ラッフルズの日本侵略計画
文化10年(1813年)6月27日、イギリス船が出島のオランダ商館を乗っ取りのため長崎に入港してきた。オランダ商館長ズーフはこれを拒否し、イギリスの侵略計画し失敗に終わった。黒幕はイギリス東インド会社、ジャワ副総督だったトーマス・ラッフルズ(1781-1826)だ。ラッフルズはインドネシアのジャワの植民政策で成功し(ボロブドゥールの復元、動植物の新種の発見などもしている)、その後、東アジアの貿易の拠点となる港を探していた。日本を諦めたラッフルズはシンガポールに貿易港を建設した。もともとシンガプラ(サンスクリット語で「獅子の都市」の意)と現地では言っていたが、イギリス人に発音しやすいようシンガポールと改めた。(参考:永積洋子訳「ドゥーフ日本回想録」) Thomas Stamford Raffles
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ケペル先生。策略と蘭人の分裂が象徴的な出来事なので敷衍します。「イギリスのジャワ副総督トーマス・ラッフルズThomasStamfordRafflesに利用された、出島の前商館長のワルデナールWardenaar,Willem†1816.11.12。在職期間は[1800-03:寛政12-享和3])が、ラッフルズが商館長にと指名したカッサ(AnthonijAbrahamCassa1759~1817)と共に、オランダ国旗を掲げたイギリス船で長崎に入港し、オランダ商館長ドゥーフに対し、イギリス配下になるよう要求したが、ドゥーフこれを拒絶(永積洋子訳ヅーフ日本回想録HerinneringenuitJapan,Haarlem,1833)。背景にオランダの歴史がある、すなわち1806年フランス帝国の衛星国であるホランド王国になる。1810年オランダがフランス帝国に併合される。オランダ船の来航が途絶える。その後1815年オランダが「ネーデルラント連合王国」として再独立。1817年オランダ船が長崎港に入港。ドゥーフは商館長を退任し帰国を果たす。
他方、長崎に代わる東アジアの貿易の拠点となる港を探したイギリスの植民地行政官ラッフルズはシンガポールを1819年1.30にジョホール首長から買収した。シンガポールは1824年に正式にイギリス領、1826年にペナン、マラッカと共にイギリス領インド所属の海峡植民地となった。自由貿易港としたため、たちまち東南アジア有数の国際的都市に成長し、1833年にはすでに2万の人口をもつに至った。その後1867年イギリスはここを本国直轄植民地とし、軍事的にもアジア政策遂行の一大拠点とした。しかし住民の大部分は華僑系が占めた。第二次世界大戦では1942年2月日本軍が占領し、昭南市と改名した。現在はシンガポール共和国RepublicofSingaporeという。面積は淡路島よりやや大きい
投稿: カピタン | 2024年6月27日 (木) 09時35分