パチンコは日本独特のゲーム
パチンコ店はこの10年で急激に減った。その原因の一つは禁煙の流れ。二つ目は「ギャンブル等依存症対策基本法」による規制が強まったこと。そして最後はやはりコロナ禍で客足が減ったことだろう。
むかし長門勇主演のドラマ「雲をつかむ男」(昭和39年)を見たおぼえがある。終戦直後の名古屋でパチンコで大もうけして、東京や大阪の繁華街にパチンコのチェーン店を経営する男のドラマだった。高度経済成長期には単純なサクセスストーリーが好まれた。ともかくパチンコの発祥地は名古屋というイメージは強かった。ルーツはアメリカのコリントゲーム、よくゲームセンターにあるガラス張りの平面型パチンコ台で、玉を棒で押し出す形のもの。1910年、デトロイトで生まれたこのケームが大正期に日本に伝えられた。大正9年に大阪のメーカーOS富貴家が、シカゴから輸入した模型のもの(現在のスマートボールのようなもの)からパチパチというものを考案した。当時は露店でおもに行なわれ、これを金沢の歳田弥一が図案化し、現在のパチンコに近いものにした。「パチンコ」という名称となったのは昭和7年である。昭和10年、1銭パチンコが禁止され、そのため昭和12年に名古屋の藤井文一が鋼球式(現在の11ミリのパチンコ玉)を考案する。景品交換もこのころ普及する。しかし、太平洋戦争になり、名古屋では昭和17年、1台15円の補償金をもらい一斉に閉店したという記録がある。
戦後の昭和21年3月、名古屋にささやかな庶民のギャンブルが登場した。この当時のものは「小もの」と称されて、3個とか、5個とかの玉しか出ないものであったが、長崎一男が10個、15個の玉を出すようにした。これが「オールもの」であり、これの量産化を進めたのが「パチンコの神様」正村竹一(1906-1975)である。昭和22年名古屋、昭和23年東京とブームが広がり、やがて連発式、電動パチンコが現われた。そしてチューリップなどの「やくもの」の登場、フィーバー、パチスロなどさまざまな改良工夫がなされ今日に至っている。「パチンコは日本の文化」といわれるほどで、海外から来た著名人もパチンコ店をのぞく人は多い。
大阪府は金属製品工業で全国一の生産額を誇っている。金属製品には多種多様なものがあるが、大東市は「パチンコ玉」の生産で全国一となっている。群馬県桐生市はパチンコ3大メーカーの本社があり、パチンコ関連工業のまちの一つである。
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