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2024年6月24日 (月)

加藤清正の虎退治の謎

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 本日は賤ケ岳の七本槍の一人、加藤清正公忌(慶長16年)。文禄元年5月3日、朝鮮の首都・漢城を豊臣秀吉の配下・小西行長が朝鮮の漢城を陥す。この戦争が前後7年間にわたる文禄・慶長の役(壬申辰・丁酉倭乱)である。後世の日本人には講談、武者絵、錦絵などで加藤清正の虎退治の逸話が知られるが、信憑性のある史実かどうかは知らない。朝鮮侵攻の当時、朝鮮半島にはアムール虎(満州虎)、シベリア虎が相当多く生息していた。江戸中期の湯浅常山の『常山紀談』に虎退治の記述がある。小姓の上月左膳が虎に殺されたため、怒った清正が片鎌槍で撃退したという。吉田輝元なども虎の皮10枚を豊臣秀吉に献上している。だが加藤清正がどれくらい虎を殺したか記録にはない。そもそも日本の武将が何故朝鮮まで行って虎狩りをする必要性があるのだろうか。後藤又兵衛は虎と格闘して、のちに叱責されている。敵を前にして、大切な命を、猛獣のために危険にさらすとは、なにごとかというわけである。虎刈りの理由として挙げられる説として、①武芸の訓練のため②領地の安全確保のため③豊臣秀吉の命令、の3点である。①の説は後藤又兵衛の叱責事件のように、ありえない話であろう。②の説は男色の加藤清正が愛人の小姓が殺されたために復讐鬼となって虎を殺したという話であるが、にかわに信じ難いであろう。片鎌槍で殺したことになっているが、実際は鉄砲だったという説もある。③の説は、老いた秀吉が回春のため、虎の肉を必要としていた。虎の肉を食うと、精力がつくらしい。だが当時の輸送で食用肉を朝鮮から大坂まで安全管理で運搬できたのであろうか。虎の利用としてはせいぜい虎の皮で敷物に使うくらいしか用途はないのではないか。加藤清正虎退治の伝説は、岩見重太郎の狒狒退治と並んで江戸期に民間に流布した豪傑譚の一つであろう。

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コメント

朝鮮塵にとっての加藤清正とは
死神と言うべき恐ろしい存在だったそうである。
姦酷には、加藤清正はキーセンに身をやつした娘が自分もろとも川に突き落として殺したと言う
ファンタジーな伝承が晋州と言う町にあるそうである。

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