陥っていたらしい。大河ドラマ「篤姫」で家定を好演した堺雅人と原作者の宮尾登美子が文藝春秋で対談している。それによると宮尾登美子は家定の癇症を水銀中毒だったとしている。「徳川家に限らず、貴族の奥さんは自分で子供を育てずに、乳母を雇って、お乳を飲ませます。その乳母が厚塗りのお化粧をしていて、赤ちゃんが舐めるんですよ、白粉を」そして宮尾は「(家定は)さほど暗愚じゃなかった」と言っている。
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
いまの若い人でこの歌を知らない人はいない。国語の教科書に載ったからである。日常の何気ない一瞬を綴った俵万智の短歌集「サラダ記念日」。歌集としては200万部が売れ異例のミリオンセラーとなった。あの本の初版されたのが1987年5月8日である。もう37年も前のことである。現役高校生には、すでに国語の教科書にある古典なのかもしれない。先日、若い人が俵万智ってもう死んでいる人かと思った、といっていた。教科書にのる人は故人が多いので勘違いしたのだろうが、若い人に「わかりやすく、親しみやすく、興味をもたせる」ように新しい短歌の代表として載せているのだろう。100年後の日本文学史に確固たる位置を示すかどうかはわからない。万智は震災後、仙台から石垣島へ移住し、そして現在は宮崎市に住んでいる。歌集のタイトルにもなったこの歌は、当時の恋人と広島カープの野球観戦に行って持参した手作り弁当を褒められたことから着想を得ている。つまり、美味しいと言われたのはサラダではなく唐揚げ、そして7月6日じゃないそうです。
天正10年1月、九州のキリシタン大名大村・大友・有馬の三侯は、宣教師バリニャーニの勧めによりローマ法王グレゴリー13世とイスパニア国王のもとに4人の少年使節団を派遣した。しかし、この年6月、本能寺の変がおこる。天正12年7月5日、伊東マンショ(満所)、千々石ミゲル(清左衛門)、中浦ジュリアン、原マルチノらはポルトガルのリスボンに到着した。天正13年2月22日、ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見する。使節の少年たちは14,15歳であったが、いずれも礼儀正しく馬上豊かに胸を張って町を歩いたので、人々の驚嘆を浴び、法王や国王にも好印象を与えた。8年後帰国した時は、すでにキリスト教禁制で少年たちの活動の場はなかった。しかし、日本とヨーロッパを結ぶ役割を果たしたことは重要である。それからの4人の人生は過酷なものであった。伊東マンショは43歳で病死した。中浦ジュリアンは逆さ吊りの刑で殉教した。原マルチノは追放されマカオで死んだ。千々石ミゲルは唯一棄教したといわれる。だが近年お墓が発掘され棄教していないという説もある。
「う」から発音する外国人名は「ウィリアム(William )」が圧倒的に多い。シェイクスピア、シェンストン、コリンズ、クーパー、ブレイク、ワーズワース、ブライアント、イェーツ、バーンズ、コーリなど詩人だけで10指を数える。米国大統領にはハドソン、マッキンリー、タフトがいる。ビル・ゲイツの父の名前もウィリアム。▽「ヴィクトール・フランクル」1905-1997。オーストリアの精神科医。「夜と霧」(1946)はナチス強制収容所での体験を元にしたもので世界的なベストセラーとなった。▽ウィリアム・アーチャー(1856-1926)はイギリスの劇評家。▽「ウィリアム・ケムラー」1860-1890。1890年に世界で初めて電気椅子による死刑で執行された死刑囚。▽「ウィリアム・ゴールドマン」米国映画脚本家。「明日に向かって撃て」。▽山川出版社の「詳説世界史」2006年版まではオマル・ハイヤームだったが、2007年版からウマル・ハイヤームとなった。▽「ウィリアム・カレン・ブライアント」1794-1878。アメリカの詩人。清教徒的倫理観と自然愛とをうたった。詩「水鳥へ」「森の聖歌」。▽「ウィリアム・シャーマン」1820-1891。南北戦争時の北軍の軍人。▽「ウィリアム・ダンピア」1651-1715。イングランドの海賊。オーストラリア、ニューギニアを最初に探検したイギリス人。▽「ウィリアム・トラビス」1809-1836。アラモの砦の戦いはデビー・クロケットやジェームズ・ボーイは有名であるが、砦の守備隊長トラビスを知る日本人は少ない。アメリカ人にとつてはTravisの名前は常識である。▽「ウィリアム・ブース」1829-1912。イギリスのメソジスト説教者。救世軍の創立者。▽「ウィリアム・マーチ」1893-1954。アメリカの小説家。代表作「K部隊」「ドアから入れ」「鏡」「悪い種子」など。▽「ウィリアム・モーリス・デーヴィス」1850-1934。アメリカの自然地理学者。1899年に、地形の浸食輪廻を唱えた。▽「ヴィルヘルム・ビヤークネス」1862-1951。ノルウェーの気象学者・海洋学者。▽「ウォルター・ウェストン」イギリス人宣教師・登山家。「日本旅行記」などの著作で日本の山を世界に紹介した。▽「ウゲン・ワンチュク」1862-1926。初代ブータン国王。▽「ヴワディスクフ・レイモント」1824-1867。ボーランド小説家「喜劇女優」。▽「ヴィ」「ヴォ」など濁音は清音「ウ」として配列する。ビルマ人は男性に対する敬称として「ウ(U)」をつける。ウー・タント、ウー・ヌの正しい名前は「タント」「ヌ」である。
ヴァージニア・アクスライン
ヴァージニア・ウルフ
ヴァシリイ・カンディンスキー
ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン
ヴァーツラフ・ニジンスキー
ヴァルター・ラーテナウ
ヴァレリー・ゲルギエフ
ヴァレリー・ジスカール・デスタン
ヴァレリー・ラルボ
ウァレンティニアヌス1世
ヴィヴィアン・フックス
ヴィヴィアン・リー
ヴィヴィカ・リンドフォース
ヴィクター・アイゼンメンゲル
ヴィクター・フレミング
ヴィクトリア・アダムズ
ヴィクトール・エミール・フランクル
ヴィクトル・エリセ
ウィスタン・ヒュー・オーデン
ヴィチェンツォ・ペルージャ
ヴィッサリオン・べリンスキー
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
ヴィットーレ・カルパッチョ
ウィトルド・ゴンブローヴィッチ
ウィノナ・ライダー
ウィリー・ブラント
ウィリー・メッサーシュミット
ウィリアム・アサートン
ウィリアム・アダムズ(三浦按針)
ウィリアム・アーチャー
ウィリアム・アリンガム
ウィリアム・ウォルトン
ウィリアム・ウォレス
ウィリアム・エインズワース
ウィリアム・H・メーシー
ウィリアム・エウォート・グラッドストーン
ウィリアム・S・バロウズ
ウィリアム・オートレッド
ウィリアム・オールド
ウィリアム・カット
ウィリアム・カレン・ブライアント
ウィリアム・キッド
ウィリアム・ギブソン
ウィリアム・キャヴェンディッシュ
ウィリアム・キャクストン
ウィリアム・キャヴェンディッシュ・ベンティンク
ウィリアム・ギャンブル
ウィリアム・ギルバート
ウィリアム・クーパー
ウィリアム・クライン
ウィリアム・グラッドストン
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ウィリアム・グレンヴィル
ウィリアム・ケムラー
ウィリアム・ゴドウィン
ウィリアム・コベット
ウィリアム・コーリ
ウィリアム・コリンズ
ウィリアム・ゴールディング
ウィリアム・ゴールドマン
ウィリアム・サマセット・モーム
ウィリアム・サローヤン
ウィリアム・G・モーガン
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ウィリアム・ジェイムズ
ウィリアム・ジェファーソン・クリントン
ウィリアム・ジェームズ
ウィリアム・ジェームズ・デュラント
ウィリアム・シェンストン
ウィリアム・シャトナー
ウィリアム・シュテルン
ウィリアム・ショックレー
ウィリアム・ジョージ・アストン
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ウィリアム・スタージャン
ウィリアム・スミス
ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ
ウィリアム・ダイス
ウィリアム・タフト
ウィリアム・ダンピア
ウィリアム・ティンダル
ウィリアム・テカムセ・シャーマン
ウィリアム・テル
ウィリアム・トラビビィス
ウィリアム・ハーヴェ
ウィリアム・パウエル
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ウィリアム・ヒ―リス
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ウィリアム・ボーイング
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ウィリアム・ホールデン
ウィリアム・ボールドウィン
ウィリアム・マーチ
ウィリアム・マッキンリー
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ウィリアム・モリス
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ウィリアム・ラッセル
ウィリアム・リーヒ
ウィリアム・リンク
ウィリアム・ロウズ・カリー
ウィリアム・ローワン・ハミルトン
ウィリアム・ワイラー
ウィリアム・ワトソン
ウィリアム・ワンデル
ウィル・スミス
ウィル・フェレル
ウィルソン・キプサング・キプロティチ
ウィルフレッド・オーウェン
ヴィルヘルム1世(ヴュルテンベルク王)
ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝)
ヴィルヘルム・ヴィンデルバント
ウィルヘルム・ヴント
ウィルヘルム・エドゥアルト・ウェーバー
ヴィルヘルム・エルサレム
ヴィルヘルム・クリスティアン・ルートヴッヒ・ディルタイ
ヴィルヘルム・グリム
ヴィルヘルム・ディルタイ
ヴィルヘルム・ビヤークネス
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
ヴィルヘルム・リープクネヒト
ウィルヘルム・ルー
ウィルヘルム・レントゲン
ヴィルヤルマー・ステファンソン
ウィレム・アイントホーフェン
ウィレム・カルフ
ウィレム・クラース・ヘダ
ウィレム・デ・クーニング
ウィレム・デフォー
ウィレム・ヤンスゾーン
ウィンストン・チャーチル
ウーヴェ・ヨーンゾン
ウェズリー・スナイプス
ヴェパシアヌス
ヴェラ・チャフラフスカ
ウェルギリウス
ウェルキンゲトリクス
ヴェルナー・カール・ハイゼンベルク
ウェルナー・ハイゼンベルク
ヴェルナー・フォン・ブラウン
ヴェロニカ・ゲリン
ヴェロニカ・レイク
ヴェンセスラウ・デ・モラエス
ウェントワース・ミラー
ウォード・ボンド
ウオラス・ヒューム・カロザーズ
ウォールタ・サヴィジ・ランダー
ウォルター・ウェストン
ウォルター・エドモンズ
ウォルター・オマリー
ウォルター・クライシス
ウォルター・スコット
ウォルター・デ・マリア
ウォルター・バジョット
ウォルター・ピジョン
ウォルター・ヒューストン
ウォルター・ブレナン
ウォルター・ホイットマン
ウォルター・マッソー
ウォルター・ラング
ウォルター・リップマン
ウォルター・ローリー
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
ウォルフガング・オストワルト
ヴォルフガング・カップ
ウォーレ・ショインカ
ウォーレス・カロザース
ウォーレン・エドワード・バフェット
ウォーレン・オーツ
ウォーレン・トムソン
ウォーレン・ハーディング
ウォーレン・ビーティー
ウォーレン・へースティングス
ウォレス・ハリソン
ウォロディミル・オレクサンドロヴィチ・ゼレンスキー
ウゲン・ワンチュク
ウゴ・チャベス
ウサイン・セント・レオ・ボルト
ウサーマ・ビン・ラーディン
ウジェーヌ・イヨネスコ
ウジェーヌ・ドラクロワ
ウージェーヌ・フロマンタン
ウスタッド・アーマド・ラホーリ
ウッディー・アレン
ウッディー・ストロード
ウッディー・ハレルソン
ウッドロー・ウィルソン
ウッドロー・ハーディング
ウーピー・ゴールドスミス
ウーマ・サーマン
ウマル・イブン・八ッターブ
ウマル・ハイヤーム
ヴャチェスラフ・モロトフ
ウラジーミル・メニショフ
ヴランスラフ・ヴァンチュラ
ウラディーミル1世
ウラディーミル・アシュケナージ
ウラディミール・ウラジミロヴィッチ・プーチン
ウラディミール・ウラジミロヴィッチ・マヤコフスキー
ウラディミール・タトリン
ウラディミール・ツヴォルキン
ウラディミール・ペーター・ケッペン
ウラディミール・ナボコフ
ウラディミール・ホロヴィッツ
ウラディミール・マヤコフスキー
ウラディミール・ラモン・バレンティン
ウラディミール・レーニン
ヴラド・ツェペシュ
ウラル・アレクシス・ジョンソン
ウルスラ・アンドレス
ウルスラ・グラス
ウルフ・ステファンテ・フォン・オイラー
ウルリヒ・ツヴィングリ
ウルリヒ・フォン・フッテン
ヴワディスワフ2世ヤギェウォ
ヴワディスクフ・レイモント
ウワディスワフ・シュピルマン
ウンベルト1世
ウンベルト・エーコ
ウンベルト・ノビレ
ウンベルト・ボッチョーニ
1821年6月21日、カラボボの戦いでシモン・ボリバル率いる反乱軍がスペイン軍に勝利、ベネズエラの独立が決定した。独立記念日は1811年に独立宣言をした7月5日。日本人が知っているベネズエラ人といえば、シモン・ボリバルとチャベス大統領、それに元巨人、横浜DeNAにいたラミレスくらい。革命と石油の国というイメージ。だが最近はミス・ユニバースでいつもベネズエラ女性が活躍しているので美人の国というイメージがある。ベネズエラは観光誘致のために、ミス・コンテストが盛んで小学生のときから美を競わせて、美人の育成に努めているという。2013年、チャベス大統領死去。現在、ニコラス・マドゥロ大統領。世界一治安の悪い国といわれ、暴動が多発している。経済危機で物不足が深刻である。
国名は通称ベネズエラだが正式には「ベネズエラ・ボリバル共和国」という。シモン・ボリバルの名前がつくようになったのは1999年から。世界で国名に人名が付くのはめずらしいが、ベネズエラと中米ニカラグア(酋長ニカラオに由来)くらいだろうか。
Republica Bolivariana de Venezuela ,Carabobo
本日は「ビキニスタイルの日」。昭和21年、ルイ・ルアール(1897-1984)が、パリで世界で最も小さい水着として、ビキニスタイルの水着を発表した。発表の4日前にアメリカがおこなったビキニ環礁(マーシャル諸島)での水爆実験になぞらえて「衝撃的」という意味で命名した。だが当時は、乳房を覆う部分がずれ落ちることが多くて、まだまだ着用する女性はいなかった。1950年代のハリウッド女優たちの水着姿をみてもビキニはあまりない。アメリカでは1960年代まで一般のビーチでの使用は禁止されていた。日本でもビキニは1950年代に紹介されたが、ほとんど普及しなかった。1960年に田代みどりのカヴァー曲「ビキニスタイルのお嬢さん」がヒットすると、ビキニへの関心が高まった。
1960年代になるとラクウェル・ウェルチ主演の映画「恐竜百万年」でビキニのような衣装が話題となり、ビキニが世界的に流行し、70年代日本ではハワイからアグネス・ラムが来日し、グラビア界に登場するや爆発的な人気となった。1980年、ミノルタカメラのCMで宮崎美子が木陰でTシャツとGパンを脱いでビキニ姿になり話題となった。(Bikini,Louis Reard,ルイ・レアード,7月5日)
ブリジッド・バルドー(当時17歳)の「ビキニの裸女」(1952)は先駆的なビキニ・スタイルである
インデペンデンス・デイ。1776年7月4日にフィラディルフィアの第2回大陸会議によって東部13州の代表たちはアメリカ独立宣言を議決した。1584年イギリスの探検家ウォルター・ローリーがノースカロライナのロアノーク島に到着したのもこの日だった。処女王エリザベスにちなんでヴァージニアと名づけた。(一説では7月14日)。 だがこの祝祭日の7月4日は、ジョン・アダムス(第2代大統領)、トマス・ジェファーソン(第3代大統領)、ジェームズ・モンロー(第5代大統領)たち3人の大統領が、偶然にも同日に他界している。数字がもたらす奇妙な一致である。(Independence Day,Philadielphia,Sir Walter Raleigh,Roanoke,Virginia,synchronicity)
宝永6年のこの日、第6代将軍・徳川家宣の四男・鍋松が生まれた。生母は喜世、のちの月光院。鍋松は正徳3年に第7代将軍に就任したが、正徳6年にわずか8歳で死去した。史上最年少で任官し、また史上最年少で死去した征夷大将軍である。幼少であったので、幕政の実権は側用人の間部詮房が握っていた。室鳩巣の手紙によれば、聡明仁慈でふるまいも静かで上品だったという。家継の死によって秀忠の流れの男系男子は途絶えた。(7月3日)
本日は「ソフトクリームの日」。昭和26年のこの日、明治神宮外苑で行われたアメリカ独立記念日を祝う進駐軍主催のカーニバルの模擬店で、日本で初めてソフトクリームが販売された。正式には「ソフトアイスクリーム」という。ふつうのアイスクリームに比べ、食感がやわらかくて、子どもや若い女性に人気がある。コーンカップの上にのせた渦巻状のアイスクリームは戦後からのものだが、シャーベットのアイスクリームそのものは明治からすでにあった。「銀座の函館屋という、食料品店、その奥が今で言う喫茶部になっていて、そこで喰ったアイスクリームを覚えている。小さなガラスのコップに、山盛りになっている。そのアイスクリームの山のてっぺんから少しずつ舐めて行く時の悦び。明治40何年ぐらいの、銀座だった」と古川緑波は書いている(甘話休題)。7月3日
カルピスの創業者・三島海雲は、明治11年のこの日、大阪府豊島郡下萱野村(現・箕面市)に生まれた。大正8年、乳酸菌飲料カルピスを発売した。100年以上の歴史を持つが、戦後の一時期、あまり飲まれない時期もあった。山口瞳の小説に「昭和の日本人」がある。「カルピスという飲料がある。いま、東京銀座の表りの喫茶店でカルピスを飲ませる店は、ほとんど、ない。あつたとしてもカルピスをオーダーするときは、ちょっと気後れを感ずる。」と記されている。昭和37年発表の短編で、高度成長期、コーラやジュースなどの他の飲料に押されて営業不振の時期があった。しかし実際のカルピスの売れ行きは令和5年の現在まで、日本人に飲まれ続け流行遅れでも古さを感じるでもなくロングセラー商品として定着している。
大正13年、カルピスの広告でパナマ帽を被った黒人がストローでカルピスを飲んでいるマークが現れた。だが平成元年には差別思想につながるとしてこのマークは廃止された。(7月2日)
本日は「たわしの日」。かつてどこの家庭の台所でもみられた「亀の子たわし」。棕櫚などの繊維を短く切り揃えて、楕円形に束ねたブラシ。焦げついた鍋の底をゴシゴシこするのによいが、ステンレス製を擦ると傷がつくのが最大の欠点。最近は合成のスポンジたわしに洗剤を染み込ませて洗浄するようになったので「亀の子たわし」は台所から消えてしまった。だが身近な日用品「亀の子たわし」は日本発明史の金字塔といわれる。1908年、東京の醤油屋の奉公人、西尾正左衛門(画像)が樽の掃除のために考案した。1915年7月2日、「束子」として特許を取得した。だが昭和の後半には束子はテレビ番組「関口宏の東京フレンドパーク」のダーツの外れの景品となった。これによって、束子が一番低級品の商品という印象を国民に与えてしまった。水切りの簀子を洗うときなど便利なものだと思うが。
一方のダーツの起源を知っているだろうか?ダーツとは、ダーツボードと呼ばれる円形の的から、一定の距離から手投げの矢を投げ、得られた得点により優劣を競う射的競技である。15世紀後半、イギリスのバラ戦争の時代、酒場にたむろしていた兵士たちが、余興でワイン樽めがけて矢を放つようになったことがダーツの起こりと言われている。戦争が続くにつれて木樽がなかなか手に入らなくなると、大木を切って作られる丸太が樽の代用品として使われるようになった。丸太には年輪があるので、それを利用してゲーム性がさらに高まった。1896年にブライアン・ガムリンによってボードに番号をつけて点数配置が考案され、ダーツはスポーツとして一気に広まったいった。
本日は「うどんの日」。香川県地方では半夏生にうどんを食べて、労をねぎらう風習があったことに由来している。 うどんは韓国語でもウドンと発音する。韓国語の70%以上は漢字で表記される言葉であり、音読みすると日本語と共通する。「約束」「家族」「正直」「記憶」「温度」「酸素」「詐欺」などは韓国でも同じ発音である。近代日本において西洋の語彙を漢語を使用して新語を作ったが、朝鮮もそのまま単語を移入したケースが多くみられる。たとえば「図書館」は「トソグァン」と発音する。学術、教育、科学関係などの言葉は日韓が共通する単語が多い。韓国語の中に残っている日本語には「うどん」「たくあん」「おでん」「もなか」など日常的な食べものが共通する発音なのは35年にわたる日帝時代のなごりをとどめるものである。日本語と発音が似ている韓国語を集める。(7月2日)
教室 キョシル
家具 カグ
道路 ドロ
高速 コウソク
都市 トシ
地理 チリ
有料 ユリョ
無料 ムリョ
無理 ムリ
無視 ムシ
余裕 ヨユ
理由 イユ
家族 カゾㇰ
民族 ミンゾク
満足 マンゾク
科目 クァモㇰ
算数 サンスウ
詐欺 サギ
鞄 カバン
時間 ジカン
時期 シギ
人気 インキ
記憶 キオク
気分 キブン
気力 キリョク
茶 チャ
計算 ケイサン
調味料 チョミリョ
料理 ヨリ
住所 ジュソ
住民 ジュミン
市民 シミン
難民 ナンミン
基本 キボン
寄付 キブ
温度 オンド
運動 ウンドン
簡単 カンタン
酸素 サンソ
準備 ジュンビ
道具 ドグ
感動 カㇺドン
瞬間 スンガン
記者 キ゚ジャ
歌謡 カヨ
歌手 カス
運命 ウンミョン
高校 コキョ
遊園地 ユウォンジ
1918年のこの日、児童文芸誌「赤い鳥」が創刊された。北原白秋は明治42年に「邪宗門」、明治44年に「思ひ出」を刊行し、20代の中頃に詩人としての地位を確立していた。「赤い鳥」に協力して、創作童謡を誌上に発表したのは白秋34歳の時だった。これらの童謡の多くは、成田為三によって曲がつけられ、今も日本の叙情歌として歌いつがれている。(7月1日)
*
雨 (曲・成田為三)
雨がふります。雨がふる。
遊びに行きたし、傘はなし、
紅緒のお下駄も緒が切れた。
*
赤い鳥小鳥 (曲・成田為三)
赤い鳥、小鳥、
なぜなぜ赤い。
赤い実をたべた。
*
あわて床屋 (曲・山田耕筰)
春は早うから川辺の葦に、
蟹が店出し、床屋でござる。
チョッキン、チョッキン、チョッキンナ。
*
ちんちん千鳥 (曲・成田為三)
ちんちん千鳥の啼く夜さは
啼く夜さは、
硝子戸しめてもまだ寒い
まだ寒い
(注)今日、私たちがよく知る曲は、成田為三ではなく、近衛秀麿の作曲である。
カナダは、世界でロシアに次いで2番目に大きい国で、その面積は998.5万平方㎞です。(日本の面積の26.4倍) 1864年、ケベック決議が採択されイギリスの4つの植民地が連邦を結成してカナダとなった。そして1867年7月1日、イギリス連邦カナダ自治領が成立した。これを記念して毎年7月1日はカナダ建国記念日とされている。カナダの探検はフランス人が始まりで、16世紀はカナダの一部はフランス領であったが、1763年のパリ条約によりフランスからイギリスへ割譲された。カナダという国名は、1535年、インディアンのイロコイ族のカナタ(Kanata=小屋の集落)という言葉を、この地に来た探険家ジャック・カルティエ(1491-1557)が地名と思い込んだことからついたという。Jacques Cartier
輪ゴムは1820年イギリスのトーマス・ハンコック(1786-1865)が中南米の先住民族が使用していたゴム製の袋をヒントにして靴下や服の袖をとめるのに利用できるのを発見したことに始まる。▽「トゥーサン・ルーヴェルデュール」1743-1803。ハイチ独立に活躍した黒人指導者。▽「トバイアス・スモレット」1721-1771。イギリスの小説家。代表作「ロデリック・ランダム」「ハンフリー・クリンカー」。▽「トーマス・マコ―リー」1800-1859。イギリスの歴史家。代表作「イギリス史」。▽「トマス・クロル」オランダ。2022年冬季オリンピック、スピードスケート金メダリスト。▽「ドランド・ピエトリ」イタリアのマラソン選手。▽「ドロシー・L・セイヤーズ」1893-1957。アガサ・クリスティと並び称される英国の女流推理作家。▽「ドロシー・カミンゴア」1913-1971。アメリカの女優。代表作「市民ケーン」。
▽IOC会長はトーマス・バッハ。
トゥーサン・ルーヴェルムチュール
ドゥニ・ディドロ
ドゥニ・ビルヌーブ
トゥパク・アマル(インカ帝国)
トゥンク・アブドゥル・ラーマン
トクタミシュ
ドス・パソス
ドナテルロ
ドナト・ブラマンテ
ドナルド・キーン
ドナルド・サザーランド
ドナルド・ジョハンソン
ドナルド・ジョン・トランプ
ドナルド・トランプ
ドナルド・プレゼンス
ドナルド・フランクリン・ダンカン
トニー・カーティス
トニー・ザイラー
トーニ・パゴット
トニー・レオン
トバイアス・スモレット
トーべ・マリカ・ヤンソン
トマ・ピケティ
トーマス・アーネスト・ヒューム
トーマス・アルバ・エジソン
トーマス・ウォルター
トーマス・エジソン
トーマス・エドワード・ロレンス
トーマス・カーライル
トークス・クック
トーマス・クルックス
トーマス・グレシャム
トーマス・ジェファーソン
トーマス・シデナム
トーマス・シンプソン
トーマス・スターンズ・エリオット
トーマス・バッハ
トーマス・ハンコック
トーマス・ハント・モーガン
トーマス・ビーチャム
トーマス・フッド
トーマス・マコーリー
トーマス・マン
トーマス・ミッチェル
トーマス・ラッフルズ
トーマス・リプトン
トマス・ア・ケンピス
トマス・アクィナス
トマス・アーノルド
トマス・ウルジー
トマス・オズボーン
トマス・クランマー
トマス・クロル
トマス・ペイン
トマス・ヘンリー・ハクスリー
トマス・ホッブズ
トマス・ミルトン・リバース
トマス・ムーア
トマス・モア
トマス・ヤング
トマス・ロバート・マルサス
トミ・マキネン
トミー・ドーシー
ドミートリイ・ショスタコーヴィチ
ドミートリー・メドヴェージェフ
ドミトリ・イヴァノヴィチ・メンデレーエフ
ドミトリー・ドンスコイ
ドミニク・アングル
ドミニク・ヴィヴァン・ドノン
ドミニク・サンダ
ドミニク・ティーム
トム・クランシー
トム・クルーズ
トム・ハーディー
トム・ハンクス
トム・フーパー
トム・ワトソン
ドメニコ・ギルランダイオ
ドメニコ・モドゥーニョ
トラヤヌス
ドランド・ピエトリ
ドーリー・ウィルソン
ドリス・デイ
トリッシュ・ヴァン・ディヴァー
ドリュー・バリモア
トール・ヘイエルダール
トルクァート・タッソ
トレーシー・ハイド
トロイ・ドナヒュー
ドロタ・ケンジェジャフスカ
ドロシー・カミンゴア
ドロシー・ガロッド
ドロシー・セイヤーズ
ドロシー・マクガイア
ドロシー・ラムーア
トロフィム・デニソヴィチ・ルイセンコ
ドワイト・デーヴィッド・アイゼンハワー
ドン・アントニオ・アギラール
ドーン・ウェルズ
ドン・エバリー
ドン・シーゲル
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ドン・レオ・ジョナサン
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