賤ヶ岳の戦い
織田信長が京都本能寺で明智光秀に殺害されると、跡目相続をめぐって、光秀を討って声望を得た羽柴秀吉と、織田氏の老臣柴田勝家は、対立、戦闘状態にはいった。天正11年(1583年)、勝家は越前北荘の居城を発し、近江柳ヶ瀬の北方内中尾山に陣を進め、秀吉は近江木之本に陣を張って対峙した。4月16日、秀吉は神戸信孝をせめるため岐阜の支城大垣に向かった。しかし、勝家の部将佐久間盛政が中川清秀(摂津茨木城主)が守る大岩山の砦などを奇襲し、中川は討ち死にし、近江の戦局は急を告げた。そして、盛政は勝家のすぐ退却せよという命令を無視して、敵中の大岩山に居座ってしまった。寡勢の柴田軍が兵力を分散させていては不利である。秀吉はすぐに北近江に引き返し、21日には賤ヶ岳に盛政を破り、続いて勝家を北荘に走らせた。さらにこれを追撃して北荘をおとしいれ、ついに勝家を自刃させた。この賤ヶ岳の戦闘で華々しい活躍をし、羽柴軍を勝利に導いた秀吉輩下の若武者、福島正則、脇坂安治、加藤嘉明、加藤清正、平野長泰、片桐且元、糟屋武則、桜井佐吉、石河一光ら9人を賤ヶ岳七本槍という。七本槍と称しても実数で七人をさしてはいない。江戸の諸書では七名に数をそろえるため、たとえば甫庵「太閤記」では桜井・石河を省いている。(4月21日)
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お市の方が共に果て、浅井三姉妹が秀吉のもとに置かれることになった運命の戦でもありますね。その後の淀君、徳川二代将軍の正室となる2人の生涯ならば、女性達にとっても大きな分かれ目ですよね。
投稿: | 2014年4月20日 (日) 11時39分