サラエボ事件(1914年)
バルカン半島は小さな国々で構成され、あるものは独立国、あるものは600年もトルコ宗主の支配下にある国々であった。それらの諸国は、経済的に立ち遅れ、政治的にも不安定で、ヨーロッパの工業化の主流からはずれていた。バルカン問題を巡っての最初の国際的な事件は、1908年にオーストリアがボスニア・へルツェゴヴィナを略奪したことである。ヨーロッパの平和に危機が迫りつつあることは、いまや明白であった。 1914年のこの日、オーストリアの帝位継承者フランツ・フェルディナンド夫妻が、バルカン半島のサラエボで一青年ガヴリロ・プリンツィプにピストルで暗殺された。7人の暗殺犯は、かねてから反オーストリア運動を企てていた「黒手組(「黒い手」とも訳す)」ツルナ・ルカの団員であった。反オーストリア運動に憤激していたオーストリアは、セルビア政府に対し、「犯人の裁判にオーストリア判事の参加」を含む最後通牒を1ヶ月の期限付きでつきっけ、セルビアがこの項目をうけいれないため、戦争は勃発した。短期間のうち、世界的規模で戦争が拡大したので「世界大戦」と呼ばれるようになった。ドイツ・オーストリアを中心とする同盟国側に対し、イギリス・フランス・ロシアの協商側は連合国と称した。この戦争は、予想を裏切って短期決戦では終わらず、長期化するとともに世界化し、国民の総力を動員する総力戦または全体戦争となった。
世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件の7人の暗殺犯はどうなったのか。大公暗殺犯(サラエボ事件)の一人であるガヴリロ・プリンツィプ(1894-1918)はその後、セルビアの愛国者として賞揚された。プリンツィプは犯行当時、未成年だっため死刑を免れ、懲役20年の刑を宣告された。しかし劣悪な刑務所環境のため結核により、1918年4月28日、獄死した。7人の暗殺犯のうち、ヴァソ・チュブリロヴィチはベオグラード大学教授、ユーゴスラビア森林相を勤め、1990年に死去した。最初に手榴弾を投げたネデリュコ・チャブリノヴィチは1916年に獄中で死亡した。Gavrilo Princip(6月28日)
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