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2024年4月30日 (火)

「鉄の意志の国」ベトナム

Photo   1975年のこの日、ベトナム戦争が終結した。ベトナムの歴史は外国の侵略に対する抵抗の歴史でもあった。紀元前2世紀、漢の武帝の侵略に始まる。交趾太守が置かれた。紀元40年、メリン県の有力者の娘として生れたチュン・チャク、チュン姉妹(微側、微弐)は反乱を起こした。光武帝は41年、馬援を派遣し、姉妹を捕らえて処刑し、中国支配が復活した。

  ベトナムを安南と呼ぶのは679年に唐が辺境統治のため安南都護府を置いたことに由来する。安南都護府は現在のハノイにあたって、ベトナム北部を治め、南海諸国を管轄していた。その後、ベトナム民族が中国から独立すると、自らを大翟越、大越、越南、大南などの名で呼ぶことがあったが、中国では依然安南の名を使い、他の諸外国もこれらにならった。安南の黎利(1385-1433)が1428年に明から独立し、大越と号す。黎朝は17代、18世紀末まで続く。1802年グエン(阮)王朝が成立し、1884年6月6日第二次フエ条約(パトノートル条約)によりフランスの植民地支配が始まった。その後、日帝植民地時代を経て、1945年の日本の敗戦でハノイでベトナム民主共和国の独立宣言がだされるが、翌年、フランスとのインドシナ戦争が勃発。1954年のジュネーブ協定で北緯17度線を境に南北に分裂する。ベトナム労働党(現共産党)は60年、南ベトナム解放戦線を創設。米軍がその後軍事介入し、1965年2月7日北爆が始まる。1968年3月16日、アメリカ軍兵士はクアンガイ省ソンティン県ソンミ村ミライ部落で504人の非武装のベトナム人住民を虐殺した。

長期戦後の1973年1月に和平協定が成立。76年に南北統一を果たす。当初、社会主義経済を進めていたが、生産性の低下が問題となった。1986年からドイモイ(刷新)政策が行われる。2009年から韓国のサムスンが電子部品の製造工場を稼働した。現在、ベトナムは韓国サムスン携帯電話の主要生産拠点となっている。

 数字にばかりこだわり物事の全体像を見失うことを「マクナマラ誤謬」という。この言葉の由来となったのが米国務長官ロバート・マクナマラ。神童と呼ばれたマクナマラはデータ分析を駆使してベトナム戦争に勝利しようとしたが、数値では測れないベトナム人の愛国心やアメリカ市民の反戦感情に目を向けず、300万人以上の犠牲者を出す泥沼の戦争を招いた。(4月30日)

 

安南通史 岩村成允 冨山房 1941
安南史研究 1  山本達郎 山川出版社 1950

2024年4月29日 (月)

阿野廉子と隠岐

Photo_3  正平14年のこの日、阿野廉子が崩御する。阿野廉子は後醍醐天皇の后妃。恒良親王・成良親王・義良親の3人の子を産んでいる。後醍醐の隠岐配流の期間、阿野廉子は随行していたであろう。おそらくこの1年間に、生涯を結ぶきずなとなる愛情が2人の間にできたのではないだろうか。

  隠岐の月の出は遅く、あたりは漆黒の闇に包まれている。その間にまぎれるようにして、黒木の御所から慌しく一丁の輿が担ぎ出された。当然、御所警固の侍が怪しんで誰何する。駕籠から顔を出したのは廉子だった。日頃は取り澄ました廉子があでやかに微笑みかけて「ちょっと侍女のお産見舞いに行くところなの」と言う。どぎまぎした警固の侍はそれ以上の吟味もせず、うっかり通してしまった。ところがなんとその輿には、廉子とともに後醍醐が息を殺して身をひそめていたのだった。廉子の機転で後醍醐は無事、隠岐を脱出できた。廉子=悪女説は後世の創作と考えられている。(4月29日)

裕仁親王誕生と伊藤博文の辞任の謎

   1909年10月26日、伊藤博文はハルピンで朝鮮の抗日運動家、安重根によって暗殺された。伊藤は内閣制度の創設、大日本帝国憲法、皇室典範の制定、天皇制確立のために努力した。伊藤が閣内不統一を理由に内閣総理大臣辞表を提出したのは1901年5月2日。4月29日に裕仁親王(昭和天皇)が誕生してから僅か3日目のことである。つまり慶事の最中の辞任ということになる。昭和天皇の誕生年はどの本を見ても1901年である。しかし裕仁誕生はこれより1年前、1900年4月29日に生まれたとする説がある。二荒芳徳(1886-1967)は、裕仁は「1900年4月29日の夜」に生れたと書いている(「聖徳を仰ぎて」)。つまり男子誕生を確認してから、嘉仁皇太子(大正天皇)と節子は正式に5月10日、結婚したというのである。いまでいう「おめでた婚」、真偽のほどは明らかではない話であるが。この巷説はデイヴィッド・バーガミニの著書「天皇の陰謀」(1971年)にも記されている。

2024年4月28日 (日)

留辺蘂(難読地名)

留辺蘂(るべし)町はかつて北海道網走支庁に存在した町。2006年に北見市・端野町・常呂町と合併し、北見市となった。蘂は雄しべと雌しべ。ずい。川端康成の小説に、「女の新しい髪が、花弁をもぎ取って蘂(しべ)だけになった芍薬のよう」(掌の小説)とある。


武華駅逓 旧留辺蘂町の重要史跡

来止臥

   演歌界の貴公子・山内惠介が歌う「風蓮湖」。「♩釧路、厚岸(あつけし)、霧多布(きりたっぷ)人もまばらなバスに乗る」、道東と言えば、阿寒湖、摩周湖などが有名だが、風蓮湖はあまり観光地化されていなくて、風情が感じられる。北海道には難読地名が多いが、とくに釧路町には読みにくい地名が多い。嬰児寄別(あっちょろべつ)、跡永賀(あとえか)、老者舞(おしゃまっぷ)、来止臥(きとうし)、去来牛(さるきうし)、宿徳内(しゅくとくない)、賤夫向(せきねっぷ)

 

 

 

「煌」人名に使える漢字


 テレビ朝日系ドラマ「6秒間の軌跡~花火師・望月星太郎の2番目の憂鬱」を楽しく観ている。こじらせ花火師・高橋一生の店の屋号は「望月煌火店」。読みは「もちづきこうかてん」。「煌」という漢字が気になった。輝くなど火が燃えている様子や光が広がっていく様子を表現している。「煌々(こうこう)」とか「煌(きら)めく)」とか平易な字であるが、常用漢字には含まれていなかった。親からの要望もあり、平成16年には人名用漢字として追加された。名前に「煌」を含む有名人は、人名用漢字として認められたのが20年前なので最近の人には見当たらないが、古い人ならいる。倉野煌園(江戸時代の画家)、山本秀煌(ひでてる。明治時代の牧師)。


ミハイル・クトゥーゾフ

Kutuzov  レフ・トルストイの名作「戦争と平和」にも登場する帝政ロシアの軍人。若いころトルコ軍と戦い、片目を失った。ナポレオンのロシア遠征に対する戦争で総司令官となり、1812年ボロディノの戦いでは敗れたものの、冬期に入ってナポレオンをモスクワから撤退させた。翌年、従軍中に没する。(1813年4月28日没) 享年67歳。天才ナポレオンに勝利した国民的英雄だが、クトゥーゾフに対する評価はまちまちである。「片目のぐうたら、飲んだくれ、能無し」「消極的で臆病な老軍人」など。( keyword;Mikhail Kutuzov )

2024年4月27日 (土)

クリフォード・ブラウン

 クリフォード・ブラウンはアメリカ出身の黒人ジャズ・トランペット奏者である。ブラウンの才能は早くから認められ、1954年にはブラウン・ローチ・クインテットを結成し、作品も多く残した。だが活動期間は僅か3年くらいで、1956年に自動車事故で早世する。「バーランドの夜」「いつかどこかで」「スターダスト」「煙が目にしみる」「ブルー・ムーン」「ジェニーの肖像」「慕情」「ローラ」。

2024年4月26日 (金)

さらば友よ

126841091490516103286    歌謡コンサートのラストは森進一「さらば友よ」。題名からアラン・ドロン&チャールズ・ブロンソンの映画を想起させる。70年代から80年代にかけて、洋画や小説と同名の歌謡曲が次々と作られた。映画の題名には著作権が発生しないので、そこから歌謡曲のタイトルにつけてもOKとなって阿久悠らがヒットを連発し、一大ブームとなった。弘田三枝子「人形の家」や奥村チヨ「終着駅」が嚆矢であろう。これらを俗に「借り物歌謡曲」というらしい。野口五郎「甘い生活」、山口百恵「禁じられた遊び」、桜田淳子「黄色いリボン」、伊丹幸雄「青い麦」、平浩二「バス・ストップ」(ママリン・モンローの映画は「バス停留所」、井上順「昨日・今日・明日」、堺正章「街の灯り」、小川順子「夜の訪問者」、城みちる「いるかに乗った少年」(ソフィア・ローレンの「島の女」主題歌)、アグネス・チャン「草原の輝き」、沢田研二の「勝手にしゃがれ」。「時の過ぎゆくままに」は「カサブランカ」のオマージュであるし、久保田早紀「異邦人」はカミュやシルクロードからインスパイアーされている。松田聖子「青い珊瑚礁」もブルック・シールズ主演映画。



この名画はジャンヌ・ダルクではない

Marianne20de20delacroix 1798年のこの日、19世紀フランスのロマン主義を代表する画家ウジェーヌ・ドラクロワはパリ近郊のシャラントン(現在のサン・モーリエ)に生まれた。フマキラーのゴキブリ革命のCMには、教科書にも載っているドラクロワの有名な絵画「民衆を導く自由の女神」が使用され、「フランス革命」というナレーションがつけられる。これは大きな間違いである。フランス革命より40年くらい後の1830年7月27日に起こった七月革命に想を得て描かれた作品である。もっと酷いのはジャンヌ・ダルクに間違われることがある。広瀬すずの ドラマ「学校のカイダン」第7話。謎の男、雫井彗を演ずる神木隆之介がドラクロワの絵を指して「ジャンヌ・ダルクも下からのし上がってきた」と説く。このドラマには仏百年戦争の英雄ジャンヌ・ダルクの名前がしばしば引き合いに出される。ジャンヌ・ダルクにしては乳房が豊満すぎるし、百年戦争当時はまだフランス国旗や銃はなかった。ルーヴル美術館にあるこの絵画を観て、なぜかジャンヌ・ダルクだと勘違いしている日本人観光客は多いという。三色旗を持っている女神は、フランスという国家自体を擬人化したマリアンヌという架空の人物といわれる。一説によると、戦闘で弟を失い、仇を討とうと奮戦したアンヌ・シャルロットという洗濯女の伝説をモデルにしているともいわれる。なおミュージカル「レ・ミゼラブル」で描かれる暴動もフランス革命ではなく、この六月暴動と七月革命である。(4月26日)

 

 

 

 

 

名前に「平」がつく意味は?

 名前は親からの最初のプレゼントとはよく言ったものだ。子供の名付けには親は相当苦労するが、愛情と子供へのさまざまな願いが込められている。そこでつねづね疑問に思っていたのだが、「大谷翔平」選手の名前の「〇平」というのはどのような意味が込められているのか?「翔」という漢字はついては、人名漢字に採用され、「翔ぶが如く」「翔んだカップル」など社会的な流行語にもなっていたので分かるが、「平」というのは謎が残る。漢字の意味は、①たいら。ひらたい ②ふつう。なみ。とくに親が子供に「ふつう」「なみ」であれ、と願うのは少し合点がいかない。そもそも「〇平」という名前からは、「鬼平」「三平」「陳平」「鯉名の銀平」「茂平」のように時代劇っぽい、古臭くてどこか間抜けな感じがする。落語家や漫画家に多い。(岡本一平など)「平成」という元号になってから「〇平」は増加したのだろう。親たちはバブル期80年代頃に青春を謳歌していた世代であろう。テレビで「路線バス乗り継ぎの旅」の再放送を見ていてふと気付いたことがある。太川といえば「レッゴーヤング」サンデーズである。白いセーターを着て女子たちと軽快にダンスを踊っていた。NHKがスクールメイツをヒントに新しい若者像を演出していた時代である。ひかる一平、渋谷哲平、みな「〇平」が名前につく。近所の親しみやすいお兄さんという新しいイメージを持たれるようになったのではないだろうか。筒美京平、椎名桔平、野村周平、溝端淳平、松下洸平とつぎつぎと好感度の高い有名人が現れるにつれて、「〇平」の印象もグッとアップしていった。

2024年4月25日 (木)

西舘

 巨人のルーキー、西舘(にしだて)勇陽投手が10試合連続ホールドの新人記録(中日の田島が持つ記録)に並んだ。ところで西舘姓の「舘」は、常用漢字にはない。俳優の「舘(たち)ひろし」もこの漢字を使用している。「舘」は「館」の異体字。

 

2024年4月24日 (水)

「晨」人名に使える漢字

晨 「晨」という漢字は戦前は人名に使われていたが、一時期人名に使われなくなり、1990年4月から再び人名用漢字として認められるようになった。「あした」「とき」「シン」「ジン」と読み、とてもさわやかないい漢字である。男子の名前が多く、「忠晨(ただとよ)」「晨之助(しんのすけ)」など。「晨」を含む熟語に「晨鶏(しんけい)」夜明けを告げるニワトリの意味。

「晨」を含む著名人には、青地晨(社会評論家)、嶋岡晨(詩人)など。

 

アメリカ議会図書館

 1800年4月24日、アメリカ議会図書館が設立される。略称はLC。蔵書数3200万冊、世界最大規模の図書館。1814年ワシントンを攻略したイギリス軍が議事堂に火を放った際に、蔵書はほとんど失われたが、1815年ジェファーソンの蔵書約6000冊を購入し、これを核にして再建された。その後1825年と1851年にも火災に遭い、1897年に現在地に移転した。蔵書の増加に伴って、1939年に別館が開設され、1980年に新館マディソン・ビルが完成した。1899年3月から40年間在任した第8代館長ハーバート・パトナムの時代に、資料・整理・サービスのあらゆる面において整備拡充された。日本の国立国会図書館は、1948年にこのLCをモデルとして造られた。( keyword;Library of Congress,Herbert Putnam )

 

 

2024年4月23日 (火)

始皇帝と郡県制

  中国で周の「封建」にたいして秦の統治方式を「郡県」という。周は、殷を滅ぼしたのち一族および功臣に土地人民を分け与え、その封国あるいは封邑の領有をそれぞれの子孫に相続させたのにたいして、秦の始皇帝は天下統一すると、すべての土地人民を自分一人で領有し、中国全土を36の郡に分け、郡をいくつかの県に分け官吏を派遣して郡・県を統治させた。郡県制では、行政官として郡に守、県に令を派遣する一方で、尉に軍事力を掌握させ、守への権力集中を防ぎ、そして監により守と尉を監察して、すべての権力が皇帝に集まるようにした。さらに、最も権力が集中しやすい郡の行政官の守には、県令を所属させず、それぞれ別々に皇帝に直属するようにさせたのです。こうして郡県制は、こののち隋・唐より州県制と名前を変えながらも、基本的な仕組みは、宋でも形成され、清まで継承されました。二千年続く中国の皇帝支配を支えたものは、郡県制なのです。以下書きかけ



スズランの毒

  釣り鐘状の小さな白い花をつけていい香りがするスズランだが、可愛い花には毒がある、有毒性の成分を含んでいる。20世紀の終わり、ドイツのオスターマーケンという町で3歳になる養女が、のどが渇いたのスズランを挿したコップの水を飲んで死亡した例がある。スズランに含まれる有毒成分は30種を超えるが、その多くはま心臓への影響を持つもので、中でもコルバラトキシンは致死傷がおよそ18mg前後という強力なものである。

 

東北六魂祭

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 鉄道やバスの交通機関が発達しているとはいえ、東北の自然は大きく、しかも中央に南北に長くのびた奥羽山脈が連なっいるため青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島と各県それぞれの歴史と文化が大きく異なる。奥羽山脈を境にして、太平洋側の気候と日本海側の気候に分けられる。太平洋側は、初夏から夏にかけてやませが吹くと気温が下がり、冷害がおこることがある。一方、日本海側は春や夏にフェーン現象がおこり、高温になることがあるが、冬は北西の季節風の影響で雪が多く降る。東北の早期復興を願って開かれる東北六魂祭。六魂祭とは、青森ねぶた祭、秋田竿灯まつり、盛岡さんさ踊り、山形花笠まつり、仙台七夕まつり、福島わらじまつり。各地の伝統行事についてくわしくみていこう。

2月 横手かまくら

4月 天童・人間将棋

4月 弘前桜まつり

6月 盛岡・ちゃぐちゃぐ馬こ

7月 出羽三山花まつり

7月 恐山大祭

8月 青森・ねぷた祭

8月 秋田・竿灯

8月 花笠祭

8月 仙台・七夕

8月 松島・燈籠流し

9月 花巻祭

9月 会津白虎祭

10月 二本松提灯祭

12月 羽黒山松例祭

 

 

夏休みの自由研究

   図書館に勤めていた頃、夏になると子どもたちから「自由研究の本はない?」とよく聞かれたことがある。夏休みに毎年自由研究という宿題がだされる。子どもも親もこれが一番悩まされるらしい。自由なんだから、本人がなんでも興味のあることを研究したり、調査したりすればいい。ところが特になんにも興味がないけど、とりあえず宿題だからしなければいけない。世の中には、この問題のために「自由研究〇年生用」という本がででいる。自分自らのアイデアではなくて過去の人が創意工夫したアイデア集、つまりアンチョコである。利用者は『自由研究』と書かれた本であれば、中味の良し悪しにかかわらず納得する。もっと他に理科や工作や社会科の本でもユニークな自由研究のヒントになる本はいっぱいあるのに、それらの本には見向きもしない。そういう子どもはたいてい親がついてきて、親自らが「自由研究」のサンプル集でないと気に入らないことが多い。

   これと似たことは、大人にもある。「自己啓発の本はないですか」とたずねられる。企業向けの自己啓発といわれる本は世の中にたくさんでているだろう。そういう人もやはり本の題名に「自己啓発」という文字がないと気にいらないようだ。学ぶ心、というよりも、なんでも簡単にマニュアル本で済ましてしまおうとする現代人の安易な姿勢がみえてくる。松下幸之助に次の言葉がある。

学ぶ心さえあれば、万物すべてこれわが師である。語らぬ石、流れる雲、つまりはこの広い宇宙、この人間の長い歴史、どんなに小さいことにでも、どんなに古いことにでも、宇宙の摂理、自然の理法がひそかに脈づいているのである。そしてまた、人間の尊い知恵と体験がにじんでいるのである。これらのすべてに学びたい

                       

寺田屋事件

Teradaya_01   文久2年のこの日、有馬新七ら薩摩藩尊攘派が惨殺された寺田屋事件があった。寺田屋といえば文久2年の歴史的事を一般に指すが、それから3年後の慶応元年、坂本龍馬が幕府から襲撃され無事脱出した事件も寺田屋事件とよばれる。つまり文久2年と慶応元年の2つの寺田屋事件があったことになる。近年、龍馬ブームから寺田屋事件=龍馬襲撃事件と誤解する人も多い。京都伏見に寺田屋という観光スポットがある。中には龍馬やお龍、お登勢の写真が飾られている。刀痕のある柱や、お龍が龍馬に裸で追っ手を知らせる時に上った階段、昔の風呂場なども展示されている。だがこれらはすべて本物ではない。寺田屋は鳥羽伏見の戦いで全焼しており、現在の建物は明治になって再建されたものである。西村天囚は「寺田屋は、伏見の兵火に焚けしかば、家の跡を取払ひて、近き此処に銅碑を建て、寺田屋は其西に建てけり」(紀行八種、明治32年刊)とある。つまり現在の寺田屋は再建されたもので、展示品はレプリカであろう。経営者の安達清が昭和37年頃にこの古い建物を買いとり、龍馬ブームに便乗して旅館経営と観光地化を狙ったのであろう。(4月23日)

 

 

2024年4月22日 (月)

ゴッホはどのようにして評価されていったのか

ホフマンスタール

 

Photo_7   1901年、フーゴ・フォン・ホフマンスタール(1874-1929)はパリのラフィット街の画廊で初めてゴッホの作品と出会った衝撃を次のように書いている。

 

わたしはそれらの力強い、激しい存在の信ずべからざる奇蹟に衝撃をうたれた。樹木、黄色や緑色のいい地面、垣根、石だらけの丘にうがたれた道、錫の水差し、焼物の鉢、テーブル、粗末な椅子のおのおのは新しい生命そのものであった。それらは無生命の恐るべき混沌から、また無存在の深みから出てわたしの方へ向かって立ち上ってくるのであった。わたしは感じた。いやわたしは悟った。これらの被造物は全世界に絶望したかのような恐るべき懐疑から生れたものであり、その存在は虚無の醜悪な裂け目を永遠にうかがっているということを、わたしは、これらすべてを創った人、また恐るべき懐疑の死の痙攣から逃れるためにこの映像によって自らに答えたその人の魂をいたるところに感じた。(1901年5月26日付の手紙、「散文集」所収)

 

    ヴィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、1890年7月27日、ピストル自殺を図り、29日午前1時半死亡した。弟のテドルス・ファン・ゴッホは画商のデュラン・リエルにゴッホの展覧会の開催を願ったが断わられる。このころゴッホの芸術を理解しているゴーギャンもエミール・ベルナール宛の手紙で「世間に馬鹿にされるだろう。時宜を得ていない。多くの人はゴッホの絵を気ちがいざたという。ゴッホのためにもならない」と書いている。

 

    ゴッホが死んでから半年後の1月21日、弟テオも死ぬとテオ未亡人ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(1862-1925)の世話でアムステルダムでゴッホ展が開催された。1896年、オーギュスト・フェルメーレンはオランダのフローニンゲンでゴッホと作品について講演をした。1896年、ゴーギャンはダニエル・ド・モンフレー宛ての手紙に「ゴッホの作品は値を安くすれば容易に売れる」と書いている。1900年画商のアムブローズ・ヴォラールは医師レーから鶏小屋の穴ふさぎにしていたゴッホの絵を150フランで買った。1901年3月、パリのラフィット街のベルネーム・ジューヌ画廊でゴッホの回顧展が開催される。展覧会場を出ながらブラマンクはマチスに語った。「わたしは親父よりゴッホが好きだ」。同じくフーゴ・フォン・ホフマンスタールは、この未知の画家に異常にほど魅かれた。そして1905年からオランダのアムステルダム国立美術館で大回顧展が開かれてから、ゴッホは評価されるようになっていく。アメリカの小説家アーヴィング・ストーン(1903-1989)はゴッホの芸術と生涯にふかい感動をうけ、「人生への情熱」(1934)を著し、好評を博した。3年後には「ゴッホ伝」を著し、ゴッホの「炎の人」としてのイメージが世界中に定着していく。

 

 

リーゼガング現象

 ゼラチンのようなゲルの中に電解質を溶かしておき、それに反応する電解質をゲルの中に1箇所に置くと、その電解質はゲル中に拡散して反応生成物の沈殿を生ずるが、沈殿は均一にはおこらず、間隔をおいて周期的に生じる。1896年、ドイツの化学者ラファエル・エデュアルト・リーゼガングが発見したのでこの名がある。

自然界の模様にもリーゼガング現象がみられる

2024年4月21日 (日)

「楓」人名に使える漢字

 Jリーグ・東京ヴェルディ所属のサッカー選手に山田楓喜(ふうき)がいる。「楓」の漢字は通常「フウ、かえで」と読み、常用漢字でないが人名用漢字として認められるようになった。熟語としてはあまり多くない。「楓宸」(ふうしん)とは天子のいる宮殿のこと。漢代、宮殿に楓を植えたことから。ほかに唐の張継の漢詩「楓橋夜泊」が名高い。

 

兵庫県芦屋市長選で北村春江さんが当選(1991年)

  平成3年のこの日、兵庫県芦屋市で弁護士の北村春江さんが当選、全国初の女性市長が誕生した。3期12年を務めたが、平成13年、震災復興費にまつわる土地区画整理事業で旧建設省から出向していた助役が汚職事件で逮捕された。(4月21日)

賤ヶ岳の戦い

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    織田信長が京都本能寺で明智光秀に殺害されると、跡目相続をめぐって、光秀を討って声望を得た羽柴秀吉と、織田氏の老臣柴田勝家は、対立、戦闘状態にはいった。天正11年(1583年)、勝家は越前北荘の居城を発し、近江柳ヶ瀬の北方内中尾山に陣を進め、秀吉は近江木之本に陣を張って対峙した。4月16日、秀吉は神戸信孝をせめるため岐阜の支城大垣に向かった。しかし、勝家の部将佐久間盛政が中川清秀(摂津茨木城主)が守る大岩山の砦などを奇襲し、中川は討ち死にし、近江の戦局は急を告げた。そして、盛政は勝家のすぐ退却せよという命令を無視して、敵中の大岩山に居座ってしまった。寡勢の柴田軍が兵力を分散させていては不利である。秀吉はすぐに北近江に引き返し、21日には賤ヶ岳に盛政を破り、続いて勝家を北荘に走らせた。さらにこれを追撃して北荘をおとしいれ、ついに勝家を自刃させた。この賤ヶ岳の戦闘で華々しい活躍をし、羽柴軍を勝利に導いた秀吉輩下の若武者、福島正則、脇坂安治、加藤嘉明、加藤清正、平野長泰、片桐且元、糟屋武則、桜井佐吉、石河一光ら9人を賤ヶ岳七本槍という。七本槍と称しても実数で七人をさしてはいない。江戸の諸書では七名に数をそろえるため、たとえば甫庵「太閤記」では桜井・石河を省いている。(4月21日)

 

 

2024年4月20日 (土)

佐川満男さんを悼む

 12日、歌手の佐川満男さんが死去した。享年84歳だった。現在は味のある脇役俳優と知られているが、スタートはアイドル歌手であり、デビュー曲は「二人の並木道」(昭和35年)。アメリカのヒット曲を日本語にカバーした和製ポップスが流行していた。昭和33年2月に渡辺プロダクションが日劇ウェスタン・カーニバルを開催したところ大成功を収めた。平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎がロカビリー三人男と呼ばれた。それに続く第二世代が清野太郎、飯田久彦、藤木孝、佐々木功、鹿内タカシなど。関西出身の佐川ミツオもロカビリーと流行歌をミックスした独特な節回しでヒットを連発した。「背広姿の渡り鳥」「太陽に向かって」「無情の夢」おりから各家庭にテレビが普及する時代で、音楽番組も多く佐川ミツオは引っ張りだこだった。歌手・佐川満男を再評価したい。

 

「靭」

 大阪市西区に靭(うつぼ)公園がある。「靭」という漢字だが、よく似た「靭」「靫」と「韌」がある。康煕字典によれば「韌」が正字で「靭」「靫」は異体字(俗字)である。

「き」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Medium_katharine_hepburn_2   「き(K)」で始まる名前は男女比でみると女性が多い。「キムKim」「キャサリンKatharine」「キャシーKathy」など。4度のアカデミー主演女優賞に輝くキャサリン・ヘプバーン。性格的には社交ぎらいで、パーティーなどにはまったく出席しなかったが正真正銘トップ女優だった。▽「キニチ・ハナーブ・パカル1世」603-683。メキシコ・マヤ文明のパレンケの王。

 

ギ・ド・モーパッサン
キアヌー・リーブス
キアラ・カゼッリ
ギエルモ・マルコーニ―
ギオバーニ・バチスタ・モルガーニ
ギグ・ヤング
キース・ヴァン・ドンゲン
キース・キャラダイン
キース・ヘリング
ギスラン・クロケ
キット・ハリントン
キニチ・ハナーブ・パカル1世
ギドー・フリドキン・フルベッキ
キーファー・サザーランド
キム・キャトラル
キム・デジュン(金大中)
キム・ノヴァク
キム・ベーシンガー
キャサリン・ウォーターストン
キャサリン・オハラ
キャサリン・ゼーダ・ジョーンズ
キャサリン・ハイグル
キャサリン・パターソン
キャサリン・ハワード
キャサリン・ヘプバーン
キャサリン・マンスフィールド
キャサリン・メーニッヒ
キャサリン・ロス
キャシー・ベーツ
ギャスパー・ウリエル
キャスリーン・ターナー
キャーティプ・チェレビー
ギャビー・ホフマン
キャプシーヌ
ギャレット・ヘドランド
キャメロン・ディアズ
キャリー・アン・モス
キャリー・オーティス
キャリー・マリガン
キャリー・フィッシャー
キャリスタ・フロックハート
キャロライン・ケネディ
キャロライン・ブーヴィアー・ケネディ
キャロル・ブーケ
キャロル・ベイカー
キャロル・ランディズ
キャロル・リード
キャロル・リンレー
キャロル・ロンバード
キャンディス・バーゲン
キャンベルト・スコット
ギュイヨーム・ビュデ
ギュスターヴ・エッフェル
ギュスターヴ・カイユボット
ギュスターヴ・クールベ
ギュスターヴ・フローベール
キューバ・グッディング・ジュニア
ギュンター・ギヨーム
ギュンター・グラス
キョブリュリュ・メフメット・パシャ
ギヨーム・アポリネール
ギヨーム・ド・シャンポー
ギヨーム・ド・ノガレ
ギヨーム・ファレム
キラ・セジウィック
キーラ・ナイトリー
キリアン・マーフィー
キルステン・ダンスト
ギルバート・ケイス・チェスタートン
ギルバート・バーネット
ギルバート・ホワイト
キング・キャンプ・ジレット

 

 

「齋藤」「斎藤」「斉藤」(さいとう)・・・の漢字はなぜ多い?

  ネプリーグで外国人回答者が「互角」という字を書いたが、「角」の字が真ん中の縦棒が下まで突き抜けていた。林修先生は元は突き抜けていた異体字があったとして正解とした。たしかに漢字の歴史は古いのでさまざまな異体字がある。「斉藤」姓がその代表格だろう。斉藤、斎藤、齋藤、齊藤などさまざまな字体があり、31種類あるらしい。そのルーツは伊勢神宮の神様を迎えるため身を清めた役職、斎宮頭(さいぐうのかみ)に由来する。10世紀の中頃、斎宮頭に任ぜられた藤原利仁の子、藤原叙用(のぶもち)は、官職名と姓に因んで(斎宮の斎、藤原の藤)「齋藤」を号し、子孫は齋藤氏となり自身は齋藤氏の祖となる。明治初期の戸籍作成のとき、手書きのため誤字かそのまま登録され、多くの字体がーに別れる一因になった。斉藤姓で一番知られるのは、戦国の武将、斎藤道三。近年の研究によれば美濃の国盗りは道三一代のものではなく、その父松波基宗(または松波庄五郎)との父子2代にわたるものではないかと考えられている。コンサイス日本人名事典によれば斎藤姓は歌人の斎藤茂吉以下50人ほど掲載されているが、それほかの人名を調べる。斎藤達雄(1902-1968)は独特の存在感を持つ飄々とした演技で戦前戦後の喜劇映画に多数出演した。番組中では壇蜜の本名および旧芸名が齋藤支静加であることが等身大パネルを使って紹介されたが、わたし世代としては天地真理の本名が齋藤真理であること。斎藤さんの有名人。齋藤司、斉藤慶子、斉藤由貴、齋藤飛鳥(元乃木坂46)、斎藤京子(元日向坂46)。

 

 

 

 

 

 

2024年4月19日 (金)

私の名前は大久保清です

 ネットで名字総合サイトで検索すると、岸田文雄は全国に8人いる。現首相と同姓同名ならあまり迷惑な話ではないが、むかしの連続女性殺人事件の犯人と同姓同名なら困ったものだ。大久保清は全国に100人いる。当時は迷惑した話をよく聞いた。松本清張も小説に登場する人物には気を使っているようで、和賀英良(「砂の器」)とか珍しい名前を使うようだ。

「翔」この漢字を見ない日はない

 巨人vs広島。巨人の先発は戸郷翔征。広島1番は秋山翔吾、4番は堂林翔太。もちろんドジャースの大谷翔平の活躍ぶりは毎日何度となく耳にする。「翔」の漢字は1981年に人名に使える漢字として認められることとになり、男子の名前としてとくに人気がある。43歳以下の人ということが名前からだけでわかる。少し気が早いが「今年の漢字」は「翔」に決まりそうだ。

 

瀏海

(子供や女性の)切り下げ髪。額に短い前髪を垂らし、ヒキガエルの上に乗り、ひとさしの銭を手にしている。唐の時代にいた仙童で、瀏海(りゅうかい)という子どもが由来といわれる。

 

 

 

 

日本で最初の和訳聖書が完成(1880年)

 明治13年(1880年)のこの日、新約聖書の日本語訳全巻が完成した。

   レファレンス協同データーベースの質問「聖書の和訳が日本でできた年を知りたい」とある。大阪府立図書館の回答(キリスト教33)によれば、「明治4年のゴーブル訳「摩太福音書」とある。「摩太福音書」とは「マタイ福音書」のことで、ジョナサン・ゴーブルによる抄訳であるが、明石書店から1989年に復刻版が刊行されている。永田方正(1838-1911)による「西洋教草(おしえぐさ)」は、2年後の明治6年のことで、これも抄訳ではあるが、かなり分量が増えており、こちらのほうを日本最初とする本もある。全訳としては、日本聖書協会が明治12年に「新約聖書」を、明治21年に「旧約聖書」を完成している。明治13年にはネイサン・ブラウンが「志無也久世無志與(しんやくせいしょ)」が日本語としては初めての、新約聖書全巻の翻訳である。ところでジョナサン・ゴーブル(1827-1896)は若い頃、強盗で2年間刑務所で服役。のち海兵隊に入隊し、ペリー艦隊として来日。1859年、宣教師として再来日している。( Jonathan Goble、4月19日 )

 

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2024年4月18日 (木)

鶴唳(かくれい)

   鶴唳とは「鶴の鳴き声」のこと。唳の字は11画で、「大」ではなく「犬」である。ところがパソコンでは正しいフォントがない。「風声鶴唳」(ふうせいかくれい)とは、戦いに敗れた前秦の符堅の軍が風の音や鶴の鳴き声などに驚き騒いで敗走したという晋書謝玄伝の故事に由来する。

 

 

ドゥーリットル爆撃隊、東京空襲

01_jimmy_doolittle     昭和17年4月18日、米空母ホーネットから発進したジミー・ドゥーリットル中佐指揮するB25爆撃機のうち13機が東京方面に進入、東京府内各地、横浜、横須賀などの臨海地帯を爆撃した。他には2機が名古屋、1機が神戸を爆撃した。爆撃による被害は、死傷者数約200人、家屋損壊350戸。空襲による被害は大きなものでなかったが、帝都が空襲を受けたことで日本の首脳陣に大きな衝撃を与えた。

    一方アメリカでは、空襲を終えた爆撃機は1機も撃墜されることなく、中国大陸へ飛び去った。最終的には全機が失われたが、日本本土の初空襲の成功に国民の士気は大いに上がった。日本軍にとっては、本土防衛上、ミッドウェイ攻略がにわかに重要性を帯びることとなった。( keyword;James Harold Doolittle )

2024年4月17日 (水)

漢字一文字の題名

Kokoro15   作家が小説の題名をつけるとき、どのような思いが込められているのかさまざまであろうが、漢字一文字という場合はことさらに印象が強い感がある。すぐに思いうかぶ作品は、芥川龍之介「鼻」、夏目漱石「門」、森鴎外「雁」の三作品。それから山本有三の「波」「風」、長塚節「土」、島崎藤村「春」、谷崎潤一郎「卍」「鍵」、カフカ「城」。室生犀星「蝶」、志賀直哉「兎」、上林暁「野」、三島由紀夫「剣」、司馬遼太郎太郎「峠」、竹西寛子「蘭」、中上賢次「岬」、富田常雄「面」、藤井重夫「虹」、河野多恵子「蟹」、丹羽文雄「顔」、宮尾登美子「蔵」「櫂」。綱淵謙錠には「斬」など48作が漢字一文字である。夏目漱石の「こころ」は自身が装幀した単行本の箱の背には「心」と漢字一文字である。

  演歌界の御大・北島三郎の唄にも一文字タイトルが多い。「歩」「盃」「誠」「祝」「道」「母」「宴」「橋」「城」「友」「竹」「夢」「命」「川」「空」「柵」「恩」「舵」「山」そして「塒」は「ねぐら」と読む。頑張れサブちゃん。

「盈」昔はこんな漢字も使われていた

   漢の恵帝が好きだという人は歴史ファンの中でも皆無だろう。秦始皇帝、高祖劉邦、文帝、武帝という英雄たちの間にあってほとんど話題にすらならない。前漢の第2代皇帝(在位前195~前188)。高祖と呂太后との間に生まれるも、嫡男で皇太子の盈(えい、後の恵帝)は柔弱暗愚であったため、高祖が威姫に産ませた趙王如意に代えようとしたところ、そのたびに呂太后や張良ら功臣が嘆願諌止した。前195年、16歳で2代皇帝に就くことができた。在位中、実権は呂太后やその一族に握られていた。諡り名の字「恵」は「相手をあたたかく思いやる」の意味である。これは前191年に秦の苛酷な律である「挟書の律」を除いたことによる。図書館史で焚書は習うが、廃止した恵帝の事績を教えないのはいかがなものなのだろう。恵帝とはほんとうに影のうすい存在である。ところが中国ドラマ「美人心計」では羅晋演じる恵帝はなかなかのイケメンで暗愚にはみえない。恵帝が暗愚だったとするのは日本の東洋史学者だけの印象かもしない。

 さて「盈」という漢字であるが、現在の日本では常用漢字表、人名漢字表にはなく、名前としては使われなくなった。もちろん明治以前の人物ならば、柳生宗盈(やぎゅう むねみつ)、毛利就盈(もうり なりあつ)と探せばいる。元巨人の投手、角盈男は1990年から登録名に改名したもので、本名は角三男である。会社名や学校名には使用例はある。広島の盈信高校など。

 

 

 

2024年4月16日 (火)

八方美人

 「八方美人」とは「誰からも悪く思われないように要領よくふるまう人のこと」(福武国語辞典) 日本では非難の意味を込めて用いる語。あるいは揶揄する際に使われることが多い。一方で、韓国の「八方美人(パルパンミイン)」という言葉は、どこから見ても非の打ちどころがまったくない美人という意味で使われる。しかし日本語も元は、どこから見ても欠点のない美人のことを言ったという。(「ものしり大語源」三浦竜)

川端康成の自殺

Photo_2   1972年のこの日、川端康成がガス自殺した。享年72歳。川端は「掌の小説」という短編集を若い頃から書いている。全部で122編もあるが、例えば39番目の「一人の幸福」という一編は結びの言葉が有名である。「一生の間で一人の人間でも幸福にすることが出来れば自分の幸福なのだ」と書いている。このように健全な精神を持っていたが、晩年の川端はこれらを否定するようになった。ノーベル賞の授賞記念スピーチで「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり」という道元の歌を引用し、日本人の季節の移り変わりの中に感じる美意識を紹介している。死生観や美意識を小説のテーマに幾度となく取り上げてきた川端であるが、自身の人生の最晩年において、大往生で死すか、文学に殉ずるか、という選択は作家としての一つの決断であろう。川端は、ある出版人に「谷崎や志賀の死は文学者の死ではない」と言ったと伝えられている。数年後、ガス自殺を遂げた日本人初のノーベル文学賞作家の死は社会に大きな衝撃を与えたが、2年前の三島由紀夫の割腹自殺と同じように日本人固有の死の美学という印象が強い。明治以降の近代文学作家をみても北村透谷、有島武郎、芥川龍之介、太宰治、田中英光、原民喜、久坂葉子、火野葦平、三島由紀夫、川端康成、田宮虎彦、鷺沢萌、森村桂と主な作家だけでも十数人が自殺している。海外でみると、ジャック・ロンドン、ヴァージニア・ウルフ、アーネスト・ヘミングウェイなど作家の自殺は意外と少ない。それも死の美学に殉じたという感じはない。日本人の作家とて自殺の理由は病気や経済的理由などそれぞれであろうが、三島由紀夫、川端康成などの自殺の動機は謎が多いが、死の美学に殉じたという表現がよくなされるようである。(4月16日)

2024年4月15日 (月)

名前によく使われる漢字「栖」

 アイドルから女子プロレスラーに転身した遠藤有栖。「栖」という字はあまり多く使われることはないかもしれない、「棲」と異体字で、「鳥がすむ」などの意味。「栖鴉」(せいあ)など。1978年の常用漢字には「栖」や「棲」は表外字となった。2004年、両字ともに人名漢字に追加される。「栖」の字は佐賀県鳥栖市、茨城賢神栖市、兵庫県一宮町生栖(いぎす)など地名にも見える。

名前によく使われる漢字「匡」

 広島戦で逆転の2ランを放った巨人の荻尾匡也(おぎお まさや)選手。「匡」という字は、日本では日常的にあまり使わない漢字ですが、最近は人名漢字として人気があります。もともと1951年に人名漢字として使えるようになってから、「匡子」(まさこ)という女性名はよく使われていました。近年海野なつみの漫画「逃げるは恥だが役に立つ」に登場する契約結婚のカップル、森山みくりと津崎平匡の大ブームで、平匡(ひらまさ)という名前が脚光を浴びています。「匡」は箱の意味がある「はこがまえ」に、「王」という字が組み合わさってできました。枠の中一杯押し込めて形を直す、の意味から「正しい状態にする」という意味を持っています。

 「匡」という字を使った著名人には、大江匡房(平安時代の公暁、歌人)、飯沢匡(ただし、劇作家、「ブーフーウー」)、浅田匡子(きょうこ、浅田真央の母)。四字熟語は「匡衡壁鏨(きょうこうへきさく)」貧しい生活をしながら勉学に励むこと。

 

 

 

 

ヘリコプターの日

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 「組み紐文様」レオナルド原図 1490-1500年頃 銅版画(ビュラン彫り)

 

Photo_9 本日は「ヘリコプターの日」。1986年、全日本航空事業連合会が制定した。ヘリコプターの原理を考案したイタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチの誕生日にちなむ。レオナルドは「空飛ぶ船」「落下傘」そして「ヘリコプター」など人間が飛行する最初の考案者である。しかし、これらが実際に飛翔に成功したとは考えられない。

    ダ・ヴィンチは画家、彫刻家、建築家、発明家、技術者などのほか図案家でもある。現在6枚の版画にレオナルドのこのような図柄が残されている。いずれも円形で複雑な組み紐文様が施されているが、レオナルドの原図を彼の周辺の版画家が彫版したと推定されている。アカデミアと称するこのデザインは何を意味するのか?レオナルドの主宰するアカデミアとは人文教養的な会合だったかもしれない。その入場券ではないか、と研究者ぺヴスナーは推測している。しかしコンピューターグラフィック技術がない時代に、このような複雑な組み紐文様には興味深いものがある。ロンバルディアの風潮とも関わるが、イスラム文様との関連もあるかもしれない。

 昨年11月、鹿児島県沖で米軍輸送機「オスプレイ」が墜落した。過去30年間で、50人以上の米兵が死亡している。鹿児島沖の事故は操作ミスなど人為的なものではなく、機体の不具合であったとする可能性が高いとされる。(̪4月15日)(Leonardo da Vinci)

アドリーヌ・ラヴー「ゴッホの回想」

Img_265870_8257291_0   オーヴェール・シュル・オワーズにゴッホが最後に住んだラヴー亭が現在もある。ゴッホ記念館であり、1階がレストランで3階のゴッホの屋根裏部屋も公開されている。1890年5月末から7月までの70日間、76点の絵を描いた。1日1枚のペースだ。ゴッホ最後の肖像画モデルとなったラヴー亭の娘アドリーヌ・ラヴー(1877-1965)は次のように回想している。「彼は我が家ではとても尊敬されていて、ムッシュ・ヴァンサン、と親しみを込めて呼ばれていました。平素は正午ころ、絵を描いていた戸外から昼食のために帰って来て、メニューはだいたい肉と野菜、サラダ、そしてデザートでした。いつも自分で皿を戻し、とても協力的だったのです」(1953年4月16日、フランスの雑誌のインタビュー)アドリアーヌは2度の世界大戦を生き延び、ゴッホの証人として戦後有名になり、カーク・ダグラスの映画「炎の人 ゴッホ」にも端役で出演している。晩年のゴッホは温和で、家賃もきちんと納めていた。晩年のアドリーヌの横顔の写真はゴッホの三枚の絵と比べると、鼻の形が似ている。(Adeline Ravoux)

 

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2024年4月14日 (日)

ラーメン一杯、千円の壁

1  「B級グルメ」、「庶民の食べ物」として長らく愛されてきたラーメンだが、今や1杯1000円前後する店も増えてきた。ラーメンを構成する肉類や魚介類、調味料、小麦など、あらゆる食材の価格が上がっており、これまでの価格を維持することが困難になってきたからだ。昭和45年ころのテレビドラマを見ていたら、コーヒー1杯がちょうど100円だった。コーヒー1杯の値段で戦後の物価の変遷がわかるだろう。昭和29年頃は50円。昭和45年頃は100円。昭和50年頃は200円。昭和62年頃は300円。現在は400円ぐらい。もちろん高級店はいくらもあるだろうが。ちなみに週刊少年マガジンが昭和34年創刊当時、40円で現在は360円。戦後から今日までの78年間、価格が変わらず安定しているのは鶏卵だけである。下のグラフは昭和35年から平成22年までの食品を主にした物価の推移を示すものであるが、「卵は物価の優等生」といわれていることがよくわかる。

  新聞代は昭和55年頃2195円(月額)だったが、3190円(平成2年)、3925円(平成12年)、4344円(令和2年)と急騰している。タクシー初乗り456円(昭和61年)、620円(平成9年)。あんぱん1個(100g)は、71円(昭和57円)、85円(平成5年)、83年(平成15年)、78円(平成25年)、喫茶店におけるコーヒー代は294円(昭和62円)、370円(平成9年)、383円(平成19年)、404円(平成29年)。

  丸田勲によると、江戸時代、卵は現代の価格になおすと約1個400円くらいだった。しかし昨年末から、卵の価格が高騰し、現在も値上がりが続いている。甲子園名物「かちわり氷」は1袋200円、甲子園のビールは1杯750円。東京ドームの生ビールはなんと900円。

 

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名前によく使われる漢字「泰」

 「泰」を使った熟語には「天下泰平」「安泰」などがあり、「ゆったり穏やか」な印象を与えます。漢字の成り立ちは両手に汲んだたっぷりの水で体を洗うという様子を表すために、「人」「水」「両手」の字が組み合わさってできました。そこから「ゆったり」「おだやか」なイメージがあります。ところが名前に使うにはよくないという理由もいくつかあります。1.「おごる」という意味があります。手元の漢和辞典にも「ぜいたくなさま」「えらそうなさま」とあります。2.外国人に間違われやすい。中国では尊ばれる漢字であることや、「泰」がタイという国名だからという理由です。3.電話で漢字を説明するのがむずかしい。4.「秦」や「奏」と紛らわしい。5.画数があまりよくない。これは「泰」1文字だと10画でよくありませんが、「泰+〇」で画数をかえればOKです。

それにもかかわらず「泰」がとてもよい漢字であることは、多くの事例で明らかです。何と言っても「泰山」があるからです。山東省泰安市にある泰山は、道教の聖地五岳の中でもっとも尊い山とされる。秦の始皇帝や漢の武帝など歴代皇帝が封禅の儀式を行っている。李斯は、伝説的な帝王の称号である天皇・地皇・泰皇の三皇のうち、最も尊いのは泰皇といっている。そういうことで、あまりに尊い漢字なのでさけられる方もいるかもしれないが・・・。

最後に名前に「泰」を使用している著名人
石坂泰三(経団連会長)、武田泰淳(小説家)、田村泰次郎(小説家)、加藤泰(映画監督)、布袋寅泰(ギタリスト)、原田泰造(タレント)、松雪泰子(女優)

この30年で何が変ったのか

 ドラマ「不適切にもほどがある」コンプライアンスが厳しい令和時代とそれではなかった昭和時代を舞台としたタイムスリップ・コメディ。たばこ規制が厳しいのは分かる。でも規制緩和策で怪しげなサプリメントはむかしより多くなっている。

    街をぶらぶらしてみると、景観は以前と比べきれいになった。しかし賑わいや活気が無くなった気がする。瀬戸物屋、布団屋、牛乳屋、駄菓子屋、小学校の前の文房具店、貸本屋、古本屋などみかけなくなった。ポルノ映画のポスターや、ストリップ劇場もなくなった。なにより女性の社会進出が目立つ。女性ドライバーも増え、男に頼ることなく生きていける社会になった。

    いま古本は在庫リストのデータ・ベース化で通信販売で買うらしい。これからは古書情報が一度に検索できるシステムを計画していて近いうちには、金さえ払えば絶版本や稀こう本も入手できる時代になるだろう。だが、街の古本屋はそんな掘り出し本をさがすためだけにあるのではない。古雑誌やマンガの半端本を10円で買って、暇つぶしに楽しむ若者もいるだろう。古書店と古本屋とは似て非なるものがある。広辞苑には定義されていないが、業界用語では古書店というのが正しい。古本屋は1人あるいは2人以上の持主により所有されたことのあるセカンド・ハンド・ブックを主に取り扱うが、古書店は出版後時日を経たオールド・ブックを扱う。古書店は江戸時代の和本もあるし、絶版の本も多いが高価商品である。古本屋は定価より半値以下の本が多い。ケペルの愛するのは古本屋である。古本屋でルポルタージュ小田橋弘之「君が代は微風にのって」(晩聲社、昭和58年)を買った。中曽根康弘の右傾化を中心に書いている。このころは「国旗及び国歌に関する法律」が制定されるとは予想していなかった。いま学校現場では式典に国歌斉唱、礼拝を拒否すればどんなことになるだろうか。礼拝とは神道の公式作法のひとつで上半身を45度に折るとある。エホバを信ずる者にとってはどうなんだろうか。法律とは強制力を持つものだ。本は年数を経て、はじめて意味をもつものであることがわかる。

私の秘密

 昭和30年のこの日、NHKテレビ「私の秘密」の開始された。高橋圭三の司会で、ある秘密を持った一般人が登場し、4人の著名人が一回30秒間質問を続ける。秘密の概念はかなり広範囲で、職業・趣味・業績などの秘密を解き明かす推理ゲームに近い。アメリカの人気番組「Ⅰ've Got a Secret」を参考にしている。

 米国同番組では「私はリンカーン暗殺の目撃者です」という出場者がいた。サミュエル・J・シーモアという96歳の大工で、5歳の時にフォード劇場で大統領席の見える客席に坐っていて事件を目撃したというからおどろきである。この番組はYouTube動画で見ることができる。Witness of Lincoln's Assassination (4月14日)

 

 

 

読めない名前「梵英心、塹江敦哉」

Photo    プロ野球選手の中でも難読名のひとつ。広島東洋カープの梵英心(現在はオリックスのコーチ)。「そよぎ えいしん」と読む。父親の話によると、「祖先がなぜ「そよぎ」と読んだのかは分からない。ただ「凡」を「風」にとらえ、林に風が吹いて「そよぐ」としたのではないだろうか」と語っている。 同じくカープに塹江敦哉がいる。「ほりえ」と読む。「塹」は敵の侵入を防ぐために、城などの周りに掘った人が入るほり。塹壕。

2024年4月13日 (土)

樺太地名考

Acd0810020803002p1 間宮林蔵の像(宗谷岬)

 文化5年のこの日、間宮林蔵は幕命によって、松田伝十郎に従って樺太探検に出発した。

  サハリン島は1643年、フランス人デフリースが発見したが、北海道の一部と誤認した。その後、探検したロシア人も沿海州(プリモルスキー)に続く半島と誤認した。地名サハリン(Sakhalin)は、満州族がアムール川につけた名「サハリャン・ウラ」(黒い川)を、ロシア人がその河口にある半島(?)の名と誤認したため生じたものである。この原名がロシア語化されたサハリンとなった。日本でははじめカラフト、のち一時「北蝦夷(きたえぞ)」と呼ばれたが、江戸時代末にはふたたびカラフトあるいはサガレンと呼ばれた。カラフトには唐人、柯太などの字もあてられたが、明治2年、「樺太」の漢字が正式な地名と定められた。明治38年ポーツマス条約により北緯50度以南をロシアから割譲された。昭和20年まで日本の領土として日本地名が作られた。主要な旧樺太地名とその読みを記す。

 

古屯   ことん      ポベディノ
上敷香  かみしくか
敷香   しくか      ポロナイスク
栄浜   さかえはま   スタロドブスコエ
川上炭山 かわかみたんざん シネゴルスク
豊原   とよはら    ユジノサハリンスク
大泊   おおどまり   コルサコフ
留多加  るうたか    アニワ
真岡   まおか     ホルムスク
久春内  くしゅんない イリインスキー
本斗   ほんと     ネベリスク
内幌   ないほろ    ゴルノザヴォーツク
知取   しろとる     マカロフ
元泊   もととまり    ヴォストチヌイ
落合   おちあい     ドリンスク
恵須取  えすとる     ウグレゴルスク
泊居   とまりおる    トマリ
野田   のだ        チェーホフ
本斗   ほんと
吐鯤保  とこんぼ
気主   けぬし

 

{地名の読み変更}知取は昭和2年は「しりとり」であったが、昭和16年に「しるとる」と読み変更。近幌は昭和2年は「ちかぽろ」であったが、昭和18年に「ちかほろ」と読み変更された。大鵜取は昭和5年は「おおうとり」であったが、昭和16年に「おおうとる」と読み変更。

納谷幸喜(横綱大鵬)は昭和15年、樺太敷香町に生れる。(4月13日)

 

清川八郎、暗殺される

 幕末の憂国の士、清川八郎は文久3年のこの日、麻布赤羽橋で幕府の刺客佐々木只三郎らに暗殺される。享年34歳。清川は出羽国庄内田川郡清川村の豪農斎藤治兵衛豪寿の三男として生まれた。18歳で江戸に留学し千葉周作の門に入り修行する。文久3年浪士隊に入り上洛。近藤勇ら佐幕派と対立、江戸に戻り新徽組に編入される。(4月13日)

2024年4月12日 (金)

呉の孫堅 孫策 孫権

  黄龍元年(229年)のこの日、呉の孫権が帝位し、ここに三国鼎立の時代が始まる。三国時代呉国の4代について簡略に記す。呉の始祖孫堅は後漢末に知られた武将黄祖と戦って敗死した。あとをついだ子の孫策は袁術から独立して江東を制圧し、余勢をかって許へ攻めのぼり、献帝を江東へむかえようとしたが、暗殺された。孫権は19歳で父兄の業を引きつぎ、周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜を重用して、多くの人材を集め、中国東南に確固たる勢力を築いた。かれは江東の原住民である山越の反乱を平定して農業に従事させ、また屯田政策をとって農業の発展をはかるとともに、南海貿易にも手をそめて漢族の勢力圏を越南にまで広めた。外交的には魏・蜀両国とのあいだに立って、和戦両様の関係をたもちながら独立を維持した。しかし、老年にいたって後継者の選定をあやまったため、稀代の暴君遜皓(そんこう)を帝位につけることになり、4代にして亡国の悲劇をまねくことになった。(4月13日)

2024年4月11日 (木)

ハワイ相撲の生みの親・柏原喜八

 第64代横綱・曙太郎さんが11日、逝去した。幕内最高優勝11回は、白鵬45回を筆頭に第10位にランキングしている。ハワイ出身の力士といえば高見山、小錦、曙、武蔵丸などみんな大相撲で大活躍した。なぜハワイ人は角界で成功したのだろうか。それは明治期の日本人が移民したとき、ハワイで相撲を普及させたからである。高見山が子どものころにはすでにハワイに相撲の伝統があった。1890年代、モイリリ地区には日系1世がおおく住んでいた。開拓者の柏原喜八は山口県生まれで若いころ大阪相撲を経験していた。しこなは千田川という。最高位は前頭5枚目。彼は自宅の庭に土俵をつくり、近所の子どもたちに相撲を教えた。いつしかハワイでも相撲大会が開かれるほど普及していった。柏原喜八の相撲海外普及の功績は大きい。(参考:森戸由久「ハワイ風物誌」 創価大学女子短期大学紀要37  2008年)

江戸城無血開城(1868年)

 勝海舟は江戸城無血開城で平和主義者といわれているがはたしてそうであろうか。徳川慶喜によれば、鳥羽伏見で敗戦したとき、この時期海舟は「あくまで戦うつもりなら軍艦を清水港に集めて東下の敵兵を扼し、一方では鹿児島を攻める軍がある」といい、慶喜が耳を貸さなかったことになっている。慶応4年2月9日、有栖川宮熾仁親王を東征大総督とし、西郷隆盛、広沢真臣、林玖十郎を参謀とする東征軍は、沿道諸藩の兵をあわせて総数は約5万の軍勢で、錦旗をひるがえしつつ東海道を江戸に向かい、2月28日、駿府に着陣した。

   その頃、江戸では幕臣の間で議論がたたかわされていた。主戦派は榎本武揚、小栗上野介、大鳥圭介、非戦派は勝海舟、大久保一翁、山岡鉄舟らであった。和宮や輪王寺宮公現法親王(北白川能久親王)など天皇家に関係深い筋からは、慶喜助命や徳川家存続の嘆願がなされたが、効果はなかった。2月17日には、上野東叡山寛永寺にいた輪王寺宮の京都行きが決定した。目的は、天皇に会い、慶喜の恭順の意を伝え、官軍の江戸城攻撃を食い止めることにあった。

 駿府の官軍の軍議は3月6日に開かれ、江戸城攻撃を3月15日とするとともに、徳川処分の方策も決定していた。3月7日、上洛途中で輪王寺宮は、数日滞在して、ようやくにして有栖川宮に面会できた。3月12日にも二度目の会見が行なわれた。有栖川宮はこう言った。「徳川慶喜が上野の閉居しているとしても、それだけでは今までの罪をつぐなうことは出来ない。」結局、輪王寺宮は、自分はひとりでも京都へ行くと言った。すると、有栖川は顔色をかえて「それはならぬ。宮の使命は、ここで終わっているではないか。これ以上何を聖に申し上げることがあるか」と強い口調で制止した。このとき、有栖川宮は33歳、輪王寺宮は22歳だった。

   そのころ、勝は西郷のもとへ山岡鉄舟を派遣した。しかし両者の間には大きな開きがあった。江戸城攻撃の期日を目前となったが、勝・西郷の会見は、3月13日と14日の2回にわたって薩摩藩邸で行なわれた。1回目はたんに挨拶だけにとどまり、2回目にいたって、はじめて徳川氏の降伏条件についての交渉が開始された。日本史の中では西郷・勝の江戸城無血開城が知られているが、駿府城での、有栖川と輪王寺宮の会見はほとんど知られていない。結局、輪王寺宮は上洛計画を諦めて、江戸に戻った。その後、上野に居合わせた輪王寺宮は彰義隊の総大将にさせられて、官軍の攻撃の矢面にさらされる。戦いに利あらず、輪王寺宮はさらに奥州に落ちることになる。4月11日、官軍が江戸城に入城し徳川慶喜は寛永寺から水戸へ退居する。(参考:有馬頼義「江戸開城異聞」『日本人の100年 2』)

2024年4月10日 (水)

天使の耳

 NHKドラマ「天使の耳」。小芝風花が新人交通課巡査役で安田顕と共演している。「大奥」倫子&田沼意次に続いての共演か(実際は大奥の方が後作品)。2台の車が深夜の交差点で追突事故を起こした。一台の方は兄が死亡し、同乗の盲目の妹・高校2年女子は一命をとりとめた。他方の車は男女2人で生存、飲酒の可能性がある。事故状況が分からぬまま、捜査は難航した。ところが被害者の妹奈緒が盲人の感覚の鋭さを利用して、いかにも兄が当時、青信号で交差点を通過しようとしたかのように、偽装の証言を行い、それを警察もあっさり信じて、保険金をせしめたというお話である。緻密なストーリーで感服する。しかしキャスティグが不自然である。出演の女優が美人ばかりなのだ。モデル出身とかオスカーのタレントとか。飯沼愛、小泉のん、足立梨花。そしてとどめは交通課課長の檀れい。元タカラジェンヌ。ここまで美女ばかりを揃えるのは、ディレクターの好みなのか事務所の売り込みなのか知らないが、シリアスなドラマとしては不自然の感が免れない。

 

最初の駅弁は握り飯だった

   本日は「駅弁の日」。平成5年、日本鉄道構内営業中央会が。「弁当」の「とう」から10日、「4」と「十」を合成すると「弁」の見えることから、この日に。駅弁の魅力をPRするのが目的。
    一般に日本最初の駅弁は明治18年7月16日、旅館「白木屋」の嘉平が宇都宮駅で竹皮に包んだ梅干し入りの握り飯を5銭で販売したのが始まりとされ、現在この日は「駅弁記念日」と制定されている。しかし最初の駅弁は他にも梅田駅(明治10年)、神戸駅(明治10年)、敦賀駅(明治15年)、上野駅(明治15年)、高崎駅(明治17年)など諸説あるようだ。ちなみに現在のような折り詰め「幕の内駅弁」は明治22年に「まねき食品」の竹田木八(画像 1851-1903)の発売したものが最初とされる。当初は列車が少なく、一緒に始めた友人は撤退したが、日清・日露戦争時には軍隊弁当がよく売れ、現「まねき食品」を創業した。(4月10日)

 

 

ファム・ファタール

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   ファム・ファタール(Femme fatale)とは、運命の女、宿命の女という意味のフランス語。かかわった男を破滅させる、抗しがたく美しい女。女性美を崇拝した19世紀のラファエル前派の青年画家たちにとって、そのファム・ファタールの女性美の虜となって破滅することは、まさに宿命ともいうべきことであった。エリザベス・シッダルやジェーン・バーデンは背が高く、息をのむように魅力的で、理知的で神秘的な女性であったといわれる。

   ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-1882)がジェーン・バーデンに初めて出会ったのはロンドンの劇場であった。当時、ロセッティはエリザベス・シッダルと婚約していたが、ロセッティとジェーンは互いに惹かれるものがあった。だが、ジェーンはロセッティの弟子のウィリアム・モリス(1834-1896)と結婚し、ロセッティはエリザベスと結婚する。ロセッティの人妻ジェーンに対する思慕は止むことはなかった。結婚2年後には、美しきリジー(エリザベス)は、アヘンチキンの飲み過ぎで死んだ。

   モリスも妻ジェーンとは不仲であった。ロセッティとジェーンとの仲も続いた。モリスは友人のエドワード・バーン・ジョーンズ(1833-1893)の妻ジョージアナを愛するようになった。

    ロセッティはやがて麻薬とアルコールによって体が蝕まれていった。晩年は、病身で、気力も衰え、外出することもなくなった。1882年4月10日、53歳で亡くなった。

2024年4月 9日 (火)

ヒンクリー地下水汚染事件(1993年)

 クロム化合物のうち、酸化数が+6を含むものを六価クロムと呼んでいる。六価クロム化合物は、強い毒性を持ち大気汚染防止法に基づいて有害大気汚染物質とされている。アメリカ・カリフォルニア州ヒンクリーに工場がある大手企業PG&Eは1952年から1966年にわたる14年間にわたって発電のため、その冷却塔の防錆剤として六価クロムを使用し、汚染水を大量に投棄し続けていた。周辺住民に癌などの健康被害が多発したことから、シングルマザーのエリン・プロコビッチはPG&Eを訴え、1993年に集団訴訟を起こして勝訴した。

ワールシュタットの戦い(1241年)

  1241年のこの日、ワールシュタットの戦いがおこる。バトゥの率いるモンゴル軍が、リーグニッツ近郊の平原ワールシュタットで、ハインリヒ2世の率いるポーランド軍とドイツ騎士団の連合部隊と戦った。モンゴル軍は、まずドイツ騎士団を撃破、ついでポーランド軍に襲いかかった。ポーランド軍は善戦したものの後退を続け、ハインリヒ2世は戦死した。モンゴル軍の東ヨーロッパ征服はこれより長く続き、ロシア語で「タタールのくびき」とよんだ。なぜモンゴルはユーラシア大陸の大部分を占める世界帝国を短期間に築いたのか。①軽装備の騎兵だけの軍隊②千戸制③馬の多角的活用④強力なモンゴル弓、などが強さの理由に考えられる。(4月9日)

2024年4月 8日 (月)

名家の悲劇「カラカラとゲタ」

591pxseveran_dynasty__tondo  偉大な人物の息子がひどくできが悪いと、「不肖の息子」という汚名を着せられる。源頼朝の息子「源頼家」、足利義政の息子「足利義尚」、大内義興の息子「大内義隆」、加藤清正の息子「加藤忠広」など。親が偉大だと子供はかなり努力しても親を超えることは至難である。ある程度の力がありながらも長嶋一茂や野村克則も期待したほどの成績を残すことはでなかった。リチャード・クロムウェルは父の後を継いで護国卿に就任したものの、無能で人望がなかった。そのような悲劇の息子は世界史ではカラカラとゲタではないだろうか。211年2月4日、ローマ皇帝の名君として知られたセプティミウス・セウェルスが亡くなった。後継者となったカラカラとゲタは共同統治をするも兄弟仲が悪かった。カラカラは弟ゲタを暗殺する。カラカラは残忍な性格で、ローマに大浴場を建設して淫楽にふけった。217年4月8日、カラカラは近衛隊長ユリウス・マルティアリスにより暗殺された。(Caracalla,Geta)

太田道灌、江戸城に入る(1457年)

Dokan_samurai 長禄元年(1457年)のこの日、扇谷上杉家の家臣、太田道灌が武蔵国荏原郡桜田郷(麹町台地の東端)に平山城(のちの江戸城)に入る。太田道灌といえば「山吹の教え」の故事が有名である。道灌が武蔵野で狩りをしていた時のことである。にわか雨にあったので、とある民家で雨具を貸してほしいと頼んだところ、家の中から出てきた少女は無言で、山吹の一枝をさしだした。道灌は少女の真意がわからなかった。あとで古歌「ななえ八重花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞ悲しき」(「後拾遺集」兼明親王)に託して「実の(蓑)」をかけて、貧しきゆえに雨具を貸せないことを詫びた少女の心情を知った道灌は、風雅を解することができなかったことを恥じて和歌の道に励み、のちには武将ながらも名高い歌詠みになった。文明18年(1486年)7月26日、道灌は扇谷家の上杉定正に招かれ風呂場で謀殺された。(4月8日)

   





太田道灌借蓑図   大槻磐渓

 

  孤鞍雨を衝いて茅茨(ぼうじ)を叩く

  少女為に遣(おく)る花一枝

  少女言わず花語らず

  英雄の心緒(しんちょ)乱れて糸の如し

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春の猫

01121343   猫が交尾期になり、盛(さか)るのを「猫の恋」という。夜昼を問わず、物狂おしく鳴き立てて、妻恋う猫が往き来する。人も怖れず雨風にも怯えず、ろくろく家にも居つかない。何日もの後やつれ果てて帰ってくる。恋猫。うかれ猫。春の猫。猫の妻。孕猫。

又ここに猫の恋路とききながし(虚子)

   4月8日は高浜虚子、1959年の忌日。虚子忌。椿を愛し、法名を虚子庵高吟椿寿居士ということから、椿寿忌ともいう墓は鎌倉の寿福寺にある。

 

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2024年4月 7日 (日)

怪盗ディック・ターピン

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  イギリスの悪名高き盗賊としてディック・ターピン(1705-1739)が知られている。彼の首には200ポンドもの高額な賞金がかけられた。彼はジョン・パーマーと名乗り、堅気の馬・家畜商人として身を潜めていたが、酔ったあげくに喧嘩して逮捕され、身元がばれた。1739年4月7日、ヨークで処刑された。ターピンがロンドンからヨークまでブラック・ベスにまたがって逃亡したという伝説は、ヴィクトリア朝時代の作家ハリスン・エーンズワースの冒険小説「ルックウッド」 (1834)にもとづくつくり話である。

 

( keyword;Dick Turpin,John Palmer,London,Black Bess,Harrison Ainsworth,Rookwood )

戦艦大和、撃沈される(1945年)

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   昭和20年のこの日、日本海軍が誇った巨大戦艦「大和」は沖縄突入ならず海底に消えた。 この「天一号作戦」とは一体何だったのか?昭和20年4月1日、連合国軍が沖縄本島に上陸して来た時、日本海軍の水上艦艇実戦部隊は、開戦以来3年余りの激戦であらかた消耗し、わずかに戦艦大和のほか軽巡矢矧と駆逐艦8隻の第2艦隊があるだけだった。連合艦隊司令長官はこの部隊に対して、航空部隊の特攻攻撃と呼応し海上特攻部隊として8日夜明に沖縄突入作戦を行うよう命令した。

    これに従い大和(艦長・有賀幸作)を旗艦とした海上特攻部隊は、6日午後3時20分瀬戸内徳山沖を出撃した。味方航空機の上空援護は期待薄で、沖縄突入成功の可能性は少なかったが、「光輝ある帝国海軍部隊の伝統発揚とその栄光を後世に伝える」ことと、「一億総特攻のさきがけになる」ことの大義のもとに、艦隊の将兵は敢然と死地に赴いたのである。

   海上特攻部隊は豊後水道を経て、夜間大隈海峡を通過し、7日午前10時過ぎには九州坊ノ岬西南90浬の地点に到着したが、その行動はすでに敵に探知されており、アメリカ空母機動部隊は攻撃隊の発進作業中だった。

    敵の第1波攻撃隊280機が正午過ぎに海上特攻部隊を発見、まず約200機が午前1時まで雷・爆撃を行った。この攻撃で駆逐艦朝霜と浜風が沈没、軽巡矢矧は航行不能となり、大和には爆弾二発と魚雷一本が命中したが、損害は軽微だった。

    午後1時18分からは残りの約100機が来襲し、約20分の攻撃により駆逐艦霞が航行不能になり(のち沈没)、大和は魚雷三本命中を受けた。

    午後1時30分頃に新手の第2波攻撃隊126機が姿を現し、2時25分頃まで猛攻を加えた。この攻撃で軽巡矢矧が沈没し、駆逐艦磯風は大破(のち沈没)、大和は魚雷六本と爆弾二発が命中した。大和が受けた魚雷10本中9本が左舷に集中したため左へ激しく傾斜し、午後2時35分遂に転覆、爆発を起こして沈没した。北緯30度43分17秒、東経128度04分00秒の地点に没した。乗員3332人のうち艦隊を指揮していた伊藤整一中将をはじめ3056人が艦と運命を共にした。

    大和沈没で作戦中止となり、残った駆逐艦・雪風、初霜、冬月、涼月の4隻は佐世保に帰投した。こうして、連合艦隊は事実上、消滅したのである。(4月7日)

 

 

 

 

 

 

2024年4月 6日 (土)

北極の日

Np019982_2    本日は「北極の日」。1909年のこの日、アメリカの軍人ロバート・ピアリーが北極点に到達した。フリチョフ・ナンセン(1861-1930)ら13人の隊員を乗せたフラム号は、北極探検に1893年6月24日、オスロを出帆した。9月22日、フラム号は北緯78度50分、東経133度37分の地点で氷に閉じ込められた。ナンセンはヨハンセンを伴って下船し、犬ぞりとカヤックを使ってさらに北へ進み、前人未踏の北緯86度13分6秒という最高緯度に達した。途中でF・ジャクソン探検隊と出会い、1896年8月13日、ノルウェーに帰ってきた。

   ナンセンは北極点に到達することができなかったが、この冒険が北極の最も大事な流れ、地球の温度分布に多大な影響を与えるトランス・ボーラー・ドリフトのPeary1発見につながった。1909年4月6日、アメリカのロバート・ピアリー大佐(1856-1920)、マシュー・ヘンソンらによって北極点への到達は達成された。(4月6日)

 

 

 

 

ロバート・ピアリー

 

( keyword;North Pole,Fridtjof Nansen,Robert Edwin Peary )

 

 

 

 

 

 

2024年4月 5日 (金)

「論語=精神修養」を否定する説

    野村克也が日中友好の架け橋として孔子と論語の精神普及に寄与したとして「2010孔子文化賞」を受賞した。ほかに渡邊美樹、酒井雄哉、北尾吉孝も受賞している。論語と経済界は相性がよい。渋沢栄一の「論語と算盤」もある。もともと論語は孔子が士大夫階級である士に講義したもので、治める者の修養であって、一般の民衆向けの内容ではない。論語は孔子の著作ではなく、弟子たちがまとめた言行録、そしてその成立は孔子の死後かなり経たものであろう。しかし、中国にかぎらず、朝鮮、台湾、日本といずれも論語と孔子の人気は根強い。東アジアでは論語の説く道徳は規範であり、正義とされている。四書五経の中でも最も読まれる書物である。

 私たちは肉体だけで存在しているのではない。だが肉体には限界があります。年をとれば機能も衰え、弱ります。リハビリや鍛錬して一時的に活発にしても、時が来れば朽ち果てます。しかし、精神は修養を積むことによって、年齢に関係なく、長い年月あいだ人間として立派にいきていくことが出来ます。つまり精神修養=論語として、長い年月、漢字文明圏では論語が尊重されてきました。

    あるブログを見ると或る小説家のかたで、論語を全否定している事例があれば教えてほしいとある。寄せられたコメントには、魯迅があげられていたが、ほかには見あたらなかった。実は私の貧しい書棚に「論語と孔子の思想」(岩波書店)がある。津田左右吉という有名な学者が書かれたもので、購入してから37年以上が経過するが難しいので通読していない。知らない人が一見すると、この本は、論語はすばらしい、と書いてあるものだと思うだろう。実はその反対である。津田は孔子のことを「学問的精神が欠けている」(429頁)、「礼は役にたたない」(395頁)、「(孔子の正確な記録は残っていないので)孔子のことは何もわからない」(294頁)とある。つまり実証主義的な史料批判に立つ津田左右吉は、孔子の思想は後世(漢代)のもので本当のことはわからない。そのようなわからないものを大事そうに持ち上げることは、うさんくい者が政治的に利用するだけだからよくない、といいたいのだと推測している。津田は偉い学者で、戦前に日本人によって唱えられた東洋文化、東洋精神もインチキであることを実証的に論証している。インド、中国、日本をアジアとか東洋とかいうが、一つになったことはない、「アジアはひとつではない」というのが津田の研究の成果である。もちろん当時の蓑田胸喜などのアジア主義者に反感を買い、辛い目にあった。それでも戦後も思想は一貫している。漢字をなるだけつかわず、自分の名前も「つだそうきち」と表記することが多い。「古事記及び日本書紀の研究」で神武以来の天皇の存在を否定したが、天皇は尊敬していた。学者の鑑のような人であるが、論語も否定し、唐詩も感心せず、「文学に現われたる我が国民思想の研究」という大著があるが、記紀の国民文学の価値を「余り高くない」と書かれている。つまり津田は懐疑論で多くの古典は後代の創作を含むのであまり信奉することの危険を説いている。もちろん実証過程が専門的なので、一般向きではないし、津田の学問的態度がすべて正しいとはいわない。しかし「孔子平和賞」や「孔子文化賞」などが次々生まれると、津田のいうことは正解だったと感じる。

 

 

 

 

盆栽

Matsudamitsuo_0212thumb597x600544   埼玉県は盆栽の産地で知られる。関東大震災で被災した東京小石川周辺の盆栽業者がこの地に移住して形成された。1989年には大宮市で世界初の国際盆栽大会が開かれた。2010年にはさいたま市大宮盆栽美術館が開館した。西では香川県が盆栽の産地で知られる。2011年11月には高松市で第11回アジア太平洋盆栽水石大会が開催された。

 盆栽関連の用語「走り枝」全体の枝の伸び具合に対し、極端に勢いよく伸びた枝のこと。「芽あたり」芽切りや芽摘みなどによって普段芽吹がないようなところから出る小さい芽のこと。「肉巻き」時間が経つことによって、枝や幹を切除した跡が癒着して治ること。

   盆栽は現在ヨーロッパなど海外でも人気があり、日本語の発音を基にした「BONSAI」で通じることが多い。この盆栽、日本が起源ではない。中国の唐の時代に行われていた「盆景」が朝鮮や日本に伝わって発達したものである。

2024年4月 4日 (木)

キング牧師、暗殺(1968年)

  黒人解放運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは1967年にはベトナム戦争に反対をさけび、各地に遊説していた。1968年4月4日、テネシー州メンフィスで「貧者の行進」の運動を遊説中にジェームズ・アール・レイに暗殺される。弾丸は喉から脊髄に達し病院に搬送されたが、間もなく死亡した。キング牧師の名言。「私たちは兄弟としてともに生きることを学ばなければならない。それができなければ、愚か者としてともに滅びてしまうだろう」

We must learn to live together as brothers or perish together as fools.

 

 

2024年4月 3日 (水)

論語及び孔子関係文献目録

Photo_2  1690年2月7日、孔子を祭る湯島聖堂が完成した。孔子の学問を儒学として薦めたのは江戸時代になってからだが、すでに江戸初期にもその気運はあった。加藤清正は戦国の武将の例にもれず、本などあまり読まなかったが、教養派の前田利家の影響から読書するようになった。清正が、江戸と熊本を往来する船の中で、「論語」を読みながら朱点ほほどこしているのを見ていた飼い猿が、清正が厠へ行った間に主人の真似をして「論語」の上に縦横に朱の線を走らせてしまった。戻ってきた清正はこれを見てニッコリ笑い、「おぉ、そちも聖人の教えを知りたいか」と言って、猿の頭を撫でたという。この逸話によって、清正が平生「論語」に親しんでいたことがよくわかる。清正ならずとも心ある部将はみな論語を愛読した。大内義隆、徳川家康など。明治以後は渋沢栄一、下村湖人、武者小路実篤など。第一生命の創始者・矢野恒太にも『ポケット論語』の著書がある。講談社をつくった野間清治にも、事業運営の柱に「論語」を据えたことは、あまねく知られている。最近では野球の野村克也が『野村の実践論語』の著書を刊行している。明治以降、「孔子及び論語」に関する文献は何点くらい出版されたのであろう。国会図書館で「論語」を検索すれば書籍だけで10681件がヒットする。

 

  論語関係文献
図書の部
論語微 10巻 荻生徂徠
論語古義 10巻 伊藤仁斎撰 1712
論語 全4巻 朱熹 学習館 1870
論語集説 全6巻 安井息軒 1872
論語類編心解 4冊和本 渋谷鉄臣(如意)編 京都・文石堂 1891
孔子 世界歴史譚第2篇 吉国藤吉 博文館 1899
論語新証 于省吾 1900
和論語 本社出版部 仏教図書出版 1900
孔門之徳育 亘理章三郎 開発社 1901
論語纂註 米良東嶠(倉子痩) 村上書店 1901
論語訓釈 斎藤清之丞 金華堂 1903
論語補註 山本章夫 山本読書室 1903
論語講義 上下 花輪時之輔講述 深井鑑一郎編 誠之堂 1903
孔門之徳育  1巻 亘理章三郎 開発社 1901
論語補註 2冊 和本 山本章夫註 京都・山本読書室 1903
孔夫子伝 蜷川龍夫 文明堂 1904
孔子研究 蟹江義丸 金港堂 1905
論語講義 根本通明 早稲田大学出版部 1906
論語 ジェームズ・レッグ訳 依田喜一郎 嵩山房 1908
孔子 西脇玉峰 内外出版協会 1909
ポケット論語注釈 奥村恒次郎註釈 大阪・山本文友堂 1909
論語経典余師 渓世尊講 宮崎璋蔵校訂 日吉丸書房 1909
論語講義 近藤元粋 篠田栗夫共著 大日本商業学会 1909
論語古義 佐藤正範 六盟館 1909
論語集説 漢文大系1 安井息軒 服部宇之吉校 冨山房 1909
論語講話 大江文城 東洋大学出版部 1909
孔子伝 遠藤隆吉 丙午出版社 1910
孔子 白川次郎 東亜堂 1910
孔子之聖訓 二條基弘 東久世通禧 名著学会出版部 1910
荻生徂徠論語辨 祥雲碓悟校 1910
論語弁 荻生徂徠 祥雲碓悟校 天書閣 1910
論語講義 一戸隆太郎 大成社 1910
論語国字解 一名経伝余師 渓世尊講 深井鑑一郎校 宝文館 1910
論語詳解 川岸華岳 郁文舎 1910
新訳論語(新訳漢文叢書11) 大町桂月訳 至誠堂 1912
論語示蒙句解 漢籍国字解全書1 中村惕斎 早稲田大学出版部 1912
論語書目 中村久四郎編 孔子祭典会 1913
論語源流 林泰輔 自筆稿本 1915
論語年譜 林泰輔 龍門社 1916
孔子及び孔子教 服部宇之吉 明治出版社 1917
論語講義 漢文註釈全書1 三島毅(中洲) 明治出版社 1917
論語鈔 成簣堂叢書10  上村観光解題 1917
儒教と現代思潮 国民思想涵養叢書3 服部宇之吉 明治出版社 1918
論語講義 細川潤次郎 南摩鋼紀共著 吉川弘文館 1919
孔子と其思想及教義 鈴木周作 弘道館 1922
渋沢子爵活論語 安達大寿計編 宣伝社 1922
世界三聖伝 基督・釈迦・孔子 松本雲母・大屋徳城・西脇玉峯編著 1923
現代に活かした論語講座 西川光二郎 丙午出版社 1924
孔子聖教之攻究 景仰子、柿本寸鉄 人文社 1924
孔子聖蹟志 馬場春吉 大東文化協会 1924
孔子研究 改版 蟹江義丸 京文社 1927
国訳論語 斯文会編 龍門社 1928
孔子鑑賞 大月隆仗 敬文館 1929
論語明解 江口天峰 至玄社 1929
孔子 小学児童学習の友 高橋喜藤治 郁文書院 1930
政教より観たる論語新釈 赤池濃 早稲田大学出版部 1930
論語講本(集註) 島田欽一校訂 有精堂 1930
論語鈔 村上龍英 広文堂 1930
論語詳解 沢田総清 健文社 1930
孔子全集 全2冊 藤原正纂訳 岩波書店 1931
論語善本書影 大阪府立図書館編 京都・貴重書影本刊行会 1931
論語詳解 簡野道明 健文社 1931
孔子家語 岩波文庫 藤原正訳 岩波書店 1933
論語證解 上中下 漢籍国字解全書28,29,30 早稲田大学出版部 1933
論語私感 武者小路実篤 岩波書店 1933
論語・孟子 東方古典叢刊7 五十沢二郎 竹村書房 1933
論語・孟子の話 国民修養講和3 西川光二郎 春陽堂 1933
孔子 室伏高信 日本評論社 1934
孔子解説 学庸篇 北村佳逸 立命館出版部 1934
論語講義 岡田正三 第一書房 1934
論語心解 西川光二郎 自動道話社 1934
論語の解釈 村田慎三 白帝社 1934
論語詳解 前島成 大修館 1934
論語全解 島田鈞一 有精堂 1934
孔子及孔子教 住谷天来 新生堂 1935
孔子教と其反対者 北村佳逸 言海書房 1935
孔子教の戦争理論 北村佳逸 南郊社 1935
論語評釈 大江文城 関書院 1935
論語講義 安井小太郎 大東文化協会 1935
論語古伝 10巻 仁井田好古撰 南紀徳川史刊行会 1935
論語大学中庸 漢籍を語る叢書2 田中貢太郎 大東出版会 1935
論語新解 国語漢文研究会編 明治書院 1935
孔子 社会科学の建設者・人と学説叢書 田崎仁義 三省堂 1936
孔子の生涯 諸橋轍次 章華社 1936
仁の研究 山口察常 岩波書店 1936
精講 論語百講 松田金重編 三省堂 1936
日本精神と孔子教 社会教育パンフレット236  岡村利平 社会教育協会 1936
ものがたり論語 三宅昭 モナス 1936
論語講座 全6巻 高田真治・諸橋轍次・山口察常編 春陽堂 1936-37
孔子伝 岡村利平 春陽堂 1937
孔子伝 (附)弟子列伝・集語 岩波文庫 藤原正訳注 岩波書店 1937
孔子とをしえ 加藤虎之亮 国民精神文化研究所 1937
孔子の思想・伝記及年譜 論語講座研究篇 春陽堂 1937
孔子の人格と教訓 塩谷温 開隆堂書房 1937
儒教の史的概観 高田真治 春陽堂 1937
論語・孔子 室伏高信全集8 青年書房 1937
孔子 大教育家文庫1 和辻哲郎 岩波書店 1938
全釈論語 幸田露伴 双葉書房 1938
大学論語解義 四書研究 岩部撓・深谷賢太郎 啓文社 1938
論語精解 重野篤二郎 白帝社 1938
論語物語 下村湖人 講談社
孔子論 林語堂著 川口浩訳 育成社 1939
四書新釋論語 上下 内野台嶺 賢文館 1939
論語講義 渋沢栄一 二松学舎大学出版部 1939
論語私見 上下 山本憲永弼 松村末吉家 1939
新講論語読本 西川光二郎 春陽堂書店 1939
論語読本(興亜国民) 上下 論語 東洋思想文庫 東洋思想文庫刊行会 第一出版協会 1939
論語之研究 武内義雄 岩波書店 1939
論語と教養 谷口廻瀾 谷口廻瀾先生還暦記念刊行会 1940
孔子 武者小路実篤 講談社 1941
孔子と其の生涯 田中貢太郎 東海出版社 1941
孔子廟参拝記 菟田茂丸 平凡社 1941
算標論語集註 瀧川亀太郎 金港堂書籍 1941(1913)
論語と支那の実生活 後藤朝太郎 高陽書院 1941
論語詳解 最新研究 徳本正俊 芳文堂 1941
論語の思想 渡部信治郎 畝傍書房 1941
論語の組織的研究 中島徳蔵 大日本出版株式会社 1941
孔子・人とその哲学 室伏高信 潮文閣 1942
孔子の新研究 大月隆仗 新民書房 1942
孔孟思想講話 新潮文庫 高須芳次郎 新潮社 1943
論語ものがたり 全釋 三宅昭編 博文社 1943
孔子 和辻哲郎 植村書店 1948
論語総説 藤塚鄰 弘文堂 1949
論語十二回講話 西川光二郎 1942
論語と孔子の思想 津田左右吉 岩波書店 1946
論語抄 幸田露伴 中央公論社 1947
孔子とその弟子 下村湖人 西荻書店 1950
論語集註 簡野道明 明治書院 1950
孔子 岩波新書 貝塚茂樹 岩波書店 1951
孔子 室伏高信 潮文閣 1951
孔子廟堂碑 展大法帳1 虞世南 春潮社 1951
論語物語 角川文庫 下村湖人 角川書店 1951
論語私感 三笠文庫 武者小路実篤 1951
論語私感 新潮文庫 武者小路実篤 1951
孔子 偉人物語文庫 小田嶽夫 偕成社 1952
孔子と老子 諸橋轍次 不昧堂書店 1952
論語に学ぶ 赤木三良 池田書店 1952
論語新解 簡野道明 明治書院 1952
論孟精選 簡野道明 明治書院 1952
全訳論語精解 重野篤二郎 桜井書店 1953
論語新釈 宇野哲人 弘道館 1953
論語全解 島田鈞一 有精堂 1953
現代語訳論語 下村湖人 池田書店 1954
論語物語 人生叢書 下村湖人 池田書店 1954
孔子 角川文庫 和辻哲郎 角川書店 1955
孔子 武者小路実篤全集11  新潮社 1955
論語は生きている 堀秀彦 河出書房 1956
孔子 三一新書 尾崎辰之助 三一書店 1957
論語百選 現代人のために 三省堂百科シリーズ 新垣淑明 三省堂 1957
論語の言葉 現代に生きる言葉? 堀秀彦 実業之日本社 1957
論語と現状 岩越元一郎 明徳出版社 1957
論語新釈 学生社新書 魚返善雄訳 学生社 1957
論語集注 上下 影璜川呉氏仿宋刊本 書物文物流通会 1959
孔子 その人とその伝説 H・G・クリール著 田島道治訳 岩波書店 1961
顔淵・孔子 中勘助全集10 角川書店 1962
孔子 和辻哲郎全集6 和辻哲郎 岩波書店 1962
論語物語・聖書物語 世界教養全集8 下村湖人、ヴァン・ルーン 平凡社 1962
輯佚論語鄭氏注 月洞譲 編者油印 1963
論語は生きている 潮文社新書 堀秀彦 潮文社  1963
仁の古義の研究 竹内照夫 明治書院 1964
論語集註(標註) 渡辺末吉 武蔵野書院 1964
孝の孔子の新解釈 加藤常賢 斯文43   1965
古典のかがみ 論語33章 れいろうブックス 諸橋轍次 広池学園出版部 1965
孟荀における孔子 浅間敏太 中国哲学3  1965
論語のことば 中国の知恵1 吉田賢抗 黎明書房 1965
論語知言 東条一堂 原田種成校訂 書籍文物流通会 1965
論語と人間孔子 山田統 明治書院 1965
孔子 その礼説を中心とする考察 松代尚江 懐徳37   1966
孔子・孟子 世界の名著3 貝塚茂樹編 中央公論社 1966
仁の研究 下斗米晟 大東文化大学東洋文化研究所 1966
ポケット論語 藤原楚水訳述 実業之日本社 1966
論語物語 アイドル・ブックス 下村湖人 ポプラ社 1966
論語物語 旺文社文庫 下村湖人 旺文社 1966
論語物語 改版 角川文庫 下村湖人 角川書店 1966
現代語訳論語 角川文庫 下村湖人 角川書店 1967
孔子と老子 ヤスパース選集22  田中元訳 理想社 1967
孔子名言集 世界名言集6 伊藤貴麿 ポプラ社 1967
孔子孟子老子荘子 世界の大思想Ⅱ‐1  本田済、松代尚江、木村英一ほか訳 河出書房 1968
論語私感想 現代教養文庫 武者小路実篤 1968
論語孟子大学中庸 世界文学大系69  倉石武四郎・湯浅幸孫・金谷治編 筑摩書房 1968
現代語訳論語 原富男 春秋社 1969
孔子 センチュリーブックス人と思想2 内野熊一郎、西村文夫、鈴木壮一 清水書院 1969
孔子伝 如是我聞 諸橋轍次 大法輪閣 1969
吾が道 孔子の人生観大系 吉野浴風 大坂発色 1969
論語孟子荀子礼記(抄) 中国古典文学大系3 木村英一・鈴木喜一ほか訳 平凡社 1970
孔子家語 中国古典新書 清田清 明徳出版社 1971
孔子と論語 東洋学叢書 木村英一 創文社 1971
論語源流 林泰輔 汲古書院 1971
論語のために 私の古典 吉川幸次郎 筑摩書房 1971
唐卜天壽注抄写鄭氏論語 中国科学院考古研究所編 平凡社 1972
論語古義 日本の名著13  伊藤仁斎著 貝塚茂樹訳 中央公論社 1972
論語抄 足利本 中田祝夫編 勉誠社 1972
論語之研究 武内義雄 岩波書店 1972
論語を活かせ 武藤紀郎編 文進堂 1972
聖人の虚像と実像 論語 現代人のための中国思想叢書1 駒田信二 新人物往来社 1973
論語講義と長寿法 村田直彌 明治書院 1973
論語の講義 諸橋轍次 大修館書店 1973
孔子与論語 銭穆 聯経出版事業公司 1974
孔子批判 中国通信社東方書店編 東方書店 1974
論語三十講 斯文会編 大修館書店 1974
論語入門 ダルマ・ブックス 阿部幸夫 日本文芸社 1974
論語の新研究 宮崎市定 岩波書店 1974
孔子伝 銭穆 池田篤紀訳 アジア問題研究会 1975
聖人孔子の化けの皮をひっ剥がせ! 香坂順一編訳 青年出版社 1975
論語発掘 通釈への疑問と解明 合山究 明治書院 1975
論語講義 渋沢栄一 二松学舎大学出版部 1975
論語私見 民主主義時代の論語 小沢俊雄 岡谷 中央印刷 1975
論語大東急記念文庫講座講演録 石井千秋等講述 大東急記念文庫 1975
現代語訳論語 下村湖人全集8 下村湖人 国土社 1976
論語について 講談社学術文庫 吉川幸次郎 講談社 1976
修訂・論語年譜 林泰輔編 麓保孝修訂 国書刊行会 1976
論語・孟子 西谷元夫 有朋堂 1976
論語物語・現代訳論語 下村湖人全集8 国土社 1976
論語講義 全7巻 講談社学術文庫 渋沢栄一 講談社 1977
論語精義 上・下 和刻本近世漢籍叢刊思想三編 1・2 朱熹撰 佐藤仁著 中文出版社 1977
論語孟子研究 狩野直喜 みすず書房 1977
論語新釈 新装版 魚返善雄訳 学生社 1978
論語の散歩道 重沢俊郎 日中出版 1979
孔子 人類の知的遺産4 金谷治 講談社 1980
論語新釈 講談社学術文庫451 宇野哲人訳 講談社 1980
朝の論語 安岡正篤述 明徳出版社 1981
論語墨書 名筆による名言鑑賞 広論社出版局編 広論社 1981
論語私感 内田智雄 創文社 1981
論語新探 論語とその時代 趙紀彬著 高橋均訳 大修館書店 1981
論語の読み方 ノン・ブックス 山本七平 祥伝社 1981
よみがえる論語 色部義明 徳間書店 1981
論語のことば グリーン・ブックス 堀秀彦 大和出版 1982
論語の散歩道 重沢俊郎 日中出版 1982
論語八方破れ TOKUMA BOOKS 竹村健一 徳間書店 1982
論語を読む 常石茂 勁草書房 1982
孔子新伝 「論語」の新しい読み方 林復生 新潮社 1983
孔子のことば 現代語訳の「論語」 林復生 グラフ社 1983
論語に学ぶ部課長学 仁田敏男 日本経営団体連盟弘報部 1983
異質孔子記 矢作幸四郎 八重洲ブックセンター 1984
孔子 時を越えて新しく 中国の人と思想1 加地伸行 集英社 1984
論語のこころ 加藤富一 近代文芸社 1984
論語と孔子 人間関係論のエッセンス「論語」の新しい読み方 鈴木修次 PHP研究所 1984
論語を読む 講談社現代新書 加地伸行 講談社 1984
孔子 伝記世界の偉人2 中央コミックス 永井道雄・手塚治虫監修 中央公論社 1985
孔子廟堂碑・他 書道基本名品集2 虞世南 雄山閣出版 1985
孔子廟堂碑   原色法帖選12  虞世南 二玄社 1985
ポケット論語 角川文庫 山田勝美 角川書店 1985
「論語」その裏おもて 旺文社文庫 駒田信二 旺文社 1985
論語と算盤 渋沢栄一述 梶山彬編 国書刊行会 1985
「論語」&老子入門 徳間文庫 野末陳平 徳間書店 1985
論語の世界 加地伸行編 新人物往来社 1985
孔子と失われた十支族 鹿島辨 新国民社 1986
孔子の復活 孔子をめぐる虚構と真実 李家正文 冨山房 1986
孔子の末裔 孔徳懋口述、柯蘭筆記 和田武司訳 筑摩書房 1986
論語の人間学 服部武 冨山房 1986
論語との対話 金子知太郎 竹井出版 1987
論語の活学 安岡正篤 プレジデント社 1987
論語抄の国語学的研究・索引篇 坂詰力治編 武蔵野書院 1987
孔子の経営学 孔健 PHP研究所 1988
孔子家語 岩波文庫 藤原正訳 岩波書店 1988
小説孔子 谷崎旭寿 新人物往来社 1988
論語総説 藤塚鄰  国書刊行会 1988
論語と禅 半頭大雅 山田邦男 春秋社 1988
孔子 井上靖 新潮社 1989
孔子 日本人にとって「論語」とは何か 歴史と人間学シリーズ 山本七平、渡辺昇一、谷沢永一、小室直樹 プレジデント社 1989
論語は問いかける 孔子との対話 ハーバート・.フィンガレット著 山本和人訳 平凡社 1989
「論語」その裏おもて 徳間文庫 駒田信二 徳間書店 1989
論語の講義 新装版 諸橋轍次 大修館書店 1989
論語の人間学 人間と知恵とを語り尽くす 守屋洋 プレジデント社 1989
論語名言集 ビジネス選書8 村山吉広 永岡書店 1989
壽(いのちなが)し日日論語 斎藤十九八 一休社 1990
孔子 講談社学術文庫 金谷治 講談社 1990
孔子家の極意 ワニの本 孔健 ベストセラーズ 1990
孔子と教育 俵木浩太郎 みすず書房 1990
わが祖・孔子と「論語」のこころ 孔健 日本文芸社 1990
孔子 集英社文庫 加地伸行 集英社 1991
孔子画伝 加地伸行 集英社 1991
孔子伝 中公文庫 白川静 中央公論社 1991
孔子・孟子に関する文献目録 瀬尾邦男編 白帝社 1992
真説人間孔子 孔祥林 河出書房新社 1994
男の論語 童門冬二 PHP研究所 1999
論語名言集 村山吉廣 中央公論新社 1999
論語 石川忠久監修 サン・エデュケーショナル 2000
論語 吉田公平 たちばな出版  2000
論語紀行 坂田新 日本放送出版協会 2000
宋明の論語 松川健二 汲古書院 2000
男の論語2 童門冬二 PHP研究所 2000
論語234 吹野安、石本道明 明徳出版社  2000
人生は論語に窮まる 谷沢永一、渡辺昇一 PHP研究所 2000
孔子「論語」に関する文献目録 単行本篇 瀬尾邦雄 明治書院 2000
江戸古学派における「論語」注釈史の研究 金培懿 博士論文 2000
論語 現代五訳 宮崎市定 岩波書店 2000
論語の新しい読み方 宮崎市定 岩波書店 2000
孔子百科辞典 上海辞書出版社 2010
さまよえる孔子、よみがえる論語 朝日選書 竹内実 朝日新聞出版 2011
孔子学院伝播研究 劉程、安然 中国社会科学出版社 2012
孔子の倫理哲学論 道徳論を中心として 浅井茂紀 International Philosoply Institute
孔子論語 佐久協 NHK出版 2012
論語正 石永楙 中華書局 2012
論語入門(岩波新書) 井波律子 岩波書店 2012
論語の読み方 中野孝次 海竜社 2012
孔子 世界史リブレット人 高木智見 山川出版社 2013
論語集注 1~4 東洋文庫 朱熹 土田健次郎訳注 平凡社 2013
孔子聖蹟図 和版集成 竹村則行 花書院 2014
図説孔子:生涯と思想 孔祥林 科学出版社 2014
全訳論語 山田史生 東京堂出版 2014
徳川日本の論語解釈 黄俊傑著 工藤卓司訳 ぺりかん社 2014
近代における「論語」の訓読に関する研究 石川洋子 新典社 2015
孔子と魯迅 片山智行 筑摩書房 2015
日本古代「論語義疏」受容史の研究 髙田宗平 塙書房 2015
論語与近代日本 劉萍 中国青年出版社 2015
経典釈文論語音義の研究 髙橋均 創文社 2017
儒教 怨念と復讐の宗教 浅野裕一 講談社 2017
論語から人間学を学ぶ 田村重信 内外出版 2017
論語象義 三野象麓撰 上海古籍出版社 2017
論語徴集覧 松平頼寛撰 中国典籍日本注釈叢書論語巻 上海古籍出版社 2017
論語と社会 加藤要 おうふう 2017
「論語」と「西洋哲学」 藤本一司 北樹出版 2017
論語補鮮 山本楽所撰 上海古籍出版社 2017
六朝論語注釈史の研究 高橋均 知泉書館 2022

 

論文の部
泰西人の孔子を評するを評す 井上哲次郎 東学芸4  1882
孔子ノ教ハ支那国ニ如何ナル影響ヲ与ヘンヤ 赤座好義 東学芸3-46  1885
孔子の学術を汎論す 柳沢保恵 輔仁会雑23,24,28  1893~94
孔子之道と徂徠学 加藤弘之 東哲1-6  1894
孔子以後の学派 藤田豊八 東哲1-8,11,12   1894,95
孔孟の道 内藤耻叟  東哲1-3  1894
孔子と儒教 神谷初之助 斯文4-5  1922
孔子と文 柿村重松 斯文4-5  1922
孔子に於ける妥当性の個性的実現の問題 斎藤要 斯文18-1  1922
孔門の「時中」に就いて 成田衡夫 斯文3-2  1921
孔夫子追遠記念祭典の意義 塩谷温 斯文4-6  1922
孔夫子伝 服部宇之吉 斯文7-2  1922
孔夫子の偉大なる点に就いて 手塚良道 斯文4-5  1922
孔夫子略伝 服部宇之吉 斯文4-5  1922
周公孔子之道 今井彦三郎 朝鮮教育6-12  朝鮮教育会 1922
文廟の従祀及び清代尊孔御書匾額について 中山久四郎 斯文4-5  1922
予の孔子観 桑原隲蔵 斯文4-5   1922
余の観たる孔夫子 渋沢栄一 斯文4-5  1922
孔夫子の政治観 島田三郎 斯文5-4  1923
孔子とソクラテス 吉田熊次 斯文5-5  1923
大聖孔子 牧野謙次郎 斯文5-5  1923
孔夫子の二大事業 小柳司気太 斯文7-4  1925
孔夫子及び其の家系に就きての二三の考察 那波利貞 歴史と地理18-1  1926
孔夫子と我が国体 塩谷温 斯文8-5  1926
孔子の聖徳 宇野哲人 斯文8-8,9  1926
孔子の知天命 服部宇之吉 斯文9-9  1927
孔夫子と集大成 児島献吉郎 斯文9-5  1927
孔夫子の道 小野錬太郎 斯文9-12  1927
孔孟の権道に就いて 内野台嶺 斯文9-7  1927
支那史上の偉人 孔子と孔明 桑原隲蔵 東洋史説苑 1927
孔子の敬天思想 青木晦蔵 東洋文化54  1928
孔子祭典に就て 阪谷芳男 斯文10-1  1928
孔子の謙虚の心 高田真治 斯文10-6  1928
孔子の実行主義 飯島忠夫 斯文10-3  1928
孔子の知天命に就いて 青木晦蔵 東洋文化46  1928
孔子の徳業 小柳司気太 斯文10-2  1928
孔夫子と現代支那 塩谷温 斯文10-6  1928
孔夫子の政教 赤池濃  斯文10-11  1928
孔孟紀年 新城新蔵 高瀬還暦記念支那学論叢 1928
孔子の仁 蟹江義丸 斯文11-4  1929
孔子の聖徳に就いて 今村完道 斯文11-11  1929
孔子の大義名分説に就いて 宇野哲人 斯文10-6  1929
孔老の思想 常盤大定 丁酉倫理会倫理講演集326  1929
正しく観たる孔夫子の聖徳 中山久四郎 斯文11-8  1929
孔子の道 飯島忠夫 斯文12-9  1930
孔子の仁と儒者の学 遠藤隆吉 哲学雑誌46-535  1931
孔子の榡像及画像 馬場春吉 東亜4-2,3  1931
史記の孔子伝大要 岡崎文夫 歴史と地理27-1   1931
孔子教について 荻原拡 斯文14-7  1932
支那思想史上に於ける孔子の地位 高田真治 哲学雑誌47-539  1932
満州の孔子廟建築 村田治郎 満州学報1 1932
孔子教のフランス進出 後藤末雄 丁酉倫理会講演集373  1933
孔子と老子 加藤一夫 東洋哲学38-1   1931
孔子の軍事観 岡村利平 大東文化9 1935
論語より観たる孔夫子の教導法 合田万吉 斯文17-7  1935
孔子教に於ける実行の価値 飯島忠夫 斯文4-5  1936
孔子以前の仁字とその意義 山口察常 斯文18-8  1936
孔門伝授の心法 成田衡夫 服部古稀記念論文集 1936
孔子とイエス 大塚繁樹 媛大紀要1-4  1953
詩書と孔子の天及び天命の思想 米田登 文と思6  1953
孔子および孟子の兵戦思想 内田智雄 同志社法学26  1954
孔子学団 宇都宮清吉 東洋学報(京都)25  1954
天下周遊の構造 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報5  1954
孔子の管仲譚 華夷論の一端として 高田真治 東洋研究6  1963
孔子の仁の思想について 馮友蘭著 高橋均訳 漢文教室64  1963
貝塚茂樹著「孔子」についての往復書簡 西谷啓治、貝塚茂樹 図書24  1951
孔子に於ける仁思想成立の過程 石黒俊逸 支那学研究8  1951
尚書孔子伝の態度 加賀栄治 学芸3-1  1951
人間孔子 谷川徹三 斯文4  1951
孔子死生の説 那智佐典 東洋学研究7  1938
孔孟以後の儒教 秋月胤継 斯文20-6  1938
東洋史上に於ける孔子の位置 宮崎市定 東洋史研究4-2  1938
論語に現われたる孔子の人間観 西村侃三 斯文21-11,12  1939
孔子的自我の展開 牧尾良海 哲学雑誌55-639,642  1940
孔子の仁 平田栄(講演)  斯文22-1  1940
孔子の学的精神とその展開 田所義行 漢学雑9-3,10-1  1941-42
孔子より孟子に至る自己観の展開に就いて 赤塚忠(講演) 斯文24-12  1942
孔子の思索生活  1,2 田所義行 漢学雑11-2,3;12-1,2   1943~44
孔子の教学 佐藤匡玄  建大研月報38  1944
孔学総論 谷本富 東学芸4-73  1945
孔子について 貝塚茂樹 世界10  1946
人間孔子 林語堂 実藤恵秀訳 新中国1-3  1946
マルクス孔子に会う 郭沫若 実藤恵秀訳 中国文学95  1946
孔子と子産 貝塚茂樹 東光1   1947
孔子の学問精神 原佑 叙説4  1950
孔子の人間観 板野長八 学士院紀要8-1  1950
春秋著者説話の原形 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 叙説5  1950
フランス人の観たる孔子 附・戦后欧米における孔子の研究 麓保孝 斯文33-4 1951
去魯 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学芸報3 1952
孔子とゾロアスター 飯島忠夫 長野短期大学4 1952
顔回と孔子門の学風 髙橋享 天理大学報6 1952
夾谷の会 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学芸報4 1953
陽虎雑考 孔子伝 田中佩刀 斯文25  1959
孔子礼思想管見 山下実 支那学研究24,25  1960
孔子と尚書 松本雅明 福井康順博士頌寿記念  1960
孔子の宗教的立場 金谷治 集刊東洋学6 1961
孔孟の思想と漢唐の儒教 小島佑馬 東洋文化7 1961
孔子思想の三支点 道・命・楽 大浜晧 中国文社12  1963 
孔子の精神に関して所感を陳ぶ 元良勇次郎 東洋哲学2-10  1895
孔子の誕生会に就て 日下寛 東洋哲学2-9  1895
孔夫子誕生祭に就き 関根正直 東洋哲学4-2  1896
孔子誕生に就きて 重野安繹 東洋哲学3-1  1896
孔子の精神 日下寛 東洋哲学4-2  1897
孔子の降誕に就きて  島田重礼 東洋哲学4-1  1897
孔子の学説 松村正一 東洋哲学8-9~12 1901
孔子の教育及宗教 穂積秀範 龍谷史壇10  1902
孔夫子と儒教 島田三郎 東洋哲学 9-1,2  1902
孔子の所謂君子に就きて 蟹江義丸 東洋哲学10-1  1903
孔子教の趣旨 星野恒 東洋哲学11-1   1904
孔夫子研究を評す 中島徳蔵 丁酉倫理会講演集33,34  1905
孔子ノ人格ニ就テ 井上哲次郎 太陽13-10  1907
孔聖の修養 山田準 東洋哲学15-6  1908
孔夫子の運命観 大島順三郎 東洋哲学17-6,8・18-3 1910~11
孔子に対する社会的信仰の矛盾 村上専精 丁酉倫理会講演集101  1911
孔子の倫理説に就て 松村正一 東洋哲学18-5   1911
支那に於ける孔夫子の尊崇 服部宇之吉 東亜研究1-1  1911
孔夫子の政治上に於ける教訓 深作安文 東亜研究3-6  1913
孔子教 及川生 慶義学208,209  1914
孔子 井上哲次郎 斯文20-6  1938
孔子伝より見たる論語の解釈 岡村利平 大東文化16  1937
孔子と老子 諸橋轍次 斯文33-4  1937
遭難 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報6  1955
文学としての孔子世家 バートン・ワトソン 中文教2  1955
孔子の思想について 吉川秀一 阪学大紀4  1956
孔孟の命について 金谷治 日中会報8  1956
陳蔡の間 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報7  1956
孔子の陳蔡厄考 田中佩刀 静岡女子大紀要4  1957
「孔子の道」の解釈をめぐる二三の疑義 近藤康信 東支学報3 1957
孔教私観 長谷川如是閑 斯文22  1958
孔子と易 高田真治(講演)  大東漢学1  1958
孔子と墨子 山室三良 九中会報5  1959
陳蔡の間 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報9  1959
孔子の大同思想 張厲生 斯文28  1960
孔門の十哲に就いて 山本徳一 漢学研究1  1936
孔子の情操面の一考察 田所義行 東女大論14-2  1964
孔子における愛と死と考と 加地伸行 東方宗教24  1964
孔子教学の宗教性 金戸守 四天女子紀要7  1965
孔子の虚構性 山田統 国学雑誌66-10   1965
孔子の天下遊説について 木村英一 日中会報18  1966
孔子の職歴について 木村英一 立命館文学264-5  1967
弟子7、8 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大教育報17-1  1967
孔子と易 鈴木由次郎 東方宗教31   1968
論語と人間 孔子における人間性と宗教性 西藤雅夫 彦根論叢132、133   1968
孔子の学校について 木村英一 東方学38   1969
孔子とその教育 喜多川忠一 群馬大学教育学部紀要人文社会科学18  1969
聖人の虚像と実像(孔丘) 丸山松幸 人物中国志2 1974
官吏養成を目的とした孔子学園の教育 高峰文義 福岡大学人文論叢10-3  1978-1979
論語にみる孔子の人間評価基準 その識別に関する一考察 仙田美智子 近畿大学女子短期大学研究紀要16  1986
孔子と「論語」 森野繁夫 漢文教育 1999
「論語徴」における「礼」 暢素梅 人間文化研究年報23  1999
孔子の身長について 春秋時代の尺度と評価 若江賢三 人文学論叢16  2014年
孔子の仁説について 青木晦蔵 大谷大学仏教研究会  2017,4,4
孔子の仁と何か 上・下 吉永慎二郎 秋田大学教育学部 2017.2.16
孔子の天に対する思想:その宗教的性格について 三浦吉明 集刊東洋学36  2017.4.12
後桜町女帝宸筆仮名論語について 所功 京都産業大学2018.02.01

 

 

 

  このように孔子及び論語に関する文献は古来から今日に至るまで実に膨大な量にのぼる。若い読書子に一冊を奨めるとすれば、高木智見「孔子」(世界史リブレット)である。100頁たらずの冊子であるが、比較的本を求めやすい。また最新の出土資料をもとに論語のテキストを検討している。孔子の中心思想である「仁」についてしぼって論述している。論語と孔子の関係書は多いがほとんどが現代的な解釈を各自が自由に論じているが、本書は春秋という時代状況を可能な限り考察し、孔子の思想について論述している点を評価したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年4月 1日 (月)

三顧之礼

  日本のことわざに「三度目の正直」があるが、イギリスの諺にも「Third time lucky.」(三度目はうまくゆく)がある。これに関する西洋の故事は知らないが、中国では「三顧の礼」の故事がよく知られている。三顧之礼は人材を厚く迎えるために礼を目上の人が何度も足を運び礼を尽くすことであるが、3度も繰り返すというところは「三度目の正直」の発想と通じるところがある。 孔明の「出師表」の中で「臣を草廬に三顧し」と記されており、ここから、手厚く礼をつくすことを「三顧の礼」というようになったのであるが、戦前の国語の教科書でも取り上げられた故事である。

   諸葛孔明は、戦乱の世を避けて、襄陽の西、隆中山の臥龍岡という丘に草廬を結んで静かに暮らしていた。村人たちは臥龍先生といって尊敬していた。

   白雲いういう去りまた来る

   西窓一片、残月あはし

   浮世をよそなる 静けき住居

   出でては 日ごと 畑を打ち

   入りては 机に 書をひもとく

  劉備玄徳は、新野の県城に駐屯していたが、ある日、学者の徐庶は隆中に住む諸葛孔明という人物こそ「臥龍」(眠れる龍)であるとして劉備に強く推挙した。そこで劉備は礼をあつくし辞をひくくして訪ねていったが、孔明は不在で、その友人の崔州平と言葉を交わして立ち去る。 

  建安12年12月、劉備は再び関羽、張飛を連れて会いに行く。朔風凛々として雪が降る。張飛は不平をいいだす。「いかなれば軍をせずして、無益の人を遠く訪ねたまふ。まず新野へ立ち返りて、この大雪をさけたまえ」劉備の曰く「吾かくするは孔明に慇懃の意を知らしめんためなり。汝寒気をいとわば、ここより帰れ」張飛が曰く「吾は死することをも恐れず。なんで寒気をいとうことあらん。ただ益も無きことに心を苦しめたもうを思うやゆえなり」劉備の曰く「汝かならず多言することなかれ」

 だが、この時も会えず、空しく新野に帰る。

 年が改まって建安13年春、三度孔明を訪ねようやくにしてその目的を果たした。時に孔明27歳、劉備47歳であった。いわゆる「三顧の礼」をつくして、劉備は孔明の出廬を懇請したのである。

   雪降り乱れる 冬のあした

   風なほ冷たき 春のゆうべに

   劉備が三顧の こよなき知遇

   我が身を捨てて 報いんと

   起ちてぞ出でぬる、草のいほり

 (引用の詩は尋常高等小学校国語 6年「孔明」より)

 

 

 

 

カタカナ「ヴ」の話

 ヴィーナス、ヴェルサイユ、ヴィトン、エヴァンゲリオンなどカタカナ「ヴ」は日常しばしば用いられている。最初に考案したのは「増訂華英通語」(1860年)において福沢諭吉といわれる。ところが外務省は2019年4月1日から外国の国名でのカタカナ「ヴ」の使用をやめると発表した。例えば、セントクリストファー・ネービスとかカーボベルデとなる。ただし都市名や人名などにおいては従来のとおり「ヴ」は残るもようである。イタリアのヴェニスやリトアニアのヴィリニュス、人名はダヴィデ、ダ・ヴィンチ、ヴァスコ・ダ・ガマ、ヴィクトリア女王、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、ヴィルヘルム1世、ヴァーグナー、ヴォルテール、ヴィヴィアン・リーなど使用例には事欠かない。旧約聖書に登場する最初の人間「アダムとイヴ」などを見ると、単純に「イブ」と書きかえることができない。

 

4月の憂鬱

Columbine    4月1日。語呂合わせで「よい日」といわれる。入社式が行われ、この日に市政が施行された市が多い。4月の学校はなにもかも新しく希望にあふれ輝いている。ところが心に闇のある青年にとっては何かしら苛立たしい気分になる季節でもある。米国で起こった2件の銃乱射事件はともに4月に起きた。1999年4月20日コロンバイン高校乱射事件、2007年4月16日バージニア工科大学銃乱射事件。犯人はいずれも自殺している。なぜ4月に起きるのか。それも20日、16日と偶数の日である。これらは単なる偶然なのか。ドイツでも2009年に学校での銃乱射事件の惨事が繰り返された。青年たちが凶行に及んだ動機の解明とその対策はいまだ十分とはいえないのが現状である。4月2日カリフォルニア州オークランドのオイコス大学でまたも銃乱射事件が起きた。今回も2日、偶数の日だった。もちろん科学的根拠などない偶然の一致であろう。だが、数字というのがもっとも人間にとって身近で重要な要素であることは疑いないものである。

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