スターリンと毛沢東の死
「死は終わりを意味するが、残された者には始まりを意味する」(エドウィン・S・シュナイドマン)
1949年、中華人民共和国の国家主席に就任すると、毛沢東(1893-1976)は人間が変わったように独裁者への道を歩み始める。彼はスターリンを訪問し、ソ連からの経済援助と技術指導者の派遣を依頼する。だが1953年スターリンが亡くなると、後継者のフルシチョフがスターリンを批判をはじめると中ソの関係が悪化し、ついに1959年に中国とソ連は決別する。1958年から発動した大躍進政策は完全に失敗し、2000万人から5000万人の農民の餓死者を出した。そして1966年から始めた文化大革命では、数十万人の殺戮者を出した。毛沢東は家庭生活には恵まれず、最初の妻は国民党に処刑され、3人の息子も朝鮮戦争で戦死した。第2の妻とは離婚し、延安時代に結婚したのが第4の妻、江青である。江青も文革終息後、裁判で死刑を宣告されたのち無期懲役刑に服していったん釈放されたが、1991年に自殺している。スターリン(1879-1953)も独裁下で数百万人を粛清したといわれ、最初の妻は結婚して3年後に1子を遺して病没し、2番目の妻は2子を遺して自殺している。スターリンは1953年のこの日、死去した。Stalin、3月5日
ちなみに毛沢東、スターリンに関する我が国の最初の文献は以下の論文である。
槙冬彦「毛沢東の素描 学校と新聞」国民の歴史 1948.09
フィシャー・ルイス「ジョセフ・スターリン」日本公論3(137) 1948.09
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