日本はチリやアメリカのカリフォルニア州などとともに、太平洋をとりまく環太平洋造山帯の上にあるため、地震や火山の噴火による被害が多い。とくに、1923年の関東大震災や、1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東日本大震災、2024年の能登半島地震では多くの犠牲者を出した。日本の気象災害のなかでとくに被害が多いのは、台風による風水害である。コンクリートとアスファルトで道路を固められた都市部では、大雨が降ると雨水が地面にしみこまず、一気に河川に流れこみ、氾濫がおこることがある。台風7号進路予想。14日午前に紀伊半島沖に達する見込みで関西を直撃する。このような災害は他人事ではない。災害発生時における対応策は平時から十分に検討しておかねばならない。いつどこで巨大地震が起きても不思議ではない、と専門家は警鐘している。東大地震研究所は「震災をきっかけに首都圏では地震活動が活発化してM7級直下地震が30年以内に70%の確率で首都直下地震が発生する」と発表している。関東で相次ぐ地震は首都直下地震の予兆である。首都直下地震が発生した場合、平日の昼間だと帰宅困難者は最大約453万人と予測されている。
東大地震研究所は1925年(大正14年)11月25日、東京帝国大学付属地震研究所として設立された。初代所長は末広恭二(1877-1932)、2代目所長は石本巳四雄(1893-1940)。地震研究所の設立には寺田寅彦(1878-1935)も大きく協力していたようだ。正面玄関の壁には寺田による碑文が今も掲げられている。
明治24年濃尾地震の災害に鑑みて震災予防調査会が設立され、我邦における地震学の研究が漸く其緒に就いた。大正12年帝都並びに関東地方を脅かした大地震の災禍は更に痛切に日本に於ける地震学の基礎的研究の必要を啓示するものであった。この天啓に促されて設置されたのが当東京帝国大学付属地震研究所である。(中略)本所永遠の使命とする所は地震に関する諸現象の科学的研究と直接又は間接に地震に起因する災害の予防並びに軽減方策の探求である。この使命こそは本所の門に出入りする者の日夜心肝に銘じて忘るべからざるものである。
有名な警句「天災は忘れたころにやってくる」は寺田寅彦の言葉として一般によく知られるが、全集をはじめ彼のすべての著作物からその言葉を探してみたが、よくわからず、結局出所を明らかにすることはできなかった。「天災と国防」(1934年)という随筆には地震による被害が増大すると指摘し、防災の必要性を説いている。この言葉は寺田が地震研究所にいたころ生まれたのではないだろうか。だれかれということなく、寺田の考えを要約した警句として流布していった。中谷宇吉郎の「天災」という一文の中に、寺田寅彦の名言として紹介され、江湖に広まった。中谷の「天災は忘れた頃来る」(西日本新聞1955年9月11日)にもそのようなことが記されており、中谷が「寺田寅彦の言葉」として残した、といほうが正確なようである。
同様の言葉は英語の諺にもあるらしい。
Natural disasters comes when we've forgorten all about then.
寺田寅彦は明治11年11月28日、寺田利正・亀の長男として東京で生まれた。明治14年、郷里の高知に転居。明治30年、熊本第五高等学校の学生だった寅彦は両親のすすめで、阪井重季の娘・阪井夏子(1883-1902)と結婚する。夏子は少女時代から目立つ美人で、松山に住んでいた頃、松山の中学生だった安倍能成(1883-1966)が憧れていたといわれる。目が大きく、「お夏さんの目が光るからランプはいらぬ」と親族の子どもから言われた。だが寅彦と夏子の幼い夫婦は熊本と高知と離れ離れの新婚であった。
明治31年1月17日の寅彦の日記には次のようにある。「夏子より手紙きたる。先日、送りやりし泰西婦女亀鑑の礼や、夏の休暇の待たるる事やしたためたる末に、近来川田兄のしきりに伉儷を詮索される旨も書き添えたり」とある。伉儷(こうれい)とは夫婦の意。つまり寺田寅彦夫婦は両家公認ながら内密なものであった。その理由は、父親同士が陸軍仲間で夏子は不倫の子であり、祖母に育てられた夏子を幸せにしてあげたいという周囲のおもいやりからでたものという。寅彦の欠落した日記は結婚の経緯を秘密にしておくためだったと朝日新聞は推測している。明治32年東京帝国大学に入学した寅彦は夏子と東京での同居が始まり暮らし、明治34年に長女貞子も生まれるが、翌年の秋、僅か19歳で夏子は肺結核で亡くなる。(参考:牧村健一郎「愛の旅人・ハンカチ振る浜辺の妻」朝日新聞2008.1.12,寺田寅彦「天災と国防」)
最近のコメント