壇ノ浦の合戦
屋島から逃れ下関の彦島に布陣した平氏であったが、文治元年(1185年)3月24日、壇ノ浦で滅亡した。これにさきだち源義経(1159-1189)は伊予の河野水軍を主力として壇ノ浦に迫り、決戦の意を固めた平氏は源氏と30余町(約3㎞)の距離に船陣をかまえていた。この日早朝、東に源氏の白旗、西に平氏の赤旗が翻った。初め潮流は源氏の側へ向けて流れ、午後になると逆に流れた。潮の流れを知らせたのはいるかの群れであった。
「いるかが源氏側に泳いで行けば平家が勝つのだが・・・」との平氏側の願いはかなえられず、迫る源氏の矢に平氏の水夫はつぎつぎと倒れた。
平知盛は安徳天皇の船に飛び乗り、見苦しいものを捨て始めた。女房たちにも不安が広がった。清盛の妻二位尼平時子は、8歳の安徳天皇を抱いて船端から海中に身を投じた。このとき、三種の神器の一つである、宝剣が海中に没している。後を迫った天皇の母后建礼門院は、源氏方の熊手に髪をかけられ、引き上げられた。
能登守平教経は、これを最期と義経を追いつめるが、義経は、天狗に習ったという身軽さ、八艘飛びでかわしたという。教経が源氏の武士2人と組み合い、海中に没したあと、一門ことごとく滅ぶのを見た知盛は、「いまや見るべきものは見届けた」と、入水した。
午後5時ころ、戦いは終わり、ここに平氏一門は滅び去った。
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見るものを見届けた知盛・・哲学的最後の言葉だ・・・・・。見事・・
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年3月23日 (土) 22時09分
天皇、皇室の歴史は血に染まっている。権力者が権威を盾にしたいので天皇制を利用したからである。
日本の歴史上、天皇になりたかった者はいたか。数人いた。織田信長はそうであったのではないか。
家康は天皇を利用する価値があると考えた。
その違いが両者にはある。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年3月24日 (日) 07時09分