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2024年3月23日 (土)

かえり船

 昭和21年、田端義夫が歌う「かえり船」がラジオから流れた。敗戦で戻ってくる兵士を迎える歌だった。引き揚げ船事業の第一陣は、一般人より先ず傷病兵などの復員兵が優先だった。終戦時、軍人・軍属は約373万人、在外邦人の推計人数は約300万人がいたといわれる。在外邦人をいかに安全に帰国させるか、戦後処理の最大の課題であった。台湾など比較的順調に進んだ地域もあれば、「ダモイ・トウキョウ」(日本へ返してやる)と騙し、シベリアに無理やり連れていかれ、森林伐採や鉄道敷設などの重労働を強いられ、ラーゲリ(収容所)に何年も収監されたというた悲惨な体験をされた多くの日本人がいる。昭和28年3月の興安丸・高砂丸の引き揚げ事業は日本赤十字(高良とみ代表)ら民間団体によって実現した。なぜこの時期に中国(毛沢東)が突如、許可したのか。当時の週刊朝日によると、「アメリカの極東における最大の基地が日本であるところから、中共がこのような手をうったことは容易に理解される」とあるが真相は未だ謎に包まれている。大阪府では中国からの引き揚げ孤児を受け入れるため、府立中央児童相談所、天王寺区夕陽ヶ丘の国際教養施設「太陽の家」など3カ所を収容施設に当てた。なお2015年には、ユネスコが「世界の記憶」に「舞鶴への生還1945~1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」を登録している。

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