桃園に義を結ぶ
「桃園結義」(とうえんけつぎ) とは義兄弟の約束を結ぶこと。劉備、関羽、張飛の三人が満開の桃の園に宴席を設け、義兄弟の契りをかわしたという話しは、明の羅貫中の小説「三国志演義」にあることで史書にはない。後世に創作された逸話である。
184年、黄巾の乱が勃発したとき、劉備は幽州涿県の農村で、母と二人。わら靴やむしろを売って暮らしていた。漢皇室の末裔であったかれは、朝廷の義勇軍募集のよびかけに応じようと思ったが、資力がないのを残念に思っていた。このとき、知りあったのが近くで肉屋をやっていた張飛である。張飛はひげ面でまんまるの眼をぎらぎらさせた巨漢だった、劉備の決意を聞くと、私財を投げうって資金を提供することを申し出た。二人で酒屋にはいり義勇軍の相談をしていたとき、店にはいってきた男があった。こげ茶色の顔に美しいひげをはやした偉丈夫である。これはただものではないと思った劉備が自分たちの決意を話したところ、意見が一致したので、三人で挙兵することにし、張飛の提案でかれの家の裏にある桃畑に祭壇をつくり、天地の神々の前で、「われわれ三人は、姓を異にしているとはいえ、ここに兄弟の約束をかためたうえは、心を一つにして力をあわせ、国恩に報じ民草を救おう。われわれは同年同月同日に生まれることはできなかったが、死ぬときは同年同月同日にしよう。天地の神々よ、なにとぞわれわれのこの決意をご照覧あれ。約束を破り恩を忘れたなら、天も人もこれを許さず、天誅がくだるであろう」という誓いのことばを読みあげ、義兄弟の約束をした。このあと、義勇兵を募ったところ三百数十名の若者が集まり、また、通りかかった中山国の馬商人から多額の資金提供をうけて、甲冑や兵器をととのえることができたのである。漢王室復興の第一歩として黄巾賊討伐におもむき、賊軍と対峙して、張飛が副将・鄧茂を、関羽が大将・程遠志をそれぞれ一騎討ちで破って、賊軍を撃退した。その後各地を転戦して賊軍討伐に功績をあげるものの、官職がないために、董卓から軽んじられたり、平定後の恩賞にあずからなかったりと、なかなか報われなかった。ようやく劉備が中山府の安喜県の尉に任命されて赴任するが、賄賂を要求する巡察官の横暴に怒った張飛がこれを鞭うって、三人は官職を離れ、郷里に戻って再起を図ることとした。(参考:「桃園結義の物語」中川諭 新潟大学教育学部 国語国文学会「新大国語」第26号)
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