アイグン条約の硯
ロシア皇帝ニコライ1世は、アヘン戦争でのイギリスの勝利に刺激され、1847年、ムラヴィヨフを初代東シベリア総督に任命し、積極的な東方進出政策をおこなわせた。ムラヴィヨフは極東への植民を推進し、清が太平天国やアロー戦争に苦しんでいるのに乗じて、1858年5月28日(露暦5月16日)アイグン条約を結び、アムール川をロシアと清との国境に決めた。アムール合意で使われたペンと筆と硯が残されている。調印者はロシア側がムラヴィヨフとロベロフスキー、清国側が奕山とジラミンガ。
交渉にあたりロシア側は武力示威による威嚇を行った。北京の清国政府はアイグン条約を1度は認めたが、しだいにこれを否認するにいたり、本条約の有効性は両国間で激しく争われた。1860年11月14日に両国の間に結ばれた北京条約は、アイグン条約を確認して黒竜江左岸をロシア領としただけでなく、共同管理の地とされたウスリー江右岸については、黒竜江との合意点からウスリ江をさかのぼりハンカ湖を越え、いったん西方に迂回してから豆満江にいたる線より東の地域をロシア領とした。
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アヘン戦争とは どんな 武力というか
どんな被害者が でたのだろうか
そして 人々は どうなるのだろうか
世界史研究会(名前検討中
投稿: 村石太ダー&パピル2世 | 2013年6月12日 (水) 11時38分
国境や領土の確定は、背景に武力などの実力行使をちらつかせた脅しによって成されるもの。
尖閣、竹島問題も最後の決め手は実力支配の問題に帰結せざるを得ないということでしょう。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2014年5月16日 (金) 03時02分