「論語=精神修養」を否定する説
野村克也が日中友好の架け橋として孔子と論語の精神普及に寄与したとして「2010孔子文化賞」を受賞した。ほかに渡邊美樹、酒井雄哉、北尾吉孝も受賞している。論語と経済界は相性がよい。渋沢栄一の「論語と算盤」もある。もともと論語は孔子が士大夫階級である士に講義したもので、治める者の修養であって、一般の民衆向けの内容ではない。論語は孔子の著作ではなく、弟子たちがまとめた言行録、そしてその成立は孔子の死後かなり経たものであろう。しかし、中国にかぎらず、朝鮮、台湾、日本といずれも論語と孔子の人気は根強い。東アジアでは論語の説く道徳は規範であり、正義とされている。四書五経の中でも最も読まれる書物である。
私たちは肉体だけで存在しているのではない。だが肉体には限界があります。年をとれば機能も衰え、弱ります。リハビリや鍛錬して一時的に活発にしても、時が来れば朽ち果てます。しかし、精神は修養を積むことによって、年齢に関係なく、長い年月あいだ人間として立派にいきていくことが出来ます。つまり精神修養=論語として、長い年月、漢字文明圏では論語が尊重されてきました。
あるブログを見ると或る小説家のかたで、論語を全否定している事例があれば教えてほしいとある。寄せられたコメントには、魯迅があげられていたが、ほかには見あたらなかった。実は私の貧しい書棚に「論語と孔子の思想」(岩波書店)がある。津田左右吉という有名な学者が書かれたもので、購入してから37年以上が経過するが難しいので通読していない。知らない人が一見すると、この本は、論語はすばらしい、と書いてあるものだと思うだろう。実はその反対である。津田は孔子のことを「学問的精神が欠けている」(429頁)、「礼は役にたたない」(395頁)、「(孔子の正確な記録は残っていないので)孔子のことは何もわからない」(294頁)とある。つまり実証主義的な史料批判に立つ津田左右吉は、孔子の思想は後世(漢代)のもので本当のことはわからない。そのようなわからないものを大事そうに持ち上げることは、うさんくい者が政治的に利用するだけだからよくない、といいたいのだと推測している。津田は偉い学者で、戦前に日本人によって唱えられた東洋文化、東洋精神もインチキであることを実証的に論証している。インド、中国、日本をアジアとか東洋とかいうが、一つになったことはない、「アジアはひとつではない」というのが津田の研究の成果である。もちろん当時の蓑田胸喜などのアジア主義者に反感を買い、辛い目にあった。それでも戦後も思想は一貫している。漢字をなるだけつかわず、自分の名前も「つだそうきち」と表記することが多い。「古事記及び日本書紀の研究」で神武以来の天皇の存在を否定したが、天皇は尊敬していた。学者の鑑のような人であるが、論語も否定し、唐詩も感心せず、「文学に現われたる我が国民思想の研究」という大著があるが、記紀の国民文学の価値を「余り高くない」と書かれている。つまり津田は懐疑論で多くの古典は後代の創作を含むのであまり信奉することの危険を説いている。もちろん実証過程が専門的なので、一般向きではないし、津田の学問的態度がすべて正しいとはいわない。しかし「孔子平和賞」や「孔子文化賞」などが次々生まれると、津田のいうことは正解だったと感じる。
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