ゴッホの家系
フィンセント・ファン・ゴッホは1853年のこの日、オランダ南部ブラバント地方の小村、フロート・ツンデルトで生まれた。父テオドリウス・ファン・ゴッホは村の牧師。母コルネリアは優しく、芸術に理解のある女性であった。ゴッホには兄がいた。兄のフィンセントが死んだのは、1852年3月30日だったが、次男のフィンセントが生まれたのは、その1年後の1853年3月30日だった。母コルネリアの家系には画商が何人もいた。彼女自身も結婚前には水彩画を描いていた。
ゴッホの祖先は16世紀にはオランダに定住していた。その当時ヤコブ・ファン・ゴッホという人がユトレヒトの公会堂の裏に住んでいた。またその息子のヤンは亜麻布市場に住み、葡萄酒と書物を販売し、また市の守備隊の隊長であった。かれらの紋章は棒に3つのバラがついたものだったが、それはゴッホ家の紋章となっている。
17世紀には、ファン・ゴッホ家からオランダの高官についた人物がたくさんでている。ズドフェンの政務官であったヨハンネス・ファン・ゴッホは、1628年に連邦の高等財務官に任命された。ミケル・ファン・ゴッホは初めブラジルの総領事になったが、後にガーランドの財務官になり、1660年にイギリスのチャールズ2世の即位を歓迎した大使館に所属していた。18世紀になると、この一家の社会的な地位は少し低くなった。ハーグに定住したダヴィッド・ファン・ゴッホは金物師で、その息子ヤンも父の職をつぎ、その息子ヨハンネス(1763-1840)はハーグのクロイステル教会の事務員をつとめた。彼の息子フィンセントは非常に聡明で、ライデン大学を卒業し、牧師となった。6人の息子がいて、みな社会的に重要な地位についたが、父の職業をついだのは一番下のテオドルス(1822-1885)だった。彼はユトレヒトの大学で神学をおさめ、卒業後は1849年にブラバントのフロート・ズンデルトという一寒村の牧師の職につき、村人から尊敬された。テオドルスは一部の人々からは美男の牧師さんとよばれていたが、愛想のよい高潔な人であったが、説教はへたで、20年間も忘れられて、小さなズンデルト村にすんでいたが、その後転勤を命ぜられたところもやはり、エッテン、ヘルフォイルト、ヌエネンというような寒村であった。しかし常にみんなから敬愛されたし、自分の子どもたちからも慕われていた。1851年に、彼は製本所経営者の娘アンナ・コルネリア・カルベントゥス(1819-1905)と結婚した。アンナが3歳年上であったが2人の結婚は、非常に幸福なものであったが、彼女には神経病の遺伝子があった。アンナは87歳の高齢まで生きたが、夫と3人の息子を失っても、落胆して理性を失うことなく、悲しみにたえて生き抜いた。
Vinceht Willem Gogh,Theodorus van Gogh,Anna Cornelia Carbentus,Groot-Zundert
参考;式場隆三郎「ヴァン・ゴッホ 現代伝記全集7」 日本書房 1960年
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