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2024年6月30日 (日)

移動する琵琶湖

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奥比叡ドライブウェイ展望台から高島の岬を眺める

   日本で最も大きな湖、滋賀県にある琵琶湖。しかし琵琶湖は毎年小さくなって、北へ移動しているという。現在の面積は669.26㎢であるが、50年前は675.3㎢(旺文社EPOCA 1975年刊)だった。琵琶湖は毎年2センチ程度、北へ移動している。琵琶湖は約400万年前、現在の三重県上野盆地に琵琶湖の起源となる大山田湖が誕生した。そして古琵琶湖と呼ばれる湖は次第に北上し、現在の甲賀地方に広がった。約200万年前ごろ、近江盆地へ移動し、約150万年前には古い湖は消滅し、礫で埋まった。そして約40万年前、今の位置まで移動して新しい湖を形成した。それが現在の琵琶湖である。古琵琶湖の位置から算出すると、年平均はおよそ2.2cm北へ移動したことになる。1970年代に国土地理院が測定した琵琶湖の最深部と比べると30cmも深くなっている。凹状が変化しているが移動しているとはいえない。だが琵琶湖の北には活断層があるのでさらに移動し、将来は日本海に達して湾になることも考えられる。

名誉革命のはじまり(1688年)

    イギリスでは、1688年から89年にかけて名誉革命が起こった。1688年のこの日、ジェームズ2世にかわって、時のオランダ総督オラニエ公ウィレムは、公妃メアリー(ジェームズ2世の娘)とともにホイッグとトーリー両党の招請を受けた。これが名誉革命のはじまりである。のちに1万4000の軍を率いてイギリスに上陸し、イギリスの王位を継承した。ウィレム3世として即位した新王は「人権宣言」を発し、「宗教寛容令」を公布した。ジェームズ2世時代、王を支持する一派をトーリー党(首領ダンビー伯トマス・オズボーン)、議会と非国教徒への寛容を重要視する一派をホイッグ党(首領シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー・クーパー)の両派が争ったが、綱領など明確な物はまだなかった。後にトマスが結成した宮廷党がトーリー党ーと発展する。名誉革命によってイギリスの立憲王政が確立した。

  1689年、王妃メアリーと同船してイギリスに帰ってきた一人の哲学者があった。ジョン・ロック(1632-1704)である。彼は「名誉革命の哲学者」として知られ、1690年公けにした「政府二論」の目的は「わが国の偉大な再興者である現在ウィリアムの玉座を確立し、王の正統性を人民の同意のうちに基礎づけること」であった。

Locke     ロックの最大の業績は、政治理論家として近代市民社会を支える民主主義的原理を追求した。とくに、近代的な「自由」の観念を明らかにしたことである。「社会における人間の自由は、国家における同意によって確立された立法府の権力以外のいかなる権力にも屈せず、この立法府がみずからに託された信託に従って制定する法以外には、いかなる意思の支配も、いかなる法の拘束も受けないということのうちに存する」(「政府二論」第8章政治社会の起源について)のである。ロックの思想は名誉革命の理論づけだけでなく、アメリカ独立宣言にも影響を与えている。(6月30日、the Glorious Revolution)

 

 

 

 

「風と共に去りぬ」題名の由来

   1926年、マーガレット・ミッチェルは落馬による左足首を捻挫し、関節炎を起こし、回復に手間どったため、5月にアトランタ・ジャーナル社を退社。この頃からむさぼるように読書する。読書の範囲は広く、文学、歴史、医学、考古学、探偵小説等。一日8冊を読み上げるので、夫のジョン・ロバート・マーシュは毎日一抱えの本を持って市立図書館へ往復しなければならなかった。この年、夫のすすめに従い「風と共に去りぬ」を書き始める。執筆の動機は母の話がきっかけだった。少女時代、あまり学問が好きでなかったので、母はある日の午後アトランタの郊外へ彼女を伴い、南北戦争で荒廃したままの土地を見せて歩いた。戦争から多くの歳月が過ぎたそのころでも、この地方の土地や生活には戦禍のあとがまだなまなましく残っていた。母はあちこちの建物を指して、戦争と復興の苦難を乗り越える意力と能力のあった家と、うちつづく困苦を切りぬけるだけの力がなかったために没落していった家とを教えて、彼女の心に、あくまでも生きぬく力を喚起させ、そのためには学業がいかにゆるがせにならぬものかを説いてきかせた。そのときのことはのちのちまでも忘れられなかったという。その人たちの中には成功しようとして戦いぬいた人と、その戦いに雄々しくいどんで敗れた人と、やっと生きのびているだけの人とがあったわけで、これをテーマに小説を書こうと思ったのが、畢生の大作を生む動機となったのである。1933年、前後7年間にわたって断続的に書きつづけた「風と共に去りぬ」はほぼ脱稿した。1935年、マクミラン出版社の副社長ハロルド・S・レイサムは、ミッチェルが大作の草稿を筐底に秘めていることを知り、ぜひそれを見せるようにと懇願した。ミッチェルは気がすすまなかったが、ついに決心して原稿を副社長に見せることにした。マクミラン出版社がこれの刊行を決定したのは同年夏のことである。1936年6月30日、「風と共に去りぬ」はニューヨークのマクミラン出版社から刊行され、一年間で150万部を売りつくした。

   本の題名については、出版社側は「明日がある」(アナザー・デイ)を採用することを内定していたが、彼女はさまざまな題名を提案しつづけた。その一部をあげると、「苦難を荷え」「一里塚」「めえ、めえ、黒羊=無頼の嘆き」「いつかは日が開く」「無情の星」「ラッパの調べは切なし」

    最後の題名は、つぎのような南北戦争時代の戦歌からとったものである。「ラッパの調べは切なし、夜の雲低く垂れ、星が空にきらめくころ。兵士みな地に伏す。疲れしものは眠り、傷つきしものは死に」この題名そのものは、かなり彼女の気に入ったのだが、「ラッパの調べ」が彼女のいわんとするところを切実に物語るものとも思えなかった。しかし、それを契機として、何かほかの詩のなかに引用できる辞句があるのではないかという期待をもつようになり、それとなく気をつけていた。やがて10月の最後の週に、マーガレットは一冊の英詩集を開いて、アーネスト・ダウスンの詩「われはもはやシナラをともに愛せしころのわれにあらず」に、なにげなく目をやった。この題はホレースの頌詩からとったものである。マーガレットは以前からこの詩を愛していた。1900年に肺結核で短い数奇な生涯をとじた審美派の英詩人ダウスンの代表的叙事詩で、当時の若い世代の人々はこの詩の冒頭を読んだだけで、異常な感動にうたれたのであった。「前夜、ああ、昨夜、かの女とわが唇の間に、きみは影を落とした。シナラ!」そして、つぎの反復句がつづく。「われはわれなりに、きみにまことをささげてきた。シナラ!」やがてつぎの二行がマーガレットの目をとらえた。

「われは多くを忘れ去った。シナラよ!すべては風と共に去った。バラは、棘もろともあらあらしく吹き飛ばされた」 I have forgot much,Cynara!gone with the wind

「風と共に去った」 これこそ、まさに彼女が探していた言葉だった。(参考:フィニス・ファー「マーガレット・ミッチェル物語」河出書房)

( Margaret Mitchell,Ernest Dowson、アーネスト・ダウサン )

 

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2024年6月29日 (土)

パウロ生誕論争

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 マルタ島に難破したパウロは逆境に打ち勝った

  キリスト教をローマ帝国に普及するのに最も功の多かったのはパウロである。皇帝ネロ治下に殉教の死をとげたと伝えられ、紀元64年とも65年ともいわれる。生年は不詳。キリキア州のタルソスで生まれた。フィレモンへの手紙によれば、パウロは自分を「年老いた(ブレスビューテス)」と言っている。古代の数え方によれば「年老いた人」は60歳に達した人をいう。このことから逆算すれば、①紀元8年説②紀元10年説(万有百科大事典4)などが有力である。カトリック教会では2008年6月28日から2009年6月29日までを「パウロ年」と定めパウロの生誕を祝った。もちろん生年が明らかでないが、歴史家はパウロの生誕を紀元7年から10年までの間とみなしている。

2024年6月28日 (金)

貿易記念日

 安政6年のこの日、江戸幕府がアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの5か国と締結した友好通商条約に基づき、横浜、長崎、箱館で自由貿易を布告した。これに因んで昭和38年に「貿易記念日」が制定された。日本はかつては輸出大国だったが、現在は輸入・輸出の額はほど同じくらい。日本の貿易で、輸出額が多いのは、自動車、半導体等製造装置など。輸入が多いのは、原油・石炭・LNGなどの鉱物性燃料です。(6月28日)

 

 

 

 

サラエボ事件(1914年)

P0790   バルカン半島は小さな国々で構成され、あるものは独立国、あるものは600年もトルコ宗主の支配下にある国々であった。それらの諸国は、経済的に立ち遅れ、政治的にも不安定で、ヨーロッパの工業化の主流からはずれていた。バルカン問題を巡っての最初の国際的な事件は、1908年にオーストリアがボスニア・へルツェゴヴィナを略奪したことである。ヨーロッパの平和に危機が迫りつつあることは、いまや明白であった。 1914年のこの日、オーストリアの帝位継承者フランツ・フェルディナンド夫妻が、バルカン半島のサラエボで一青年ガヴリロ・プリンツィプにピストルで暗殺された。7人の暗殺犯は、かねてから反オーストリア運動を企てていた「黒手組(「黒い手」とも訳す)」ツルナ・ルカの団員であった。反オーストリア運動に憤激していたオーストリアは、セルビア政府に対し、「犯人の裁判にオーストリア判事の参加」を含む最後通牒を1ヶ月の期限付きでつきっけ、セルビアがこの項目をうけいれないため、戦争は勃発した。短期間のうち、世界的規模で戦争が拡大したので「世界大戦」と呼ばれるようになった。ドイツ・オーストリアを中心とする同盟国側に対し、イギリス・フランス・ロシアの協商側は連合国と称した。この戦争は、予想を裏切って短期決戦では終わらず、長期化するとともに世界化し、国民の総力を動員する総力戦または全体戦争となった。

220pxgavrilloprincip_2     世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件の7人の暗殺犯はどうなったのか。大公暗殺犯(サラエボ事件)の一人であるガヴリロ・プリンツィプ(1894-1918)はその後、セルビアの愛国者として賞揚された。プリンツィプは犯行当時、未成年だっため死刑を免れ、懲役20年の刑を宣告された。しかし劣悪な刑務所環境のため結核により、1918年4月28日、獄死した。7人の暗殺犯のうち、ヴァソ・チュブリロヴィチはベオグラード大学教授、ユーゴスラビア森林相を勤め、1990年に死去した。最初に手榴弾を投げたネデリュコ・チャブリノヴィチは1916年に獄中で死亡した。Gavrilo Princip(6月28日)

 

 

 

2024年6月27日 (木)

ラッフルズの日本侵略計画

Photo_2  文化10年(1813年)6月27日、イギリス船が出島のオランダ商館を乗っ取りのため長崎に入港してきた。オランダ商館長ズーフはこれを拒否し、イギリスの侵略計画し失敗に終わった。黒幕はイギリス東インド会社、ジャワ副総督だったトーマス・ラッフルズ(1781-1826)だ。ラッフルズはインドネシアのジャワの植民政策で成功し(ボロブドゥールの復元、動植物の新種の発見などもしている)、その後、東アジアの貿易の拠点となる港を探していた。日本を諦めたラッフルズはシンガポールに貿易港を建設した。もともとシンガプラ(サンスクリット語で「獅子の都市」の意)と現地では言っていたが、イギリス人に発音しやすいようシンガポールと改めた。(参考:永積洋子訳「ドゥーフ日本回想録」) Thomas Stamford Raffles

2024年6月26日 (水)

オリエンテーリングの日

   森へ行こう。大自然が育んだ深い森。その森に抱かれるように身をまかせれば、木々からの木洩れ日、鳥のさえずり、やわらかな土の感触…。森はドイツ語でデア・ヴァルト(der Wald)。

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 昭和41年のこの日、東京・高尾山で日本初のオリエンテーリングが行われた。オリエンテーリングとは、地図とコンパスをたよりにチェックポイントを順番にたどってゴールするまでの時間を競うスポーツである。(6月26日)

 





探検の世界史

 未知の地域を踏破し、調査する事業を探検というが、探検の歴史はそのまま人類の地理的な知識の発展史といえる。 NHKスペシャル「幻の山カカボラジ」2014年3人の日本人登山家の登頂ドキメンタリー。あとわずかのところまで来たものの雪山で断念する。

前1100年 アッシリアのティグラト・ピレセル1世、ティグリス川を探る
前989年、周の穆王、洛陽からウルムチ、オムスク付近までを探る(穆天子伝)
前7世紀末 フェニキア人、エジプト王ネコ(前610~595)の命により、アフリカ海岸を探検
前630年  ギリシアのコラエウス、エーゲ海から地中海を渡り、ジブラルタル海峡を通る。初めて大西洋に達したギリシア人となる
前510年  ペルシアのシラックス、インダス川より出帆、アラビア半島をまわって、エジプトに至る
前470年  カルタゴのハンノ、アフリカの西海岸をシェルブロ海峡まで探検
前401年  ペルシアのギリシア人傭兵クセノフォンの脱出行(~前400年)
前332-326年  マケドニアのアレクサンドロス大王、軍勢をひきいて、中央アジア、エジプト、ペルシアを征服、インダス川に至る
前218年 カルタゴのハンニバル、軍勢をひきいて、スペインからアルプスを越え、イタリアに侵入
前120年 ギリシアのエウドクソス、エウエルゲテス2世によって、エジプトからインドへの海のルートを見つけるため派遣される
前56年 ローマのユリウス・カエサル、フランス・ドイツ・イギリスに遠征
前20年 ローマのストラボン、地理学的な情報を求めて、ヨーロッパ・アジア・エジプト、そしてリビアを旅行した
60-70年 ディオゲネスがナイルの源を見つける
84年    ローマのユリウス・アグリコーラ、イングランドを周航
97年    後漢の班超が甘英をペルシャ湾まで派遣
102年   李広、フェルガナ遠征に成功
114年   ローマがメソポタミアまで遠征し、この時ローマ帝国の境域が最大となる
150年   プトレマイオス、「地理学」を出版
166年   大秦王安敦の使者が中国に来る
255年   ゴート人、ギリシアを侵略する
399年   法顕のインド旅行「仏国記」が書かれる(~414年)
629年   玄奘のインド大旅行(~645年)
730年   イギリスの聖ウィリーバルドがサウザンプトンからイェルサレムに至り、イギリス人として聖地に最初の足跡を残す
1291年  マルコ・ポーロの東方旅行(~1295年)
1325年  イブン・バトゥータがアフリカ・アラビア・ペルシア・インド・中国と大旅行(~1354年)
1445年  ポルトガルのジョアン・フェルナンデス、ヴェルデ岬を発見
1488年  バーソロミュー・ディアス、喜望峰に到達
1492年  コロンブス、北米発見
1497-1499年 アメリゴ・ベスプッチの航海
1498年  バスコダ・ガマ、インド航路の発見
1498年  ジョン・カボット、北米海岸を発見
1500年  カブラル、ブラジル発見
1501-1502年 アメリゴ・ベスプッチ、ブラジル海岸踏査
1508年  カボット、北米を探検し、ハドソン湾を発見し、フロリダまで達した
1513年  バルボア、太平洋を発見
1513年  ポンセ・デ・レオン、フロリダを発見
1519-1522年 マゼラン一行の世界周航
1526年  カボット、ラプラタ川流域を探検(~1527)
1567年  スペインのメンダーニャ、太平洋を航海、ソロモン諸島を発見
1580年   イギリスの海賊フランシス・ドレークが世界一周を達成
1648年   セミョン・デジニョフ、ロシア・チュクチ半島のデジニョフ岬に到達
1701年  イギリスのダンピアがオーストラリア、ニューギニアを探検
1768年  イギリスのジェイムズ・クック、世界周航に成功。ニューカレドニア諸島を発見
1811年  ユングフラウが初登頂された
1849年  イギリスのリヴィングストン、カラハリ砂漠を超えてアフリカ奥地を探検。ザンベジ川およびヴィクトリア湖を発見(~1973)
1858年  イギリスのバリントンがスイスのアイガーを初登頂に成功。
1858年  イギリスのジョン・スピーク、ヴィクトリア湖およびナイル川の源を発見
1878~79年 スウェーデンのノルデンショルド、北極海からベーリング海峡をぬけ、北東航路をひらいた
1880年  イギリスのウィンバー、南米のチンボラソ山に登頂
1893年  スウェーデンのスウェン・ヘディン、チベットおよびモンゴルを探検(~1907年)
1898年  ジョシュア・スローカルが史上初の単独世界一周を達成 
1901年  アニー・エドソン・テイラーが初めてナイアガラ滝を樽に入って下り、生還に成功。
1909年  アメリカのロバート・ピアリー、北極点に到達
1911年  ノルウェーのアムンゼン、南極点に到達
1912年  デンマークの貨客船セランディア号、世界初のエンジンにより航海
1922年  イギリスの探検家マロリーは、当時の最高到達高度、エベレスト8225mに達する
1926年  アメリカのバードとベネット、飛行船で北極点飛行に成功
1927年  アメリカのリンドバーグ、大西洋の横断飛行に成功
1929年  アメリカのバード、南極にリトル・アメリカ基地を設営、飛行機で南極点上を飛ぶ
1947年  ノルウェーのトール・ヘイエルダールがコンティキ号でペルー~ポリネシア8300キロの太平洋漂流実験に成功
1953年  イギリスのヒラリーおよびネパールのテンジン、エヴェレスト山に登頂
1961年  ソ連のガガリーン、ヴォストーク1号に乗って、人類最初の宇宙飛行に成功
1969年  アポロ11号、人類初の月世界到達成功した。全世界の何十億の人がテレビを通じて見守る中を、アームストロングが初めて月面を歩いた人間となった。
1976年  植村直己、グリーンランド~カナダ~アラスカの犬ぞり一人旅に成功
1979年  長谷川恒男、アルプス三大北壁の冬期単独登攀に成功

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦争の世界全史

300px131_bataille_de_malazgirt  ウクライナ侵攻のロシア軍は、北部で集合住宅など空爆、南東部でマリウポリなど主要都市を制圧。ロシアはウクライナ南部のダムを攻撃し、多くの住宅が浸水している。今後、ウクライナの反転攻勢が強まるとみられる。「人類の歴史から戦争をなくさなければならない」(ゼレンスキー大統領の広島サミットでの演説)

 数千年以上の太古の昔から今日まで、人類は文明の発生とともにいつも戦争を繰り返してきた。戦争は何故起こるのか。最近の考古学的知見によると、世界のどこでも旧石器時代の男子の死者のおよそ15%は殺人によって死亡している。これは人類の顕著な特徴であり、食糧や雌をめぐる争いはどの動物にもあるが、このような激しい戦いはみとめられない。人類が道具を使うことにより、武器による先制攻撃が優位となること、確実に勝てるという合理的行動が戦闘をひきおこすのである。こうして戦争はいつの時代も絶えることなく繰り返される。ヒストリーチャンネル「MANKIND人間史」によると有史以来人類は1万4500回もの戦争を繰り返してきたとある。戦争の原因も民族・宗教にイデオロギーが加わって、世界各地でテロが発生した。集団的自衛権を容認する安保法制が成立し、日本も紛争にまきこまれるようになった。2016年7月、ダッカでISに日本人7人が殺害された。

前25世紀、ラガシュの王エアンナトゥムがウンマの軍を破る

前23世紀、古代バビロニア、アッカド王国のサルゴン王は「戦いの王」といわれ、オリエント各地を遠征・征服を繰り返す

前1674年、ヒクソスのエジプト侵入(前1674~前1567)

前1620年、ヒッタイト・フルリ戦争(前1620~前1325)

前1457年、エジプト王国のトトメス3世はメギドの戦でカデシュ王率いるカナン連合軍(カデシュ、メギド、ミタンニ)を破る

前1350年、ヒッタイト王シュピルリウマ1世がミタンニ王トゥシュラクを滅ぼす

前1274年、エジプト王国のラムセス2世はカデシュの戦でヒッタイト王ムワタリに敗れる

前1200年、トロヤ戦争起こる。アカイア人の遠征軍と小アジアのトロイアの戦い

前1070年、殷の紂王は牧野の戦で、周の武王に敗れ、700年に及ぶ殷王朝は滅び、周王朝が成立する

前736年、スパルタがメッセニアを破る(メッセニア戦争)

前638年、楚の成王が泓水の戦で宋の襄公を破る

前632年、晋の文公が城濮の戦で楚の成王を破る

前609年、ユダ王国のヨシヤがメギドの戦でエジプトのネコ2世に敗れる

前605年、ネコ2世はカルケミッシュの戦で新バビロニアのネブカドネザルに敗れる

前591年、プサメティク2世、クシュ王国に侵攻

前580年、スキタイ遊牧民マッサゲタイのトミュリス女王がペルシアのキュロス大王を破る

前575年、晋が鄢陵の戦で楚を破る

前540年、エトルリア・カルタゴ連合軍がサルディニア島のアラリア沖で、ギリシャ軍と海戦し勝利する。

前484年、呉王夫差が艾陵の戦で斉を破る

前490年、ダリウス1世 マラトンの戦でミルティアデス率いるギリシア軍に敗れる

前480年、ギリシアのスパルタ王レオニダスはテルモピュライの戦でペルシア軍を迎え撃ち、その南下を防いたが部隊は全滅する

前480年、ギリシアのテミストクレスはサラミスの海戦でペルシアの大軍を破り、クセルクセス1世は退却する

前479年、ギリシアがミュカレの戦でペルシアに勝利する

前479年、ギリシアがプラタイアの戦でペルシアに大勝する

前432年~前430年、アテネがポティダイアの戦でコリントスとペロポネソス同盟諸国に勝利した

前406年、アテネがアルギスサイの戦でスパルタに勝利した

前405年、スパルタはペルシアの資金により海軍を設け、アイゴスポタモイの海戦でアテネに勝利した

前404年、アテネがスパルタに降伏し、ペロポネソス戦争が終わる

前396年、ローマ軍、エトルリア人の首都ウェイイを征服

前394年、アテネ人コノン指揮のペルシア軍はクニドスの海戦でスパルタ(ラケダイモーン)を破る

前390年、ローマ軍クイントゥス・スルピキウスが初めてイタリアに侵入したブレンヌス率いるガリア人セノネス族とアッリアの戦で敗れる

前371年、スパルタを中心とするペロポネソス同盟軍がレウクトラの戦でテーバイを中心とするボィオティア同盟軍に敗れる

前362年、アテネ・スパルタ連合軍がマンティネイアの戦でテーベのエパミノンダスの軍に敗れる

前343年、秦は馬陵の戦で斉の孫臏の策により大敗する。

前343年、第一次サムニテス戦争(~前301年)

前338年、ギリシャがカイロネイアの戦でマケドニアのフィリッポス2世の軍に敗れる

前333年、ペルシア軍がイッソスの戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前334年、ペルシア軍がグラニコス川の戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前331年、ペルシア軍がガウガメラの戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前326年、アレクサンドロス3世はインドのパンジャブ地方まで侵攻したが、ピュダスぺス河畔の戦でパンジャブ地方の領主ポロス王に苦戦し、やむなく東方遠征をやめる。

前305年、シリア王セレウコス1世、マウリア朝チャンドラグプタに敗れる

前280年、エペイウス王ピュロスがローマ・カルタゴと戦う(~前275年)

前260年、秦の昭王が長平の戦で趙を破る

前241年、ローマ軍がアエガテスの海戦でカルタゴを破る

前220年、メディア総督モロンはアポロニアの戦でセレウコス朝のアンティオコス3世に敗れる

前216年、ローマ軍がカンネーの戦でカルタゴのハンニバルに敗れる

前202年、カルタゴのハンニバルがザマの戦でローマのスキピオに敗れる

前202年、項羽、垓下の戦で劉邦に敗れ自殺

前168年、ピュドナの戦い。共和政ローマ軍アエミリウスがマケドニア軍ペルセウスに大勝し、マケドニア王国滅ぶ(第三次マケドニア戦争が終結)。

前111年、ローマの保護領ヌミディアの王位をめぐりユグルタとローマ軍が争う。前105年にマリウスが勝利する。

前101年、ローマ軍がキンプリ・テウトニ族を破る。

前95年、同盟市戦争。

前85年、ローマのスッラがオルコメノスの戦でポントス王ミトリダテス6世を破る

前52年、アレシアの戦いが終結し、ガリアがローマの属州となる。

前48年 ポンペイウス、テッサリア平原のファルサルスの戦でカエサルに敗れる

前46年 タプススの戦い。カエサル軍が元老院派の軍を破る

前45年、カエサル、ムンダの戦でポンペイウス派の残党を破る。

前44年、カエサル暗殺される。

前42年、カエサルを暗殺したブルトゥス、カッシウスがフィリッピの戦でアントニウス、オクタウィアヌスに敗れる

前31年、アントニウス、アクティウムの海戦でオクタヴィアヌスに敗れる

前23年、劉秀、昆陽の戦で王莽を破り、漢室再興を果たす

後9年、ローマ帝国がトイトブルクの戦でゲルマンに大敗する

49年、ベトナムのチュン姉妹は後漢の侵略に抵抗し、処刑される

66年、ユダヤ民族のシモン・バル・ギオラが反乱を起こす。

70年、エルサレム攻囲戦で、ローマ軍がエルサレムの第2神殿を破壊する。

73年、マサダ砦に籠城したユダヤ人967人が集団自決し、ユダヤ戦争(66-73)が終わる

191年、董卓と袁紹が虎牢関で衝突。董卓の部下呂布が盤下で董卓を殺す。

192年、襄陽の戦で孫策は戦死し、劉表が勝利する。

200年、曹操、官渡の戦で袁紹を破る。

208年、曹操が劉備・孫権連合軍に赤壁の戦でい敗れる。

211年、曹操が渭水の戦で馬超・韓遂らを破る。

215年、陽平関の戦い。曹操、関中の張魯を下す。

215年、曹操が合肥の戦で孫権を呉の孫権を破る。

219年、定軍山の戦い。曹操、劉備軍に敗れ、関中を放棄。

219年、劉備軍の関羽が樊城の戦いで水攻めにされて殺される。

222年、劉備率いる蜀漢軍が夷陵の戦で呉の陸遜軍に敗れる。

224年、曹丕が呉を攻めるも長江で大敗する。

228年、蜀漢軍の馬謖が街亭の戦で魏軍に敗れる。

228年、蜀漢軍が陳倉を攻略、第二次北伐が失敗する。

228年、呉の孫権が石亭の戦で魏の曹休を破る。

234年、蜀諸葛亮が五丈原の戦で魏司馬懿と対戦したが、蜀漢による第五次北伐が失敗する。

238年、遼東平定戦。司馬懿、公孫淵を討つ。

244年、魏の曹爽は興勢の役で蜀軍に敗北し撤退した。

260年、ローマ軍はエデッサの戦でササン朝ペルシアのシャープール1世に敗れ、ウァレリアヌス皇帝は捕虜となる。

280年、石頭城の戦い。晋軍、呉に侵攻。大勝して呉滅び、中国を統一。

312年、ローマ皇帝正帝マクセンティウスがローマ郊外のミルウィウス橋の戦(サクサ・ルブラの戦)で副帝コンスタンティヌス1世に敗れる

313年、東のローマ皇帝マクシミヌス・ダイアがツィラッルムの戦でローマ皇帝リキニウスに敗れる

351年、ローマ皇帝コンスタンス1世がムルサの戦でコンスタンティウス2世に敗れる

363年 ローマ皇帝ユリアヌスが、ササン朝の首都クテシフォンの城壁まで進撃するが、城を落せず撤退する

378年、ローマ帝国軍、ハドリアノポリス(アドリアノーブル)の戦で西ゴート族に敗れ、皇帝ヴァレンスが戦死。トラキア地方がゴート族に占領される。

383年、前秦の符堅が淝水の戦で晋の謝石・謝玄に敗れる

402年、スティリコがボレンツァの戦でアラリックの西ゴート軍を破る

451年、フン族の王アッティラがカタラウヌムの戦で西ローマ軍のアエティウスに敗れる

454年、フン族がネグオ川の戦で東ローマ帝国に敗れる

486年、クロヴィス率いるフランク族がソワソンの戦でシアグリウス率いる西ローマ軍を破る

489年、ゲルマンのオドアケルがイゾンツォの戦でテオドリックに敗れる。

523年、六鎮の乱。

624年、マホメットがバドルの戦いでメッカ軍を破る

625年、ウフドの戦い

627年、ハンダクの戦いでメッカ軍を破る

627年、ササン朝ペルシアのコスロー2世はニネヴェの戦でへラクリウス率いる東ローマ軍に敗れる

642年 ヤズデギルド3世 ニハーヴァンド(ネハーヴァンド)の戦でアラブ軍に敗れる

645年、唐の長孫無忌が朝鮮を侵攻したが、高句麗は安市城の戦で唐を撃退した

663年、日本軍は白村江の戦で唐軍に敗れ、百済滅ぶ

687年、フランク王国のピピン2世がテルトリーの戦でネウストリアのベルナルらを破る

715年、コンピエーニュの戦(フランク王国の内戦)

718年、西ゴート王国がグアタレーテの戦でイスラームに敗れて滅亡した

722年、ペラヨがコバドンガの戦でイスラム軍に勝利する。

732年、サラセン軍、ツール・ポワチエの戦でフランク王国カール・マルテルに敗れる

751年、唐の高仙芝、イスラム軍とタラス河畔に戦う。サラセン軍に捕らわれ、製紙法を伝う

756年、唐の玄宗は潼関の戦で安禄山に敗れる

804年、東ローマ皇帝ニケフォロス1世はクラソスの戦でアッバース朝に大敗する

811年、東ローマ皇帝ニケフォロス1世はプリスカの戦でブルガリア皇帝クルム・ハーンに敗れ、戦死した

841年、フランク王ロタール1世、フォントノワの戦でシャルルとルートヴィヒに敗れる

849年、ナポリ・アマルフィ・ガエータなどの艦隊がオスティア沖でイスラム艦隊を破る。

939年、神聖ローマ皇帝オットー1世はアンダーナッハの戦でフランケン公エバーハルトの反乱を鎮圧

955年、ハンガリーのマジャール軍がレヒフェルトの戦で東フランク王国のオットー1世トーマスにに敗れる

1014年、第1次ブルガリア帝国がキンバロングーの戦(クレイディオン峠の戦)で、東ローマ帝国に敗れる。

 

1014年、ブライアン・ボル―軍とレンスターのアイルランド人とダブリンのヴァイキングの連合軍が、クロンターフの戦いで、ボル―軍が勝つが戦死する。

1016年、デンマーク王クヌートがアシンドンの戦いでイングランド王エドマンド2世を破る

1057年、スコットランド王マクベスはランファナンの戦でマルカム3世に敗れ死没する

1063年、イタリアの中世都市国家ピサがパレルモ沖の海戦でイスラーム艦隊に大勝する

1066年、イングランド王ハロルド2世がへースティングズの戦でノルマンディー公ウィリアム1世に敗れる

1071年、ビザンツ王ロマノス4世ディオゲネス マンジケルトの戦でセルジューク朝に敗れる。

1096年、第1回十字軍のエルサレム攻囲戦が始まる。(~1099年)

1106年、イングランド王ヘンリー1世がタンシュブレーの戦でロベール短袴公を破る

1107年、高麗の尹瓘が女真を討ち9城を築くが(尹瓘九城の役)、翌年に撤退する。

1147年、レコンキスタで、ポルトガル王国アフォンソ1世がイスラムの勢力下からリスボンを奪回。

1148年、第2回十字軍、ダマスカス攻撃。もつとも成果の少ない十字軍だった。(~1149年)

1176年 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がレニャーノの戦で北イタリア・ロンバルディア同盟軍に敗れる

1187年、ギード・リュジニャン率いるエルサレム王国の十字軍がヒッティーンの戦でアイユーブ朝のサラーフ・アッディーンに敗れる

1189年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、フランス墺フィリップ2世、イギリス王リチャード1世らが第3回十字軍に参戦(~1192年)

1201年、チンギス・カンはコイテンの戦でジャムカを破る

1202年、第4回十字軍。ヴェネツィア商人に利用され、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを占領(~1204年)

1214年、仏王フィリップ2世が、ブーヴィーヌの戦で神聖ローマ帝国、英国連合軍に勝利する

1219年、モンゴル軍はホラズムに侵攻し、翌年にはサマルカンドを攻略する

1223年、モンゴル軍はカルカ河畔の戦でキエフ大公国を破る

1226年、ホーエンシュタウフェン家とカペー家のシャルル・ダンジューが南イタリアのベネヴェントの戦う。カペー家の勝利。

1228年、第5回十字軍。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が交渉によって平和裏に聖地を回復するが、長くは続かず(~1229年)

1235年、マリ王国のスンディアタがキリナの戦いでソソ王国のスマンゲルを破る

1236年、リトアニアがザウレの戦いでリヴォニア帯剣騎士団を破る

1241年、シュレージェン公ハインリヒ2世、リーグニッツ(ワールシュタット)の戦でバトゥが率いるモンゴル軍と戦い、大敗し、戦死。

1245年、ハールィチ・ヴォルイーニ大公国がヤロスラヴの戦いでポーランド・ハンガリーと戦う。

1248年、第6回十字軍。教皇の信任厚いフランス王ルイ9世がエジプトに侵攻するも失敗(~1254年)

1250年、フランス王ルイ9世率いる十字軍がマンスーラの戦でエジプトのアイユーブ朝に敗れる。

1258年、モンゴル軍のフラグがバグダードの戦でバグダードを占領し、アッバース朝滅ぶ。

1260年、フィレンツェがモンタベルティの戦いでシエーナ軍に敗れる。

1260年、モンゴル軍のフラグはアイン・ジャールートの戦でマムルーク朝のバイバルスに敗れる。

1264年、イングランド王ヘンリー3世に対してレスター伯シモン・ド・モンフォールらが反乱。王党派の勝利に終わった。これを第2次バロン戦争という。

1265年、イーブシャムの戦い。

1266年、ホーエンシュタウフェン家がイタリアのベネヴェントの戦でカペー家と戦い、敗れる。シチリアの支配が終わる

1270年、第7回十字軍。チュニスに侵攻したが、フランス王ルイ9世が病没したため中止。

1268~1274年、モンゴル軍は襄樊の戦で南宋を滅ぼす。

1272年、最後の十字軍(第9回十字軍)終わる。

1274年、モンゴル軍、日本に遠征するが失敗(文永の役)

1278年、モンゴル軍、ポーランド・ドイツ連合軍を破る

1278年、神聖ローマ帝国ルドルフ1世、マルヒフェルデの戦いでボヘミア王オットカルを破る

1279年、モンゴル軍、厓山の戦いで南宋を滅ぼす

1281年、モンゴル軍、日本に遠征するが失敗(弘安の役)

1284年、ピサがメロリアの海戦でジェノバに大敗する。

1288年、ドカン率いるモンゴル軍は白藤江の戦いで陳国峻率いるベトナム軍に敗れ、モンゴルのベトナム侵攻は失敗におわる。

1291年、第9回十字軍。イスラエル王国の首都アッコン滅亡する。(十字軍戦争終わる)

1294年、英仏戦争はじまる。

1298年、神聖ローマ皇帝ルドルフ1世はゲルハイムの戦で長子アドルフを殺す。

1301年、オスマン1世がビザンツ帝国軍をコユンヒサルの戦で破る。

1302年、フランス王フィリップ4世はクルトレー(コルトレイク、金拍車)の戦でフランドル市民軍に敗れる

1311年、アテネ公国ゴーティエ5世がアルミュロスの戦いで東ローマ軍に敗れる

1314年、エドワード2世率いるイングランド軍がバノックバーンの戦でロバート1世のスコットランド軍に敗れる

1315年、スイスがモルガルテンの戦でオーストリア軍を破り、現在に至る永久盟約を得る

1322年、神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ4世がミュールドルフの戦でオーストリア大公フリードリヒ1世を破る

1331年、ヴワディスワフ1世率いるポーランド王国がブウォフツェの戦でドイツ騎士団に勝利する

1337年、英仏の百年戦争がおこる

1338年、アルネマイネンの海戦でフランスが勝利する

1345年、北フランスの貴族ギヨーム2世はワルスの戦でフリース人に敗れ戦死した

1346年 フランス王フィリップ6世、クレシーの戦でエドワード3世に敗れる

1346年、ネヴィルズ・クロスの戦。スコットランドがイギリスに敗れる

1356年、フランス王ジャン2世はポアティエの戦でイギリス王エドワード黒太子に敗れる

1363年、明の朱元璋が鄱陽湖の戦で元の陳友諒を破る

1369~70年 エドワード3世、フランス王シャルル5世に敗れて獲得した領土の大部分を失う

1371年、セルビア帝国はマリツァリの戦でオスマン軍に敗れ、ウロシュ5世はまもなく死亡。

1378年、イタリアのフィレンツェで労働者の反乱おこる。

1378年、モスクワ大公国がヴォジャ河畔の戦いでモンゴルを破る。

1380年、モスクワ大公国ドミトリー・ドンスコイがクリコボの戦いでモンゴルを破る。

1380年、ジェノバがキオッジャの海戦でヴェネツィアに完敗する。

1382年、百年戦争。ローゼンバーグの戦いでフランス軍がフランドル諸都市を破る。

1385年、ジョアン1世率いるポルトガル軍がアルジュバロータの戦いでカスティーリャ王ファン1世を破る。

1388年、ハプスブルク家アルブレヒト3世、ネーフェルトの戦いでスイス自由連邦に敗れる

1389年、オスマン帝国のムラト1世がコソボの戦でセルビアを破る

1391年、ティムールはコンドゥルチャ川の戦いでトクタミシュを破る

1396年、神聖ローマ皇帝・ハンガリー王ジギスムント率いるヨーロッパ諸国軍がニコポリスの戦でバヤズィト1世率いるオスマン帝国軍に大敗する

1402年、バヤズィト1世率いるオスマン帝国がアンカラの戦でティムールに敗れる。バヤズィト1世は捕虜になり、翌年自害する

1410年、ポーランド・リトアニア連合軍がグルンヴァルトの戦(タンネンベルクの戦い)でドイツ騎士団を破る

1415年、フランス軍が百年戦争アジャンクールの戦いでヘンリー5世率いるイングランド軍に敗れる。

1419年、ボヘミアのフス戦争(~1434)。フス派の勝利。

1429年、ジャンヌ・ダルクに率いられたフランス軍がパテーの戦いでイングランド軍に圧勝。イングランドのジョン・タルボットは敗れて、捕虜となる。百年戦争の仏軍の初めての勝利であった

1444年、オスマン帝国のムラト2世はヴァルナの戦でハンガリー・ポーランド連合軍を破る。

1450年、百年戦争。イングランド軍はフォルミニーの戦でフランスに大敗し、ノルマンディーから撤退する。

1453年、イングランド軍はカスティヨンの戦でフランスに敗れる。百年戦争最後の戦い。

1453年、東ローマ帝国コンスタンティノス11世 メフメト2世のオスマントルコ軍に攻められコンスタンティノープル陥落

1454年、十三年戦争が始まる。

1455年、薔薇戦争最初の戦い。ヨーク公リチャードはサマセット公エドムンド率いるランカスター派をセント・オールバーンズの戦で破る。

1456年、ワラキア公国のフニャディ・ヤーノシュがベオグラード包囲戦でオスマン帝国に勝利する。

1460年、薔薇戦争、ウエイクフィールドの戦い。

1460年、薔薇戦争、ノーサンプトンの戦いでヨーク派がランカスター派を破る。

1461年、薔薇戦争・タウトンの戦い。ヨーク家のエドワード4世がマーガレット王妃らランカスター派を破る。

1466年、ポーランドとプロシア連合の同盟とドイツ騎士団国とのあいだで起きた十三年戦争がプロシアとポーランドの勝利に終わる(~1454年)。

1471年、薔薇戦争・テュークスベリ―の戦い。ランカスター家のエドワード王太子が戦死。

1477年、ブルゴーニュ公シャルル(豪肝公)がナンシーの戦い(ブルゴーニュ戦争)でロレーヌ公ルネ2世に敗れ戦死。

1485年、ヨーク派のリチャード3世はボズワースの戦でランカスター派のヘンリー7世に敗れる

1487年、薔薇戦争の最後の闘いストーク・フィールドの戦いが行われる

1503年、フランスはチョリニョーラの戦、ガレラノの戦でスペインに敗れる

1507年、ポルトガルのインド総督アルブケルケ、ペルシャ湾口の香辛料集散地ホルムズ島を占領した。

1509年、フランシスコ・デ・アルメイダ率いるポルトガル海軍がディウ沖海戦でイスラム教徒のマムルーク朝、クジャラート・スルタン朝及びカリカットの領主ザモリンの連合海軍を破る

1513年、スコットランドがフロドゥンの戦でイングランドに大敗し、国王ジェームズ4世が戦死。

1514年、サファヴィ朝ペルシャ軍イスマーイール1世がチャルディラーンの戦でオスマン帝国セリム1世に敗れる。以後両国の戦いは124年間続く。

1515年、仏王フランソワ1世・ヴェネツィアがスペイン・神聖ローマ・イギリス・ミラノのスイス傭兵軍とマリニャーノ戦いで勝利する。

1516年、オスマン帝国がマルジュ・ダービクの戦でマムルーク朝を破り、シリアを支配する。

1519年、スペインのコルテスがタバスコの戦でインディオに勝利し、メキシコを征服した。

1521年、独帝カール5世と仏王フランソワ1世との間にイタリア戦争始まる。

1524年、ドイツ農民戦争。フランケンハウゼンの戦で農民軍が諸侯軍に敗れて終結する(~1525年)

1525年、仏王フランソワ1世、パヴィアの戦でスペインに敗れる。

1526年、インドのロディ朝がパーニーパットの戦でムガール帝国のバーブルに敗れる

1526年、オスマン帝国がモハーチの戦でハンガリー王国を破る

1529年、オスマン帝国の第一次ウィーン包囲。

1529年、スイスの宗教戦争、第一次カッペル戦争

1531年、第二次カッペル戦争でチューリヒのカトリック軍が勝利する。

1531年、スコットランド王ジェームズ4世が2万の軍勢を率いて国境を侵攻するが、英国軍にフロッドンの戦で大敗し、ジェームズ4世は戦死する

1531年、チューリヒの宗教改革の指導者ツヴィングリがカベルの戦で戦死

1532年、スペインのピサロがカハマルカの戦いでインカ帝国アタワルパを捕らえた。何千もの市民や軍人を殺戮した。

1538年、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇連合軍はプレヴェザの海戦でオスマン帝国と対戦するが、連語国側は統制がとれずに敗れる。

1546年、シュマルカルデン戦争がはじまる。

1547年、プロテスタント軍がミュールベルクの戦で神聖ローマ軍に敗れる

1558年、リヴォニア戦争(~1583)。

1562年、ユグノー戦争。フランスのヴァシーでプロテスタントが大量に殺される。

1568年、オランダ独立戦争おこる。

1570年、スペインのレガスピがフィリピン・マニラの戦で勝利し、翌年には城郭都市イントラムロスを建設。

1571年、オスマントルコ帝国がレパントの海戦でスペイン、ベネチア、ローマ教皇の連合軍に敗れる

1588年、スペイン王フェリペ2世の無敵艦隊(アルマダ)がプリマス沖、カレー沖、グラヴリーヌ沖の海戦でイギリス艦隊に敗れる

1593年、オスマントルコ帝国ムラート3世の宰相ハサン・パシャは、シサクの戦でクロアチア軍に敗れる

1593年、ハプスブルク家とトルコの十五年戦争(~1606)。

1593年、小早川隆景らが李如松率いる明軍を碧蹄館の戦いで破る

1618年、三十年戦争

1619年、ヌルハチ率いる後金(のちの清)がサルフの戦で明を破る

1620年、白山の戦。

1630年~31年、ルター派の都市マグデブルクが包囲され、破壊・略奪される(三十年戦争)

1630年、フランスがヴェイッラーネの戦でスペインを破る。

1631年、神聖ローマ帝国がブライテンフェルトの戦でグスタフ2世アドルフ率いるスウェーデンに敗れる。

1632年、アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン率いる神聖ローマ帝国がリュッツェンの戦でグスタフ・アドレス2世(スウェーデン)の軍に敗れる。

1632 年、ロシアがスモレンスクの戦でポーランドの軍に敗れる。

1640年、ポルトガルの貴族ブラガンサ公ジョアンらがリスボンのスペイン王宮を襲撃、ポルトガル王政復古戦争が始る。

1641年、清のホンタイジが松山・錦州の戦で明を滅ぼす

1643年、清教徒革命。国王軍がアドウォルトン・ムーアの戦で議会軍に勝利する。

1644年、清教徒革命。チャールズ1世の国王軍がマーストン・ムーアの戦でクロムウェル率いる議会軍に敗れる。

1645年、イギリス、ルーパート王子軍がネーズビーの戦でクロムウェルの議会軍に敗れる。ロートン・ヒースの戦い。

1648年、ウェストファリア講和条約。三十年戦争終わる。

1652年、第一次英蘭戦争。イギリスの勝利。

1653年、ポートランドの海戦(第一次英蘭戦争)~1654年まで

1654年から1667年、ロシア・ポーランド戦争

1659年、ロシア大公アレクセイ3世がコノトプの戦でウクライナ・コサック軍に敗れる。

1666年、ダンケルク沖の海戦でオランダがイギリスを破る。

1667年、第二次英蘭戦争終わる。

1670年、ロシアでステンカ・ラージンの農民反乱おこる。(~1671年)

1672年、英仏対オランダの戦争始まる(第三次英蘭戦争)。ソールベイの海戦でオランダの勝利。

1674年、英蘭戦争終わる、ウェストミンスター条約の締結。イギリスの制海権が確立。北米植民地ニューアムステルダム(ニューヨーク)はイギリスに返還される。

1675年、デンマーク・スウェーデンでスコーネ戦争始まる(~1679年)。

1685年、清の康熙帝はロシアが東方に進出して黒竜江流域にきずいたアルバジン城を奪回した。

1687年、清ジュンガル戦争起こる。康熙帝、乾隆帝と三次にわたるが、清に対して反乱を起こしたアムルサナーは1759年敗れる。

1688年、フランスのルイ14世が神聖ローマ帝国領のファルツ公家の継承問題に介入してファルツ戦争(~1697年)が始まる。

1690年、イングランド軍がボイン川の戦いでアイルランド軍に勝利する。

1697年、オスマン帝国がゼンタの戦でオーストリア軍に大敗する。

1700年、スウェーデン王カール12世がナルヴァの戦でロシアのピョートル1世に勝利する。1721年まで続く北方戦争はロシア側が勝利し、バルト海の覇権はロシアに移る。

1701年、スペイン継承戦争始まる。1714年まで続く。

1702年、アン女王戦争。

1704年、イングランド・オーストリア同盟軍がフランス軍と戦い、ブレンハイムの戦いで勝利した(スペイン継承戦争の一つ)。

1706年、オーストラリア軍がトリノの戦いでフランス軍を破る(スペイン継承戦争の一つ)

1709年、スウェーデンのカール12世、ボルタヴァの戦でロシアに敗れる。

1710年、スペイン・フランス連合軍がビリャビシオーサの戦でカール大公率いるハプスブルグ家を破る(スペイン継承戦争の一つ)

1710年、イギリスがカナダ植民地ポートロワイヤルでフランスに勝利する

1712年、スウェーデンがガーデブッシュの戦でデンマークに敗れる。

1714年、ロシアのピョートル1世がハンゴ沖海戦でスウェーデンを破る。

1721年、スウェーデンとロシア・デンマークを中心に行われた大北方戦争(1700-1721)が終る。ニスタット条約を締結。

1722年から1725年までラル神父戦争。アメリカ東部植民地とインディアンの戦い。セバスチャン・ラルがノリッジウォックの戦いで戦死。

1733年、ポーランド継承戦争始まる(~1735)。

1734年、ロシア軍がフランス、スウェーデンと戦い、ダンツィヒを攻囲する。

1739年、アフガニスタンのホータキー朝がカンダハール包囲戦でペルシアのアフシャール朝に敗北し滅亡する。

1740年、オーストラリアのマリア・テレジアが即位し、オーストラリア継承戦争始まる。

1741年、マリア・テレジアがモルヴィッツの戦でフリードリヒ2世のプロシアに敗れる。

1743年、オーストリア継承戦争。英墺連合軍と仏軍がディティンゲンで戦い、英墺連合軍が勝利する。

1744年、オーストリア継承戦争。スペイン・フランス連合軍がクーネオの戦でサルディニーア王国に勝利した。

1745年、フランスがフォントノワの戦で英蘭墺連合軍に勝利する。

1746年、カロデンの戦。スコットランドで名誉革命反対派・ジャコバイトがイギリス政府軍に敗れ、多数が虐殺される。

1756年、プロイセンとオーストリアで七年戦争始まる。

1757年、プロイセンのフリードリヒ2世がロスバッハの戦、ロイテンの戦でオーストリアを破る。

1757年、フランス勢力と組んだベンガル太守のシラージュ・ウッダウラはプラッシーの戦でロバート・クライブ率いるイギリス軍に敗れる。

1758年、プロイセン軍がツォルンドルフの戦でロシア軍に勝利する。

1758年、七年戦争;ホッホキルヒの戦 オーストリア軍の勝利

1759年、プロイセン軍がクネルスドルフの戦でロシア・オーストリア連合軍に敗れる。

1761年、第3次バーニーパッドの戦い、マラーダ連合軍敗北する。

1763年、フベルトゥスブルク条約、七年戦争おわる。

1764年、イギリス東インド会社がインドのブクサールの戦でムガル帝国を破る。

1764年、アメリカ大陸軍がカナダ侵攻。ロングポイントの戦でイギリス軍が勝利する。

1767年、第1回マイソール戦争(~1769)。マイソール王国がイギリス東インド会社に勝利する。

1768年、露土戦争起こる。

1775年、アメリカ独立戦争始まる(~1783)。レキシントン・コンコードの戦で英軍と米植民地兵が武力衝突。アメリカ軍はモントリオールを占領するが、ケベックの戦いに敗れる。

1775年~82年。マラータ同盟がイギリス東インド会社に勝利する。

1776年冬、大陸軍はニュージャージーの戦いでイギリス軍に勝利する。

1777年、アメリカ独立戦争:クリントン砦とモントゴメリー砦の戦いで英軍の勝利。

1777年、英軍バーゴイン将軍がサラトガの戦で米植民地軍に敗れる。

1778年、アメリカ独立戦争・ジョージア植民市サバンナの戦いで、英軍の勝利。

1780年、アメリカ独立戦争・ワックスホーの戦。戦闘に勝利した英軍は、大陸軍が白旗を挙げたのを無視して大陸軍兵113人を虐殺。

1781年、アメリカ独立戦争・ヘンリー岬の海戦・チェサピーク湾の海戦。英軍の敗北。

1781年、チャールズ・コンーウォリス率いる英軍はヨークタウンの戦でジョージ・ワシントン率いる独立軍に攻囲され敗れる。

1781年、インドのポルト・ノヴァでマイソール王国はイギリス軍に敗れる。(第二次マイソール戦争の1つ)。

1783年、パリ条約(アメリカの独立を承認)

1789年、フランス革命起こる。

1790年、第3回マイソール戦争。

1792年、フランス革命を巡ってフランスとヨーロッパ諸国との間で戦争がおこる(フランス革命戦争、~1799)

1793年、フランス軍はナポレオン率いる革命軍にツーロン要塞の攻撃で敗れる。

1796年、オーストリア軍がカスティリオーネの戦でナポレオン軍に敗れる。

1798年、オスマン帝国がピラミッドの戦でナポレオン軍に敗れる。

1799年、第4回マイソール戦争。

1800年、オーストリア軍がアルプスを越えて侵攻したナポレオン軍にマレンゴの戦で敗れる。

1805年、オーストリア・ロシア連合軍がアウステルリッツの三帝会戦でナポレオンに敗れる。

1805年、トラファルガルの海戦でイギリス艦隊がナポレオン率いるフランス・スペイン聨合艦隊に勝利。ネルソン提督は戦死。

1806年、プロシア軍がイエナ・アウェルシュタットの戦でフランス軍に敗れる。

1809年、ナポレオン、ワグラムの戦でオーストリア軍に大勝する。

1810年、セブンオークスの戦い。カナダのレッドリバー植民地で毛皮交易をめぐり交易会社同士で争い。

1812年、モスクワに遠征したナポレオンがクトゥーゾフ将軍のロシア軍とボロジノの戦で交戦。10万人の犠牲を出したが勝敗は決せず。

1812年、米英戦争はじまる。

1813年、ナポレオン軍がライプチヒの戦でプロイセン・オーストリア・ロシア連合軍に敗れる。

1814年、アメリカ軍はブラーデンスバーグの戦でイギリス軍に敗れ、ワシントンのホワイトハウスなどの建物が焼失した。

1814年、イギリス東インド会社とネパール(ゴルカ朝)とのグルカ戦争が起こり、1816年イギリスの勝利により、スガウリ条約が結ばれる。

1815年、ナポレオンがワーテルローの戦でイギリス・プロシア連合軍に敗れる。

1815年、米英戦争ニューオーリンズの戦でイギリス軍はアンドリュー・ジャクソン率いる5千人の米兵に敗れる。

1816年、セブンオークスの戦。カナダのレッドリバー植民地で毛皮交易をめぐり交易会社同士で争い。

1817年、第3回マラータ戦争。

1819年、シモン・ボリバルの独立革命軍はボヤカの戦(コロンビアのボゴタ近郊)でスペイン軍に勝利する。

1821年、スペイン軍がカラボボの戦でシモン・ボリバル率いる反乱軍に敗れ、ベネズエラの独立が決定した。

1821年、ギリシャ独立戦争。

1824年、スペイン軍がアヤクーチョの戦でスクレ将軍率いるペルー解放軍に敗れる。

1824年~26年、ビルマ戦争。イギリスがビルマのコンバウン朝に勝利する。

1827年、英仏露3国艦隊がナヴァリノの海戦でトルコ艦隊を破る。

1836年、テキサス軍がサンジャシントの戦いでメキシコ軍を破る。

1836年、テキサス軍がアラモ砦でメキシコ軍と戦い全滅する。

1838年、ズールー族がブラッド・リバーの戦いでボーア人に敗れる。

1839年、バーラクサイ朝アフガニスタン首長国がイギリスを討つ(第1次アフガン戦争(~1842年)

1840年、アヘン戦争(~1842年)

1845年~46年、第一次シク戦争。シク王国とイギリス東インド会社の戦争。イギリスの勝利。

1848年、サルディニア王カルロ・アルベルトがクストッツァー・ノヴァラの戦でオーストリアに敗れる。これにより、イタリアの統一運動は一時中絶した。

1849年、ガリバルディがローマ大学の戦いでフランス軍を破る。

1852年、第二次ビルマ戦争。

1854年、クリミア戦争でロシアのセヴァストーポリ要塞を目指す英仏軍がアルマでロシアと交戦する。

1855年、セヴァストーポリ要塞が英仏軍の攻撃によって陥落する。

1856年、アロー号戦争(~1860年)

1856年、コスタリカ軍が第二次リバスの戦いでニカラグア軍を破る。

1859年、イタリア統一戦争・ソルフェリーノの戦い。アンリ・デュナンが戦場の惨状に衝撃を受け、後の赤十字運動につなげる。

1860年、ガリバルディ率いるイタリア義勇軍はヴォルトルノ河畔の戦でナポリ軍を破り南イタリアを制圧する。

1861年、南北戦争:北軍はブル・ランの戦で南軍に敗れる。

1861年、南北戦争:ボールズブラフの戦。

1862年、南北戦争:セブンパインズの戦。決着つかず。

1862年、南北戦争:ヘンリー砦の戦で北軍の初勝利。

1862年、南北戦争:シャイローの戦。北軍の勝利。

1862年、南北戦争:ペリービルの戦

1862年、フランスのナポレオン3世がメキシコ出兵、プエフラの戦でフランスに勝利する。(フランス・メキシコ戦争1862-1867)

1863年、カメロンの戦でメキシコが勝利するも、フランスの傀儡政権であるメキシコ帝国が建国。

1863年、南北戦争、ゲッティスバーグの戦で南軍の衰勢が決定した。

1864年、南北戦争:シーダークリークの戦い

1864年、曽国藩が太平天国の乱を鎮圧した。

1866年、イタリア海軍がリッサの海戦でオーストリア海軍に敗れる。

1866年、オーストリア帝国はチェコのケーニヒグーレツの戦(サドワの戦)でプロシアに敗れる。

1868年、アメリカ軍のカスター中佐が率いる第7騎兵隊がシャイアン族インディアンを虐殺する(ウォシタ川の戦)。

1868年、エチオピアのテオドロス2世、マグダラの戦いでイギリス軍に大敗し、自殺する。

1870年、モルトケ率いるドイツ軍がグラヴロットの戦でバーゼル率いるフランス軍を破る

1870年、フランスのナポレオン3世はセダンの戦でプロイセン軍に敗れる。

1873年、アチェ-戦争、オランダがスマトラのアチェー王国征服(1904年)

1876年、アメリカ陸軍とインディアンがモンタナ州のリトルビックホーンで戦い、カスター将軍率いる第7騎兵隊ら本隊が全滅した。

1877年、露土戦争(~1878)

1879年、ズールー戦争おこる。イギリスと南アメリカのズールー王国との間で行われた戦争でアフリカの植民地支配がはじまる。

1880-1881年、イギリスがトランスヴァール共和国に破れる(第一次ボーア戦争)

1885年、清仏戦争でフランスによるベトナムの植民地化が始まる。

1885年、ビルマ王ティーボーは英緬戦争でイギリス軍に敗れ、コウバウン朝は滅亡し、イギリス領インド帝国に併合される。

1894年、日清戦争(~1895年)

1896年、イタリアのエチオピア侵攻軍がアドワの戦でエチオピアのメネリク2世に大敗する。

1898年、米西戦争。7月アメリカ軍がキューバのサン・ファン・ヒルの戦いでスペイン軍を撃破する。

1899年、南アフリカのルイス・ボータ将軍がコレンソの戦いでイギリスを破る。

1899年、米比戦争始まる(~1902年)アメリカの植民地支配が始まる。

1902年、南アフリカのボーア戦争、イギリスの勝利に終わる。

1904年、日露戦争(~1905年)

1905年、ロシアのバルチック艦隊が日本海海戦で日本の連合艦隊に敗れる。

1911年、イタリア・トルコ戦争。イタリアがオスマントルコ領リビアの領有を図って起こす。イタリア敗北。

1912年、バルカン戦争(~1913年)。

1914年、ベルギーを突破し、北仏に進軍したドイツ軍(モルトケ)は、マルヌの戦でフランス軍(ジョッフル)に敗れる。

1914年、ロシア軍がタンネンベルクの戦でドイツ軍(ヒンデンブルク)に包囲、殲滅される。

1915年、オスマン帝国はダーダネルス海峡のガリポリの戦で英仏連合軍に勝利する。

1915年、第一次大戦・イ―ペルの戦い。ドイツ軍がフランス軍に対し、毒ガス攻撃。

1916年、ヴェルダンの戦、フランスは守り切った。

1916年、ソンムの戦。第一次世界大戦における最大の戦争であるが、英仏連合軍とドイツ軍がフランスのソンムで激突したが、両軍目立った戦果をあげることがなかった。

1916年、ユトランド沖海戦。

1916年、アメリカ、パンチョ・ビリャ遠征軍をメキシコに派遣。

1917年、ロシア革命。

1917年、第一次世界大戦におけるカンプレーの戦いで、英軍が世界初となる大規模な戦車の投入を行った。

1918年、イ―ペルの戦でドイツ軍か毒ガスを使用。

1918年、フィンランド内戦がおこる。タンペレの戦いで白軍が赤軍に勝利し、共和国となる。

1920年、ポーランド・ソ連戦争。ポーランドの旧版図回復。

1922年、トルコ軍がドゥムルプナルの戦でギリシャ軍に勝利する。

1935年、イタリア、エチオピア侵略。

1936年、スペイン内戦始まる。

1937年、日中戦争始まる。

1939年、関東軍とソ連が満蒙国境線めぐりノモンハン事件おこる。

1939年、ソ連がフィンランドに侵攻し冬戦争がおこる。(~1940年)

1940年、ドイツ軍がオランダ・ベルギーに侵入(ベルギーの戦い)。

1940年、フランス軍はダンケルクの戦でドイツに敗れ、降伏する。

1941年、ドイツ軍がロシアに侵攻する(~1945年)。

1941年、太平洋戦争始まる。

1942年、ドイツの戦車軍団ロンメルは北アフリカのエル・アラメインの戦で英軍モントゴメリーに敗れる。

1942年、ドイツ軍はソ連とのスターリングラードの戦(~1943年)で消耗し、これによってドイツの後退が始まる。

1942年、太平洋戦争最大の激戦、ガダルカナル島の戦いで日本軍が全滅。

1943年、ドイツ軍はドニエプル川の戦でソ連軍に敗れる。

1943年、ドイツ軍はクルスクの戦でソ連軍に大敗。

1943年、スターリングラードの戦でドイツ軍のパウルス司令官と幕僚がソ連に降伏する。

1943年、アッツ島の戦い。

1944年、ドイツ軍はナルヴァの戦でソ連軍の進撃を阻止する。

1944年、日本はレイテ沖海戦で米軍に大敗し、事実上壊滅。シブヤン海海戦・戦艦武蔵が沈没。

1944年、連合軍、ノルマンディー上陸作戦に成功する。

1944年、フィンランドとドイツ連合軍はタリ・イハンタラの戦いでソ連軍の侵攻を阻止する。

1945年、独ソ戦最後の戦い、プラハの戦い。

1945年、硫黄島の戦いで、アメリカが硫黄島を完全占領

1946年、フランス・インドシナ戦争(~1954年)

1947年、第一次印パ戦争(~1949年)

1950年、朝鮮戦争が始まる(~1953年)

1950年、マッカーサーの国連軍が長津湖の戦いで毛沢東率いる中国軍と戦う。

1953年、ポークチョップヒルの戦い

1954年、アルジェリアとフランスとでアルジェリア戦争始まる(~1962年)。

1954年、ディエンビエンフーのフランス軍拠点が陥落。インドシナから撤退する。同年ジュネーヴ協定結ばれる。

1959年、チベットで反中国暴動。

1959年、中印戦争(~1962年)

1963年、インドネシア、マレーシア戦争(~1966年)

1963年、ギニアビサウ独立戦争(~1974年)

1963年、アメリカ軍と南ベトナム軍がアプバクの戦いでベトコンに敗北する。

1965年、第二次印パ戦争(1966年)

1967年、ビアフラ戦争(~1970年)。

1967年、第三次中東戦争。

1968年、南ベトナムのケサンでアメリカ軍と北ベトナム軍が戦う。

1969年、北アイルランド紛争(~98年)

1971年、第3次印パ戦争

1973年、第四次中東戦争。

1974年、カンボジアのロン・ノルがカンポットの戦でボル・ポトに敗れる。

1975年、サイゴン陥落、ベトナム戦争終了。

1979年、ソ連のアフガニスタンへの侵攻

1982年、アルゼンチンはフォークランド紛争でイギリスに敗れる。

1991年、第一次湾岸戦争。

1991年、スロヴェニア独立戦争。

1991年、ソマリア内戦(~継続中)

1994年、ルワンダで内戦始まる。50万人が殺される。

1994年、第一次チェチェン紛争(~1996年)

1998年、コソボ紛争起こる。コソボは2008年にセルビアから独立。

1999年、第二次チェチェン紛争(~2000年)

2001年、アメリカのアフガニスタン侵攻。

2003年、第二次湾岸戦争。

2005年、イラク戦争。ハディサで米軍兵士がイラク市民24人を虐殺(ハディサ事件)。

2006年、カンダハルの戦い。米軍対タリバン。

2006年、ヒズボラ戦争。イスラエル対レバノン。

2008年、イスラエル軍がパレスチナのガザに侵攻。ハマースとの間にガザ紛争おこる(~2009年)

2011年、シリア内戦(継続中)。アサド政府軍(シーア派)と反政府軍(スンニ派)との間で内戦おこる。

2014年、ロシアがウクライナのクリミヤ半島を一方的に併合。

2022年、ロシアのウクライナへの侵攻。

 

 

 

 

ハーメルンの笛吹き男

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  1284年6月26日、まだら模様の服を着た男が笛を吹くと、まちの子供130人が踊りながらその男について行き、遠くに消えてしまった。親たちはわが子を探したが、ついに見つからなかった。あの子供たちはどこに消えてしまったのだろうか。これまで25もの学説が生まれた。舞踏病にかかった子供たちが踊りながら消えてしまったと考える人、子供十字軍に徴兵されて聖地へ出かけていったと考える人、ペストなどの病気による大量死、崖に落ちて死んだという事故説などもある。当時、ドイツ東部、チェコ、ポーランドなどで開発がさかんに進められた。領主である貴族たちが各都市に植民請負人を派遣して移住者を募っていた。この植民請負人こそが笛吹き男であり、消えた130人の子供たちは、ハーメルンを捨てて新天地へ旅立った若者たちだと考える説もある。「ハメルンの笛吹き男」の話はゲーテ、グリム、ロバート・ブラウニングの詩などで知られる。昔話はたいていは「むかしむかし」と、期日が明確でないが、この話ははっきりと日付が記されており、史実として残っている。

   アニメ映画「千と千尋の神隠し」のように日本にも「神隠し」といって、子供などが、にわかにいなくなって、どれだけ探してもついに戻ってこなかったという話が残っている。すなわち、天狗、鬼、隠し神、隠し婆、隠れ座頭など、さまざまな妖怪によって隠されるという。平田篤胤による寅吉少年の神隠しの物語もある。( The Pied Pier of Hamelin )参考文献;阿部謹也「ハメルンの笛吹き男伝説の成立と変貌」 思想581   1972.11

2024年6月25日 (火)

朝鮮戦争74年目の夏

Photo_7   朝鮮戦争は今年で73年目を迎える。韓国ドラマ「愛の不時着」など南北問題を取り上げた作品は多いが、国際法上は現在も戦争状態が続いている。1950年のこの日に朝鮮戦争は勃発した。大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とが、第二次大戦後の米国・ソ連の対立を背景として、国際紛争にまで発展、いわゆる朝鮮戦争と呼ばれ、戦後のわが国には特需が増大する。10月8日、国連軍が38度線を突破。1953年7月休戦。その5年後の1958年に建てられた高さ332.6メートルの東京タワー。この東京タワーは、実は米軍の戦車で出来ている。朝鮮戦争が終わって不要になった米軍の戦車は日本の民間業者に払い下げられていた。当時、日本には、基幹産業である高炉会社はまだ十分に育っておらず、戦車のスクラップは貴重である。そこで質のよい戦車90台の精鉄が3000トン分が使用された。それは東京タワーのおよそ3分の1を占めているといわれる。(6月25日、参考:生方幸夫「解体屋の戦後史」)

2024年6月24日 (月)

サディ・カルノー暗殺事件

 1894年6月24日、仏大統領マリー・フランソワ・サディ・カルノーはリヨンで演説後にイタリア人アナーキスト、サンテ・ジェロニモ・カゼリオに刺され、翌6月25日に死亡した。56歳だった。

加藤清正の虎退治の謎

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 本日は賤ケ岳の七本槍の一人、加藤清正公忌(慶長16年)。文禄元年5月3日、朝鮮の首都・漢城を豊臣秀吉の配下・小西行長が朝鮮の漢城を陥す。この戦争が前後7年間にわたる文禄・慶長の役(壬申辰・丁酉倭乱)である。後世の日本人には講談、武者絵、錦絵などで加藤清正の虎退治の逸話が知られるが、信憑性のある史実かどうかは知らない。朝鮮侵攻の当時、朝鮮半島にはアムール虎(満州虎)、シベリア虎が相当多く生息していた。江戸中期の湯浅常山の『常山紀談』に虎退治の記述がある。小姓の上月左膳が虎に殺されたため、怒った清正が片鎌槍で撃退したという。吉田輝元なども虎の皮10枚を豊臣秀吉に献上している。だが加藤清正がどれくらい虎を殺したか記録にはない。そもそも日本の武将が何故朝鮮まで行って虎狩りをする必要性があるのだろうか。後藤又兵衛は虎と格闘して、のちに叱責されている。敵を前にして、大切な命を、猛獣のために危険にさらすとは、なにごとかというわけである。虎刈りの理由として挙げられる説として、①武芸の訓練のため②領地の安全確保のため③豊臣秀吉の命令、の3点である。①の説は後藤又兵衛の叱責事件のように、ありえない話であろう。②の説は男色の加藤清正が愛人の小姓が殺されたために復讐鬼となって虎を殺したという話であるが、にかわに信じ難いであろう。片鎌槍で殺したことになっているが、実際は鉄砲だったという説もある。③の説は、老いた秀吉が回春のため、虎の肉を必要としていた。虎の肉を食うと、精力がつくらしい。だが当時の輸送で食用肉を朝鮮から大坂まで安全管理で運搬できたのであろうか。虎の利用としてはせいぜい虎の皮で敷物に使うくらいしか用途はないのではないか。加藤清正虎退治の伝説は、岩見重太郎の狒狒退治と並んで江戸期に民間に流布した豪傑譚の一つであろう。

新作映画紹介

 映画は年間に数百本と世に送り出されています。ここ10数年の間にデジタル・ビデオの技術が飛躍的に進歩して、低予算で劇場用映画が可能になってきました。でも永く人々の記憶に残るであろう名作や、映画史に残るであろう傑作となるものはごく少数といえるでしょう。

 山中瑤子監督「ナミビアの砂漠」がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞した。

  第47回日本アカデミー賞。最優秀作品賞「ゴジラ-1.0」、最優秀主演男優集は役所広司、最優秀主演女優賞・安藤サクラ(最優秀助演女優賞とW受賞)。第96回アカデミー賞で宮崎駿監督作品「君たちはどう生きるか」が長編アニメーション映画賞を受賞。

 第96回アカデミー賞作品「関心領域」は第二次世界大戦下、アウシュヴィッツ強制収容所から壁ひとつ隔てた先で優雅に暮らすナチス将校一家が、壁の向こうで起きている現実にいかに無関心かを映し出す。ホロコーストの恐怖を直接的に描かず音でそれを表現したのが秀逸。監督・脚本はジョナサン・グレイザー。ベルリン国際映画祭金熊賞は「アダマントにて」が受賞。新海誠監督の「すずめの戸締り」は受賞ならず。カンヌ国際映画祭では、「パーフェクト・デイズ」で主演を務めた役所広司が男優賞、「怪物」の坂元裕二が脚本賞に輝いた。濱口竜介監督の「悪は存在しない」がベネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した。いま公開中の藤井直人監督の「青春18×2 君へと続く道」がアジア各国で観客動員第1位を記録してブームとなっている。近年、邦高洋低の傾向が続き、洋画ファンは減少傾向にある。

 2024年7月封切り映画。「先生の白い嘘」奈緒、猪狩蒼弥。「言えない秘密」京本大我、古川琴音、横田真悠。「赤羽骨子のボディガード」出口夏希、高橋ひかる、ラウール、土屋太鳳。「化け猫あんずちゃん」アニメ。「ある一生」シュテファン・ゴルスキー。「密輸1970」キム・ヘス、ヨム・ジョンア。「フェラーリ」アダム・ドライバー、ペネロペ・クルス。6月。「ディア・ファミリー」大泉洋、菅野美穂。「かくしごと」杏、中須翔真、佐津川愛美。「あんのこと」河合優実、、佐藤二朗。「違国日記」新垣結衣、早瀬憩、夏帆。「明日を綴る写真館」平泉成、佐野晶哉。「マッドマックス;フュリオサ」アニャ・テイラー=ジョイ、クリス・ヘムズワース。「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」ポール・ジアマ、ティダヴァイン・ジョイ・ランドルフ、ドミニク・サンダ。「チャレンジャ―ズ」ゼンディヤ、ジョシュ・オコナ―。5月。「碁盤斬り」清原果那、中川大志。「からかい上手の高木さん」永野芽以郁、高橋文哉。「青春18×2 君へと続く道」シュー・グァンハン、清原果那。「ミッシング」石原さとみ、中村倫也。「関心領域」クリスティ・アン・フリーデル、サンドラ・ヒュラー。「コジラ×コング 新たなる帝国」レベッカ・ホール。「ボブ・マーリー・ONE LOVE」キングスリー・ベン=アデイル、ラジャーナ・リンチ。4月。「あまろっく」江口のりこ、中条あやみ。「陰陽師0」山崎賢人、染谷将太、奈緒。「異人たち」アンドリュー・スコット。「プリシラ」ケイリー・スビーニー。「バスト ライブス」グレタ・リー。「アイアン・クロー」ザック・エフロン、ジェレミー・アレン・ホワイト。3月映画。「四月になれば」佐藤健、長澤まさみ、森七菜。「変な家」間宮祥太朗、佐藤二朗。「52ヘルツのクジラたち」杉咲花、志尊淳。「恋わずらいのエリー」原菜乃華、宮世琉弥、「オッペンハイマー」キリアン・マーフィー。「FLY!」クメイル・ナンジアー。「デューン 砂の惑星PART2」ティモシー・シャラメ。2月。「夜明けのすべて」上白石萌音、松村北斗。「マッチング」土屋太鳳、佐久間大介。「身代わり忠臣蔵」ムロツヨシ、永山瑛大、川口春奈、林遣都。「熱のあとに」橋本愛、仲野太賀。「レディ加賀」小芝風花、森崎ウィン。「ボーはおそれている」ホアキン・フェニックス、ネイサン・レイン。「ネクスト・ゴール・ウィンズ」マイケル・ファスベンダー。「カラーパープル」フゥンティジア・バリーノ。1月。「笑いの怪物」岡山天音。「サイレント・ラブ」山田涼介、浜辺美波。「ある閉ざされた雪の山荘で」重岡大毅、間宮祥太朗、岡山天音、中条あやめ、西野七瀬、森川葵。「哀れなるものたち」エマ・ストーン、マーク・ラファロ。「エクスペンタブルス ニューブラッド」ジェイソン・ステイサム、シルベスター・スタローン。「コンクリート・ユートピア」イ・ビョンホン、パク・ソジュン。2023年12月。「隣人X・疑惑の彼女」上野樹里、林遣人。「PERFECT DAYS」役所広司、柄本時生。「怪物の木こり」亀梨和也、菜々緒、吉岡里帆。「ウォンカとチョコレート工場のはじまり」ティモシー・シャラメ。「エクソシスト 信じる者」レスリー・オドムJr。「ナポレオン」ホアキン・フェニックス。11月「正欲」稲垣吾郎、新垣結衣、磯村勇斗。「首」ビートたけし、西島秀俊。「法廷遊戯」永瀬簾、杉咲花、北村匠海。「シチリア・サマー」ガブリエーレ・ピスロー、サミュエル・セグレート。「私がやりました」ナディア・テレスキウィッツ。「スラムドッグス」。10月「ゆとりですが何かインターナショナル」岡田将生、松坂桃李。「沈黙の艦隊」大沢たかお、玉木宏。「アナログ」二宮和也、波瑠。「SISU/シス 不死身の男」ヨルマ・トンミラ。「ドミノ」ベン・アフレック。「オペレーション・フォーチュン」ジェイソン・ステイサム。9月。「ミステリと言う勿れ」菅田将暉、町田智子。「こんにちは、母さん」吉永小百合、大泉洋。「スイート・マイホーム」窪田正孝、蓮佛美沙子、奈緒。「夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく」白岩瑠姫、久間田琳加、箭内夢菜。「女家族」生見司織、小島彩乃、綱島えりか。「親のお金は誰のもの」比嘉愛未、三浦翔平。「ホーンテッドマンション」ロザリオ・ドーソン。「ジョン・ウィック:コンセクエンス」キアヌ・リーブス。「アステロイド・シティ」ジェイソン・シュワルツマン、スカーレット・ヨハンソン、トム・ハンクス。8月。「高野豆腐店の春」藤竜也、麻生久美子。「リボルバー・リリー」綾瀬はるか、長谷川博己。「春に散る」佐藤浩市、横浜流星、橋本環奈。「マイ・エレメント」ウォルト・ディズニー。「クライムス・オブ・ザ・フューチャー」ヴィゴ・モーテンセン。「トランスフォーマー」アンソニー・ラモス。7月。「1秒先の彼」岡田将生。清原果耶。「キングダム 運命の炎」山崎賢人、吉沢亮、橋本環奈。「探偵マリコの生涯で一番悲惨な日」伊藤沙莉、北村有起哉。「ミッションインポッシブル テッドレコニング PART ONE」トム・クルーズ。「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」ハリソン・フォード。「CLOSE クローズ」エデン・タンブリン。6月。「東京リベンジャーズ2 血のハロウィーン編・決戦」北村匠海、山田裕貴。「怪物」安藤サクラ、永山瑛大。「オレンジ・ランプ」貫地谷しおり、和田正人。「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」高橋一生、飯豊まりえ。「水は海に向かって流れる」広瀬すず、大西利空、當真あみ。「スパイスより愛を込めて」中川翼、茅島みずき。「M3GAN」アリソン・ウィリアムズ、バイオレット・マッグロウ。「探偵マーロウ」リーアム・ニーソン、ダイアン・クルーガー。「ウーマン・トーキング」ルーニー・マーラ、クレア・フォイ。5月。「せかいのおきく」黒木華、寛一郎。「最後まで行く」岡田准一、綾野剛。「銀河鉄道の父」役所広司、菅田将暉、森七菜。「さいはて」北澤響、中島歩。「こわれること いきること」吉田伶香、藤田朋子。「aftersun アフターサン」ポール・メスカル。「TAR ター」ケイト・ブランシェット。「クリード 過去の逆襲」マイケル・B・ジョーダン。4月。「TOKYO MER」鈴木亮平、賀来賢人。「サイドバイ サイド」坂口健太郎、齋藤飛鳥。「ヴィレッジ」横浜流星、黒木華。「生きる」ビル・ナイ。「ザ・ホエール」ブレンダ・フレイザー。「エスター ファースト・キル」イザベル・ファーマン。3月。「わたしの幸せな結婚」目黒蓮、今田美桜。「ロストケア」マツヤマケンイチ、長澤まさみ。「フェイブルマンス」ミシェル・ウィリアムズ。「エブリシング・エブリウェア・オール・アンド・ワンス」ミシェル・ヨー。「マジック・マイク ラストダンス」チャニング・テイタム。2月。「マンホール」中島裕翔、奈緒。「スクロール」北村匠海、中川大志、松岡茉優。「エゴイスト」鈴木亮平、宮沢氷魚。「別れる決心」パク・ヘイル。「ボーンズ・アンド・オール」ティモシー・シャラメ。「バビロン」ブラッド・ビット。1月。「レジェンド&バタフライ」木村拓哉、綾瀬はるか。「ファミリア」役所広司、吉沢亮。「嘘八百 なにわ夢の陣」中井貴一、佐々木蔵之介。「イニシェリン島の精霊」コリン・ファレル。「シー・セッド その名を暴け」キャリー・マリガン。「ドリーム・ホース」ト二・コレット。2022年12月。「夜、鳥たちが啼く」山田裕貴、松本まりか。「月の満ち欠け」大泉洋、有村架純、目黒蓮。「ラーゲリより愛を込めて」二宮和也、北川景子。アニメ「THE FIRST SLAM DUNK」。「ルイス・ウェイン」ベネディクト・カンバーバッチ。「MEN 同じ顔の男たち」ジェシー・バックリー。「ブラックアダム」ドウェイン・ジョンソン、ピアース・ブロスナン。「ホイットニー・ヒューストン」ナオミ・アッキー。「ザリガニの鳴くところ」オリビア・ニュートン監督、デイジー・エドガー・ジョーンズ。「あのこと」アナマリア・ヴァルトロメイ。「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」サム・ワーシントン。11月。「母性」戸田恵梨香、永野芽郁、中村ゆり。「ある男」妻夫木聡、安藤サクラ。「窓辺にて」稲垣吾郎、中村ゆり、玉城ティナ。「ザ・メニュー」レイフ・ファインズ。「ドント・ウォーリー・ダーリン」フローレンス・ビュー。「チケット・トゥ・パラダイス」ジュリア・ロバーツ、ジョージ・クルーニー。10月。「もっと超越した所へ」前田敦子、菊池風磨。「耳をすませば」清野菜名、松坂桃李。「線は、僕を描く」横浜流星、清原果耶、河合優実。「バッド・ガイズ」。「アフター・ヤン」コリン・ファレル。「スペンサー ダイアナのダイアナの決意」クリスティン・スチュワート。「七人の秘書」木村文乃、広瀬アリス。「愛する人に伝える言葉」カトリーヌ・ドヌーブ、ブノワ・マジメル。9月「沈黙のパレード」福山雅治、柴咲コウ。「さかなのこ」のん、柳楽優弥。「ヘルドッグス」岡田准一、坂口健太郎。「川っぺりムコリッタ」松山ケンイチ、ムロツヨシ。「百花」菅田将暉、原田美枝子。「LAMB ラム」ノオミ・ラパス。「ブレット・トレイン」ブラット・ピット。「ダウントン・アビ― 新たなる時代へ」ヒュー・ボネヴィル。8月。「ハウ」田中圭、池田イライザ。「TANG タング」二宮和也、満島ひかり。「異動命令は音楽隊!」阿部寛、清野菜名。「長崎の郵便配達」イザベル・タウンゼンド、谷口稜曄。「野球部に花束を」醍醐虎太朗、黒羽麻璃央。「ジュラシック・ワールド 新たなる支配者」クリス・ブラット。「ソニック・ザ・ムービー」ジェームズ・マースデン。7月。「コースブックおばけずかん」新垣結衣、城桧吏。「破戒」間宮祥太郎、石井杏奈。「ビリーバース」礒村勇人、北村優衣。「ベイビー・ブローカー」ソン・ガンホ。「ブラック・フォン」イーサン・ホーク。「リコリス・ピザ」アラナ・ハイム。「エルヴィ」オースティン・バトラー。6月。「メタモルフォーゼの縁側」芦田愛菜。「恋は光」神尾楓珠、西野七瀬。「神は見返りを求める」ムロツヨシ、岸井ゆきの。「峠」役所広司、松たか子。「オフィサー・アンド・スパイ」ジャン・デュダルジャン。「FREE」アニメ。5月。「鋼の錬金術師」山田涼介、本田翼。「流浪の月」広瀬すず、松坂桃李。「ハケンアニメ!」𠮷岡里帆。「死刑に至る病」阿部サダヲ。「シング・ア・ソング」クリスティン・スコット・トーマス。「オードリー・ヘプバーン」長編ドキュメンタリー。4月。「とんび」阿部寛。「やがて海へと届く」岸井ゆきの、浜辺美波。「英雄の証明」アミル・ジャディディ。「カモン・カモン」ホアキン・フェニックス。「ヒットマンズ・ワイプズ・ボディガード」ライアン・レイノルズ。「チタン」ヴァンサン・タンドン。3月。「ウェディング・ハイ」篠原涼子、中村倫也。「愛なのに」瀬戸康史、さとうほなみ。「猫は逃げた」山本奈依瑠。「ナイトメア・アリー」ブラッドリー・クーパー。「ベルファスト」ケネス・プラナー監督 カトリーヌ・バルフ。「THE BATMAN ザ・バットマン」ロバート・パティンソン。「MEMORIA メモリア」アピチャッポン・ウィーラセタクン監督。 2月。「ちょっと思い出しただけ」池松壮亮、伊藤沙莉。「ノイズ」藤原竜也。「嘘喰い」横浜流星。「Pure Japanese」ディーン・フジオカ、蒔田彩珠。「君が落とした青空」福本莉子、松田元太、横田真悠。「ゴーストバスターズ アフターライフ」マッケナ・ブレイス。「ウエストサイド・ストーリー」アンセル・エルゴート、レイチェル・ゼグラー。「フレンチ・ディスパッチ」ビル・マーレイ。1月。「決戦は日曜日」窪田正孝、宮沢りえ。「99.9・刑事専門弁護士」松本潤。「コンフィデンスマンJP英雄篇」長澤まさみ。「クライ・マッチョ」クリント・イーストウッド。「ハウス・オブ・グッチ」レディー・ガガ。「スパイダーマン:ノー・ウェイj・ホーム」トム・ホランド。2021年12月。「偶然と想像」古川琴音、中島歩。「彼女が好きなものは」神尾楓珠、山田杏奈。「ヴェノム・レット・ゼア・ビー・カーネイン」トム・ハーディ。「天才ヴァイオリニストと消えた旋律」ティム・ロス。「ダーク・ウォーターズ」マーク・ラファロ。「ラストナイト・イン・ソーホー」トーマシン・マッケンジー。11月。「そして、バトンは渡された」永野芽郁、田中圭。「ボクたちはみんな大人になれなかった」森山未來、伊藤沙莉。「老後の資金がありません!」天海祐希、草笛光子。「カオス・ウォーキング」トム・ホランド。「ディア・エヴァン・ハンセン」ベン・ブラット。「リスペクト」ジェファー・ハドソン。10月。「CUBE一度入ったら、最後」菅田将暉、杏。「護られなかった者たちへ」佐藤健、阿部寛。「ルパンの娘」深田恭子。「G.I.ジョー」ヘンリーゴールディング。「キャッシュトラック」ジェイソン・ステイサム。9月。「マイ・ダディ」ムロツヨシ。奈緒。「空白」古田新太。松坂桃李。「総理の夫」田中圭。中谷美紀。「アナザーラウンド」マッツ・ミケルセン。「MINAMATA」ジョニー・デップ。真田広之。「モンタナの目撃者」アンジェリーナ・ジョリー。8月。「子供はわかってあげない」上白石萌歌。「ドライブ・マイ・カー」西島秀俊。「孤狼の血」松坂桃李。「キネマの神様」沢田研二。「すべてが変わった日」ダイアン・レイン、ケビン・コスナー。「ワイルド・スピード/ジェットブレイク」ヴィン・ディーゼル。7月。「犬部」林遣都。「東京リベンジャーズ」北村匠海。「竜とそばかすの姫」アニメ。「17歳の瞳に映る世界」シドニー・フラナガン。「イン・ザ・ハイツ」アンソニー・ラモス。「プログラミング・ヤング・ウーマン」キャリー・マリガン。6月。「明日の食卓」菅野美穂。「キャラクター」管田将暉。アニメ「漁港の肉子ちゃん」明石家さんま、大竹しのぶ。「るろうに剣心 最終章」佐藤健。「Arc アーク」芳根京子。「ハチとパルマの物語」アレクサンドル・ドモガロフJr。「クワイエット・プレイス」ジョン・クラシンスキー、エミリー・ブラント。「Mr.ノーバデイ」ボブ・オデンカーク。「1秒先の彼女」リウ・ヴァンティン「グリーンランド」ジェラルド・バトラー。「カムバック・トゥ・ハリウッド」ロバート・デ・ニーロ、モーガン・フリーマン。5月「いのちの停車場」吉永小百合が122本目の映画出演にして初の医師役に挑戦する。「地獄の花園」永野芽郁、広瀬アリス。「ヒノマルソウル」田中圭、土屋太鳳。「コジラvsコング」アレクサンダー・スカルスガルド。「ジェントルメン」マシュー・マコノヒー。「ファーザー」アンソニー・ホプキンス、オリヴィア・コールマン。4月。「るろうに剣心 最終章」佐藤健。「ホムンクルス」成田凌、岸井ゆきの。「ゾッキ」吉岡里帆。「街の上で」若葉竜也、穂志もえか。「パーム・スプリング」アンディ・サムバーグ。「21ブリッジ」チャドウィック・ボースマン。「アンモナイトの目覚め」ケイト・ウィンスレット。3月「騙し絵の牙」大泉洋、松岡茉優。「まともじゃないのは君も一緒」成田凌、清原果耶。「奥様は、取り扱い注意」綾瀬はるか、西嶋秀俊。「モンスター・ハンター」ミラ・ジョヴォウィッチ。「トムとジェリー」クロエ・グレース・モレッツ。「アウトポスト」スコット・イーストウッド。「ノマランド」フランシス・マクドーマンド。2月。「哀愁シンデレラ」土屋太鳳、田中圭。「セトウツミ」池松壮亮、菅田将暉。「ファースト・ラブ」北川景子、中村倫也。「あの頃、」松坂桃李。「すばらしき世界」役所広司、長澤まさみ。「マーメイド・イン・パリ」二コラ・デュヴォシェル。「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」。「秘密への招待状」ジュリアン・ムーア。1月。「花束みたいな恋をした」菅田将暉、有村架純。「AWAKE」吉沢亮。「さんかく窓の外側は夜」岡田将生、志尊淳。「新解釈・三國志」大泉洋、ムロツヨシ。「おもいで写真」深川麻衣。「大コメ騒動」井上真央。「おとなの事情スマホをのぞいたら」東山紀之。「新感染列島」カン・ドンウォン。「KCIA 南山の部長たち」イ・ビョンホン。「ザ・スイッチ」ヴィンス・ヴォーン。「43年後のアイ・ラヴ・ユー」ブルース・ダーン。2020年12月。「私をくいとめて」のん、林遣都。「天外者」三浦春馬。「サイレント・トーキョー」佐藤浩市。「約束のネバーランド」浜辺美波。「ビルとテッドの時空旅行」キアヌ・リーブス。「ネクスト・ドリーム」ダコタ・ジョンソン。「魔女がいっぱい」アン・ハサウェイ。11月「おらおらでひとりいぐも」田中裕子、蒼井優、東出昌大。「罪の声」小栗旬、星野源。「461個のおべんとう」井ノ原快彦。「さくら」北村匠海、小松菜奈。「ドクター・デスの遺産」綾野剛、北川景子。「ホテルローヤル」波瑠、松山ケンイチ。「ばるぼら」稲垣吾郎、二階堂ふみ。「ストックホルム・ケース」イーサン・ホーク、ノオミ・ラパス。「エイプのキッチンストーリー」ノア・シュナップ。「ミッシング・リング英国紳士と秘密の相棒」。10月「望み」堤真一、石田ゆり子。「星の子」芦田愛菜。「浅田家!」二宮和也、妻夫木聡。「生きちゃった」仲野大賀、大島優子。「82年生まれ、キム・ジョン」チョン・ユミ、コン・ユ。「キーパー ある兵士の奇跡」デヴィッド・クロス。「ナイル殺人事件」ケネス・ブラナー、ガル・ガドット、アーミー・ハマー、エマ・マッキー。

 

 

2024年6月23日 (日)

パリは汚い

   パリの空の下、セーヌは流れる。花の都パリを流れるセーヌ川だが、実は日本一汚い淀川をはるかに上回る汚染度で、泳ぐことはおすすめしない。さいきん水質検査をしたところ、コロナウイルス感染者の排泄物に含まれるウイルスが下水からセーヌ川に流れこみ、そこから取水したのが原因だと考えられる。パリ五輪開幕(7月26日開会式)まであと一月余りだが、セーヌ川は開会式とトライアスロン、マラソンスイミングの会場となる。しかし水質の問題で競技が本当にできるのか心配の声が上がっている。

  ファッション雑誌やフランス映画に憧れ、パリ暮らしを始めた日本人女性がよくかかる病が「パリ症候群」。理想と現実の差にショックを受ける一種の適応障害のような病気だそうだ。パリの街も路上に散らばるゴミや、壁に描かれたスプレーの落書きなど悲惨のものである。

   しかしシャンソンやシネマ、絵画で馴染みのある風景にはエッフェル塔とセーヌ川が良く似合う。パリを東から西へと流れるセーヌ川には、37の橋が架っている。最古の橋は1578年5月31日から起工し、1607年まで30年を費やして完成したポン・ヌフ(新橋)である。パリ中心部のシテ島の対岸に店を連ねる古書店はパリの観光名所の一つでもあるが、1606年にポン・ヌフ橋上で露店を開いたのがきっかけで広がったといわれる。街の東外れにあるベルシー駅方面がセーヌ川の上流にあたる。一番初めに上流に架かる橋はアモン橋。アモンとは上流という意味である。続いて、ナシオナル橋、トルビアック橋、シモーヌ・ド・ボーヴォワール橋、ベルシー橋、シャルル・ドゴール橋、オステルリッツ高架橋、オステルリッツ橋、シュリー橋、マリー橋、ルイ・フィリプ橋、トゥオネル橋、サン・ルイ橋、アルコル橋、ノートルダム橋、プティ・ポン、シャンジュ橋、サン・ミッシェル橋、ポン・ヌフ、ポン・デ・ザール、カルーゼル橋、ロワイヤル橋、レオポール・セダール・サンゴール歩道橋、コンコルド橋、アレクサンドル三世橋、アンヴァリッド橋、アルマ橋、ドウビリ橋、イエナ橋、ビラケム橋、ルエル橋、グルネル橋、ミラボー橋、ガリリアーノ橋、アヴァル橋、イッシー橋。37番目がタンカルヴィルとマレ・ヴェルニエ間に架かる吊り橋「タンカルヴィル橋」。

 

 

ヒトラーとエッフェル塔

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    1940年6月14日、パリはドイツ軍によって無血占領され、フランスは降伏した。6月20日、休戦条約の署名がおこなわれ、3日後の6月23日、アドルフ・ヒトラー(1889-1945)はフゴー・シュペールとともにお忍びでパリの名所観光をしている。朝6時にレ・ブルージュ空港に着いたヒトラーは、同9時には、その飛行場から発った。わずか3時間のパリ見物だったが、ヒトラーは「パリを見物するのが私の夢だった。今日、その夢がかなって、とてもうれしい」と語っている。

   ヒトラーはパリのどこを見物したのだろうか。ドイツの彫刻家アルノ・ブレッカーによると、廃兵院(アンヴァリッド)、シャイヨー宮を廻って、エッフェル塔に上ったという。(『パリ、ヒトラーと私』)ヒトラーがエッフェル塔に上ろうとすると、突然エレベーターが故障した。やむなくヒトラーは最上階まで歩いて上った。ところが、ヒトラーはエッフェル塔には上らなかったとする説もある。この否定説によると、シャイョー宮に行くのにシャン・ド・マルスを横切りながら、下からエッフェル塔を眺めただけだったという。どちらが本当か不明である。真相はエッフェル塔だけが知っている。

   しかし、何故、ヒトラーはエッフェル塔を見物したのだろうか。ナポレオンの柩が納められた廃兵院(アンヴァリッド)や凱旋門ならば話はわかるが、エッフェル塔が花の都パリのシンボルというだけの理由なのだろうか。一説によると、エッフェル塔が完成したのはフランス革命100周年記念のパリ万博で、ヒトラーと「同じ年」だからという。つまりヒトラーは子供のころからエッフェル塔に憧れを持ち続け、エッフェル塔に行きたがっていたという。もともと画家志望であったヒトラーはキュービズムなど現代美術は頽廃芸術として嫌悪していたが、古典芸術であるルーブル美術館やパリには人並み以上の憧憬を抱いていたと想像するのはケペルだけであろうか。

   エッフェル塔を背景としたヒトラーの記念写真には合成もあるかもしれないが、この記事に載せた写真は、愛人エヴァ・ブラウン(1912-1945)に送った写真で、ジャン・ド・マルス公園あたりで撮影された本物とみられている。

2024年6月22日 (土)

フランス人の愛国心と現実主義

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 復讐心に駆られた市民にズボンを脱がされ、辱めを受ける対独協力者
 

 

    映画「カサブランカ」。リックが経営する酒場でドイツ軍人が大騒ぎしてドイツ国歌を歌う。そのうち、反ナチ活動家が立ち上がり「ラ・マルセイエーズ」を高らかに歌い、「自由、フランス万歳」と叫ぶシーンがある。このようにフランス人は愛国心と自由を希求する国民と一般には知られている。1940年6月14日、パリは陥落した。首相ペタン元帥は、6月22日、独仏停戦協定に調印し、ドイツに協力することになった。なぜ人口の多い大国フランスが少数のドイツ軍に降伏したのか。日本のように女や子どもまで竹槍で戦え、という話は聞いたことがない。徹底抗戦していれば、多くの一般市民の犠牲が出たことが予測され、そこに現実主義な判断が正しく働いたであろう。それと実はフランス国民の中に多数の者が、ドイツ軍に協力にしていたらしい。フランスでは恥ずべき行為があまりにも多く行われていたため。政府は1945年、対独協力者に関するファイルを、向こう50年間封印することにした。連合国の力によって、パリが解放されると、フランス人たちは対独協力者への報復が盛んに行われた。国民たちは自らの恥ずべき過去を隠蔽したことを示す行為であると考えられる。レジスタンスや英雄的なイメージとは裏腹にフランス人の悲しい本性がみえる。

 

 

2024年6月21日 (金)

マキァヴェリ

Machiavelli   菅義偉元首相の愛読書はなんとマキァヴェリの「君主論」だそうだ。 1527年のこの日、イタリア・ルネサンス時代の政治家ニッコロ・マキァヴェリ(1469-1527)が58歳で没する。「君主論」の中で「君主が獣の方法を取らなくてはならぬ場合には、彼はまず狐と獅子を選ぶがよい」と説いている。君主は狐のようなずる賢さとライオンのような力を使い分けて統治すべきであるという意味で、目的のためには手段を選ばないという権謀術数主義を端的に表わしている。マキァヴェリがこのような極端な論を説いたのは、中央集権化した諸大国の侵入からイタリアを救うにはイタリアの統一が急務であること、そのためには道徳や宗教に縛られない強力な君主の出現が必要であるという祖国愛からであった。「君主論」で当時悪名高かったチェザーレ・ボルジアを好意的に評価している。菅が安倍の懐刀として活躍したのも現実主義によるものであるる。「君主論」は近代政治岳の先駆として高く評価されている。(6月21日,マキャヴェリ,Machiavelli)

 

 

2024年6月20日 (木)

映画「カサブランカ」

   いまさら書くこともない名作「カサブランカ」であるが、アメリカで一般公開されたのは1943年1月のことで、ちょうどルーズヴェルトとチャーチルがカサブランカで会談を始めたころであった。そして翌年には第16回アカデミー作品賞と監督賞を獲得している。この映画には連合国側のプロパガンダ的要素があり、受賞も時局の要請であった。評論家たちはこの作品はあまり評価していなかった。アメリカで評判が上がるのは、名画座などで繰り返し上映される1960年代後半からである。日本公開は1946年6月20日であるが、敗戦にうちひしがれた日本人が連合国側の自由にどれほど共鳴したかは疑問である。もちろんバーグマン人気は上がってきたが、むしろ「誰がために鐘は鳴る」「ガス燈」「聖メリーの鐘」「白い恐怖」「「サラトガ本線」「汚名」「凱旋門」と作品が続々と公開されたからである。「カサブランカ」の人気に火がついたのはリバイバル上映によるものである。

 

 

2024年6月19日 (水)

ベースボール記念日

Cartwrightalexabio   1846年のこの日、公式の記録に残る史上初の野球の試合がニュージャージー州ホーボーケンで行われた。前年、アレクサンダー・カートライト(1820-1892)はイギリスの球技であるタウンボールを、文書化して統一ルールを定めた。これが現在の野球のはじまりといわれる。いわゆるニッカーボッカー・ルールでは「先に21点を取ったチームが勝ち」となっていた。あるとき「いつ試合が終わるか分からないから、料理の準備ができない」と野球チームのコックが苦情を言った。20対0で、あと1点取ればゲームは終了になるのに、点がはいらない場合など観客も飽きてくるだろう。そこで1試合最低1人3打席回ってくるようにした結果9イニング制となった。試合はカートライト率いるニューヨーク・ニッカーボッカーズがニューヨーク・ナイン相手に1-23で負けてしまった。この出来事が、「ベースボールの記念日」もしくは「ベースボールの日」と呼ばれている。その後、南北戦争を機に南部にも広まり、全米で人気を博するようになった。(Alexander Joy Cartwright Jr. 6月19日)

桜桃忌

Img_2308_5289321_0    本日は太宰治の命日。東京都三鷹市の禅林寺で供養が行われる。「桜桃忌」は文学忌のなかでは河童忌と並んで有名である。

   太宰が東京・玉川上水に入水自殺し、遺体が上がったのが誕生日でもあるこの日。桜桃が熟するころで、太宰の晩年の作品で好評だった「桜桃」から桜桃忌と呼ばれる。

   太宰治の叔母の言ふ。「お前はきりょうがわるいから、愛嬌だけでもよくなさい。お前はからだが弱いから、心だけでもよくなさい。お前は嘘がうまいから、行ひだけでもよくなさい」

   芥川賞候補の太宰に対して、選考委員だった川端康成は選評の中で太宰の生活態度を「生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる・・・」と批判した。それに激怒した太宰は「小鳥を飼い、舞踏を観るのがそんなに立派な生活なのか」と反論した。

   志賀直哉はある座談会で太宰を「僕は嫌いだ。あのポーズが好きになれない」と評した。これに対して、太宰も志賀を「薄化粧したスポーツマン」などと罵倒した。この対立の背景には、太宰の志賀に対する畏敬とコンプレックスがあったのかも知れない。2020年、孫の石原燃が「赤い砂を蹴る」で芥川賞の候補作に選ばれる。太宰は天国でどう思っているだろう。(6月19日)

 

 

2024年6月18日 (火)

リクルート事件と江副浩正(1988年)

  昭和63年6月18日、朝日新聞が川崎市助役のリクルートコスモス未公開株譲渡疑惑をスクープした。さらに7月になって未公開株の譲渡先が竹下首相ら政府・党要人に及んでいたことが判明した。

  この年3月、川崎駅前再開発計画をめぐって、川崎市助役がリクルートから関連会社の未公開株を受け取っていたことが発覚、一連のリクルート事件の発端となった。未公開株は竹下首相、宮沢大蔵大臣などの閣僚をはじめ、自民党の領袖、大物財界人などにわたっていたことが明らかになり、12月宮沢大蔵大臣は辞任した。東京地検特捜部は政界・官界・財界人への未公開株の譲渡のうち贈収賄にあたる事件の捜査を進め、この翌年藤波元官房長官、NTT前会長らを起訴した。自民党の長期政権が続くなかで、政財界の癒着も進んだ。昭和51年のロッキード事件、昭和63年のリクルート事件、平成4年の佐川急便事件などの贈収賄事件で国民の政治不信はつのり、政治改革がさけばれるようになった。

   事件の中心人物、江副浩正とはどのような人物なのか。昭和11年、愛媛県に生まれる。戦後、甲南中学校・高等学校を経て東京大学を卒業。大学在学中に、リクルートの前身である株式会社大学広告を設立した。高度成長の波に乗って事業を急拡大させる。生み出した利益を新事業に先行投資する方法で、不動産、金融、レジャー、情報通信にまで手を広げ、「ニュービジネスの旗手」と呼ばれた。事業の拡大とともに80年代から財界での活動に力を入れ、政界とのパイプづくりを励むようになる。92年、経営不振からダイエー傘下での再建を決意して自社株を売却、一線を退く。平成25年、死去した。

 

 

2024年6月17日 (月)

世界遺産タージ・マハル

  インド北部のアグラにある「世界で最も美しい建築」といわれるタージ・マハルはムガール帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーン(1592-1666)が愛妃ムムターズ・マハル(1595-1631)の死を悲しんで建てた廟墓である。建築者ウスタッド・アーマド・ラホーリはインド・イスラーム建築に大きな業績を残した。ムムターズがまだ皇太子だったシャー・ジャハーンと結婚したのは1612年、ムムターズ18歳の時だった。彼女はもちろん初婚だったが、シャー・ジャハーンには2年前に結婚した妃がおり彼女とのあいだに娘が1人いた。美貌の皇妃として知られたムムターズは、夫に深く寵愛され、男子8人、女子6人という子沢山であった。そして20年近く、ムガール朝の大奥で権勢をほしいままにした。1631年6月17日、王がデカン遠征中、妃は36歳で産褥死した。王はその死を悲しみ、彼女の廟の建設を翌年から着工し、21年の歳月をかけて1653年タージ・マハルが完成した。タージ・マハル Taj Mahal とは「マハル妃の王冠」の意味。王妃の墓は、このドームの真下の地下にある。(世界史)

2024年6月16日 (日)

楊貴妃の墓

Photo  小野小町、楊貴妃、クレオパトラといえばおなじみ「世界の三大美女」。しかし、この組み合わせは日本だけしか通用しない。中国では、楊貴妃は当然として、あとは貂蝉、王昭君、西施の四美人。インドでは、メンカとシャクントラ、ルップマティの3人。ところで中国の楊貴妃(ヤンクイフェイ)だが、わが国では古代から人気があり、「源氏物語」「今昔物語」「十訓抄」「浜松中納言物語」「唐物語」「太平記」と楊貴妃を題材にあげたものは数えきれないほどある。しかし、やはり「天に在りて願わくば比翼の鳥、地に在りては連理の枝とならん」と白楽天の「長恨歌」に歌われて、楊貴妃は日本人の心の中にいつまでも絶世の美女として生きているのである。

  本日、り天宝15年(756年)の楊貴妃の忌日(諸説あり)。享年38歳。楊貴妃の墓は西安から西に約60.㎞の興平県の馬嵬坡にある。墓の全体はレンガで覆われたかまくら状になっている。これは墓の土で白粉をつくると美人になるという噂が広まり、墓を訪れた人が土を持ち帰るため、現在のようにコンクリートで覆われるようになったのである。

 ところが楊貴妃の墓は中国だけでなく、日本にもある。山口県長門市油谷は「楊貴妃の里」として知られ、楊貴妃の墓があるという。伝説によれば、安禄山の変で死んだ楊貴妃は身代わりで、実は危うく難を逃れて、向津具半島の北西、唐渡口に漂流した。しかし、まもなく病没し、憐れんだ里人たちが亡骸を二尊院に埋葬した。楊貴妃の墓と伝えられる五輪塔は、唐の方に向いて建っている。この墓に参ると美しい子が授かるという。

   日本にある楊貴妃伝説には、このほか、京都東山泉湧寺に楊貴妃観音があり、名古屋の熱田神宮には楊貴妃にまつわる蓬莱伝説がある。江戸の建部綾足「本朝水滸伝」(1773年)という読本には、時代を奈良時代後期の道鏡の専横に抗して、恵美押勝、和気清麻呂、大伴家持らが立ち上がるという物語であるが、なんと楊貴妃までが登場する。

   「己に唐国にては、玄宗皇帝の御心をみだし給へるばかりの御色におはせば、是を妾などにしたてて、阿曽丸にちかづけば、県主が娘といふともけをされ、終には其しるべをもて、我々が心のままに事をしおふせん」と、みそかにはかりあひたまへど、大倭言をわきまへたまはぬにすべなく、「是より二人して御言風俗をなほし、大倭言におしへたてんず」と。

    「本朝水滸伝」の梗概は、馬隗で死んだはずの楊貴妃は身代わりで、実は叔父の楊蒙という男に救助されていた。楊蒙は彼女を遣唐使の藤原清川に託して日本へ亡命させる。二人は無事九州に着き、兄妹と偽って暮らした。そのころ都では道鏡が政権を握り、九州でも道鏡配下の豪族阿曽丸が支配していた。藤原清川は楊貴妃に日本語を教えて、女刺客として、阿曽丸を色仕掛けで暗殺を図る。しかし、その計画は失敗し、楊貴妃は尾張熱田へ逃げる。この奇抜な作り話の中にも少しは史実を織り混ぜているところがある。例えば、阿曽丸を阿曽麻呂に、藤原清川を藤原清河(?-779)に充てると、楊貴妃(719-756)とまずは同時代の人物である。史書によれば、開元・天宝の状況は、開元(733)の多治比広成、天宝九戴(750)の藤原清河ら遣唐使節一行によって、わが国に伝えられている。安史の乱についても「続日本紀」に淳仁天皇の天平宝宇2年(758)つまり反乱勃発後3年目の12月、遣渤海使の小野朝臣田守らが帰朝し、詳しく伝えている。太宰府帥船王、大弐吉備真備(695-775)らに安禄山が侵攻するかもしれないから備えを固めるよう指命を発している。楊貴妃の情報も逐一わが国に伝わっていたようである。(6月16日)

参考文献
鎌田重雄「渤海国小史」(史論史話第二) 1967
村山孚「美人薄命」(人物中国志5) 1975
石井正敏「日本渤海関係史の研究」 2001
東北亜歴史財団編「渤海の歴史と文化」
酒寄雅志「渤海と古代の日本」 2001

 

 

和菓子の日

 平安時代、国に疫病が蔓延していた。元号を承和から嘉祥へと変えた。嘉祥元年の6月16日、仁明天皇は、16の数にちなんで菓子、餅などを神前に供えて、疫病を除いて健康招福を祈誓したといわれる。こうして嘉祥菓子(かじょうがし)という風習は江戸時代まで続いたが、明治になって廃れた。昭和54年に全国和菓子協会が「和菓子の日」として制定した。

 

戦争とパーマネント

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   しかし、第一次世界大戦が始まると、敵国人であるネスラーはイギリスから追放される。1914年にアメリカに渡ったネスラーは、当時人気のあったダンサーであるアイリーン・キャッスル(1893-1969)に出会う。アイリーンは18歳とき、イギリスのオペラ役者のバーノン・キャッスルと結婚し、二人は社交ダンスで一世を風靡し、パリを始め欧州、アメリカ各地でダンスを広めた。のち映画「カッスル夫妻」(1939年)でフレッド・アステア、ジンジャー・ロジャースが演じているほどの有名人だった。そのころ、アイリーンは夫が英国飛行隊の大尉として出征し、墜落死する不幸があった。ネスラーはアイリーンにパーマを使った新しいヘア・スタイルをすすめ、「アイリーン・カッスル・ボブ」が誕生した。

    日本でパーマが導入されたのは大正12年5月。神戸三宮で外国人相手に美容院を経営していた紺谷寿美子がアメリカから機械を輸入したのが始まり。実際に普及しだしたのは、昭和5、6年ごろからで、昭和10年代には大流行。しかし昭和14年6月16日、生活刷新法が制定された。この法律には、遊興営業の時間短縮、ネオン全廃、中元歳暮の贈答廃止、学生長髪禁止、パーマネントの廃止などが盛り込まれていた。「堅忍持久」「贅沢は敵だ」などのポスターには「パーマネントはやめましょう」と書かれていた。この法律施行より1年前の昭和13年2月から、宝塚少女歌劇団では、娘役、女生徒のパーマ禁止、男役のシングル・カットが禁止された。しかし娘役のスターである草笛美子、久美京子ら、男役のスターである小夜福子、葦原邦子、奈良美也子らは除外されていた。

ヤー・チャイカ(わたしはカモメ)

Soviet_union1963stamp0_10__valentin   女性初の宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワを乗せたボストーク6号は1963年6月16日、打ち上げられた。「わたしはカモメ」彼女が宇宙から発したこの言葉は、その女性らしい感性と表現で世界中の人々が感動した。ところが、実は「かもめ」というのは、そのミッションで与えられた彼女のコードネームだった。打ち上げ直後、機器の故障で地上との交信が途切れた。テレシコワはパニック状態となり、やたらめたら通信機で「こちらはカモメ、応答願います!」と連呼して叫んだ。この通信を世界中のアマチュア無線家たちが傍受して、「こちらはカモメ(ヤー・チャイカ)」を優雅な通信と取り違えた。ときには勘違いから感動がうまれることがある。( Tereshkova )

近代名前の成立と消滅

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  近代名前はだいたい明治・大正期にほぼできあがった。たとえば男子には「男」「郎(朗)」「雄」「夫」がつく傾向が増えてきた。

 

柳田国男 (明治7年生れ)
有島武郎 (明治11年生れ)
仁科芳雄 (明治23年生れ)
加藤道夫 (大正7年生れ)

 

  明治・大正生れの男子の名を調査するため、サイト「海軍人事名簿」を参考にする。太平洋戦争の指揮官であれば、だいたい明治10年から大正5年までに生れた男子である。

 

吉田善吾大将 (明治18年生れ)
野村留吉少将 (明治29年生れ)
折田善次少佐 (明治43年生れ)
杉山忠嘉少佐 (明治45年生れ)

 

次に現代の男子名を調査するためプロ野球名鑑を参考にし、無作為にひきだす。

 

大輔 大樹 直樹 正樹 雅樹 春樹 直人 真人 拓也 智之 佑太 俊介 健太 康平 浩二 憲司 克彦 翔太 勇紀 隆太 翼 祐輔 裕也 祐樹

 

名を見るだけで明治~大正に生れた人か、昭和に生れた人か、およそ区別できる気がする(もちろん一郎、太郎では無理だが)

 

つまり明治・大正の名はやや古くさく感じられるからである。現在の名からはフレッシュな感じをうける。だがこのようなフレッシュな感じというのがいつまで続けることができるのかわからない。センスの話である。たとえば男子の名で使われなくなった漢字として「吉」「助」「忠」「善」などがある。女子でも「貞」「富」などである。貞子、富江などホラー映画の影響があるのかもしれない。「善」や「忠」など本来は立派な漢字であるのに嫌われる理由は、忠義、忠臣、善行、善人が修身道徳のような堅苦しい感じがするからであろうか。日本にはこのように顕著な名前の変遷があるが、欧米にそのような傾向がみられないのはなぜだろうか。

2024年6月15日 (土)

ホームラン・ブギ

朝起きてテレビつければ Ohtani (凡児)

 朝、目覚めてテレビをつけると大谷翔平がホームランを打っていた。セパ交流戦がたけなわ。そろそろ各チームの実力が見えてきた。若手を中心とした阿部新生巨人は打線に迫力がなく貧打に苦しんでいる。丸.282、岡本.270、坂本.251と皆イマイチ。期待の若手は佐々木.234、門脇.217、萩尾.213(5月30日現在)と低打率である。

6月16日、ドジャースの大谷翔平が18、19号ソロを放つ。

6月16日、巨人の岡本和真が12号2ランを放つ。

6月15日、巨人の岡本和真が11号2ランを放つ。

6月12日、ドジャースの大谷翔平が17号ソロを放つ。

6月11日、ドジャースの大谷翔平が16号ランを放つ。

6月5日、ドジャースの大谷翔平が15号2ランを放つ。

5月30日、巨人の岡本和真が10号2ラン本塁打を放つ。

5月29日、ドジャースの大谷翔平が14号2ラン本塁打を放つ。

5月26日、巨人の岡本和真が9号ソロ本塁打を放つ。

5月17日、ドジャースの大谷翔平が13号2ラン本塁打を放つ。

5月15日、ヤクルトの村上宗隆が9号ソロ本塁打を放ち、史上最年少で通算200号を達成した。

5月14日、ドジャースの大谷翔平が12号ソロ本塁打を放つ。

5月12日、巨人の岡本和真が8号ソロ本塁打を放つ。

5月11日、巨人の岡本和真が6号・7号と連続本塁打を放つ。

5月8日、ブレーブスのマルセル・オズナが12号ソロ本塁打を放つ。

5月6日、ドジャースの大谷翔平が11号ソロ本塁打を放つ。

5月5日、ドジャースの大谷翔平が9号・10号本塁打を放つ。

5月4日、ドジャースの大谷翔平が8号ソロ本塁打を放つ。

5月3日、巨人の岡本和真が5号2ラン本塁打を放つ。

27日、巨人の岡本和真が4号ソロ本塁打を放つ。

26日、ドジャースの大谷翔平が7号ソロ本塁打を放つ。

25日、巨人の坂本勇人が3号逆転3ランを放つ。

23日、ドジャースの大谷翔平が6号ホーランを放つ。

21日、ドジャースの大谷翔平が5号2ランを放つ。MLB通算176本塁打となり、松井秀喜を超えた。

13日、ドジャースの大谷翔平が今季第4号ホームランを放ち、日本人最多の通算175本となり、松井秀喜に並んだ。解説者の田淵幸一が「日本のプロ野球の天才バッターはみんなB型だよ」と語る。野村克也、長嶋茂雄、イチロー、古田敦也、山本浩二、そして大谷翔平。ちなみに田淵自身はA型である。 

 13日、ソフトバンクの山川穂高は2打席連続満塁ホームランを放つ。 1試合の満塁本塁打2発は大映の飯島滋弥、巨人の二岡智宏に続く3人目。

 14日、ヤクルトの村上宗隆。開幕から13試合目、54打席目にして待望の今季初ホームランを放つ。

  スポーツ番組が盛んである。野球にサッカー、ラグビー。大相撲。そして今年夏にはパリ五輪がある。ある「スポーツ観戦をしますか?」というアンケート調査によると、
  よくする   45.5%
  全くしない  20.3%
  ある程度する 20%
  ほとんしない 13.9% 

 

輸血と血液型

  1667年のこの日、フランスの医師ジャン・バティスト・デニによって世界初の輸血が成功した。実はインカ帝国ではすでに1500年代に輸血が行われていた。インカ族はO型がほとんどだったので成功率は高かった。しかし西欧ではまだ血液型の知識はなく、輸血は失敗の連続で、1670年には輸血は禁止された。輸血が医療で安全に行われるのは20世紀まで待たなければならなかった。血液型はオーストリアの生理学者カール・ラントシュタイナー(1860-1943)が1900年に発見した。1901年にABC式血液型として論文に発表したが、翌年アルフレッド・フォン・デカストロとアドリアノ・シュテュルリによって第4の型があることが発見される。1910年には第4の型はAB型という名称が与えられ、C型の名称はO型に変更された。(6月15日)

 

 

フランクリンの功利主義

Benjaminfranklin   「もし自分の好きなようにしてよいといわれたら、もう一度これと同じ生涯を最初からくりかえすことにまったく異存はない」(フランクリン自伝)

   福沢諭吉も「福翁自伝」で「私は自身の既往を顧みれば遺憾なきのみか愉快なことばかりである」といった。洋の東西を問わず、傑出した人間は自分の生涯をこのように肯定する。(中公クラシックス)

 「生きんがために食え、されど食わんがために生きるなかれ」(貧しいリチャードの暦)

どんなにどん底の生活を送っていても、最低限の人間としての尊厳を保って生ききろと説く言葉である。

   1752年のこの日、ベンジャミン・フランクリンは、雷雨の中で凧を揚げ、雷が電気であることを証明した。印刷工から身をおこし、ジャーナリスト・科学者となった。政界に入って優れた外交官になると、独立と建国の基本的な4文書である独立宣言・米仏同盟条約・パリ条約・合衆国憲法の作成に重要な役割をはたした。彼のつくった『貧しいリチャードの暦』は「台所が太れば意志がやせる」などのピューリタン的な格言に満ちている。彼は人間完成に努力するとともに自己の経済的基盤を固め、その後に地域社会の改良に努めた。熱の伝導の研究から、暖炉にかわるストーブ、二重焦点眼鏡などを発明、そして電気の研究から避雷針を考案した。人生の目的は幸福であり、幸福の構成要素は健康・富・知恵であるとし、いかに役立つかによってすべての価値を評価した彼は、典型的なアメリカ人とよばれた。(Benjamin Franklin、6月15日)

 

 

 

 

オウムとインコの日

Ba87475bbfd60372296eb07a19706c01    本日は「オウムとインコの日」だそうだ。「オウム(06)インコ(15)」の語呂合わせ。世の中、似て非なるものがある。海峡と水道(たとえば紀淡海峡と紀伊水道)。バターとマーガリン。おかきとせんべい。幕の内弁当と折詰弁当。柚子と酢橘。カレイとヒラメ。ハマチとブリ。タラコと明太子。しることぜんざい。 しるこは、古くは、汁の実である。コは実である。「芋の子もくふやしるこのもち月夜」とは満月の夜に芋の子を汁の実(しるこ)として食べたという意で、「寛永発句帳」にある名月(幸和)の句。寛永のころに「しるこ」は「汁の実」のことだった。一条兼良(1402-1481)の「尺素往来」に「新年の善哉は修正の祝着」とあるが、年の初めに餅を祝うことはよろこび(仏語で善哉)であった。善哉餅といって、小豆を煮て餅を入れた食べ方が考えられ、関西で「ぜんざい」という名称で用いられた。関西の「ぜんざい」が、東京で「汁粉」とよばれ、汁を濃く、とろりとさせたものを「ぜんざい」と呼んで区別するようになった。現在、一般的には、小豆を使った汁物に白玉やおかきが入ったものを「しるこ」、つぶあんと餅の入ったものを「ぜんざい」と呼ぶが、地方によっては「ぜんざい」という呼び名のない所もある。フラミンゴはツルに似て、首と脚が長いので「紅鶴(べにづる)」と和名でいうが、指間に水かきがあり、むしろガンやカモの類に近縁の水鳥である。ふ化した直後の体色は白く、色素を摂取することで紅色になる。色素を摂取しない状態が続くと徐々に白色に戻る。(6月15日)

2024年6月14日 (金)

エリマキトカゲのパフォーマンス

  1984年のこの日、エリマキトカゲが初来日した。自分の感動を肉体や行為で素直に表現することが求められる時代になってきた。街頭での歌やダンス、寸劇などがパフォーマンスとして大流行した。この年、三菱ミラージュのCMに登場し、エリマキトカゲ・ブームが起こった。このユニークなトカゲは危険を察知すると、後ろ足で立ち上がり、黄色い口を開け、頚部の周りのカラフルなプリーツ状の襞を広げて、シュッシュッと音を立てる。それでもだめなときは、2本足で走る。エリマキトカゲのブームはすぐに消えたが、パフォーマンスという言葉は流行ではなく一般化し、今日も日常語として定着した。「外国からきた新語辞典 第3版」(1977年)に「パフォーマンス」は収録していない。(6月14日)

 

 

フラッグデー

   本日はフラッグデー。1777年のこの日、星条旗を正式にアメリカ合衆国の国旗に制定した。旗を作ったのはベッツイ・ロス(1752-1836)というフィラデルフィアの女性。現在の星条旗の50の星は合衆国の州の数、13本の横縞は独立当時の州の数を表わしている。( Flag day,Betsy Ross,the Stars and Stripes、6月14日 )

2024年6月13日 (木)

20mくらい歩きましょう

 兵庫県の斎藤元彦知事のパワハラなどの行為に対して、県議会では百条委員会の設置を可決した。どんな内部告発が出ていたのか。例えば、自動車進入禁止だったので施設入口の20mほど手前で公用車を降りることになったことに対して、腹を立てて担当者を叱責したという。このことは斎藤本人が注意したことをインタヴューで認めいている。他にも贈答品が山のようなあるとか、いろいろあるが未確認なので真実は百条委員会で明らかにしてほしい。ところで斎藤が怒った20mとはどのくらいかと言うと、野球で言えば、塁間が27.431m、ピッチャーマウンドからホームベースが18.44mなので、一県民からすれば、この話だけを聞いてみても斎藤ってもうアウトだね。

ゴータ爆撃隊

 第一次世界大戦中の1917年のこの日、ドイツ帝国はイギリスに対して初めて重爆撃機による攻撃を行ない、ロンドン市民を恐怖に陥れた。双発ゴータ機はG.iからG.Vまでのタイプがあり、「ゴータの襲撃」と呼ばれた。(6月13日)

 

 

 

日本名城めぐりの旅

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   日本の城は、古記録に残る城を含めると、その数3万余りあるともいわれる。慶長20年6月13日(陽暦1615年8月7日)、江戸幕府は一国一城令を布告した。数日のうちに約400の城が壊された。これによって安土桃山時代に3000近くもあった城郭が約170ほどに激減した。また、武家諸法度という法令によって、新築はもちろん櫓や石垣の改築にすら厳しい規制がかかり、城に手が入ることは少なくなった。

   城を地形で区分けすると、山城、水城、平山城、平城と区別される。現在、天守閣、櫓、城門、石垣などが揃っている城となると、数百にすぎない。城郭を中心に家臣団の屋敷と町家が集中し、城下町として発達し、明治以降は近代都市が形成された。

   世界遺産の姫路城の大天守保存修理が全て完了し、一般公開が始まった。あまりにも白すぎて綺麗に見えないというのが正直な感想である。色が落ち着くまで数年はかかりそうだ。おもな名城を北からあげると、五稜郭、松前城、弘前城、盛岡城、仙台城、山形城、会津若松城、松本城、小諸城、岐阜城、犬山城、小谷城、安土城、彦根城、名古屋城、大坂城、明石城、赤穂城、岡山城、広島城、高松城、高知城、松山城、宇和島城、鳥取城、小倉城、熊本城、人吉城、鹿児島城、今帰仁城、中城城、首里城。いつか全国城めぐりの旅をしたいものである。

 

 

異なる意味を持つ英単語

  「ドロップ(drop)」と聞けば、日本では英語を知らない人でも「サクマのドロップ」を連想する。英語では「落ちる」が原義。名詞は「しずく」。飴玉がしずくの形をしていることから。▽「run(ラン)」はもちろん「走る」の意味ですが、手元にある辞書を引くと「立候補する」「動く」「経営する」など全部で14の意味があります。▽「ドライブ(drive)」という語はクルマの運転をイメージするが、「やる気」という意味もある。▽「クレーン」と聞けば起重機を思いうかべる。ところが英単語のcraneは、もともと長い首が特徴的なツルから来ている。▽「マフラー」は襟巻き。でもアメリカでは古語で、ふつうは自動車の消音装置のこと。▽「アーチン(urchin)」は「ウニ」と「いたずらっ子」という意味がある。古語で「浮浪児」のことで、「ウニ」のときは「sea urchin」という。▽「ラスト」には「最後の」と「この前の」の意味がある。ワㇺの「ラストクリスマス」は「去年のクリスマス」のほうの意味です。多義語の英単語を集める。

 

age     年齢、時代
bank   銀行、堤
bat     こうもり、野球のバット
blue    青い、憂鬱な
broom  ほうき、エニシダ
case   箱、場合
crane   鶴、起重機
cross   横切る、十字架
die      死ぬ、サイコロ
figure  人の姿、数字、フィギュア(舞踊)
field    野原、分野
grave   墓、重大な
kind     親切な、種類
long     長い、切望する
marble  大理石、おはじき
match   マッチ、試合
mean   意味する(動詞) 卑しい(形容詞) 平均的な(形容詞)
muffler  消音装置、襟巻き
nail       つめ、釘
own     自分自身の、ひとりで
pink      桃色の、なでしこ
plane   飛行機、平面
pool    プール、溜まり、球撞き
saw     のこぎり、ことわざ
scale   目盛り、うろこ
school  学校、魚などの群れ
star      星、人気者
staff     職員、つえ
staple   主要産物、ホッチキスの針、繊維
story     物語、建物の階
strip     脱ぐ、薄い金属板
swallow  飲み込む、つばめ
tear       涙、引き裂く
toast      トースト、乾杯
top         頂上、独楽
trip        旅、トースト
trunk      旅行用かばん、象の鼻
urchin     ウニ、いたずらっ子
vessel     容器、船
well        上手に、井戸
wind       風、曲がりくねる
wire        針金、電報

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三日天下

Img0e2fb17czik3zj     天正10年のこの日、明智光秀は山崎の戦いで敗れ、敗走中に小栗栖で落武者狩りの百姓・中村長兵衛により竹槍で脇腹を刺される。重傷を負った光秀は、家臣の溝尾茂朝に介錯を頼んで自害する。溝尾茂朝は、光秀の首を近くの竹藪へ埋めたとも、丹波亀山の谷性寺まで持ち帰ったとも、坂本城まで持ち帰ったとも諸説ありわからない。「兼見卿記」によると、光秀の首は、織田信孝に差し出されたとある。光秀の短命政権から「三日天下」と呼ばれている。実際は本能寺の変から、殺害されるまで11日間あった。光秀は9日に細川氏あての手紙で「50日100日の間には近国を平定し、自分は隠退する」と書き、短期間で敗北するとは思っていなかった。(6月13日)

 

2024年6月12日 (水)

サンタンジェロ城

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    ローマのテヴェレ川右岸にあるサンタンジェロ。その意味は聖天使城。6世紀、ローマにペストが流行したとき、ここに天使が現れて悪疫の終わりを告げたという伝説にちなんでいる。映画「ローマの休日」では夜のダンスパーティーの舞台となったところとしても知られている。ハドリアヌス帝が自らの堂廟として139年に建設を開始し、アントニヌス・ピウス帝の治世、西暦149年に完成した。しかしこの廟はローマを守る城として改造されたため、幾度も敵に包囲されることとなった。1527年、ドイツのカール5世がローマに侵入し、教皇クレメンス7世(在位1523-1534)はサンタンジェロに避難したが、ローマは掠奪されルネサンスが終焉した。17世紀、サンタンジェロ橋の欄干にはベルニーニ作、天使像の彫刻が飾られる。現在では城は公開され。内部は武器のコレクションなどの歴史博物館となっている。(Castel Sant'Angelo)

 

 

恋人の日

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    6月12日は「恋人の日」。ブラジルでは夫婦や恋人同士が贈り物をしあってお互いの気持ちを確かめあう。伊豆市土肥温泉に恋人岬には「愛の鐘」と呼ばれる鐘があり、この鐘を3回鳴らすと恋愛が成就すると言われている。年間23万人の観光客が訪れる。

清水次郎長没

P6260061    清水次郎長こと山本長五郎(1820-1893)は文政3年1月1日、清水港の美濃輪に居住していた船持船頭高木三寿郎の子として生まれたということになっているが、清水市役所の戸籍簿には、文政3年12月10日出生とあり、いずれが真実かわからない。が,元旦生まれの子は賢才でなければ極悪人になると,親戚が迷信をかついで、他家へやったほうがよいということになり、三寿郎の妻とよの実弟で、「甲田屋」という米穀商を営んでいた山本次郎八へ養子にやられたというから、元旦生まれが正しいのかもしれない。もっとも,長五郎は4人兄弟の末っ子で次男だったから、もともと高木家には不要の子であったとも考えられ、元旦生まれ云々の説は、後からの作り話のようである。次郎八のところの長五郎というので、おいおい、次郎長の通称でよばれるようになったのである。維新後、囚人を使役して富士の裾野開墾に従事。清水の発展に尽力した。明治26年6月12日没。享年73歳。  (青山光二「任侠の群像 日本の歴史10」暁教育図書株式会社 1975)

2024年6月11日 (火)

応仁の乱(1467年)

 応仁元年(1467年)から文明8年の11年間にわたり、関東以東および南九州を除く諸国の大小名が、細川勝元(東軍)と山名持豊(西軍)とに分かれ、京都を主戦場として戦った大乱。原因は室町将軍義政は奢侈を好み、政治は夫人の日野富子やその閥族、政所執事の伊勢貞親や禅僧李瓊真蘂らの寵権臣のなすがままに動かされていた。義政は管領の斯波、畠山両氏や大名家の家督相続争いの裁許にも厳正を欠き、ために領国内両分の武力抗争にまで発展していった。政治紊乱に乗じて土一揆が類発し、おりから連年の旱水害で続出した難民が京都に流入するなど、社会不安も増大して京畿は戦雲におおわれた。始まりは、応仁元年1月18日、畠山義就が京都・上御霊社の畠山政長を襲い、応仁の乱が始まった。6月になると、戦火はさらに拡大し、京都の都は3万余戸が焼亡した。その後、将軍家に継嗣問題がおこり、細川、山名をそれぞれ盟主とする両党が形成されて中央決戦となった。勝元は宗全追討を将軍義政に強請し、応仁2年6月8日に足利義視を総大将とする追討軍を編成したが、山名方も畠山義就軍が到来し、8月には長門の大内政弘の大軍が入京したので勢いづいた。ここで勝元は後土御門天皇、後花岡上皇を迎えたが、義政が伊勢貞親を召したのに動揺した義視が出奔してしまった。かくて9月から山名方の将軍家奪還の戦いとな、10月に相国寺の激戦がおこった。これが互角に終わり、応仁の乱は長期戦化する。文明5年、持豊、勝元の東西両軍の将の相次いで死去するに及んで京都の戦火は下火となり、斯波義廉がまず領国に帰ったのをきっかけとして、諸守護大名は単独にに講和して帰国するものも現れた。文明8年11月12日(あるいは11日)、大内政弘が義政に懐柔されて右京太夫に任ぜられ所領を安堵されて帰国し、足利義視と畠山義就はそれぞれ京都を離れるにおよんで中央の戦争は終幕を告げた。大内が帰国した日を終結したとすれば、11月11日(新暦12月16日)であるが、なし崩し的になしくずし的に収まったので終りの日がはっきりしない。この乱の結果、室町幕府は完全に無力を暴露し、もはや全国的政権の実を失うことになる。また多くの守護大名たちも下剋上の風潮をともないつつ戦国の争乱の中で滅んでいった。

 

 

 

 

 

傘の日

   きょうは「傘の日」。この日が雑節である入梅にあたることが由来になって、1989年に日本洋傘振興協議会によって制定された。雨傘の語は世界中いろいろである。英語はアンブレラ、ドイツ語はシルム、フランス語はパラブリュイ、イタリア語はオンブレッロ、スペイン語はパラグワス、ロシア語はゾーンチク、ギリシア語はオンブレラ、韓国語はウサン。

   傘がモチーフに扱われる映画といえばフランスの「シェルブールの雨傘」(1964)。結婚を年誓い合った恋人同士。だが、男に送られてきた徴兵令状が、ふたりの人生を大きく変えてしまう。ミッシェル・ルグランの甘美で哀愁漂うメロディが、涙をさそう。もう一本は「雨に唄えば」(1952)ジーン・ケリーがどしゃぶりの雨の中、キャシーへの愛を歌い躍るシーンがミュージカル映画史上の名場面。元歌は古くトーキー初期の名作「ハリウッド・レヴュー」(1929)の中で評判になったナンバーで、クリフ・エドワーズがガラスで張ったフロアでウクレレをひきながらうたい、ブロックス・シスターズの合唱がそのあとを受け、また盛りあげにはレインコートを着たコーラス・ガールのラインダンスとなる。「私は雨の中で歌う。この素敵なフィーリング!私はまた幸せをとりもどし、雲に微笑をなげかける。暗い心の中にだって太陽が輝きはじめる。私は恋をしているのだ・・・・」。

   日本には「相合傘」という乙な言葉がある。雨の中を一つの傘をさして男と女が歩く。男は女が濡れないようにと女の方に傘を寄せて歩く。川柳に「相合傘 惚れてる方が 濡れている」とある。(6月11日)

 

啄木と橘智恵子

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 弥生小学校の女教師たち(右から2人目が橘智恵子)

    明治40年6月11日、石川啄木(1886-1912)は、友人吉野白村の世話で、函館区立弥生尋常小学校の代用教員となる。月給12円。彼が21歳のときである。弥生小学校で同じく代用教員をしていた橘智恵子(1889-1922)を知る。啄木は智恵子を「まっすぐに立てる鹿ノ子百合」と表現し、智恵子に魅かれていた。智恵子の実家は札幌郊外にあり、林檎園を営んでいた。明治43年5月、智恵子は北海道岩見沢の牧場主北村謹(きん)と結婚する。啄木は上京するが、貧困生活の中、体調を崩し、それを風の便りに聞いた智恵子は当時高価であったバターを送った。

 石狩の空知郡の

 牧場のお嫁さんより送り来し

 バタかな。

    智恵子は、北村に嫁いで12年後の大正11年11月1日に6人目の子供を出産した後、産褥熱のため33歳で亡くなった。

智恵子さん!なんといい名前だろう!あのしとやかな、そして軽やかな、如何にも若い女らしい歩きぶり!さわやかな声!二人の話をしたのは、たった二度だ。一度は大竹校長のうちで、予が解職願をもって行った時。一度は谷地頭のあのエビ色の窓のある部屋で、そうだ、予が「あこがれ」を持って行った時だ。どちらも函館でのことだ。ああ!別れてからもう二十ヶ月になる!(日記より)

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2024年6月10日 (月)

ミルクキャラメルの日

Ad_sy19   森永太一郎(1865-1957)は米国より菓子の技術を取得し、1899年、森永西洋菓子製造所(のちの森永製菓)を創業。最初はマシュマロを製造していたが、1913年6月10日より「森永ミルクキャラメル」を発売する。(それまでは「キャラメル」とだけ書いて販売していた) 1914年4月23日より箱入りミルクキャラメル(20粒入り、10銭)を発売、以後、主力製品とする。それまでキャラメルはバラ売り、量り売りだった。画像は1937年の新聞広告。

陸軍士官学校と海軍兵学校

5b44c526ccc519cd2bcf7df89b6bc84a 江田島海軍兵学校

 西南戦争の翌年、明治11年6月10日、陸軍士官学校が開校した。明治から太平洋戦争終結まで存在した陸軍将校の養成を目的とした教育機関である。世代人口5%にも満たない中等教育学校のなかから最優秀の者のみが士官学校に進むことができた。近代日本の軍隊は徹底した成績主義であった。卒業時期の成績によって、その後の昇進はだいたい決まっていた。こうした日本の人事評価制度は、戦後の日本社会の学歴至上主義につながっていく。学校の教育目標などで「文武両道」という古風な言葉がいまでもよくつかわれるが、私は好まない。

    海軍兵学校は、明治9年に開設された。海軍は、本質的に、技術の上に成立している集団であり、軍艦の行動、大砲の発射、どれを取っても技術無くしては無し得ない。ここが最後は白兵突撃のある陸軍との本質的な違いである。このために海軍は士官ばかりでなく、水兵にも高度の教育を要求し、その教育には大きく力を入れた。

    経済学者の小泉信三(1888-1966)は、海軍主計中尉として築地の海軍経理学校に入った息子の信吉と雑談をした。制服の海軍士官は、雨の日でも傘をさすことを許されていない。信三は「もし外出中に俄雨にあったらどうするのか」と訊ねた。信吉中尉が海軍で教えられたのは、「ゆっくり濡れて来い」。信三も「うんそうか。そいつはいい」と感心した。海軍は英国流のダンディズムの作法がなかなかいきとどいていて立派だった。海軍で出世するには、成績優秀で海軍兵学校を卒業しなければならなかった。戦前、成績優秀な若者の憧れが海軍であり、その中の少数のエリートが指揮官となった。ではその優秀な日本海軍がなぜ負けたのか。

   一般にはよく日本海軍は最善を尽くして戦ったが、大規模な工業力に基づくアメリカの物量作戦の前に敗れた、といわれている。しかし、敗因は工業力だけでなく、作戦にも大きな欠陥があった。とくに日露戦争における日本海海戦の完勝が、敵味方の艦隊同士が砲火を交え勝敗を決定するという艦隊決戦思想に固執しすぎた。明治末期に秋山真之が作った「海軍要務令」が太平洋戦争中まで幹部将校のバイブルであった。戦艦中心の大艦巨砲主義は一貫して変わらなかった。太平洋戦争の敗因の一つが日本海軍の「大艦巨砲主義・」艦隊決戦」思想にあった。源田実は「かの万里の長城、ピラミッド、大和、武蔵、こんなデカいものをつくり、世界中のもの笑いになった。あんなものは一日も早くスクラップにして、航空母艦にしたほうがいい」と極言した。

    飛行機技術者がこんなことを言っている。「翼がもがれた零戦に、エンジンのこわれた零戦の翼をつぎ足して補修しようとしたら、ボルトの穴が合わない。結局、二機とも壊れたままほったらかしていた。ところが、墜落したB29の翼で実験すると、別々の飛行機の部品が、寸分の狂いもなく合った」ボルト・ナットの精密度は機械製作組立ての基本である。その種の総合した技術力の日米間での差は歴然としていたのである。(参考:阿川弘之「海軍こぼれ話」)

 

 

義和団事件

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    1900年6月10日、英海軍中将エドワード・シーモアの率いる8ヵ国連合軍が、天津から北京へ侵攻した。前日、英公使クロード・マクドナルド(1852-1915)の援助を求める電報が届いたためである。6月11日には清国軍の董福祥配下の兵士が北京の日本人大使館員・杉山彬を殺害した。これに対し、清の西大后は義和団を公認し、6月20日、20万人の義和団が北京に入城し列国の公使館などを焼き打ちし列強に宣戦布告する。8月14日、義和団は鎮圧され、西大后は西安に逃れることになる。当時北京に駐在していた陸軍の柴五郎は籠城部隊の中心として奮戦し、ビクトリア女王から勲章を授与されている。

  義和団とは清代の白蓮教系の秘密結社。義和拳教徒が組織した自衛団。日清戦争後、キリスト教および列国の中国侵略に反抗、山東省で蜂起。8ヵ国とは、日・英・米・露・独・仏・伊・墺である。事件後、清朝に4億5000万両の賠償金を支払わせた。 Edward Seymour

義和団 中国とヨーロッパ 中国近現代史双書1 G.N.スタイガー著 藤岡喜久男訳 桃源社 1967
義和団事件 小田嶽夫 新潮社 1969
義和団民話集 中国の口承文芸1 東洋文庫 牧田英二、加藤千代編訳 平凡社 1973
義和団の研究 村松祐次 巌南堂 1976
義和団と明治国家 小林一美 汲古書院 1986
義和団 光風社選書 G,N.スタイガー 光風社出版 1990

国立西洋美術館開館(1959年)

 1959年のこの日、東京・上野の国立西洋美術館が開館した。松方コレクションは戦後、フランス政府に没収されていたが、コレクションを収蔵する美術館を新たに設置することを条件として、返還されることになった。フランス近代美術のコレクションが中心で、主な作品は、モネ「睡蓮」、ルノワール「アルジェリア風のパリの女たち」、ゴーギャン「海辺に立つブルターニュの少女たち」、クールベ「物思うジプシー女」、シニャック「サン・トロぺの港」。

全国の美術館が所蔵する世界の名画(主な絵画)

ゴッホ「ひまわり」(SOMPO美術館)

   「モンマルトルの風車」(アーティゾン美術館)

         「ドービニーの庭」(ひろしま美術館)

ゴーギャン「かぐわしき大地」(大原美術館)

         「ノア・ノア」(熊本県立美術館)

セザンヌ「4人の水浴の女たち」(ポーラ美術館)

ミレー「種をまく人」(山梨県立美術館)

ピカソ「道化役者と子供」(国立国際美術館)

セガンティーニ「アルプスの真昼」(大原美術館)

ピサロ「ポン・ヌフ」(ひろしま美術館)

モディリアーニ「髪をほどいた横たわる裸婦」(大阪中之島美術館)

                                     (6月10日)

 

 

ポルトガルの日

 ポルトガルの国花は何か知っていますか?ラベンダーです。よい香りのする花として有名で、香水に用いられます。ラベンダーという名前が、もともとラテン語の「洗う」という意味からきており、香水として使われたことを示しています。本日はポルトガルの日。ポルトガルの大詩人ルイス・ヴァス・デ・カモンイスが亡くなった日(1580年)に由来する。ポルトガルのリスボンにあるベレンの塔は、マヌエル1世によってヴァスコ・ダ・ガマの偉業を記念して作られたテージョ川の船の出入りを監視する目的の要塞である。1515年着工、1521年完成。リスボン最西端のロカ岬にはカモンイスの詩「ここに地終わり海始まる」を刻んだ石碑が建っている。17生気、スペインの支配に対する反発が高まり、1640年ブラガンサ公が蜂起して新王朝を名乗り、オランダ、フランス、イギリスの援助を得て、1668年スペインに再独立を認めさせた。(6月10日)

 

 

 

 

 

ローマにある邸宅「ヴィッラ・ファルネジーナ」

 映画「フェリーニのローマ」(1972年)を観ると、「永遠の都ローマは街全体が博物館である」といわれる理由がうなづける。現在のローマの街のつくりを簡単に表現すると、古代ローマの遺物の上にバロックの建物をのせた、ということになる。世界遺産ローマ歴史地区イタリア・バチカンには、4つの丘に囲まれたフォロ・ロマーノ、円形闘技場、コロッセオ、神殿パンテオン、コンスタンティヌスの凱旋門などローマ帝国の栄華を伝える貴重な遺跡群が遺されている。そのため観光スポットは無数にある。それとローマの魅力は、ほとんど歩いて行ける範囲にある、ということだろう。

 ローマ観光の人気ランキング。第10位ナヴォーナ広場。9位サンタンジェロ城。8位ヴァチカン博物館。7位パンテオン。6位フォロロマーノ。5位真実の口(ボッカ・デッラ・ヴェリタ)。4位サンピエトロ寺院。3位スペイン広場。2位トレヴィの泉。そして1位はローマの象徴といえるコロッセオである。正式名はフラウィウスの円形競技場といい、フラウィウス朝の皇帝ウェスパシアヌスと彼の息子ティトスとドミティアヌスが完成した。おそらく1231年の大地震のときに、南西部の外郭全体が崩落し、形をとどめない岩の塊になってしまった。長らく廃墟の時代が続いたが、ナポレオンのローマ占領によって整備がなされ、19世紀から20世紀初めにかけて修復工事が行われた。

 もちろんこれ以外にも穴場と言えるお勧めの観光地がある。まずはポポロ広場近くにある「サンタ・マリア・デル・ポポロ教会」。11世紀に市民が資金を負担して建てられた。カラヴァッジョの「聖パオロの改宗」と「聖ピエトロの磔刑」やベルニーニの彫刻「ハバスクと天使」「ダニエルとライオン」など美術館さながらの豪華さです。

「キージ宮殿」ローマのコロンナ広場やコルソ通りに隣接するバロック様式の5階建の建築物。1580年に建築家カルロ・マデルノが完成した。広い階段と噴水のある内庭、大きな書庫がある。

「ヴィッラ・ファルネージナ」である。ローマ・バチカンの南にある2階建ての別邸。1500年代初めにシエナ出身の銀行家アゴステイーノ・キージがバルタッサーレ・ベルッツイに依頼して建てられた。ラファエロなどのフレスコ画が飾られている。1500年代終わりにアレッサンドロ・ファルネーゼによって買い取られ、ファルネジーナと呼ばれるようになった。

「サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会」9世紀初頭にローマのジャニコロの丘に建てられた。聖ペテロが十字架にかけられた場所とされる。ブラマンテが建築したテンビエットがある。

「サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂」5世紀にエスクイリーノの丘にシクストゥス3世によって建てられ、13世紀のロマネスク様式、18世紀のバロック様式が加えられている。

Palazao Chigi,Villa Farnesina,San Pietro in Montorio,Santa Maria Maggiore  

 

 

 

 

時の記念日

June02_m10     天智天皇10年4月25日に、「漏刻を新しき台に置く。始めて候時を打つ。鐘鼓を動す」(日本書紀)とある。漏刻とは水時計のこと。大正10年に「時展覧会」が開催されたとき、その故事からその日を太陽暦(グレゴリオ暦)に直して、6月10日を「時の記念日」と制定した。

    ところで、なぜ時計は12時までなのか?古代エジプト人がシリウスが日の出直前に出現するころなると、ナイル川が氾濫し、農業や生活に重大な影響を与えるところから、その結果1年が365日であることを知り、1日を昼間と夜間の12等分にした。

「時計」という言葉は世界各国でまちまちで共通点が見当たらない。(6月10日)

英語 clock  クロック

ドイツ語 Uhr ウーア

フランス語 pendule パンデュール

イタリア語 orologio  オロロージョ

スペイン語 reloj   レロー

ギリシア語  ホーロロギオン

ロシア語  スチイー

スウェーデン語 klocka  クロッカ

フィンランド語 kello  ケッロ

タイ語 ナリカー

韓国語 シゲ

 

  機械式時計が最初に作られたのは、996年頃のことで、後にローマ教皇シルウェステル2世となるオーリャツクのジェルベール(950-1003)がドイツのマグデブルクの教会に作ったといわれている。ちなみに腕時計の発明は、1810年、スイスの時計師アブランアン・ルイ・ブレゲ(1747-1823)がナポリ王妃から依頼を受けてブレスレット用の腕時計を考案・製作した。

 

 

2024年6月 9日 (日)

ルーの法則

Photo_8   1850年6月9日、ドイツの動物生理学者ウィルヘルム・ルーの誕生日である。イエナ大学でヘッケルに学び、ベルリン大学でフィルヒョーに学ぶ。当時は比較発生学研究が主流だったのに対し、胚に人工的に細工をして、その経過から発生の仕組みを解き明かそうとする、いわゆる実験発生的な手法を用いた。彼はヘッケルらの手法に反発し、「発生学は進化論のしもべではない」と言ったといわれる。

    彼の名前が今日でも広く知られるのは、保健体育科の教科書でよく知られる「ルーの三原則」によってである。実は、当初のルーの説は三つではなかった。内容は、活動性肥大の原則、不活動性萎縮の法則、長期にわたる機能向上制限による器官の特殊な活動能力減退の法則、合目的的構造の機能的自己形成の原理、など多岐にわたる研究である。後世の研究者が、ヒトの器官や機能は適度に使えば発達し、使わなければ退化・萎縮し、過度に使えば障害を起こす、という三法則にまとめたことによって、現代トレーニングの原則として、広く適用されているのである。1924年9月15日、死去。74歳。( 6月9日.Wilhelm Roux )

「え」 ファースト・ネームから引く人名一覧

   エイナル・ゲルハルセン(1897-1987)はノルウェーの政治家。オスロ市長となるが、ナチスの侵略後、罷免され、強制収容所で暮らした。戦後、首相となりノルウェーの戦後改革に貢献した。▽「エウジェ―ニオ・モンターレ」1896-1981。イタリアの詩人。代表作「うなぎ」。▽「エドウィン・フォレスト」1806-1872。米舞台俳優。▽「エドウィン・アボット・アボット」1838-1926。イギリスの神学者。1884年の小説「フラットランド」で知られる。▽「エドワード・ギボン」1737-1794。イギリスの歴史家。「ローマ帝国興亡史」。▽エドワード・G・ロビンソンは戦前のギャング映画スター。ルーマニア出身のユダヤ人で、本名はエマニュエル・ゴールデンベルク。Gとはゴールデンベルクだった。▽エドワード・テラー(1908-2003)Edward Tellerはハンガリー出身の核物理学者で「水爆の父」と呼ばれる。▽エドワード・テイラー(1642-1729)Edward Taylor アメリカの牧師・詩人。▽19世紀の小説家エミール・ガボリオは「ルコック探偵」などフランス第一の大衆的人気作家となり、今日の大衆文学の源流のひとつといえる。▽「エライジャ・クレイグ」1738-1808。アメリカのバブテスト派の牧師。1789年バーボンウイスキーを最初に製造したことで知られる。▽「エリアス・カネッティ」(1905-1994)ブルガリアのユダヤ系小説家。代表作「眩暈」「群衆と権力」。1981年ノーベル文学賞。▽「エル・ファニング」米国女優。ダコタ・ファニングの妹。「メアリーの総て」▽「エルマンノ・ヴォルフ・フェラーリ」はイタリアの作曲家。喜歌劇の多くは今日あまり演奏されないが、「マドンナの宝石」間奏曲はよく知られる。▽「エレン・テリー」1847-1928。イギリスの舞台女優。

エアハルト・エッツラウプ
エイヴィンド・ユーンソン
エイダ・ラブレス
エイナル・ヘンリー・ゲルハルセン
エウジェーニオ・モンターレ
エウセビウス・ソポロニウス・ヒエロニムス
エヴァ・アウリン
エヴァ・グリーン
エーヴァ・マグダレナ・アンデション
エヴァ・メンデス
エヴァ・ロンゴリア
エヴァリスト・ガロア
エヴァン・レーチェルウッド
エヴァンジェリスタ・トリチェリ
エウゲニウス3世
エウジェーニオ・モンターレ
エヴリヤ・チェレビー
エクトール・アンリ・マロ
エクトール・ギマール
エゴン・シーレ
エスコ・アホ
エスター・ウィリアムズ
エスター・ラルストン
エストラーダ・カブレラ
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エズラ・ファイヴェル・ヴォーゲル
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エディー・マーフィー
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エティエンヌ・ピヴォール・ド・セナンクール
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エド・ウェストウィック
エド・サリバン
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エド・ハリス
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エドゥアール・ミシュラン
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エドアルド・キヨッソーネ
エドアルド・シェワルナゼ
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エドアルト・メーリケ
エドナ・パーヴァイアンス
エドマンド・カートライト
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エドモン・ロスタン
エドモント・カートライト
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エドワード6世
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エドワード・アーノルド
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エドワード・G・ロビンソン
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エドワード・モンタギュ
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エバリスト・ガロア
エフィミー・ヴァーシリエヴィチ・プチャーチン
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エーリヒ・フロム
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エーリヒ・ホフマン
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エーリヒ・マリア・レマルク
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エル・グレコ
エル・ファニング
エルヴィス・プレスリー
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エルヴィン・フォン・ベルツ
エルヴィン・ロンメル
エルケ・ソマー
エルザ・スキャバレッリ
エルザ・マルティネッリ
エル・シド
エルズワース・ハンティントン
エルダル・シェンゲラーヤ
エルデール・イレネー・デュポン
エルナン・コルテス
エルノー・ルービック
エルバン・ルヴェリエ
エルビス・プレスリー
エルマー・バーンスタイン
エルマンノ・ヴォルフ・フェラーリ
エルマンノ・オルミ
エル・リンツキー
エルンスト・アッベ
エルンスト・ヴェルナー・フォン・ジーメンス
エルンスト・エンゲル
エルンスト・カッシーラー
エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン
エルンスト・クレッチマー
エルンスト・ブロッホ
エルンスト・ベルンハイム
エルンスト・ユンガー
エルンスト・ルスカ
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー
エルンスト・ルビッチ
エレイン・ローブル・カニグズバーグ
エレオノーラ・ロッシ・ドラーゴ
エレン・バーキン
エレノア・ルーズベルト
エレン・テリー
エレン・バーンスティン
エレン・ページ
エロール・フリン
エンヴェル・ホッジャ
エンゲルベルト・ケンペル
エンゲルベルト・フンパーディンク
エンツォ・アンゼルモ・フェラーリ
エンリケ航海王子
エンリケ・ボラニョス
エンリコ・カルーソ
エンリコ・ダルガス
エンリコ・フェルミ

 

 

厚着派、それとも薄着派?

 きょうは、全国的に雲が広がり、関西地方では朝から雨模様です。最高気温は23度、最低気温は18度、湿度70%です。こんな日、どんな服装で外出しますか。女性は、冷えが苦手で厚着の方が多い。高齢者も初夏でも長袖にジャンバー姿で冬と変わらない人もいます。私は薄着派で、冬でも半袖シャツでいることが多い。重ね着は一年中したことがない。

ネロは暴君ではなかった

Nero_mus_munchen    ネロ・クラウディウス・カエサル(37-68、在位54-68)。アヘノバルブス家の出身で、本名ルキウス・ドミチウス・アヘノバルブス。彼の父グナイウス・ドミチウス・アヘノバルブスは40歳ぐらいで死去し、彼の母で、アウグスツスの曾孫の小アグリッピナは、49年に彼女のおじにあたる皇帝クラウディウス1世の皇妃となった。クラウディウスと彼の前妃メッサリアの子ブリタニクスは、ネロよりも三歳しか年少ではなかったが、アグリッピナはクラウディウスを説得して50年2月25日、ネロを養子にさせた。その後、ネロとブリタニクスの姉オクタウィアを結婚させ、さらにまたさまざまな栄誉を与えて、ネロをクラウディウスの後継者に仕立てた。54年クラウディウス1世は急死したが、アグリッピナによって毒殺されたものらしい。アグリッピナはただちに近衛軍の支持を取付けて、ネロをローマ皇帝と宣言させた。ここに初めて、帝権がまだ17歳に満たない一少年に付与されることになったのである。

   ネロは、ストア派哲学者セネカを家庭教師としてギリシア的教養を身につけたローマ人であり、ギリシア旅行をしたり、詩を作ったり、演劇に興じたり、竪琴をひいて音楽に興じることを好んだ。ネロは後世に脚色されて暴君の典型とされるが、実際は賢明で寛大な政治を行なった。後年に、政治に口を挟もうとする母親のアグリッピナを暗殺して以後、現実社会を嫌悪するようになった。64年になると、ネロは過密となったローマに放火させ、焦土と化したローマを理想的な都市として再生しようとした。火事は密集したローマの半分を焼き尽くし、ネロは莫大な費用を費やしてローマを再建した。しかし、のちに放火の事実がばれそうになると、ネロの側近はキリスト教徒に放火の罪を押し付け、多くの信者をとらえられて公開火刑に処した。これが、ローマ帝国における最初のキリスト教徒迫害事件である。孤立したネロは、翌年政府転覆事件を口実に師のセネカにも自殺を強要し、強権政治を強めた。しかし、横暴な支配のためにネロは、元老院、近衛兵からも見放され、68年6月9日、ローマから脱出して自殺した。彼は元老院と軍隊には人気がなかったが、構成に語られるほど暴君ではなく、支持者がいなかったわけではなく、数年後まで彼の墓前には花が絶えなかった。ここに暴君ネロの支配は終わり、ユリウス・クラウディウス朝は断絶した。(参考:宮崎正勝「世界史の海へ」小学館) Nero,Augustus

2024年6月 8日 (土)

関ケ原の戦い、宮本武蔵は東軍、西軍どちらに出陣したのか?

  二夜連続TBSのキムタク宮本武蔵(2014年)の視聴率は、15日が14,2%、16日が12.6%であった。ストリーはだいたい吉川英治の小説がベースとなっているが、殺陣がアクロバット的な剣法で、従来の武蔵のイメージと大きく異なる。片岡千恵蔵、中村錦之助など風格ある武蔵像と比較すると、キムタク武蔵は現代的な印象がある。評価は大きく分かれるだろう。巌流島の決闘のラストはいかにも淡泊で呆気なかった。6月7日からチャンネル銀河で市川新之助(現・市川團十郎)の大河ドラマ「武蔵」が放送されている。全49回で中盤で巌流島の決闘が終わるが、なお話が続く。月形龍之介主演の「それからの武蔵」のような孤高の剣士としての味わいがあればいいのだが新之助が若すぎて晩年は無理だろう。大阪夏の陣やキリシタンや柳生宗矩、真田幸村の話も蛇足でつまらない。脚本は鎌田敏夫(青春ドラマを得意とする)で時代劇に向いていない。そもそもお通や又八なども登場せずに吉川英治の原作をつかわないで、歴史ドラマにしたほうがよかった。だが2003年制作で、宇津井健、西郷輝彦、津川雅彦、藤田まこと、渡瀬恒彦、坂口良子、三浦春馬など故人が出演しているので懐かしい。20年前の大河は製作費が潤沢だった。お通は吉川英治の創作であるが、そのモデルがいた。小野お通という桃山時代から江戸時代初期にかけて生きた謎の女性で、和歌や琴、書画、舞踊に秀でた才女だという。

 ところで武蔵は慶長5年の関ケ原の合戦に東軍、西軍どちらに出陣したのだろうか。通説には、武蔵は西軍に属して戦ったとされる。だが、その確かな記録は残っていないため確証はない。大河ドラマでは明確に示さなかったが、吉川英治の「宮本武蔵」では西軍についたこととなっているので、西軍のように描かれていた。近年の研究によると、父の新免無二斎が東軍の黒田如水に仕官していたとする黒田家の文書が見つかったため、武蔵は父と共に当時豊前国を領してていた黒田軍に従い、東軍として九州で戦っていたとする可能性が高いと考えられる。

 

 

 

 

 

 

現在では否定されている「古代四大文明」史観

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 かつての歴史授業では必ず四大文明が説明された(田中文治「中学歴史の精解と資料」1977年)

 

 紀元前5000年紀以降、エジプト・メソポタミア・インダス・黄河の各文明が誕生、世界史では古代の四大文明と呼んでいる。四大文明は、いずれも大河流域のデルタ地帯で灌漑農耕国家を成立させ、都市文明を発達させた。その言葉の起源は清の梁啓超の詩(「二十世紀太平洋歌」1900年)に見えるが、現在、四大文明史観はトインビーなどにより世界の歴史学会では完全に否定されており、中国・韓国・日本のみで学校の歴史用語で教えられているが、欧米諸国には存在しない。ウイットフォーゲルの「アジア的専制政治」説は、当時の日本でも主流であったマルクス唯物史観の学者たちによって長らく支持されていた。つまり古代文明は4つに限定されたものではなく、前3千年紀の後半には、すでに南米アンデス地帯の一部に、オリエントの影響をうけない、しかし本質的にはあまり差異のない原始農耕文化がおこっており、神殿をもつ集落の遺跡、カラル遺蹟が発見されている。

   西アジア「肥沃な三日月地帯」からは前9000年ころのムギ・マメの化石が大量に出土している。中国においては華北(黄河流域)のアワ・キビと華中(長江の中・下流域)のイネが生態系の違いを反映しているが、イネの長江文明などの農耕の始まりが多くの遺跡によって明らかになりつつある。1996年には成都黄河文明よりも古い前5000年の都市国家(竜馬宝墩古遺跡)が発見されている。世界の主要な穀物はムギとイネとトウモロコシである。前7000年ころウィスコンシン氷期がはじまり、古代アジア人はベーリング海峡をわたってアメリカに進出し、南下した古インデォはメキシコやペルーに定住し、前2000年から前1500年ころトウモロコシをはじめジャガイモ、サツマイモ、カボチャ、トマトなどの栽培が起こる。とくにオルメカ人は前1200年ころ、南米に石像をはじめ神殿などの初期国家を形成していった。アメリカの文化人類学者エルマン・サーヴィス(1915-1996)の初期国家の定義によれば、集団で生活し「人口規模が2万人以上であること」とある。マイケル・コーは調査の結果、サン・ロレンソの遺跡を25000人規模の都市と推定している。とくに中国の黄河文明に関しては、一つに括ることを誤りとしなければならない。長江下流域の河姆渡文化や良渚文化など、黄河流域だけに限らない。近年、杉龍崗遺蹟(湖南省常徳市)から9000年前の米粒が発見された。(世界史)

世界発明・発見の年表

Ff2a5484    快適な生活を享受している現代人も、元々は先人が発明したものばかりで暮らしている。現代はテクノロジーと交通機関の発明・発達の時代である。最先端は宇宙開発であろう。人類が地球上に誕生して間もない時期から道具は作られた。人類最初の道具は「棒切れ」と言われる。 ただし棒は腐って遺物としては残ることはない。石面を打ち欠いて製作した石器が残っている。アフリカ・ケニア北部の約330万年前の地層から、猿人が使っていたと思われるハンマーのような道具が人類史上最古と見られる。

 ガリレオはピサの斜塔を利用して落下体の加速度の実験をした話は有名である。しかしこれは、ガリレオの弟子のヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニのつくり話で、本当に実験した人はオランダのシモン・ステビン(1548-1620)です。

前5000頃 メソポタミア南部シュメールで主要な農耕技術が発達し、定住が進んで都市が生まれる
前5000頃 丸木船で航海をはじめる
前3700頃 エジプト、メソポタミアにて銅器使用
前3200頃 シュメールにて文字が生まれる
前3000頃 エジプトにて運搬用に動物力の利用始まる
前2800頃 エジプト、中国にて青銅器の使用
前2500頃 エジプトにてパピルス使用、メソポタミアにてガラス製品つくられる
前2100~1950頃 ヒッタイト(トルコ)で鉄器の使用(カマン・カレホユック遺蹟)
前600頃 ペルシアにて風車が利用される
前600頃 インドの外科医ススルタ、造鼻術をおこなう
前300頃 ローマにてコンクリートとセメントの技術が生まれる
前250頃 クテスィビオス、アレキサンドリアにて水時計を作製
前240頃 アルキメデスが円周率の近似値を計算する
前102頃 ヘロン、気力球を発明

 

後105頃 蔡倫、製紙術を発明
132年 張衡、地震計を発明
230年 中国魏の華佗、麻酔術をおこなう
673年 アラビア人とのコンスタンティノープル攻防戦にて、ビザンツ人が「ギリシア火」を発明  砂時計は8世紀頃、フランスのリウトプランドが発明した。

 

1015年、イブン・アル・ハイサム、最初のカメラ・オブスクラを作る。

 

1202年、イタリアの数学者フィボナッチが「算術の書」で「0」を紹介。

 

1206年、アラブ人の博学者アル・ジャザリー、クランクシャフトとカムシャフト、吸い上げポンプを考案

 

14世紀
1302年、イタリアのジャオ、航海用コンパスを製作
1377年 フランスの南部の都市モンペリエ医学校で人体解剖合法化

 

15世紀
1445年 ドイツのグーテンベルクが活版印刷技術を発明
1498年 イタリアのフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局製法はじまる(世界最初の薬局店)

 

16世紀
1500年カブラル、ブラジルを発見。1520年、マゼランが南米大陸とフェゴ島の間にある海峡を発見。後にマゼラン海峡と命名。1531年コペルニクス、地動説を発表。鉛筆は1565年、コンラート・ゲスナーが自家製鉛筆を使用していた。1572年ヘルモント、二酸化炭素を発見。1582年ローマ教皇グレゴリウス13世、暦法改正。1585年ステビン、落体の法則を発見。1590年オランダの眼鏡職人ハンス・ヤンセン、サハリアス・ヤンセン父子が顕微鏡の原型を発明。1599年オランダのシモン・ステファンが風力で走る帆走車を発明。

 

17世紀
1605年、ストラスブールでヨハン・カロルスは新聞を創刊した。1608年、オランダの眼鏡技師ハンス・リッペルスハイが望遠鏡を発明。1610年ガリレオは木星を回る4つの衛星を観察。1612年、イタリアの医師サントリーオ・サントリーオが体温計を考案した。1614年スコットランドの数学者ジョン・ネイピアが対数を発見。1623年イタリアのガスパロ・アセリ、乳摩管を発見。1628年ハーべイ、血液循環の原理を発見。1643年トリチェリー、真空を発見。1650年ヴァレニウス、初めて黒潮について記す。1655年ホイへンスが土星の衛星タイタンを発見。1656年クリスチャン・ホイヘンスが振り子時計を発明。1662年イギリスのロバート・ボイルが「ボイルの法則」を発表。1665年ロバート・フックがコルクの細胞を観察。1667年フランスの医師ジャン・バティスト・デニーが世界初の輸血を行う。1669年ニュートン、微積分法の発明。1673年レーウェンフック、赤血球を発見。1675年、カッシーニが土星の輪に隙間があることを発見。1676年、イギリスの物理学者ロバート・フックがフックの法則を発見。1678年ホイヘンス、光の波動説。1687年ニュートンが万有引力を発見。

 

18世紀
1705年ハレーがハレー彗星の周期を発見。ピアノはイタリア人のバルトロメオ・クリストフォリ・ディ・フランチェスコが1709年に発明。1735年リンネが動植物の分類法を発表。1738年スイスの数学者ダニエル・ベルヌーイは流体内のエネルギーの和が流線上で常に一定であるというベルヌーイの定理を発表した。1750年フランクリン、避雷針の発明。1752年レオミュールが鳥の胃液の消化作用を発見。1757年キャンブベルが六分儀を発明。1766年、イギリスのキャベンディッシュが水素を発見。1771年スウェーデンのシェーレが酸素ガスを発見。1776年、アメリカのディヴィッド・ブッシュネルが最初の潜水艦を考案し、タートル号を建造。アメリカ独立戦争でイギリス軍艦イーグル号を攻撃したが、成功しなかった。1779年クロンプトンが紡織機「ミュール機」を発明。1780年ラボアジエが呼吸体内での燃焼と定義。1783年フランスのジャン・フランソワ・ピラートル・ド・ロジェとアルランド公爵は、気球に乗り、史上初の空中飛行を行う。1785年エドモンド・カートライトが力織機を発明。1795年フランスで新しい長さの単位「メートル」を決定。1796年エドワード・ジェンナー、牛痘による天然痘予防法に成功。1798年ランフォードが摩擦熱を発表。

 

19世紀
1803年イギリスのジョン・ドルトンが気体は水素・酸素・窒素・炭素・硫黄・リンという6種類の元素の組み合わせでできていると発見。1804年スイスのソシュールが光合成の原理を発見。1803年イギリスのトレヴィシックが蒸気車を発明。1804年、トレビシックがウェールズのベニランダで史上初の軌道向け蒸気機関車の走行実験に成功。1808年イギリスのデービーがアーク灯を発明。1810年ドイツの靴職人バルタザール・クレムスがミシンを発明。1810年イギリスのピーター・デュランドが缶詰を発明。1811年ドイツの時計職人フリードリヒ・ケーニッヒが高速印刷機を発明。1812年、ドイツのフリードリッヒ・モースが「モースの硬度計」を考案。1814年イギリスのスティーヴンソンが蒸気機関車を製作。1817年、ドイツのカール・フォン・ドライスによって木製の人力二輪車ドライジーネ(自転車の原型)が製作された。1820年、デンマークの物理学者エルステッドが電流の磁気作用を発見。1821年イギリスのヘンリー・ベルが蒸気船「アーロン・マンビー号」を作製。1821年ドイツのブッシュマンがAURA(オーラ)というハーモニカの原型を試作した。1825年スティーブンソン、機関車ロケット号がストックトンとダーリントン間の45キロを走破。1826年、イギリスの化学者ジョン・ウォーカーが摩擦マッチを発明した。1829年、リバプールとマンチェスター間を走破。1829年フランスの縫製職人バルテミー・ティモニエがミシンを発明。1831年ブラウンが細胞の核を発見。1835年、チャールズ・ダーウィンがガラパゴス諸島に到達。1835年、電灯の実験が、ジェームズ・ボウマン・リンゼイにより成功。1837年アメリカのモールスがモールス信号を考案。1838年、シュライデンとシュワンが細胞説を唱える。1839年アメリカのチャールズ・グッドイヤーがエボナイトを発明。1842年アメリカの医師クロウフォード・ロングが初めてジエチルエーテルによる麻酔を用いて手術を行う。1842年、オーストリアのドップラーがドップラー効果を発見。1842年、ドイツのマイヤーがエネルギー保存の法則を提唱する。1843年フランスのルシアン・バイディがアネロイド気圧計を発明。1843年イギリスのパディントン~スラウで世界初の電報業務を開始。1843年イギリスのエイダ・ラブレスは世界初のプログラムを発見。1846年ヨハン・ガレ、エルヴァン・ルヴェリエらが海王星を発見。1848年ジェームズ・マーシャルがカリフォルニア州サクラメント付近で砂金を発見。1847年イギリスの工学者ジョージ・ケイリーが三葉のグライダーを製作し滑空に成功。1851年ロンドンで第1回の万国博覧会が開かれる。1853年ロンドンで地下鉄が開業。1854年イタリアのアントニオ・メウッチが最初の電話を発明。1855年ヘンリー・ベッセマー、鋼鉄の大量生産始まる(特許)。1857年パスツールがアルコール発酵の研究。1858年ハイマン・リップマンが消しゴムつき鉛筆の特許を取得。▽1860年トーマス・アダムスがチューインガムを発明。1860年フランスの博物学者アンリ・ムオがアンコールワットを発見。1862年ルイ・パスツールとクロード・ベルナールが低温殺菌法を開発。1865年メンデルが遺伝の法則を発見。1866年イギリスの技術者ロバート・ホワイトヘッドが魚雷を発明。1867年ノーベル、ダイナマイトを発明。1868年アイヴス・マガフィーが真空掃除機を発明。1868年クリストファー・レイサム・ショールズは実用的なタイプライターを考案。1869年ロシアのメンデレーエフが元素の周期律表を発表。1869年、アメリカのジョージ・ウェスティングハウスが圧縮空気を用いた鉄道のブレーキシステムを発明。1870年ジョン・ウェズリー・ハイアットがセルロイドを発明。1873年フィロ・レミントンがタイプライターの生産を開始。1876年、イギリスの外科医ジョゼフ・リスターが消毒法を開発。1876年ジェン・ジェームズ・立夏ード・マクラウドはインスリンを発見。1877年エジソンが蓄音器を発明。1869年スイスのフリードリッヒ・ミーシャ―が膿のリンパ球から核酸を発見。1878年ジョゼフ・スワンはエジソンより1年早く、白熱電球を発明。1878年イギリスのデイビッド・エドワード・ヒューズがカーボン・マイクロフォンを発明。1881年アメリカのアルモン・グランガーが消火器を発明した。1881年、エジソンがニューヨークに発電所をつくった。1885年カール・ベンツ、ガソリンエンジンで走る三輪自動車を作製。1885年、フランスのレオン・セルボレが自動車を開発。1886年ジョン・ペンバートンはコカ・コーラを発明。電池はアレッサンドロ・ボルタがボルタの電堆を発明。1887年、エジソンが長時間使用できる白熱電球を完成。1887年、カール・ガスナーが乾電池を発明。1887年、ドイツのエミール・ベルリナーがレコードを発明。1888年、イギリスのジョン・ダンロップがタイヤを発明。1890年、北里柴三郎とエミール・ベーリングが破傷風とジフテリアの血清療法を発見。1890年、アメリカで電気椅子による死刑が初めて執行された。1894年、北里柴三郎がペスト菌を発見。1894年、ミシシッピ州ウィックスバーグで瓶詰コカ・コーラが初めて販売される。1895年、ドイツの物理学者レントゲンがX線を発見。1895年、パリでシネマトグラフが初公開される。1896年、フランスのド・ボールが成層圏を発見。1896年、オランダの物理学者ピーター・ゼーマンが強い磁場中に置かれた光源からのスペクトル線が数本に分かれること(ゼーマン効果)発見した。1896年、フランスの物理学者アンリ・ベクレルが放射線ウランを発見。1897年、ドイツのフェリックス・ホフマンがアスピリンを発明。1897年、志賀潔が赤痢菌を発見。1898年、キュリー夫人がラジウムを発見。イタリアの病理学者かミッロ・ゴルジが細胞内のゴルジ体を発見。1899年、コンラッド・ヒューバードが懐中電灯を商品化する。1899年、アメリカのホランドが潜水艦を考案。

20世紀
 1900年、オーストリアの病理学者カール・ラントシュタイナーがABO式血液型を発見。1901年、ジレットが安全剃刀を発明。1902年、マリー・キュリー夫妻、ラジウム抽出。ウィリス・キャリアはエアコンの理論を樹立。1902年アメリカの技術者ウィリス・キャリアが近代的空機調和設備(エアコン)を発明。1902年、フランスの気象学者、テスラン・ド・ボールが成層圏を発見。1903年、ライト兄弟が人類初の有人動力飛行に成功。1903年、オランダの医師ウィレム・アイントホーフェンが世界初の心電図を発明。1903年、フランスの医学者ジョゼフ・ババンスキーはバビンスキー反射を発見。1904年、アメリカのルーベルが紙へのオフセット印刷機を発明。1905年、アインシュタインが特殊相対性理論の最初の論文を発表。1905年、フリッツ・シャウディンとエーリヒ・ホフマンが梅毒スピロヘータを発見。1906年、フェッセンデンがマサチューセッツで世界初のラジオ放送を実施。1907年、フランスの化学者ジョルジュ・ユルバンが新元素ルテチウムを発見。1908年、アメリカでT型フォードの第1号車が製造される。1909年レオ・ベークランドが合成樹脂ベークライトの工業化に成功。1909年フランスのルイ・ブレリオは、飛行機による初のイギリス海峡横断に成功する。1911年、ビンガムはマチュピチュを発見。1912年、ドイツの気象学者ウェゲナーが大陸移動説を発表した。1912年スウェーデンのダレーンが自動制御装置の灯台を発明した。1913年、アメリカの化学者ラングミュアが白熱電球を発明。1915年、早川徳次がシャープペンシルを発明。1920年DNA、RNAを発見。1920年アメリカ・ピッツバーグで世界初のラジオ放送局KDKAが開局。1921年カナダの整形外科医フレデリック・バンティングと医学生チャールズ・ベストが研究室でインスリンの抽出に成功した。1922年イギリスのBBCがラジオ放送を開始。1923年、スペインのファン・デ・ラ・シエルバがオートジャイロを発明。1924年、レイモンド・ダートが南アフリカでアウストラロピテクスの化石を発見。1924年、米キンバリー・クラーク社からクリネックス・ティシュー発売される。1924年、アルベール・カルメットが結核予防にBCG接種を提唱。1925年、イギリスのジョン・ロージー・ベアードがテレビ実験に成功。1926年、アメリカのロバート・ハッチンス・ゴダードが世界初の液体燃料ロケットの打ち上げに成功。1926年、石井茂吉は写真植字機を発明。1927年、ワーナーブラザースによる世界初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」がニューヨークで封切り。1928年、イギリスのフレミングがアオカビからペニシリンを発見。1930年、アメリカで世界初の冷凍食品が発売される。931年、アメリカの化学者ハロルド・ユーリーが重水素を発見。1932年、イギリスの物理学者ジェームズ・チャドウィックが中性子を発見。1932年、T型フォードの発売。1933年アメリカの電気工学研究者エドウィン・アームストロングがFM放送を発明。1935年ウォーレス・カロザース、ナイロンを発明。1938年、オットー・ハーンが原子核分裂を発見。1938年、蛍光灯、アメリカで実用化。1938年アフリカのイースト・ロンドンでシーラカンスが発見される。1940年アメリカのジョージ・スティビッツが世界初のコンピュータの遠隔操作を行う。1942年アメリカのフェルミらがシカゴ大学で原子炉の核実験に成功。1943年ハンガリーでボールペンを開発。1943年、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが自閉症を報告。1944年セルマン・ワックスマンがストレプトマイシンを発見。1946年、アメリカで世界初のコンピュータである電子計算機ENIAC(エニアック)が発明される。1948年、アメリカでインスタントカメラ「ポラロイド・ランド・カメラ」を発売。1948年、米ベル研究所のウィリアム・ショックレー、ジョン・バーディーン、ウォルター・ブラッテンがトランジスターを発明。1949年バーナード・シルバーとノーマン・ジョセフ・ウッドランドがバーコードを発明。1949年アメリカのビクターが45回転レコード(ドーナツ盤)を開発。1950年アメリカでカラーテレビの放送開始。1952年、アメリカのダウケミカル社がサランラップを販売。1953年、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックがDNAの二重らせん構造を発見。1953年、ユージン・アセリンスキーとナサニエル・クレイトマンがレム睡眠を発見。1957年、樫尾製作所が電卓の元祖ともいわれる計算機を開発した(価格48万5000円)。1958年、日清食品安藤百福が即席ラーメンを発明・販売。1957年、ソ連が初の人工衛星スプートニク1号に成功。1959年、リーキー夫妻がタンザニアのオルドヴァイ渓谷でジンジャントロプス・ボイセイ(アウストラロピテクス・ロブストゥス)を発見。1961年、ガガーリンが初の有人飛行に成功。1962年、マーシャル・ニーレンバーグ、ハー・ゴビンド・コラナ、ロバート・ホーリ―が遺伝子情報の解読。1963年カセットテープ、オランダ人のルー・オッテンスが開発。1964年、ピーター・ヒッグス、フランソワ・アングレールがヒッグス粒子を発見。1967年、ダグラス・エンゲルバートがパーソナル・コンピュータのマウスを開発。1968年、大塚食品がレトルトカレー「ボンカレー」を発売。1968年、ダグラス・エンゲルバートがコンピュータのマウスを発明する。1969年、カリフォルニアとスターンフォード大学でインターネットの元型であるアーパネットが開発される。1971年、レイ・トムリンソンが電子メールを発明。1977年、初の実用的なパーソナルコンピュータ「AppleⅡ」が発売。1978年、日本語ワープロ東芝JW-10(価格630万円)を発売。1979年、NECが8ビットパソコンPCー8001を発表。パソコン時代の到来。1981年スペースシャルト・コロンビア号が時速2675kmを記録。1990年、初のWorld Wide Webのシステムが稼働。1990年、ハッブル宇宙望遠鏡が打ち上げられる。

21世紀
2001年、世界中で無料オンライン百科事典「ウィキペディア」が公開される。
2005年、動画投稿サイトはじまる。
2006年、ツィッターの一番最初の「つぶやき」。
2012年 アンドレア・ゲズらが銀河系中心部に超大質量コンパクト天体(ブラックホール)に関する発見。

参考資料
世界の発明発見歴史百科 テリー・プレヴァートン著 原書房 2015年

 

 

2024年6月 7日 (金)

人生、楽しく行きましょう

 ランチは近所のいつもの大衆食堂。皿に盛ったおかずを自由に選んでレジで会計を済ます。さばの塩焼き、白身フライ、高野豆腐玉子とじ、ごはん、味噌汁で1000円也。巨人戦テレビ観戦。うれしい日向坂46のリーダー佐々木久美ちゃんが始球式。長身から投げ下ろす速球も大暴投となるがご愛敬デス。試合は負けているので勝利の女神とはならずか。有岡大貴と松岡茉優が結婚。お二人ともおめでとう。ジャニーズ事務所が解散してタレントは結婚しやすくなった。人口減少は国家の危機なので、有名人がどんどん結婚することは社会を明るくすると思う。夜は定番トム・クルーズの「ミッション・インポッシブル」でアクションを堪能するのもよし。睡眠導入剤を飲んでぐっすりと眠る。

日本の少子化対策

 少子化対策関連法が国会で成立した。厚労省によると、2023年の合計特殊出生率(1人の女性が一生のうちに産む子どもの数の指標)は、「1.20」となった。都道府県別でみると、最も低い東京都では「0.99」となり、全国で初めて「1」を下回りました。人口を維持していくためには、女性が男性の分も子どもを産む必要があります。つまり人口維持には、 合計特殊出生率は2.0必要になります。厳密には2.1程度が必要になります。この値を人口置換水準と言います。わが国の人口を見ると、2005年から人口減少が続いている。2024年現在、およそ1億2393万人と推計されている。少子化の原因としては、➀社会が高学歴化して、子供が一人前になるまでの金銭的費用が増加した。②女性が社会進出したことによって労働市場に人があふれ、労働力の価値が下がり、賃金低下→男性の経済力低下により結婚のハードルん高くなる。③結婚したとしても晩婚なケースが多いため、多産が難しい。④恋愛の自由化したことで見合い結婚が減少。恋愛弱者があぶれることになる。そして結婚しない人生をポジティブに捉える人々が増加した。などが考えられます。このままでは経済や社会の担い手は減り、社会保障制度も危うくなりかねない。なんとしても出生数の減少に歯止めをかけねばならない。政府が取り組んでいる少子化対策は、子育て世帯の支援の拡充にとどまっているが、事実婚やシングルマザーなどの多様な家族のあり方に対して、社会全体が寛容であるように変わらないと、出生率の向上や人口増加につながっていかないと考える。

 

 

春ドラマ、どれが良かったですか

 SNSが普及したことで若者のテレビ離れが言われている。バラエティや音楽番組はたまに見るがドラマは見ないという人も多い。春ドラマも終盤を迎えたが、いずれも不評で名作といわれるドラマはなかった。視聴者は豪華な俳優を見たいのではなく、すぐれた面白い脚本の作品をのぞんでいるようである。「Believe 君にかける橋」木村拓哉が橋づくりに情熱を燃やす設計者に扮する。「366日」広瀬アリス、真栄田郷敦、長濱ねる、宮辺紗衣。かつてフジ月9は恋愛ドラマの王者だったが、今回は大コケだった。「からかい上手の高木さん」月島琉衣、黒川想矢。「アンメット ある脳外科医の日記」杉咲花、若葉竜也、生田絵梨花。「95」高橋海人、松本穂香。「Destiny」石原さとみ、亀梨和也、仲村トオル。「天使の耳~交通警察の夜」小芝風花、安田顕。「誰が私と恋をした?」生見愛瑠。「お迎え渋谷くん」京本大我、田辺桃子。「御社の乱れ正します!」山崎紘菜、飯島寛騎、小島藤子、優希美青。「肝臓を奪われた妻」伊原六花。「Root」河合優実、寺本莉緒。「ブルーモーメント」山下智久、出口夏希。「好きなオトコと別れたい」毎熊克哉、堀田茜。「ソロ活女子のススメ4」江口のりこ。「Re:リベンジ」赤楚衛二、芳根京子、白山乃愛。「9ボーダー」川口春奈、木南晴夏、畑芽育。「花咲舞が黙ってない」今田美桜。「アンチヒーロー」長谷川博己、大島優子、堀田真由。「ミス・ターゲット」松本まりかが全国ネットの地上波連続ドラマ初主演。「アクマゲーム」間宮祥太朗、田中樹、古川琴音。「痛ぶる恋の、ようなもの」望月歩、小川未祐、河村花。「シークレット同盟」松井愛莉、森田想、長野凌大、長妻玲央。「社内処刑人」中村ゆりか、生駒里奈。「君が獣になる前に」玉城ティナ、北山宏光、鳴海唯、豊島心桜。「あなたの恋人、強奪します」武田玲奈、渡邊圭祐。「6秒間の軌跡」高橋一生、本田翼。「街並み照らすヤツら」森本慎太郎、森川葵。「Root」河合優実、坂東龍汰、寺本莉緒。「季節のない街」宮藤官九郎監督。池松壮亮、仲野太賀、渡部大知、濱田岳。時代劇「君とゆきて咲く 新選組青春記」前田拳太郎、奥智哉、高野洸、阪本奨悟。「過保護な若だんな様の甘やかし」高野洸、井頭愛海。「ビジネス婚 好きになったら離婚します」菅井友香、草川拓弥。韓国ドラマ「青春ウォルダム 呪われた王宮」パク・ヒョンシク。フジテレビTWO「今、別れの途中です」ソン・へギョとチャン・ギヨン主演のラブ・ロマンス。美男美女が眼福です。 春ドラマで演技が光っている主演女優第1位に輝いたのは「アンメット」の杉咲花でした。

プロ野球やMLB中継もあるので、テレビの見過ぎに注意しよう!

 

 

マリア・ルス号事件(1872年)

  明治5年6月7日、横浜港に停泊中のマリア・ルス号(ペルー船籍)内の231名の清国人苦力が奴隷状態であるとして日本政府が解放した事件。条約未締結国ペルーとの係争については日本の法律があると解し、外務卿副島種臣は大江卓を裁判長に任じ、アメリカ人の日本法律顧問P・スミスの協力を得て、清国人船籍の解放を宣言した。船長の報告でペルー政府は日本政府に抗議したが、ロシア皇帝アレクサンドル2世の仲裁裁判で日本側が勝利した。参考: 「マリア・ルス号事件の再検討」笠原英彦 法学研究69巻12号(1996年12月号) Maria Lus Incident

 

 

明窓浄几

   人類は地球上における動物の進化の過程で、その一分岐として出現した。近年エチオピアで発見された440万年前のラミダス猿人と呼ばれる化石は、明らかにチンパンジーとは異なる特徴をもっており、これが現在知りうる最古の人類=猿人 Ape man とされている。その特徴は直立して二足歩行し、両手で道具を用い、火を扱い、労働して、言語を基礎とする文化をもつことだといわれている。だがこのような特徴だけであれば部分的には他の動物でも行える。ペンギンやカンガルーは直立して歩くし、動物園のゴリラやチンパンジーなどでもテレビを見る。室内で飼っているイヌやネコはテレビを見る。人間だけが行い、他の動物が絶対にマネできない行為とは何か。それは、読書するということである。人間以外の動物は本を読まない。ではケータイやアイ・パッドで読書すればよいのか。近頃、スマホを診ながら町を歩いている人をよくみかける。まるで人をやめた、サルがケータイを手にしているような感覚にとらわれる。読書とは毎日同じ時間にする生活習慣でなければならない。明窓浄几、明るい窓と清らかな机、書斎があってはじめて行える行為である。

 手元にある市広報誌を何気なく開く。来年度の市職員の募集の記事。初任給は大卒で事務職は23万円くらい。入庁後のキャリアイメージは、30代で係長、40代で課長、50代で次長、部長へと昇進する。ただし真面目に努力すれば誰でも部長になれるわけではなく、人物評価や人間関係など煩わしいことがつきまとう。所詮は役所人生は出世レースである。そもそも「出世」というのは、本来は漢字3文字を略して「出世」といわれるようになった。仏語で「出世間(しゅっせけん)」という言葉がある。世俗艦の煩悩から脱して悟りの境地に入ること。その世界を目指す、もしくはそこにいる僧侶のことを出世者と呼んだ。つまり現在のわれわれが使う「出生」とは正反対の意味なのである。

物部氏と蘇我氏の対立。穴穂部皇子が暗殺される(587年)

   572年、物部尾輿の子の守屋が跡を継いで、敏達・用明朝の大連となる。585年3月1日、神道擁立派の守屋は、疫病の流行が崇仏派の蘇我稲目・馬子の仏教信仰のためだと主張し、仏像・寺院等を焼打ちした。用明天皇の死後、守屋は穴穂部皇子を擁立したが、推古天皇・馬子に殺害され、守屋は馬子と戦った。587年、守屋は迹見赤檮(とみのいちい)に射殺された。物部本宗家はこうして滅亡した。しかし近年の研究によると、こうした日本書紀の記述に疑いが生じ、蘇我氏専横についても信憑性に疑いが生じている。物部氏も、大和国山辺郡(現・天理市)を本拠とする渡来系氏族であたっことから、早くから仏教受容の姿勢をみせていたものと考えられる。蘇我氏と政治的に対立した物部氏は、仏教受容に反対して滅亡した勢力という役割を担わされたのではないかと考えられている。(参考:「物部・蘇我氏と古代王権」黛弘道著 吉川弘文館) 6月7日

 

 

 

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奇兵隊の創設(1863年)

260pxkeiheitai   菅直人が新内閣に「奇兵隊内閣」と命名したのは14年前のことである。草の根の政治という意味であろうか。高杉晋作(1839-1867)が、山口の藩庁に呼び出されたのは、文久3年6月4日。長州藩が下関で外国船の報復攻撃を受けた直後のことである。晋作は、毛利敬親に対して、現状を打開するためには「兵には正奇があり、戦いには虚実がある。奇をもって敵の虚を制する兵を作りたい」と「奇兵隊」の創設を願い出た。身分にこだわらず、志と実力さえあれば誰でも参加できる軍隊である。吉田松陰の草莽崛起の実践を行ったのである。

  6月7日、藩主から許可を得た晋作は、下関の豪商白石征一郎(1812-1880)邸で奇兵隊を創設し、初代総督になった。最初は、50人ばかりであったが、日ごとに入隊する者が増え、本営を、正一郎邸から壇ノ浦近くの阿弥陀寺に移した。そこで、藩の正規軍先鋒隊との間に事件がおこり(教法寺事件)、その責任をとって、晋作は総督を辞任した。隊の創設からわずか3ヶ月の間だったが、奇兵隊士は、厳しい訓練の元に鍛えられた。奇兵隊二代目総管には河上弥市(1843-1863)と滝弥太郎(1842-1906)の二人が共に務めた。文久3年10月、滝弥太郎が他の仕事を命じられたため、3代目の総管に、赤根武人(1839-1866)が就いた。そして、その補佐役である軍監には山県有朋(1836-1922)が命じられた。赤根は元治元年10月、総管を辞職する。赤根はその後、戦争回避に奔走したため慶応2年斬首される。

 いっぽう、山県有朋は、慶応元年1月、奇兵隊総管となる。6月、第二次征長の役に際し幕軍と戦った。山県有朋は軽卒という武士以下の身分から、元帥という最高の位に上り詰めた。

 

 

ルイ14世「朕は国家なり」

Louis14aftrigaud_16381715l   1654年のこの日、フランス王ルイ14世が16歳で戴冠した。「太陽王」と呼ばれたルイ14世は史上最長の在位期間を持つ君主である。1643年に5歳で即位し、1715年に死ぬまで72年間フランス国王に君臨した。王権神授説をとる彼は絶対主義王制の典型とされ、豪華を好む彼か造ったヴェルサイユ宮は18世紀には各国で模倣されることとなる。ハード面だけではなく宮廷エチケットや祭典・凱旋行列なども手本とされて、王権とはそういうものというイメージが形成される。フランスは文化のうえでもヨーロッパの中心となった。

    1655年4月13日、パリ高等法院。17歳のルイ14世は狩猟の帰りに反対派の巣窟である議会に立ち寄った。スペイン戦争での出費が嵩むことを議員が語りだしたとき、「朕は国家なり」(L'etat c'est moi)という有名な言葉がルイ14世の口から出されたとされる。このエピソードはヴォルテールの「ルイ14世の時代」に記述されているが、王が実際に言ったかどうかはわからない。神学者ボシュエらが王を神格化したらしい。

   ルイ14世の親政が始まったのは1661年3月10日からで、フランス絶対王政は全盛期をむかえたが、傲慢で贅沢の限りをつくした国王は民衆から嫌われ、王の没後80年たらずでフランス革命がおこる要因にもなった。(6月7日)

2024年6月 6日 (木)

ポスト・コロナの現代社会

今から5年前とは平成か令和か?

 2024年=令和6年
 2023年=令和5年
 2022年=令和4年
 2021年=令和3年
 2020年=令和2年
 2019年=平成31年4月まで、5月から令和元年

 つまり5年前に平成から令和に変わった。消費税10%、ラグビーW杯、東京オリンピック・パラリンピック開催、安倍晋三暗殺、ロシアのウクライナ侵攻、統一教会問題、政治家裏金問題といろいろあったが、やはりコロナ・パンデミックにつきる。

 ようやく新型コロナ感染の終息が近づいてきた。マスクの着用は個人の判断に委ねられるが、スーパーとか映画観や電車の中とか、街中でマスクを外している人は意外と少ない。周りに合わせて決める人も多いので、まだまだ着用を続けているみたいだ。コロナでの死亡者数はこの3年間で約13万5千人に及んだ。直接コロナで亡くなった人のほかにも、コロナに感染したことで持病が悪化したり、衰弱したりして亡くなった人が多くいたとみられる。

  私たちが生きている現代社会は、過去の長い歴史のなかで形成され、発展してきたものである。この現代社会は振り子のように大きく動き、単純な発展の一般法則があるわけではない。政治家や経済学者たちが未来を語るが、正しく未来を予言できる者は誰一人いない。コロナウイルス感染拡大で国家権力やマス・メディアが大衆操作を行い、国家や社会が全体主義的傾向に向かうが、貧富の拡大や失業問題、教育の低下など大きな課題が顕在化していく。先行きの見えない社会は人々に不安と混乱を与えている。コロナウイルス後の世界はどのように変貌するのであろうか。

 日本経済は、1955年ごろから73年までの間、毎年平均10%ほどの率で驚異的な経済成長を続けた。これを高度経済成長という。このような経済成長を可能にしたのは、技術革新が生産性を向上させたこと、教育の普及と向上で良質の労働力が豊富であったこと、政府の産業保護政策や公共投資の増加で、企業が設備投資を行い、生産規模を拡大したこと、所得倍増計画が実施されたことなどがあげられる。ところが1973年と79年の2度の石油危機によって、先進国はのきなみ経済不振におちいった。しかし1980年代後半には、バブル経済と呼ばれる好景気が到来した。1990年秋にはバブル経済は崩壊し、1990年代後半は景気の低迷が続いた。2004年になると、失業率も低下し始めるなど景気の回復がみられるようになった。2020年には東京五輪を予定し、オリンピック景気を夢に描いた。しかし2月からのコロナウイルス拡大により、生活・社会を一変せざるを得ない事態におちいる。そしてついに2月27日、感染拡大防止のため、国は全国の小中学校に休校を要請した。ウイルス感染を阻止することは、命を守ることである。そのためには緊急事態宣言を出して、経済活動をひとまず停止しなければならない。新型ウイルス感染の世界的流行はまだまだ続く。高度経済成長期から人口は農村から大都市圏へ移動し、集中することで現代生活を謳歌することに慣れている。満員電車、学校、劇場、映画館、スタジアム、祭り、観光地、私たちはどこでも混みあっていることに慣れている。ところがコロナ対策では真逆の「密」であることを避けなければならない。職場へ出勤せずにテレワーク、休校による自宅学習。イベント参加や外食はせずに、なるだけ家に引きこもられねばならない。これに対しては慣れていない。都市は閑散とし、ネズミが荒らしまわっている。まるでSF映画のような惨状が現実に起こっている。開店するも地獄、閉店するも地獄という。コロナ禍の影響の業界は航空、旅行、飲食、運輸業だけではない。豊かであるはずの街の開業医も収入が大きく減少したという。経済活動の停止状態はやがて一般のサラリーマンにも影響するだろう。生活が不便になったとか、物質的な面だけではなく、健康面や精神的な悪影響が懸念される。人類は長い間、疫病と闘い克服してきたが、いままで築くいてきた価値観では元の状態を戻すことはできない。いまこそ自然と調和した生活様式が求められる。コロナが鎮静化して日常が戻ったとしてもポストコロナの世界は新しい構造や秩序が生まれていくだろう。ポスト・コロナの時代は大都市集中密集を避けた暮らし、人びとの価値観は、簡素・静謐・芸術重視へと向かうかもしれない。

感染状況 現在感染者数
  506,127人  4月11日 
      513,749人  4月12日
  521,108人  4月13日
      531,080人      4月14日
      521,642人  4月15日 
  518,088人  4月16日
  514,898人  4月17日
     488,617人  4月18日 
  481,261人  4月19日
  480,608人  4月21日 
      470,651人  4月22日 
      448,055人      4月24日
      427,248人  4月25日
      428,840人  4月27日
  463,230人  4月29日
     351,073人  5月5日
  284,354人  5月29日
  334,543人  7月9日
 1,988,333人  8月19日 
 2,050,198 人   8月20日
 2,040,970人  8月22日
   43,587人     9月26日
   29,132人      10月7日
   33,868人      10月22日 
   16,498人      10月25日 
   27,371人      2月11日
   9,082人      3月11日
   10,323人    3月14日
   4,177人  3月22日 
   8,295人  3月25日
   3,171人  4月10日
   5,817人  5月5日

「この世はすべて舞台。そして男も女も役者に過ぎない」
   (シェイクスピア)

 

孔明の嫁えらび

  会社の人事採用で容姿端麗という基準はタブーだと思うが、現実の日本社会では人を見た目や外見で区別することが多い。イケメンとかカワイイという若者文化がビジュアル、ルックス重視に拍車をかけている。老人からすれば見た目の差は若い時だけで、年をとれば人間みな同じだよ、といいたい。2022年の紅白歌合戦の司会は大泉洋と橋本環奈ら4人であると発表があった。NHK色の薄い橋本が起用されたことに業界中が一斉に驚いた。若者に圧倒的な人気のある橋本を起用することで視聴率アップのねらいがあるようだ。それと大泉との相性。2人は映画「新解釈・三國志」で一度共演している。 大泉・諸葛孔明の妻を橋本環奈が演じた。歴史伝説では孔明の妻は醜女が通説なので環奈では美人すぎだが。孔明は襄陽の西約20里(8キロ)のところ隆中で隠れすんで心身の練磨に励んでいた。ある日、黄承彦から「自分の娘は髪は赤く、色黒の醜女だが、才能は優れ、嫁として恥ずかしくないが、いかがでしょうか」と縁談を申しこまれた。孔明は笑ってうなずき、黄承彦の娘を妻として迎え入れた。これを聞いた人々は、「学ぶ莫れ、孔明の嫁えらびを。ただ得たり、阿承の醜女を」と、はやしたてたという。のちにこの醜女が賢夫人となり、おおいに内助の功をあげることになる。ある日のこと、孔明が訪ねてきた客のために、妻に麺を作るように命じたところ、たちまちのうちにできあがった。孔明は不思議に思って、そっと厨の中をのぞいてみると、人形が麦をきり、臼をまわしていた。孔明は妻からその木人形のからくりを聞き、それがのちに、かれが戦闘に使って役立てた木牛・流馬のヒントとなったという。黄夫人の名は史書には残っておらず明らかではない。黄月英、黄婉貞という名は後世の創作である。(『桂海虞承志』)

梅の日

 本日は「梅の日」です。天文14年(1545年)6月6日、後奈良天皇が京都・賀茂神社で祭神を祀る際に、梅が献上されたことに由来します。「万葉集」に、「むつきたち春の来たらばかくしこそ鳥梅を折りつつ楽ぬしきをへめ」とある。ウメとよんでいる。後にムメと発音するようになるが、ウメが正しい。鳥梅は中国の古名だが、鳥はカラスで黒いことを意味する。薬用として干した梅は黒かった。燻製の梅である。諸々の木の花にさきがけて雪中に花開くというので梅を「花の兄」といい、兄花ともいう。また中国で、哀帝(武帝ともいう)が本を読むと梅の花が開き、読むのをやめると花が閉じたというので「好文木」ともいわれた。また木母ともいう。梅は木扁に毎だが、木母なら栂、トガと読む。トガの木を関東でツガともいう。梅の木は奈良朝以前に朝鮮を経て中国から日本に渡ってきたもので、鳥梅をウメとよんだものである。。もともと、未熟な実を塩漬けにして干し、薬用としていたが、これが江戸時代に梅干しとして広く食用されるようになった。シソの葉で赤く着色する。

雨恐怖症

666celebritywallpaper1fbab  最近の台風襲来や集中豪雨の気象情報で線状降水帯が発生したとか、大雨に対する警戒感が高まっている。雨恐怖症という言葉もある。英語で訳すと、ombrophobia。雨のザッーと言う音や、雨が降ることに対して、恐怖感を抱く。反対に女性には雨の日が好き、という人もいる。晴れの日の厳しい紫外線から逃れられるという理由からである。高所恐怖症や閉所恐怖症、対人恐怖症などいろいろある。ところで6月6日は「恐怖の日」。我が国ではこの日は昔から踊りや邦楽などの芸事は6歳の6月6日から始めると上達するといわれた吉日だった。ところが1976年に映画「オーメン」が公開されて以降、悪魔の子ダミアンが6月6日の6時に誕生し、頭に666の文字が隠されていて、666は獣の数字としてキリスト教では嫌われていることが知られるようになった。一般的に言っても、1、3、5などの奇数は吉数で、2、4、6などの偶数は不吉な数というのは、だいたいどの民族でも共通しているらしい。とくに6という数字はキリスト教以外にも、仏教において、「六(ろく)」は「殺人」「殺傷」、「六字(ろくじ)」は「死ぬこと」を意味する。これは南無阿弥陀仏が6文字であるためである。また三途の川の渡し賃が六文銭というのも死と係わりがあるためであろう。兵庫県川西市の郵便番号が「666」である。6という数字は見えないところに隠れて存在するかもしれない。

ノルマンディー上陸作戦

   1944年6月6日。Dデー(攻撃開始日)、すなわち連合軍の「史上最大の作戦」によるフランスのノルマンディー海岸上陸が開始された。ドイツ軍がフランス海岸に構築した「大西洋の壁」にいど連合軍は第1波兵力15万6000人以上。空軍はイギリス1万1590機、アメリカ6080機、他の連合軍5510機、海軍戦艦7隻、巡洋艦23隻、駆逐艦・フリゲート艦168隻、上陸用艇4126隻。総司令官はこの1月にアイゼンハワーが任命されていた。迎え撃つドイツ軍はUボートを除いて海軍はほとんどなく、空軍も連合軍の50分の1と、劣勢にあった。ここを守るB軍団司令官は「砂漠の狐」と称されたロンメルであった。連合軍を上陸させてから撃滅しようと考える西部戦線ドイツ軍総司令官ルントシュテットに対し、ロンメルは水際での迎撃を主張したが、双方ともに最善と思われる方法はヒトラーによって却下された。ヒトラーは、連合軍の侵攻を頭からあなどっていたのである。連合軍の攻撃はこの日午前1時30分、空挺部隊降下に空爆、艦砲射撃で始まった。シェルブールを目指すアメリカ軍は6時30分ビール川河口の2地点に、カーンを目指すイギリス・カナダ軍は7時30分オルヌ川周辺の3地点に上陸を開始した。上陸初日の連合軍は、わずかな地域しか占領できなかった。しかし、連合軍を上陸地点で破砕するロンメルの意図は崩れた。この日「6月6日」は連合軍にとって、大戦を勝利に導く第一歩として、忘れてはならない記念の日となる。

 

 

2024年6月 5日 (水)

賢者の贈り物

 アメリカの小説家オー・ヘンリーは1910年のこの日、死去した。「最後の一葉」「20年後」など約280の短編があるが、やはり代表作は「賢者の贈り物」である。クリスマス・イブの夜。貧しい若夫婦のジムとデラはプレゼントを交換する。ジムは金時計を売って櫛を買う。デラは髪を切って夫の金時計につける鎖を買う。お互いに贈り物は無駄になったが、お互いの深い愛情をたしかめあうという、心温まるストーリー。オー・ヘンリーの小説「賢者の贈り物」(1905年)のデラは妻のアソル・エステス(1868-1897)がモデルという。ヘンリーは実際に見聞したことを題材にして小説にするタイプだ。若い頃、二人があるセレモニーに参加し、アソルが記念に自分で髪を切って入れるのを、ヘンリーが見てこころひかれた。デラが自分の髪を切り、プレゼントをするという話は、若くして亡くなった愛妻アソルへの想い出が込められていたのだった。(6月5日)

 

 

脳に危険なスマホ依存症

 スマホを四六時中使っていないと不安になるスマホ依存症が問題になっている。スマホ依存が「もの忘れ」を引き起こす原因になるらしい。その「もの忘れ」はスマホ認知症だった(青春出版社)の著者奥村歩医師が解説する。「私が開設している「もの忘れ外来」の患者さんは、かつては大半が認知症の不安を抱えた高齢者の方たちでした。ところが、5年ほど前から30代から50代の働き盛り世代が目立つようになり、現在は約5割が65歳までの世代。皆さん、自分はアルツハイマー型認知症ではないか、心配して来館される患者さんです」だが、MRIで脳の状態を検査しても、アルツハイマー型認知症の特徴である、記憶をつかさどる脳の海馬部分の萎縮は見られない。「そこで患者さんに聞き取りをすると、皆さん、それこそ食事中だけでなく、トイレやベットの中でも肌身離さずスマホを操っているヘビーユーザーだという共通点が見られたのです」奥村医師はこれを「スマホにより脳が過労している状態」とし、「スマホ認知症」と名付けた。過度にスマホを使用すると脳過労になる。その大きな要因が、脳の中にある前頭前野への影響だ。いわば脳の中にゴミをためている状態になっている、と医師は指摘する。

 このほかスマホ依存症は脳に悪影響を及ぼすだけでなく、視力の低下、肥満、腰痛、頭痛、睡眠不足など身体に有害な病気を誘発する原因となると考えられる。また闇サイトにだれでも簡単にアクセスできるため、青少年の日常生活を破壊させることがみられる。ゲーム依存症や性的姿態撮影罪を犯す危険性がある。スマホや画像処理の開発は急速に進んでいるが、スマホに起因する負の側面を指摘する論者はほとんどいない。それはスマホが資本主義社会の利潤追求にウィンウィンの関係であるからである。人間とコンピュータが共存する社会をめざすのであるならば、スマホ依存の解決策に取り組んでもらいたい。

 

 

 

舟木一夫

 歌謡ポップスチャンネルで「NHK歌謡コンサート#243 心に響く青春歌謡ヒット曲」を放送していた。橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦、御三家が出演している。初回放送が2000年10月24日なので今から24年前の映像である。西郷輝彦は惜しくも2年前に他界したが、橋・舟木は現役で活躍している。とくに舟木一夫は公演は今でも熱心なファンで満席だそうだ。思えば1963年6月5日「高校三年生」でデビュー。100万枚を超える大ヒットで人気を博した。1970年代に入り心身の不調のため十数年に渡り低迷時代が続いたが、中年に入っても人気が衰えることはなかった。芸能界の浮き沈みは予測不能なことを証明する人である。

 

消滅可能性自治体

 戦後の日本は、人口が急激に増えていた社会から人口が減少する社会へと変わった。都市化と核家族化でかって賑わいをみせていた地方都市が急速に、人口流出による自治体人口の減少と平均年齢の上昇が顕著になっている。その結果、地方の活力が失われ、経済や文化など、あらゆる面において、大きな遅れが生じている。このような現状をみると、調和のとれた国土の発展という見地からも、早急に対策を講じ、その不均衡を解消する必要がある。

 先日、民間の有識者らで作る人口戦略会議は、各市町村における将来の20歳~30歳女性の人口減少率を50%以上超える自治体を、「消滅可能性自治体」であるとして公表された。東北地方と北海道は6割以上の自治体が「消滅可能性自治体」となって、青森と秋田については、8割以上の自治体が「消滅可能性自治体」となっている。北海道では主要都市である函館市や釧路市のほか、小樽市や岩見沢市、網走市なども含まれている。北海道の約2/3を超える117市町村が将来的に「消滅の可能性がある」とされる。ここでは函館市を一例として見てみる。令和になってからの人口推移をあげる。(単位:人)

令和元年 255,766
令和2年 252,198
令和3年 248,901
令和4年 245,274
令和5年 241,126
令和6年 236,648

  毎年、4,000人以上は減ってきている。函館の高校生は、卒業するとほとんどが東京へ上京、あるいは札幌へ進学・就職する。港湾都市として発展してきた函館市であるが、今や主な交通手段は船ではなく、航空機である。従来の基幹産業であった造船業や北洋漁業の衰退もあって産業が観光のみになっている。北海道に限らず人口減少の激しい地域では、巨大な建造物を作ったとしても廃業すると巨大な廃墟となることが予想される。

 

環境の日

 本日は「環境の日」。1972年、国連総会決議で制定された。高校地理の副教材「図説地理資料」。新型コロナウィルス感染症の人・物の動きへの影響など最新情報もある。4年前の新詳地理資料COMPLETE2018と比較する。トランプ大統領と移民問題など記事も大きく変わっている。NOWでは「サスティナブルシティ構築への挑戦」としてエネルギー問題、地球環境問題を巻頭に特集している。そして、「SDGsについて探求ーしよう」を巻末で特集している。持続可能な地球を守り続けるために人間と自然環境がどう向きあっていくかが問われている。主要国要覧がないのは残念。地理学はここ数年でその重要性を大きく増した科目である。

 人間が少しでも自然を利用すれば、地球環境に影響が生じます。しかし、人間が動物の狩りや植物の採取で暮らしていた時代は、人間が与える影響よりも自然界の回復力のほうがはるかに勝っていました。そのため大きな問題は起こらなかったのです。その後、文明の発達になって人口の増加や都市化が進み、次第に人間の生活が地球環境に大きな影響を与えるようになってきました。18~19世紀に産業革命が起こると、蒸気機関の発明によって大量生産ができるようになってきたことから、人間はますます自然界の素材を利用するようになりました。そして自然界の回復力をはるかにこえてしまつたため、さまざまな問題が起き始めたのです。また、科学の発達によって簡単に自然にかえらない物質や、使い方をまちがえると有害な物質も生まれ、次々にいろいろな環境問題が表面化するようになったのです。(6月5日)

 

 

池田屋襲撃事件

   元治元年6月5日夜、京都三条池田屋で尊王攘夷派の志士が新選組に襲われ多数殺害された。この池田屋襲撃事件は新選組の名を一夜にして轟かせたが、隊士たちのその後の人生にも大きな転機となっている。当夜、近藤勇は隊員を二手に分けて、表出口には谷万太郎、武田観柳斎、浅野藤太郎が、裏口には奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門らが固めた。そして店内へ近藤勇が先に立って、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、近藤周平の4人を従えて突入した。近藤は裏階段から2階へ駆け上がり、土佐藩士北添佶麿を斬る。2階に上がった沖田は、数人の浪士を斬ったが、結核の発作に襲われ倒れた、とするのが通説である。なぜ近藤らわずか5人で20人もの浪士に勝てたのか。それは真剣を使い慣れた近藤らと剣道しか知らない志士との差、それに池田屋は幅6m、奥行き約27m京都特有のうなぎの寝床が近藤らに有利となった。永倉新八の「新撰組顛末記」によれば、表口には谷三十郎、原田左之助となっている。また池田屋襲撃には谷三兄弟の3男、谷周平が参加したという記録もある。事件当日の奮戦ぶりから、周平は近藤の養子となって、近藤周平と改名する。その後、周平は近藤の信を失なって縁組は解消され、旧姓に復している。原田左之助は十七両の褒賞金を受領している。長州志士を中心とする20名余りのうち7人が討ち死にするも、裏口を固めていた3人が斬られて突破され、多くの志士が脱走した。当夜の新選組の犠牲者は奥沢栄助ひとりとされている。後日、安藤早太郎、新田革左衛門ら死亡したとある。他方、尊攘派は、吉田稔麿、北添佶麿、宮部鼎蔵、大高又二郎、石川潤次郎、杉山松助、松田重助らの逸材が戦死した。

    武田観柳斎は長沼流軍学をもって知られ、二十両の褒賞金を受領している。その後、薩摩に通じ、竹田街道の銭取橋で斎藤一に斬殺される。浅野藤太郎も同額の二十両を受領している。浅野はその後、金策が露見して、島原において斬殺されている。藤堂平助は活躍により二十両を受領している。その後、高台寺党に加わり、三条油小路において新選組に斬殺される。沖田総司はよく知られるように池田屋襲撃時、戦闘中に喀血昏倒する。池田屋襲撃の近藤配下の隊士の中で明治まで生存したのは永倉新八ただ一人だった。原田左之助に関しては死亡時期不明。通説では上野戦争で戦死したとされるが、満州で馬賊となったという生存説もある。土方歳三ら本隊は洛東大仏辺から祇園、縄手通りから四国屋などを探索の後、池田屋の近藤に合流した。池田屋参加の名簿には、斎藤一、篠塚岸三、林信太郎、島田魁、川島勝司、葛山武八郎、三品仲治、蟻通勘吾、松原忠司、伊木八郎、中村金吾、尾崎弥八郎、佐々木蔵之丞、河合耆三郎、坂井兵庫、木内峯太、松木喜三郎、竹内元三郎らの名前がみえる。(6月5日)

 

 

2024年6月 4日 (火)

歯の衛生週間

Photo    6月4日は「虫歯予防デー」だった。現在は4日から10日まで「歯の衛生週間」となっている。みなさんは歯磨きはいつしますか? わたしは、朝起きたら顔を洗ったら歯磨きをします。本当は食後にするのがいいのですが長年の習慣なので。これからは寝る前にもして1日2回に増やそうかなと思っています。1964年のコマーシャルで「リンゴをかじると血がでませんか」というフレーズが流行りました。俳優座の福田豊土(1934-1998)が出演していましたが、実は彼のお父さんは高名な日本画家、福田豊四郎(1904-1970)ですね。代表作に「海女」(1950年)があります。

 

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ミッドウェー海戦が始まる

   ミッドウェー海戦は1942年6月5日から7日まで続いた。実は日付変更線を越えた海域だったから現地時間では開始日は6月4日である。日本軍はミッドウェイ島を占領して北方の西部アリューシャン攻略の足がかりとする作戦を展開し、反撃のため出現が予想される米空母群を殲滅すべく、ほぼ全力で出撃した。この日本側に対し、暗号を解読していた米側は作戦を看破し、これを迎撃した。結果、日本は赤城・加賀・蒼龍・飛龍の4隻と重巡1隻が沈没し、航空機280機以上を失った。これに対し、米軍は空母1隻、航空機150機喪失にとどまり、日本は制空・制海権を失い、8月にはガダルカナル島への上陸をもって米軍の反撃が始まる。

 

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  沈没寸前の空母赤城

 

 

世界の女性国家元首

Photo メキシコで初の女性大統領が誕生するようである。前メキシコシティ市長のクラウディア・シエインバウム(61歳)である。エネルギー工学の専門の科学者という経歴の持ち主。今では、世界で女性の国家元首は珍しくないが、クレオパトラやゼノビア、則天武后、卑弥呼、推古天皇、エリザベス女王などの歴史上の女帝は除いて、世界最初の女性元首はトゥヴァ人民共和国のヘルテック・アンチマ・トカ(1940年から44年まで在任)。選挙で選ばれた元首といえばスリランカのシリマボ・バンダラナイケ(1916-2000)である。1960年-1965年、1970年-1977年、1994年-2000年の3度首相に就く。夫のソロモン・バンダラナイケはスリランカ自由党の創設者であるが、1959年に暗殺された。二女のチャンドリカ・クマーラトゥンガはスリランカの第5代大統領(在任1994-2005)。 インディラ・ガンディーは1966年にインド初の女性首相に選ばれた。ゴルダ・メイア(1898-1978)は1969年にイスラエル初の女性首相に選ばれた。

 

 

 

 

キティ台風とハローキティ

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 キティ台風(昭和24年)平井駅に押し寄せる住民

 昭和28年のこの日、中央気象台が台風の呼び名を外国女性名から発生順の番号に変更した。終戦直後から昭和28年までの台風は、その時代や風俗事件と結びついて強く記憶に残っている。終戦直後の昭和20年9月17日は枕崎台風が鹿児島に上陸した。昭和22年の9月14日はキャサリン台風が関東に襲来。死者2247人。昭和24年8月31日はキティ台風が関東地方に襲来。死者135人、行方不明25人。これから戦後の一時期、キャサリン台風、キティ台風など台風の呼び名には女性名が付けられるようになった。太平洋戦争の頃、気象観測をした米兵が自分の妻や恋人の名前をつけたことによる。福田恒存の「キティ颱風」という戯曲があるが、なぜかその時代背景と結びついている。昭和22年のキャサリン、昭和23年のアイオン、昭和24年のデラ、ジュディス、キティ、昭和25年のジェーン、昭和26年のルース、昭和27年のダイアナ台風等が来襲した。

    キティ台風の記憶も日本人から遠くなったころ、サンリオからキティという名のキャラクターがつくられた。いまでは文具からパジャマにいたるまで、世界中で多く製品に描かれている。最近、「ハローキティは猫ではない」という事実に世界が驚いているという。キティは「明るくて優しい女のコ」である。プロフィールを紹介すると、本名はキティ・ホワイト。1974年11月1日生れで星座はさそり座。血液型はA型。身長はリンゴ5個分。体重はリンゴ3個分。ロンドン郊外でパパのジョージ、ママのメアリー、双子の妹のミミィと暮らしている。そして本当の猫のペット、チャーミーキティを飼っている。好きな食べ物はママの作ったアップルパイ。(6月4日)

 

 

2024年6月 3日 (月)

世の中で一番悲しい事は、うそをつく事です

 「人間とは社会的動物である」

  アリストテレスは「政治学」において「人間はポリス的な動物である」と述べている。この言葉をもっと現代の資本主義社会のなかで考えてみるに「人間とはウソをつく動物である」と断言したい。

  トヨタ会長が認証不正問題で謝罪した。トヨタ、本田、マツダ、ヤマハ、ススキの5社で不正行為が見つかった。5社は認証試験で、虚偽データの提出や試験車両の不正加工などを行っていた。紅糀問題でも医薬品やサプリメントでの品質に対する製薬会社への信頼は大きく失われた。健康商品に限らず、通販商品などの誇大広告や虚偽など不正や悪質な商法は世の中に蔓延している。不要なモノを買わせるテクニックはますます巧妙に悪質化している。テレビ番組のヤラセや過剰な演出も見ていて気分が悪い。「CDTVライブ」のという音楽番組で街を歩く素人の若い女性が曲の評判を聞くシーン。3人グループの女性が最上級の誉め言葉で賛辞を述べているのが嘘くさくて嫌いだ。日本人が平気でウソをつくようになったのはいつからだろうか。安倍晋三の時代からウソが当たり前の世の中になったのだろう。2014年の青天の霹靂ともいえる年末総選挙。マスコミは安倍首相が今月に内閣を解散し、12月に総選挙を実施すると報道している。数日前まで記者団の質問に、年内解散を否定し「全く考えていない」と言っていた。安倍はこれまでも平気でウソをつく人だから言葉には信用できない。消費増税を先伸ばしを手玉にとって国民を欺く作戦とはやはり卑怯である。だが政治家のウソといえばやはり佐藤栄作である。佐藤は1967年に「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を持ち出したが、1969年の沖縄返還交渉で、ニクソン大統領と「有事の際の核兵器の再持ち込み」を認めた。その密約文書は今も佐藤家に保管されているという。

 「世の中で一番悲しい事は、うそをつく事です」

これは福澤諭吉の「心訓」の1つとして広く知られていた。だが近年の研究で、後年の偽作とわかった。世の中、うそつきが多いことだけは、肝に銘じたい。

 

 

 

 

黒船来航(1853年)

  東インド艦隊を率いるマシュー・ペリーの黒船4隻が、江戸湾入口の浦賀に現れたのは、嘉永6年6月3日(陽暦1853年7月8日)のことであった。天気は快晴で、富士山がよく見えた。浦賀奉行組与力の中島三郎助は、オランダ語の通訳の堀達之助とともに、交渉に当る。中島が、日本の法律では、外交問題は長崎で交渉することになっているで、長崎で交渉するよう、副官のジョン・コンティ大尉に申し入れた。しかし、コンティはこれを拒否した。ペリーは3日後までに聞き入れなければ、大砲をうちだすという。老中・阿部正弘や勘定奉行・川路聖謨は諸大名と協議し、結局6月9日(陽暦7月14日)に、アメリカの国書を受け取ることにした。アメリカ大統領の国書は、アメリカ漂流民の保護、アメリカ捕鯨船の食糧・薪水の補給、日本の地に貿易港を開く、というものであった。幕府側は、すぐに回答できない、なんとか来年までまってほしい、とペリーに頼んだ。ペリーは来春に再び来航して、日本側の回答を求めることを述べ、12日にようやく江戸湾を去り、琉球にむけていった。「太平のねむりをさます上喜撰たった四はいで夜もねられず」と狂歌に詠まれるほど、江戸の街は大混乱となった。(Matthew Perry,John Contee、史料「南浦書信」嘉永六年七月十四日)

 

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黒船来航の地 浦賀久里浜海岸

 

 

2024年6月 2日 (日)

「た」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Danielradclifferesimleri     ダニエルという名は旧約聖書の「ダニエル書」に登場するユダヤ人の預言者。容姿が美しく、才能と智慧があり、「ベルテシャツァル」と呼ばれてバビロンの宮廷で仕えた。ダニエルは英語圏では通常は男性名だが、フランス女優のダニエル・ダリュー、ダニエル・ドロルムのような女性名の場合もある。

ダイアナ・スペンサー
ダイアナ・パントン
ダイアナ・リグ
ダイアン・ウィースト
ダイアン・キートン
ダイアン・クルーガー
ダイアン・フォーチュン
ダイアン・レーン
タイガー・ウッズ
ダイナ・ワシントン
タイロン・パワー
ダヴィッド・アルファロ・シケイロス
ダヴィッドソン・ブラック
ダヴィト・ボリソヴィチ・リャザーノフ
ダウエント・ステイントロップ・ホイットルセー
タウンゼント・ハリス
ダグ・ヒャルマル・アニュ・カール・ハマーショルド
ダーク・ボガード
タークシン王
ダグラス・アダムズ
ダグラス・エンゲルハート
ダグラス・ハイド
ダグラス・フェアバンクス
ダグラス・マッカーサー
ダグラス・モーソン
ダグラス・リルバーン
ダグラス・ワキウリ
ダコタ・ジョンスン
ダコタ・ファニング
ターシャ・テューダー
ダシール・ハメット
ダスティン・ホフマン
ダドリー・ムーア
ダナ・アンドリュース
ダニー・アイエロ
ターニー・ウェルチ
ダニー・グローバー
ダニー・カレル
ダニー・ケイ
ダニー・サヴァル
ダニー・デビート
ダニー・トレホ
ダニー・ボイル
ダニー・ロバン
タニア・ロバーツ
ダニエル・オーターユ
ダニエル・クレーグ
ダニエル・ゴーベール
ダニエル・サルモン
ダニエル・ジェラン
ダニエル・スターン
ダニエル・ダリュー
ダニエル・デイ・ルイス
ダニエル・デフォー
ダニエル・ドロルム
ダニエル・ベルヌーイ
ダニエル・バーナム
ダニエル・ブーン
ダニエル・ブリュール
ダニエル・ベルヌーイ
ダニエル・ラザフォード
ダニエル・ラドクリフ
ダニエル・ルイ・アームストロング
ダブニー・コールマン
ダフネ・ズニーガ
ダフネ・デュ・モーリア
タマラ・プレス
タマンナー
ダミア
タムリン・トミタ
ダーモット・マルロニー
ダライ・ラマ14世
タリア・シャイア
ダリウス・ミヨー
ダリオ・アルジェント
ダリル・ハナー
ダリル・フランシス・ザナック
タルコット・パーソンズ
ダルトン・トランボ
タルラー・バンクヘッド
ダン・エイクロイド
ダン・クーパー(偽名)
ダンテ・アリギエーリ
ダンテ・ガブリエル・ロセッティ
タンディー・ニュートン

 

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  タムリン・トミタ

 

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 ダフネ・デュ・モーリア

世界を変えた科学理論の発見

 小学生でも名前だけならだれでも知っているコペルニクス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン。現代の最先端の理論まで、科学史の流れはは繋がっている。いやコペルニクス以前のギリシア哲学者からアリストテレス、中世イスラムの科学者まで、今ではもちろん間違っているといわれる学説までも誤りを正すことから新しい科学が始まったのだ。

 私は文科系の学生だったので、読書というと学校図書館にズラリと並べられた膨大な世界文全集や世界の名著、日本文学全集を思い出す出す。そのすべてを渉猟したと豪語できないが、あらかたは通読した。「ギルガメシュ」「イリアス」「オデュッセイア」、「ラーマーヤナ」と「ハムレット」と「戦争と平和」と「源氏物語」と「アラビアン・ナイト」と「西遊記」。「失われた時を求めて」と「水滸伝」と「白鯨」と「城」・・・これらは人間の名において、書かれた偉大な本であるが、言語・風俗習慣・社会体制その他さまざまな違いがあるので、文学の流れという視点から考えると、何か決定的な繋がりを見出すことは多分に困難である。ところが自然科学という分野は、数学・物理・化学・生物・医学・地学・天文などの法則や理論は、紀元前8世紀から6世紀にかけて、ギリシアで発展した自然観に端を発していることはめいはくな事実である。ミレトス派のターレス、「万物は流転する」と唱えたヘラクレイトス、数を絶対化したピュタゴラス、宇宙における生成と消滅、または原子の結合と分離によるものと考えたデモクリトス。こうして原子論にもとづいた唯物論が生まれた。ノーベル賞が自然科学に与えるのは誰しも納得できるが、文学賞だけは選考審査が困難という理由もそこにあると思う。

平清盛、福原に遷都(1180年)

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    平清盛の時代の大きな特徴は、物々交換から宋銭の流通による貨幣経済に変わったことである。治承4年6月2日、平清盛は周囲の反対を押し切り神戸・福原に遷都した。ただ和田京との関係や、大輪田泊、福原京が、現在の地図の上にどのように都が配置されたのか専門家の間にも異論がある。元京都大学大学院人間環境研究科教授の足立健亮の復元プラン(E-F-G-H)が広く知られている。最近、楠・荒田遺跡(神戸市兵庫区荒田町)から平頼盛邸宅の遺構が発掘され、福原京の一部が少しづつわかりかけてきた。

 

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横浜開港と岩瀬忠震

041_04     本日は横浜港開港記念日。安政6年のこの日、前年に井伊直弼が勅許を得ずして調印した日米修好通商条約によって、横浜、長崎に港が開かれた。

   水野忠徳や小栗忠順とともに「幕末三傑」と称された岩瀬忠震(いわせただなり 1818-1861)。1854年、阿部正弘に見出されて目付を任され、軍艦操練所や洋学所の開設、品川の砲台の築造などに注力した。その後、外国奉行として日露和親条約、日米修好通商条約に署名。開国に積極的な、開明的な外交官として列強との折衝にあたった。1858年、13代将軍・家定の後継者争いで慶喜を支持。井伊直弼ら反対派の弾圧に遭い、安政の大獄で作事奉行に左遷。のち蟄居を命じられた。(6月2日)

岩瀬忠震関係文献
岩瀬肥後守家伝 維新史料56 1890
岩瀬鴎処 川崎紫山 春陽堂 1897
巖瀬鴎所君墓碑 永井介堂 旧幕府8 1897
岩瀬肥後守 福地源一郎 民友社 1900
近世百傑伝 千河岸貫一 博文館 1903
匏庵遺稿 栗本鋤雲 裳華房 1903
人物と遭遇 犬養毅 博文館 1922
岩瀬忠震 太田熊太郎 中央史壇12-9  1926
岩瀬忠震の開国交易思想 松本順 経済論叢54-3  1942
岩瀬肥後守忠震とその手記 京口元吉 早稲田大学史学会1961.7
幕末三俊の随一・岩瀬忠震 坂田吉雄 日本及日本人1972.7
岩瀬忠震 日本を開国させた外交家 松岡英夫 中公新書 1981
横浜開港の恩人岩瀬忠震 森篤男 横浜歴史研究普及会 1982
岩瀬忠震の年譜的研究 飯田虎男 1996
日本の開国と3人の幕臣 桑原三二 1996
一橋派運動と岩瀬忠震 飯田虎男 政治経済史学 1997.2
光芒遥かなり 小説岩瀬忠震 岸上耿久 忠震会 1998
暁星 開国の扉を開けた幕吏・岩瀬忠震 森健次 文芸社 2001
知性 岩瀬忠震のことなど 赤塚行雄 公平2006.11
幕末三美男政治家 阿部正弘、安藤信睦、岩瀬忠震 野口武彦 東京人2008.4

2024年6月 1日 (土)

西洋美術インデックス

Photobyalfredeisenstaedttakenonvjdaアイゼンシュタット,アルフレッド
アヴェド,ジャック・アンドレ
アヴリル,ジャンヌ
アウレリオ,ニッコロ
青いバラ

 

   アルフレッド・アイゼンシュタット(1898-1995)はアメリカの報道写真家。VJデー(対日戦勝記念日)、ニューヨークのタイムズ・スクエアには終戦の喜びを味わおうと多くの人々が集まっていた。ライフ誌の表紙を飾ったのがアイゼンシュタットが撮影した「勝者のキス」である。モデルは看護婦エディス・シャイン、水兵カール・マスカレーロ。

 

  ジャンヌ・アヴリル(1868-1943)はロートレックのモデルとして有名。

 

    ニッコロ・アウレリオはティツィアーノに「聖愛と俗愛」を作成依頼したべネツィアの貴族。

 

   「青いバラ」(ゴルーバヤ・ローザ 1907年)とはパーヴェル・クズネツォフ、ミリューティ兄弟、M.S.サリヤン等のロシア象徴主義第2世代の画派。

 

(Alfred Eisenstaedt,Jane Avril,Pavel Kuznetsov)

日本にある印象派シスレーの絵画

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「サン・マメス6月の朝」
1884年 ブリジストン美術館蔵 

    印象派の巨匠シスレーの「サン・マメス六月の朝」は東京・ブリヂストン美術館の至宝である。6月の朝の光のさわやかさを、遠近法のうちに、鮮やかな光と影の入念な描き分けによって惜しみなく表現している。樹葉のひろがりに点綴された色斑の筆触も制御されたものであり、色彩も豊潤である。サン・マメスはパリ近郊の田舎町で何度も描いているが、シスレーは一度も住んだことはなかった。

   「彼はすぐれた空の画家であり、エーテルの奥行きを表現し、この広がりの中に雲の群れを浮ばせることを知っていた。彼は、晴れやかな自然への愛をもって、ある一日の風景の魅力や穏やかさを彼なりに表現した」(ギュスターヴ・ジェフロワ)

東京のブリジストン美術館にはほかに2枚のシスレーの作品がある。

 

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 「シュレーヌのセーヌ河」1879年

 

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 「森へ行く女たち」 1866年

孔子はジャイアント馬場より大きかった!?

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 むかしチャールズ・バーン(1761-1783)という男がいた。1780年代のロンドンで大衆の注目を集めたアイルランド出身の巨人症の人物である。彼の正確な身長は推測の域を出ないが、大多数の記述が8フィート2インチ(248cm)から8フィート4インチ(254cm)の身長であったと言及している。彼はロンドンですぐさま街の人気者となり、富と名声を手に入れたが、やがて市民の関心はなくなり廃れていく。1783年6月1日、22歳の若さで茶リングクロスのコックスパーストリートの安アパートで大酒が原因で死んだ。

   孔子の身長は9尺6寸で、春秋時代の1尺が22.5㎝だから、およそ216㎝ということになる。ちなみにジャイアント馬場が209㎝だから、それよりも大きい。三国志の諸葛孔明も長身で190㎝くらいはあったという。長身というのが中国の偉人像の1つの条件なので、あまりあてになる話ではない。参考:「孔子の身長について 春秋時代の尺度と評価」若江賢三 人文学論叢16  2014年

梅雨と水害

Ad011  この季節、梅雨前線を原因とする集中豪雨が何回も起こっている。昭和28年の西日本水害。筑後川を始め白川など九州北部を流れる河川がほぼ全て氾濫し、死者・行方不明者1001名、浸水家屋45万棟、被災者数約100万人という最悪の大災害となった。土砂災害や川の増水などに注意しよう!!

 「梅雨」という語は江戸時代の文献にはなく明治になってから使われるようになった。一説によると、このころに黴が生えることから黴雨(ばいう)といい、のち発音の似た「梅」の字を当てたという。中国でも「梅雨(メイユー)」といい、古く「霉雨」という字が当てられる(「霉」はカビのこと)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 福岡市ミカド食堂の女性たち

北磁極、発見(1831年)

3315250    イギリスの探検家ジェイムズ・クラーク・ロス(1800-1862)は北磁極を目指して1831年6月1日到達した。彼はカナダ北部ブージア半島のアデレード岬を北磁極とした。現在はおよそ北緯79.74度、西経71.8度の地点。ジェイムズは1839年から1843年にかけて南極探検を行い、1841年、ロス海を発見した。( keyword;James Clark Ross,North Magnetic Pole,Ross Sea,eponym )

 

 

 

 

 

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