ウィーン
ヨーロッパの古都ウィーンという地名は、心を明るくする響きをもつ。なごやかな気持ちになり、何となくはしゃぎたくなるのだ。モーツアルト、ベートーベン、ヨハン・シュトラウスなどの音楽家が活躍した音楽の都だからだろうか。あるいは多くの人々の想念のなかにある御伽の国を思い浮かべるだろうか。
紀元前4世紀頃、ケルト人たちによってドナウ川上流右岸に集落がつくられ、前50年にローマ軍はここに侵入し、前15年から14年にティベリウスとドルススが征服し、レディア・ノリクム・バンノニアの3州がつくられた。バンノニアの中心地はケルト語をそのまま引き継いで、ウィンドボナ(白い岩)またはウィンドミナ(白い河)と呼ばれ、ローマ帝国の北辺を守る要衝の一つとして軍隊が駐屯する要塞都市となった。「ボナ」は「集落・町」、「ウィンド」は「白い」という意味。別の説ではウィンドの語源はケルト語のベズニア(木、森)の意味とある。この付近が「ウィーンの森」といわれるように、アルプス山系の森林地帯であったからである。いずれが正しいか明らかではない。
177年ドナウ戦争のために出征していたローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121-180)は180年3月17日、この地で陣没したといわれる。民族移動の口火をきったフン族はアッチラに率いられて5世紀ころには一時このあたりにとどまり、またイタリアにはいる前の東ゴートもここに国をつくった時代がある。城砦と町は5世紀の民族移動による混乱で消滅したが、その構造が一部残って中世都市の基礎となり、それが今日でも市の中心部の地取りを決めている。
古名ウィンドボナは、881年にはヴェニア(Wenia)と記録され、これが転化してウィーンとなった。1156年にはバーベンベルク家の下で首都となり、急速に重要性を増した。都市キビタスとしての特許状は1137年にすでに与えられていたが、1221年には商業独占権が認められて商業の中心地となり、その関係で十字軍の聖地への発進地にもなれば、ドイツ騎士団の後援者にもなった。
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