無料ブログはココログ

« 天狗党の乱(1864年) | トップページ | やせたソクラテス »

2024年3月27日 (水)

杉野はいずこ

     吉良の江戸屋敷がある本所松坂町で夜泣き蕎麦屋を引く赤穂の浪人・杉野十平次がいた。かたや横網町で道場を開きながら酒と博打で空しい日々を過ごす浪人・俵星玄蕃がいた。そして2人が出会う。玄蕃はかって酒に酔って赤穂藩の行列に狼藉をはたらいたが、浅野公のはからいで一命を救ってくれた恩義があった。三波春夫が歌う歌謡浪曲「♪姿そば屋にやつしてまでも忍ぶ杉野よせつなかろ」もちろん玄蕃と杉野の友情は巷説である。赤穂47士の中で何故杉野が選ばれたのか。年齢が28歳というのは芝居として絵になるだろう。吉良屋敷への討ち入りで家の内へ入る者(磯貝、堀部、倉橋、杉野、赤埴、菅谷、大石瀬左衛門、村松、三村)の一人だったこと。それにもっとも大きな理由は杉野十平次の末裔は日露戦争旅順閉塞隊で行動し戦死した杉野孫七兵曹長であること。「杉野はいずこ」明治講談はなやかりし頃、杉野という名前が大衆受けするとよんだのだろうか。余談ながら杉野兵曹長は旅順港で死んだことになっているが、実は生きていたという説が昭和になって流れた。真相は今となってはわからないままである。(3月27日)

 

 

« 天狗党の乱(1864年) | トップページ | やせたソクラテス »

忠臣蔵」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 天狗党の乱(1864年) | トップページ | やせたソクラテス »

最近のトラックバック

2024年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31