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2024年3月24日 (日)

田沼意次の失脚(1786年)

 史上まれにみる汚職政治によって田沼意次の悪評は高い。意次の屋敷には、連日多数の大名や旗本が金品を持ってつめかけ、しきりに接近をはかったといわれる。田沼家はもともと紀州藩士で門閥家系ではなかった。父の意行が吉宗につき従って江戸に移り、小姓を勤めていた。意次は将軍家重のもとで着実に出世していく。家重が死んでからは、新将軍家治のもとで、さらに栄達はめざましく側用人、老中と大出世をなした。財政の立て直しを図り、株仲間の大幅公認と冥加金の収納・外国貿易の奨励・専売制度・下総印旛沼の干拓計画・商品作物栽培奨励など経済政策を積極的な経済政策をとったが、彼の政策が商業資本と結びつき、民衆の利益を収奪する結果となり、賄賂による政治の乱れや、天災・飢饉による百姓一揆の頻発で動揺をきたし、世人の恨みを買った。「まいない鳥の図」や川柳「役人の子はにぎにぎをよく覚え」など世人の多くは田沼政治を批判した。不安な世情の続くうちに江戸城中で刃傷事件が起きた。天明4年3月24日夕刻、江戸城中において田沼意次の長男、意知が新番の佐野善左衛門政言(まさこと)に突然斬りつけられ、その傷がもとで4月2日死亡した。佐野政言は田沼政権下での立身を願い、系図の明らかでない意次に、自分の佐野家の系図に手を加えて、田沼家が佐野家の庶流であるように改竄を申し出て恩を売ろうとした。しかし、もともと出自などに全く拘泥しない意次は、佐野の申し出を断った。このことに遺恨をもった佐野は逆恨みし、ついに子の意知を殺害したのである。意知が亡くなった翌日、佐野が切腹すると、高騰していた米価が偶然下がり民衆は佐野を「世直し大明神」と称えた。この事件を契機に松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。そして天明6年、田沼を信任してきた将軍家治が病死した。さすがの意次もついに力つきた。老中を免ぜられ、ついに10年におよぶ田沼時代はその幕を閉じた。現代まで田沼悪人説が残るが、これは大正期の辻善之助の著作(「田沼時代」)の影響が大きいが、後年大石慎三郎は資料を検討し、田沼を革新政治家として肯定的に捉える傾向が高まってその評価が一変している。

 

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