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2024年4月30日 (火)

「鉄の意志の国」ベトナム

Photo   1975年のこの日、ベトナム戦争が終結した。ベトナムの歴史は外国の侵略に対する抵抗の歴史でもあった。紀元前2世紀、漢の武帝の侵略に始まる。交趾太守が置かれた。紀元40年、メリン県の有力者の娘として生れたチュン・チャク、チュン姉妹(微側、微弐)は反乱を起こした。光武帝は41年、馬援を派遣し、姉妹を捕らえて処刑し、中国支配が復活した。

  ベトナムを安南と呼ぶのは679年に唐が辺境統治のため安南都護府を置いたことに由来する。安南都護府は現在のハノイにあたって、ベトナム北部を治め、南海諸国を管轄していた。その後、ベトナム民族が中国から独立すると、自らを大翟越、大越、越南、大南などの名で呼ぶことがあったが、中国では依然安南の名を使い、他の諸外国もこれらにならった。安南の黎利(1385-1433)が1428年に明から独立し、大越と号す。黎朝は17代、18世紀末まで続く。1802年グエン(阮)王朝が成立し、1884年6月6日第二次フエ条約(パトノートル条約)によりフランスの植民地支配が始まった。その後、日帝植民地時代を経て、1945年の日本の敗戦でハノイでベトナム民主共和国の独立宣言がだされるが、翌年、フランスとのインドシナ戦争が勃発。1954年のジュネーブ協定で北緯17度線を境に南北に分裂する。ベトナム労働党(現共産党)は60年、南ベトナム解放戦線を創設。米軍がその後軍事介入し、1965年2月7日北爆が始まる。1968年3月16日、アメリカ軍兵士はクアンガイ省ソンティン県ソンミ村ミライ部落で504人の非武装のベトナム人住民を虐殺した。

長期戦後の1973年1月に和平協定が成立。76年に南北統一を果たす。当初、社会主義経済を進めていたが、生産性の低下が問題となった。1986年からドイモイ(刷新)政策が行われる。2009年から韓国のサムスンが電子部品の製造工場を稼働した。現在、ベトナムは韓国サムスン携帯電話の主要生産拠点となっている。

 数字にばかりこだわり物事の全体像を見失うことを「マクナマラ誤謬」という。この言葉の由来となったのが米国務長官ロバート・マクナマラ。神童と呼ばれたマクナマラはデータ分析を駆使してベトナム戦争に勝利しようとしたが、数値では測れないベトナム人の愛国心やアメリカ市民の反戦感情に目を向けず、300万人以上の犠牲者を出す泥沼の戦争を招いた。(4月30日)

 

安南通史 岩村成允 冨山房 1941
安南史研究 1  山本達郎 山川出版社 1950

火の用心

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    火災はいつ発生するかわからない。出火の原因は煙草などの不始末、漏電、飛び火、放火、落雷などの理由が考えられる。過去の有名な火事の原因を調べてもさまざまである。天智9年(670年)のこの日、法隆寺が落雷により全焼している。昭和25年11月18日、国鉄京都駅全焼。原因は駅構内の配電室から出火。昭和24年1月26日午前7時20分、法隆寺金堂の壁画が焼失した。電気座布団のスイッチの切り忘れが原因だった。2ヵ月前には石川県立図書館が類焼している。昭和23年11月15日午後11時50分に発生している。同年2月26日には強風によって東京永田町が火の海となる。新築したばかりの総理庁庁舎に延焼し多くの重要書類が失われた。昭和25年7月2日には金閣寺が炎上した。若い僧侶の動機には不明な部分もある。金閣寺に対するねたみ、とか、英雄死をとげるつもりが死にきれなかったとか謎である。この事件をすばやく三島由紀夫は小説「金閣寺」として発表し、「炎上」と題して映画化している。映画の中では、住職が戒律を犯して女色におぼれることを知り、堕落を意識するようになり、金閣寺に放火したことになっている。(4月30日) 参考:「京都の歴史10」京都市史編さん所

 

 

 

 

2024年4月29日 (月)

昭和の日

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 明治・大正・昭和・平成・令和・・・と元号は変わっていきましたが、昭和の建物や制度、映画や歌謡曲など、まだまだコンテンツとしてよく耳にし、目にします。日本人の総人口の割合では、明治・大正生まれが0.5%、昭和生まれが70.4%、平成生まれが27.5%、令和生まれが1.6%だそうです。

   昭和天皇のラジオ放送で、突然の敗戦を知らされた私たち親世代の気持ちはさぞかし複雑であったであろう。ある者は、「日本が負けるはずはない」「絶対にデマだ」と思い、ある者は「よかった。新しい出発点だ!」「ほっとした」と感じていた。

   しかし、敗戦は事実であり、戦争は終わった。廃墟と化した町からも、やがて、平和への願いをこめた再建のつち音が聞えてきた。

   だが、祖国のためにと信じて戦場に散った若者たち、戦争で肉親を失い、家を焼かれた人々、身一つで帰国した引揚者たち…戦争の傷あとは深かった。原爆症で今なお苦しむ人さえある。われわれは、二度と戦争を起こさず、未来の明るい幸福な社会を築くために、最大限の努力を傾けねばならない。

      *

未来の人間よ

君達こそ人間らしく生活してくれるだろう

愚かなことをくり返さずに

幸福に生活してくれるだろう

すべての人がよろこべるよう

働いてくれるだろう

         武者小路実篤

阿野廉子と隠岐

Photo_3  正平14年のこの日、阿野廉子が崩御する。阿野廉子は後醍醐天皇の后妃。恒良親王・成良親王・義良親の3人の子を産んでいる。後醍醐の隠岐配流の期間、阿野廉子は随行していたであろう。おそらくこの1年間に、生涯を結ぶきずなとなる愛情が2人の間にできたのではないだろうか。

  隠岐の月の出は遅く、あたりは漆黒の闇に包まれている。その間にまぎれるようにして、黒木の御所から慌しく一丁の輿が担ぎ出された。当然、御所警固の侍が怪しんで誰何する。駕籠から顔を出したのは廉子だった。日頃は取り澄ました廉子があでやかに微笑みかけて「ちょっと侍女のお産見舞いに行くところなの」と言う。どぎまぎした警固の侍はそれ以上の吟味もせず、うっかり通してしまった。ところがなんとその輿には、廉子とともに後醍醐が息を殺して身をひそめていたのだった。廉子の機転で後醍醐は無事、隠岐を脱出できた。廉子=悪女説は後世の創作と考えられている。(4月29日)

裕仁親王誕生と伊藤博文の辞任の謎

   1909年10月26日、伊藤博文はハルピンで朝鮮の抗日運動家、安重根によって暗殺された。伊藤は内閣制度の創設、大日本帝国憲法、皇室典範の制定、天皇制確立のために努力した。伊藤が閣内不統一を理由に内閣総理大臣辞表を提出したのは1901年5月2日。4月29日に裕仁親王(昭和天皇)が誕生してから僅か3日目のことである。つまり慶事の最中の辞任ということになる。昭和天皇の誕生年はどの本を見ても1901年である。しかし裕仁誕生はこれより1年前、1900年4月29日に生まれたとする説がある。二荒芳徳(1886-1967)は、裕仁は「1900年4月29日の夜」に生れたと書いている(「聖徳を仰ぎて」)。つまり男子誕生を確認してから、嘉仁皇太子(大正天皇)と節子は正式に5月10日、結婚したというのである。いまでいう「おめでた婚」、真偽のほどは明らかではない話であるが。この巷説はデイヴィッド・バーガミニの著書「天皇の陰謀」(1971年)にも記されている。

2024年4月28日 (日)

雨に濡れた通天閣

 「世の中でいちばんかなしい景色は雨に濡れた東京タワーだ」という書き出しで物語ははじまる。原作は江國香織。医大生・小島は、偶然出会った建築家・浅野詩史に魅了される。青年と人妻の許されざる恋というありふれた設定の恋愛ドラマだが、深夜時間帯にもかかわらず女性の間で静かなブームになっている。ダブルベッドの部屋の窓から東京タワーの夜景が美しい。これが通天閣だったらこんなにロマンティックにならないだろうが、雨に濡れた通天閣もやっぱ好きやねん。

留辺蘂(難読地名)

留辺蘂(るべし)町はかつて北海道網走支庁に存在した町。2006年に北見市・端野町・常呂町と合併し、北見市となった。蘂は雄しべと雌しべ。ずい。川端康成の小説に、「女の新しい髪が、花弁をもぎ取って蘂(しべ)だけになった芍薬のよう」(掌の小説)とある。


武華駅逓 旧留辺蘂町の重要史跡

演歌は滅亡するのか?

  日本の音楽のジャンルは一般に国内ロック・ポップスと歌謡曲・演歌に分けられる。大みそか恒例のNHK紅白歌合戦は、ここ数年、歌謡曲・演歌に大ヒット曲がなく、J・POP中心の番組構成になってきている。若者はいう「JAZZや演歌は今どきオワコンである!」と。しかしAKBや旧ジャニーズばかりのグループ&ダンス歌謡もつまらない。このような状況はお隣の韓国も似ているが、韓国にはトロットといわれる大衆歌謡がある。「トロット王子」といわれるパク・ヒョンビンやチャーミングな女性歌手ホン・ジニョンが人気があり、いまでもトロットの人気は衰えをしらない。日本の演歌界は演歌の女王八代亜紀が亡くなり淋しいかぎり。北島三郎、森進一、五木ひろしなど大御所はいるがみんなご高齢になったね。橋幸夫は昨年、潔く引退かと思いきや謝罪会見で撤回するという珍展開。氷川きよしも「Kiiina」と名乗り迷走しているがデビュー25周年「昭和歌謡史」を発売、復活の兆しをみせる。先日、韓国で日韓共同でNO1.歌姫を決定する番組があった。日本から東亜樹や住田愛子、かのうみゆ、福田未来などが出場し喝采を浴びた。ぜひ日本でもトロット・ガールズとして活躍してほしい。「冬のソナタ」を歌った「歌心りえ」とは、2004年に冬ソナ日本語バージョンをリリースしている。3人組音楽ユニットSptemberのボーカル・八塚りえのこと。

 

  さて、ここで問題です。日本で初めて「歌謡曲」と名づけられた曲は?

A 大正3年の「カチューシャの唄」

B 大正14年の「夏が来たかと」

C 昭和4年の「東京行進曲」

 「カチューシャの唄」は爆発的な流行を示し、いわゆる大衆流行歌謡のルーツになっているが、当時は「流行唄」「流行小唄」などと呼ばれていた。「歌謡曲」ということばがはじめて用いられたのは、大正14年7月12日に東京放送局の本放送が始まってからであり、その直後の7月27日に「夏が来たかと」など4曲(北原白秋作詞・町田嘉章作曲)が放送されたとき、町田嘉章がこれをはじめて歌謡曲と名づけたことから始まっている。昭和4年に西条八十作詞・中山晋平作曲・佐藤千夜子の「東京行進曲」がレコードになって、当時25 万枚という売行きを示したが、このころになると、この種の歌を「流行歌」というようになり、このあとぞくぞくと流行歌が大衆のあいだにうたよれるようになる。戦後になると、NHKなどの放送で、この種の流行歌をすべて「歌謡曲」というようになって、流行歌ということばの影がうすくなっていった。昭和30年代、美空ひばりや三波春夫などの活躍で歌謡曲の全盛時代を迎えたが、海外のヒット曲を日本語でカバーする和製ポップスも出現した。昭和40年代ビートルズの来日以降、GSブームやフォーク、ニューミュージックとさまざまなジャンルが区分されるようになり、旧来の歌謡曲は次第に「艶歌」「怨歌」「演歌」ということばが用いられるようになった。井沢八郎の「艶歌一代」(「ああ上野駅」のB面、1964年発売)。カラオケブームで昭和末期まで演歌のヒット曲は生まれたが、売り上げでは次第に衰退する。平成になると旧来の和製ポップスが「Jポップス」と呼んで若者たちに支持されるようになった。しかし新時代を迎え、ふたたび昭和歌謡の名曲をカバーする動きもみられる。また若者たちが好むアニメに演歌好きな女子が登場することもある。例えば村上巴(声:花井美春)「おんなの道は星の道」など。三山ひろし、山内惠介、福田こうへい、真田ナオキ、純烈など中堅演歌歌手のガンバリに期待したい。

 

 

 

来止臥

   演歌界の貴公子・山内惠介が歌う「風蓮湖」。「♩釧路、厚岸(あつけし)、霧多布(きりたっぷ)人もまばらなバスに乗る」、道東と言えば、阿寒湖、摩周湖などが有名だが、風蓮湖はあまり観光地化されていなくて、風情が感じられる。北海道には難読地名が多いが、とくに釧路町には読みにくい地名が多い。嬰児寄別(あっちょろべつ)、跡永賀(あとえか)、老者舞(おしゃまっぷ)、来止臥(きとうし)、去来牛(さるきうし)、宿徳内(しゅくとくない)、賤夫向(せきねっぷ)

 

 

 

「煌」人名に使える漢字


 テレビ朝日系ドラマ「6秒間の軌跡~花火師・望月星太郎の2番目の憂鬱」を楽しく観ている。こじらせ花火師・高橋一生の店の屋号は「望月煌火店」。読みは「もちづきこうかてん」。「煌」という漢字が気になった。輝くなど火が燃えている様子や光が広がっていく様子を表現している。「煌々(こうこう)」とか「煌(きら)めく)」とか平易な字であるが、常用漢字には含まれていなかった。親からの要望もあり、平成16年には人名用漢字として追加された。名前に「煌」を含む有名人は、人名用漢字として認められたのが20年前なので最近の人には見当たらないが、古い人ならいる。倉野煌園(江戸時代の画家)、山本秀煌(ひでてる。明治時代の牧師)。


桑港と洛杉磯

  1952年のこの日、サンフランシスコ平和条約発効記念日。なぜサンフランシスコは桑港と表記するのだろうか。もともとは桑方西斯果哥と宛てられたのが、略されたらしい。中国では「圣弗朗西斯科」と書く。ロサンゼルスはむかしの表記は「洛杉機」だったが、いまは「洛杉磯」(ルゥオーサンチー)が一般的。外国地名の漢字、読めますか。(当て字) 4月28日

 

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華盛頓   ワシントン

 

巴爾的摩 ボルチモア

 

特倫頓   トレイトン

 

費城(費府) フィラデルフィア

 

波土頓   ボストン

 

多倫多   トロント

 

芝加寿   シカゴ

 

密爾沃基  ミルウォーキー

 

印第安納波利斯 インディアナポリス

 

辛辛那堤   シンシナティ

 

哥倫布     コロンバス

 

亜特蘭大    アトランタ

 

梅肯       メーコン

 

杰克遜維爾  ジャクソンヴィル

 

新奥爾良    ニューオーリンズ

 

休斯敦     ヒューストン

 

奥斯汀     オースティン

 

阿爾伯克基  アルバカーキー

 

菲尼克斯    フェニックス

 

西雅日      シアトル

 

丹佛        デンバー

 

明尼阿波利朗  ミネアポリス

 

聖路易      セントルイス

 

哈里斯堡     ハリスバーグ

 

奥爾巴尼     オークバニ

 

金斯頓      キングストン

 

布法囉      バファロー

 

伊利        エリー

 

克利夫蘭     クリーブランド

 

哈密爾頓     ハミルトン

 

底特律      デトロイト

 

麦迪遜      マジソン

 

加里        ゲーリ

 

南本徳      サウスベント

 

皮奥里亜     ペオリア

 

里土満      リッチモンド

 

査爾維登斯   チャールストン

 

普囉維登斯    プロヴィデンス

 

波特蘭      ポーツマス

 

林奇堡      リンチバーグ

ミハイル・クトゥーゾフ

Kutuzov  レフ・トルストイの名作「戦争と平和」にも登場する帝政ロシアの軍人。若いころトルコ軍と戦い、片目を失った。ナポレオンのロシア遠征に対する戦争で総司令官となり、1812年ボロディノの戦いでは敗れたものの、冬期に入ってナポレオンをモスクワから撤退させた。翌年、従軍中に没する。(1813年4月28日没) 享年67歳。天才ナポレオンに勝利した国民的英雄だが、クトゥーゾフに対する評価はまちまちである。「片目のぐうたら、飲んだくれ、能無し」「消極的で臆病な老軍人」など。( keyword;Mikhail Kutuzov )

2024年4月27日 (土)

悪妻の日

Img_0005   「良妻に恵まれれば、幸福になれるだろう。悪妻を持てば哲学者になれる」本日はソクラテスの命日だが、悪妻の日でもある。文豪シェイクスピアの8歳年上のアン・ハサウェイも一般には悪妻として知られている。夏目漱石の妻はどうだろうか。 夏目漱石は第五高等学校(現熊本大学)の英語教師時代に、中根鏡子と見合い結婚している。「俺は学者で勉強しなければならないのだから、おまえなんかにかまってはいられない。それは承知していてもらいたい」といっている。夏目鏡子は通説では「悪妻」という評判であった。しかし2011年夏、古書市で鏡子の3通の手紙が発見された。明治43年の日付があり、漱石の修善寺大患の容態を心配したり、家庭のことや門下生のことを思いやる妻らしい面がみえる。鏡子は悪妻ではない。(4月27日)

クリフォード・ブラウン

 クリフォード・ブラウンはアメリカ出身の黒人ジャズ・トランペット奏者である。ブラウンの才能は早くから認められ、1954年にはブラウン・ローチ・クインテットを結成し、作品も多く残した。だが活動期間は僅か3年くらいで、1956年に自動車事故で早世する。「バーランドの夜」「いつかどこかで」「スターダスト」「煙が目にしみる」「ブルー・ムーン」「ジェニーの肖像」「慕情」「ローラ」。

智異山(「チ」事項索引)

[ ち ]

チングルマ

   「チンダル現象」閉め切った雨戸のすきまから入る日の光や、映写機からスクリーンへ送られる光が、ひとすじの明るい通路を示していることがある。その中には、無数のほこりのきらめきが見られる。光の通路が見えるのは、空間にうかぶ無数の微粒子によって散乱された光が目にはいるためで、真空中では見られない。このように、空気中・液体中にういている微粒子に光のたば(光束)があたって、その通路のかがやいて見える現象をチンダル現象といい、イギリスの物理学者ジョン・ティンダルが1850年頃に発見した。▽「地球温暖化」産業の発達によって人間活動が活発になり、二酸化炭素などの温室効果ガスが増えて、地球の平均気温が高くなること。▽「チーター世代」アフリカの次代を担う⒛~30歳代の若者たちの総称。欧米に留学し、ビジネスなどの経験を積んでアフリカに戻ってくる。チーターのようなスピードという意味からきている。▽「チチェン・イッツァ」メキシコのマヤ文明の遺跡。▽「チャコ戦争」1932年から35年まで、グラン・チャコの国境紛争によってボリビアとパラグアイ両国間に起こった戦争。▽「チャドウィック」ジョン・チャドウィック1920年ー1998年。イギリスの言語学者。マイケル・ヴェントリスとともに線文字Bを解読した。▽「チェサピーク湾」バージニア州とメリーランド州に入くんだ大西洋岸の溺れ谷で、複雑な海岸線をもちカキ養殖地として有名。▽「茶湯銭(ちゃとうせん)」宋代の茶代、弁当代の意味で、一種の職務手当。▽「智異山(ちいさん)」小白山脈の南部に位置する標高1915mの名山。李成桂が1377年倭寇を破ったことでも知られる。 ▽「チョウノスケソウ」バラ科の高山植物で名は発見者の須川長之助にちなむ。▽「チューリップ時代」オスマン帝国の1718年から1730年までを指す。チューリップ栽培が流行したことからこのように呼ばれる。▽「趙孟頫(ちょうもふ)1254-1322。元代の書家。▽「チョゴリ」裾の短い朝鮮の婦人用上着。▽「チョンガー(総角)」独身男の卑称。▽「チョモランマ」エヴェレストのチベット語名。▽「知恩院」法然の死後、その往生の地に営まれた廟に始まる。▽「値嘉島」古代、肥前国の五島と平戸島の称。古来、朝鮮・中国航路の要地に当り、遣唐使関係の記録にも多くみえる。▽「ちはやぶる(千早振る)」とは「勢いの鋭い」「あらあらしい」の意味で、和歌では「神」にかかる枕詞。▽「チャレンジャー号爆発事故」1986年ケネディ宇宙センターから発射されたスペースシャトルは直後に爆発し、7名の全乗組員が死亡した事故。▽「チンポー族」中国雲南省に分布するチベット系の少数民族。カチン族。▽「チャクリー改革」タイのラーマ5世による教育などの近代化政策。▽「チャンキロ遺跡」ペルーの砂漠にある紀元前300年頃の遺跡。▽「張居正」1525-1582。明代の政治家。▽「チョンピ一揆」1378年フィレンツェで起こった毛織物業者による反乱。▽「智異山」チリサン。大韓民国南部の全羅南道・全羅北道・慶尚南道にまたがる小白山脈の南端に位置する山。標高1915m。同国で最も標高が高い済州島の漢弩山に次いで2番目に高い山。古くから登山のメッカとして知られ、多くの登山客で賑わう。▽「チンアナゴ」ウナギ目アナゴ科に属する海水魚の一種。顔が犬の狆に似ていることからこの名がついた。(ちちちち)

 

屐(ち)  中国の木ぐつ、げた
血合肉 鮪、鰹、鰤などの身の黒ずんだところ
チアゾール
治安維持法
地域格差
ちいさな親切運動(1963年)
智異山  (韓国)
チェコ
チェサピーク湾
チェチェン・イチケリア共和国
チェチェン共和国
チェチェン紛争
チェッカー・フラッグ
知恵熱
チェバの定理
チェブラーシカ
チェーホフ
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チャド
チャドウィック
チャネケ(メキシコの妖精)
茶湯銭
チャベス,ウゴ(ベネズエラの大統領)
チャールズ1世
チャールズ2世
チャルディラーンの戦い(1514年)
茶屋四郎次郎
チャレンジャー号爆発事故(1986年)
チャン・イーモウ(張芸謀,映画監督)
チャンギ国際空港(シンガポール)
チャンキロ遺跡
20100408_1742918チャンチン(センダン科の落葉高木)
チャンドラグプタ2世
チャンドラセカール限界
チャンパ
中華民国
中国
中尊寺金色堂
チュニジア
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チューリップ時代
チュンダ(純陀)
調
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チョウノスケソウ
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チョンピの乱(1378年)
チリ
チリ鉱山落盤事故(2010年)
智異山
チンアナゴ
チンギス・ハン
チングルマ
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頂相
チンダル現象
陳朝
陳独秀
チンポー族
珍宝島(ダマンスキー島)
チンボラソ山(エクアドル)
陳和卿

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年4月26日 (金)

さらば友よ

126841091490516103286    歌謡コンサートのラストは森進一「さらば友よ」。題名からアラン・ドロン&チャールズ・ブロンソンの映画を想起させる。70年代から80年代にかけて、洋画や小説と同名の歌謡曲が次々と作られた。映画の題名には著作権が発生しないので、そこから歌謡曲のタイトルにつけてもOKとなって阿久悠らがヒットを連発し、一大ブームとなった。弘田三枝子「人形の家」や奥村チヨ「終着駅」が嚆矢であろう。これらを俗に「借り物歌謡曲」というらしい。野口五郎「甘い生活」、山口百恵「禁じられた遊び」、桜田淳子「黄色いリボン」、伊丹幸雄「青い麦」、平浩二「バス・ストップ」(ママリン・モンローの映画は「バス停留所」、井上順「昨日・今日・明日」、堺正章「街の灯り」、小川順子「夜の訪問者」、城みちる「いるかに乗った少年」(ソフィア・ローレンの「島の女」主題歌)、アグネス・チャン「草原の輝き」、沢田研二の「勝手にしゃがれ」。「時の過ぎゆくままに」は「カサブランカ」のオマージュであるし、久保田早紀「異邦人」はカミュやシルクロードからインスパイアーされている。松田聖子「青い珊瑚礁」もブルック・シールズ主演映画。



まもなく大型連休

 あすからゴールデンウィーク、最大で10連休となる。海や山、川へのレジャーを計画している人も多い。高速道路の渋滞にご用心。大型連休中は、ほとんどの医療機関が休診となるので高齢者にとっては不安な日々が続く。銀行、郵便局も休業。すべての国民が喜んでいるわけではなく、迷惑な季節と考えている高齢者層もいるだろう。そもそもゴールデンウィークとは何か。むかし「飛び石連休」などといっていたが、いろいろな法改正で振替休日などで9日から10日くらい連休がつながるようになった。ゴールデンウィークの呼称の起源は大映常務取締役であった松山英夫によって作成された宣伝用語といわれる。NHKでは商業的な色彩が強いことばとして原則「大型連休」を使うことにしている。ただし略語としてGWは使われている。ほんとうに、大型連休は必要なのであろうか。29日は「昭和の日」、3日が「憲法記念日」4日が「みどりの日」、5日が「こどもの日」。祝祭日の起源や由来はそれぞれ異なるが、大型連休導入の真のねらいは経済効果である。昭和は百貨店での買い物、近郊の遊園地への行楽、近くの公園や山へのハイキングなどの日帰り旅行が一般的であった。近年になって大型イベントや海外旅行も盛んとなり、大きな経済効果を生み出すビジネス・チャンスとなっている。しかし、人間や人間の組織、マネーを基本にした社会のしくみだけで祝祭日を本来の意味からすり替えてよいものであろうか。祝いの由来や起源をしっかりと周知することが大切ではないだろうか。



この名画はジャンヌ・ダルクではない

Marianne20de20delacroix 1798年のこの日、19世紀フランスのロマン主義を代表する画家ウジェーヌ・ドラクロワはパリ近郊のシャラントン(現在のサン・モーリエ)に生まれた。フマキラーのゴキブリ革命のCMには、教科書にも載っているドラクロワの有名な絵画「民衆を導く自由の女神」が使用され、「フランス革命」というナレーションがつけられる。これは大きな間違いである。フランス革命より40年くらい後の1830年7月27日に起こった七月革命に想を得て描かれた作品である。もっと酷いのはジャンヌ・ダルクに間違われることがある。広瀬すずの ドラマ「学校のカイダン」第7話。謎の男、雫井彗を演ずる神木隆之介がドラクロワの絵を指して「ジャンヌ・ダルクも下からのし上がってきた」と説く。このドラマには仏百年戦争の英雄ジャンヌ・ダルクの名前がしばしば引き合いに出される。ジャンヌ・ダルクにしては乳房が豊満すぎるし、百年戦争当時はまだフランス国旗や銃はなかった。ルーヴル美術館にあるこの絵画を観て、なぜかジャンヌ・ダルクだと勘違いしている日本人観光客は多いという。三色旗を持っている女神は、フランスという国家自体を擬人化したマリアンヌという架空の人物といわれる。一説によると、戦闘で弟を失い、仇を討とうと奮戦したアンヌ・シャルロットという洗濯女の伝説をモデルにしているともいわれる。なおミュージカル「レ・ミゼラブル」で描かれる暴動もフランス革命ではなく、この六月暴動と七月革命である。(4月26日)

 

 

 

 

 

名前に「平」がつく意味は?

 名前は親からの最初のプレゼントとはよく言ったものだ。子供の名付けには親は相当苦労するが、愛情と子供へのさまざまな願いが込められている。そこでつねづね疑問に思っていたのだが、「大谷翔平」選手の名前の「〇平」というのはどのような意味が込められているのか?「翔」という漢字はついては、人名漢字に採用され、「翔ぶが如く」「翔んだカップル」など社会的な流行語にもなっていたので分かるが、「平」というのは謎が残る。漢字の意味は、①たいら。ひらたい ②ふつう。なみ。とくに親が子供に「ふつう」「なみ」であれ、と願うのは少し合点がいかない。そもそも「〇平」という名前からは、「鬼平」「三平」「陳平」「鯉名の銀平」「茂平」のように時代劇っぽい、古臭くてどこか間抜けな感じがする。落語家や漫画家に多い。(岡本一平など)「平成」という元号になってから「〇平」は増加したのだろう。親たちはバブル期80年代頃に青春を謳歌していた世代であろう。テレビで「路線バス乗り継ぎの旅」の再放送を見ていてふと気付いたことがある。太川といえば「レッゴーヤング」サンデーズである。白いセーターを着て女子たちと軽快にダンスを踊っていた。NHKがスクールメイツをヒントに新しい若者像を演出していた時代である。ひかる一平、渋谷哲平、みな「〇平」が名前につく。近所の親しみやすいお兄さんという新しいイメージを持たれるようになったのではないだろうか。筒美京平、椎名桔平、野村周平、溝端淳平、松下洸平とつぎつぎと好感度の高い有名人が現れるにつれて、「〇平」の印象もグッとアップしていった。

よい風呂の日

Photo_7_2 児(こ)の眼澄むや雪の風呂屋の籠の中

 中島斌雄、昭和22年作。銭湯脱衣場風景。外は雪の降りしきる寒い昼だが、ここばかりはあたたかい湯気を立ちこめさせている。寒い日は風呂であったまるのがいいですね。4月26日は語呂合わせで「よい(4)ふ(2)ろ(6)の日」。太宰治は、東京のアパートの窓から見る富士山をクリスマスの飾り菓子といい、天下茶屋から見た富士山を「風呂屋のペンキ絵」と言った。「おあつらえむき」にできすぎて「恥ずかしく」俗な富士であると短編小説「富獄百景」で書いている。太宰独特のユーモア精神と通俗的な権威に対する反抗心でもある。銭湯に富士山の絵が多いのはなぜか?

    都会の銭湯にペンキ絵が現れたのは大正になってから。大正元年、神田猿岩町にあるキカイ湯の店主、東雄三郎が子どもが喜んで銭湯に入れるようにと思い、川越広四郎画伯に依頼した。静岡県掛川市出身であった川越は子供の頃から親しんでいる富士山の絵をペンキで描いたのが始まりという。やっぱり富士山と銭湯はお似合いでキカイ湯は大繁盛し、全国各地でこれを真似た銭湯がつくられた。太宰のあの有名な言葉「富士には、月見草がよく似合う」という言葉は聖書の「マタイによる福音書」のソロモンの栄華と野の百合の対比を想起させる。だが太宰の欧米での文学評価のイマイチなのは、聖書からの引用が作品に深みを与えていなという指摘がなされていることにあるようだ。ドナルド・キーンも太宰が私生活でどの程度までキリスト教を信仰することができたか懐疑的であると述べている。海外では聖書の成句をヒントにした小話は文学的な深みを感じさせないようである。

 

 

2024年4月25日 (木)

西舘

 巨人のルーキー、西舘(にしだて)勇陽投手が10試合連続ホールドの新人記録(中日の田島が持つ記録)に並んだ。ところで西舘姓の「舘」は、常用漢字にはない。俳優の「舘(たち)ひろし」もこの漢字を使用している。「舘」は「館」の異体字。

 

ペンギンの語源

71567764b155b98891a67f8d622d2124  本日は「世界ペンギンの日」。南極大陸のアデリーペンギンが、夏の繁殖後に海に移動する途中、毎年この日前後にマ

クマード基地を通過することから、ペンギン研究者が制定。ペンギンの語源はラテン語ピングウィス pinguis(肥満)に由来する。それがスペイン語の「太っちょ」を表わすピングウィーゴ penguigoが生まれ、16世紀に英語圏に入ってペンギン penguinになった。他説として、「白い頭」を意味するウェールズ語から生まれたとする説もある。本来、北半球で「ペンギン」と呼ばれていたオオウミガラス(現在は絶滅)の頭が白いからである。1586年トーマス・キャベンディッシュが世界一周した際にアルゼンチン南端のフエゴ島に上陸したウェールズ人がペンギンを見て「ペン・グィン pen gwyn」と呼んだのが語源といわれる。

  松井簡治(1863-1945)は1日33語を作業の目標として、20余年の歳月をかけて「大日本国語辞典」を完成した。「オックスフォード英語大辞典」の編者ジェームズ・マレー(1837-1915)の目安も同じく1日33語だった。たぶん3日坊主に終わるかもしれないが、1日33英単語を覚えよう!(4月25日)

 

alligator        ワニ

 

bat       コウモリ

 

beetle     カブトムシ

 

chick     ひよこ

 

cockroach   ゴキブリ

 

cricket      こおろぎ

 

dolphin      イルカ

 

donkey      ろば

 

duck       あひる

 

fly        ハエ

 

frog       かえる

 

giraffe      キリン

 

goat       やぎ

 

gorilla      ゴリラ

 

grasshopper  キリギリス

 

hen        めんどり

 

hipopotamus  かば

 

insect      昆虫

 

kitten       子猫

 

ladybug     てんとうむし

 

lark        ひばり

 

mole        もぐら 

 

mouse      二十日鼠

 

ostrich      ダチョウ

 

owl        ふくろう

 

parrot       オウム

 

peacock     くじゃく 

 

pigeon       鳩

 

puppy                子犬

 

raccoon dog   たぬき

 

rooster      おんどり

 

stork        コウノトリ

 

ptarmigan  ライチョウ

 

small owl          コノハズク

 

grebe              カイツブリ

 

shrike              モズ

 

cuckoo            ホトトギス

 

Japanese  nightingale ウグイス

 

skylark            ヒバリ

 

phesant           キジ

 

sea gull           カモメ

 

thrush            ツグミ

 

albatross            あほうどり

 

eel                    うなぎ

 

earthworm    みみず

 

firefly       ほたる

 

flea        のみ 

 

frog        かえる

 

gecko       やもり

 

gnat        ぶよ

 

tarsier      メガネザル

 

newt        イモリ

 

lizard       トカゲ

 

gecko               ヤモリ

 

cobra                コブラ

 

chameleon        カメレオン

 

iguana               イグアナ

 

soft-shelled turtle スッポン

 

reindeer             トナカイ

 

parrot                  オウム

 

squid                   イカ

ギロチンの日

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  1792年のこの日、のちにフランス国歌になる「ラ・マルセイエーズ」が作曲された。同じ日、フランス国民会議で、断頭装置ギロチンが正式処刑道具として採用することが採択された。その呼び名は解剖学者ギロチンに由来するといわれる。しかし、これは事実ではない。断頭装置は少なくとも13世紀からすでに存在していた。ギロチンは機械的な装置を使用することによって受刑者に無駄な苦痛を与えず、人道的な処刑を行うように、議会に提案した人である。処刑具の開発には関わっていない。ギヨタンから名前をとったギヨチーヌGuillotine(ドイツ語読みでギロチン)が広まった。一般にはギヨチンがギロチンを発明したかのような印象がある。正確はジョゼフ・ギヨタン(1738-1814)という医師とギロチンとは別で、ギロチンとは「ギヨタンの息子」を意味する。彼の親類は、この機械に名前を使用することをやめてくれるように政府に依頼したが、この言葉が広く認知されてしまったので、やむなく姓を変更したという。フランス革命まで、首をはねる死刑は貴族に限られていたが、ギロチンの発明が王侯貴族(ルイ16世とマリー・アントワネット)ばかりか、ダントンやロベスピエール、一般人もその対象になった。死刑執行人は代々「ムッシュ・ド・パリ」と呼ばれて、担当を格式を持っていた。1967年9月10日、フランスで最後のギロチンによる死刑執行が行われた。1981年、ミッテラン大統領の提案に基づき、ギロチンの使用中止が提案された。ギロチンだけでなく、死刑そのものが廃止され、フランスは西ヨーロッパの大半の諸国と並んで死刑のない国になった。(4月25日)

 

 

2024年4月24日 (水)

「晨」人名に使える漢字

晨 「晨」という漢字は戦前は人名に使われていたが、一時期人名に使われなくなり、1990年4月から再び人名用漢字として認められるようになった。「あした」「とき」「シン」「ジン」と読み、とてもさわやかないい漢字である。男子の名前が多く、「忠晨(ただとよ)」「晨之助(しんのすけ)」など。「晨」を含む熟語に「晨鶏(しんけい)」夜明けを告げるニワトリの意味。

「晨」を含む著名人には、青地晨(社会評論家)、嶋岡晨(詩人)など。

 

植物学の日

Makino20sai  文久2年のこの日、植物分類学者の牧野富太郎が、土佐国高岡郡佐川村西町組101番屋敷(現・佐川町)に生まれた。生家岸屋は名字帯刀を許された酒造業と雑貨商を営む裕福な商家である。幼少から父母を失い祖母浪子の手で養育された。明治7年、佐川町に小学校が開校されたので、下等一級に入学した。しかし授業に飽き足らず、明治8年退学。これが、彼が受けた正規の学校教育のすべてである。

    この逸話は小学校を退学したころの話。その頃、近くに住む西村尚貞という医師が小野蘭山の「本草綱目啓蒙」の写本を数冊持っていた。富太郎はたのんでこれを借り、行燈の灯の下で、一心にこの端本を筆写した。この苦心して写した写本をたよりにして、採集してきた植物と照合し、名前を考定してみたが、それらの端本では、ないものが多くて用をなさなくなっていた。なんとかして、完本がほしいと祖母浪子に願ったところ、すでに富太郎の才能を見抜いていた浪子は、高価な「重訂本草綱目啓蒙」全20巻を、すぐに町の洋物屋の鳥羽屋へ命じて、大阪から取り寄せてもらった。牧野少年の喜びと感激は生涯忘れぬものとなった。祖母浪子は、牧野富太郎が26歳の明治20年5月6日、78歳で没した。(4月24日)

アメリカ議会図書館

 1800年4月24日、アメリカ議会図書館が設立される。略称はLC。蔵書数3200万冊、世界最大規模の図書館。1814年ワシントンを攻略したイギリス軍が議事堂に火を放った際に、蔵書はほとんど失われたが、1815年ジェファーソンの蔵書約6000冊を購入し、これを核にして再建された。その後1825年と1851年にも火災に遭い、1897年に現在地に移転した。蔵書の増加に伴って、1939年に別館が開設され、1980年に新館マディソン・ビルが完成した。1899年3月から40年間在任した第8代館長ハーバート・パトナムの時代に、資料・整理・サービスのあらゆる面において整備拡充された。日本の国立国会図書館は、1948年にこのLCをモデルとして造られた。( keyword;Library of Congress,Herbert Putnam )

 

 

2024年4月23日 (火)

始皇帝と郡県制

  中国で周の「封建」にたいして秦の統治方式を「郡県」という。周は、殷を滅ぼしたのち一族および功臣に土地人民を分け与え、その封国あるいは封邑の領有をそれぞれの子孫に相続させたのにたいして、秦の始皇帝は天下統一すると、すべての土地人民を自分一人で領有し、中国全土を36の郡に分け、郡をいくつかの県に分け官吏を派遣して郡・県を統治させた。郡県制では、行政官として郡に守、県に令を派遣する一方で、尉に軍事力を掌握させ、守への権力集中を防ぎ、そして監により守と尉を監察して、すべての権力が皇帝に集まるようにした。さらに、最も権力が集中しやすい郡の行政官の守には、県令を所属させず、それぞれ別々に皇帝に直属するようにさせたのです。こうして郡県制は、こののち隋・唐より州県制と名前を変えながらも、基本的な仕組みは、宋でも形成され、清まで継承されました。二千年続く中国の皇帝支配を支えたものは、郡県制なのです。以下書きかけ



三国干渉問題

    最初の本格的な対外戦争である日清戦争に勝利し、下関講和条約調印した日本であったが、明治28年のこの日、露・独・仏が遼東半島の清への返還の勧告、いわゆる三国干渉が起こり、同年5月10日、日本は遼東半島を清に還付、同年11月8日に調印し、世論は沸騰した。このときの国民協会の『報告』で、党派の異同をこえて挙国一致し、「勤倹以テ薪ニ臥シ胆ヲ嘗メ大ニ国力ヲ養成シ盛ニ軍備ヲ拡張シ以テ速ニ其準備ヲ整ヘザル可カラズ」と、当時さかんにとなえられた「臥薪嘗胆」の必要を説き、国力の充実と軍備拡張という、国民協会ほんらいのスローガンを高唱している。

    こうして国民各層のなかに遼東還附への無念の思いは、西洋列強の力のまえに屈服させられた屈辱感となり、それは政府や新聞・雑誌がとなえる「臥薪嘗胆」の合言葉のなかに容易にみちびかれ、日清戦争後にはじまる膨大な軍備拡張を中心とする、いわゆる戦後経営を受容する素地をつくらせたのである。(4月23日)

 

 

 

スズランの毒

  釣り鐘状の小さな白い花をつけていい香りがするスズランだが、可愛い花には毒がある、有毒性の成分を含んでいる。20世紀の終わり、ドイツのオスターマーケンという町で3歳になる養女が、のどが渇いたのスズランを挿したコップの水を飲んで死亡した例がある。スズランに含まれる有毒成分は30種を超えるが、その多くはま心臓への影響を持つもので、中でもコルバラトキシンは致死傷がおよそ18mg前後という強力なものである。

 

東北六魂祭

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 鉄道やバスの交通機関が発達しているとはいえ、東北の自然は大きく、しかも中央に南北に長くのびた奥羽山脈が連なっいるため青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島と各県それぞれの歴史と文化が大きく異なる。奥羽山脈を境にして、太平洋側の気候と日本海側の気候に分けられる。太平洋側は、初夏から夏にかけてやませが吹くと気温が下がり、冷害がおこることがある。一方、日本海側は春や夏にフェーン現象がおこり、高温になることがあるが、冬は北西の季節風の影響で雪が多く降る。東北の早期復興を願って開かれる東北六魂祭。六魂祭とは、青森ねぶた祭、秋田竿灯まつり、盛岡さんさ踊り、山形花笠まつり、仙台七夕まつり、福島わらじまつり。各地の伝統行事についてくわしくみていこう。

2月 横手かまくら

4月 天童・人間将棋

4月 弘前桜まつり

6月 盛岡・ちゃぐちゃぐ馬こ

7月 出羽三山花まつり

7月 恐山大祭

8月 青森・ねぷた祭

8月 秋田・竿灯

8月 花笠祭

8月 仙台・七夕

8月 松島・燈籠流し

9月 花巻祭

9月 会津白虎祭

10月 二本松提灯祭

12月 羽黒山松例祭

 

 

自己啓発

   図書館に勤めていた頃、夏になると子どもたちから「自由研究の本はない?」とよく聞かれたことがある。夏休みに毎年自由研究という宿題がだされる。子どもも親もこれが一番悩まされるらしい。自由なんだから、本人がなんでも興味のあることを研究したり、調査したりすればいい。ところが特になんにも興味がないけど、とりあえず宿題だからしなければいけない。世の中には、この問題のために「自由研究〇年生用」という本がででいる。自分自らのアイデアではなくて過去の人が創意工夫したアイデア集、つまりアンチョコである。利用者は『自由研究』と書かれた本であれば、中味の良し悪しにかかわらず納得する。もっと他に理科や工作や社会科の本でもユニークな自由研究のヒントになる本はいっぱいあるのに、それらの本には見向きもしない。そういう子どもはたいてい親がついてきて、親自らが「自由研究」のサンプル集でないと気に入らないことが多い。

   これと似たことは、大人にもある。「自己啓発の本はないですか」とたずねられる。企業向けの自己啓発といわれる本は世の中にたくさんでているだろう。そういう人もやはり本の題名に「自己啓発」という文字がないと気にいらないようだ。学ぶ心、というよりも、なんでも簡単にマニュアル本で済ましてしまおうとする現代人の安易な姿勢がみえてくる。松下幸之助に次の言葉がある。

学ぶ心さえあれば、万物すべてこれわが師である。語らぬ石、流れる雲、つまりはこの広い宇宙、この人間の長い歴史、どんなに小さいことにでも、どんなに古いことにでも、宇宙の摂理、自然の理法がひそかに脈づいているのである。そしてまた、人間の尊い知恵と体験がにじんでいるのである。これらのすべてに学びたい

                       

寺田屋事件

Teradaya_01   文久2年のこの日、有馬新七ら薩摩藩尊攘派が惨殺された寺田屋事件があった。寺田屋といえば文久2年の歴史的事を一般に指すが、それから3年後の慶応元年、坂本龍馬が幕府から襲撃され無事脱出した事件も寺田屋事件とよばれる。つまり文久2年と慶応元年の2つの寺田屋事件があったことになる。近年、龍馬ブームから寺田屋事件=龍馬襲撃事件と誤解する人も多い。京都伏見に寺田屋という観光スポットがある。中には龍馬やお龍、お登勢の写真が飾られている。刀痕のある柱や、お龍が龍馬に裸で追っ手を知らせる時に上った階段、昔の風呂場なども展示されている。だがこれらはすべて本物ではない。寺田屋は鳥羽伏見の戦いで全焼しており、現在の建物は明治になって再建されたものである。西村天囚は「寺田屋は、伏見の兵火に焚けしかば、家の跡を取払ひて、近き此処に銅碑を建て、寺田屋は其西に建てけり」(紀行八種、明治32年刊)とある。つまり現在の寺田屋は再建されたもので、展示品はレプリカであろう。経営者の安達清が昭和37年頃にこの古い建物を買いとり、龍馬ブームに便乗して旅館経営と観光地化を狙ったのであろう。(4月23日)

 

 

ビールの歴史

Fc852665a8481518dfb43de74b3c9b62   職場の同僚や仲間たちが集まって飲み会をするときは「先ずはビール」がお決まりである。ビールは世界中でもっとも親しまれている酒であろう。ビールの起源はメソポタミアや古代エジプトにまでさかのぼる。11世紀後半になるとホップを使った美味しいビールがつくられ、中世ドイツでビールの醸造がさかんになった。ところが品質の悪いものビールが横行するようになり、バイエルン公ウィルヘルム4世が1516年のこの日に「ビールは麦芽・ホップ・水・酵母のみを原料とする」というビール純粋令が発布され、品質が向上した。1935年1月24日アメリカのクルーガー社が世界初の缶入りビールを発売した。日本人による醸造は、1853年に蘭学者の川本幸民が江戸で醸造実験を行ったのが最初とされる。明治初年から輸入され、中期にはいくつものビール会社ができた。しかし、ひろくビールが飲まれるようになったのは大正期からであり、サラリーマンの時代の到来とともに社交に欠かせない飲み物となった。(4月23日)

2024年4月22日 (月)

ゴッホはどのようにして評価されていったのか

ホフマンスタール

 

Photo_7   1901年、フーゴ・フォン・ホフマンスタール(1874-1929)はパリのラフィット街の画廊で初めてゴッホの作品と出会った衝撃を次のように書いている。

 

わたしはそれらの力強い、激しい存在の信ずべからざる奇蹟に衝撃をうたれた。樹木、黄色や緑色のいい地面、垣根、石だらけの丘にうがたれた道、錫の水差し、焼物の鉢、テーブル、粗末な椅子のおのおのは新しい生命そのものであった。それらは無生命の恐るべき混沌から、また無存在の深みから出てわたしの方へ向かって立ち上ってくるのであった。わたしは感じた。いやわたしは悟った。これらの被造物は全世界に絶望したかのような恐るべき懐疑から生れたものであり、その存在は虚無の醜悪な裂け目を永遠にうかがっているということを、わたしは、これらすべてを創った人、また恐るべき懐疑の死の痙攣から逃れるためにこの映像によって自らに答えたその人の魂をいたるところに感じた。(1901年5月26日付の手紙、「散文集」所収)

 

    ヴィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、1890年7月27日、ピストル自殺を図り、29日午前1時半死亡した。弟のテドルス・ファン・ゴッホは画商のデュラン・リエルにゴッホの展覧会の開催を願ったが断わられる。このころゴッホの芸術を理解しているゴーギャンもエミール・ベルナール宛の手紙で「世間に馬鹿にされるだろう。時宜を得ていない。多くの人はゴッホの絵を気ちがいざたという。ゴッホのためにもならない」と書いている。

 

    ゴッホが死んでから半年後の1月21日、弟テオも死ぬとテオ未亡人ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(1862-1925)の世話でアムステルダムでゴッホ展が開催された。1896年、オーギュスト・フェルメーレンはオランダのフローニンゲンでゴッホと作品について講演をした。1896年、ゴーギャンはダニエル・ド・モンフレー宛ての手紙に「ゴッホの作品は値を安くすれば容易に売れる」と書いている。1900年画商のアムブローズ・ヴォラールは医師レーから鶏小屋の穴ふさぎにしていたゴッホの絵を150フランで買った。1901年3月、パリのラフィット街のベルネーム・ジューヌ画廊でゴッホの回顧展が開催される。展覧会場を出ながらブラマンクはマチスに語った。「わたしは親父よりゴッホが好きだ」。同じくフーゴ・フォン・ホフマンスタールは、この未知の画家に異常にほど魅かれた。そして1905年からオランダのアムステルダム国立美術館で大回顧展が開かれてから、ゴッホは評価されるようになっていく。アメリカの小説家アーヴィング・ストーン(1903-1989)はゴッホの芸術と生涯にふかい感動をうけ、「人生への情熱」(1934)を著し、好評を博した。3年後には「ゴッホ伝」を著し、ゴッホの「炎の人」としてのイメージが世界中に定着していく。

 

 

リーゼガング現象

 ゼラチンのようなゲルの中に電解質を溶かしておき、それに反応する電解質をゲルの中に1箇所に置くと、その電解質はゲル中に拡散して反応生成物の沈殿を生ずるが、沈殿は均一にはおこらず、間隔をおいて周期的に生じる。1896年、ドイツの化学者ラファエル・エデュアルト・リーゼガングが発見したのでこの名がある。

自然界の模様にもリーゼガング現象がみられる

ロンドン観光

 テムズ河に架かるタワーブリッジは1894年6月30日に開通した。いつかロンドン観光をゆっくりしてみたい。まずロンドンという地名の語源について、イギリスでも定説はないそうだ。紀元前43年、ブリタニアを占領したローマ人がテムズ川北岸に交易所ロンデニウムを設置した。だがこれはローマ人がつけた地名ではなく、おそらくケルト語の一種である古代アイルランド語のロンド(「野性味のある」「勇敢な」)が、人名か部族名に用いられて、ロンデヌスになり、その形容詞形ロンデニウムが地名になったと推定される。

  「ロンドンに飽きた者は、人生に倦きた者だ」といったのは18世紀の文学者サミュエル・ジョンソン博士の名言だが、ロンドンの街は大英帝国のおもかげを今に残しながら、ビートルズからローリングストーンズ、ミニスカート、パンク、とここで生まれた音楽やファッションはつねに時代をリードしている。観光地もバッキンガム宮殿の衛兵交代式、ロンドン塔、タワー・ブリッジ、英国国会議事堂のビッグベン、セント・ポール寺院、トラファルガー広場、ハイドパーク、ピカデリーサーカス周辺といった有名なスポットから、ロンドン・アイの観覧車、サザーク地区にあるバラ・マーケットまで見所が豊富である。Borough Market、

 

偶然に発見されたブラジル

  南米ブラジル(Brazil)の面積は851万k㎡で、日本の約23倍、世界5位の大国である。現在、経済発展の著しい国をそれぞれの頭文字をとってブリクス(BRICS)と呼んでいる。Bはブラジル。

   ポルトガル王マヌエル大王は1500年3月、ペドロ・アルヴァレス・カブラル(1467-1520)を艦長とする13隻の艦隊をインドに派遣した。途中、嵐にあって西へ大きく流されて、4月22日、予想もしていなかった陸地を発見し、現在のブラジル北東部、バイーア州ポルトセグーロに漂着。これがブラジル(ポルトガル語でBrasil)だった。大西洋はインド洋につながっているであろうという予測はあるので、カブラルは意図的に西へ進路をとったという説もある。カブラルは本国へ報告のために帰港させた船の積荷の一部に赤色染料の木パウ・ブラジル(別名ブラジルボク)があったので、その木に因んでこの地がブラジルと呼ばれるようになったとある。また一説にはパウ・ブラジルが炎々たる赤色だったので、ポルトガル語の「brassa(赤熱した)」から植民地名に使ったともされる。ボルガルは当初あまりブラジルに関心を示さなかったが、フランス人などがブラジル海岸を嵐らし始めたため、アルフォンソ・デ・ソーザを派遣し、1532年ブラジルの最初の植民市サンビセンテを創設した。

 

 

 

 

2024年4月21日 (日)

「楓」人名に使える漢字

 Jリーグ・東京ヴェルディ所属のサッカー選手に山田楓喜(ふうき)がいる。「楓」の漢字は通常「フウ、かえで」と読み、常用漢字でないが人名用漢字として認められるようになった。熟語としてはあまり多くない。「楓宸」(ふうしん)とは天子のいる宮殿のこと。漢代、宮殿に楓を植えたことから。ほかに唐の張継の漢詩「楓橋夜泊」が名高い。

 

兵庫県芦屋市長選で北村春江さんが当選(1991年)

  平成3年のこの日、兵庫県芦屋市で弁護士の北村春江さんが当選、全国初の女性市長が誕生した。3期12年を務めたが、平成13年、震災復興費にまつわる土地区画整理事業で旧建設省から出向していた助役が汚職事件で逮捕された。(4月21日)

賤ヶ岳の戦い

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    織田信長が京都本能寺で明智光秀に殺害されると、跡目相続をめぐって、光秀を討って声望を得た羽柴秀吉と、織田氏の老臣柴田勝家は、対立、戦闘状態にはいった。天正11年(1583年)、勝家は越前北荘の居城を発し、近江柳ヶ瀬の北方内中尾山に陣を進め、秀吉は近江木之本に陣を張って対峙した。4月16日、秀吉は神戸信孝をせめるため岐阜の支城大垣に向かった。しかし、勝家の部将佐久間盛政が中川清秀(摂津茨木城主)が守る大岩山の砦などを奇襲し、中川は討ち死にし、近江の戦局は急を告げた。そして、盛政は勝家のすぐ退却せよという命令を無視して、敵中の大岩山に居座ってしまった。寡勢の柴田軍が兵力を分散させていては不利である。秀吉はすぐに北近江に引き返し、21日には賤ヶ岳に盛政を破り、続いて勝家を北荘に走らせた。さらにこれを追撃して北荘をおとしいれ、ついに勝家を自刃させた。この賤ヶ岳の戦闘で華々しい活躍をし、羽柴軍を勝利に導いた秀吉輩下の若武者、福島正則、脇坂安治、加藤嘉明、加藤清正、平野長泰、片桐且元、糟屋武則、桜井佐吉、石河一光ら9人を賤ヶ岳七本槍という。七本槍と称しても実数で七人をさしてはいない。江戸の諸書では七名に数をそろえるため、たとえば甫庵「太閤記」では桜井・石河を省いている。(4月21日)

 

 

2024年4月20日 (土)

郵政記念日

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 楽浪出土の封泥

 

    4月20日は「郵政記念日」。昭和9年、逓信省によって「逓信記念日」と制定されたことに因む。手紙を運ぶ郵便制度は1635年にイギリスでできたが、通信の歴史は人間の歴史とともにある。最も古い記録では前1500年頃、古代エジプト第12王朝時代にすでに手紙を運ぶ飛脚を職業とする者がいた。しかし郵便が一定の組織をもち定期的な通信を行うように制度化されたのは、古代アケメネス朝ペルシアの駅制である。この駅制はアンガライオンと呼ばれた。前500年代にキュロス王が創設し、ダレイオス王が完成したこの駅制は広大な版図内に首府を中心として一定の距離に宿泊所を設けて、馬と馬丁を置き、騎馬による継走によって手紙を運ぶという通信機関であった。ペルシアに劣らず古い郵便制度をもっているのが中国である。周代の頃からあると推察されるが、漢の時代に整備された。のちに封泥が発見された。信書としてしたためた木簡に発送するとき封緘をした。それは木簡を縄で縛り、そのうえに泥を押しつけ、泥のうえに印を押捺する。封緘に用いられた泥だから封泥とよばれた。従って封泥のウラ側には縄のあとがくぼんで見られる。郵便物は郵亭をリレー式に運ばれた。angaraion

佐川満男さんを悼む

 12日、歌手の佐川満男さんが死去した。享年84歳だった。現在は味のある脇役俳優と知られているが、スタートはアイドル歌手であり、デビュー曲は「二人の並木道」(昭和35年)。アメリカのヒット曲を日本語にカバーした和製ポップスが流行していた。昭和33年2月に渡辺プロダクションが日劇ウェスタン・カーニバルを開催したところ大成功を収めた。平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎がロカビリー三人男と呼ばれた。それに続く第二世代が清野太郎、飯田久彦、藤木孝、佐々木功、鹿内タカシなど。関西出身の佐川ミツオもロカビリーと流行歌をミックスした独特な節回しでヒットを連発した。「背広姿の渡り鳥」「太陽に向かって」「無情の夢」おりから各家庭にテレビが普及する時代で、音楽番組も多く佐川ミツオは引っ張りだこだった。歌手・佐川満男を再評価したい。

 

「靭」

 大阪市西区に靭(うつぼ)公園がある。「靭」という漢字だが、よく似た「靭」「靫」と「韌」がある。康煕字典によれば「韌」が正字で「靭」「靫」は異体字(俗字)である。

「き」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Medium_katharine_hepburn_2   「き(K)」で始まる名前は男女比でみると女性が多い。「キムKim」「キャサリンKatharine」「キャシーKathy」など。4度のアカデミー主演女優賞に輝くキャサリン・ヘプバーン。性格的には社交ぎらいで、パーティーなどにはまったく出席しなかったが正真正銘トップ女優だった。▽「キニチ・ハナーブ・パカル1世」603-683。メキシコ・マヤ文明のパレンケの王。

 

ギ・ド・モーパッサン
キアヌー・リーブス
ギエルモ・マルコーニ―
ギオバーニ・バチスタ・モルガーニ
ギグ・ヤング
キース・ヴァン・ドンゲン
キース・キャラダイン
キース・ヘリング
ギスラン・クロケ
キット・ハリントン
キニチ・ハナーブ・パカル1世
ギドー・フリドキン・フルベッキ
キーファー・サザーランド
キム・キャトラル
キム・デジュン(金大中)
キム・ノヴァク
キム・ベーシンガー
キャサリン・ウォーターストン
キャサリン・ゼーダ・ジョーンズ
キャサリン・ハイグル
キャサリン・パターソン
キャサリン・ハワード
キャサリン・ヘプバーン
キャサリン・マンスフィールド
キャサリン・メーニッヒ
キャサリン・ロス
キャシー・ベーツ
ギャスパー・ウリエル
キャスリーン・ターナー
キャーティプ・チェレビー
ギャビー・ホフマン
キャプシーヌ
ギャレット・ヘドランド
キャメロン・ディアズ
キャリー・アン・モス
キャリー・オーティス
キャリー・マリガン
キャリー・フィッシャー
キャリスタ・フロックハート
キャロライン・ケネディ
キャロライン・ブーヴィアー・ケネディ
キャロル・ブーケ
キャロル・ベイカー
キャロル・ランディズ
キャロル・リード
キャロル・リンレー
キャロル・ロンバード
キャンディス・バーゲン
キャンベルト・スコット
ギュイヨーム・ビュデ
ギュスターヴ・エッフェル
ギュスターヴ・カイユボット
ギュスターヴ・クールベ
ギュスターヴ・フローベール
キューバ・グッディング・ジュニア
ギュンター・ギヨーム
ギュンター・グラス
キョブリュリュ・メフメット・パシャ
ギヨーム・アポリネール
ギヨーム・ド・シャンポー
ギヨーム・ド・ノガレ
ギヨーム・ファレム
キラ・セジウィック
キーラ・ナイトリー
キリアン・マーフィー
キルステン・ダンスト
ギルバート・ケイス・チェスタートン
ギルバート・バーネット
ギルバート・ホワイト
キング・キャンプ・ジレット

 

 

「齋藤」「斎藤」「斉藤」(さいとう)・・・の漢字はなぜ多い?

  ネプリーグで外国人回答者が「互角」という字を書いたが、「角」の字が真ん中の縦棒が下まで突き抜けていた。林修先生は元は突き抜けていた異体字があったとして正解とした。たしかに漢字の歴史は古いのでさまざまな異体字がある。「斉藤」姓がその代表格だろう。斉藤、斎藤、齋藤、齊藤などさまざまな字体があり、31種類あるらしい。そのルーツは伊勢神宮の神様を迎えるため身を清めた役職、斎宮頭(さいぐうのかみ)に由来する。10世紀の中頃、斎宮頭に任ぜられた藤原利仁の子、藤原叙用(のぶもち)は、官職名と姓に因んで(斎宮の斎、藤原の藤)「齋藤」を号し、子孫は齋藤氏となり自身は齋藤氏の祖となる。明治初期の戸籍作成のとき、手書きのため誤字かそのまま登録され、多くの字体がーに別れる一因になった。斉藤姓で一番知られるのは、戦国の武将、斎藤道三。近年の研究によれば美濃の国盗りは道三一代のものではなく、その父松波基宗(または松波庄五郎)との父子2代にわたるものではないかと考えられている。コンサイス日本人名事典によれば斎藤姓は歌人の斎藤茂吉以下50人ほど掲載されているが、それほかの人名を調べる。斎藤達雄(1902-1968)は独特の存在感を持つ飄々とした演技で戦前戦後の喜劇映画に多数出演した。番組中では壇蜜の本名および旧芸名が齋藤支静加であることが等身大パネルを使って紹介されたが、わたし世代としては天地真理の本名が齋藤真理であること。斎藤さんの有名人。齋藤司、斉藤慶子、斉藤由貴、齋藤飛鳥(元乃木坂46)、斎藤京子(元日向坂46)。

 

 

 

 

 

 

河越城の戦い(1546年)

  天文15年のこの日、北条氏康が上杉憲政の居城・河越城に侵攻し、勝利した。この戦いの結果、扇谷上杉家は滅亡し、関東管領の山内上杉家も勢力を失った。一方、北条家は戦国大名としての地位を固めることになる。しかし河越夜戦に関しては不明な点が多く、大規模な合戦はなかったとする説もある。(4月20日)

 

 

東京国立博物館で「モナ・リザ展」の一般公開(1974年)

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   昭和49年のこの日、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」が東京国立博物館で公開された。連日超満員の盛況で6月10日までに入場者数は150万人を越えた。展示初日に赤いスプレーを吹きつけようとした女性がいたがすぐに逮捕された。「モナ・リザ」は、この世でもっとも有名な絵画で、またもっとも謎の多い一枚でもあり「3密」がある。たとえば、この絵が描かれた正確な年(推定では1503年から1506年にかけて)、描かれた場所、そしてモデルの名前すらいまだに解明されていない。広く知られているMONNA LISAという呼び名も画家自身がつけたものではなく、16世紀の美術史家ジョルジオ・ヴァザーリの著書「美術家列伝」の中に書かれたものである。その著書によればモデルはフィレンツェの有力市民フランチェスコ・ジョコンド夫人のエリザべッタであるとしている。彼女の愛称リサに、女性に対する尊称「モナ」を付けて命名された。「モナ・リサ」を3つのパーツで読み解く。

① 口元

モデルをジョコンド夫人と仮定すれば、幼い愛娘を亡くしたばかりの夫人が黒いヴェールと喪服姿であることは当然のことであろう。しかしなぜ深い悲しみの夫人が口元に微笑みをたたえているのか謎である。

② 眉

当時の女性の眉は美人の条件の一つだった。レオナルドの「白貂を抱く貴婦人」(チャルトリスキ美術館蔵)にも眉があった。そうしたことから「モナ・リザ」にも当初は眉が描かれていたといわれる。歳月の経過により絵の具が風化して眉が消えたといわれる。

③ 爪

「モナ・リザ」は結局、依頼主に渡されることなく、レオナルドが死ぬまで所有していたとされる。手の部分が未完成とされる。最近の赤外線検査によって、最初、爪の部分が描かれていたが、その後、薄く消していたことが新たにわかった。なぜ爪を消したのだろうか。

   レオナルドは完全主義のため、完成された大作はほとんどなかった。(4月20日)

 


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2024年4月19日 (金)

私の名前は大久保清です

 ネットで名字総合サイトで検索すると、岸田文雄は全国に8人いる。現首相と同姓同名ならあまり迷惑な話ではないが、むかしの連続女性殺人事件の犯人と同姓同名なら困ったものだ。大久保清は全国に100人いる。当時は迷惑した話をよく聞いた。松本清張も小説に登場する人物には気を使っているようで、和賀英良(「砂の器」)とか珍しい名前を使うようだ。

「翔」この漢字を見ない日はない

 巨人vs広島。巨人の先発は戸郷翔征。広島1番は秋山翔吾、4番は堂林翔太。もちろんドジャースの大谷翔平の活躍ぶりは毎日何度となく耳にする。「翔」の漢字は1981年に人名に使える漢字として認められることとになり、男子の名前としてとくに人気がある。43歳以下の人ということが名前からだけでわかる。少し気が早いが「今年の漢字」は「翔」に決まりそうだ。

 

「馬鹿」の語源

Img_0   相手をバカと罵るとき、漢字で馬と鹿を合わせて書く。この言葉の由来は諸説あり、真偽がはっきりしない。有名なのは、中国故事「鹿をさして馬となす」(史記秦始皇紀)の故事から出たとする説である。秦の二世皇帝胡亥は、趙高の計略で学問はさせられず、天下の快楽をつくして生涯を過ごした。あるとき、趙高は、皇帝に鹿を献じ、「馬を献上いたします」と言ったという。変なことを言うと思った皇帝は、左右の臣下に馬か鹿かと問いを発した。だまってしまう者、趙高におべっかを使って馬だという者、いや鹿だと直言する者、皇帝はわけがわからずにいる。しかし趙高は鹿だといった者を見覚えておいて、あとで無実の罪を着せて、すっかり殺してしまった。かくて彼にたてをつく者は一人もいなくなったという。「史記」の記述がもとになって馬鹿という言葉が生まれたといわれる。しかし趙高の故事を現代語「ばか」と直接に結びつけるのにはいささか無理がある。「鹿」を「か」と読むのは日本での読み方で、中国では「ばろく」となるはずだから、この説はあとからのこじ付けであろう。第2の説は白居易の詩「杏為梁」にある「馬家の宅」に由来する説。「君見ずや 馬家(ばか)の宅は尚お猶お存し、宅問題して棒誠図を作すを」から来ているとする。第3は仏教語説。広辞苑では「梵語モカ moha(慕何)、すなわち無知の意からか。古くは僧侶の隠語。馬鹿は当て字」とあり、サンスクリットの「モーハMoha」に由来すると説く。これが慕可(ぼうか)となり、さらに馬鹿の字があてられた。ほかにも日本語になったサンスクリットは多くある。奈落、卒塔婆、韋駄天、境内、涅槃、娑婆、菩薩、鳥居、荼毘、あばた、沙門、伽藍、舎利、錦、玄関、旦那、達磨など。(Mahallaka)

 

 

 

 

 

 

饅頭祭

   奈良の漢国神社(かんごうじんじゃ)にある林神社では、毎年4月19日に饅頭祭が開催される。貞和5年(1349年)に宋から日本に渡来した僧、林浄因(りんじょういん)が日本に初めて饅頭を伝えたとして知られており、神社に祀られている。

 

瀏海

(子供や女性の)切り下げ髪。額に短い前髪を垂らし、ヒキガエルの上に乗り、ひとさしの銭を手にしている。唐の時代にいた仙童で、瀏海(りゅうかい)という子どもが由来といわれる。

 

 

 

 

日本で最初の和訳聖書が完成(1880年)

 明治13年(1880年)のこの日、新約聖書の日本語訳全巻が完成した。

   レファレンス協同データーベースの質問「聖書の和訳が日本でできた年を知りたい」とある。大阪府立図書館の回答(キリスト教33)によれば、「明治4年のゴーブル訳「摩太福音書」とある。「摩太福音書」とは「マタイ福音書」のことで、ジョナサン・ゴーブルによる抄訳であるが、明石書店から1989年に復刻版が刊行されている。永田方正(1838-1911)による「西洋教草(おしえぐさ)」は、2年後の明治6年のことで、これも抄訳ではあるが、かなり分量が増えており、こちらのほうを日本最初とする本もある。全訳としては、日本聖書協会が明治12年に「新約聖書」を、明治21年に「旧約聖書」を完成している。明治13年にはネイサン・ブラウンが「志無也久世無志與(しんやくせいしょ)」が日本語としては初めての、新約聖書全巻の翻訳である。ところでジョナサン・ゴーブル(1827-1896)は若い頃、強盗で2年間刑務所で服役。のち海兵隊に入隊し、ペリー艦隊として来日。1859年、宣教師として再来日している。( Jonathan Goble、4月19日 )

 

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地図の日

Orai07b 寛政12年(1800年)4月19日、伊能忠敬(1745-1818)が蝦夷測量に出発した日を記念して本日は「地図の日」。文化13年(1816年)の測量完了までに4万km、つまり地球を一周歩いた距離に等しい。地図の編纂は死後3年目の文政4年(1821年)に高橋景保によって完成し幕府に上呈した。これが日本沿海與地全図(伊能図)である。大図214枚、中図8枚、小図3枚。それまでは日本の正確な実測図はなかった。オルテリウス地図帳のテイセラ日本図(1595年)には蝦夷地の未記入で、本州も不正確である。伊能忠敬の実測図をシーボルトが持ち帰ってから日本の地図が世界図に正確に記るされる。

  ではなぜ地図は北が上なのか?大航海時代、羅針盤もない頃、船乗りは地軸のほぼ真北に位置する北極星を目印にして、地図で航海したからと考えられる。

 

 

 

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オルテリウス地図帳(1595)

2024年4月18日 (木)

鶴唳(かくれい)

   鶴唳とは「鶴の鳴き声」のこと。唳の字は11画で、「大」ではなく「犬」である。ところがパソコンでは正しいフォントがない。「風声鶴唳」(ふうせいかくれい)とは、戦いに敗れた前秦の符堅の軍が風の音や鶴の鳴き声などに驚き騒いで敗走したという晋書謝玄伝の故事に由来する。

 

 

ドゥーリットル爆撃隊、東京空襲

01_jimmy_doolittle     昭和17年4月18日、米空母ホーネットから発進したジミー・ドゥーリットル中佐指揮するB25爆撃機のうち13機が東京方面に進入、東京府内各地、横浜、横須賀などの臨海地帯を爆撃した。他には2機が名古屋、1機が神戸を爆撃した。爆撃による被害は、死傷者数約200人、家屋損壊350戸。空襲による被害は大きなものでなかったが、帝都が空襲を受けたことで日本の首脳陣に大きな衝撃を与えた。

    一方アメリカでは、空襲を終えた爆撃機は1機も撃墜されることなく、中国大陸へ飛び去った。最終的には全機が失われたが、日本本土の初空襲の成功に国民の士気は大いに上がった。日本軍にとっては、本土防衛上、ミッドウェイ攻略がにわかに重要性を帯びることとなった。( keyword;James Harold Doolittle )

孔子生卒年の謎

200111_10_n051kousigazou     孔子の生年は前552年、あるいは前551年という説もありはっきりしない。そめためかどうか知らないが、釈迦やキリストのように生誕を祝うという風習がない。名は丘(きゅう)、字は仲尼。父は叔梁紇、母は顔徴在。父母の年齢がかなり離れていたので、子どもが生まれるかどうか、とくに母は心配だった。そこで、祈祷師でもある母は「尼丘に祈り、孔子を得たり」近くの尼丘山に祈って、孔子をさずかることができた。ある記録によると、魯国の襄公22年(前551)8月27日(新暦9月28日)に魯国の昌平郷・陬邑(現在の山東省曲阜県東南の鄹城)で生まれ、魯国の哀公の16年(前479)2月11日(新暦3月9日)に魯国・曲阜で死んだとされている。4月18日という説もある。生年についても諸説がある。原因は周と魯とで暦が異なるからで古来何人もの偉い学者が調べてもはっきりとわからない。孔子の生まれ月については、10月と11月との二つの異なった本文がある。「春秋公羊伝」は「襄公21年(前552)10月1日庚子孔子生」とする。同穀梁伝は「21年庚子、孔子10月の後に生まれる」とする。

   生まれ年については、『春秋』の襄公21年と『史記』の襄公22年誕生説がある。「史記集解索隠正義礼記」は、周の正月は11月なので、「史記・孔子世家」の22年は実際は21年になる、という。現在の中国の暦法で、前551年9月28日とするのが妥当であろう。台湾では9月28日を孔子の誕生日としている。

 

 

2024年4月17日 (水)

漢字一文字の題名

Kokoro15   作家が小説の題名をつけるとき、どのような思いが込められているのかさまざまであろうが、漢字一文字という場合はことさらに印象が強い感がある。すぐに思いうかぶ作品は、芥川龍之介「鼻」、夏目漱石「門」、森鴎外「雁」の三作品。それから山本有三の「波」「風」、長塚節「土」、島崎藤村「春」、谷崎潤一郎「卍」「鍵」、カフカ「城」。室生犀星「蝶」、志賀直哉「兎」、上林暁「野」、三島由紀夫「剣」、司馬遼太郎太郎「峠」、竹西寛子「蘭」、中上賢次「岬」、富田常雄「面」、藤井重夫「虹」、河野多恵子「蟹」、丹羽文雄「顔」、宮尾登美子「蔵」「櫂」。綱淵謙錠には「斬」など48作が漢字一文字である。夏目漱石の「こころ」は自身が装幀した単行本の箱の背には「心」と漢字一文字である。

  演歌界の御大・北島三郎の唄にも一文字タイトルが多い。「歩」「盃」「誠」「祝」「道」「母」「宴」「橋」「城」「友」「竹」「夢」「命」「川」「空」「柵」「恩」「舵」「山」そして「塒」は「ねぐら」と読む。頑張れサブちゃん。

「盈」昔はこんな漢字も使われていた

   漢の恵帝が好きだという人は歴史ファンの中でも皆無だろう。秦始皇帝、高祖劉邦、文帝、武帝という英雄たちの間にあってほとんど話題にすらならない。前漢の第2代皇帝(在位前195~前188)。高祖と呂太后との間に生まれるも、嫡男で皇太子の盈(えい、後の恵帝)は柔弱暗愚であったため、高祖が威姫に産ませた趙王如意に代えようとしたところ、そのたびに呂太后や張良ら功臣が嘆願諌止した。前195年、16歳で2代皇帝に就くことができた。在位中、実権は呂太后やその一族に握られていた。諡り名の字「恵」は「相手をあたたかく思いやる」の意味である。これは前191年に秦の苛酷な律である「挟書の律」を除いたことによる。図書館史で焚書は習うが、廃止した恵帝の事績を教えないのはいかがなものなのだろう。恵帝とはほんとうに影のうすい存在である。ところが中国ドラマ「美人心計」では羅晋演じる恵帝はなかなかのイケメンで暗愚にはみえない。恵帝が暗愚だったとするのは日本の東洋史学者だけの印象かもしない。

 さて「盈」という漢字であるが、現在の日本では常用漢字表、人名漢字表にはなく、名前としては使われなくなった。もちろん明治以前の人物ならば、柳生宗盈(やぎゅう むねみつ)、毛利就盈(もうり なりあつ)と探せばいる。元巨人の投手、角盈男は1990年から登録名に改名したもので、本名は角三男である。会社名や学校名には使用例はある。広島の盈信高校など。

 

 

 

全国難読・珍名駅めぐり

 日本語でむずかしいのは人名と地名である。地元民にしか読めない地名が全国にはたくさんある。可児市は、岐阜県中南部に位置する自治体だが、「かにし」と読む。五郎丸というラグビー選手の人気で、福岡県久留米市にある西鉄甘木線「五郎丸駅」がにわかに人が押し寄せているという。広島県府中市に「上下駅」(じょうげえき、福塩線)がある。鳥取市の国英駅(因美線)は「くにふさえき)と読み、難読駅名で知られる。つげ義春の漫画「リアリズムの宿」では青森県の鰺ヶ沢だったが、映画では国英駅が冒頭シーンで使われた。JR五能線にある「驫木駅」(とどろきえき)は青森県西津軽郡深浦町にある海の見える駅として有名である。

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恐竜の日

Owen   1923年のこの日、ローイ・チャップマン・アンドルーズ(1884-1960)がゴビ砂漠へ向けて北京を出発した。その後、5年間で、恐竜の卵の化石を初めて発見した。

   恐竜という生き物が、かつてこの地球に存在したことが明らかになったのは、19世紀初めのことである。イギリスにおいて、まずメガロザウルスが1824年に、イグアナドンが1825年に正式に報告された。1842年、リチャード・オーウェン(画像)は、恐竜とは「かつて陸上に栄えていた大きな爬虫類であり、体の下にまっすぐ足をのばして歩き、仙椎を5個持つ生き物である」という定義を発表した。そしてオーウェンは、このような特徴を持つ動物を「ダイノサウルス」(ギリシア語で「恐ろしいトカゲ」)と命名した。2億3000万年前、恐竜たちは地球に現れて、1億5000  万年以上にわたって進化、繁栄した。その恐竜たちが滅んだのは約6550万年前。絶滅の原因には諸説あったが、最近の研究で巨大隕石の衝突によって、地球の気候が大きく変わったためという説がほぼ確実となっている。

 

   恐竜は進化の道筋にそって次の6つのグループに分類される。

獣脚類・・・・カルノタウルス、デイノニクス

竜脚形類・・・・・プラテオサウルス、マメンチサウルス

原始的な鳥盤類・・・・レソトサウルス

装盾類・・・・・ステゴサウルス、アンキロサウルス

鳥脚類・・・・・パラサウロロフス、ヘテロドンサウルス

周飾頭類・・・・・パキケファロサウルス、トリケラトプスむ

(Roy Chapman Andrews,Richard Owen,dinosaur) 4月17日

2024年4月16日 (火)

八方美人

 「八方美人」とは「誰からも悪く思われないように要領よくふるまう人のこと」(福武国語辞典) 日本では非難の意味を込めて用いる語。あるいは揶揄する際に使われることが多い。一方で、韓国の「八方美人(パルパンミイン)」という言葉は、どこから見ても非の打ちどころがまったくない美人という意味で使われる。しかし日本語も元は、どこから見ても欠点のない美人のことを言ったという。(「ものしり大語源」三浦竜)

川端康成の自殺

Photo_2   1972年のこの日、川端康成がガス自殺した。享年72歳。川端は「掌の小説」という短編集を若い頃から書いている。全部で122編もあるが、例えば39番目の「一人の幸福」という一編は結びの言葉が有名である。「一生の間で一人の人間でも幸福にすることが出来れば自分の幸福なのだ」と書いている。このように健全な精神を持っていたが、晩年の川端はこれらを否定するようになった。ノーベル賞の授賞記念スピーチで「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり」という道元の歌を引用し、日本人の季節の移り変わりの中に感じる美意識を紹介している。死生観や美意識を小説のテーマに幾度となく取り上げてきた川端であるが、自身の人生の最晩年において、大往生で死すか、文学に殉ずるか、という選択は作家としての一つの決断であろう。川端は、ある出版人に「谷崎や志賀の死は文学者の死ではない」と言ったと伝えられている。数年後、ガス自殺を遂げた日本人初のノーベル文学賞作家の死は社会に大きな衝撃を与えたが、2年前の三島由紀夫の割腹自殺と同じように日本人固有の死の美学という印象が強い。明治以降の近代文学作家をみても北村透谷、有島武郎、芥川龍之介、太宰治、田中英光、原民喜、久坂葉子、火野葦平、三島由紀夫、川端康成、田宮虎彦、鷺沢萌、森村桂と主な作家だけでも十数人が自殺している。海外でみると、ジャック・ロンドン、ヴァージニア・ウルフ、アーネスト・ヘミングウェイなど作家の自殺は意外と少ない。それも死の美学に殉じたという感じはない。日本人の作家とて自殺の理由は病気や経済的理由などそれぞれであろうが、三島由紀夫、川端康成などの自殺の動機は謎が多いが、死の美学に殉じたという表現がよくなされるようである。(4月16日)

方広寺鐘銘事件と片桐且元

Houkouji06062510_1  慶長19年のこの日、豊臣秀頼が、焼失した京都・方広寺を再建した。これが後に方広寺鐘銘事件の発端となる。同年7月26日、南禅寺の僧、文英清韓(1568-1621)は片桐且元の命により方広寺の梵鐘の銘文を起草したが、徳川家康はその文言に不吉な語句があるとして、言いがかりをつけ大仏開眼供養の中止を求めた。中止の根拠とされたのが鐘銘の「国家安康君臣豊楽」の8文字。上の4字は家康を真っ二つに斬り、下4文字は豊臣を君として末ながく楽しむ、の意に他ならないという。鐘銘は家康を呪詛する不吉の語とする。この解釈を家康に耳打ちしたのは、林羅山や天海、金地院崇伝の学者・僧侶たちである。且元は弁明のために駿府に赴いたが、家康に会うこともできず、「淀殿を人質として江戸へ送るか、秀頼が江戸に参勤するか、大坂城を明け渡すか」と3ヶ条を言い渡された。しかし淀殿のいまひとりの使者・大蔵卿の局が言うのには「家康は機嫌よく会い、いささかの害心もない」というのであった。淀殿は大蔵卿の局の報告を信じ、且元を裏切り者として罵った。こうして淀殿の信頼を失った且元は大坂城を退去する。しかしこれが豊臣家討伐を目論む家康の筋書きであった。(4月16日)

参考文献:曽根勇二「片桐且元」(人物叢書)

 

 

チャップリン・デー

Chaplincharles03g   1889年のこの日、喜劇王チャールズ・チャップリンは寄席芸人を両親としてロンドン南部ヴォルワース(現在のサザーク区)のイースト・ストーリーに生まれた。7歳の頃はランべスで育った。1914年に渡米し、映画で山高帽、ちょび髭、だぶだぶズボン、どた靴、ステッキの独特の扮装で人気を得、「モダンタイムス」(1936)などの名作を残した。だが1952年には赤狩りの嵐の前にアメリカを追放される。1977年のクリスマスの日にスイスで老衰のため没した。4度結婚し、女優のジェラルディン・チャップリンら11人の子供がいる。(Charlie Chaplin、4月16日)

 

 

 

 

2024年4月15日 (月)

名前によく使われる漢字「栖」

 アイドルから女子プロレスラーに転身した遠藤有栖。「栖」という字はあまり多く使われることはないかもしれない、「棲」と異体字で、「鳥がすむ」などの意味。「栖鴉」(せいあ)など。1978年の常用漢字には「栖」や「棲」は表外字となった。2004年、両字ともに人名漢字に追加される。「栖」の字は佐賀県鳥栖市、茨城賢神栖市、兵庫県一宮町生栖(いぎす)など地名にも見える。

名前によく使われる漢字「匡」

 広島戦で逆転の2ランを放った巨人の荻尾匡也(おぎお まさや)選手。「匡」という字は、日本では日常的にあまり使わない漢字ですが、最近は人名漢字として人気があります。もともと1951年に人名漢字として使えるようになってから、「匡子」(まさこ)という女性名はよく使われていました。近年海野なつみの漫画「逃げるは恥だが役に立つ」に登場する契約結婚のカップル、森山みくりと津崎平匡の大ブームで、平匡(ひらまさ)という名前が脚光を浴びています。「匡」は箱の意味がある「はこがまえ」に、「王」という字が組み合わさってできました。枠の中一杯押し込めて形を直す、の意味から「正しい状態にする」という意味を持っています。

 「匡」という字を使った著名人には、大江匡房(平安時代の公暁、歌人)、飯沢匡(ただし、劇作家、「ブーフーウー」)、浅田匡子(きょうこ、浅田真央の母)。四字熟語は「匡衡壁鏨(きょうこうへきさく)」貧しい生活をしながら勉学に励むこと。

 

 

 

 

ヘリコプターの日

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 「組み紐文様」レオナルド原図 1490-1500年頃 銅版画(ビュラン彫り)

 

Photo_9 本日は「ヘリコプターの日」。1986年、全日本航空事業連合会が制定した。ヘリコプターの原理を考案したイタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチの誕生日にちなむ。レオナルドは「空飛ぶ船」「落下傘」そして「ヘリコプター」など人間が飛行する最初の考案者である。しかし、これらが実際に飛翔に成功したとは考えられない。

    ダ・ヴィンチは画家、彫刻家、建築家、発明家、技術者などのほか図案家でもある。現在6枚の版画にレオナルドのこのような図柄が残されている。いずれも円形で複雑な組み紐文様が施されているが、レオナルドの原図を彼の周辺の版画家が彫版したと推定されている。アカデミアと称するこのデザインは何を意味するのか?レオナルドの主宰するアカデミアとは人文教養的な会合だったかもしれない。その入場券ではないか、と研究者ぺヴスナーは推測している。しかしコンピューターグラフィック技術がない時代に、このような複雑な組み紐文様には興味深いものがある。ロンバルディアの風潮とも関わるが、イスラム文様との関連もあるかもしれない。

 昨年11月、鹿児島県沖で米軍輸送機「オスプレイ」が墜落した。過去30年間で、50人以上の米兵が死亡している。鹿児島沖の事故は操作ミスなど人為的なものではなく、機体の不具合であったとする可能性が高いとされる。(̪4月15日)(Leonardo da Vinci)

グレタ・ガルボ忌

 1990年のこの日、グレタ・ガルボ(1905年生まれ)が84歳で死去した。きら星のごとく女神がひしめくハリウッドにあって、最高に美しく輝くスターは、おそらくグレタ・ガルボであろう。映画史上もっともフォトジェニックな面立ちといわれるガルボの写真を何枚も見比べてみても、彼女の変幻自在な表情のため同一人物とは思われないほどである。と、言っても彼女につけられた渾名は「スウェーデンの美のスフィンクス」である。エキゾチックでミステリアスではあるが、図体がでかく、無表情で無愛想、どこか得体の知れない女という嘲笑が込められている。「変幻自在な無表情」「無個性で個性的」な顔立ちに神秘性を感じ、美の女神として崇め、ひれ伏したのであろうか。その謎を解くカギは、やはり「笑わない」ということであろう。ほとんどの女優は笑顔をチャーム・ポイントにするであろう。ところがガルボは、眉をひそめて不快そうな顔をしていても美しかった。否、怒ったときの顔が一番美しいという人もいる。1941年、36歳で引退した。ガルボの人気はアメリカよりも海外で高かった。第二次世界大戦によって映画の海外配給が無くなったことも引退を早めた理由の一つである。映画「グレタ・ガルボのすべて」(2006年)には1949年のカメラテストの映像が紹介されている。戦後、映画復帰を目指したこともあったが、結局、映画に出演することは一度もなかった。グレタ・ガルボとマレーネ・ディートリッヒはよく比較されることが多い。映画デビューはともに1922年だが、ガルボのほうが4歳年下である。(4月15日)

 

 

アドリーヌ・ラヴー「ゴッホの回想」

Img_265870_8257291_0   オーヴェール・シュル・オワーズにゴッホが最後に住んだラヴー亭が現在もある。ゴッホ記念館であり、1階がレストランで3階のゴッホの屋根裏部屋も公開されている。1890年5月末から7月までの70日間、76点の絵を描いた。1日1枚のペースだ。ゴッホ最後の肖像画モデルとなったラヴー亭の娘アドリーヌ・ラヴー(1877-1965)は次のように回想している。「彼は我が家ではとても尊敬されていて、ムッシュ・ヴァンサン、と親しみを込めて呼ばれていました。平素は正午ころ、絵を描いていた戸外から昼食のために帰って来て、メニューはだいたい肉と野菜、サラダ、そしてデザートでした。いつも自分で皿を戻し、とても協力的だったのです」(1953年4月16日、フランスの雑誌のインタビュー)アドリアーヌは2度の世界大戦を生き延び、ゴッホの証人として戦後有名になり、カーク・ダグラスの映画「炎の人 ゴッホ」にも端役で出演している。晩年のゴッホは温和で、家賃もきちんと納めていた。晩年のアドリーヌの横顔の写真はゴッホの三枚の絵と比べると、鼻の形が似ている。(Adeline Ravoux)

 

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2024年4月14日 (日)

ラーメン一杯、千円の壁

1  「B級グルメ」、「庶民の食べ物」として長らく愛されてきたラーメンだが、今や1杯1000円前後する店も増えてきた。ラーメンを構成する肉類や魚介類、調味料、小麦など、あらゆる食材の価格が上がっており、これまでの価格を維持することが困難になってきたからだ。昭和45年ころのテレビドラマを見ていたら、コーヒー1杯がちょうど100円だった。コーヒー1杯の値段で戦後の物価の変遷がわかるだろう。昭和29年頃は50円。昭和45年頃は100円。昭和50年頃は200円。昭和62年頃は300円。現在は400円ぐらい。もちろん高級店はいくらもあるだろうが。ちなみに週刊少年マガジンが昭和34年創刊当時、40円で現在は360円。戦後から今日までの78年間、価格が変わらず安定しているのは鶏卵だけである。下のグラフは昭和35年から平成22年までの食品を主にした物価の推移を示すものであるが、「卵は物価の優等生」といわれていることがよくわかる。

  新聞代は昭和55年頃2195円(月額)だったが、3190円(平成2年)、3925円(平成12年)、4344円(令和2年)と急騰している。タクシー初乗り456円(昭和61年)、620円(平成9年)。あんぱん1個(100g)は、71円(昭和57円)、85円(平成5年)、83年(平成15年)、78円(平成25年)、喫茶店におけるコーヒー代は294円(昭和62円)、370円(平成9年)、383円(平成19年)、404円(平成29年)。

  丸田勲によると、江戸時代、卵は現代の価格になおすと約1個400円くらいだった。しかし昨年末から、卵の価格が高騰し、現在も値上がりが続いている。甲子園名物「かちわり氷」は1袋200円、甲子園のビールは1杯750円。東京ドームの生ビールはなんと900円。

 

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名前によく使われる漢字「泰」

 「泰」を使った熟語には「天下泰平」「安泰」などがあり、「ゆったり穏やか」な印象を与えます。漢字の成り立ちは両手に汲んだたっぷりの水で体を洗うという様子を表すために、「人」「水」「両手」の字が組み合わさってできました。そこから「ゆったり」「おだやか」なイメージがあります。ところが名前に使うにはよくないという理由もいくつかあります。1.「おごる」という意味があります。手元の漢和辞典にも「ぜいたくなさま」「えらそうなさま」とあります。2.外国人に間違われやすい。中国では尊ばれる漢字であることや、「泰」がタイという国名だからという理由です。3.電話で漢字を説明するのがむずかしい。4.「秦」や「奏」と紛らわしい。5.画数があまりよくない。これは「泰」1文字だと10画でよくありませんが、「泰+〇」で画数をかえればOKです。

それにもかかわらず「泰」がとてもよい漢字であることは、多くの事例で明らかです。何と言っても「泰山」があるからです。山東省泰安市にある泰山は、道教の聖地五岳の中でもっとも尊い山とされる。秦の始皇帝や漢の武帝など歴代皇帝が封禅の儀式を行っている。李斯は、伝説的な帝王の称号である天皇・地皇・泰皇の三皇のうち、最も尊いのは泰皇といっている。そういうことで、あまりに尊い漢字なのでさけられる方もいるかもしれないが・・・。

最後に名前に「泰」を使用している著名人
石坂泰三(経団連会長)、武田泰淳(小説家)、田村泰次郎(小説家)、加藤泰(映画監督)、布袋寅泰(ギタリスト)、原田泰造(タレント)、松雪泰子(女優)

この30年で何が変ったのか

 ドラマ「不適切にもほどがある」コンプライアンスが厳しい令和時代とそれではなかった昭和時代を舞台としたタイムスリップ・コメディ。たばこ規制が厳しいのは分かる。でも規制緩和策で怪しげなサプリメントはむかしより多くなっている。

    街をぶらぶらしてみると、景観は以前と比べきれいになった。しかし賑わいや活気が無くなった気がする。瀬戸物屋、布団屋、牛乳屋、駄菓子屋、小学校の前の文房具店、貸本屋、古本屋などみかけなくなった。ポルノ映画のポスターや、ストリップ劇場もなくなった。なにより女性の社会進出が目立つ。女性ドライバーも増え、男に頼ることなく生きていける社会になった。

    いま古本は在庫リストのデータ・ベース化で通信販売で買うらしい。これからは古書情報が一度に検索できるシステムを計画していて近いうちには、金さえ払えば絶版本や稀こう本も入手できる時代になるだろう。だが、街の古本屋はそんな掘り出し本をさがすためだけにあるのではない。古雑誌やマンガの半端本を10円で買って、暇つぶしに楽しむ若者もいるだろう。古書店と古本屋とは似て非なるものがある。広辞苑には定義されていないが、業界用語では古書店というのが正しい。古本屋は1人あるいは2人以上の持主により所有されたことのあるセカンド・ハンド・ブックを主に取り扱うが、古書店は出版後時日を経たオールド・ブックを扱う。古書店は江戸時代の和本もあるし、絶版の本も多いが高価商品である。古本屋は定価より半値以下の本が多い。ケペルの愛するのは古本屋である。古本屋でルポルタージュ小田橋弘之「君が代は微風にのって」(晩聲社、昭和58年)を買った。中曽根康弘の右傾化を中心に書いている。このころは「国旗及び国歌に関する法律」が制定されるとは予想していなかった。いま学校現場では式典に国歌斉唱、礼拝を拒否すればどんなことになるだろうか。礼拝とは神道の公式作法のひとつで上半身を45度に折るとある。エホバを信ずる者にとってはどうなんだろうか。法律とは強制力を持つものだ。本は年数を経て、はじめて意味をもつものであることがわかる。

私の秘密

 昭和30年のこの日、NHKテレビ「私の秘密」の開始された。高橋圭三の司会で、ある秘密を持った一般人が登場し、4人の著名人が一回30秒間質問を続ける。秘密の概念はかなり広範囲で、職業・趣味・業績などの秘密を解き明かす推理ゲームに近い。アメリカの人気番組「Ⅰ've Got a Secret」を参考にしている。

 米国同番組では「私はリンカーン暗殺の目撃者です」という出場者がいた。サミュエル・J・シーモアという96歳の大工で、5歳の時にフォード劇場で大統領席の見える客席に坐っていて事件を目撃したというからおどろきである。この番組はYouTube動画で見ることができる。Witness of Lincoln's Assassination (4月14日)

 

 

 

読めない名前「梵英心、塹江敦哉」

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リンカーン「死の枕」

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  1865年のこの日、第16代大統領エイブラハム・リンカーンはフォード劇場でジョン・ウィルクス・ブースに暗殺された。直後、通りの向かいのピーターセンハウスに運ばれ手当てをうけたが、しばらく昏睡の後、翌日、午前7時21分に亡くなった。そのときリンカーンが使用した枕が展示されている。(Abraham Lincoln,Petersen House,pillow、4月14日)

リカオン(「リ」事項索引)

 「リカオン」中型の犬くらいの大きさで、一見ハイエナに似る。白地に黒と黄褐色が不規則に入り混じり、尾先は白い。ほぼアフリカ一帯に広く分布する。▽「リアウ諸島」スマトラ島東方にあり、シンガポール南方に位置する。主な島はビンタン島。シンガポール海峡に面する諸島でもあり、周辺海域は通航船舶量が多い。▽「リサジュー図形」互いに直交する二つの単振動を合成して得られる二次元運動の軌道が描く図形。▽「リヴィエラ」フランス・イタリアにまたがる保養地として名高い地中海沿岸の地名。▽「李璮の乱」1262年李璮が元朝に離反した事件。▽「李舜臣(りしゅんしん)」1545-98。朝鮮王朝の武将。亀甲船で豊臣秀吉軍を撃退した救国の英雄。イ・スンシン。▽「リッカート尺度」アンケートなどで使われる心理検査的回答の一種であり、各種調査で広く使われている。▽「李定国」明末の武将。張献忠の養子で、その四部将の一人。張の死後、明の永暦帝に従い、晋王に封じられた。永暦帝の死とともに1662年病死。▽「李提摩太(りていまた)」イギリス人宣教師ティモシー・リチャード。▽「リミニ勅書」1226年神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がプロシアに対する主権をドイツ騎士団に授与した勅書。▽「琉球王国」1429年、中山王尚巴志が南山王他魯毎を滅ぼして三山を統一。首里城を首都とする。1879年まで450年間、国家として存在した。▽「リンゴ事件」1933年、大学野球早慶戦で判定に抗議された慶大水原茂選手に早大側スタンドからリンゴの芯が投げられ、水原が投げ返したために応援団が衝突した事件。(りりり)

リアウ諸島(インドネシア)
リア王
リアス式海岸
リヴァイアサン
リヴィエラ
リウトプランド
リエカ(クロアチア)
リエゴ革命
リェージュ(ベルギー)
リオガジェゴス(アルゼンチン)
リオグランデ
リオデジャネイロ(ブラジル)
リオムニ(赤道ギニア)
リオン湾(フランス)
リカオン
リカードの比較生産費説
力道山
陸九淵
陸象山
六朝文化
六鎮の乱
リークドシクティス・プロブマティカス
リクルート事件
里甲制
リゴリズム(厳格主義)
リサジューの図形
リーグニッツの戦い
李舜臣
李承晩ライン
リス氷期
リスボン
リーゼガング現象
リソホスファチデートアシルトランスフェラーゼ
李璮の乱
リッカート尺度
リットン調査団
律令格式
リディア
李定国
李提摩太
リトアニア
リトルビッグホーンの戦い
李白
理藩院
リビア
リービヒ
リベリア共和国
リマ症候群
リマン海流
リーマン・ショック
リミニ勅書
リリーマルレーン
琉球王国
劉勰
劉暁波(りゅうぎょうは)
劉少奇
劉邦
リュクルゴス制
リュサンドロス
リュッツェンの戦い(1632年)
リューリク
呂不韋
梁啓超
聊斎志異
両シチリア王国
梁塵秘抄
両税法
旅順
リンガジャチ協定
リンカン
リンゴ事件
リンゴの歌
リンディスファーン修道院
リンドバーグ
リンネ

タイタニック号、謎の沈没事故

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  イギリスのホワイト・スター社の豪華客船タイタニック号が、1912年4月11日、ニューヨークまでの処女航海にイギリス・サウサンプトンから出航。4日後の14日、午後11時45分、ニューファンドランド島沖で氷山に衝突し、翌日未明、沈没した。 タイタニック号の沈没は、世界大戦を除けば、20世紀の最大の悲劇の1つである。エドワード・ジョン・スミス船長(1850-1912)は非常信号CQDを、ついでSOSの発信を命ずる。救命ボートは、乗員乗客2208人に対して、半数分しかなかったので、婦人と子供だけにボートに乗ることが許された。やがてSOSを受信したカーパチア号が現場に到着したが、同船が救助したのは695人、結局1513人が死亡した。タイタニック号の事故原因は、氷山との衝突ではなく、石炭庫に積載された石炭火災で出港前から発生していたとする説がある。火災により隔壁の強度が低下し、浸水開始から2時間で沈没した。( keyword;Titanic,Belfast,Southampton,Edward Jhon Smith、4月14日 )

2024年4月13日 (土)

樺太地名考

Acd0810020803002p1 間宮林蔵の像(宗谷岬)

 文化5年のこの日、間宮林蔵は幕命によって、松田伝十郎に従って樺太探検に出発した。

  サハリン島は1643年、フランス人デフリースが発見したが、北海道の一部と誤認した。その後、探検したロシア人も沿海州(プリモルスキー)に続く半島と誤認した。地名サハリン(Sakhalin)は、満州族がアムール川につけた名「サハリャン・ウラ」(黒い川)を、ロシア人がその河口にある半島(?)の名と誤認したため生じたものである。この原名がロシア語化されたサハリンとなった。日本でははじめカラフト、のち一時「北蝦夷(きたえぞ)」と呼ばれたが、江戸時代末にはふたたびカラフトあるいはサガレンと呼ばれた。カラフトには唐人、柯太などの字もあてられたが、明治2年、「樺太」の漢字が正式な地名と定められた。明治38年ポーツマス条約により北緯50度以南をロシアから割譲された。昭和20年まで日本の領土として日本地名が作られた。主要な旧樺太地名とその読みを記す。

 

古屯   ことん      ポベディノ
上敷香  かみしくか
敷香   しくか      ポロナイスク
栄浜   さかえはま   スタロドブスコエ
川上炭山 かわかみたんざん シネゴルスク
豊原   とよはら    ユジノサハリンスク
大泊   おおどまり   コルサコフ
留多加  るうたか    アニワ
真岡   まおか     ホルムスク
久春内  くしゅんない イリインスキー
本斗   ほんと     ネベリスク
内幌   ないほろ    ゴルノザヴォーツク
知取   しろとる     マカロフ
元泊   もととまり    ヴォストチヌイ
落合   おちあい     ドリンスク
恵須取  えすとる     ウグレゴルスク
泊居   とまりおる    トマリ
野田   のだ        チェーホフ
本斗   ほんと
吐鯤保  とこんぼ
気主   けぬし

 

{地名の読み変更}知取は昭和2年は「しりとり」であったが、昭和16年に「しるとる」と読み変更。近幌は昭和2年は「ちかぽろ」であったが、昭和18年に「ちかほろ」と読み変更された。大鵜取は昭和5年は「おおうとり」であったが、昭和16年に「おおうとる」と読み変更。

納谷幸喜(横綱大鵬)は昭和15年、樺太敷香町に生れる。(4月13日)

 

清川八郎、暗殺される

 幕末の憂国の士、清川八郎は文久3年のこの日、麻布赤羽橋で幕府の刺客佐々木只三郎らに暗殺される。享年34歳。清川は出羽国庄内田川郡清川村の豪農斎藤治兵衛豪寿の三男として生まれた。18歳で江戸に留学し千葉周作の門に入り修行する。文久3年浪士隊に入り上洛。近藤勇ら佐幕派と対立、江戸に戻り新徽組に編入される。(4月13日)

巌流島の決闘

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 江戸時代の絵では武蔵のほうが若く描かれている

   宮本武蔵と佐々木小次郎が長門の船島で試合した巌流島の決闘は時代劇などで広く知られ、名高い武術の試合である。ところが手元の日本史年表などで調べると、巌流島の決闘は載っていないことが多い。(「日本史年表・地図」(吉川弘文館)「コンサイス世界年表」(三省堂) )これは 信頼できる史料が乏しいことによるものである。決闘の期日も慶長17年説、慶長19年説など諸説ある。「二天記」には「慶長十七年四月」と記されているので、慶長17年(1612年)4月13日とするのが一般的である。巌流を俗に佐々木小次郎と当てているが、これも後年の芝居で名づけられたもので根拠はない。中条流富田勢源の弟子であったことから武蔵よりだいぶんと高齢であったと考えられる。「沼田家記」によれば、武蔵の一撃で気を失った小次郎は、その後いったん目を覚ましたものの、巌流島に来ていた武蔵の弟子たちに寄ってたかって殺されたと記されている。このほかに、武蔵は決闘の時間に遅れず、小次郎の長い刀より長い刀を用いて勝利した説、弟子が倒した説、などなど諸説紛々たり。そもそも決闘が実際に行われていたかどうかすら疑わしい。漁業権をめぐる漁師たちの争いが武蔵・小次郎の決闘となったのではないかと専門家は語る。とかく伝説というものは、年代を経るにしたがって変貌していく。宮本武蔵は「五輪書」に人生に六十余度の勝負をして一度も負けなかったと記しているが、相手の中で大家といわれるものは吉岡一門だけで剣聖どころか田舎剣客にすぎない。講談や小説で武蔵はいちばんの剣豪にまつりあげられたといえる。

   このほか武蔵の伝記で関ヶ原合戦に初陣として参戦し負け組と伝わるが、福田正秀は武蔵西軍説を否定。東軍黒田如水軍に父無二と共に「九州の関ヶ原」豊後合戦に出陣したことを論証している。

 

 

 

 

喫茶店の日

    歌人の穂村弘は言う。「カフェと古書店がある街は、良い街…」と。もともとヨーロッパにはタヴェルヌやキャバレのような酩酊の場所はあったが、覚醒作用の伴うコーヒーを飲む場所はなかった。イギリスのオックスフォードに最初のコーヒーハウスができたのは1650年のこと。ジェイコブスという。カフェは近代市民社会の発展と共に普及していった。日本で初めてのカフェは東京上野下谷に明治21年4月13日、「可否茶館」が開業した。鄭永慶(18859-1895)という中国名前だが日本人。洋館2階建てで、新聞・雑誌を置いて閲覧させ、ビリヤード場、トランプ、クリケット、碁、将棋、図書室などが設けられていた。コーヒー1杯が1銭5厘。しかし赤字続きで明治24年に倒産。翌年、鄭は西村鶴吉という名前で渡米し、シアトルで没する。明治34年ごろに新聞を閲覧させるミルクホールが出現する。昭和9年「喫茶店」が急増し、学生や文化人が愛用するようになった。そのころ東京に喫茶店は1万5000店を数えたという。(4月13日)

 

 

2024年4月12日 (金)

呉の孫堅 孫策 孫権

  黄龍元年(229年)のこの日、呉の孫権が帝位し、ここに三国鼎立の時代が始まる。三国時代呉国の4代について簡略に記す。呉の始祖孫堅は後漢末に知られた武将黄祖と戦って敗死した。あとをついだ子の孫策は袁術から独立して江東を制圧し、余勢をかって許へ攻めのぼり、献帝を江東へむかえようとしたが、暗殺された。孫権は19歳で父兄の業を引きつぎ、周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜を重用して、多くの人材を集め、中国東南に確固たる勢力を築いた。かれは江東の原住民である山越の反乱を平定して農業に従事させ、また屯田政策をとって農業の発展をはかるとともに、南海貿易にも手をそめて漢族の勢力圏を越南にまで広めた。外交的には魏・蜀両国とのあいだに立って、和戦両様の関係をたもちながら独立を維持した。しかし、老年にいたって後継者の選定をあやまったため、稀代の暴君遜皓(そんこう)を帝位につけることになり、4代にして亡国の悲劇をまねくことになった。(4月13日)

パンの日

Img_0735_3  「パンさえあれば、たいていの悲しみには堪えられる」セルバンテス

  ロシアとウクライナは小麦の主産地であるが、ウクライナ侵攻で世界の小麦供給に悪影響を及ぼしている。本日は「パンの日」。 日本語パン pan は、ポルトガル語 pao から来ている。1600年ごろ、長崎に来たポルトガル人が、その製法を教えたのである。ところが、日本は米、大麦、アワ、ヒエなどを、粒のままで煮て食べる粒食民族だったため、小麦粉で作るパンは、あまり口にあわなかったとみえ、それほど普及しなかった。   天保12年のこの日、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門が軍用携帯食糧として乾パンを作った。これが日本で初めて焼かれたパンと言われている。昭和58年、パン食普及協議会が制定。明治になっても、どちらかというと菓子パンとして発達したのがパンの歴史である。アンパンを発明したり、ジャムパンやクリームパンなどがさかんに作られ、おやつがわりとして食べられていた。

 

Img_3939    日本の家庭でパンを食べるようになったのは、1900年以降で、文化人が好んで洋食として取り入れたからである。志賀直哉は大正時代末期からすでにパン、バター、牛乳という朝食スタイルだった。一般大衆がパン食になるのは、学校給食が普及した戦後からである。今では、あんパン、ジャムパンといった菓子パンからホットドック、クロワッサンやマカロンといったスイーツの種類も豊富になった。最近は炭火であぶったチョリソーを、半分に切ったフランスパンにソーセージをはさんだアルゼンチンのチョリパンが日本でも食べられる。

 

1egyptbreadmakinggranger     世界でパンを初めて食べだしたのは古代エジプト人である。6000年前ナイル流域に定着しだしたころから、ひたすらパンを主食にしてきた。パンつくりは女の仕事で、そのころ「パンをふくらます技術」は秘中の秘としてエジプト人の間に守られていたが、イオニアを経てギリシアへ、さらにローマへ伝わった。ローマ時代にはパン屋やパンの工場もできていたことが、ポンペイの遺跡発掘で、わかっている。その後、ルネサンスの勃興とともにその技術は向上し各国に広まったが、フランスにおいて特に著しい発達を遂げた。一方、イギリスには古代ローマから伝えられたものが山高の独自の形態を生み出し、現在のアメリカのパンの元祖となり、中央アジアに始まるライ麦パンはロシア・ドイツなどで発展した。(choripan) 4月12日

 

2024年4月11日 (木)

ハワイ相撲の生みの親・柏原喜八

 第64代横綱・曙太郎さんが11日、逝去した。幕内最高優勝11回は、白鵬45回を筆頭に第10位にランキングしている。ハワイ出身の力士といえば高見山、小錦、曙、武蔵丸などみんな大相撲で大活躍した。なぜハワイ人は角界で成功したのだろうか。それは明治期の日本人が移民したとき、ハワイで相撲を普及させたからである。高見山が子どものころにはすでにハワイに相撲の伝統があった。1890年代、モイリリ地区には日系1世がおおく住んでいた。開拓者の柏原喜八は山口県生まれで若いころ大阪相撲を経験していた。しこなは千田川という。最高位は前頭5枚目。彼は自宅の庭に土俵をつくり、近所の子どもたちに相撲を教えた。いつしかハワイでも相撲大会が開かれるほど普及していった。柏原喜八の相撲海外普及の功績は大きい。(参考:森戸由久「ハワイ風物誌」 創価大学女子短期大学紀要37  2008年)

始皇帝、出生の謎

  始皇帝の母の名前は史書には記されず本名は不明であるが、出身国の趙の女性を意味する「趙姫(ちょうき)」と表現されることがある。戦国の末、趙の都邯鄲に商用に出かけた韓の陽翟の豪商呂不韋は、偶然、秦の太子安国君の庶子の子楚が人質としてこの都に住んでいることを知った。その時、この商人は「この奇貨居くべし」(これはすばらしい掘り出し物だ。買っておこう)と口走った。すぐさま子楚に秦の太子になれる希望を抱かせ、ついで、その財力によって、ついにほんとうにこの一介の庶子を太子とすることに成功した。そして彼は、自分の子のみごもっていた朱姫を子楚にとつがせた。その生まれた子が後の始皇帝(前260-前210)である。かくして呂不韋の野望はみごとに達成された。しかし、この有名な「史記」の記述にある「始皇帝は呂不韋の子」という説は近年の研究では否定される傾向にある。理由は司馬遷が始皇帝を貶めるために、虚構したというのである。(渡邊義浩『中国はいかにして統一されたか』12p NHK出版)

   始皇帝の母の実名は「史記」に記されていないが、後の小説類では趙姫、あるいは朱氏となっている。駒田信二は「朱姫」と呼んでいる。朱姫は歌と舞にかけては邯鄲の妓女たちの中でその右に出る者はないといわれている美女であった。しかし、後世の小説家たちは彼女を男と共謀し秦への反乱を企てた淫婦とみなしている。

   前249年、子楚は荘襄王となる。前247年、荘襄王死す。政(のちの始皇帝)秦王に即位する。まだ13歳だった。前238年、朱太后の乱行が暴露され、嫪毒の一族は皆殺しとなる。朱太后は萯陽宮(ぶようきゅう)という小さな離宮に移した。翌年、呂不韋は罷免され、2年後自殺する。朱太后はそれから7年後、前228年、50歳で死ぬ。萯陽宮に移されてから死ぬまでの10年間、かわるがわる男を引き入れて倦むことを知らなかったという。秦王政、のちの始皇帝は、父なる王は実の父ならず、実の父は死に追いやった。その母は淫乱に明けくれ、その同母の弟たちは殺さねばならなかった。秦王政は、孤独な生い立ちであった。近年、韓国ドラマ「コウラン伝 始皇帝の母」(原題「皓鑭伝 Beauty Hao Lan 2019年)がNHKで放送される。ウー・ジンイエンがヒロイン「李皓鑭」を演じる。(参考:駒田信二「世界の悪女たち」)

地球一周は4万キロ

Eratosthenesmap   本日はメートル法公布記念日。1921年のこの日、改正度量衡法が公布され、法律でメートル法を採用することが定められた。

 フランス語「メートル」(metro)は古代ギリシア語「メトロール」(ものさし、測ることの意)からの造語である。もともと子午線上の北極から赤道までを1万キロと決めて、1000万分の1の長さが1メートルとなった。1791年にラヴォアジエなど学者らが検討し、1795年フランス科学アカデミーで決められたが、「メートル」はすぐには普及しなかった。1837年にメートル法以外の単位使用を禁じ、1875年メートル条約が締結された。

   むかし古代アレクサンドリアの学者エラトステネスは太陽の角度から地球の大きさを推定した。彼の計算では、

5000スタディオン×(360度÷7度12分)=2500000スタディオン。

   1スタディウスは178mと推定されているので、44500㎞になる。本当の地球の全周は4万キロなので1割程大きいだけである。エラトステネスは実測困難な対象も、幾何学の応用で、地球の近似値を測定したのである。

   ところで地球一周、つまり赤道の全周は約4万キロだが、もっと正確な数値はあるのだろうか。かつての地理の参考書には、赤道の全周40076、5938㎞という数字が載せられていた。これはヘイフォード楕円体で推計した地球恒数のひとつである。アメリカの測地学者ジョン・フィルモア・ヘイフォード(1868-1925)が1909年に提案した準拠楕円体で、1924年にスペイン・マドリードで開かれた国際測地学・地球物理学連合総会によって世界的に認められた。現在は赤道の周囲は40075.017㎞とされている。現在、1メートルの定義は1983年に「光が299792458分の1秒間に進む距離」とされている。( keyword;Eratosthenes,Alexandria,Syena,metre,Lavoisier 、4月11日)

江戸城無血開城(1868年)

 勝海舟は江戸城無血開城で平和主義者といわれているがはたしてそうであろうか。徳川慶喜によれば、鳥羽伏見で敗戦したとき、この時期海舟は「あくまで戦うつもりなら軍艦を清水港に集めて東下の敵兵を扼し、一方では鹿児島を攻める軍がある」といい、慶喜が耳を貸さなかったことになっている。慶応4年2月9日、有栖川宮熾仁親王を東征大総督とし、西郷隆盛、広沢真臣、林玖十郎を参謀とする東征軍は、沿道諸藩の兵をあわせて総数は約5万の軍勢で、錦旗をひるがえしつつ東海道を江戸に向かい、2月28日、駿府に着陣した。

   その頃、江戸では幕臣の間で議論がたたかわされていた。主戦派は榎本武揚、小栗上野介、大鳥圭介、非戦派は勝海舟、大久保一翁、山岡鉄舟らであった。和宮や輪王寺宮公現法親王(北白川能久親王)など天皇家に関係深い筋からは、慶喜助命や徳川家存続の嘆願がなされたが、効果はなかった。2月17日には、上野東叡山寛永寺にいた輪王寺宮の京都行きが決定した。目的は、天皇に会い、慶喜の恭順の意を伝え、官軍の江戸城攻撃を食い止めることにあった。

 駿府の官軍の軍議は3月6日に開かれ、江戸城攻撃を3月15日とするとともに、徳川処分の方策も決定していた。3月7日、上洛途中で輪王寺宮は、数日滞在して、ようやくにして有栖川宮に面会できた。3月12日にも二度目の会見が行なわれた。有栖川宮はこう言った。「徳川慶喜が上野の閉居しているとしても、それだけでは今までの罪をつぐなうことは出来ない。」結局、輪王寺宮は、自分はひとりでも京都へ行くと言った。すると、有栖川は顔色をかえて「それはならぬ。宮の使命は、ここで終わっているではないか。これ以上何を聖に申し上げることがあるか」と強い口調で制止した。このとき、有栖川宮は33歳、輪王寺宮は22歳だった。

   そのころ、勝は西郷のもとへ山岡鉄舟を派遣した。しかし両者の間には大きな開きがあった。江戸城攻撃の期日を目前となったが、勝・西郷の会見は、3月13日と14日の2回にわたって薩摩藩邸で行なわれた。1回目はたんに挨拶だけにとどまり、2回目にいたって、はじめて徳川氏の降伏条件についての交渉が開始された。日本史の中では西郷・勝の江戸城無血開城が知られているが、駿府城での、有栖川と輪王寺宮の会見はほとんど知られていない。結局、輪王寺宮は上洛計画を諦めて、江戸に戻った。その後、上野に居合わせた輪王寺宮は彰義隊の総大将にさせられて、官軍の攻撃の矢面にさらされる。戦いに利あらず、輪王寺宮はさらに奥州に落ちることになる。4月11日、官軍が江戸城に入城し徳川慶喜は寛永寺から水戸へ退居する。(参考:有馬頼義「江戸開城異聞」『日本人の100年 2』)

ガッツポーズの起源

Photo_10  喜びと悲しみ、愛着と嫌悪、幸福と不幸、成功と失敗など、人は様々な感情の状態をもち、快をもとめて不快をさけようとする。身体に表出される感情の変化は恥ずかしい時に赤面し、恐れた時に蒼白になるなど、自律神経系の働きによる表出にはじまり、意志的な支配する姿勢・ポーズにいたるまで、他から認知されうる種々の変化として捉えられる。

    スポーツでの喜びのポーズといえば、野球でみられるハイ・タッチ、サッカーではトンボ返りをしたり、飛び上がって喜ぶものもいる。なかでもガッツポーズは勝利を意味する最高の決めポーズである。こうした人間のもつ喜怒哀楽の感情を身体動作で全身を使って観衆にアピールすることは多くのスポーツで許されている。ただし日本での柔道、剣道、空手などの武道では禁じられている。相撲も当然のこと禁じられている。かつて朝青龍が勝ち名乗りを受けた後、土俵上で両手を突き上げた。これがガッツポーズであるのか、「ばんざい」なのか意見の分かれるところだが、内館牧子は「絶対にいけない」と批判し、鶴田卓彦は「わたし個人としては違和感がなかった」として意見が分かれた。ガッツポーズが相撲の品格を落すものという強い姿勢を示さないと、他のスポーツのように派手なアクションが次々と出て「スモウレスリング」となるであろう。また野球界でも「ガッツポーズは相手に失礼」という不文律がある。大リーグではホームランを打った後の派手なガッツポーズ等は行ってはいけない行為とされている。高校野球でもガッツポーズなどのパフォーマンスは禁止されている。

Imagecaxc11iy   ところがテニスとか卓球とか小さい球の競技は、一球ごとに必ず拳を握りしめる。福原愛は「サーッ!」と掛け声でガッツポーズを連発。スポーツによって考え方が違うようである。本日は「ガッツポーズの日」。1974年のこの日、ガッツ石松がボクシングWBCライト級タイトルマッチでチャンピオンのロドルフォ・ゴンザレスにKO勝ちした。この時両手を挙げて喜びを表わした姿を新聞記者の柏英樹が「ガッツポーズ」と表現したのが、ガッツポーズが広まるきっかけとなった、と巷間では言われているが、これは正確ではない。「勇気、気力、根性」という意味で外来語「ガッツ」が使われだしたのは1964年の東京オリンピック以降で、1970年ころには和製英語「ガッツポーズ」は既にボウリング界などで一般的に使われていた。1972年11月30日発行のボウリング雑誌「週刊ガッツボウル」が、ストライクを取った時のポーズをガッツポーズと言っている。(4月11日)

 

 

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  日本でガッツポーズが生まれたのは、昭和30年代の「鉄人28号」「鉄腕アトム」らヒーローたちの決めポーズの影響が大きいと思われる。

 

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2024年4月10日 (水)

天使の耳

 NHKドラマ「天使の耳」。小芝風花が新人交通課巡査役で安田顕と共演している。「大奥」倫子&田沼意次に続いての共演か(実際は大奥の方が後作品)。2台の車が深夜の交差点で追突事故を起こした。一台の方は兄が死亡し、同乗の盲目の妹・高校2年女子は一命をとりとめた。他方の車は男女2人で生存、飲酒の可能性がある。事故状況が分からぬまま、捜査は難航した。ところが被害者の妹奈緒が盲人の感覚の鋭さを利用して、いかにも兄が当時、青信号で交差点を通過しようとしたかのように、偽装の証言を行い、それを警察もあっさり信じて、保険金をせしめたというお話である。緻密なストーリーで感服する。しかしキャスティグが不自然である。出演の女優が美人ばかりなのだ。モデル出身とかオスカーのタレントとか。飯沼愛、小泉のん、足立梨花。そしてとどめは交通課課長の檀れい。元タカラジェンヌ。ここまで美女ばかりを揃えるのは、ディレクターの好みなのか事務所の売り込みなのか知らないが、シリアスなドラマとしては不自然の感が免れない。

 

最初の駅弁は握り飯だった

   本日は「駅弁の日」。平成5年、日本鉄道構内営業中央会が。「弁当」の「とう」から10日、「4」と「十」を合成すると「弁」の見えることから、この日に。駅弁の魅力をPRするのが目的。
    一般に日本最初の駅弁は明治18年7月16日、旅館「白木屋」の嘉平が宇都宮駅で竹皮に包んだ梅干し入りの握り飯を5銭で販売したのが始まりとされ、現在この日は「駅弁記念日」と制定されている。しかし最初の駅弁は他にも梅田駅(明治10年)、神戸駅(明治10年)、敦賀駅(明治15年)、上野駅(明治15年)、高崎駅(明治17年)など諸説あるようだ。ちなみに現在のような折り詰め「幕の内駅弁」は明治22年に「まねき食品」の竹田木八(画像 1851-1903)の発売したものが最初とされる。当初は列車が少なく、一緒に始めた友人は撤退したが、日清・日露戦争時には軍隊弁当がよく売れ、現「まねき食品」を創業した。(4月10日)

 

 

ルイ3世(西フランク王)

  879年のこの日、ルイ3世は父王ルイ2世の崩御をうけ、弟カルロマン2世とともに西フランク国の王位に就く。フランク王国はカール大帝の死後、3分割されたが、西フランク王国(のちのフランス王国)は、シャルル2世、ルイ2世と継いだ。ルイ3世は882年、狩猟中に事故で崩御。カルロマン2世も2年後に事故死する。(4月10日)

 

ファム・ファタール

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   ファム・ファタール(Femme fatale)とは、運命の女、宿命の女という意味のフランス語。かかわった男を破滅させる、抗しがたく美しい女。女性美を崇拝した19世紀のラファエル前派の青年画家たちにとって、そのファム・ファタールの女性美の虜となって破滅することは、まさに宿命ともいうべきことであった。エリザベス・シッダルやジェーン・バーデンは背が高く、息をのむように魅力的で、理知的で神秘的な女性であったといわれる。

   ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-1882)がジェーン・バーデンに初めて出会ったのはロンドンの劇場であった。当時、ロセッティはエリザベス・シッダルと婚約していたが、ロセッティとジェーンは互いに惹かれるものがあった。だが、ジェーンはロセッティの弟子のウィリアム・モリス(1834-1896)と結婚し、ロセッティはエリザベスと結婚する。ロセッティの人妻ジェーンに対する思慕は止むことはなかった。結婚2年後には、美しきリジー(エリザベス)は、アヘンチキンの飲み過ぎで死んだ。

   モリスも妻ジェーンとは不仲であった。ロセッティとジェーンとの仲も続いた。モリスは友人のエドワード・バーン・ジョーンズ(1833-1893)の妻ジョージアナを愛するようになった。

    ロセッティはやがて麻薬とアルコールによって体が蝕まれていった。晩年は、病身で、気力も衰え、外出することもなくなった。1882年4月10日、53歳で亡くなった。

2024年4月 9日 (火)

ヒンクリー地下水汚染事件(1993年)

 クロム化合物のうち、酸化数が+6を含むものを六価クロムと呼んでいる。六価クロム化合物は、強い毒性を持ち大気汚染防止法に基づいて有害大気汚染物質とされている。アメリカ・カリフォルニア州ヒンクリーに工場がある大手企業PG&Eは1952年から1966年にわたる14年間にわたって発電のため、その冷却塔の防錆剤として六価クロムを使用し、汚染水を大量に投棄し続けていた。周辺住民に癌などの健康被害が多発したことから、シングルマザーのエリン・プロコビッチはPG&Eを訴え、1993年に集団訴訟を起こして勝訴した。

奈良の大仏さんの身長は?

Photo188077    本日は「大仏の日」。天平20年(747年)9月29日、東大寺大仏造立を開始し、5年後の天平勝宝4年4月9日、完成し、大仏開眼供養会が行われた。その後、大仏は頭部が欠落するなどの事故をたびたび引き起こし、そのつど修理を加えて維持してきたが、治承4年、平重衡の南都焼き討ちに災をこうむり、焼失した。第1回の復興は、源頼朝の援助を受けて俊乗房重源が着手し、文治元年には大仏を供養しており、東大寺全体の総供養は建仁3年盛大に執行された。ところが、永禄10年三好・松永の兵火がふたたび大仏を焼くにいたった。今回は戦国の世で復興事業はおもうように進まず、江戸期になって公慶上人がよく幕府を動かし、元禄5年大仏はここに3度雄姿を現した。これが、今日われわれが東大寺に拝む盧舎那仏大像である。奈良の大仏さんを見学する子どもたちの質問で、よくあるのが「大仏の毛髪、これを螺髪(らほつ)という、その数は?」 古くから966個と伝えられてきたが、レーザー光を使った最新技術によって492個だったことがわかった。大仏の身長は、座っているので座高は15m。蓮の台を含めると(つまり下から見上げたときの高さ)は、18mになる。

 

 

ワールシュタットの戦い(1241年)

  1241年のこの日、ワールシュタットの戦いがおこる。バトゥの率いるモンゴル軍が、リーグニッツ近郊の平原ワールシュタットで、ハインリヒ2世の率いるポーランド軍とドイツ騎士団の連合部隊と戦った。モンゴル軍は、まずドイツ騎士団を撃破、ついでポーランド軍に襲いかかった。ポーランド軍は善戦したものの後退を続け、ハインリヒ2世は戦死した。モンゴル軍の東ヨーロッパ征服はこれより長く続き、ロシア語で「タタールのくびき」とよんだ。なぜモンゴルはユーラシア大陸の大部分を占める世界帝国を短期間に築いたのか。①軽装備の騎兵だけの軍隊②千戸制③馬の多角的活用④強力なモンゴル弓、などが強さの理由に考えられる。(4月9日)

2024年4月 8日 (月)

名家の悲劇「カラカラとゲタ」

591pxseveran_dynasty__tondo  偉大な人物の息子がひどくできが悪いと、「不肖の息子」という汚名を着せられる。源頼朝の息子「源頼家」、足利義政の息子「足利義尚」、大内義興の息子「大内義隆」、加藤清正の息子「加藤忠広」など。親が偉大だと子供はかなり努力しても親を超えることは至難である。ある程度の力がありながらも長嶋一茂や野村克則も期待したほどの成績を残すことはでなかった。リチャード・クロムウェルは父の後を継いで護国卿に就任したものの、無能で人望がなかった。そのような悲劇の息子は世界史ではカラカラとゲタではないだろうか。211年2月4日、ローマ皇帝の名君として知られたセプティミウス・セウェルスが亡くなった。後継者となったカラカラとゲタは共同統治をするも兄弟仲が悪かった。カラカラは弟ゲタを暗殺する。カラカラは残忍な性格で、ローマに大浴場を建設して淫楽にふけった。217年4月8日、カラカラは近衛隊長ユリウス・マルティアリスにより暗殺された。(Caracalla,Geta)

太田道灌、江戸城に入る(1457年)

Dokan_samurai 長禄元年(1457年)のこの日、扇谷上杉家の家臣、太田道灌が武蔵国荏原郡桜田郷(麹町台地の東端)に平山城(のちの江戸城)に入る。太田道灌といえば「山吹の教え」の故事が有名である。道灌が武蔵野で狩りをしていた時のことである。にわか雨にあったので、とある民家で雨具を貸してほしいと頼んだところ、家の中から出てきた少女は無言で、山吹の一枝をさしだした。道灌は少女の真意がわからなかった。あとで古歌「ななえ八重花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞ悲しき」(「後拾遺集」兼明親王)に託して「実の(蓑)」をかけて、貧しきゆえに雨具を貸せないことを詫びた少女の心情を知った道灌は、風雅を解することができなかったことを恥じて和歌の道に励み、のちには武将ながらも名高い歌詠みになった。文明18年(1486年)7月26日、道灌は扇谷家の上杉定正に招かれ風呂場で謀殺された。(4月8日)

   





太田道灌借蓑図   大槻磐渓

 

  孤鞍雨を衝いて茅茨(ぼうじ)を叩く

  少女為に遣(おく)る花一枝

  少女言わず花語らず

  英雄の心緒(しんちょ)乱れて糸の如し

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春の猫

01121343   猫が交尾期になり、盛(さか)るのを「猫の恋」という。夜昼を問わず、物狂おしく鳴き立てて、妻恋う猫が往き来する。人も怖れず雨風にも怯えず、ろくろく家にも居つかない。何日もの後やつれ果てて帰ってくる。恋猫。うかれ猫。春の猫。猫の妻。孕猫。

又ここに猫の恋路とききながし(虚子)

   4月8日は高浜虚子、1959年の忌日。虚子忌。椿を愛し、法名を虚子庵高吟椿寿居士ということから、椿寿忌ともいう墓は鎌倉の寿福寺にある。

 

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参考書の日

2013021620971thumb 本日はお釈迦さまの生誕を祝う「灌仏会」(一般には「花まつり」)であるが、「参考書の日」でもある。全国的に入学式が多いこの日が選ばれた。参考書とは主に受験用の参考書であり、合格した者にとっては不要となることも多い。したがって街角で紙ゴミの日に紐で縛った新しそうな本が捨てられているのをよく見かけるのもこの頃である。高等学校の新科目となった「歴史総合」の詳細な参考書を探しているが、まだ刊行されていないのか、書店にあるのは図録のようなものだけである。

   「参考書」という語は、本来は「調査・研究・学習などの参考にする書」(広辞苑)であり、もちろん受験生だけのものではない。公共図書館の奉仕業務の一つに参考事務がある。図書館の利用者が、職員に「大鏡ありますか?」とたずねたところ、職員は「トイレに大きな鏡があります」と答えた。大鏡は、もちろん平安時代後期の歴史物語であるが、職員は大型ミラーと勘違いしたのである。これは単なる笑い話であるが、職員の技量の問題というよりも、図書館の奉仕活動のあり方やレファレンス・サービス(参考調査)など組織的な問題でもある。(4月8日)

 

 

 

 

 

 

ピカソはなぜいつも横縞シャツを着ているのか?

P_picasso2   画家パブロ・ルイス・イ・ピカソは1881年10月25日スペイン南部の港町マラガに生れた(プラサ・デ・ラ・メルセド36番地)。父ドン・ホセ・ルイス・ブラスコはマラガ州立サン・テルモ工芸学校の図画教師、母マリア・ピカソ・ロペスはアンダルシア出身。したがってパブロ・ルイス・ピカソがスペインの通常の呼び名であるが、父の姓ルイスはアンダルシアではよくある姓なので、1901年以降は署名から削って「パブロ・ピカソ」(Pablo Picasso)としている。ネットでもピカソの本名が長いことが話題になっている。マラガ市役所にある出生届には「 Pablo Diego  Jose Francisco de Paula Juan Nepomuceno Maria de los Remedios Cipriano de la Santisima Trinidad Ruiz y Picasso 」(パブロ、ディエゴ、ホセ、フランシスコ、デ、パクラ、ファン、ネポムセーノ、マリア、デ、ロス、レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、デ、ラ、サンティシマ、トリニダード、ルイス、イ、ピカソ)と書かれている。スペインでは名前の長さは家柄が古くて由緒正しいものであることを示している。また名前は長いほど幸福がやどると信じられてきた。パブロは一人息子で、美しい顔立ちのうえに早熟な才能に恵まれていたので、小さいころから愛情に慣れっこになり、これは生涯彼につきまとった。ピカソの写真を見ると多くは横縞のシャツを着ている。これは彼が港町マラガの生まれで生来、海が好きだからなのだろう。ピカソのポーターは「バスク」柄といわれるもの。バスク地方の漁師が仕事着として着ていたもので、バスク州ゲルニカがナチスに空爆されたことを忘れないという決意があるのであろう。1973年4月8日、南仏ムージャンの自宅で死去した。享年91歳。

 

 

 

 

 

2024年4月 7日 (日)

怪盗ディック・ターピン

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  イギリスの悪名高き盗賊としてディック・ターピン(1705-1739)が知られている。彼の首には200ポンドもの高額な賞金がかけられた。彼はジョン・パーマーと名乗り、堅気の馬・家畜商人として身を潜めていたが、酔ったあげくに喧嘩して逮捕され、身元がばれた。1739年4月7日、ヨークで処刑された。ターピンがロンドンからヨークまでブラック・ベスにまたがって逃亡したという伝説は、ヴィクトリア朝時代の作家ハリスン・エーンズワースの冒険小説「ルックウッド」 (1834)にもとづくつくり話である。

 

( keyword;Dick Turpin,John Palmer,London,Black Bess,Harrison Ainsworth,Rookwood )

花粉の季節になりました

Photo_2   風に乗って大気中に飛び散った花粉を吸い込むことが原因で起こる、アレルギー性の鼻炎や喘息など、毎年、決まった時期になると発症する身近な病気「花粉症」。各地で春の陽気となりましたが、こうなると心配なのが花粉の飛散が予想されます。

 

 

 

 

   1819年にイギリスのジョン・ボストックが牧草の干草と接触することによって発症することと考え、枯草熱(こそうねつ)と報告している。Blackley その後、イギリスのチャールズ・ブラックレイ(画像,1820-1900)の「枯草熱あるいは枯草喘息の病因の実証的研究」(1873年)により、花粉が原因で発症する「ポリノシス(花粉症)」と呼ばれるようになった。

2a312001_2    日本で花粉症が一般に知られるようになったのはいつごろか、正確な時期は定かではない。高度経済成長期の東京オリンピック頃から患者が急増する。1963年に東京医科歯科大学の斎藤洋三医師が鼻や目にアレルギー症状を生じる患者を多く診察したことが知られている。また馬場実の「アレルギー疾患としてのPollinosis(花粉症)とくにHay Feverについて」(「小児科」1964年10月号)や堀口申作「スギ花粉症Japanese Cedar Pollinosisに関する臨床的観察」(「日本耳鼻咽喉科学会会報」1965年10月号)など先行研究がある。一般に「花粉症」という言葉がマスコミに取り上げられるようになったのは1980年代に入ってからのようで、沢田亜矢子の曲に「花粉症」(1982年発売)がある。ところが由美かおるのヌードで話題となった映画「同棲時代」(1973)の中に花粉症で悩む女性の話がある。今日子の高校時代の友人・淳子(岩崎和子)が東京に来る。春が嫌いで、毎年この季節になると花粉で悩まされ、マスクをしている。この病気が原因で一生結婚ができないという。この時代はまだよくわからなかったらしく「花粉病」と言っている。1984年、プロ野球の田淵幸一は花粉症のために引退した。(John Bostock,Charles H. Blackley、)

戦艦大和、撃沈される(1945年)

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   昭和20年のこの日、日本海軍が誇った巨大戦艦「大和」は沖縄突入ならず海底に消えた。 この「天一号作戦」とは一体何だったのか?昭和20年4月1日、連合国軍が沖縄本島に上陸して来た時、日本海軍の水上艦艇実戦部隊は、開戦以来3年余りの激戦であらかた消耗し、わずかに戦艦大和のほか軽巡矢矧と駆逐艦8隻の第2艦隊があるだけだった。連合艦隊司令長官はこの部隊に対して、航空部隊の特攻攻撃と呼応し海上特攻部隊として8日夜明に沖縄突入作戦を行うよう命令した。

    これに従い大和(艦長・有賀幸作)を旗艦とした海上特攻部隊は、6日午後3時20分瀬戸内徳山沖を出撃した。味方航空機の上空援護は期待薄で、沖縄突入成功の可能性は少なかったが、「光輝ある帝国海軍部隊の伝統発揚とその栄光を後世に伝える」ことと、「一億総特攻のさきがけになる」ことの大義のもとに、艦隊の将兵は敢然と死地に赴いたのである。

   海上特攻部隊は豊後水道を経て、夜間大隈海峡を通過し、7日午前10時過ぎには九州坊ノ岬西南90浬の地点に到着したが、その行動はすでに敵に探知されており、アメリカ空母機動部隊は攻撃隊の発進作業中だった。

    敵の第1波攻撃隊280機が正午過ぎに海上特攻部隊を発見、まず約200機が午前1時まで雷・爆撃を行った。この攻撃で駆逐艦朝霜と浜風が沈没、軽巡矢矧は航行不能となり、大和には爆弾二発と魚雷一本が命中したが、損害は軽微だった。

    午後1時18分からは残りの約100機が来襲し、約20分の攻撃により駆逐艦霞が航行不能になり(のち沈没)、大和は魚雷三本命中を受けた。

    午後1時30分頃に新手の第2波攻撃隊126機が姿を現し、2時25分頃まで猛攻を加えた。この攻撃で軽巡矢矧が沈没し、駆逐艦磯風は大破(のち沈没)、大和は魚雷六本と爆弾二発が命中した。大和が受けた魚雷10本中9本が左舷に集中したため左へ激しく傾斜し、午後2時35分遂に転覆、爆発を起こして沈没した。北緯30度43分17秒、東経128度04分00秒の地点に没した。乗員3332人のうち艦隊を指揮していた伊藤整一中将をはじめ3056人が艦と運命を共にした。

    大和沈没で作戦中止となり、残った駆逐艦・雪風、初霜、冬月、涼月の4隻は佐世保に帰投した。こうして、連合艦隊は事実上、消滅したのである。(4月7日)

 

 

 

 

 

 

2024年4月 6日 (土)

劉備、蜀帝となる(221年)

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帝王図巻 蜀主劉備 伝閻立本
 北宋 ボストン美術館

   劉備玄徳。黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦して、建安19年(214年)、諸葛亮の「天下三分の計」に基づいて益州に侵入、つぎつぎに諸県を平定して、念願の蜀を手に入れる。ここに魏・呉・蜀の三国鼎立時代を掲げて漢中王の位についた。建安25年(220年)正月、曹操が洛陽で病没。あとを継いだ曹丕が、この年10月、献帝より禅譲を受けて魏王朝を創建した。劉備はこの知らせを受けると、翌年、元号を章武元年と定め、4月6日「漢室再興」の旗じるしをかかげて帝位に即く。これがいわゆる「蜀漢」あるいは「蜀国」である。妃は呉皇后、劉禅が太子。呉夫人の腹の劉永を魯王、劉理を梁王とし、百官も昇進、天下に大赦を行なった。

言い間違え、思い違い、勘違いはどこまで続くよ

 誰にでも人の名前や地名・言葉を、言い間違えや間違って覚えてしまうことがある。先日も女子アナが大谷翔平選手のことを「しょうたに・おおへい」と読んでしまった。すぐに突っ込まれて手で顔を覆いながら訂正したが、ネット上で大きな話題となった。

 思い違いで、何十年もずっと思い込んでいることがあるから可笑しい。長嶋茂雄引退の名スピーチ「巨人軍は永久に不滅です」。多くの人は「永遠に」とすり替えて記憶している。寺山修司が勘違いして書いたため、「永遠に」のほうが広まってしまった。▽息子の一茂はずっとHAWAIIを「ハウツー」、北海道を「きたかいどう」と読んでいた。▽「ランゲルハンス島」とは島の名ではなく、膵臓に散在する細胞の1つ。村上春樹のエッセーに「ランゲルハンス島の午後」という一編がある。生物の教科書に出てくるこの名に魅かれ、空想上の理想郷のような感じがしてくる。▽東京の青海(江東区)と青梅(多摩地区)。▽「蚤の市」ノミのことを英語でfleaという。発音は「フリー」だが、freeと勘違いしている人がいる。▽大島紬の産地は奄美大島(鹿児島県)。あんこ椿の伊豆大島と間違える。▽京都の東寺に伝えられた古文書、東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)。「ゆりぶんしょ」と読み間違い。▽「康範詩集」川内康範の詩集ではない。宋の汪晫の詩集。▽「さよなら」などのヒット曲で知られるオフコース。バンド名は草野球チームに由来するらしい。ところが「off course」と「f」が2つあるので、「もちろん」の意味ではなく「道を外れる」ということ。小田和正が建築から音楽の道に進んだことを含んでいるらしい。▽「マスクメロン」マスクとは「仮面」の意味ではなく、麝香のようないい香りがするという意味。▽×武蔵の森総合スポーツプラザ○武蔵野の森総合スポーツプラザ。▽菅直人と菅義偉。「すが」を「かん」と言い間違い。

   漢字の誤読もよくある。フジテレビの原田アナは「何卒」を「なにそつ」と読んでいた。御用達を「ゴヨウタツ」、順風満帆を「ジュンプウマンポ」などもよくある。正しくは「ゴヨウタシ」、「ジュンプウマンパン」。▽国際政治学者で美人の三浦瑠璃麗さん。「大喪(たいそう)の礼」を「たいもの礼」と読み間違い。▽乳幼児の病気「川崎病」をずっと神奈川県川崎市の公害病の一種と思い込んでいたが、実は発見者の川崎富作にちなんだ病名である。▽「おばけのQ太郎」における名脇役ラーメン大好き「小池さん」のモデルはアップダウンクイズの司会者小池清だと思い込んでいた。正しくはアニメイターの鈴木伸一である。

  中居正広は元AKBの河西智美を「かわにし」と呼んでいた。正しくは「かさいともみ」。▽桜田五輪相が「れんぽう」発言を謝罪した。立憲民主党の蓮舫氏は「れんほう」が正しい。人の名前を言い間違えるのは失礼。▽和歌山県の有田みかん。「ありだ」と濁って発音するのが正しい。▽「焼け木杭に火がつく」を「焼けぼっ栗に火がつく」と思っている人がいる。▽青森県五所川原の十三湖(じゅうさんこ)。民謡「十三の砂山」は「とさのすなやま」。中世都市遺跡「十三湊遺跡」は「とさみなといせき」。▽インディラ・ガンディーはマハトマ・ガンディーの娘ではなく、ネルーの娘。▽俳優の筒井道隆を小説家、筒井康隆の息子だと思っている人がいるが、名前が似ているだけで親戚でも何でもない。▽「板垣死すとも自由は死なず」岐阜の板垣遭難事件は有名であるが、このとき板垣は死なず、本当に亡くなったのは事件から37年のちのことである。▽京都市左京区一乗寺にある金福寺。「きんぷくじ」ではなく、「こんぷくじ」が正しい。▽アメリカ合衆国の国歌を「星条旗よ永遠なれ」だと思っている人がいる。スーザの曲は国の公式行進曲。アメリカの国歌はジョン・スタッフォード・スミス作曲の「星条旗」。▽シェリーの詩「西風に寄せる歌」。有名な一節「冬来たりなば春遠からじ」と訳した人を上田敏と思っている人がいる。本当は木村毅(きむらたけし)である。▽向田邦子のエッセイ「眠る盃」。タイトルは「荒城の月」の「めぐる盃かげさして」の一節を「眠る盃」と誤って覚えた少女時代の回想。▽木村拓哉はクイズ番組で「シザーサラダ」と回答。正しくは「シーザー・サラダ」Caesar salad。シザーサラダだと「ハサミ入りサラダ」という意味になる。ロメイン・レタス、クルトン、パルメザンチーズをオリーヴオイル、ニンニク、レモン、アンチョビーのドレッシングで和えたサラダ。古代ローマのシーザーとは無関係。メキシコのティワナにあるシーザーズという名前のレストランで考案されたから。▽ブランデ―のナポレオン。特定銘柄の酒ではなく、熟成年を指す記号。▽「少年老い易く学成り難し」朱熹の作ではなく、日本の室町時代の禅僧・観中中諦の作である。▽小倉智昭アナは「ブリ、カンパチは白身の魚」と発言。身の色から勘違いしやすいが、ブリ、カンパチはともに回遊魚であるアジ科に属し、赤身の魚である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北極の日

Np019982_2    本日は「北極の日」。1909年のこの日、アメリカの軍人ロバート・ピアリーが北極点に到達した。フリチョフ・ナンセン(1861-1930)ら13人の隊員を乗せたフラム号は、北極探検に1893年6月24日、オスロを出帆した。9月22日、フラム号は北緯78度50分、東経133度37分の地点で氷に閉じ込められた。ナンセンはヨハンセンを伴って下船し、犬ぞりとカヤックを使ってさらに北へ進み、前人未踏の北緯86度13分6秒という最高緯度に達した。途中でF・ジャクソン探検隊と出会い、1896年8月13日、ノルウェーに帰ってきた。

   ナンセンは北極点に到達することができなかったが、この冒険が北極の最も大事な流れ、地球の温度分布に多大な影響を与えるトランス・ボーラー・ドリフトのPeary1発見につながった。1909年4月6日、アメリカのロバート・ピアリー大佐(1856-1920)、マシュー・ヘンソンらによって北極点への到達は達成された。(4月6日)

 

 

 

 

ロバート・ピアリー

 

( keyword;North Pole,Fridtjof Nansen,Robert Edwin Peary )

 

 

 

 

 

 

2024年4月 5日 (金)

「論語=精神修養」を否定する説

    野村克也が日中友好の架け橋として孔子と論語の精神普及に寄与したとして「2010孔子文化賞」を受賞した。ほかに渡邊美樹、酒井雄哉、北尾吉孝も受賞している。論語と経済界は相性がよい。渋沢栄一の「論語と算盤」もある。もともと論語は孔子が士大夫階級である士に講義したもので、治める者の修養であって、一般の民衆向けの内容ではない。論語は孔子の著作ではなく、弟子たちがまとめた言行録、そしてその成立は孔子の死後かなり経たものであろう。しかし、中国にかぎらず、朝鮮、台湾、日本といずれも論語と孔子の人気は根強い。東アジアでは論語の説く道徳は規範であり、正義とされている。四書五経の中でも最も読まれる書物である。

 私たちは肉体だけで存在しているのではない。だが肉体には限界があります。年をとれば機能も衰え、弱ります。リハビリや鍛錬して一時的に活発にしても、時が来れば朽ち果てます。しかし、精神は修養を積むことによって、年齢に関係なく、長い年月あいだ人間として立派にいきていくことが出来ます。つまり精神修養=論語として、長い年月、漢字文明圏では論語が尊重されてきました。

    あるブログを見ると或る小説家のかたで、論語を全否定している事例があれば教えてほしいとある。寄せられたコメントには、魯迅があげられていたが、ほかには見あたらなかった。実は私の貧しい書棚に「論語と孔子の思想」(岩波書店)がある。津田左右吉という有名な学者が書かれたもので、購入してから37年以上が経過するが難しいので通読していない。知らない人が一見すると、この本は、論語はすばらしい、と書いてあるものだと思うだろう。実はその反対である。津田は孔子のことを「学問的精神が欠けている」(429頁)、「礼は役にたたない」(395頁)、「(孔子の正確な記録は残っていないので)孔子のことは何もわからない」(294頁)とある。つまり実証主義的な史料批判に立つ津田左右吉は、孔子の思想は後世(漢代)のもので本当のことはわからない。そのようなわからないものを大事そうに持ち上げることは、うさんくい者が政治的に利用するだけだからよくない、といいたいのだと推測している。津田は偉い学者で、戦前に日本人によって唱えられた東洋文化、東洋精神もインチキであることを実証的に論証している。インド、中国、日本をアジアとか東洋とかいうが、一つになったことはない、「アジアはひとつではない」というのが津田の研究の成果である。もちろん当時の蓑田胸喜などのアジア主義者に反感を買い、辛い目にあった。それでも戦後も思想は一貫している。漢字をなるだけつかわず、自分の名前も「つだそうきち」と表記することが多い。「古事記及び日本書紀の研究」で神武以来の天皇の存在を否定したが、天皇は尊敬していた。学者の鑑のような人であるが、論語も否定し、唐詩も感心せず、「文学に現われたる我が国民思想の研究」という大著があるが、記紀の国民文学の価値を「余り高くない」と書かれている。つまり津田は懐疑論で多くの古典は後代の創作を含むのであまり信奉することの危険を説いている。もちろん実証過程が専門的なので、一般向きではないし、津田の学問的態度がすべて正しいとはいわない。しかし「孔子平和賞」や「孔子文化賞」などが次々生まれると、津田のいうことは正解だったと感じる。

 

 

 

 

イースター島の発見(1722年)

  探検家ヤーコプ・ロッへフェーン(1659-1729)はオランダのミデルブルフに生まれた。1683年、公証人となる。1690年、ハルデルワイク大学で法律を修め、1707年から1714年までバダビアで裁判官となる。1715年、帰国。のち海軍提督となり1721年から1722年、オランダからホーン岬経由で太平洋へはいる。ファン・フェルナンデス諸島に立ち寄り、さらに航海を続け、1722年4月5日、イースター(キリスト復活祭)の日に、小さな島を発見する。海岸にそって煙が立ちのぼり、遠くから緑なす丘が見える。ロッへフェーンは、この島にイースター島という名前をつけた。島のシンボルとなっている巨大な石造(モアイ像)に関して航海日誌にこう書いている。

「わたしたちはかれらが、建立したすばらしく高い石像のまえで、火をたくことに気づいた。そしてその後、像の足元に頭を下げてうずくまり、手のひらをあわせ、交互に上げたり下げたりすることも知った。大きな、あるいは太い木材もないのに、どうしてこんなものを立てることができたのか、わたしたちには理解できなかった」

    そのころはまだ島のモアイの半数ほどが、まだ直立していたとある。像の調査に関しては、後世の探検家たちに残されたのである。

    モアイ像の石切り場はラノララクにある。そこから80トンもあるモアイ像はどのようにして運搬したのであろうか?2011年、テリー・ハントとカール・リポはある学説を発表した。巨大なモアイ像はロープと人の力だけで左右に揺らし、直立で移動したという。この方法を実験によって証明した。18人で3方向からロープを引っ張ると、40分で100mの移動が可能であった。巨石像の遺跡のほかに、「ロンゴロンゴ」とよはせれる表意文字がのこされているが、いまだに解読されていない。

(Terry Hunt,Carl Lipo,Moai,Jacob Roggeveen,Easter Island )

背番号3伝説

Photo_3 本日は「デビューの日」。昭和33年のこの日、巨人の長嶋茂雄がデビューしたことに因んでいる。対国鉄スワローズ戦に、3番サードでスタメン出場した。国鉄のエース金田正一に4打席連続三振するものの、そのすべてが渾身のフルスイングによる三振であったことが伝説的に語り継がれている。あるとき徳光和夫が長嶋茂雄に人を紹介してもらった。そして長嶋がその場で電話番号をメモして渡してくれた。翌日、徳光が電話をかけようとするが、どう数えても番号がひと桁足りず、電話してもつながらない。後日、徳光が長嶋がメモを書いてくれた机を見ると、何とサインペンで3の字が残っていた。長嶋は紙からはみ出して3の数字を書いていたのだ。(4月5日)

 

 

 

盆栽

Matsudamitsuo_0212thumb597x600544   埼玉県は盆栽の産地で知られる。関東大震災で被災した東京小石川周辺の盆栽業者がこの地に移住して形成された。1989年には大宮市で世界初の国際盆栽大会が開かれた。2010年にはさいたま市大宮盆栽美術館が開館した。西では香川県が盆栽の産地で知られる。2011年11月には高松市で第11回アジア太平洋盆栽水石大会が開催された。

 盆栽関連の用語「走り枝」全体の枝の伸び具合に対し、極端に勢いよく伸びた枝のこと。「芽あたり」芽切りや芽摘みなどによって普段芽吹がないようなところから出る小さい芽のこと。「肉巻き」時間が経つことによって、枝や幹を切除した跡が癒着して治ること。

   盆栽は現在ヨーロッパなど海外でも人気があり、日本語の発音を基にした「BONSAI」で通じることが多い。この盆栽、日本が起源ではない。中国の唐の時代に行われていた「盆景」が朝鮮や日本に伝わって発達したものである。

2024年4月 4日 (木)

人名研究は楽し

 いろいろな生き物のなかで人間だけが、自覚的に生きていることのあかしのもつものとして歴史をもっている。そのような歴史を生きた、あるいは作り上げたのは一人ひとりの人間であり、識別するために人名がそれぞれに与えられている。

元首と人名
 1721年4月4日、ロバート・ウォルポールが初代イギリス首相に就任した。1940年のウィンストン・チャーチルが第61・63代、現首相リシ・スナクは第79代である。1789年、アメリカ合衆国ジョージ・ワシントンが初代大統領。1961年のジョン・F・ケネディは第35代。2021年、ジョー・バイデンは2021年就任で第46代。日本の岸田文雄は初代伊藤博文から数えてちょうど第100代目の首相である。

オリンピックと人名
   たとえばオリンピック。東京五輪では世界から205の国・地域が参加し、全種目339、およそ11000人以上選手が集まった。世界各国のさまざまな選手が連日ニュースに取り上げられ、メダルを獲得すれば一夜明けると著名人になれる。男子陸上100mのラモントマルチェル・ヤコブス、競泳男子100m自由形ケーレブ・ドレッセル、トライアスロン男子金メダル、クリスティアン・プルメンフェルト、柔道大野の対戦相手、ジョージアのラシャ・シャフダトゥアシビリ。すべて名前を暗記することは困難であるが、世界中の多くの人の記憶に残る名前であるは間違いない。

野球と人名
 大リーグの大谷翔平。連日その勇姿がテレビ中継される。しかしドジャーズは他にも強打者が揃っている。ムーキ・ベッツ。フレディ・フリーマン。ウィル・スミス。テオスカー・ヘルナンデス。NPBセ・リーグの4番打者は、岡本和真、村上宗隆、大山悠輔、牧秀悟、中田翔、堂林翔太。

人名事典に載っていない人名
 誰でも知っている有名人。誰も知らない無名の人々。人名はこのネット時代、もっとも重要なキーワードである。チャールズ・バーンは1780年代ロンドンで長身で有名だった人物。およそ250cmくらいあった。ロバート・ホワイトヘッドを知っているか?魚雷を発明した科学者である。アメリカ人のレイ・チャップマンを知っているか?インデアンスの遊撃手、1920年頭部に死球を受け死亡した。MLB唯一の死亡事故である。アレキサンダ―・セルカークを知っているか?スコットランドの水夫で大西洋の孤島で4年余り遭難生活した。のち小説「ロビンソン・クルーソー」のモデルとなる。ジム・フィックスを知っているか?ジョギングの創始者だが、ジョギング中に心臓発作で死亡した。

 尾崎宗吉(1915-1945)という作曲家。若くして太平洋戦争に応召して戦死したので音楽界で活躍を果たせなかった。戦地に赴く前に「夜の歌」(チェロとピアノ)の小曲を遺したが、今は密かなブームである。

  ラファエル・ヒュトロダエウスを知っているか?タイトルしか知らない古典の名作、トマス・モアの「ユートピア」に登場する。彼が見聞した島の様子を語る哲学者(旅人)である。もちろん架空の人物。

   山川出版社の「世界史のための人名事典」は便利なのでよく利用している。収録項目数は1914人である。しかしとても歴史的に重要な人物が漏れていることがある。三国時代の「司馬懿」である。179年ー251年。後漢王朝に仕えていた司馬防の子。幼時から英才の誉れが高く、のちに曹操に仕え、諸葛孔明のライバルとなる。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という故事が有名で、仲達は孔明が生きていると思い退却したことになっている。この逸話は五丈原の農民たちのフィクションで、仲達はそれほど臆病ではない。なにも深追いする必要はなかったのであろう。なぜ司馬懿は歴史事典には収録されないのか不思議である。孫の司馬炎(武帝)は、266年に晋を建国し占田法・課田法を制定したので重要とされ、収録されている。中国ドラマ「三国志 Three Kingdoms」(2010)後半の第四部はほとんど司馬懿が主役格である。倪大紅が演じているが老獪でとてもよい。わざと病気のふりをして曹丕・曹爽をだます。愛妾の李依暁もとても美しい女優さん。司馬懿を恐れる曹丕がスパイとして送り込まれた。やがて司馬懿の子を宿すが、司馬懿の手によって殺害される。オリジナル・ストーリーだろうが面白い。

 

「おはなはん」放送開始(1966年)

53fdad72 NHK連続テレビ小説「虎に翼」。第110作目。日本で初めて法曹の世界に飛び込んだ、一人の女性の実話に基づくオリジナルストーリー。このほか「オードリー」「ちゅらさん」「ゲゲゲの女房」「カムカムエヴリバディ」などなど懐かしい再放送作品が見れるので毎日が忙しい。昭和41年のこの日、「おはなはん」の放送が開始された。四国に生まれ、青年将校早見謙四郎に嫁いだ浅見はなの一代記であるが、平凡な女の一生が、平凡なゆえに教育ママブームの主婦層の共感を呼び、朝ドラのスタイルを確立した作品である。そもそも朝ドラとは何か。昭和36年「娘と私」(獅子文六)、昭和37年「あしたの風(」壺井栄)、昭和38年「あかつき」(武者小路実篤)、昭和39年「うず潮」(林芙美子)、昭和40年「たまゆら」(川端康成)、昭和41年「おはなはん」(林謙一)と第1回から第6回までを一覧する。そもそも連続テレビ小説というのは、新聞小説のような味わいで文芸作品をドラマ化するという試みであろう。現在のような新進女優の登竜門となったのは第4回の林美智子と第6回の樫山文枝の人気によって、朝ドラ・ヒロインが定着したのである。

 その中で「たまゆら」は川端康成の初のテレビに書き下ろし、映画界の名優・笠智衆はテレビ初出演という意欲作であった。川端の1回分の分量が400字詰め1枚半。これを山田豊、尾崎甫が脚本にする。扇千景、直木晶子、亀井光代の3人の娘は美人ぞろい。平和な家庭である。これだけ条件がそろいながら、評判はあまり良くなかった。家庭内の平凡な生活ばかりがダラダラつづき、事件らしいものは一つもない。ようするに「つまらない」の一言に尽きる。川端文学の世界と昭和40年時代の視聴者のテンポとには大きな隔たりがあったようだ。続く「おはなはん」は無名の新人で誰もが期待していなかった。しかし初回から木に登って婿殿をみつめるとき、新しいテレビのヒロイン誕生が予感された。朝ドラ・ヒロインのたくましさと聡明さ、明治の近代的女性の魅力、次々起こる事件、多くの視聴者は「おはなはん」に感情移入できた。6年目にしてようやく連続テレビ小説のスタッフは成功の方程式をつかんだようだ。(4月4日)

 

キング牧師、暗殺(1968年)

  黒人解放運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは1967年にはベトナム戦争に反対をさけび、各地に遊説していた。1968年4月4日、テネシー州メンフィスで「貧者の行進」の運動を遊説中にジェームズ・アール・レイに暗殺される。弾丸は喉から脊髄に達し病院に搬送されたが、間もなく死亡した。キング牧師の名言。「私たちは兄弟としてともに生きることを学ばなければならない。それができなければ、愚か者としてともに滅びてしまうだろう」

We must learn to live together as brothers or perish together as fools.

 

 

2024年4月 3日 (水)

エドワード懺悔王の戴冠式 (1043年)

 1043年のこの日、エドワード懺悔王がウィンチェスター寺院で戴冠した。王は信仰心に篤く、ウェストミンスター寺院を建て替えたりするなど、のちに聖人に列せられた。しかし政治的には無能で、ゲルマン民族アングロ・サクソン部族系のウェセックス王家の娘と結婚したものの、ノルマン人を重用したため、義父ゴドゥィンと対立した。懺悔王の死後、ハロルド2世が即位するが、ヘイスティングスの戦いでハロルド2世が戦死し、ノルマンディー公ギヨ―ム2世によってノルマン・コンクエストが確立する。(4月3日)

有名人の意外な趣味

 本日は趣味の日。人生食べて寝ていればほかに何にもしなくてもいいのだが、何もしないのもつまらない。趣味とは、専門家としてではなく、楽しみとしてする事柄である。各界で活躍中の有名人の趣味を調べる。新垣結衣の爬虫類の飼育など意外すぎる趣味もある。有名なのは、土井たか子のパチンコとカラオケ。石坂浩二のプラモデル、タケカワユキヒデの漫画収集、布川敏和のアロハシャツ収集、松井秀喜の腕時計収集、野村義男ギター収集。中尾彬の「ねじねじ」(自家製マフラー)。デーモン小暮や愛子さまは相撲マニア、渡辺徹・つるの剛士の将棋、イチロー・与謝野馨の囲碁、小沢一郎の小鳥飼育、養老孟司や哀川翔、香川照之の昆虫採集、小泉純一郎のオペラ鑑賞、石破茂の模型、川島なお美のワイン、森村誠一、福山雅治や玉木宏、唐田えりかの写真、田中健のケーナ演奏、桂南光のオカリナ、松下奈緒のピアノ、大杉漣のギター、松方弘樹、梅宮辰夫、エド山口、田山涼成、伊勢正三や杉浦太陽・山田純大・奥田民生・城島健司、武井咲の釣り、市毛良枝・高橋一生の登山、内山理名のヨガ、鈴木亮平の世界遺産と旅行、吉永小百合の旅行と水泳、針すなお、由美かおるの合気道、山川豊のボクシング、加山雄三や八代亜紀の油絵、里見浩太郎の水墨画、井上真央の書道、中尾彬、石坂浩二、加山雄三、八代亜紀、忌野清志郎、工藤静香、清原果耶の絵画、本仮屋ユイカの陶芸、秋川雅史の彫刻、あおい輝彦のバードウォッチング、宇津井健・華原朋美・岩崎宏美の乗馬、南沢奈央の落語、氷川きよしの家庭菜園、いとうせいこう園芸、三遊亭小遊三・渡辺美奈代の卓球、苅谷俊介の考古学、岡本玲の算盤、森永卓郎のグリコのおまけ・トミカ(ミニカー)の収集、横山やすし・蛭子能収の競艇、森昌子の韓国ドラマ、松本潤・安達祐実の盆栽、多部未華子の読書、菅野美穂のヨガ、柳家小さん・橋本龍太郎の剣道、夏目雅子、冨士眞奈美、小倉一郎の俳句など。なぎら健壱・火野正平・筒井道隆・鶴見辰吾の自転車。華原朋美の馬術、所ジョージ、清水国明のバイク、山本昌のラジコン。浅利陽介のバスケットボール。ゴルフを趣味とする人は多い。大橋巨泉、小林旭、原辰徳、神田正輝、石田純一、野口五郎、大月みやこ、所ジョージなど。スポーツ観戦ではサッカーの小柳ルミ子、日向坂46の影山優佳。相撲の大村崑。

  散歩は趣味の中でも王道である。健康と若さを保つのにふさわしい趣味である。ただし、俳優の細川俊夫は3年連続大会競歩大会で優勝し、趣味というよりはトップ・アスリートだった。ボクシング世界チャンピオン輪島功一は毎朝犬を連れて井の頭公園を散歩する。ついでにゴミ拾いをするというから立派である。坂東三津五郎は城めぐり。有馬朗人(物理学)や角川春樹の俳句は趣味の域をこえている。俳人である。片岡鶴太郎や米倉斉加年(俳優)の作品は芸術品で腕はプロ級。つまり趣味(アマチュア)とプロのボーダーラインの判定は難しい。

 

    意外な人の趣味としては、高木ブーのクレー射撃、香川照之・中島美嘉の昆虫の標本コレクション。小島陽菜の競馬など。深津絵里のように趣味はなし、SNSもやらない、という人もいる。趣味なしのほうが、かえってミステリアスな魅力が感じられる。

    趣味にも実にいろいろあって、ソバ打ち、航空無線の傍受、エコ、防災と多種多様。そこで大きく6つに分けて、趣味の種類をみてみよう。

1.収集(コレクション)する 

切手の収集のように、何かを集めること。フィギュア、カード、めんこ、古本、絵葉書、トレカ、ポスター、ブリキのおもちゃ、民芸品、やきもの、宝石、香水、鉄道関係のグッズ、書画骨董、古美術。

2.学習する、読む、書く、聞く、見る

英会話など技術を習得するもの。漢字検定、簿記、風水、占星術、和裁、ペン習字、書道、絵画、マンガを描く、手話、点字、朗読、絵画鑑賞、映画・オペラ・バレエ鑑賞、仏像鑑賞、天体観測、落語、レコード鑑賞、日記、ブログ、作文、メール、小説、新聞への投稿、株など投資。

3.楽しむこと

盆栽、金魚、ペット・小鳥の飼育、パズル、囲碁、将棋、トランプ、ゲーセン、花札、いけばな、俳句、短歌、百人一首、パチンコ、麻雀、競馬、競輪、茶道、ピアノ・ギターなど楽器演奏、カラオケ、近所にある地蔵の掃除をする、鳩に餌をやる

4.つくること、たべること、飲むこと

農業、漁業、畜産業、林業、料理、酒、園芸、陶芸、手芸、編み物、キルト、ビーズ、押し絵、折り紙

5.自分の体を動かすこと

散歩、旅行、探検、温泉、写真撮影、健康体操、陸上、水泳、球技、スキー、登山、ハイキング、森林浴、ボーリング、ゴルフ、テニス、卓球、オートバイ、サイクリング、相撲、ボクシング、柔道、ヨガ、空手、剣道、弓道、合気道、気功、ダンス、スケボ&スノボ、サーフィン、祭りの山車をかつぐ、考古学発掘

6.ファン、追っかけ、マニア

野球・サッカーなど自分は競技しないが鑑賞する。韓流ファン。アイドルのファンクラブに入る。各派の宗教の信者や政治団体に加盟することもこれに類する行為。

 

 

論語及び孔子関係文献目録

Photo_2  1690年2月7日、孔子を祭る湯島聖堂が完成した。孔子の学問を儒学として薦めたのは江戸時代になってからだが、すでに江戸初期にもその気運はあった。加藤清正は戦国の武将の例にもれず、本などあまり読まなかったが、教養派の前田利家の影響から読書するようになった。清正が、江戸と熊本を往来する船の中で、「論語」を読みながら朱点ほほどこしているのを見ていた飼い猿が、清正が厠へ行った間に主人の真似をして「論語」の上に縦横に朱の線を走らせてしまった。戻ってきた清正はこれを見てニッコリ笑い、「おぉ、そちも聖人の教えを知りたいか」と言って、猿の頭を撫でたという。この逸話によって、清正が平生「論語」に親しんでいたことがよくわかる。清正ならずとも心ある部将はみな論語を愛読した。大内義隆、徳川家康など。明治以後は渋沢栄一、下村湖人、武者小路実篤など。第一生命の創始者・矢野恒太にも『ポケット論語』の著書がある。講談社をつくった野間清治にも、事業運営の柱に「論語」を据えたことは、あまねく知られている。最近では野球の野村克也が『野村の実践論語』の著書を刊行している。明治以降、「孔子及び論語」に関する文献は何点くらい出版されたのであろう。国会図書館で「論語」を検索すれば書籍だけで10681件がヒットする。

 

  論語関係文献
図書の部
論語微 10巻 荻生徂徠
論語古義 10巻 伊藤仁斎撰 1712
論語 全4巻 朱熹 学習館 1870
論語集説 全6巻 安井息軒 1872
論語類編心解 4冊和本 渋谷鉄臣(如意)編 京都・文石堂 1891
孔子 世界歴史譚第2篇 吉国藤吉 博文館 1899
論語新証 于省吾 1900
和論語 本社出版部 仏教図書出版 1900
孔門之徳育 亘理章三郎 開発社 1901
論語纂註 米良東嶠(倉子痩) 村上書店 1901
論語訓釈 斎藤清之丞 金華堂 1903
論語補註 山本章夫 山本読書室 1903
論語講義 上下 花輪時之輔講述 深井鑑一郎編 誠之堂 1903
孔門之徳育  1巻 亘理章三郎 開発社 1901
論語補註 2冊 和本 山本章夫註 京都・山本読書室 1903
孔夫子伝 蜷川龍夫 文明堂 1904
孔子研究 蟹江義丸 金港堂 1905
論語講義 根本通明 早稲田大学出版部 1906
論語 ジェームズ・レッグ訳 依田喜一郎 嵩山房 1908
孔子 西脇玉峰 内外出版協会 1909
ポケット論語注釈 奥村恒次郎註釈 大阪・山本文友堂 1909
論語経典余師 渓世尊講 宮崎璋蔵校訂 日吉丸書房 1909
論語講義 近藤元粋 篠田栗夫共著 大日本商業学会 1909
論語古義 佐藤正範 六盟館 1909
論語集説 漢文大系1 安井息軒 服部宇之吉校 冨山房 1909
論語講話 大江文城 東洋大学出版部 1909
孔子伝 遠藤隆吉 丙午出版社 1910
孔子 白川次郎 東亜堂 1910
孔子之聖訓 二條基弘 東久世通禧 名著学会出版部 1910
荻生徂徠論語辨 祥雲碓悟校 1910
論語弁 荻生徂徠 祥雲碓悟校 天書閣 1910
論語講義 一戸隆太郎 大成社 1910
論語国字解 一名経伝余師 渓世尊講 深井鑑一郎校 宝文館 1910
論語詳解 川岸華岳 郁文舎 1910
新訳論語(新訳漢文叢書11) 大町桂月訳 至誠堂 1912
論語示蒙句解 漢籍国字解全書1 中村惕斎 早稲田大学出版部 1912
論語書目 中村久四郎編 孔子祭典会 1913
論語源流 林泰輔 自筆稿本 1915
論語年譜 林泰輔 龍門社 1916
孔子及び孔子教 服部宇之吉 明治出版社 1917
論語講義 漢文註釈全書1 三島毅(中洲) 明治出版社 1917
論語鈔 成簣堂叢書10  上村観光解題 1917
儒教と現代思潮 国民思想涵養叢書3 服部宇之吉 明治出版社 1918
論語講義 細川潤次郎 南摩鋼紀共著 吉川弘文館 1919
孔子と其思想及教義 鈴木周作 弘道館 1922
渋沢子爵活論語 安達大寿計編 宣伝社 1922
世界三聖伝 基督・釈迦・孔子 松本雲母・大屋徳城・西脇玉峯編著 1923
現代に活かした論語講座 西川光二郎 丙午出版社 1924
孔子聖教之攻究 景仰子、柿本寸鉄 人文社 1924
孔子聖蹟志 馬場春吉 大東文化協会 1924
孔子研究 改版 蟹江義丸 京文社 1927
国訳論語 斯文会編 龍門社 1928
孔子鑑賞 大月隆仗 敬文館 1929
論語明解 江口天峰 至玄社 1929
孔子 小学児童学習の友 高橋喜藤治 郁文書院 1930
政教より観たる論語新釈 赤池濃 早稲田大学出版部 1930
論語講本(集註) 島田欽一校訂 有精堂 1930
論語鈔 村上龍英 広文堂 1930
論語詳解 沢田総清 健文社 1930
孔子全集 全2冊 藤原正纂訳 岩波書店 1931
論語善本書影 大阪府立図書館編 京都・貴重書影本刊行会 1931
論語詳解 簡野道明 健文社 1931
孔子家語 岩波文庫 藤原正訳 岩波書店 1933
論語證解 上中下 漢籍国字解全書28,29,30 早稲田大学出版部 1933
論語私感 武者小路実篤 岩波書店 1933
論語・孟子 東方古典叢刊7 五十沢二郎 竹村書房 1933
論語・孟子の話 国民修養講和3 西川光二郎 春陽堂 1933
孔子 室伏高信 日本評論社 1934
孔子解説 学庸篇 北村佳逸 立命館出版部 1934
論語講義 岡田正三 第一書房 1934
論語心解 西川光二郎 自動道話社 1934
論語の解釈 村田慎三 白帝社 1934
論語詳解 前島成 大修館 1934
論語全解 島田鈞一 有精堂 1934
孔子及孔子教 住谷天来 新生堂 1935
孔子教と其反対者 北村佳逸 言海書房 1935
孔子教の戦争理論 北村佳逸 南郊社 1935
論語評釈 大江文城 関書院 1935
論語講義 安井小太郎 大東文化協会 1935
論語古伝 10巻 仁井田好古撰 南紀徳川史刊行会 1935
論語大学中庸 漢籍を語る叢書2 田中貢太郎 大東出版会 1935
論語新解 国語漢文研究会編 明治書院 1935
孔子 社会科学の建設者・人と学説叢書 田崎仁義 三省堂 1936
孔子の生涯 諸橋轍次 章華社 1936
仁の研究 山口察常 岩波書店 1936
精講 論語百講 松田金重編 三省堂 1936
日本精神と孔子教 社会教育パンフレット236  岡村利平 社会教育協会 1936
ものがたり論語 三宅昭 モナス 1936
論語講座 全6巻 高田真治・諸橋轍次・山口察常編 春陽堂 1936-37
孔子伝 岡村利平 春陽堂 1937
孔子伝 (附)弟子列伝・集語 岩波文庫 藤原正訳注 岩波書店 1937
孔子とをしえ 加藤虎之亮 国民精神文化研究所 1937
孔子の思想・伝記及年譜 論語講座研究篇 春陽堂 1937
孔子の人格と教訓 塩谷温 開隆堂書房 1937
儒教の史的概観 高田真治 春陽堂 1937
論語・孔子 室伏高信全集8 青年書房 1937
孔子 大教育家文庫1 和辻哲郎 岩波書店 1938
全釈論語 幸田露伴 双葉書房 1938
大学論語解義 四書研究 岩部撓・深谷賢太郎 啓文社 1938
論語精解 重野篤二郎 白帝社 1938
論語物語 下村湖人 講談社
孔子論 林語堂著 川口浩訳 育成社 1939
四書新釋論語 上下 内野台嶺 賢文館 1939
論語講義 渋沢栄一 二松学舎大学出版部 1939
論語私見 上下 山本憲永弼 松村末吉家 1939
新講論語読本 西川光二郎 春陽堂書店 1939
論語読本(興亜国民) 上下 論語 東洋思想文庫 東洋思想文庫刊行会 第一出版協会 1939
論語之研究 武内義雄 岩波書店 1939
論語と教養 谷口廻瀾 谷口廻瀾先生還暦記念刊行会 1940
孔子 武者小路実篤 講談社 1941
孔子と其の生涯 田中貢太郎 東海出版社 1941
孔子廟参拝記 菟田茂丸 平凡社 1941
算標論語集註 瀧川亀太郎 金港堂書籍 1941(1913)
論語と支那の実生活 後藤朝太郎 高陽書院 1941
論語詳解 最新研究 徳本正俊 芳文堂 1941
論語の思想 渡部信治郎 畝傍書房 1941
論語の組織的研究 中島徳蔵 大日本出版株式会社 1941
孔子・人とその哲学 室伏高信 潮文閣 1942
孔子の新研究 大月隆仗 新民書房 1942
孔孟思想講話 新潮文庫 高須芳次郎 新潮社 1943
論語ものがたり 全釋 三宅昭編 博文社 1943
孔子 和辻哲郎 植村書店 1948
論語総説 藤塚鄰 弘文堂 1949
論語十二回講話 西川光二郎 1942
論語と孔子の思想 津田左右吉 岩波書店 1946
論語抄 幸田露伴 中央公論社 1947
孔子とその弟子 下村湖人 西荻書店 1950
論語集註 簡野道明 明治書院 1950
孔子 岩波新書 貝塚茂樹 岩波書店 1951
孔子 室伏高信 潮文閣 1951
孔子廟堂碑 展大法帳1 虞世南 春潮社 1951
論語物語 角川文庫 下村湖人 角川書店 1951
論語私感 三笠文庫 武者小路実篤 1951
論語私感 新潮文庫 武者小路実篤 1951
孔子 偉人物語文庫 小田嶽夫 偕成社 1952
孔子と老子 諸橋轍次 不昧堂書店 1952
論語に学ぶ 赤木三良 池田書店 1952
論語新解 簡野道明 明治書院 1952
論孟精選 簡野道明 明治書院 1952
全訳論語精解 重野篤二郎 桜井書店 1953
論語新釈 宇野哲人 弘道館 1953
論語全解 島田鈞一 有精堂 1953
現代語訳論語 下村湖人 池田書店 1954
論語物語 人生叢書 下村湖人 池田書店 1954
孔子 角川文庫 和辻哲郎 角川書店 1955
孔子 武者小路実篤全集11  新潮社 1955
論語は生きている 堀秀彦 河出書房 1956
孔子 三一新書 尾崎辰之助 三一書店 1957
論語百選 現代人のために 三省堂百科シリーズ 新垣淑明 三省堂 1957
論語の言葉 現代に生きる言葉? 堀秀彦 実業之日本社 1957
論語と現状 岩越元一郎 明徳出版社 1957
論語新釈 学生社新書 魚返善雄訳 学生社 1957
論語集注 上下 影璜川呉氏仿宋刊本 書物文物流通会 1959
孔子 その人とその伝説 H・G・クリール著 田島道治訳 岩波書店 1961
顔淵・孔子 中勘助全集10 角川書店 1962
孔子 和辻哲郎全集6 和辻哲郎 岩波書店 1962
論語物語・聖書物語 世界教養全集8 下村湖人、ヴァン・ルーン 平凡社 1962
輯佚論語鄭氏注 月洞譲 編者油印 1963
論語は生きている 潮文社新書 堀秀彦 潮文社  1963
仁の古義の研究 竹内照夫 明治書院 1964
論語集註(標註) 渡辺末吉 武蔵野書院 1964
孝の孔子の新解釈 加藤常賢 斯文43   1965
古典のかがみ 論語33章 れいろうブックス 諸橋轍次 広池学園出版部 1965
孟荀における孔子 浅間敏太 中国哲学3  1965
論語のことば 中国の知恵1 吉田賢抗 黎明書房 1965
論語知言 東条一堂 原田種成校訂 書籍文物流通会 1965
論語と人間孔子 山田統 明治書院 1965
孔子 その礼説を中心とする考察 松代尚江 懐徳37   1966
孔子・孟子 世界の名著3 貝塚茂樹編 中央公論社 1966
仁の研究 下斗米晟 大東文化大学東洋文化研究所 1966
ポケット論語 藤原楚水訳述 実業之日本社 1966
論語物語 アイドル・ブックス 下村湖人 ポプラ社 1966
論語物語 旺文社文庫 下村湖人 旺文社 1966
論語物語 改版 角川文庫 下村湖人 角川書店 1966
現代語訳論語 角川文庫 下村湖人 角川書店 1967
孔子と老子 ヤスパース選集22  田中元訳 理想社 1967
孔子名言集 世界名言集6 伊藤貴麿 ポプラ社 1967
孔子孟子老子荘子 世界の大思想Ⅱ‐1  本田済、松代尚江、木村英一ほか訳 河出書房 1968
論語私感想 現代教養文庫 武者小路実篤 1968
論語孟子大学中庸 世界文学大系69  倉石武四郎・湯浅幸孫・金谷治編 筑摩書房 1968
現代語訳論語 原富男 春秋社 1969
孔子 センチュリーブックス人と思想2 内野熊一郎、西村文夫、鈴木壮一 清水書院 1969
孔子伝 如是我聞 諸橋轍次 大法輪閣 1969
吾が道 孔子の人生観大系 吉野浴風 大坂発色 1969
論語孟子荀子礼記(抄) 中国古典文学大系3 木村英一・鈴木喜一ほか訳 平凡社 1970
孔子家語 中国古典新書 清田清 明徳出版社 1971
孔子と論語 東洋学叢書 木村英一 創文社 1971
論語源流 林泰輔 汲古書院 1971
論語のために 私の古典 吉川幸次郎 筑摩書房 1971
唐卜天壽注抄写鄭氏論語 中国科学院考古研究所編 平凡社 1972
論語古義 日本の名著13  伊藤仁斎著 貝塚茂樹訳 中央公論社 1972
論語抄 足利本 中田祝夫編 勉誠社 1972
論語之研究 武内義雄 岩波書店 1972
論語を活かせ 武藤紀郎編 文進堂 1972
聖人の虚像と実像 論語 現代人のための中国思想叢書1 駒田信二 新人物往来社 1973
論語講義と長寿法 村田直彌 明治書院 1973
論語の講義 諸橋轍次 大修館書店 1973
孔子与論語 銭穆 聯経出版事業公司 1974
孔子批判 中国通信社東方書店編 東方書店 1974
論語三十講 斯文会編 大修館書店 1974
論語入門 ダルマ・ブックス 阿部幸夫 日本文芸社 1974
論語の新研究 宮崎市定 岩波書店 1974
孔子伝 銭穆 池田篤紀訳 アジア問題研究会 1975
聖人孔子の化けの皮をひっ剥がせ! 香坂順一編訳 青年出版社 1975
論語発掘 通釈への疑問と解明 合山究 明治書院 1975
論語講義 渋沢栄一 二松学舎大学出版部 1975
論語私見 民主主義時代の論語 小沢俊雄 岡谷 中央印刷 1975
論語大東急記念文庫講座講演録 石井千秋等講述 大東急記念文庫 1975
現代語訳論語 下村湖人全集8 下村湖人 国土社 1976
論語について 講談社学術文庫 吉川幸次郎 講談社 1976
修訂・論語年譜 林泰輔編 麓保孝修訂 国書刊行会 1976
論語・孟子 西谷元夫 有朋堂 1976
論語物語・現代訳論語 下村湖人全集8 国土社 1976
論語講義 全7巻 講談社学術文庫 渋沢栄一 講談社 1977
論語精義 上・下 和刻本近世漢籍叢刊思想三編 1・2 朱熹撰 佐藤仁著 中文出版社 1977
論語孟子研究 狩野直喜 みすず書房 1977
論語新釈 新装版 魚返善雄訳 学生社 1978
論語の散歩道 重沢俊郎 日中出版 1979
孔子 人類の知的遺産4 金谷治 講談社 1980
論語新釈 講談社学術文庫451 宇野哲人訳 講談社 1980
朝の論語 安岡正篤述 明徳出版社 1981
論語墨書 名筆による名言鑑賞 広論社出版局編 広論社 1981
論語私感 内田智雄 創文社 1981
論語新探 論語とその時代 趙紀彬著 高橋均訳 大修館書店 1981
論語の読み方 ノン・ブックス 山本七平 祥伝社 1981
よみがえる論語 色部義明 徳間書店 1981
論語のことば グリーン・ブックス 堀秀彦 大和出版 1982
論語の散歩道 重沢俊郎 日中出版 1982
論語八方破れ TOKUMA BOOKS 竹村健一 徳間書店 1982
論語を読む 常石茂 勁草書房 1982
孔子新伝 「論語」の新しい読み方 林復生 新潮社 1983
孔子のことば 現代語訳の「論語」 林復生 グラフ社 1983
論語に学ぶ部課長学 仁田敏男 日本経営団体連盟弘報部 1983
異質孔子記 矢作幸四郎 八重洲ブックセンター 1984
孔子 時を越えて新しく 中国の人と思想1 加地伸行 集英社 1984
論語のこころ 加藤富一 近代文芸社 1984
論語と孔子 人間関係論のエッセンス「論語」の新しい読み方 鈴木修次 PHP研究所 1984
論語を読む 講談社現代新書 加地伸行 講談社 1984
孔子 伝記世界の偉人2 中央コミックス 永井道雄・手塚治虫監修 中央公論社 1985
孔子廟堂碑・他 書道基本名品集2 虞世南 雄山閣出版 1985
孔子廟堂碑   原色法帖選12  虞世南 二玄社 1985
ポケット論語 角川文庫 山田勝美 角川書店 1985
「論語」その裏おもて 旺文社文庫 駒田信二 旺文社 1985
論語と算盤 渋沢栄一述 梶山彬編 国書刊行会 1985
「論語」&老子入門 徳間文庫 野末陳平 徳間書店 1985
論語の世界 加地伸行編 新人物往来社 1985
孔子と失われた十支族 鹿島辨 新国民社 1986
孔子の復活 孔子をめぐる虚構と真実 李家正文 冨山房 1986
孔子の末裔 孔徳懋口述、柯蘭筆記 和田武司訳 筑摩書房 1986
論語の人間学 服部武 冨山房 1986
論語との対話 金子知太郎 竹井出版 1987
論語の活学 安岡正篤 プレジデント社 1987
論語抄の国語学的研究・索引篇 坂詰力治編 武蔵野書院 1987
孔子の経営学 孔健 PHP研究所 1988
孔子家語 岩波文庫 藤原正訳 岩波書店 1988
小説孔子 谷崎旭寿 新人物往来社 1988
論語総説 藤塚鄰  国書刊行会 1988
論語と禅 半頭大雅 山田邦男 春秋社 1988
孔子 井上靖 新潮社 1989
孔子 日本人にとって「論語」とは何か 歴史と人間学シリーズ 山本七平、渡辺昇一、谷沢永一、小室直樹 プレジデント社 1989
論語は問いかける 孔子との対話 ハーバート・.フィンガレット著 山本和人訳 平凡社 1989
「論語」その裏おもて 徳間文庫 駒田信二 徳間書店 1989
論語の講義 新装版 諸橋轍次 大修館書店 1989
論語の人間学 人間と知恵とを語り尽くす 守屋洋 プレジデント社 1989
論語名言集 ビジネス選書8 村山吉広 永岡書店 1989
壽(いのちなが)し日日論語 斎藤十九八 一休社 1990
孔子 講談社学術文庫 金谷治 講談社 1990
孔子家の極意 ワニの本 孔健 ベストセラーズ 1990
孔子と教育 俵木浩太郎 みすず書房 1990
わが祖・孔子と「論語」のこころ 孔健 日本文芸社 1990
孔子 集英社文庫 加地伸行 集英社 1991
孔子画伝 加地伸行 集英社 1991
孔子伝 中公文庫 白川静 中央公論社 1991
孔子・孟子に関する文献目録 瀬尾邦男編 白帝社 1992
真説人間孔子 孔祥林 河出書房新社 1994
男の論語 童門冬二 PHP研究所 1999
論語名言集 村山吉廣 中央公論新社 1999
論語 石川忠久監修 サン・エデュケーショナル 2000
論語 吉田公平 たちばな出版  2000
論語紀行 坂田新 日本放送出版協会 2000
宋明の論語 松川健二 汲古書院 2000
男の論語2 童門冬二 PHP研究所 2000
論語234 吹野安、石本道明 明徳出版社  2000
人生は論語に窮まる 谷沢永一、渡辺昇一 PHP研究所 2000
孔子「論語」に関する文献目録 単行本篇 瀬尾邦雄 明治書院 2000
江戸古学派における「論語」注釈史の研究 金培懿 博士論文 2000
論語 現代五訳 宮崎市定 岩波書店 2000
論語の新しい読み方 宮崎市定 岩波書店 2000
孔子百科辞典 上海辞書出版社 2010
さまよえる孔子、よみがえる論語 朝日選書 竹内実 朝日新聞出版 2011
孔子学院伝播研究 劉程、安然 中国社会科学出版社 2012
孔子の倫理哲学論 道徳論を中心として 浅井茂紀 International Philosoply Institute
孔子論語 佐久協 NHK出版 2012
論語正 石永楙 中華書局 2012
論語入門(岩波新書) 井波律子 岩波書店 2012
論語の読み方 中野孝次 海竜社 2012
孔子 世界史リブレット人 高木智見 山川出版社 2013
論語集注 1~4 東洋文庫 朱熹 土田健次郎訳注 平凡社 2013
孔子聖蹟図 和版集成 竹村則行 花書院 2014
図説孔子:生涯と思想 孔祥林 科学出版社 2014
全訳論語 山田史生 東京堂出版 2014
徳川日本の論語解釈 黄俊傑著 工藤卓司訳 ぺりかん社 2014
近代における「論語」の訓読に関する研究 石川洋子 新典社 2015
孔子と魯迅 片山智行 筑摩書房 2015
日本古代「論語義疏」受容史の研究 髙田宗平 塙書房 2015
論語与近代日本 劉萍 中国青年出版社 2015
経典釈文論語音義の研究 髙橋均 創文社 2017
儒教 怨念と復讐の宗教 浅野裕一 講談社 2017
論語から人間学を学ぶ 田村重信 内外出版 2017
論語象義 三野象麓撰 上海古籍出版社 2017
論語徴集覧 松平頼寛撰 中国典籍日本注釈叢書論語巻 上海古籍出版社 2017
論語と社会 加藤要 おうふう 2017
「論語」と「西洋哲学」 藤本一司 北樹出版 2017
論語補鮮 山本楽所撰 上海古籍出版社 2017
六朝論語注釈史の研究 高橋均 知泉書館 2022

 

論文の部
泰西人の孔子を評するを評す 井上哲次郎 東学芸4  1882
孔子ノ教ハ支那国ニ如何ナル影響ヲ与ヘンヤ 赤座好義 東学芸3-46  1885
孔子の学術を汎論す 柳沢保恵 輔仁会雑23,24,28  1893~94
孔子之道と徂徠学 加藤弘之 東哲1-6  1894
孔子以後の学派 藤田豊八 東哲1-8,11,12   1894,95
孔孟の道 内藤耻叟  東哲1-3  1894
孔子と儒教 神谷初之助 斯文4-5  1922
孔子と文 柿村重松 斯文4-5  1922
孔子に於ける妥当性の個性的実現の問題 斎藤要 斯文18-1  1922
孔門の「時中」に就いて 成田衡夫 斯文3-2  1921
孔夫子追遠記念祭典の意義 塩谷温 斯文4-6  1922
孔夫子伝 服部宇之吉 斯文7-2  1922
孔夫子の偉大なる点に就いて 手塚良道 斯文4-5  1922
孔夫子略伝 服部宇之吉 斯文4-5  1922
周公孔子之道 今井彦三郎 朝鮮教育6-12  朝鮮教育会 1922
文廟の従祀及び清代尊孔御書匾額について 中山久四郎 斯文4-5  1922
予の孔子観 桑原隲蔵 斯文4-5   1922
余の観たる孔夫子 渋沢栄一 斯文4-5  1922
孔夫子の政治観 島田三郎 斯文5-4  1923
孔子とソクラテス 吉田熊次 斯文5-5  1923
大聖孔子 牧野謙次郎 斯文5-5  1923
孔夫子の二大事業 小柳司気太 斯文7-4  1925
孔夫子及び其の家系に就きての二三の考察 那波利貞 歴史と地理18-1  1926
孔夫子と我が国体 塩谷温 斯文8-5  1926
孔子の聖徳 宇野哲人 斯文8-8,9  1926
孔子の知天命 服部宇之吉 斯文9-9  1927
孔夫子と集大成 児島献吉郎 斯文9-5  1927
孔夫子の道 小野錬太郎 斯文9-12  1927
孔孟の権道に就いて 内野台嶺 斯文9-7  1927
支那史上の偉人 孔子と孔明 桑原隲蔵 東洋史説苑 1927
孔子の敬天思想 青木晦蔵 東洋文化54  1928
孔子祭典に就て 阪谷芳男 斯文10-1  1928
孔子の謙虚の心 高田真治 斯文10-6  1928
孔子の実行主義 飯島忠夫 斯文10-3  1928
孔子の知天命に就いて 青木晦蔵 東洋文化46  1928
孔子の徳業 小柳司気太 斯文10-2  1928
孔夫子と現代支那 塩谷温 斯文10-6  1928
孔夫子の政教 赤池濃  斯文10-11  1928
孔孟紀年 新城新蔵 高瀬還暦記念支那学論叢 1928
孔子の仁 蟹江義丸 斯文11-4  1929
孔子の聖徳に就いて 今村完道 斯文11-11  1929
孔子の大義名分説に就いて 宇野哲人 斯文10-6  1929
孔老の思想 常盤大定 丁酉倫理会倫理講演集326  1929
正しく観たる孔夫子の聖徳 中山久四郎 斯文11-8  1929
孔子の道 飯島忠夫 斯文12-9  1930
孔子の仁と儒者の学 遠藤隆吉 哲学雑誌46-535  1931
孔子の榡像及画像 馬場春吉 東亜4-2,3  1931
史記の孔子伝大要 岡崎文夫 歴史と地理27-1   1931
孔子教について 荻原拡 斯文14-7  1932
支那思想史上に於ける孔子の地位 高田真治 哲学雑誌47-539  1932
満州の孔子廟建築 村田治郎 満州学報1 1932
孔子教のフランス進出 後藤末雄 丁酉倫理会講演集373  1933
孔子と老子 加藤一夫 東洋哲学38-1   1931
孔子の軍事観 岡村利平 大東文化9 1935
論語より観たる孔夫子の教導法 合田万吉 斯文17-7  1935
孔子教に於ける実行の価値 飯島忠夫 斯文4-5  1936
孔子以前の仁字とその意義 山口察常 斯文18-8  1936
孔門伝授の心法 成田衡夫 服部古稀記念論文集 1936
孔子とイエス 大塚繁樹 媛大紀要1-4  1953
詩書と孔子の天及び天命の思想 米田登 文と思6  1953
孔子および孟子の兵戦思想 内田智雄 同志社法学26  1954
孔子学団 宇都宮清吉 東洋学報(京都)25  1954
天下周遊の構造 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報5  1954
孔子の管仲譚 華夷論の一端として 高田真治 東洋研究6  1963
孔子の仁の思想について 馮友蘭著 高橋均訳 漢文教室64  1963
貝塚茂樹著「孔子」についての往復書簡 西谷啓治、貝塚茂樹 図書24  1951
孔子に於ける仁思想成立の過程 石黒俊逸 支那学研究8  1951
尚書孔子伝の態度 加賀栄治 学芸3-1  1951
人間孔子 谷川徹三 斯文4  1951
孔子死生の説 那智佐典 東洋学研究7  1938
孔孟以後の儒教 秋月胤継 斯文20-6  1938
東洋史上に於ける孔子の位置 宮崎市定 東洋史研究4-2  1938
論語に現われたる孔子の人間観 西村侃三 斯文21-11,12  1939
孔子的自我の展開 牧尾良海 哲学雑誌55-639,642  1940
孔子の仁 平田栄(講演)  斯文22-1  1940
孔子の学的精神とその展開 田所義行 漢学雑9-3,10-1  1941-42
孔子より孟子に至る自己観の展開に就いて 赤塚忠(講演) 斯文24-12  1942
孔子の思索生活  1,2 田所義行 漢学雑11-2,3;12-1,2   1943~44
孔子の教学 佐藤匡玄  建大研月報38  1944
孔学総論 谷本富 東学芸4-73  1945
孔子について 貝塚茂樹 世界10  1946
人間孔子 林語堂 実藤恵秀訳 新中国1-3  1946
マルクス孔子に会う 郭沫若 実藤恵秀訳 中国文学95  1946
孔子と子産 貝塚茂樹 東光1   1947
孔子の学問精神 原佑 叙説4  1950
孔子の人間観 板野長八 学士院紀要8-1  1950
春秋著者説話の原形 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 叙説5  1950
フランス人の観たる孔子 附・戦后欧米における孔子の研究 麓保孝 斯文33-4 1951
去魯 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学芸報3 1952
孔子とゾロアスター 飯島忠夫 長野短期大学4 1952
顔回と孔子門の学風 髙橋享 天理大学報6 1952
夾谷の会 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学芸報4 1953
陽虎雑考 孔子伝 田中佩刀 斯文25  1959
孔子礼思想管見 山下実 支那学研究24,25  1960
孔子と尚書 松本雅明 福井康順博士頌寿記念  1960
孔子の宗教的立場 金谷治 集刊東洋学6 1961
孔孟の思想と漢唐の儒教 小島佑馬 東洋文化7 1961
孔子思想の三支点 道・命・楽 大浜晧 中国文社12  1963 
孔子の精神に関して所感を陳ぶ 元良勇次郎 東洋哲学2-10  1895
孔子の誕生会に就て 日下寛 東洋哲学2-9  1895
孔夫子誕生祭に就き 関根正直 東洋哲学4-2  1896
孔子誕生に就きて 重野安繹 東洋哲学3-1  1896
孔子の精神 日下寛 東洋哲学4-2  1897
孔子の降誕に就きて  島田重礼 東洋哲学4-1  1897
孔子の学説 松村正一 東洋哲学8-9~12 1901
孔子の教育及宗教 穂積秀範 龍谷史壇10  1902
孔夫子と儒教 島田三郎 東洋哲学 9-1,2  1902
孔子の所謂君子に就きて 蟹江義丸 東洋哲学10-1  1903
孔子教の趣旨 星野恒 東洋哲学11-1   1904
孔夫子研究を評す 中島徳蔵 丁酉倫理会講演集33,34  1905
孔子ノ人格ニ就テ 井上哲次郎 太陽13-10  1907
孔聖の修養 山田準 東洋哲学15-6  1908
孔夫子の運命観 大島順三郎 東洋哲学17-6,8・18-3 1910~11
孔子に対する社会的信仰の矛盾 村上専精 丁酉倫理会講演集101  1911
孔子の倫理説に就て 松村正一 東洋哲学18-5   1911
支那に於ける孔夫子の尊崇 服部宇之吉 東亜研究1-1  1911
孔夫子の政治上に於ける教訓 深作安文 東亜研究3-6  1913
孔子教 及川生 慶義学208,209  1914
孔子 井上哲次郎 斯文20-6  1938
孔子伝より見たる論語の解釈 岡村利平 大東文化16  1937
孔子と老子 諸橋轍次 斯文33-4  1937
遭難 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報6  1955
文学としての孔子世家 バートン・ワトソン 中文教2  1955
孔子の思想について 吉川秀一 阪学大紀4  1956
孔孟の命について 金谷治 日中会報8  1956
陳蔡の間 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報7  1956
孔子の陳蔡厄考 田中佩刀 静岡女子大紀要4  1957
「孔子の道」の解釈をめぐる二三の疑義 近藤康信 東支学報3 1957
孔教私観 長谷川如是閑 斯文22  1958
孔子と易 高田真治(講演)  大東漢学1  1958
孔子と墨子 山室三良 九中会報5  1959
陳蔡の間 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報9  1959
孔子の大同思想 張厲生 斯文28  1960
孔門の十哲に就いて 山本徳一 漢学研究1  1936
孔子の情操面の一考察 田所義行 東女大論14-2  1964
孔子における愛と死と考と 加地伸行 東方宗教24  1964
孔子教学の宗教性 金戸守 四天女子紀要7  1965
孔子の虚構性 山田統 国学雑誌66-10   1965
孔子の天下遊説について 木村英一 日中会報18  1966
孔子の職歴について 木村英一 立命館文学264-5  1967
弟子7、8 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大教育報17-1  1967
孔子と易 鈴木由次郎 東方宗教31   1968
論語と人間 孔子における人間性と宗教性 西藤雅夫 彦根論叢132、133   1968
孔子の学校について 木村英一 東方学38   1969
孔子とその教育 喜多川忠一 群馬大学教育学部紀要人文社会科学18  1969
聖人の虚像と実像(孔丘) 丸山松幸 人物中国志2 1974
官吏養成を目的とした孔子学園の教育 高峰文義 福岡大学人文論叢10-3  1978-1979
論語にみる孔子の人間評価基準 その識別に関する一考察 仙田美智子 近畿大学女子短期大学研究紀要16  1986
孔子と「論語」 森野繁夫 漢文教育 1999
「論語徴」における「礼」 暢素梅 人間文化研究年報23  1999
孔子の身長について 春秋時代の尺度と評価 若江賢三 人文学論叢16  2014年
孔子の仁説について 青木晦蔵 大谷大学仏教研究会  2017,4,4
孔子の仁と何か 上・下 吉永慎二郎 秋田大学教育学部 2017.2.16
孔子の天に対する思想:その宗教的性格について 三浦吉明 集刊東洋学36  2017.4.12
後桜町女帝宸筆仮名論語について 所功 京都産業大学2018.02.01

 

 

 

  このように孔子及び論語に関する文献は古来から今日に至るまで実に膨大な量にのぼる。若い読書子に一冊を奨めるとすれば、高木智見「孔子」(世界史リブレット)である。100頁たらずの冊子であるが、比較的本を求めやすい。また最新の出土資料をもとに論語のテキストを検討している。孔子の中心思想である「仁」についてしぼって論述している。論語と孔子の関係書は多いがほとんどが現代的な解釈を各自が自由に論じているが、本書は春秋という時代状況を可能な限り考察し、孔子の思想について論述している点を評価したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年4月 2日 (火)

小渕恵三急死(2000年)

   小渕恵三は今でも国民に愛される政治家の1人である。それはこんな有名な逸話によるからだろう。就任するやニューヨーク・タイムズ紙に「何をしても食べられない冷めたピザのような人」と紹介された。つまり「冷めたピザほどの魅力しかない」という意味である。普通ならば一国の首相に対して友好国のアメリカがあまりに無礼であると怒るところであるが、小渕はピザを用意して記者たちに振舞いながら「冷めたピザでも食べてみればなかなか味わいがあるんだよ」といった。そしてピザを手にして微笑む小渕の写真がタイム誌1998年10月5日号の表紙を飾った。人柄の小渕の面目躍如たる逸話である。逆にそのユーモアが日本では大うけして人気が高まった。

    この年、流行ったものが「バイアグラ」。それまでED治療薬はヤミで1錠1万から5万円くらいだった。ようやく厚生労働省が翌年に認可して、1錠当たり1500円から2000円くらいなった。副作用があるので、まだ市販薬は存在せず、医師の処方箋がないと購入できない薬である。

   ところで小渕首相は2000年4月2日、脳梗塞で順天堂大学医院に緊急入院、意識不明になった。そして5月14日、急死した。まだ62歳という若さだった。同年6月、竹下登(76)も死去。

 




 

 

 

 

2024年4月 1日 (月)

ロッキード事件(「ロ」 事項索引)

[ ろ ]

  「ロアノーク植民地」1584年ウォルター・ローリーがヴァージニア州ロアノークに植民始まる。▽映画「ローマの休日」の脚本家ダルトン・トランボはマッカーシズムにより、赤狩りのため禁固刑の実刑を受け、刑期終了後も事実上ハリウッドから追放されていた。だが、いくつかの偽名を使って脚本家として仕事を続けた。「ローマの休日」はトランボの友人でイギリスの脚本家イアン・マクラレラン・ハンターの名義で執筆し、ハンターの名でアカデミー賞脚本賞(原案)を受賞したのである。2010年にはクレジットが本来のトランボの名前が変更され、トランボの名誉が回復された。▽「ロウリュ」フィンランドに伝わるサウナ風呂。▽「ローザンヌ会議」1932年ドイツの第一次大戦の賠償の支払延期・減額を決定。▽「ロヒンギャ難民」19世紀までにバングラデシュ周辺から移住したイスラム教徒の子孫とされ、ラカイン州に約80万人が生活している。▽「ローレライ」ライン川が流れるサンクト・ゴア―ルスハウゼンの右岸に聳える高さ132mの岩山にローレライがある。黄金の櫛で髪をすきながらその歌声で船乗りたちを魅惑し、危険な流れの中に船を転覆させたという乙女の伝説は、ドイツのロマン派の詩人ブレンターノが1801年に発表した小説「ゴッドウィ」で主人公を慕う少女ヴィオレッテが「ローレライ」という物語詩を歌うのが起源といわれる。さらにハインリッヒ・ハイネによってその名は永遠に生きることになった。▽「ロボトミー(lobotomy)」精神病の外科治療として脳の白質の一部を切断するロボトミー手術が流行したが、大きな副作用があるため現在ではほとんど行われなくなった。▽「ロンゴ神」ポリネシア神話に出る神。農業や豊饒の神。▽「ロンドン覚書」1862年、江戸幕府遣欧使節・竹内保徳がジョン・ラッセル英外相と「ロンドン覚書」に調印。江戸・大坂開市を約定。(ろろろろ)

ロアノーク植民地
ロイクラトン祭り(タイ)
ロイド・ジョージ
ロイヒリン
狼鹿交配説話
浪曲
老後資金2000万円問題
老子
老人と海
老荘思想
労働
ロウリュ
ローエングリン
ロカルノ条約
ローガン山(カナダ)
六波羅探題
六四天安門事件
ロケット
盧溝橋事件
ロココ式
ローザ・ルクセンブルク
ロサンゼルス
ローザンヌ条約
ロシア構成主義
魯迅
ロゼッタ・ストーン
ローゼンバーグ事件
ロダン
六価クロム
六ケ所村
ロッキー山脈
ロッキード事件(1976年)
ロック,ジョン
ロックフェラー,ジョン
ロディー朝
露土戦争
ロヒンギャ
ロビンソン・クルーソー
ロフォーテン諸島
露仏同盟
ロベスピエール
ロボトミー
ローマ
ローマは一日にしてならず
ロマネスク式
ロマノフ家
ロマン主義
ロマン・ローラン
ロミオとジュリエット
ローラー作戦
ローラット法
ローランの歌
ロリータ
露梁海戦
ローリンソン
ロールスロイス
ローレライ
ローレンシウム
ロロ
論語
ロンゴ神
ロンドン覚書
ロンドン会議
ロンドン塔
ロンメル
論より証拠
ロンバルディア同盟
ロンバルド王国
ロンバルド族
ロンボク島(インドネシア)

 

 

 

 

三顧之礼

  日本のことわざに「三度目の正直」があるが、イギリスの諺にも「Third time lucky.」(三度目はうまくゆく)がある。これに関する西洋の故事は知らないが、中国では「三顧の礼」の故事がよく知られている。三顧之礼は人材を厚く迎えるために礼を目上の人が何度も足を運び礼を尽くすことであるが、3度も繰り返すというところは「三度目の正直」の発想と通じるところがある。 孔明の「出師表」の中で「臣を草廬に三顧し」と記されており、ここから、手厚く礼をつくすことを「三顧の礼」というようになったのであるが、戦前の国語の教科書でも取り上げられた故事である。

   諸葛孔明は、戦乱の世を避けて、襄陽の西、隆中山の臥龍岡という丘に草廬を結んで静かに暮らしていた。村人たちは臥龍先生といって尊敬していた。

   白雲いういう去りまた来る

   西窓一片、残月あはし

   浮世をよそなる 静けき住居

   出でては 日ごと 畑を打ち

   入りては 机に 書をひもとく

  劉備玄徳は、新野の県城に駐屯していたが、ある日、学者の徐庶は隆中に住む諸葛孔明という人物こそ「臥龍」(眠れる龍)であるとして劉備に強く推挙した。そこで劉備は礼をあつくし辞をひくくして訪ねていったが、孔明は不在で、その友人の崔州平と言葉を交わして立ち去る。 

  建安12年12月、劉備は再び関羽、張飛を連れて会いに行く。朔風凛々として雪が降る。張飛は不平をいいだす。「いかなれば軍をせずして、無益の人を遠く訪ねたまふ。まず新野へ立ち返りて、この大雪をさけたまえ」劉備の曰く「吾かくするは孔明に慇懃の意を知らしめんためなり。汝寒気をいとわば、ここより帰れ」張飛が曰く「吾は死することをも恐れず。なんで寒気をいとうことあらん。ただ益も無きことに心を苦しめたもうを思うやゆえなり」劉備の曰く「汝かならず多言することなかれ」

 だが、この時も会えず、空しく新野に帰る。

 年が改まって建安13年春、三度孔明を訪ねようやくにしてその目的を果たした。時に孔明27歳、劉備47歳であった。いわゆる「三顧の礼」をつくして、劉備は孔明の出廬を懇請したのである。

   雪降り乱れる 冬のあした

   風なほ冷たき 春のゆうべに

   劉備が三顧の こよなき知遇

   我が身を捨てて 報いんと

   起ちてぞ出でぬる、草のいほり

 (引用の詩は尋常高等小学校国語 6年「孔明」より)

 

 

 

 

カタカナ「ヴ」の話

 ヴィーナス、ヴェルサイユ、ヴィトン、エヴァンゲリオンなどカタカナ「ヴ」は日常しばしば用いられている。最初に考案したのは「増訂華英通語」(1860年)において福沢諭吉といわれる。ところが外務省は2019年4月1日から外国の国名でのカタカナ「ヴ」の使用をやめると発表した。例えば、セントクリストファー・ネービスとかカーボベルデとなる。ただし都市名や人名などにおいては従来のとおり「ヴ」は残るもようである。イタリアのヴェニスやリトアニアのヴィリニュス、人名はダヴィデ、ダ・ヴィンチ、ヴァスコ・ダ・ガマ、ヴィクトリア女王、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、ヴィルヘルム1世、ヴァーグナー、ヴォルテール、ヴィヴィアン・リーなど使用例には事欠かない。旧約聖書に登場する最初の人間「アダムとイヴ」などを見ると、単純に「イブ」と書きかえることができない。

 

インドの歴史と地理

  1853年のこの日、英領インド時代のボンベイ(現・ムンバイ)と郊外を結ぶ路線にアジアで最初の鉄道が開通した。インドは世界で有数の鉄道王国である。インドには14億以上の人々が日本の約9倍の面積にあたる広い国土に住んでいる。UNFPAの推計によると、インドの人口は14億2860万人に達し、中国をぬいて世界最多の人口になったといわれる。インドは「嫌悪すべきものと崇高なもののすべてを包含している」という、ジャワハルラール・ネルーの言葉に示されるように、多様性を持ち、はげしい矛盾に満ちた複雑な国である。われわれはインドの歴史を研究すればするほどインド文化が、単一の基盤から成り立っているのではないことを教えられる。インドの美術や文化をみても、紀元前2500年頃にインダス河流域に繁栄したインダス文化は現在ではパキスタンの領土となっている。また西暦1世紀頃から起こったガンダーラ美術も従来はインド美術として考えられているがやはり現在の領域でいえばパキスタンの美術として考えなければならない。つまりインドという名称は、インド大陸だけをさす場合と、東西パキスタンを含めて拡大されたインドの2つがある。「インド亜大陸」といえば、バングラデシュ・ネパール・ブータンなどの国々を含めることが多い。

  そもそもインドという地名の語源は、インド・アーリア人の言語で「川」を意味する「シンドゥ(sindhu)という語にある。この普通名詞が、彼らがインドで接した大河、インダス川の意味にも使われるようになりさらに、インダス川の流れる広大な土地の意味にもなった。この「シンドゥ」という地名をペルシア人がなまって「ヒンドゥ」と呼び、さらにこれをギリシア人がなまって「インディア」と呼んだ。このギリシア語なまりが、ヨーロッパで使われるようになったのである。

   ヒンドゥー社会は、ヴァルナによる身分枠と各自が生まれながらに属するジャーティとよばれる社会集団によって規定されてきた。このヴァルナとジャーティを合わせたインド特有の社会制度がカースト制度である。今日では、カースト制度による差別は憲法で禁止されているが、現実社会にはいまもなお結婚などに根強く残っている。

13世紀にイスラーム教がインドに伝わり、ヒンドゥー教の影響を受け生まれたイスラーム文化、ムガール帝国の庇護下で発展した。17世紀後半、アウランゼーブ帝は、ジズヤの復活やヒンドゥー教寺院の破壊など、ヒンドゥー文化への抑圧策をとった。そのため彼らの離反を招き、帝国内は混乱に陥る。さらにイギリスやフランスがインドへの進出を狙っており、帝国に危機が迫っていた。(4月1日)

 

 

 

 

三鬼忌

水枕ガバリと寒い海がある

 

(高熱に耐えるため水まくらをして安静にしていた。ふと頭を動かすと、ガバリと水まくらが鳴った。その陰鬱な音は、病人の記憶の底から、広く寒々とした海を思い起こさせ、同時に窓外に冬の大森の海が見えて、なんともいえない不安感が襲ってきたのであった。)

 

算術の少年しのび泣けり夏

 

(算数の問題に長い間取り組んでいた少年は、どうしてもそれを解くすべがわからず、ついにシクシクと泣き出してしまった。長い夏の日も傾き、はや夕闇が迫ってきた。)

 

暗く暑く大群集と花火待つ

 

(花火大会に集まった大群集。やみの中で花火を待っていると、人いきれとおりからの暑さでむんむんするほどである。自分も今その中のひとりとして、花火の上がるのをじっと待っているのである。)

 

O0233028310552713956    西東三鬼(さいとうさんき、1900-1962)の忌日。本名は斎藤敬直(けいちょく)。明治33年5月15日、岡山県津山市南新座に生まれる。父は斎藤敬止は郡視学、母登勢。6歳で父を失い、その後は長兄の扶養を受けた。大正8年9月、二人ぐらしをつづけた母の死に遭い、東京の長兄に引き取られ、大正14年、日本歯科専卒業、長兄在勤の関係で12月渡航、シンガポールで開業。しかし、昭和3年済南事変が起こり、日貨排斥による不況とチフスの大患のため休院をつづけ、失意のうちに帰国した。昭和8年、東京神田共立病院歯科部長に就任。昭和9年、32歳の時、患者に俳句会にすすめられて作句に志す。このころ新興俳句の勃興期であった。日野草城、吉岡禅寺洞、山口誓子に師事するが、平畑静塔に誘われて京大俳句に参加する。新興俳句陣の花形となり、「俳句の魔術師」といわれた。昭和15年8月末日、京大俳句事件に絡み治安維持法違反で検挙された。11月起訴猶予となったが、爾来たのしまず、俳句も放棄する。昭和17年、神戸に移る。戦後俳誌「天狼」創刊に加わったが、昭和27年から「断崖」を主宰。昭和37年1月、発病、胃がんで4月1日葉山の寓居で没した(西東忌、三鬼忌)。享年62歳。主な句集は「夜の桃」(昭和25年)「今日」(昭和26年)「変身」(昭和37年)など。

エイプリル・フール

Aprilfools 4月ばか、April Fool、万愚節。友人たちをかついで興じる日。この習慣の起源については定説はない。16世紀頃からフランスで始まった習慣とされる。フランス語でPoisson d'Avril(4月の魚)といい、この時期よく捕れるサバのことを指している。1564年にシャルル9世がいまの暦であるグレゴリオ暦にかえたが、なかなか浸透しない。そこである貴族が4月1日に公爵の屋敷でパーティーがあるという嘘の招待状を出したのがはじまりといわれている。民衆が王に反発して、4月1日を「嘘の新年」として位置づけ、バカ騒ぎをするようになったという説もある。だが「4月ばか」の慣習は18世紀初めまではそれほど一般に広まらなかった。イングランドでは、もっとも好まれた遊びは「無駄なお使い」に出すことであり、Aが犠牲者をBのところに使いに出すと、Bはさらに彼をCに送る。こうして犠牲者は、気づくまであちこちにやられるのである。北欧のスウェーデンでもエイプリルフールは盛んである。April skamt  アプリール・ファムト(四月冗談)という。一説によるとエイプリルフールは、キリストの死んだ日と関係するといわれる。キリストが死んだ日は春分の日(ニサン)の新月の日から14日たった日といわれる。(4月1日)

カポエイラ(「カ」 事項索引)

「かいなひねり」相撲の決まり手の一つ。相手の腕を両手でとって体を開きながらひねり倒す技。▽「ガイセリック」5世紀に北アフリカのカルタゴを中心にヴァンダル王国を建国したゲルマン人の王。▽ 「カイロネイアの戦い」紀元前338年ボイオティアのカイロネイアでマケドニア軍がアテナイ・テーバイ連合軍を破る。▽「カイロノミー」指揮者が指揮棒を使わずに、手の動きによって指揮すること。▽「海岸党」紀元前6世紀アテナイの一党派。南部の商工業の支持層で構成され、指導者はメガクレス。パラリオイ(Paraloi)。▽「カウディーリョ」中南米やスペインにおける、独裁権を掌握した政治・軍事指導者の称号。▽「俄館播遷」1896年朝鮮国王の高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとったこと。▽「ガガリノ遺蹟」ロシア・ドン河流域の旧跡時代の遺蹟。マンモスの牙製のヴィーナス像が有名である。▽「嘉吉の乱」1441年、播磨・備前・美作の守護である赤松満祐は、将軍義教を暗殺し、領国の播磨に逃亡したが、幕府軍に攻められて自刃、赤松家滅亡す。▽「カスタネット」木製の打楽器。スペイン語で「栗の実」を意味するカスターニャ(castagna)に由来する。▽「カッシーニのすきま」土星のA環とB環の間にある間隙。▽「霞堤」堤防のある区間にあらかじめ切れ目をいれた不連続な堤防。▽「ガーター勲章」1348年にエドワード3世によって創設された、イングランドの最高勲章。▽「カップ一揆」1920年ドイツ・ベルリンで退役将校カップらが起こした反革命クーデター。▽「カデシュの戦い」紀元前1274年、エジプトとヒッタイトの戦争。▽「鎌倉アカデミア」戦後の日本社会の文化的産業的再生を担う有為の人材育成をめざし、1946年に三枝博音、服部之総、吉野英雄、林達夫らの文化人が創設した学校。▽「加波山事件」1884年、河野広躰ら自由党員16人が政府打倒を図って茨城県加波山で蜂起。▽「カポック」アオイ科セイバ属の落葉高木。パンヤノキ。▽「蒲生氏郷」織田・豊臣政権下で活躍した戦国武将。▽「カリスマ」語源は、ギリシャ語で「神の恩寵」つまり神の恵みの賜物。神から人間に与えられる恵み、贈り物。使徒や預言者の言葉はもとより霊能力や奇跡など、神がキリスト教徒に使命を達成させるために一時的に与える能力。今日では、際立った権威や影響力を指すようになった。▽「華清池」西安の東郊外にある温泉地。楊貴妃が湯浴みしたことで知られる。▽「カモノハシ」哺乳類なのに卵を産む。子どもは母親の乳を飲んで育つ。オーストラリアの一部だけに生息する。▽「カタバ風」南極大陸などで、斜面に沿って下降する風。▽「カラ・キタイ」耶律大石、中央アジアに1132年に建国。▽「カラクサシリス」多毛鋼シリス科の環形動物。体側から不規則な芽をだして成長するので、全体が網目状になり、これを唐草模様にみたてての名がある。▽「カラハン宣言」ソ連の外交官レフ・カラハンが1919、20年に中国に対して発表した不平等条約撤廃宣言。▽「カーリング」15世紀にイギリスのスコットランドで発祥した。日本では1973年に長野県で第1回カーリング大会が開かれる。▽「カルビ」韓国語で「カルビクイ」が語源。カルビは肋骨(あばら)、クイとは焼き物という意味。日本では焼き肉店などでクイを省略し、そのままカルビと呼んだ。部位名ではなく、どこでもいい肉。▽「カルボナリ」19世紀初頭、イタリア南部で結成された秘密結社。▽「カルボナーラ」1912年ローマ発祥のパスタ。「炭焼き職人」の意味でペンネにチーズと卵を使った。▽「カレワラ」1835年にエリアス・リョンロートによってまとめられたフィンランドの民族叙事詩。▽「カウンターカルチャー運動」既存の権威や体制に反対する文化のこと。1960年代のアメリカで盛り上がりをみせ、公民権運動やベトナム反戦運動に発展した。▽「川俣事件」1900年2月足尾鉱毒の被害者3000人が請願するため上京する途上で、群馬県川俣で憲兵・警察と衝突。68人が逮捕。▽「甘草」カンゾウ。マメ科の多年草。(かかかか)

 

夏(中国古代の王朝)
カー,エドワード・ハレット
カーゴパンツ cargo pants 作業用パンツ
ガーシュイン,ジョージ
カースト
カーソル cursor(表示マーク)
ガーター勲章
カーター・トリホス条約(1977年パナマ運河条約)
ガーデニング
ガーナ
カー・ナビゲーション
ガープの世界(ジョン・アーヴィングの小説)
カーボベルテ
ガーランド,ジュディ
カーリング curling
何晏(かあん) 魏の思想家
海印寺(朝鮮、慶尚南道にある寺院、ヘインサ)
海王星 Neptune
垓下の戦い
絵画療法 art therapy
海岸段丘
海岸党
皆既月食
皆既日食
会議は踊る、されど進まず(ウィーン会議)
貝殻節(鳥取県)
ガイセリック
海峡
海国兵談(林子平)
開元の治(唐玄宗)
カイザーフラシャー角膜輪
カイザルのものはカイザルに(聖書)
華夷思想
会昌の排仏
介助犬 partner dog
懐石料理
カイゼルルひげ
凱旋門
塊村(家屋が塊状に集合した集村)
解体新書(ターヘル・アナトミア)
開拓使官有物払下げ事件(1881年)
貝塚
貝塚茂樹
カイツブリ
海底2万マイル(ジュール・ベルヌの小説)
回転木馬(ミュージカル)
灰陶(かいとう)
街道
カイドウ(海棠)
カイマナ・ヒラ(ハワイアン)
海馬 hippocampas
カイバー峠(アフガニスタン)
貝原益軒
懐風藻
開封(かいほう)
戒名
回毛(つむじ)
開聞岳
偕楽園(茨城県水戸市)
海陸風(かいりくふう)
海陵王(12世紀、金朝第4代皇帝)
カイロ(エジプト)
カイロノミー
カインの末裔(有島武郎の小説)
ガウガメラの戦い
カウディーリョ
カウンターカルチャー運動
カエサル
蛙の子は蛙
カオスの理論(複雑系経済学)
雅楽
案山子(かかし)
ガガリノ遺蹟
俄館播遷(がかんはせん)
嘉吉の乱
柿本人麻呂
科挙
華僑
霍去病
学習院
確定申告
学徒出陣
楽府
学問のすすめ(福澤諭吉)
嘉慶帝
影絵人形劇
駆け落ち
カケス
影の軍隊(ジョゼフ・ケッセルの小説)
影の内閣(shadow cabinet)
勘解由使
囲い込み(エンクロージャー)
ガーゴイル
加古川市(兵庫県)
華国鋒
葛西善蔵
ガザに盲いて
風花(かざはな)
カザフスタン
火山
カサンドラ症候群
カシウ(何首鳥)
カシオペヤ座
鹿地事件
カジス(スペイン)
カシミア効果(物理)
カシミール紛争
カジャール朝
ガジュマル
華氏451(レイ・ブラッドベリのSF小説)
何首烏芋(かしゆういも)
柏崎市(新潟県)
臥薪嘗胆
春日局
カスタネット
カストリ焼酎
ガズニ朝
霞提
カースルレー子爵(ロバート・スチュアート)
火星
画像破壊 Iconoclasm
華清池(かせいち)
苛政は虎よりも猛なり(礼記)
化石人類
風と共に去りぬ
風の息
ガーター勲章
カタコンベ(カタコム)
カタストロフィーの理論(数学)
カタバ風
酢漿草(かたばみ)
カダフィ大佐
カタプレキシー(情動脱力発作)
カタラウヌムの戦い
勝鬨橋
カチューシャ
カチョ(アイヌの太鼓)
カチンの森事件
勝海舟
学校
葛根廟事件(1945年)
カッサバ(灌木性熱帯樹)
カッシート朝
カッシーニのすきま
ガッツポーズ guts pose
河童
カップ一揆
桂・タフト協定
桂太郎
ガツン湖(パナマ)
カティサーク
カデシュの戦い
Foleycatheter899692カテーテル
嘉手納基地
加藤清正
カド番
カトマイ国立公園(アラスカ州)
カトリック
悲しき玩具(石川啄木の歌集)
カナダ
カナート(地下水路)
カナの婚礼
かなめ党
カニシカ王
カニス・ルプス・ファミリアス(犬の学名)
カノッサの屈辱
カノポス壺
カネミ油症事件
カネム・ボルヌー王国
加波山事件
カバナツアン収容所(フィリピン)
カピタン(商館長)
カピバラ
カピチュレーション
歌舞伎
カフェクルベン島
花粉症
カペー朝
ガーベラ
カポエイラ
カホキア(メキシコ)
河北新報
カポック(喬木性熱帯樹)
カボベルデ
かまいたち
鎌倉
鎌倉アカデミア
カマトト
カマン・カレホユック遺蹟
カミオカンデ(岐阜県神岡鉱山)
神隠し
神風タクシー
カミュ,アルベール
カムタイ大統領(ラオス)
カムチャツカ半島
亀ヶ岡式土器(縄文時代晩期)
かめはめ波(ドラゴンボールの必殺技)
カメラ
仮面ライダー
蒲生氏郷
カモノハシ
カモミール(キク科の一年草)
カヤクグリ
カラー(植物)
カラ・キタイ
カラクサシリス
カラコルム
ガラスの動物園(テネシー・ウィリアムズの戯曲)
空手
ガラパゴス諸島(エクアドル)
カラハン宣言
ガラ紡糸
カラマーゾフの兄弟(ドストエフスキーの小説)
カラル遺蹟(ペルー)
カリウム・アルゴン法
ガリオア資金
カリスマ
ガリツィア・ロドメリア王国
ガリバー旅行記
カリビアン政策
カリフ
カリフォルニア州(アメリカ)
ガリポリの戦い(1915年)
カリマコス
カルヴィン
カルケドン公会議(451年)
カルスト地形
カルタゴ
カルディウム土器
カルデコット賞
カルデラ湖
カルナータカ音楽(南インドの音楽)
カルナック神殿
カルバペネム耐性腸内細菌
カルビ
ガルボ,グレタ
カルボナーラ
カルボナリ
カル―盆地(南アフリカ共和国)
カルマル同盟
カルモ修道院(リスボン)
カルロヴィッツ条約
華麗なるギャツビー(フィッツジェラルドの小説)
過労死
カロシュティー文字
カロデンの戦い(1746年)
カロリング朝
ガレオン船
カレワラ
河口湖
川崎幼稚園通園バス置き去り事件
河竹黙阿弥
川端康成
河東碧梧桐
川俣事件(1900年)
考える人
汗牛充棟
環境可能論(ブラーシュ)
函谷関
韓国ソウル群衆事故(2022年)
カンザス州(アメリカ)
カンサス・ネブラスカ法(1854年)
ガンジー
ガンジス川
感謝祭
鑑真
寛政の改革
寛政西津軽地震(1793年)
甘草(カンゾウ)
干拓
カンタータ cantata
カンタベリー大司教
神田祭
ガンダーラ
邯鄲
元旦
カンチェンジュンガ
カンディード(ヴォルテールの小説)
関帝廟
官渡の戦い(200年)
カント,イマニュエル
関東大震災
カンナダ語
カンネーの戦い
観応の擾乱
ガンビア共和国
間氷期
カンプチア人民共和国
カンプトサウルス
カンブリア紀(地質時代の古生代最初の時期)
カンポ・フォルミオ条約
完璧
管鮑の交わり
カンボジア
桓武天皇
関門海峡
間氷期(氷期と氷期の間の温暖期)
韓愈
咸陽
かんらん岩
寒冷前線
甘露の変
緩和ケア病棟

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4月の憂鬱

Columbine    4月1日。語呂合わせで「よい日」といわれる。入社式が行われ、この日に市政が施行された市が多い。4月の学校はなにもかも新しく希望にあふれ輝いている。ところが心に闇のある青年にとっては何かしら苛立たしい気分になる季節でもある。米国で起こった2件の銃乱射事件はともに4月に起きた。1999年4月20日コロンバイン高校乱射事件、2007年4月16日バージニア工科大学銃乱射事件。犯人はいずれも自殺している。なぜ4月に起きるのか。それも20日、16日と偶数の日である。これらは単なる偶然なのか。ドイツでも2009年に学校での銃乱射事件の惨事が繰り返された。青年たちが凶行に及んだ動機の解明とその対策はいまだ十分とはいえないのが現状である。4月2日カリフォルニア州オークランドのオイコス大学でまたも銃乱射事件が起きた。今回も2日、偶数の日だった。もちろん科学的根拠などない偶然の一致であろう。だが、数字というのがもっとも人間にとって身近で重要な要素であることは疑いないものである。

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