陸軍士官学校と海軍兵学校
西南戦争の翌年、明治11年6月10日、陸軍士官学校が開校した。明治から太平洋戦争終結まで存在した陸軍将校の養成を目的とした教育機関である。世代人口5%にも満たない中等教育学校のなかから最優秀の者のみが士官学校に進むことができた。近代日本の軍隊は徹底した成績主義であった。卒業時期の成績によって、その後の昇進はだいたい決まっていた。こうした日本の人事評価制度は、戦後の日本社会の学歴至上主義につながっていく。学校の教育目標などで「文武両道」という古風な言葉がいまでもよくつかわれるが、私は好まない。
海軍兵学校は、明治9年に開設された。海軍は、本質的に、技術の上に成立している集団であり、軍艦の行動、大砲の発射、どれを取っても技術無くしては無し得ない。ここが最後は白兵突撃のある陸軍との本質的な違いである。このために海軍は士官ばかりでなく、水兵にも高度の教育を要求し、その教育には大きく力を入れた。
経済学者の小泉信三(1888-1966)は、海軍主計中尉として築地の海軍経理学校に入った息子の信吉と雑談をした。制服の海軍士官は、雨の日でも傘をさすことを許されていない。信三は「もし外出中に俄雨にあったらどうするのか」と訊ねた。信吉中尉が海軍で教えられたのは、「ゆっくり濡れて来い」。信三も「うんそうか。そいつはいい」と感心した。海軍は英国流のダンディズムの作法がなかなかいきとどいていて立派だった。海軍で出世するには、成績優秀で海軍兵学校を卒業しなければならなかった。戦前、成績優秀な若者の憧れが海軍であり、その中の少数のエリートが指揮官となった。ではその優秀な日本海軍がなぜ負けたのか。
一般にはよく日本海軍は最善を尽くして戦ったが、大規模な工業力に基づくアメリカの物量作戦の前に敗れた、といわれている。しかし、敗因は工業力だけでなく、作戦にも大きな欠陥があった。とくに日露戦争における日本海海戦の完勝が、敵味方の艦隊同士が砲火を交え勝敗を決定するという艦隊決戦思想に固執しすぎた。明治末期に秋山真之が作った「海軍要務令」が太平洋戦争中まで幹部将校のバイブルであった。戦艦中心の大艦巨砲主義は一貫して変わらなかった。太平洋戦争の敗因の一つが日本海軍の「大艦巨砲主義・」艦隊決戦」思想にあった。源田実は「かの万里の長城、ピラミッド、大和、武蔵、こんなデカいものをつくり、世界中のもの笑いになった。あんなものは一日も早くスクラップにして、航空母艦にしたほうがいい」と極言した。
飛行機技術者がこんなことを言っている。「翼がもがれた零戦に、エンジンのこわれた零戦の翼をつぎ足して補修しようとしたら、ボルトの穴が合わない。結局、二機とも壊れたままほったらかしていた。ところが、墜落したB29の翼で実験すると、別々の飛行機の部品が、寸分の狂いもなく合った」ボルト・ナットの精密度は機械製作組立ての基本である。その種の総合した技術力の日米間での差は歴然としていたのである。(参考:阿川弘之「海軍こぼれ話」)
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