明治政府の北海道開拓
明治政府は五稜郭の戦がおわってまもなく、ロシアの南下にそなえて北海道(および樺太)開拓のことを決し、蝦夷地を北海道と改称し、北海道開拓使を設置した。北海道開拓使となった黒田清隆はみずからアメリカに渡ってケプロンらを顧問として招き、そのほか70人をこえる外国人を雇った。そしてその計画・指導のもとに、開拓計画を進めた。札幌農学校では開拓指導者が養成され、また官営工場を設けて販売の困難な農作物を購入し、加工品の製造を試みた。石炭の採掘を志し、札幌への輸送をも考慮して、明治15年、小樽ー札幌間の鉄道を敷設した。しかし、これらの努力にもかかわらず、内地からの移民は期待したほど多くはなく、開拓とくに農業開拓は遅々として進まなかった。明治7年10月に設けられた屯田兵制度は、このような事態のなかで開拓の進展をはかり、また当時失職した士族の救済を兼ね、あわせて北門防備の任務を果たそうという一石三鳥をねらったものであった。屯田兵は治安維持にもあたり、その労働によって開かれた道路・土地は少なくない。(参考:『世界大百科事典23』平凡社、5月17日)
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ケペル先生。参考までに私の控えでは
①明治6年12.25黒田清隆が建議した屯田兵の設置許可される
②明治7年6.23屯田兵制度が実施され最初の屯田兵が、琴似に入植する(続いて明治9年に山鼻屯田兵、同20年に新琴似屯田兵、22年に篠路屯田兵が入植、屯田兵制度が廃止される明治32年までに札幌には、4つの屯田兵村が開村した)。
投稿: 黒田清隆 | 2024年5月17日 (金) 16時45分