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2024年6月30日 (日)

移動する琵琶湖

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奥比叡ドライブウェイ展望台から高島の岬を眺める

   日本で最も大きな湖、滋賀県にある琵琶湖。しかし琵琶湖は毎年小さくなって、北へ移動しているという。現在の面積は669.26㎢であるが、50年前は675.3㎢(旺文社EPOCA 1975年刊)だった。琵琶湖は毎年2センチ程度、北へ移動している。琵琶湖は約400万年前、現在の三重県上野盆地に琵琶湖の起源となる大山田湖が誕生した。そして古琵琶湖と呼ばれる湖は次第に北上し、現在の甲賀地方に広がった。約200万年前ごろ、近江盆地へ移動し、約150万年前には古い湖は消滅し、礫で埋まった。そして約40万年前、今の位置まで移動して新しい湖を形成した。それが現在の琵琶湖である。古琵琶湖の位置から算出すると、年平均はおよそ2.2cm北へ移動したことになる。1970年代に国土地理院が測定した琵琶湖の最深部と比べると30cmも深くなっている。凹状が変化しているが移動しているとはいえない。だが琵琶湖の北には活断層があるのでさらに移動し、将来は日本海に達して湾になることも考えられる。

名誉革命のはじまり(1688年)

    イギリスでは、1688年から89年にかけて名誉革命が起こった。1688年のこの日、ジェームズ2世にかわって、時のオランダ総督オラニエ公ウィレムは、公妃メアリー(ジェームズ2世の娘)とともにホイッグとトーリー両党の招請を受けた。これが名誉革命のはじまりである。のちに1万4000の軍を率いてイギリスに上陸し、イギリスの王位を継承した。ウィレム3世として即位した新王は「人権宣言」を発し、「宗教寛容令」を公布した。ジェームズ2世時代、王を支持する一派をトーリー党(首領ダンビー伯トマス・オズボーン)、議会と非国教徒への寛容を重要視する一派をホイッグ党(首領シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー・クーパー)の両派が争ったが、綱領など明確な物はまだなかった。後にトマスが結成した宮廷党がトーリー党ーと発展する。名誉革命によってイギリスの立憲王政が確立した。

  1689年、王妃メアリーと同船してイギリスに帰ってきた一人の哲学者があった。ジョン・ロック(1632-1704)である。彼は「名誉革命の哲学者」として知られ、1690年公けにした「政府二論」の目的は「わが国の偉大な再興者である現在ウィリアムの玉座を確立し、王の正統性を人民の同意のうちに基礎づけること」であった。

Locke     ロックの最大の業績は、政治理論家として近代市民社会を支える民主主義的原理を追求した。とくに、近代的な「自由」の観念を明らかにしたことである。「社会における人間の自由は、国家における同意によって確立された立法府の権力以外のいかなる権力にも屈せず、この立法府がみずからに託された信託に従って制定する法以外には、いかなる意思の支配も、いかなる法の拘束も受けないということのうちに存する」(「政府二論」第8章政治社会の起源について)のである。ロックの思想は名誉革命の理論づけだけでなく、アメリカ独立宣言にも影響を与えている。(6月30日、the Glorious Revolution)

 

 

 

 

「風と共に去りぬ」題名の由来

   1926年、マーガレット・ミッチェルは落馬による左足首を捻挫し、関節炎を起こし、回復に手間どったため、5月にアトランタ・ジャーナル社を退社。この頃からむさぼるように読書する。読書の範囲は広く、文学、歴史、医学、考古学、探偵小説等。一日8冊を読み上げるので、夫のジョン・ロバート・マーシュは毎日一抱えの本を持って市立図書館へ往復しなければならなかった。この年、夫のすすめに従い「風と共に去りぬ」を書き始める。執筆の動機は母の話がきっかけだった。少女時代、あまり学問が好きでなかったので、母はある日の午後アトランタの郊外へ彼女を伴い、南北戦争で荒廃したままの土地を見せて歩いた。戦争から多くの歳月が過ぎたそのころでも、この地方の土地や生活には戦禍のあとがまだなまなましく残っていた。母はあちこちの建物を指して、戦争と復興の苦難を乗り越える意力と能力のあった家と、うちつづく困苦を切りぬけるだけの力がなかったために没落していった家とを教えて、彼女の心に、あくまでも生きぬく力を喚起させ、そのためには学業がいかにゆるがせにならぬものかを説いてきかせた。そのときのことはのちのちまでも忘れられなかったという。その人たちの中には成功しようとして戦いぬいた人と、その戦いに雄々しくいどんで敗れた人と、やっと生きのびているだけの人とがあったわけで、これをテーマに小説を書こうと思ったのが、畢生の大作を生む動機となったのである。1933年、前後7年間にわたって断続的に書きつづけた「風と共に去りぬ」はほぼ脱稿した。1935年、マクミラン出版社の副社長ハロルド・S・レイサムは、ミッチェルが大作の草稿を筐底に秘めていることを知り、ぜひそれを見せるようにと懇願した。ミッチェルは気がすすまなかったが、ついに決心して原稿を副社長に見せることにした。マクミラン出版社がこれの刊行を決定したのは同年夏のことである。1936年6月30日、「風と共に去りぬ」はニューヨークのマクミラン出版社から刊行され、一年間で150万部を売りつくした。

   本の題名については、出版社側は「明日がある」(アナザー・デイ)を採用することを内定していたが、彼女はさまざまな題名を提案しつづけた。その一部をあげると、「苦難を荷え」「一里塚」「めえ、めえ、黒羊=無頼の嘆き」「いつかは日が開く」「無情の星」「ラッパの調べは切なし」

    最後の題名は、つぎのような南北戦争時代の戦歌からとったものである。「ラッパの調べは切なし、夜の雲低く垂れ、星が空にきらめくころ。兵士みな地に伏す。疲れしものは眠り、傷つきしものは死に」この題名そのものは、かなり彼女の気に入ったのだが、「ラッパの調べ」が彼女のいわんとするところを切実に物語るものとも思えなかった。しかし、それを契機として、何かほかの詩のなかに引用できる辞句があるのではないかという期待をもつようになり、それとなく気をつけていた。やがて10月の最後の週に、マーガレットは一冊の英詩集を開いて、アーネスト・ダウスンの詩「われはもはやシナラをともに愛せしころのわれにあらず」に、なにげなく目をやった。この題はホレースの頌詩からとったものである。マーガレットは以前からこの詩を愛していた。1900年に肺結核で短い数奇な生涯をとじた審美派の英詩人ダウスンの代表的叙事詩で、当時の若い世代の人々はこの詩の冒頭を読んだだけで、異常な感動にうたれたのであった。「前夜、ああ、昨夜、かの女とわが唇の間に、きみは影を落とした。シナラ!」そして、つぎの反復句がつづく。「われはわれなりに、きみにまことをささげてきた。シナラ!」やがてつぎの二行がマーガレットの目をとらえた。

「われは多くを忘れ去った。シナラよ!すべては風と共に去った。バラは、棘もろともあらあらしく吹き飛ばされた」 I have forgot much,Cynara!gone with the wind

「風と共に去った」 これこそ、まさに彼女が探していた言葉だった。(参考:フィニス・ファー「マーガレット・ミッチェル物語」河出書房)

( Margaret Mitchell,Ernest Dowson、アーネスト・ダウサン )

 

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2024年6月28日 (金)

サラエボ事件(1914年)

P0790   バルカン半島は小さな国々で構成され、あるものは独立国、あるものは600年もトルコ宗主の支配下にある国々であった。それらの諸国は、経済的に立ち遅れ、政治的にも不安定で、ヨーロッパの工業化の主流からはずれていた。バルカン問題を巡っての最初の国際的な事件は、1908年にオーストリアがボスニア・へルツェゴヴィナを略奪したことである。ヨーロッパの平和に危機が迫りつつあることは、いまや明白であった。 1914年のこの日、オーストリアの帝位継承者フランツ・フェルディナンド夫妻が、バルカン半島のサラエボで一青年ガヴリロ・プリンツィプにピストルで暗殺された。7人の暗殺犯は、かねてから反オーストリア運動を企てていた「黒手組(「黒い手」とも訳す)」ツルナ・ルカの団員であった。反オーストリア運動に憤激していたオーストリアは、セルビア政府に対し、「犯人の裁判にオーストリア判事の参加」を含む最後通牒を1ヶ月の期限付きでつきっけ、セルビアがこの項目をうけいれないため、戦争は勃発した。短期間のうち、世界的規模で戦争が拡大したので「世界大戦」と呼ばれるようになった。ドイツ・オーストリアを中心とする同盟国側に対し、イギリス・フランス・ロシアの協商側は連合国と称した。この戦争は、予想を裏切って短期決戦では終わらず、長期化するとともに世界化し、国民の総力を動員する総力戦または全体戦争となった。

220pxgavrilloprincip_2     世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件の7人の暗殺犯はどうなったのか。大公暗殺犯(サラエボ事件)の一人であるガヴリロ・プリンツィプ(1894-1918)はその後、セルビアの愛国者として賞揚された。プリンツィプは犯行当時、未成年だっため死刑を免れ、懲役20年の刑を宣告された。しかし劣悪な刑務所環境のため結核により、1918年4月28日、獄死した。7人の暗殺犯のうち、ヴァソ・チュブリロヴィチはベオグラード大学教授、ユーゴスラビア森林相を勤め、1990年に死去した。最初に手榴弾を投げたネデリュコ・チャブリノヴィチは1916年に獄中で死亡した。Gavrilo Princip(6月28日)

 

 

 

2024年6月26日 (水)

ハーメルンの笛吹き男

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  1284年6月26日、まだら模様の服を着た男が笛を吹くと、まちの子供130人が踊りながらその男について行き、遠くに消えてしまった。親たちはわが子を探したが、ついに見つからなかった。あの子供たちはどこに消えてしまったのだろうか。これまで25もの学説が生まれた。舞踏病にかかった子供たちが踊りながら消えてしまったと考える人、子供十字軍に徴兵されて聖地へ出かけていったと考える人、ペストなどの病気による大量死、崖に落ちて死んだという事故説などもある。当時、ドイツ東部、チェコ、ポーランドなどで開発がさかんに進められた。領主である貴族たちが各都市に植民請負人を派遣して移住者を募っていた。この植民請負人こそが笛吹き男であり、消えた130人の子供たちは、ハーメルンを捨てて新天地へ旅立った若者たちだと考える説もある。「ハメルンの笛吹き男」の話はゲーテ、グリム、ロバート・ブラウニングの詩などで知られる。昔話はたいていは「むかしむかし」と、期日が明確でないが、この話ははっきりと日付が記されており、史実として残っている。

   アニメ映画「千と千尋の神隠し」のように日本にも「神隠し」といって、子供などが、にわかにいなくなって、どれだけ探してもついに戻ってこなかったという話が残っている。すなわち、天狗、鬼、隠し神、隠し婆、隠れ座頭など、さまざまな妖怪によって隠されるという。平田篤胤による寅吉少年の神隠しの物語もある。( The Pied Pier of Hamelin )参考文献;阿部謹也「ハメルンの笛吹き男伝説の成立と変貌」 思想581   1972.11

2024年6月24日 (月)

加藤清正の虎退治の謎

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 本日は賤ケ岳の七本槍の一人、加藤清正公忌(慶長16年)。文禄元年5月3日、朝鮮の首都・漢城を豊臣秀吉の配下・小西行長が朝鮮の漢城を陥す。この戦争が前後7年間にわたる文禄・慶長の役(壬申辰・丁酉倭乱)である。後世の日本人には講談、武者絵、錦絵などで加藤清正の虎退治の逸話が知られるが、信憑性のある史実かどうかは知らない。朝鮮侵攻の当時、朝鮮半島にはアムール虎(満州虎)、シベリア虎が相当多く生息していた。江戸中期の湯浅常山の『常山紀談』に虎退治の記述がある。小姓の上月左膳が虎に殺されたため、怒った清正が片鎌槍で撃退したという。吉田輝元なども虎の皮10枚を豊臣秀吉に献上している。だが加藤清正がどれくらい虎を殺したか記録にはない。そもそも日本の武将が何故朝鮮まで行って虎狩りをする必要性があるのだろうか。後藤又兵衛は虎と格闘して、のちに叱責されている。敵を前にして、大切な命を、猛獣のために危険にさらすとは、なにごとかというわけである。虎刈りの理由として挙げられる説として、①武芸の訓練のため②領地の安全確保のため③豊臣秀吉の命令、の3点である。①の説は後藤又兵衛の叱責事件のように、ありえない話であろう。②の説は男色の加藤清正が愛人の小姓が殺されたために復讐鬼となって虎を殺したという話であるが、にかわに信じ難いであろう。片鎌槍で殺したことになっているが、実際は鉄砲だったという説もある。③の説は、老いた秀吉が回春のため、虎の肉を必要としていた。虎の肉を食うと、精力がつくらしい。だが当時の輸送で食用肉を朝鮮から大坂まで安全管理で運搬できたのであろうか。虎の利用としてはせいぜい虎の皮で敷物に使うくらいしか用途はないのではないか。加藤清正虎退治の伝説は、岩見重太郎の狒狒退治と並んで江戸期に民間に流布した豪傑譚の一つであろう。

2024年6月23日 (日)

パリは汚い

   パリの空の下、セーヌは流れる。花の都パリを流れるセーヌ川だが、実は日本一汚い淀川をはるかに上回る汚染度で、泳ぐことはおすすめしない。さいきん水質検査をしたところ、コロナウイルス感染者の排泄物に含まれるウイルスが下水からセーヌ川に流れこみ、そこから取水したのが原因だと考えられる。パリ五輪開幕(7月26日開会式)まであと一月余りだが、セーヌ川は開会式とトライアスロン、マラソンスイミングの会場となる。しかし水質の問題で競技が本当にできるのか心配の声が上がっている。

  ファッション雑誌やフランス映画に憧れ、パリ暮らしを始めた日本人女性がよくかかる病が「パリ症候群」。理想と現実の差にショックを受ける一種の適応障害のような病気だそうだ。パリの街も路上に散らばるゴミや、壁に描かれたスプレーの落書きなど悲惨のものである。

   しかしシャンソンやシネマ、絵画で馴染みのある風景にはエッフェル塔とセーヌ川が良く似合う。パリを東から西へと流れるセーヌ川には、37の橋が架っている。最古の橋は1578年5月31日から起工し、1607年まで30年を費やして完成したポン・ヌフ(新橋)である。パリ中心部のシテ島の対岸に店を連ねる古書店はパリの観光名所の一つでもあるが、1606年にポン・ヌフ橋上で露店を開いたのがきっかけで広がったといわれる。街の東外れにあるベルシー駅方面がセーヌ川の上流にあたる。一番初めに上流に架かる橋はアモン橋。アモンとは上流という意味である。続いて、ナシオナル橋、トルビアック橋、シモーヌ・ド・ボーヴォワール橋、ベルシー橋、シャルル・ドゴール橋、オステルリッツ高架橋、オステルリッツ橋、シュリー橋、マリー橋、ルイ・フィリプ橋、トゥオネル橋、サン・ルイ橋、アルコル橋、ノートルダム橋、プティ・ポン、シャンジュ橋、サン・ミッシェル橋、ポン・ヌフ、ポン・デ・ザール、カルーゼル橋、ロワイヤル橋、レオポール・セダール・サンゴール歩道橋、コンコルド橋、アレクサンドル三世橋、アンヴァリッド橋、アルマ橋、ドウビリ橋、イエナ橋、ビラケム橋、ルエル橋、グルネル橋、ミラボー橋、ガリリアーノ橋、アヴァル橋、イッシー橋。37番目がタンカルヴィルとマレ・ヴェルニエ間に架かる吊り橋「タンカルヴィル橋」。

 

 

ヒトラーとエッフェル塔

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    1940年6月14日、パリはドイツ軍によって無血占領され、フランスは降伏した。6月20日、休戦条約の署名がおこなわれ、3日後の6月23日、アドルフ・ヒトラー(1889-1945)はフゴー・シュペールとともにお忍びでパリの名所観光をしている。朝6時にレ・ブルージュ空港に着いたヒトラーは、同9時には、その飛行場から発った。わずか3時間のパリ見物だったが、ヒトラーは「パリを見物するのが私の夢だった。今日、その夢がかなって、とてもうれしい」と語っている。

   ヒトラーはパリのどこを見物したのだろうか。ドイツの彫刻家アルノ・ブレッカーによると、廃兵院(アンヴァリッド)、シャイヨー宮を廻って、エッフェル塔に上ったという。(『パリ、ヒトラーと私』)ヒトラーがエッフェル塔に上ろうとすると、突然エレベーターが故障した。やむなくヒトラーは最上階まで歩いて上った。ところが、ヒトラーはエッフェル塔には上らなかったとする説もある。この否定説によると、シャイョー宮に行くのにシャン・ド・マルスを横切りながら、下からエッフェル塔を眺めただけだったという。どちらが本当か不明である。真相はエッフェル塔だけが知っている。

   しかし、何故、ヒトラーはエッフェル塔を見物したのだろうか。ナポレオンの柩が納められた廃兵院(アンヴァリッド)や凱旋門ならば話はわかるが、エッフェル塔が花の都パリのシンボルというだけの理由なのだろうか。一説によると、エッフェル塔が完成したのはフランス革命100周年記念のパリ万博で、ヒトラーと「同じ年」だからという。つまりヒトラーは子供のころからエッフェル塔に憧れを持ち続け、エッフェル塔に行きたがっていたという。もともと画家志望であったヒトラーはキュービズムなど現代美術は頽廃芸術として嫌悪していたが、古典芸術であるルーブル美術館やパリには人並み以上の憧憬を抱いていたと想像するのはケペルだけであろうか。

   エッフェル塔を背景としたヒトラーの記念写真には合成もあるかもしれないが、この記事に載せた写真は、愛人エヴァ・ブラウン(1912-1945)に送った写真で、ジャン・ド・マルス公園あたりで撮影された本物とみられている。

2024年6月22日 (土)

フランス人の愛国心と現実主義

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 復讐心に駆られた市民にズボンを脱がされ、辱めを受ける対独協力者
 

 

    映画「カサブランカ」。リックが経営する酒場でドイツ軍人が大騒ぎしてドイツ国歌を歌う。そのうち、反ナチ活動家が立ち上がり「ラ・マルセイエーズ」を高らかに歌い、「自由、フランス万歳」と叫ぶシーンがある。このようにフランス人は愛国心と自由を希求する国民と一般には知られている。1940年6月14日、パリは陥落した。首相ペタン元帥は、6月22日、独仏停戦協定に調印し、ドイツに協力することになった。なぜ人口の多い大国フランスが少数のドイツ軍に降伏したのか。日本のように女や子どもまで竹槍で戦え、という話は聞いたことがない。徹底抗戦していれば、多くの一般市民の犠牲が出たことが予測され、そこに現実主義な判断が正しく働いたであろう。それと実はフランス国民の中に多数の者が、ドイツ軍に協力にしていたらしい。フランスでは恥ずべき行為があまりにも多く行われていたため。政府は1945年、対独協力者に関するファイルを、向こう50年間封印することにした。連合国の力によって、パリが解放されると、フランス人たちは対独協力者への報復が盛んに行われた。国民たちは自らの恥ずべき過去を隠蔽したことを示す行為であると考えられる。レジスタンスや英雄的なイメージとは裏腹にフランス人の悲しい本性がみえる。

 

 

2024年6月18日 (火)

リクルート事件と江副浩正(1988年)

  昭和63年6月18日、朝日新聞が川崎市助役のリクルートコスモス未公開株譲渡疑惑をスクープした。さらに7月になって未公開株の譲渡先が竹下首相ら政府・党要人に及んでいたことが判明した。

  この年3月、川崎駅前再開発計画をめぐって、川崎市助役がリクルートから関連会社の未公開株を受け取っていたことが発覚、一連のリクルート事件の発端となった。未公開株は竹下首相、宮沢大蔵大臣などの閣僚をはじめ、自民党の領袖、大物財界人などにわたっていたことが明らかになり、12月宮沢大蔵大臣は辞任した。東京地検特捜部は政界・官界・財界人への未公開株の譲渡のうち贈収賄にあたる事件の捜査を進め、この翌年藤波元官房長官、NTT前会長らを起訴した。自民党の長期政権が続くなかで、政財界の癒着も進んだ。昭和51年のロッキード事件、昭和63年のリクルート事件、平成4年の佐川急便事件などの贈収賄事件で国民の政治不信はつのり、政治改革がさけばれるようになった。

   事件の中心人物、江副浩正とはどのような人物なのか。昭和11年、愛媛県に生まれる。戦後、甲南中学校・高等学校を経て東京大学を卒業。大学在学中に、リクルートの前身である株式会社大学広告を設立した。高度成長の波に乗って事業を急拡大させる。生み出した利益を新事業に先行投資する方法で、不動産、金融、レジャー、情報通信にまで手を広げ、「ニュービジネスの旗手」と呼ばれた。事業の拡大とともに80年代から財界での活動に力を入れ、政界とのパイプづくりを励むようになる。92年、経営不振からダイエー傘下での再建を決意して自社株を売却、一線を退く。平成25年、死去した。

 

 

2024年6月16日 (日)

戦争とパーマネント

 Mzmz    パーマの歴史は古く、古代エジプトで髪に泥を塗り、棒に巻きつけ、太陽で乾かしていたのが始まり。あの美女クレオパトラ女王もパーマをしていたらしい。近代パーマ(電髪パーマ)は1905年、カール・ネスラー(1872-1951)というユダヤ系ドイツ人の調髪師が考案。1906年にロンドンのオックスフォード街に「ネスレ・パーマネント・ウェーブ」というサロンをオープンした。そこで初めて「パーマネント・ウェーブ」という言葉が使われた。

   しかし、第一次世界大戦が始まると、敵国人であるネスラーはイギリスから追放される。1914年にアメリカに渡ったネスラーは、当時人気のあったダンサーであるアイリーン・キャッスル(1893-1969)に出会う。アイリーンは18歳とき、イギリスのオペラ役者のバーノン・キャッスルと結婚し、二人は社交ダンスで一世を風靡し、パリを始め欧州、アメリカ各地でダンスを広めた。のち映画「カッスル夫妻」(1939年)でフレッド・アステア、ジンジャー・ロジャースが演じているほどの有名人だった。そのころ、アイリーンは夫が英国飛行隊の大尉として出征し、墜落死する不幸があった。ネスラーはアイリーンにパーマを使った新しいヘア・スタイルをすすめ、「アイリーン・カッスル・ボブ」が誕生した。

    日本でパーマが導入されたのは大正12年5月。神戸三宮で外国人相手に美容院を経営していた紺谷寿美子がアメリカから機械を輸入したのが始まり。実際に普及しだしたのは、昭和5、6年ごろからで、昭和10年代には大流行。しかし昭和14年6月16日、生活刷新法が制定された。この法律には、遊興営業の時間短縮、ネオン全廃、中元歳暮の贈答廃止、学生長髪禁止、パーマネントの廃止などが盛り込まれていた。「堅忍持久」「贅沢は敵だ」などのポスターには「パーマネントはやめましょう」と書かれていた。この法律施行より1年前の昭和13年2月から、宝塚少女歌劇団では、娘役、女生徒のパーマ禁止、男役のシングル・カットが禁止された。しかし娘役のスターである草笛美子、久美京子ら、男役のスターである小夜福子、葦原邦子、奈良美也子らは除外されていた。

ヤー・チャイカ(わたしはカモメ)

Soviet_union1963stamp0_10__valentin   女性初の宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワを乗せたボストーク6号は1963年6月16日、打ち上げられた。「わたしはカモメ」彼女が宇宙から発したこの言葉は、その女性らしい感性と表現で世界中の人々が感動した。ところが、実は「かもめ」というのは、そのミッションで与えられた彼女のコードネームだった。打ち上げ直後、機器の故障で地上との交信が途切れた。テレシコワはパニック状態となり、やたらめたら通信機で「こちらはカモメ、応答願います!」と連呼して叫んだ。この通信を世界中のアマチュア無線家たちが傍受して、「こちらはカモメ(ヤー・チャイカ)」を優雅な通信と取り違えた。ときには勘違いから感動がうまれることがある。( Tereshkova )

近代名前の成立と消滅

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  近代名前はだいたい明治・大正期にほぼできあがった。たとえば男子には「男」「郎(朗)」「雄」「夫」がつく傾向が増えてきた。

 

柳田国男 (明治7年生れ)
有島武郎 (明治11年生れ)
仁科芳雄 (明治23年生れ)
加藤道夫 (大正7年生れ)

 

  明治・大正生れの男子の名を調査するため、サイト「海軍人事名簿」を参考にする。太平洋戦争の指揮官であれば、だいたい明治10年から大正5年までに生れた男子である。

 

吉田善吾大将 (明治18年生れ)
野村留吉少将 (明治29年生れ)
折田善次少佐 (明治43年生れ)
杉山忠嘉少佐 (明治45年生れ)

 

次に現代の男子名を調査するためプロ野球名鑑を参考にし、無作為にひきだす。

 

大輔 大樹 直樹 正樹 雅樹 春樹 直人 真人 拓也 智之 佑太 俊介 健太 康平 浩二 憲司 克彦 翔太 勇紀 隆太 翼 祐輔 裕也 祐樹

 

名を見るだけで明治~大正に生れた人か、昭和に生れた人か、およそ区別できる気がする(もちろん一郎、太郎では無理だが)

 

つまり明治・大正の名はやや古くさく感じられるからである。現在の名からはフレッシュな感じをうける。だがこのようなフレッシュな感じというのがいつまで続けることができるのかわからない。センスの話である。たとえば男子の名で使われなくなった漢字として「吉」「助」「忠」「善」などがある。女子でも「貞」「富」などである。貞子、富江などホラー映画の影響があるのかもしれない。「善」や「忠」など本来は立派な漢字であるのに嫌われる理由は、忠義、忠臣、善行、善人が修身道徳のような堅苦しい感じがするからであろうか。日本にはこのように顕著な名前の変遷があるが、欧米にそのような傾向がみられないのはなぜだろうか。

2024年6月15日 (土)

ホームラン・ブギ

朝起きてテレビつければ Ohtani (凡児)

 朝、目覚めてテレビをつけると大谷翔平がホームランを打っていた。セパ交流戦がたけなわ。そろそろ各チームの実力が見えてきた。若手を中心とした阿部新生巨人は打線に迫力がなく貧打に苦しんでいる。丸.282、岡本.270、坂本.251と皆イマイチ。期待の若手は佐々木.234、門脇.217、萩尾.213(5月30日現在)と低打率である。

6月16日、ドジャースの大谷翔平が18、19号ソロを放つ。

6月16日、巨人の岡本和真が12号2ランを放つ。

6月15日、巨人の岡本和真が11号2ランを放つ。

6月12日、ドジャースの大谷翔平が17号ソロを放つ。

6月11日、ドジャースの大谷翔平が16号ランを放つ。

6月5日、ドジャースの大谷翔平が15号2ランを放つ。

5月30日、巨人の岡本和真が10号2ラン本塁打を放つ。

5月29日、ドジャースの大谷翔平が14号2ラン本塁打を放つ。

5月26日、巨人の岡本和真が9号ソロ本塁打を放つ。

5月17日、ドジャースの大谷翔平が13号2ラン本塁打を放つ。

5月15日、ヤクルトの村上宗隆が9号ソロ本塁打を放ち、史上最年少で通算200号を達成した。

5月14日、ドジャースの大谷翔平が12号ソロ本塁打を放つ。

5月12日、巨人の岡本和真が8号ソロ本塁打を放つ。

5月11日、巨人の岡本和真が6号・7号と連続本塁打を放つ。

5月8日、ブレーブスのマルセル・オズナが12号ソロ本塁打を放つ。

5月6日、ドジャースの大谷翔平が11号ソロ本塁打を放つ。

5月5日、ドジャースの大谷翔平が9号・10号本塁打を放つ。

5月4日、ドジャースの大谷翔平が8号ソロ本塁打を放つ。

5月3日、巨人の岡本和真が5号2ラン本塁打を放つ。

27日、巨人の岡本和真が4号ソロ本塁打を放つ。

26日、ドジャースの大谷翔平が7号ソロ本塁打を放つ。

25日、巨人の坂本勇人が3号逆転3ランを放つ。

23日、ドジャースの大谷翔平が6号ホーランを放つ。

21日、ドジャースの大谷翔平が5号2ランを放つ。MLB通算176本塁打となり、松井秀喜を超えた。

13日、ドジャースの大谷翔平が今季第4号ホームランを放ち、日本人最多の通算175本となり、松井秀喜に並んだ。解説者の田淵幸一が「日本のプロ野球の天才バッターはみんなB型だよ」と語る。野村克也、長嶋茂雄、イチロー、古田敦也、山本浩二、そして大谷翔平。ちなみに田淵自身はA型である。 

 13日、ソフトバンクの山川穂高は2打席連続満塁ホームランを放つ。 1試合の満塁本塁打2発は大映の飯島滋弥、巨人の二岡智宏に続く3人目。

 14日、ヤクルトの村上宗隆。開幕から13試合目、54打席目にして待望の今季初ホームランを放つ。

  スポーツ番組が盛んである。野球にサッカー、ラグビー。大相撲。そして今年夏にはパリ五輪がある。ある「スポーツ観戦をしますか?」というアンケート調査によると、
  よくする   45.5%
  全くしない  20.3%
  ある程度する 20%
  ほとんしない 13.9% 

 

フランクリンの功利主義

Benjaminfranklin   「もし自分の好きなようにしてよいといわれたら、もう一度これと同じ生涯を最初からくりかえすことにまったく異存はない」(フランクリン自伝)

   福沢諭吉も「福翁自伝」で「私は自身の既往を顧みれば遺憾なきのみか愉快なことばかりである」といった。洋の東西を問わず、傑出した人間は自分の生涯をこのように肯定する。(中公クラシックス)

 「生きんがために食え、されど食わんがために生きるなかれ」(貧しいリチャードの暦)

どんなにどん底の生活を送っていても、最低限の人間としての尊厳を保って生ききろと説く言葉である。

   1752年のこの日、ベンジャミン・フランクリンは、雷雨の中で凧を揚げ、雷が電気であることを証明した。印刷工から身をおこし、ジャーナリスト・科学者となった。政界に入って優れた外交官になると、独立と建国の基本的な4文書である独立宣言・米仏同盟条約・パリ条約・合衆国憲法の作成に重要な役割をはたした。彼のつくった『貧しいリチャードの暦』は「台所が太れば意志がやせる」などのピューリタン的な格言に満ちている。彼は人間完成に努力するとともに自己の経済的基盤を固め、その後に地域社会の改良に努めた。熱の伝導の研究から、暖炉にかわるストーブ、二重焦点眼鏡などを発明、そして電気の研究から避雷針を考案した。人生の目的は幸福であり、幸福の構成要素は健康・富・知恵であるとし、いかに役立つかによってすべての価値を評価した彼は、典型的なアメリカ人とよばれた。(Benjamin Franklin、6月15日)

 

 

 

 

2024年6月14日 (金)

エリマキトカゲのパフォーマンス

  1984年のこの日、エリマキトカゲが初来日した。自分の感動を肉体や行為で素直に表現することが求められる時代になってきた。街頭での歌やダンス、寸劇などがパフォーマンスとして大流行した。この年、三菱ミラージュのCMに登場し、エリマキトカゲ・ブームが起こった。有鱗目アガマ科。オーストリア原産のトカゲの一種。このユニークなトカゲは危険を察知すると、後ろ足で立ち上がり、黄色い口を開け、頚部の周りのカラフルなプリーツ状の襞を広げて、シュッシュッと音を立てる。それでもだめなときは、2本足で走る。ゴム製人形、ぬいぐるみ、ジグソーパズル、タオルなどブームに便乗した商品が氾濫した。しかし、エリマキトカゲのブームは夏が終わると、すぐに消えたが、パフォーマンスという言葉だけは流行ではなく一般化し、今日も日常語として定着した。「外国からきた新語辞典 第3版」(1977年)に「パフォーマンス」は収録していない。(6月14日)

 

 

2024年6月13日 (木)

20mくらい歩きましょう

 兵庫県の斎藤元彦知事のパワハラなどの行為に対して、県議会では百条委員会の設置を可決した。どんな内部告発が出ていたのか。例えば、自動車進入禁止だったので施設入口の20mほど手前で公用車を降りることになったことに対して、腹を立てて担当者を叱責したという。このことは斎藤本人が注意したことをインタヴューで認めいている。他にも贈答品が山のようなあるとか、いろいろあるが未確認なので真実は百条委員会で明らかにしてほしい。ところで斎藤が怒った20mとはどのくらいかと言うと、野球で言えば、塁間が27.431m、ピッチャーマウンドからホームベースが18.44mなので、一県民からすれば、この話だけを聞いてみても斎藤ってもうアウトだね。

2024年6月12日 (水)

サンタンジェロ城

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    ローマのテヴェレ川右岸にあるサンタンジェロ。その意味は聖天使城。6世紀、ローマにペストが流行したとき、ここに天使が現れて悪疫の終わりを告げたという伝説にちなんでいる。映画「ローマの休日」では夜のダンスパーティーの舞台となったところとしても知られている。ハドリアヌス帝が自らの堂廟として139年に建設を開始し、アントニヌス・ピウス帝の治世、西暦149年に完成した。しかしこの廟はローマを守る城として改造されたため、幾度も敵に包囲されることとなった。1527年、ドイツのカール5世がローマに侵入し、教皇クレメンス7世(在位1523-1534)はサンタンジェロに避難したが、ローマは掠奪されルネサンスが終焉した。17世紀、サンタンジェロ橋の欄干にはベルニーニ作、天使像の彫刻が飾られる。現在では城は公開され。内部は武器のコレクションなどの歴史博物館となっている。(Castel Sant'Angelo)

 

 

清水次郎長没

P6260061    清水次郎長こと山本長五郎(1820-1893)は文政3年1月1日、清水港の美濃輪に居住していた船持船頭高木三寿郎の子として生まれたということになっているが、清水市役所の戸籍簿には、文政3年12月10日出生とあり、いずれが真実かわからない。が,元旦生まれの子は賢才でなければ極悪人になると,親戚が迷信をかついで、他家へやったほうがよいということになり、三寿郎の妻とよの実弟で、「甲田屋」という米穀商を営んでいた山本次郎八へ養子にやられたというから、元旦生まれが正しいのかもしれない。もっとも,長五郎は4人兄弟の末っ子で次男だったから、もともと高木家には不要の子であったとも考えられ、元旦生まれ云々の説は、後からの作り話のようである。次郎八のところの長五郎というので、おいおい、次郎長の通称でよばれるようになったのである。維新後、囚人を使役して富士の裾野開墾に従事。清水の発展に尽力した。明治26年6月12日没。享年73歳。  (青山光二「任侠の群像 日本の歴史10」暁教育図書株式会社 1975)

2024年6月11日 (火)

啄木と橘智恵子

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 弥生小学校の女教師たち(右から2人目が橘智恵子)

    明治40年6月11日、石川啄木(1886-1912)は、友人吉野白村の世話で、函館区立弥生尋常小学校の代用教員となる。月給12円。彼が21歳のときである。弥生小学校で同じく代用教員をしていた橘智恵子(1889-1922)を知る。啄木は智恵子を「まっすぐに立てる鹿ノ子百合」と表現し、智恵子に魅かれていた。智恵子の実家は札幌郊外にあり、林檎園を営んでいた。明治43年5月、智恵子は北海道岩見沢の牧場主北村謹(きん)と結婚する。啄木は上京するが、貧困生活の中、体調を崩し、それを風の便りに聞いた智恵子は当時高価であったバターを送った。

 石狩の空知郡の

 牧場のお嫁さんより送り来し

 バタかな。

    智恵子は、北村に嫁いで12年後の大正11年11月1日に6人目の子供を出産した後、産褥熱のため33歳で亡くなった。

智恵子さん!なんといい名前だろう!あのしとやかな、そして軽やかな、如何にも若い女らしい歩きぶり!さわやかな声!二人の話をしたのは、たった二度だ。一度は大竹校長のうちで、予が解職願をもって行った時。一度は谷地頭のあのエビ色の窓のある部屋で、そうだ、予が「あこがれ」を持って行った時だ。どちらも函館でのことだ。ああ!別れてからもう二十ヶ月になる!(日記より)

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2024年6月10日 (月)

ミルクキャラメルの日

Ad_sy19   森永太一郎(1865-1957)は米国より菓子の技術を取得し、1899年、森永西洋菓子製造所(のちの森永製菓)を創業。最初はマシュマロを製造していたが、1913年6月10日より「森永ミルクキャラメル」を発売する。(それまでは「キャラメル」とだけ書いて販売していた) 1914年4月23日より箱入りミルクキャラメル(20粒入り、10銭)を発売、以後、主力製品とする。それまでキャラメルはバラ売り、量り売りだった。画像は1937年の新聞広告。

陸軍士官学校と海軍兵学校

5b44c526ccc519cd2bcf7df89b6bc84a 江田島海軍兵学校

 西南戦争の翌年、明治11年6月10日、陸軍士官学校が開校した。明治から太平洋戦争終結まで存在した陸軍将校の養成を目的とした教育機関である。世代人口5%にも満たない中等教育学校のなかから最優秀の者のみが士官学校に進むことができた。近代日本の軍隊は徹底した成績主義であった。卒業時期の成績によって、その後の昇進はだいたい決まっていた。こうした日本の人事評価制度は、戦後の日本社会の学歴至上主義につながっていく。学校の教育目標などで「文武両道」という古風な言葉がいまでもよくつかわれるが、私は好まない。

    海軍兵学校は、明治9年に開設された。海軍は、本質的に、技術の上に成立している集団であり、軍艦の行動、大砲の発射、どれを取っても技術無くしては無し得ない。ここが最後は白兵突撃のある陸軍との本質的な違いである。このために海軍は士官ばかりでなく、水兵にも高度の教育を要求し、その教育には大きく力を入れた。

    経済学者の小泉信三(1888-1966)は、海軍主計中尉として築地の海軍経理学校に入った息子の信吉と雑談をした。制服の海軍士官は、雨の日でも傘をさすことを許されていない。信三は「もし外出中に俄雨にあったらどうするのか」と訊ねた。信吉中尉が海軍で教えられたのは、「ゆっくり濡れて来い」。信三も「うんそうか。そいつはいい」と感心した。海軍は英国流のダンディズムの作法がなかなかいきとどいていて立派だった。海軍で出世するには、成績優秀で海軍兵学校を卒業しなければならなかった。戦前、成績優秀な若者の憧れが海軍であり、その中の少数のエリートが指揮官となった。ではその優秀な日本海軍がなぜ負けたのか。

   一般にはよく日本海軍は最善を尽くして戦ったが、大規模な工業力に基づくアメリカの物量作戦の前に敗れた、といわれている。しかし、敗因は工業力だけでなく、作戦にも大きな欠陥があった。とくに日露戦争における日本海海戦の完勝が、敵味方の艦隊同士が砲火を交え勝敗を決定するという艦隊決戦思想に固執しすぎた。明治末期に秋山真之が作った「海軍要務令」が太平洋戦争中まで幹部将校のバイブルであった。戦艦中心の大艦巨砲主義は一貫して変わらなかった。太平洋戦争の敗因の一つが日本海軍の「大艦巨砲主義・」艦隊決戦」思想にあった。源田実は「かの万里の長城、ピラミッド、大和、武蔵、こんなデカいものをつくり、世界中のもの笑いになった。あんなものは一日も早くスクラップにして、航空母艦にしたほうがいい」と極言した。

    飛行機技術者がこんなことを言っている。「翼がもがれた零戦に、エンジンのこわれた零戦の翼をつぎ足して補修しようとしたら、ボルトの穴が合わない。結局、二機とも壊れたままほったらかしていた。ところが、墜落したB29の翼で実験すると、別々の飛行機の部品が、寸分の狂いもなく合った」ボルト・ナットの精密度は機械製作組立ての基本である。その種の総合した技術力の日米間での差は歴然としていたのである。(参考:阿川弘之「海軍こぼれ話」)

 

 

義和団事件

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    1900年6月10日、英海軍中将エドワード・シーモアの率いる8ヵ国連合軍が、天津から北京へ侵攻した。前日、英公使クロード・マクドナルド(1852-1915)の援助を求める電報が届いたためである。6月11日には清国軍の董福祥配下の兵士が北京の日本人大使館員・杉山彬を殺害した。これに対し、清の西大后は義和団を公認し、6月20日、20万人の義和団が北京に入城し列国の公使館などを焼き打ちし列強に宣戦布告する。8月14日、義和団は鎮圧され、西大后は西安に逃れることになる。当時北京に駐在していた陸軍の柴五郎は籠城部隊の中心として奮戦し、ビクトリア女王から勲章を授与されている。

  義和団とは清代の白蓮教系の秘密結社。義和拳教徒が組織した自衛団。日清戦争後、キリスト教および列国の中国侵略に反抗、山東省で蜂起。8ヵ国とは、日・英・米・露・独・仏・伊・墺である。事件後、清朝に4億5000万両の賠償金を支払わせた。 Edward Seymour

義和団 中国とヨーロッパ 中国近現代史双書1 G.N.スタイガー著 藤岡喜久男訳 桃源社 1967
義和団事件 小田嶽夫 新潮社 1969
義和団民話集 中国の口承文芸1 東洋文庫 牧田英二、加藤千代編訳 平凡社 1973
義和団の研究 村松祐次 巌南堂 1976
義和団と明治国家 小林一美 汲古書院 1986
義和団 光風社選書 G,N.スタイガー 光風社出版 1990

国立西洋美術館開館(1959年)

 1959年のこの日、東京・上野の国立西洋美術館が開館した。松方コレクションは戦後、フランス政府に没収されていたが、コレクションを収蔵する美術館を新たに設置することを条件として、返還されることになった。フランス近代美術のコレクションが中心で、主な作品は、モネ「睡蓮」、ルノワール「アルジェリア風のパリの女たち」、ゴーギャン「海辺に立つブルターニュの少女たち」、クールベ「物思うジプシー女」、シニャック「サン・トロぺの港」。

全国の美術館が所蔵する世界の名画(主な絵画)

ゴッホ「ひまわり」(SOMPO美術館)

   「モンマルトルの風車」(アーティゾン美術館)

         「ドービニーの庭」(ひろしま美術館)

ゴーギャン「かぐわしき大地」(大原美術館)

         「ノア・ノア」(熊本県立美術館)

セザンヌ「4人の水浴の女たち」(ポーラ美術館)

ミレー「種をまく人」(山梨県立美術館)

ピカソ「道化役者と子供」(国立国際美術館)

セガンティーニ「アルプスの真昼」(大原美術館)

ピサロ「ポン・ヌフ」(ひろしま美術館)

モディリアーニ「髪をほどいた横たわる裸婦」(大阪中之島美術館)

                                     (6月10日)

 

 

ポルトガルの日

 ポルトガルの国花は何か知っていますか?ラベンダーです。よい香りのする花として有名で、香水に用いられます。ラベンダーという名前が、もともとラテン語の「洗う」という意味からきており、香水として使われたことを示しています。本日はポルトガルの日。ポルトガルの大詩人ルイス・ヴァス・デ・カモンイスが亡くなった日(1580年)に由来する。ポルトガルのリスボンにあるベレンの塔は、マヌエル1世によってヴァスコ・ダ・ガマの偉業を記念して作られたテージョ川の船の出入りを監視する目的の要塞である。1515年着工、1521年完成。リスボン最西端のロカ岬にはカモンイスの詩「ここに地終わり海始まる」を刻んだ石碑が建っている。17生気、スペインの支配に対する反発が高まり、1640年ブラガンサ公が蜂起して新王朝を名乗り、オランダ、フランス、イギリスの援助を得て、1668年スペインに再独立を認めさせた。(6月10日)

 

 

 

 

 

2024年6月 9日 (日)

ルーの法則

Photo_8   1850年6月9日、ドイツの動物生理学者ウィルヘルム・ルーの誕生日である。イエナ大学でヘッケルに学び、ベルリン大学でフィルヒョーに学ぶ。当時は比較発生学研究が主流だったのに対し、胚に人工的に細工をして、その経過から発生の仕組みを解き明かそうとする、いわゆる実験発生的な手法を用いた。彼はヘッケルらの手法に反発し、「発生学は進化論のしもべではない」と言ったといわれる。

    彼の名前が今日でも広く知られるのは、保健体育科の教科書でよく知られる「ルーの三原則」によってである。実は、当初のルーの説は三つではなかった。内容は、活動性肥大の原則、不活動性萎縮の法則、長期にわたる機能向上制限による器官の特殊な活動能力減退の法則、合目的的構造の機能的自己形成の原理、など多岐にわたる研究である。後世の研究者が、ヒトの器官や機能は適度に使えば発達し、使わなければ退化・萎縮し、過度に使えば障害を起こす、という三法則にまとめたことによって、現代トレーニングの原則として、広く適用されているのである。1924年9月15日、死去。74歳。( 6月9日.Wilhelm Roux )

厚着派、それとも薄着派?

 きょうは、全国的に雲が広がり、関西地方では朝から雨模様です。最高気温は23度、最低気温は18度、湿度70%です。こんな日、どんな服装で外出しますか。女性は、冷えが苦手で厚着の方が多い。高齢者も初夏でも長袖にジャンバー姿で冬と変わらない人もいます。私は薄着派で、冬でも半袖シャツでいることが多い。重ね着は一年中したことがない。

ネロは暴君ではなかった

Nero_mus_munchen    ネロ・クラウディウス・カエサル(37-68、在位54-68)。アヘノバルブス家の出身で、本名ルキウス・ドミチウス・アヘノバルブス。彼の父グナイウス・ドミチウス・アヘノバルブスは40歳ぐらいで死去し、彼の母で、アウグスツスの曾孫の小アグリッピナは、49年に彼女のおじにあたる皇帝クラウディウス1世の皇妃となった。クラウディウスと彼の前妃メッサリアの子ブリタニクスは、ネロよりも三歳しか年少ではなかったが、アグリッピナはクラウディウスを説得して50年2月25日、ネロを養子にさせた。その後、ネロとブリタニクスの姉オクタウィアを結婚させ、さらにまたさまざまな栄誉を与えて、ネロをクラウディウスの後継者に仕立てた。54年クラウディウス1世は急死したが、アグリッピナによって毒殺されたものらしい。アグリッピナはただちに近衛軍の支持を取付けて、ネロをローマ皇帝と宣言させた。ここに初めて、帝権がまだ17歳に満たない一少年に付与されることになったのである。

   ネロは、ストア派哲学者セネカを家庭教師としてギリシア的教養を身につけたローマ人であり、ギリシア旅行をしたり、詩を作ったり、演劇に興じたり、竪琴をひいて音楽に興じることを好んだ。ネロは後世に脚色されて暴君の典型とされるが、実際は賢明で寛大な政治を行なった。後年に、政治に口を挟もうとする母親のアグリッピナを暗殺して以後、現実社会を嫌悪するようになった。64年になると、ネロは過密となったローマに放火させ、焦土と化したローマを理想的な都市として再生しようとした。火事は密集したローマの半分を焼き尽くし、ネロは莫大な費用を費やしてローマを再建した。しかし、のちに放火の事実がばれそうになると、ネロの側近はキリスト教徒に放火の罪を押し付け、多くの信者をとらえられて公開火刑に処した。これが、ローマ帝国における最初のキリスト教徒迫害事件である。孤立したネロは、翌年政府転覆事件を口実に師のセネカにも自殺を強要し、強権政治を強めた。しかし、横暴な支配のためにネロは、元老院、近衛兵からも見放され、68年6月9日、ローマから脱出して自殺した。彼は元老院と軍隊には人気がなかったが、構成に語られるほど暴君ではなく、支持者がいなかったわけではなく、数年後まで彼の墓前には花が絶えなかった。ここに暴君ネロの支配は終わり、ユリウス・クラウディウス朝は断絶した。(参考:宮崎正勝「世界史の海へ」小学館) Nero,Augustus

2024年6月 8日 (土)

関ケ原の戦い、宮本武蔵は東軍、西軍どちらに出陣したのか?

  二夜連続TBSのキムタク宮本武蔵(2014年)の視聴率は、15日が14,2%、16日が12.6%であった。ストリーはだいたい吉川英治の小説がベースとなっているが、殺陣がアクロバット的な剣法で、従来の武蔵のイメージと大きく異なる。片岡千恵蔵、中村錦之助など風格ある武蔵像と比較すると、キムタク武蔵は現代的な印象がある。評価は大きく分かれるだろう。巌流島の決闘のラストはいかにも淡泊で呆気なかった。6月7日からチャンネル銀河で市川新之助(現・市川團十郎)の大河ドラマ「武蔵」が放送されている。全49回で中盤で巌流島の決闘が終わるが、なお話が続く。月形龍之介主演の「それからの武蔵」のような孤高の剣士としての味わいがあればいいのだが新之助が若すぎて晩年は無理だろう。大阪夏の陣やキリシタンや柳生宗矩、真田幸村の話も蛇足でつまらない。脚本は鎌田敏夫(青春ドラマを得意とする)で時代劇に向いていない。そもそもお通や又八なども登場せずに吉川英治の原作をつかわないで、歴史ドラマにしたほうがよかった。だが2003年制作で、宇津井健、西郷輝彦、津川雅彦、藤田まこと、渡瀬恒彦、坂口良子、三浦春馬など故人が出演しているので懐かしい。20年前の大河は製作費が潤沢だった。お通は吉川英治の創作であるが、そのモデルがいた。小野お通という桃山時代から江戸時代初期にかけて生きた謎の女性で、和歌や琴、書画、舞踊に秀でた才女だという。

 ところで武蔵は慶長5年の関ケ原の合戦に東軍、西軍どちらに出陣したのだろうか。通説には、武蔵は西軍に属して戦ったとされる。だが、その確かな記録は残っていないため確証はない。大河ドラマでは明確に示さなかったが、吉川英治の「宮本武蔵」では西軍についたこととなっているので、西軍のように描かれていた。近年の研究によると、父の新免無二斎が東軍の黒田如水に仕官していたとする黒田家の文書が見つかったため、武蔵は父と共に当時豊前国を領してていた黒田軍に従い、東軍として九州で戦っていたとする可能性が高いと考えられる。

 

 

 

 

 

 

現在では否定されている「古代四大文明」史観

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 かつての歴史授業では必ず四大文明が説明された(田中文治「中学歴史の精解と資料」1977年)

 

 紀元前5000年紀以降、エジプト・メソポタミア・インダス・黄河の各文明が誕生、世界史では古代の四大文明と呼んでいる。四大文明は、いずれも大河流域のデルタ地帯で灌漑農耕国家を成立させ、都市文明を発達させた。その言葉の起源は清の梁啓超の詩(「二十世紀太平洋歌」1900年)に見えるが、現在、四大文明史観はトインビーなどにより世界の歴史学会では完全に否定されており、中国・韓国・日本のみで学校の歴史用語で教えられているが、欧米諸国には存在しない。ウイットフォーゲルの「アジア的専制政治」説は、当時の日本でも主流であったマルクス唯物史観の学者たちによって長らく支持されていた。つまり古代文明は4つに限定されたものではなく、前3千年紀の後半には、すでに南米アンデス地帯の一部に、オリエントの影響をうけない、しかし本質的にはあまり差異のない原始農耕文化がおこっており、神殿をもつ集落の遺跡、カラル遺蹟が発見されている。

   西アジア「肥沃な三日月地帯」からは前9000年ころのムギ・マメの化石が大量に出土している。中国においては華北(黄河流域)のアワ・キビと華中(長江の中・下流域)のイネが生態系の違いを反映しているが、イネの長江文明などの農耕の始まりが多くの遺跡によって明らかになりつつある。1996年には成都黄河文明よりも古い前5000年の都市国家(竜馬宝墩古遺跡)が発見されている。世界の主要な穀物はムギとイネとトウモロコシである。前7000年ころウィスコンシン氷期がはじまり、古代アジア人はベーリング海峡をわたってアメリカに進出し、南下した古インデォはメキシコやペルーに定住し、前2000年から前1500年ころトウモロコシをはじめジャガイモ、サツマイモ、カボチャ、トマトなどの栽培が起こる。とくにオルメカ人は前1200年ころ、南米に石像をはじめ神殿などの初期国家を形成していった。アメリカの文化人類学者エルマン・サーヴィス(1915-1996)の初期国家の定義によれば、集団で生活し「人口規模が2万人以上であること」とある。マイケル・コーは調査の結果、サン・ロレンソの遺跡を25000人規模の都市と推定している。とくに中国の黄河文明に関しては、一つに括ることを誤りとしなければならない。長江下流域の河姆渡文化や良渚文化など、黄河流域だけに限らない。近年、杉龍崗遺蹟(湖南省常徳市)から9000年前の米粒が発見された。(世界史)

2024年6月 7日 (金)

人生、楽しく行きましょう

 ランチは近所のいつもの大衆食堂。皿に盛ったおかずを自由に選んでレジで会計を済ます。さばの塩焼き、白身フライ、高野豆腐玉子とじ、ごはん、味噌汁で1000円也。巨人戦テレビ観戦。うれしい日向坂46のリーダー佐々木久美ちゃんが始球式。長身から投げ下ろす速球も大暴投となるがご愛敬デス。試合は負けているので勝利の女神とはならずか。有岡大貴と松岡茉優が結婚。お二人ともおめでとう。ジャニーズ事務所が解散してタレントは結婚しやすくなった。人口減少は国家の危機なので、有名人がどんどん結婚することは社会を明るくすると思う。夜は定番トム・クルーズの「ミッション・インポッシブル」でアクションを堪能するのもよし。睡眠導入剤を飲んでぐっすりと眠る。

日本の少子化対策

 少子化対策関連法が国会で成立した。厚労省によると、2023年の合計特殊出生率(1人の女性が一生のうちに産む子どもの数の指標)は、「1.20」となった。都道府県別でみると、最も低い東京都では「0.99」となり、全国で初めて「1」を下回りました。人口を維持していくためには、女性が男性の分も子どもを産む必要があります。つまり人口維持には、 合計特殊出生率は2.0必要になります。厳密には2.1程度が必要になります。この値を人口置換水準と言います。わが国の人口を見ると、2005年から人口減少が続いている。2024年現在、およそ1億2393万人と推計されている。少子化の原因としては、➀社会が高学歴化して、子供が一人前になるまでの金銭的費用が増加した。②女性が社会進出したことによって労働市場に人があふれ、労働力の価値が下がり、賃金低下→男性の経済力低下により結婚のハードルん高くなる。③結婚したとしても晩婚なケースが多いため、多産が難しい。④恋愛の自由化したことで見合い結婚が減少。恋愛弱者があぶれることになる。そして結婚しない人生をポジティブに捉える人々が増加した。などが考えられます。このままでは経済や社会の担い手は減り、社会保障制度も危うくなりかねない。なんとしても出生数の減少に歯止めをかけねばならない。政府が取り組んでいる少子化対策は、子育て世帯の支援の拡充にとどまっているが、事実婚やシングルマザーなどの多様な家族のあり方に対して、社会全体が寛容であるように変わらないと、出生率の向上や人口増加につながっていかないと考える。

 

 

春ドラマ、どれが良かったですか

 SNSが普及したことで若者のテレビ離れが言われている。バラエティや音楽番組はたまに見るがドラマは見ないという人も多い。春ドラマも終盤を迎えたが、いずれも不評で名作といわれるドラマはなかった。視聴者は豪華な俳優を見たいのではなく、すぐれた面白い脚本の作品をのぞんでいるようである。「Believe 君にかける橋」木村拓哉が橋づくりに情熱を燃やす設計者に扮する。「366日」広瀬アリス、真栄田郷敦、長濱ねる、宮辺紗衣。かつてフジ月9は恋愛ドラマの王者だったが、今回は大コケだった。「からかい上手の高木さん」月島琉衣、黒川想矢。「アンメット ある脳外科医の日記」杉咲花、若葉竜也、生田絵梨花。「95」高橋海人、松本穂香。「Destiny」石原さとみ、亀梨和也、仲村トオル。「天使の耳~交通警察の夜」小芝風花、安田顕。「誰が私と恋をした?」生見愛瑠。「お迎え渋谷くん」京本大我、田辺桃子。「御社の乱れ正します!」山崎紘菜、飯島寛騎、小島藤子、優希美青。「肝臓を奪われた妻」伊原六花。「Root」河合優実、寺本莉緒。「ブルーモーメント」山下智久、出口夏希。「好きなオトコと別れたい」毎熊克哉、堀田茜。「ソロ活女子のススメ4」江口のりこ。「Re:リベンジ」赤楚衛二、芳根京子、白山乃愛。「9ボーダー」川口春奈、木南晴夏、畑芽育。「花咲舞が黙ってない」今田美桜。「アンチヒーロー」長谷川博己、大島優子、堀田真由。「ミス・ターゲット」松本まりかが全国ネットの地上波連続ドラマ初主演。「アクマゲーム」間宮祥太朗、田中樹、古川琴音。「痛ぶる恋の、ようなもの」望月歩、小川未祐、河村花。「シークレット同盟」松井愛莉、森田想、長野凌大、長妻玲央。「社内処刑人」中村ゆりか、生駒里奈。「君が獣になる前に」玉城ティナ、北山宏光、鳴海唯、豊島心桜。「あなたの恋人、強奪します」武田玲奈、渡邊圭祐。「6秒間の軌跡」高橋一生、本田翼。「街並み照らすヤツら」森本慎太郎、森川葵。「Root」河合優実、坂東龍汰、寺本莉緒。「季節のない街」宮藤官九郎監督。池松壮亮、仲野太賀、渡部大知、濱田岳。時代劇「君とゆきて咲く 新選組青春記」前田拳太郎、奥智哉、高野洸、阪本奨悟。「過保護な若だんな様の甘やかし」高野洸、井頭愛海。「ビジネス婚 好きになったら離婚します」菅井友香、草川拓弥。韓国ドラマ「青春ウォルダム 呪われた王宮」パク・ヒョンシク。フジテレビTWO「今、別れの途中です」ソン・へギョとチャン・ギヨン主演のラブ・ロマンス。美男美女が眼福です。 春ドラマで演技が光っている主演女優第1位に輝いたのは「アンメット」の杉咲花でした。

プロ野球やMLB中継もあるので、テレビの見過ぎに注意しよう!

 

 

マリア・ルス号事件(1872年)

  明治5年6月7日、横浜港に停泊中のマリア・ルス号(ペルー船籍)内の231名の清国人苦力が奴隷状態であるとして日本政府が解放した事件。条約未締結国ペルーとの係争については日本の法律があると解し、外務卿副島種臣は大江卓を裁判長に任じ、アメリカ人の日本法律顧問P・スミスの協力を得て、清国人船籍の解放を宣言した。船長の報告でペルー政府は日本政府に抗議したが、ロシア皇帝アレクサンドル2世の仲裁裁判で日本側が勝利した。参考: 「マリア・ルス号事件の再検討」笠原英彦 法学研究69巻12号(1996年12月号) Maria Lus Incident

 

 

明窓浄几

   人類は地球上における動物の進化の過程で、その一分岐として出現した。近年エチオピアで発見された440万年前のラミダス猿人と呼ばれる化石は、明らかにチンパンジーとは異なる特徴をもっており、これが現在知りうる最古の人類=猿人 Ape man とされている。その特徴は直立して二足歩行し、両手で道具を用い、火を扱い、労働して、言語を基礎とする文化をもつことだといわれている。だがこのような特徴だけであれば部分的には他の動物でも行える。ペンギンやカンガルーは直立して歩くし、動物園のゴリラやチンパンジーなどでもテレビを見る。室内で飼っているイヌやネコはテレビを見る。人間だけが行い、他の動物が絶対にマネできない行為とは何か。それは、読書するということである。人間以外の動物は本を読まない。ではケータイやアイ・パッドで読書すればよいのか。近頃、スマホを診ながら町を歩いている人をよくみかける。まるで人をやめた、サルがケータイを手にしているような感覚にとらわれる。読書とは毎日同じ時間にする生活習慣でなければならない。明窓浄几、明るい窓と清らかな机、書斎があってはじめて行える行為である。

 手元にある市広報誌を何気なく開く。来年度の市職員の募集の記事。初任給は大卒で事務職は23万円くらい。入庁後のキャリアイメージは、30代で係長、40代で課長、50代で次長、部長へと昇進する。ただし真面目に努力すれば誰でも部長になれるわけではなく、人物評価や人間関係など煩わしいことがつきまとう。所詮は役所人生は出世レースである。そもそも「出世」というのは、本来は漢字3文字を略して「出世」といわれるようになった。仏語で「出世間(しゅっせけん)」という言葉がある。世俗艦の煩悩から脱して悟りの境地に入ること。その世界を目指す、もしくはそこにいる僧侶のことを出世者と呼んだ。つまり現在のわれわれが使う「出生」とは正反対の意味なのである。

物部氏と蘇我氏の対立。穴穂部皇子が暗殺される(587年)

   572年、物部尾輿の子の守屋が跡を継いで、敏達・用明朝の大連となる。585年3月1日、神道擁立派の守屋は、疫病の流行が崇仏派の蘇我稲目・馬子の仏教信仰のためだと主張し、仏像・寺院等を焼打ちした。用明天皇の死後、守屋は穴穂部皇子を擁立したが、推古天皇・馬子に殺害され、守屋は馬子と戦った。587年、守屋は迹見赤檮(とみのいちい)に射殺された。物部本宗家はこうして滅亡した。しかし近年の研究によると、こうした日本書紀の記述に疑いが生じ、蘇我氏専横についても信憑性に疑いが生じている。物部氏も、大和国山辺郡(現・天理市)を本拠とする渡来系氏族であたっことから、早くから仏教受容の姿勢をみせていたものと考えられる。蘇我氏と政治的に対立した物部氏は、仏教受容に反対して滅亡した勢力という役割を担わされたのではないかと考えられている。(参考:「物部・蘇我氏と古代王権」黛弘道著 吉川弘文館) 6月7日

 

 

 

Mononobe_small

奇兵隊の創設(1863年)

260pxkeiheitai   菅直人が新内閣に「奇兵隊内閣」と命名したのは14年前のことである。草の根の政治という意味であろうか。高杉晋作(1839-1867)が、山口の藩庁に呼び出されたのは、文久3年6月4日。長州藩が下関で外国船の報復攻撃を受けた直後のことである。晋作は、毛利敬親に対して、現状を打開するためには「兵には正奇があり、戦いには虚実がある。奇をもって敵の虚を制する兵を作りたい」と「奇兵隊」の創設を願い出た。身分にこだわらず、志と実力さえあれば誰でも参加できる軍隊である。吉田松陰の草莽崛起の実践を行ったのである。

  6月7日、藩主から許可を得た晋作は、下関の豪商白石征一郎(1812-1880)邸で奇兵隊を創設し、初代総督になった。最初は、50人ばかりであったが、日ごとに入隊する者が増え、本営を、正一郎邸から壇ノ浦近くの阿弥陀寺に移した。そこで、藩の正規軍先鋒隊との間に事件がおこり(教法寺事件)、その責任をとって、晋作は総督を辞任した。隊の創設からわずか3ヶ月の間だったが、奇兵隊士は、厳しい訓練の元に鍛えられた。奇兵隊二代目総管には河上弥市(1843-1863)と滝弥太郎(1842-1906)の二人が共に務めた。文久3年10月、滝弥太郎が他の仕事を命じられたため、3代目の総管に、赤根武人(1839-1866)が就いた。そして、その補佐役である軍監には山県有朋(1836-1922)が命じられた。赤根は元治元年10月、総管を辞職する。赤根はその後、戦争回避に奔走したため慶応2年斬首される。

 いっぽう、山県有朋は、慶応元年1月、奇兵隊総管となる。6月、第二次征長の役に際し幕軍と戦った。山県有朋は軽卒という武士以下の身分から、元帥という最高の位に上り詰めた。

 

 

ルイ14世「朕は国家なり」

Louis14aftrigaud_16381715l   1654年のこの日、フランス王ルイ14世が16歳で戴冠した。「太陽王」と呼ばれたルイ14世は史上最長の在位期間を持つ君主である。1643年に5歳で即位し、1715年に死ぬまで72年間フランス国王に君臨した。王権神授説をとる彼は絶対主義王制の典型とされ、豪華を好む彼か造ったヴェルサイユ宮は18世紀には各国で模倣されることとなる。ハード面だけではなく宮廷エチケットや祭典・凱旋行列なども手本とされて、王権とはそういうものというイメージが形成される。フランスは文化のうえでもヨーロッパの中心となった。

    1655年4月13日、パリ高等法院。17歳のルイ14世は狩猟の帰りに反対派の巣窟である議会に立ち寄った。スペイン戦争での出費が嵩むことを議員が語りだしたとき、「朕は国家なり」(L'etat c'est moi)という有名な言葉がルイ14世の口から出されたとされる。このエピソードはヴォルテールの「ルイ14世の時代」に記述されているが、王が実際に言ったかどうかはわからない。神学者ボシュエらが王を神格化したらしい。

   ルイ14世の親政が始まったのは1661年3月10日からで、フランス絶対王政は全盛期をむかえたが、傲慢で贅沢の限りをつくした国王は民衆から嫌われ、王の没後80年たらずでフランス革命がおこる要因にもなった。(6月7日)

2024年6月 6日 (木)

ポスト・コロナの現代社会

今から5年前とは平成か令和か?

 2024年=令和6年
 2023年=令和5年
 2022年=令和4年
 2021年=令和3年
 2020年=令和2年
 2019年=平成31年4月まで、5月から令和元年

 つまり5年前に平成から令和に変わった。消費税10%、ラグビーW杯、東京オリンピック・パラリンピック開催、安倍晋三暗殺、ロシアのウクライナ侵攻、統一教会問題、政治家裏金問題といろいろあったが、やはりコロナ・パンデミックにつきる。

 ようやく新型コロナ感染の終息が近づいてきた。マスクの着用は個人の判断に委ねられるが、スーパーとか映画観や電車の中とか、街中でマスクを外している人は意外と少ない。周りに合わせて決める人も多いので、まだまだ着用を続けているみたいだ。コロナでの死亡者数はこの3年間で約13万5千人に及んだ。直接コロナで亡くなった人のほかにも、コロナに感染したことで持病が悪化したり、衰弱したりして亡くなった人が多くいたとみられる。

  私たちが生きている現代社会は、過去の長い歴史のなかで形成され、発展してきたものである。この現代社会は振り子のように大きく動き、単純な発展の一般法則があるわけではない。政治家や経済学者たちが未来を語るが、正しく未来を予言できる者は誰一人いない。コロナウイルス感染拡大で国家権力やマス・メディアが大衆操作を行い、国家や社会が全体主義的傾向に向かうが、貧富の拡大や失業問題、教育の低下など大きな課題が顕在化していく。先行きの見えない社会は人々に不安と混乱を与えている。コロナウイルス後の世界はどのように変貌するのであろうか。

 日本経済は、1955年ごろから73年までの間、毎年平均10%ほどの率で驚異的な経済成長を続けた。これを高度経済成長という。このような経済成長を可能にしたのは、技術革新が生産性を向上させたこと、教育の普及と向上で良質の労働力が豊富であったこと、政府の産業保護政策や公共投資の増加で、企業が設備投資を行い、生産規模を拡大したこと、所得倍増計画が実施されたことなどがあげられる。ところが1973年と79年の2度の石油危機によって、先進国はのきなみ経済不振におちいった。しかし1980年代後半には、バブル経済と呼ばれる好景気が到来した。1990年秋にはバブル経済は崩壊し、1990年代後半は景気の低迷が続いた。2004年になると、失業率も低下し始めるなど景気の回復がみられるようになった。2020年には東京五輪を予定し、オリンピック景気を夢に描いた。しかし2月からのコロナウイルス拡大により、生活・社会を一変せざるを得ない事態におちいる。そしてついに2月27日、感染拡大防止のため、国は全国の小中学校に休校を要請した。ウイルス感染を阻止することは、命を守ることである。そのためには緊急事態宣言を出して、経済活動をひとまず停止しなければならない。新型ウイルス感染の世界的流行はまだまだ続く。高度経済成長期から人口は農村から大都市圏へ移動し、集中することで現代生活を謳歌することに慣れている。満員電車、学校、劇場、映画館、スタジアム、祭り、観光地、私たちはどこでも混みあっていることに慣れている。ところがコロナ対策では真逆の「密」であることを避けなければならない。職場へ出勤せずにテレワーク、休校による自宅学習。イベント参加や外食はせずに、なるだけ家に引きこもられねばならない。これに対しては慣れていない。都市は閑散とし、ネズミが荒らしまわっている。まるでSF映画のような惨状が現実に起こっている。開店するも地獄、閉店するも地獄という。コロナ禍の影響の業界は航空、旅行、飲食、運輸業だけではない。豊かであるはずの街の開業医も収入が大きく減少したという。経済活動の停止状態はやがて一般のサラリーマンにも影響するだろう。生活が不便になったとか、物質的な面だけではなく、健康面や精神的な悪影響が懸念される。人類は長い間、疫病と闘い克服してきたが、いままで築くいてきた価値観では元の状態を戻すことはできない。いまこそ自然と調和した生活様式が求められる。コロナが鎮静化して日常が戻ったとしてもポストコロナの世界は新しい構造や秩序が生まれていくだろう。ポスト・コロナの時代は大都市集中密集を避けた暮らし、人びとの価値観は、簡素・静謐・芸術重視へと向かうかもしれない。

感染状況 現在感染者数
  506,127人  4月11日 
      513,749人  4月12日
  521,108人  4月13日
      531,080人      4月14日
      521,642人  4月15日 
  518,088人  4月16日
  514,898人  4月17日
     488,617人  4月18日 
  481,261人  4月19日
  480,608人  4月21日 
      470,651人  4月22日 
      448,055人      4月24日
      427,248人  4月25日
      428,840人  4月27日
  463,230人  4月29日
     351,073人  5月5日
  284,354人  5月29日
  334,543人  7月9日
 1,988,333人  8月19日 
 2,050,198 人   8月20日
 2,040,970人  8月22日
   43,587人     9月26日
   29,132人      10月7日
   33,868人      10月22日 
   16,498人      10月25日 
   27,371人      2月11日
   9,082人      3月11日
   10,323人    3月14日
   4,177人  3月22日 
   8,295人  3月25日
   3,171人  4月10日
   5,817人  5月5日

「この世はすべて舞台。そして男も女も役者に過ぎない」
   (シェイクスピア)

 

梅の日

 本日は「梅の日」です。天文14年(1545年)6月6日、後奈良天皇が京都・賀茂神社で祭神を祀る際に、梅が献上されたことに由来します。「万葉集」に、「むつきたち春の来たらばかくしこそ鳥梅を折りつつ楽ぬしきをへめ」とある。ウメとよんでいる。後にムメと発音するようになるが、ウメが正しい。鳥梅は中国の古名だが、鳥はカラスで黒いことを意味する。薬用として干した梅は黒かった。燻製の梅である。諸々の木の花にさきがけて雪中に花開くというので梅を「花の兄」といい、兄花ともいう。また中国で、哀帝(武帝ともいう)が本を読むと梅の花が開き、読むのをやめると花が閉じたというので「好文木」ともいわれた。また木母ともいう。梅は木扁に毎だが、木母なら栂、トガと読む。トガの木を関東でツガともいう。梅の木は奈良朝以前に朝鮮を経て中国から日本に渡ってきたもので、鳥梅をウメとよんだものである。。もともと、未熟な実を塩漬けにして干し、薬用としていたが、これが江戸時代に梅干しとして広く食用されるようになった。シソの葉で赤く着色する。

ノルマンディー上陸作戦

   1944年6月6日。Dデー(攻撃開始日)、すなわち連合軍の「史上最大の作戦」によるフランスのノルマンディー海岸上陸が開始された。ドイツ軍がフランス海岸に構築した「大西洋の壁」にいど連合軍は第1波兵力15万6000人以上。空軍はイギリス1万1590機、アメリカ6080機、他の連合軍5510機、海軍戦艦7隻、巡洋艦23隻、駆逐艦・フリゲート艦168隻、上陸用艇4126隻。総司令官はこの1月にアイゼンハワーが任命されていた。迎え撃つドイツ軍はUボートを除いて海軍はほとんどなく、空軍も連合軍の50分の1と、劣勢にあった。ここを守るB軍団司令官は「砂漠の狐」と称されたロンメルであった。連合軍を上陸させてから撃滅しようと考える西部戦線ドイツ軍総司令官ルントシュテットに対し、ロンメルは水際での迎撃を主張したが、双方ともに最善と思われる方法はヒトラーによって却下された。ヒトラーは、連合軍の侵攻を頭からあなどっていたのである。連合軍の攻撃はこの日午前1時30分、空挺部隊降下に空爆、艦砲射撃で始まった。シェルブールを目指すアメリカ軍は6時30分ビール川河口の2地点に、カーンを目指すイギリス・カナダ軍は7時30分オルヌ川周辺の3地点に上陸を開始した。上陸初日の連合軍は、わずかな地域しか占領できなかった。しかし、連合軍を上陸地点で破砕するロンメルの意図は崩れた。この日「6月6日」は連合軍にとって、大戦を勝利に導く第一歩として、忘れてはならない記念の日となる。

 

 

2024年6月 5日 (水)

賢者の贈り物

 アメリカの小説家オー・ヘンリーは1910年のこの日、死去した。「最後の一葉」「20年後」など約280の短編があるが、やはり代表作は「賢者の贈り物」である。クリスマス・イブの夜。貧しい若夫婦のジムとデラはプレゼントを交換する。ジムは金時計を売って櫛を買う。デラは髪を切って夫の金時計につける鎖を買う。お互いに贈り物は無駄になったが、お互いの深い愛情をたしかめあうという、心温まるストーリー。オー・ヘンリーの小説「賢者の贈り物」(1905年)のデラは妻のアソル・エステス(1868-1897)がモデルという。ヘンリーは実際に見聞したことを題材にして小説にするタイプだ。若い頃、二人があるセレモニーに参加し、アソルが記念に自分で髪を切って入れるのを、ヘンリーが見てこころひかれた。デラが自分の髪を切り、プレゼントをするという話は、若くして亡くなった愛妻アソルへの想い出が込められていたのだった。(6月5日)

 

 

脳に危険なスマホ依存症

 スマホを四六時中使っていないと不安になるスマホ依存症が問題になっている。スマホ依存が「もの忘れ」を引き起こす原因になるらしい。その「もの忘れ」はスマホ認知症だった(青春出版社)の著者奥村歩医師が解説する。「私が開設している「もの忘れ外来」の患者さんは、かつては大半が認知症の不安を抱えた高齢者の方たちでした。ところが、5年ほど前から30代から50代の働き盛り世代が目立つようになり、現在は約5割が65歳までの世代。皆さん、自分はアルツハイマー型認知症ではないか、心配して来館される患者さんです」だが、MRIで脳の状態を検査しても、アルツハイマー型認知症の特徴である、記憶をつかさどる脳の海馬部分の萎縮は見られない。「そこで患者さんに聞き取りをすると、皆さん、それこそ食事中だけでなく、トイレやベットの中でも肌身離さずスマホを操っているヘビーユーザーだという共通点が見られたのです」奥村医師はこれを「スマホにより脳が過労している状態」とし、「スマホ認知症」と名付けた。過度にスマホを使用すると脳過労になる。その大きな要因が、脳の中にある前頭前野への影響だ。いわば脳の中にゴミをためている状態になっている、と医師は指摘する。

 このほかスマホ依存症は脳に悪影響を及ぼすだけでなく、視力の低下、肥満、腰痛、頭痛、睡眠不足など身体に有害な病気を誘発する原因となると考えられる。また闇サイトにだれでも簡単にアクセスできるため、青少年の日常生活を破壊させることがみられる。ゲーム依存症や性的姿態撮影罪を犯す危険性がある。スマホや画像処理の開発は急速に進んでいるが、スマホに起因する負の側面を指摘する論者はほとんどいない。それはスマホが資本主義社会の利潤追求にウィンウィンの関係であるからである。人間とコンピュータが共存する社会をめざすのであるならば、スマホ依存の解決策に取り組んでもらいたい。

 

 

 

舟木一夫

 歌謡ポップスチャンネルで「NHK歌謡コンサート#243 心に響く青春歌謡ヒット曲」を放送していた。橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦、御三家が出演している。初回放送が2000年10月24日なので今から24年前の映像である。西郷輝彦は惜しくも2年前に他界したが、橋・舟木は現役で活躍している。とくに舟木一夫は公演は今でも熱心なファンで満席だそうだ。思えば1963年6月5日「高校三年生」でデビュー。100万枚を超える大ヒットで人気を博した。1970年代に入り心身の不調のため十数年に渡り低迷時代が続いたが、中年に入っても人気が衰えることはなかった。芸能界の浮き沈みは予測不能なことを証明する人である。

 

消滅可能性自治体

 戦後の日本は、人口が急激に増えていた社会から人口が減少する社会へと変わった。都市化と核家族化でかって賑わいをみせていた地方都市が急速に、人口流出による自治体人口の減少と平均年齢の上昇が顕著になっている。その結果、地方の活力が失われ、経済や文化など、あらゆる面において、大きな遅れが生じている。このような現状をみると、調和のとれた国土の発展という見地からも、早急に対策を講じ、その不均衡を解消する必要がある。

 先日、民間の有識者らで作る人口戦略会議は、各市町村における将来の20歳~30歳女性の人口減少率を50%以上超える自治体を、「消滅可能性自治体」であるとして公表された。東北地方と北海道は6割以上の自治体が「消滅可能性自治体」となって、青森と秋田については、8割以上の自治体が「消滅可能性自治体」となっている。北海道では主要都市である函館市や釧路市のほか、小樽市や岩見沢市、網走市なども含まれている。北海道の約2/3を超える117市町村が将来的に「消滅の可能性がある」とされる。ここでは函館市を一例として見てみる。令和になってからの人口推移をあげる。(単位:人)

令和元年 255,766
令和2年 252,198
令和3年 248,901
令和4年 245,274
令和5年 241,126
令和6年 236,648

  毎年、4,000人以上は減ってきている。函館の高校生は、卒業するとほとんどが東京へ上京、あるいは札幌へ進学・就職する。港湾都市として発展してきた函館市であるが、今や主な交通手段は船ではなく、航空機である。従来の基幹産業であった造船業や北洋漁業の衰退もあって産業が観光のみになっている。北海道に限らず人口減少の激しい地域では、巨大な建造物を作ったとしても廃業すると巨大な廃墟となることが予想される。

 

2024年6月 4日 (火)

歯の衛生週間

Photo    6月4日は「虫歯予防デー」だった。現在は4日から10日まで「歯の衛生週間」となっている。みなさんは歯磨きはいつしますか? わたしは、朝起きたら顔を洗ったら歯磨きをします。本当は食後にするのがいいのですが長年の習慣なので。これからは寝る前にもして1日2回に増やそうかなと思っています。1964年のコマーシャルで「リンゴをかじると血がでませんか」というフレーズが流行りました。俳優座の福田豊土(1934-1998)が出演していましたが、実は彼のお父さんは高名な日本画家、福田豊四郎(1904-1970)ですね。代表作に「海女」(1950年)があります。

 

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ミッドウェー海戦が始まる

   ミッドウェー海戦は1942年6月5日から7日まで続いた。実は日付変更線を越えた海域だったから現地時間では開始日は6月4日である。日本軍はミッドウェイ島を占領して北方の西部アリューシャン攻略の足がかりとする作戦を展開し、反撃のため出現が予想される米空母群を殲滅すべく、ほぼ全力で出撃した。この日本側に対し、暗号を解読していた米側は作戦を看破し、これを迎撃した。結果、日本は赤城・加賀・蒼龍・飛龍の4隻と重巡1隻が沈没し、航空機280機以上を失った。これに対し、米軍は空母1隻、航空機150機喪失にとどまり、日本は制空・制海権を失い、8月にはガダルカナル島への上陸をもって米軍の反撃が始まる。

 

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  沈没寸前の空母赤城

 

 

世界の女性国家元首

Photo メキシコで初の女性大統領が誕生するようである。前メキシコシティ市長のクラウディア・シエインバウム(61歳)である。エネルギー工学の専門の科学者という経歴の持ち主。今では、世界で女性の国家元首は珍しくないが、クレオパトラやゼノビア、則天武后、卑弥呼、推古天皇、エリザベス女王などの歴史上の女帝は除いて、世界最初の女性元首はトゥヴァ人民共和国のヘルテック・アンチマ・トカ(1940年から44年まで在任)。選挙で選ばれた元首といえばスリランカのシリマボ・バンダラナイケ(1916-2000)である。1960年-1965年、1970年-1977年、1994年-2000年の3度首相に就く。夫のソロモン・バンダラナイケはスリランカ自由党の創設者であるが、1959年に暗殺された。二女のチャンドリカ・クマーラトゥンガはスリランカの第5代大統領(在任1994-2005)。 インディラ・ガンディーは1966年にインド初の女性首相に選ばれた。ゴルダ・メイア(1898-1978)は1969年にイスラエル初の女性首相に選ばれた。

 

 

 

 

2024年6月 3日 (月)

世の中で一番悲しい事は、うそをつく事です

 「人間とは社会的動物である」

  アリストテレスは「政治学」において「人間はポリス的な動物である」と述べている。この言葉をもっと現代の資本主義社会のなかで考えてみるに「人間とはウソをつく動物である」と断言したい。

  トヨタ会長が認証不正問題で謝罪した。トヨタ、本田、マツダ、ヤマハ、ススキの5社で不正行為が見つかった。5社は認証試験で、虚偽データの提出や試験車両の不正加工などを行っていた。紅糀問題でも医薬品やサプリメントでの品質に対する製薬会社への信頼は大きく失われた。健康商品に限らず、通販商品などの誇大広告や虚偽など不正や悪質な商法は世の中に蔓延している。不要なモノを買わせるテクニックはますます巧妙に悪質化している。テレビ番組のヤラセや過剰な演出も見ていて気分が悪い。「CDTVライブ」のという音楽番組で街を歩く素人の若い女性が曲の評判を聞くシーン。3人グループの女性が最上級の誉め言葉で賛辞を述べているのが嘘くさくて嫌いだ。日本人が平気でウソをつくようになったのはいつからだろうか。安倍晋三の時代からウソが当たり前の世の中になったのだろう。2014年の青天の霹靂ともいえる年末総選挙。マスコミは安倍首相が今月に内閣を解散し、12月に総選挙を実施すると報道している。数日前まで記者団の質問に、年内解散を否定し「全く考えていない」と言っていた。安倍はこれまでも平気でウソをつく人だから言葉には信用できない。消費増税を先伸ばしを手玉にとって国民を欺く作戦とはやはり卑怯である。だが政治家のウソといえばやはり佐藤栄作である。佐藤は1967年に「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を持ち出したが、1969年の沖縄返還交渉で、ニクソン大統領と「有事の際の核兵器の再持ち込み」を認めた。その密約文書は今も佐藤家に保管されているという。

 「世の中で一番悲しい事は、うそをつく事です」

これは福澤諭吉の「心訓」の1つとして広く知られていた。だが近年の研究で、後年の偽作とわかった。世の中、うそつきが多いことだけは、肝に銘じたい。

 

 

 

 

2024年6月 2日 (日)

世界を変えた科学理論の発見

 小学生でも名前だけならだれでも知っているコペルニクス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン。現代の最先端の理論まで、科学史の流れはは繋がっている。いやコペルニクス以前のギリシア哲学者からアリストテレス、中世イスラムの科学者まで、今ではもちろん間違っているといわれる学説までも誤りを正すことから新しい科学が始まったのだ。

 私は文科系の学生だったので、読書というと学校図書館にズラリと並べられた膨大な世界文全集や世界の名著、日本文学全集を思い出す出す。そのすべてを渉猟したと豪語できないが、あらかたは通読した。「ギルガメシュ」「イリアス」「オデュッセイア」、「ラーマーヤナ」と「ハムレット」と「戦争と平和」と「源氏物語」と「アラビアン・ナイト」と「西遊記」。「失われた時を求めて」と「水滸伝」と「白鯨」と「城」・・・これらは人間の名において、書かれた偉大な本であるが、言語・風俗習慣・社会体制その他さまざまな違いがあるので、文学の流れという視点から考えると、何か決定的な繋がりを見出すことは多分に困難である。ところが自然科学という分野は、数学・物理・化学・生物・医学・地学・天文などの法則や理論は、紀元前8世紀から6世紀にかけて、ギリシアで発展した自然観に端を発していることはめいはくな事実である。ミレトス派のターレス、「万物は流転する」と唱えたヘラクレイトス、数を絶対化したピュタゴラス、宇宙における生成と消滅、または原子の結合と分離によるものと考えたデモクリトス。こうして原子論にもとづいた唯物論が生まれた。ノーベル賞が自然科学に与えるのは誰しも納得できるが、文学賞だけは選考審査が困難という理由もそこにあると思う。

横浜開港と岩瀬忠震

041_04     本日は横浜港開港記念日。安政6年のこの日、前年に井伊直弼が勅許を得ずして調印した日米修好通商条約によって、横浜、長崎に港が開かれた。

   水野忠徳や小栗忠順とともに「幕末三傑」と称された岩瀬忠震(いわせただなり 1818-1861)。1854年、阿部正弘に見出されて目付を任され、軍艦操練所や洋学所の開設、品川の砲台の築造などに注力した。その後、外国奉行として日露和親条約、日米修好通商条約に署名。開国に積極的な、開明的な外交官として列強との折衝にあたった。1858年、13代将軍・家定の後継者争いで慶喜を支持。井伊直弼ら反対派の弾圧に遭い、安政の大獄で作事奉行に左遷。のち蟄居を命じられた。(6月2日)

岩瀬忠震関係文献
岩瀬肥後守家伝 維新史料56 1890
岩瀬鴎処 川崎紫山 春陽堂 1897
巖瀬鴎所君墓碑 永井介堂 旧幕府8 1897
岩瀬肥後守 福地源一郎 民友社 1900
近世百傑伝 千河岸貫一 博文館 1903
匏庵遺稿 栗本鋤雲 裳華房 1903
人物と遭遇 犬養毅 博文館 1922
岩瀬忠震 太田熊太郎 中央史壇12-9  1926
岩瀬忠震の開国交易思想 松本順 経済論叢54-3  1942
岩瀬肥後守忠震とその手記 京口元吉 早稲田大学史学会1961.7
幕末三俊の随一・岩瀬忠震 坂田吉雄 日本及日本人1972.7
岩瀬忠震 日本を開国させた外交家 松岡英夫 中公新書 1981
横浜開港の恩人岩瀬忠震 森篤男 横浜歴史研究普及会 1982
岩瀬忠震の年譜的研究 飯田虎男 1996
日本の開国と3人の幕臣 桑原三二 1996
一橋派運動と岩瀬忠震 飯田虎男 政治経済史学 1997.2
光芒遥かなり 小説岩瀬忠震 岸上耿久 忠震会 1998
暁星 開国の扉を開けた幕吏・岩瀬忠震 森健次 文芸社 2001
知性 岩瀬忠震のことなど 赤塚行雄 公平2006.11
幕末三美男政治家 阿部正弘、安藤信睦、岩瀬忠震 野口武彦 東京人2008.4

2024年6月 1日 (土)

西洋美術インデックス

Photobyalfredeisenstaedttakenonvjdaアイゼンシュタット,アルフレッド
アヴェド,ジャック・アンドレ
アヴリル,ジャンヌ
アウレリオ,ニッコロ
青いバラ

 

   アルフレッド・アイゼンシュタット(1898-1995)はアメリカの報道写真家。VJデー(対日戦勝記念日)、ニューヨークのタイムズ・スクエアには終戦の喜びを味わおうと多くの人々が集まっていた。ライフ誌の表紙を飾ったのがアイゼンシュタットが撮影した「勝者のキス」である。モデルは看護婦エディス・シャイン、水兵カール・マスカレーロ。

 

  ジャンヌ・アヴリル(1868-1943)はロートレックのモデルとして有名。

 

    ニッコロ・アウレリオはティツィアーノに「聖愛と俗愛」を作成依頼したべネツィアの貴族。

 

   「青いバラ」(ゴルーバヤ・ローザ 1907年)とはパーヴェル・クズネツォフ、ミリューティ兄弟、M.S.サリヤン等のロシア象徴主義第2世代の画派。

 

(Alfred Eisenstaedt,Jane Avril,Pavel Kuznetsov)

日本にある印象派シスレーの絵画

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「サン・マメス6月の朝」
1884年 ブリジストン美術館蔵 

    印象派の巨匠シスレーの「サン・マメス六月の朝」は東京・ブリヂストン美術館の至宝である。6月の朝の光のさわやかさを、遠近法のうちに、鮮やかな光と影の入念な描き分けによって惜しみなく表現している。樹葉のひろがりに点綴された色斑の筆触も制御されたものであり、色彩も豊潤である。サン・マメスはパリ近郊の田舎町で何度も描いているが、シスレーは一度も住んだことはなかった。

   「彼はすぐれた空の画家であり、エーテルの奥行きを表現し、この広がりの中に雲の群れを浮ばせることを知っていた。彼は、晴れやかな自然への愛をもって、ある一日の風景の魅力や穏やかさを彼なりに表現した」(ギュスターヴ・ジェフロワ)

東京のブリジストン美術館にはほかに2枚のシスレーの作品がある。

 

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 「シュレーヌのセーヌ河」1879年

 

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 「森へ行く女たち」 1866年

孔子はジャイアント馬場より大きかった!?

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 むかしチャールズ・バーン(1761-1783)という男がいた。1780年代のロンドンで大衆の注目を集めたアイルランド出身の巨人症の人物である。彼の正確な身長は推測の域を出ないが、大多数の記述が8フィート2インチ(248cm)から8フィート4インチ(254cm)の身長であったと言及している。彼はロンドンですぐさま街の人気者となり、富と名声を手に入れたが、やがて市民の関心はなくなり廃れていく。1783年6月1日、22歳の若さで茶リングクロスのコックスパーストリートの安アパートで大酒が原因で死んだ。

   孔子の身長は9尺6寸で、春秋時代の1尺が22.5㎝だから、およそ216㎝ということになる。ちなみにジャイアント馬場が209㎝だから、それよりも大きい。三国志の諸葛孔明も長身で190㎝くらいはあったという。長身というのが中国の偉人像の1つの条件なので、あまりあてになる話ではない。参考:「孔子の身長について 春秋時代の尺度と評価」若江賢三 人文学論叢16  2014年

梅雨と水害

Ad011  この季節、梅雨前線を原因とする集中豪雨が何回も起こっている。昭和28年の西日本水害。筑後川を始め白川など九州北部を流れる河川がほぼ全て氾濫し、死者・行方不明者1001名、浸水家屋45万棟、被災者数約100万人という最悪の大災害となった。土砂災害や川の増水などに注意しよう!!

 「梅雨」という語は江戸時代の文献にはなく明治になってから使われるようになった。一説によると、このころに黴が生えることから黴雨(ばいう)といい、のち発音の似た「梅」の字を当てたという。中国でも「梅雨(メイユー)」といい、古く「霉雨」という字が当てられる(「霉」はカビのこと)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 福岡市ミカド食堂の女性たち

北磁極、発見(1831年)

3315250    イギリスの探検家ジェイムズ・クラーク・ロス(1800-1862)は北磁極を目指して1831年6月1日到達した。彼はカナダ北部ブージア半島のアデレード岬を北磁極とした。現在はおよそ北緯79.74度、西経71.8度の地点。ジェイムズは1839年から1843年にかけて南極探検を行い、1841年、ロス海を発見した。( keyword;James Clark Ross,North Magnetic Pole,Ross Sea,eponym )

 

 

 

 

 

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