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2023年12月31日 (日)

年越しそばの由来

    大晦日の夜を年越しともいい、除夜ともいう。現代日本に住むわれわれは「NHK紅白歌合戦」を見て、「ゆく年くる年」で除夜の鐘を聞くことを年越しと思うかもしれないが、これは比較的に新しい習慣であって、日本では大昔から、一日というのは日が暮れてから、次の日が暮れるまでであった。一日の境は真夜中の12時ではなく、日暮であった。だから大晦日の夜に、年棚に灯をつけ、神饌を供えて、家内そろってつく膳は、年を迎える祝いの膳であった。この夜にきまった食べものを摂ることになっていたのは、そのためである。土地によっては、新年最初の食事として、大晦日の夜に晴れの膳を家族にすえる所もあるが、これは年越しの古風である。

    年越しそば、みそかそばを食べる風習は、だいたい江戸時代に定着したものであるが、必ずしも全国的なものではない。地方によって食べ物は異なり、ある地方では田楽を食べる風習があった。豆腐と蒟蒻を焼いて味噌をつけたものである。

    年越しそばの由来については、①そばのように長く幸福にという縁起説、②金箔師が仕事場に散らばった金銀の粉を集めるのにそば粉をこねた塊をもちいたことから、金銀をかき集めるという説、③大晦日の深夜まで借金の取立てのため、夜明けまで集金して歩く町場の掛取りの慰労のため、など諸説ある。

 

 

70年代髪型の流行

   1960年代におこったビートルズ旋風は男性の髪型に長髪ブームをひきおこした。女子は以前から美少女=長い髪というアイコンが存在しており、1970年代における若者のアイドル女子の多くは長い髪であった。

 

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  日本では1980年代半ばに流行ったお嬢様ブームのとき、ロングが流行したが、2000年代になると肩のあたりで切りそろえた髪型のボブ女子が増えている。長澤まさみ、広瀬すず、浜辺美波など。皆さんは、ボブとロングどっちが好きですか?(画像:左上からパメラ・スー・マーティン、ドミニク・サンダ、ペギー・リプトン、シビル・シェパード、スーザン・デイ、アニセー・アルビナ)。

 

 

「なまはげ」祭りと歴史

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   秋田県男鹿半島本山の村々では「なまはげ」という奇習が古くから伝わる。かつては陰暦1月15日の行事だったが、戦時中に一時中止され、現在は大晦日または新暦1月15日に行われるようになった。

   この日は、恐ろしい鬼の面をかぶり、ケラ蓑、わらぐつ、腰みのをつけ、大きな木製の刃物を持ち、箱の中に小さな物を入れてからから鳴らして、二三人一組となった若者が、「ウォーウォー」と奇声をあげながら「くなもみコ剥げたかよ」「包丁コとげたかよ」「小豆コ煮えたか煮えたかよ」などと唱えながら家々を訪れ、「泣ぐ子はいねが」と小児を戒筋し、神棚に礼拝し、祝言をのべる。それを正装した主人が酒肴や餅などで迎える。鬼は酒だけ飲んで餅は従者に持たせ、次の家へ行く。仕事もせずに、火にあたってばかりいる怠け者には、ナモミ(火斑)がつくといわれ、これを引きはぐ「ナモミハギ」が「なまはげ」に転化したものといわれる。そのほか、「生身剥」の転化説もある。

   以上が「なまはげ」の語源であるが、習俗の由来については諸説あり、①漢の武帝が五匹の鬼をしたがえて男鹿に上陸し、年中鬼を酷使したので、その報酬として、正月15日、一日だけ村里に出て、自分のほしいものを勝手に探し求めてよいとの許しを与えたという説、②天狗伝説などにも見られる異邦人説、③男鹿の真山本山で修業する修験者がモデルになっているという説、④蓑笠をつけ、顔をかくして旅をするものを存在したことは「日本書紀」の神武紀のシイネツヒコとオトウカシの伝承とする説、などがある。

 ナマハゲの同様の習俗はナゴミタクリ、ナモミハギ,ヒガタタクリ、シカタハギ、スネカ、アマミハギ、オドシなどの名でよばれ、東北に広く、また北陸地方へかけて分布している。九州では「かせどり」という。(12月31日)

大晦日の祖先祭祀の風習について

 大晦日から元日にかけて、日本海側中心に強風や厳しい寒さとなる。新しい年は、平和で明るい社会であることを願いたい。青森県三戸郡五戸町では今でも年の暮れから正月にかけてミタマノママと呼ばれる風習が残っていると聞く。白餅と赤餅とを菱に切って神棚に供える。盛岡では卵のように飯を握って年の内に供え、後で苞に入れて乾かしておく。山形県最上郡安楽城村では米飯を擬宝珠形に握るのを本式とする。ミタマノママとは「御魂の飯」(みたまめし)と書き、「みたま」を御先祖様と解し、大晦日の夜の先祖祭への供物である。オミタマサマ、ミタマメシ、ミタマ、ニダマなどともいう。

     かつて日本には一年に盆(7月)と正月(12月)、先祖祭の日があった。「徒然草」第19段に「亡き人の来る夜として魂祭るわざは、このごろ都にはなきを、東の方にはなほすことにてありしこそあはれなりしか」とある。つまり兼好の時代には京都ではもう12月には祖先祭祀の風習はなくなっていたが、関東には昔の風習が残っていたようだ。お盆が仏教による魂祭りであったのに対し、大晦日の祭りは仏教的な色彩がうすれて、地方において神祭的なものになっていったのはなぜだろうか。(参考:田中久夫「みたまのめし」史泉第50号 昭和50年) 12月31日

除夜の鐘

大晦日定めなき世の定めかな(西鶴)

 

ともかくもあなたまかせの年の暮れ(一茶)

 

高窓に星吹き寄せぬ除夜の鐘(花野女)

 

 大晦日を「除日(じょじつ)」ともいう。旧年を除く日ということである。除日の夜が除夜だ。除夜の鐘を108つくのは、中国の仏教儀式で、宋時代から始まったという。ただつけばよいというわけではなく、交互に、強く54点、弱く54点、そして107点までは旧年に、最後の一点を新年につく。一年の無事息災と豊作を祈念する意味がある。

   108の数は、1年12ヵ月と、立春などの24節気、それを三分した72候、の合計だというが、後に108の煩悩を一つずつ消すためといわれるようになった。108の煩悩とは、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)と六塵(色、声、香、味、触、法)におのおの好、悪、平があるので、計36程の煩悩が生じ、それが過去、現在、未来あるので108となる。

    古くは1日が夜からはじまって朝につづくと考えられていたので、祭は多く前夜から行われた。年越しの祭も前夜からはじまるとし、大晦日の夜を「おおとし」「としのよ」といい、年神(歳神)を迎るために厳重な物忌をし、夜通し起き明かすのが古風な作法であった。今でも除夜の鐘を聞くまで床に入らなかったり、早く寝ると白髪になるとか、しわがよるとかいい、また寝るというのを忌んで、「寝る」ことを「稲を積む」という地方もある。また年ごもりといって、この夜は神社に参籠(さんろう)して夜を明かすところがあったが、現代では一般にそれを簡略して夜中に参るか元旦未明に参るようになった。また「歳籠り」といって氏神の社にこもって夜を明かす風習もあり、京都祇園社の「おけら祭」などのように、古い社では除夜に、新しく火を鑽り出し、氏子に配る行事がある。農家などでは、大歳の晩から元旦にかけて、いろりの火を絶やさぬようにするところも多い。この際、火種にする薪を「ようぎほだ」「せちほだ」などと呼び重要視した。そのほかいろりや氏神の境内で大火をたくところもあり、兵庫県では「年越しとんど」といって、古い注連縄などの神飾りの不用なものを焼くところもあった。

2023年12月30日 (土)

迎春準備をお忘れなく

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  本日は買物の一日である。年末になると売っているお惣菜が高くなる。じゃがいもやタマネギのバラ売りがなくなる。正月商品は、普段100円だった蒲鉾が正月用の蒲鉾だと1000円以上する。高級品であるのはわかるが、100円商品が棚から消えるのは困る。うどんやお雑煮に入れる蒲鉾なら「寿」の文字や三色のものはいらない。値上がりする前に買っておけばよかった。ソフトブレーン・フィールドが調査したところ、好きな「おでん」の具はダントツで大根が1位だった。以下、たまご、こんにゃく、ちくわ、餅入り巾着、はんぺん、牛すじ串、厚揚げ、じゃがいも、しらたき、がんもどき、さつま揚げ、つみれ、ちくわぶ、ウィンナー、ごぼう巻き、こんぶ、糸こん、ロールキャベツ、お豆腐、さといも、おでん餃子。年末の買い忘れないようにチェックしておこう。

年越しそば、そばつゆ、海老天、にしん、お寿司、ローストビーフ、オードブル、雑煮の具、数の子、ごまめ、栗の甘露煮、ロースハム、さといも、たけのこ、伊達巻き、黒豆、田作り、煮しめ、棒鱈、千枚漬け、海老、カニ、キヌサヤ、たけのこ水煮、金時人参、百合根、ぐわい、銀杏、焼豚、昆布巻き、生珍味、餅、鏡餅、串柿、甘栗、みかん、とり肉、いくら、海老天、魚、イカ、うに、湯たこ、イクラ、ほうれん草、小松菜、三つ葉、トマト、レタス。ポテトチップス、チョコレート、ジュース、コーラ、アイスクリーム、牛乳、チーズ、ブロッコリー、サラダ、食パン、玉子、菓子、祝箸、しめ飾り、ごみ袋、乾電池。万一、地震発生のための非常時用に水など飲料水を備蓄しておこう!! ああややこし、ややこし。

 

 

 

 

 

 

読みにくい名前はなぜ増えたのか

Tumblr_m6479nkhbp1qbrdqeo1_400     「雄」と書いて「らいおん」と読む。「亜人夢(あとむ)」、「瑠美衣(るびい)」、「希空(のあ)」、「澄海(すかい)」、「柊希(しゅうき)」「心陽(こはる)」・・・アニメキャラクターのような名前の子供が増えている。ある親が小学生の名簿を見てびっくりした。女子の名、「〇子」は100人のなかで、わが娘たった一人だった。少子化のため親は我が子に個性的な名前をつけるようになった。比較的平凡な感じがする「子」のつく女子名は避けるようになった。古風というか、真面目という感じが将来どのように捉えられるか親が不安であり、「子」を避けるようになったのであろうか。2016年の新生児で「〇子」はわずか3%にすぎない。

 森鴎外は、ドイツに留学経験があるため、五人の子に洋風の名をつけた。長男は於莵(=オットー)、長女は茉莉(=マリー)、次男は不律(=フリッツ)、次女は杏奴(=アンヌ)、三男は類(=ルイ)。海外でも通用する名前を考えのだという。

   女子の名に「子」とつけるのが流行するのは明治33年頃に急増する。津田梅子(1864-1929)は、初名は「うめ」であるが、明治35年に漢字表記を「梅子」に改めている。与謝野晶子(1874-1942)も本名は「志ょう(しょう)」であるが「晶」(しょう)、そして「晶子(あきこ)」という筆名を使用している。「〇子」という命名は女性が輝くシンボルとなった。

   武者小路実篤の明治41年の処女小説「芳子」に次のような下りがある。「兄は「なんという名をつけよう」「しる子がいい」「団子がいい」「きな子がいい」などふざけてはいたがいい名が考え出せない。」 この当時、すでに女子に「○子」は一般的になっていたらしい。だが子が付く女子は昭和39年、高度成長期の頃から次第に減少していった。背景にはテレビの普及とアイドルタレントによる影響があるらしい。とくに昭和32年に「明美」という名前が登場したのをきっかけに、「直美」など「子」が付かない名前が増えてくる。キラキラネームが増えたのは1990年代半ばごろから。ちょうどインターネットが普及し始め、難しい漢字も検索で手軽に調べられるようになってきた頃である。最新の「キラキラネーム」ベスト5。皇帝 しいざあ、一心 ぴゅあ、大海 おーしゃん、姫星 きてい、愛羅 てぃあら。しかし塾講師の林修は経験上から読める名前の生徒のほうがキラキラネームの子よりも成績が良いという。つまり本人には全く責任はないとしたうえで、キラキラネームと学力にはある程度の相関性があるという見解を示している。

(参考:佐藤稔「読みにくい名前はなぜ増えたか」、橋本淳治・井藤伸比古「子のつく名前の誕生」)

 

 

 

 

勘太郎を殺した板割浅太郎

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   松竹キネマは新国劇「国定忠治」を題材に初のトーキー映画「浅太郎赤城の唄」を昭和9年に公開するや、映画主題歌である東海林太郎の「赤城の子守唄」が、流行歌の時代の到来を告げる大ヒットとなった。ただし新国劇では忠治の子分は定八や巌鉄だったが、脇役の板割浅太郎が、この映画では主役に昇格している。また、浅太郎に殺されたはずの勘太郎も生きて登場するし、浅太郎が勘太郎を背負って「赤城の子守唄」を歌って聞かせる場面がある。当時の人にとっては、かなり斬新な解釈の映画であり流行歌(作詞は佐藤惣之助という新感覚派の詩人)だったにちがいない。

   そもそも勘太郎の父というのは、博徒で目明しを兼ねた二足のわらじの男で中島勘助といい、浅太郎の叔父にあたる。浅太郎は勘助と内通していたと忠治に疑われ、その証のために勘助と勘太郎親子を斬るはめになる。伊勢崎市には勘助・勘太郎の墓がある。

   講釈師がいたいけな子供が犠牲になった事実をまげて語ったところ、大いに聴衆に受けたことが発端となり、その後「赤城の子守唄」の大ヒットで、浅太郎が勘太郎を背負って赤城山に登ることが定着する。東海林太郎の浅太郎、高峰秀子の勘太郎という芝居まで上演され大評判となった。

   浅太郎はその後、『赤城録』に「浅梟首」とあり、捕らえられて晒し首にされたとなっているが、浅太郎は逃亡の後、仏門に入り二人の菩提を弔いながらその生涯を終えたという説も有力である。神奈川県藤沢市の真徳寺に浅太郎の墓がある(画像)。明治26年12月30日没。享年74歳。(参考:川井正「勘太郎の頭蓋骨」歴史読本昭和59年1月号)

 

 

 

 

横光利一忌

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   本日は小説家、横光利一の1947年の忌日。急性腹膜炎で49歳の若さで逝去した。作家に関わる作品や遺品、あるいは写真で紹介しようとする試みは近年さかんで、全国各地に文学館・記念館は数百あるといわれる。だが不幸にも戦前期、昭和文学の主導者であった横光利一文学記念館はない。単独館がないという意味で、展示室の類は数箇所ある。妻の横光千代の書簡が価格12000円で市場で販売されているが、記念館がないと散逸してしまう恐れがあるだろう。横光の父が測量技師で、幼い頃、各地を転々としたことも関係するであろう。生れは福島県北会津郡の東山温泉の旅館「新瀧」だった。千葉県佐倉へ移り、明治37年に母の故郷三重県阿山郡東柘植村で落ち着いた。横光利一の故郷は三重県柘植であろう。ここには柘植歴史民俗資料館や三重県立上野高校明治校舎「横光利一史料展示室」がある。妻千代の故郷山形県鶴岡市の大宝館にも展示室がある。(12月30日)

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三重県立上野高校明治校舎には中学時代の日記など所蔵し、最も充実したコレクションである

 

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  将棋をさす、川端康成と横光利一 昭和12年

2023年12月29日 (金)

ジンジャ―・エール

  1月16日は禁酒の日。1920年、アメリカで禁酒法が実施された。20世紀初頭までに18の州で禁酒法が実施された。これが全国に及んだもの。下戸のわたしはショウガなどの香りと味をつけ、カラメルで着色したノンアルコールの炭酸飲料ジンジャーエールをたまに飲むことがある。1890年、カナダ人ジョン・マックローリンがトロントで製造したのが始まり。ジンジャー・エールはアメリカ禁酒法時代に人気飲料となった。なぜアメリカ人はアルコール依存症が多いほど酒好きなのに、一方で禁酒が根強く叫ばれるのか。根本にはキリスト教の思想があるからだろう。その点で東洋世界、とくに中国・朝鮮・日本はおおっぴらなお酒天国である。かつてお酒は「百薬の長」とも言われ、大酒飲みが豪快で男らしいとする風潮があった。モンゴルのことわざには「飲めば死ぬ、飲まなくても死ぬ」がある。コロナ禍明けごろからテレビでも「おつかれ生です」とビールをさかんに宣伝している。仕事の接待や付きあいでも居酒屋での飲酒が求められ、下戸にとっては飲めないことがつらい思いをする時期である。しかし医師などに相談するとビール1缶でも健康に悪影響があるという。WHOは「いかなる量のアルコール摂取であっても、健康にとって安全ではない」として発がん性物質が指摘されている。資本主義の経済活動を優先したものであるが、年末年始のアルコール飲酒の機会が多いと思うが、控えめにした方がいい。 ginger ale、John McLaughlin

 

 

 

 

 

 

名古屋はブスが多い!?

  女性の容姿を罵るときに使われる言葉の一つに、「ブス」がある。女性という言葉には「スケ」という隠語があるが、このスケを否定する意味の「ブスケ」という言葉を略したものだという。しかし近年は、女性を容姿で差別化するになるので、使用すると非難され、あまり耳にすることが少なくなっている。だがタレントや女芸人の中には、誰もが認める「絶世のブス」をキャラにして売れっ子になる逞しい女性もいる。富田望生(福島県出身)、ゆりやんレトリィバア(奈良県出身)、ガンバレル―ヤよしこ(愛知県出身)などなど。

   仙台、水戸と並んで、日本三大ブスの産地といわれているのが名古屋である。昔からいわれている話だがその理由については分からない。徳川御三家だった水戸藩、尾張藩では、将軍のために地元の美人をみんな江戸に連れて行ったからともいわれる。最近はバラエティ番組で大久保佳代子や光浦靖子がネタにしているので名古屋ブス説が拡散している。本当に名古屋はブスが多いかは分からないが、都市部のわりには経済圏が固定しているので、名古屋で生れて名古屋で結婚して一生を終える女性の割合は高いだろう。特異な名古屋弁がなくならないのもそのためだろうか。

古代エジプトの神々

 古代エジプト人の神に対する考えはきわめて種々雑多である。あらゆる自然物に神性をみるもので、光の神ハトホルはイチジクの木に住んでいるものとか、神々は牛や鷹やあらゆる鳥獣を住みかとしてそこにあらわれると考え、動物を神の化身と考えた。太陽はラーの神とされ、昼間は従者とともに舟に乗りかえて女神の体内を通り、朝ふたたび新しい太陽となって生まれると考えた。オシリスとその妻イシス、真実と正義の神マート。

最も数が多くしかも重要なのは地方神である。これはいうまでもなく全国の大小の町や村に発達した神々で、その運命はその町や政治的盛衰と結びついていた。エジプトの宗教に特有なものは神聖動物で、壁画やパピルスにしばしば描かれているものである。ライオンの頭をした女神セクメト、マントヒヒのトート、猫の女神バステット、河馬の女神トエリス。ある学者の調査によると実に二千種を数えたと報告している。

 

 

 

 

ケペル先生の何でも相談室2

「地下鉄の電車はどこから入れたの?」「銭湯の桶はなぜケロリン桶なのか?」「鉛筆は六角形なのに色鉛筆が丸軸なのはなぜ?」「海の中で昆布のダシが出ないのはなぜ?」それらを考えてると一晩中寝られない。世の中にはあらゆるギモンに満ち満ちている。日々の暮らしで生じたあらゆる疑問にケペル先生がお答えします。たとえば、壊れやすい物を梱包するクッション材「プチプチ」の正式名称は何でしょう。答えは「気泡緩衝材」または「エアクッション」です。

Q.数字に3桁ごとにコンマで区切るのはなぜ?

A.明治6年、福沢諭吉がアメリカの商業簿記の書物「帳合之法」を翻訳したとき、数字に3桁ごとにコンマで区切ることを紹介している。それが広く普及したためといわれている。

 

Q.忠臣蔵を題材とした流行歌は数多くありますが、四十七士の一人、矢頭右衛門七をテーマにした歌謡曲が知りたい。

A.舟木一夫の「右衛門七討ち入り」西沢爽作詩、遠藤実作曲。昭和39年11月発売。

 

Q 吉幾三の「人生(みち)」の三番目の歌詞にある「労而不怨(ろうじふえん)」の意味は?

 

A 四字熟語で「どんなに苦労をしても不満を持たないこと」。出典は「論語」で、里仁第四に「子曰く、父母につかうるには幾諫す、志の従わざるを見ては、又敬して違わず、労して怨みず」とある。孔子は子の親に対する心得の一つを説いている。解釈は学者により多少異なる。魚返義雄は「つらくてもうらまない」、下村湖人は「苦しいこともあるだろうが、決して親を恨んではならない」、木村英一は「どんなに苦労をしても遺憾がないようにせよ」とある。一般に「労」を「労苦」「親のために骨を折ること」と解されるが、金谷治は清の王引之の説により、「労」を「憂」の意味に読み、「心配はするけれど怨みには思わない」としている。

 

Q 「かっぱ読み」とは何?

 

A 一般に漢字の熟語は音読みどうし、訓読みどうしを組み合わせて読む。その例外として、「合羽」(かっぱ)のように、上の字は音で下の字は訓でよむことを「かっぱ読み」(または重箱読み)と言い、その反対を湯桶読みと言う。

 

Q 目の見えない人のため犬が歩行の補助をする盲導犬はいつ頃できたのか?

 

A 盲人の歩行の補助に犬が使われた例は古代ローマやポンペイの発掘品の中に見られるが、近代になって盲導犬として訓練されるようになったのは、1819年、ウィーンの神父ヨハン・ヴィルヘルム・クライン(1765-1848)が最初である。

 

Q 日本プロ野球で最初の退場者は誰か?

 

A 「日本プロ野球事件史」(ベースボール・マガジン社)巻末の退場者一覧によると、1936年12月20日、東京セネタースの苅田久徳(1911-2001)選手が二出川延明塁審を突き飛ばしたことにより退場とある。

 

Q 三一書房から昭和32年に刊行された「淀川」の著者である井上俊夫の没年が知りたい。

 

A 図書館での参考業務でよくたずねられる調べものの1つが著述家の没年である。今日のようなコンピュータの発達していない時代、文化人名録(著作権台帳)がたよりの参考書であった。赤色をした大部な本で、1951年から刊行され第26版(2001年)まで刊行されたが、現在は終了している。もともと著作権の保護期間を調べる目的で作られた本であるが、図書館では没年だけでなく、著者の略歴や名前の読み方を調査するために用いられていた。ところで、著者の没年を調べるには、現在は国立国会図書館のOPやウィキペディアが便利である。井上俊夫は1928年大阪生まれの詩人で、2008年に死去している。

 

Q フィンランドの初代首相 Pehr Evind Svinfuvud の読み方は?

 

A ペール・スヴィンヒュー(1861-1944)あるいはスヴィンフッヴド。

 

Q 英語「mebos(ミーボス)」の意味は?

 

A オックスフォード英語辞典によると、日本語umeboshi(梅干し)が訛って18世紀ころ英語となったらしい。

 

Q 「眠りが窪の伝説」という翻訳作品の作者と原題は?

 

A アメリカの文学者ワシントン・アーヴィング著「スケッチ・ブック」(1819-1820)の中にある短編「Sleepy Hollow」。1923年刊行の森巻吉「全訳スケッチブック」の下巻に「眠りが窪の伝説」が収録されている。

 

Q.最初にウェディングドレスを着て結婚式を行なった日本人女性はだれ?

 

A.明治6年に長崎で中国人と結婚した磯部於平(いそべおつね)といわれる。その2年後に森有礼も広瀬常と西洋式の結婚式を挙げている。

 

Q.昭和18年南方の海軍基地を視察中、ソロモン諸島上空で戦死した山本五十六。その時の護衛機は零戦6機であるが、うち5名はまもなく戦死している。唯一の生存者である零戦パイロットの名前が知りたい。

 

A.柳谷謙治(1919‐2008)。1988年4月、アメリカで開かれたシンポジウムに出席し、P38パイロットのレックス・バーバー米空軍退役大佐と面会している。(参考:高城肇「六機の護衛戦闘機」)

 

Q.大正の後期から昭和の初期に活躍した出版人、梅原北明が発行した「近世社会大驚異史」(白鳳社)のページ数は?

 

A.1864ページ。国立国会図書館サーチで調べても1冊とあるだけで、ページ数は明らかにされない。ネットには1800ページ以上という記載もあるが、鹿野政直「日本の歴史27」によれば1864ページと明記されている。内容は慶応4年から大正元年までの新聞記事から抜粋の性風俗を中心とした資料集。

 

Q.内山完造著「そんへえおおへえ」という本がある。その書名の意味は?

 

A.内山完造は戦前に上海で書店を開業していた。もともと「上海」という地名と並び「下海」地区も存在していた。上海及び下海の名称は、上海市内を流れる呉淞江の支流であった上海浦及び下海浦に由来する。「そんへえ(上海)」「おおへえ(下海)」はそれぞれ現地語の発音を表記したものである。

 

Q.明代、嘉靖年間から万暦年間の人で『陰隲録』の著者として知られる袁凡了(えんぼんりょう)は一般に生没年不詳とされるが、あえて知りたい。

 

A.一説には生年は1533年、没年は1606年。

 

Q.江戸時代、特に大名屋敷をねらって荒らしまわった大盗賊、鼠小僧次郎吉のお墓は?

 

A.両国の回向院(墨田区両国2丁目)にある。

 

Q.香港の女優、任剣輝の生没年。

 

A.京劇の広東版にあたる奥劇の人気女優任剣輝(じんけんき、ヤム・キムファイ)。1913-1989。

 

Q.蠶養國神社の読み方。

 

A.福島県会津若松市蚕養町にある神社で、「こかいくにじんじゃ(蠶養國神社)」と読む。「蠶」は「かいこ」の意味。

 

Q.「泣きぼくろ」という題の歌が知りたい。

 

A.現在までに和田弘とマヒナスターズ、天童よしみ、若原りょう、松原のぶえの四歌手によって「泣きぼくろ」という同名異曲の歌が確認される。

 

Q.赤穂義挙の後、四十六士は、それぞれお預けの四大名で切腹して果てた。大石内蔵助たち17人は熊本藩細川家の下屋敷において切腹した。このとき大石内蔵助の介錯を勤めた武士の名前を知りたい。

 

A.馬場一平。

 

Q.1886年、イギリスの貨物船ノルマントン号が紀州沖で座礁沈没した事件の船長の名前とその後の消息は?

 

A.事件の審理は領事裁判権によって、イギリス領事が行い、イギリス人の全員無罪が決定、日本国民を憤慨させた。再審で船長ジョン・ウィリアム・ドレークだけ禁固3ヵ月の軽い刑が科せられた。船長のその後の消息は目下調査中。

 

Q.趙樹里の農村小説「李有才板語」のタイトルの読みは?

 

A.「リユウサイウタモノガタリ」李有才のお話という意味。

 

Q.アメリカ民謡「峠の我が家」の作詞家、作曲家は?

 

A.作詞はブリュスター・M・ヒグリー(1823-1911)。作曲はダニエル・E・ケリー(1843-1905)。

 

Q.昭和期に活躍した文芸評論家、亀井勝一郎の著作「三人の先覚者 民族の独立」(要書房 昭和25年刊)の3人とは誰?

 

A.栗本鋤雲、岡倉天心、内村鑑三。

 

Q.「悪太郎の一生」の作者は?

 

A.イギリスのジョン・バニヤンの「The Life and Death of Mr.Badman」(1680年)のことか。高村新一の翻訳で「悪太郎の一生」(新教出版社)が1955年に刊行されている。

 

Q.何語かわからないが「コンノルモク」とは何か?

 

A.韓国語で「踏切」の意味。

 

Q.ベアト本とは何か?

 

A.中世ヨーロッパ、聖書の黙示録に挿絵を描いた写本の総称。現在ジローナ大聖堂など数カ所で保管されている。 ベアト(Beato)とはスペイン北部、アストゥリアス地方のリエバナ修道院ベアトゥス(Beatus)にちなむ。ベアトゥスは786年ころに「黙示録注釈書」を著したが、同書はモサラべ典礼の中で重要な位置を占め、10世紀以降の挿画には、竜や悪魔、火災等に苦しむ人間を色鮮やかに表現して、天の軍勢や天上のエルサレムと強い対照をなし、ロマネスク美術の形成に大きな影響を与えた。

 

Q.『南門鼠』という作品が読みたい。

 

A.「南門鼠(みなとねずみ)」は享和2(1802)年に刊行された塩屋艶二の品川・遊里の噂話を題材にした洒落本。活字化された本としては、「洒落本大成第18巻」(中央公論社、1983年)に所収。

 

Q 江戸八百八町といわれているが、実町数を知りたい。

 

A.幕末には1700以上もの町があった。(参考:「江戸ものしり用語事典」14p)

 

Q.ハリウッドの西部劇映画で乗馬などの危険なシーンを専門に演じたスタントマンとして長年、活躍したジャック・N・ヤングについて知りたい。

 

A.映画人の俳優や監督・カメラマンなどは事典で調査できるが、スタントマンは所載されないことが一般的である。英語版ウィキペディアに拠る。ジャック・N・ヤング(1926-2018)は誕生名はJack Norwood Young。アメリカ合衆国ヴァージニア州フィンキャッスルに生れる。乗馬のエキスパートとして、「ウィンチェスター銃73」、「OK牧場の決闘」、「リオ・ブラボー」などに出演。「アラモ」の撮影中に瀕死の重傷を負うも復活した。他に「西部開拓史」、「真昼の決闘」、「荒野のガンマン」など。後年は、キャスティング・マネージャーとしても活動した。

 

Q.中国とロシアのハンカ湖付近の国境の町トゥリー・ログについて知りたい。

A.トゥリー・ログ(Turiy-Rog)はロシア連邦沿海地方ハンカ地区にある町(村落)。「トゥリロゴ」と表記されることがある。2010年国勢調査による人口は472人。清朝時代の名称は快当別であった。

 

 

Q.「アンコール踏査行」(東洋文庫)の著者ドラポルトの略歴。

 

A.ルイ・ドラポルト(1842-1925)。フランスの海軍少尉でシャム駐在中の1866年カンボジアのアンコール遺跡に出会い、遺物を多くフランスに持ち帰る。1878年のパリ万博でクメール美術品が初展示される。

 

Q.歌詞に「外国で飛行機が墜ちました。ニュースキャスターは嬉しそうに乗客に日本人はいませんでした」とある曲名は?

 

A.THE YELLOW MONKEYの「JAM」(1996年)

 

Q.ヨーロッパで最も最初にできた漢籍目録は?

 

A.東洋史学者・坂出祥伸によると、19世紀のフランスで活躍したユリウス・ハインリヒ・クラプロートが1822年につくった目録とある。(『初学者のための中国古典文献入門』ちくま学芸文庫 214p)

 

Q.「365日をどう生きるか」(ダイヤモンド社)の著者である伝説的名医といわれる精神衛生学のシンドラー博士のフルネームと生没年は?

 

A.ジョン・A・シンドラー(John Albert Schindler)1903-1957。

 

Q.「♪勝ってくるぞと勇ましく誓って故郷を出たからは」戦時中、最も流行した軍歌「露営の歌」の作詞者、薮内喜一郎の生没年は?

 

A.薮内喜一郎は奈良県出身、京都市役所勤務。1905-1986。

 

Q.「長崎親切」という言葉があるが、どのようなことから生まれた語か?

A.長崎の人は親切である、と一般にいわれるが「長崎親切」という言葉の由来や語源に関しては文献が見つからなかった。歌手のさだまさしがコンサートで「長崎の人は親切」とふれている。

 

Q.「敖漢旗」の読み?

A.敖漢旗は「ごうかんき」、現地の発音では「アオハンチー」。敖漢という一部族名。中華人民共和国内モンゴル自治区赤嶺市を位置とする旗。

Q.16世紀後半から17世紀にかけてアフリカにあった「アクワㇺ王国」について。

A.15世紀、ポルトガル人がアフリカに奴隷貿易の城砦を建設。1642年アクワム要塞をポルトガルから奪取した。山口昌男の「黒い大陸の栄光と悲惨 世界の歴史6」に詳しい。174~176頁。現在のガーナに位置していた。

 

Q.1895年ごろの日清戦争の戦後交渉において、ロシア・ドイツ・フランスが日本に三国干渉する。当時、ロシアはニコライ2世、ドイツはヴィルヘルム2世。ではフランスの元首は?

A.第3共和政第7代大統領フェリックス・フォール。

 

Q.掃径迎良友の読みは?

A.みちをはきてりょうゆうをむかえる。茶道表千家十三代家元・即中斎の言葉。

 

Q.ゲンチオピクリンを成分として含んでいる植物の名前が知りたい。

A.リンドウ科の植物には含まれる。

 

Q.「石蕗の季節」という本は、いつ、どこの出版社から刊行されたか知りたい。

A.国立国会図書館サーチで書名検索で調べる。俳句の本で梅田桑弧句集「石蕗の季節」胴の会、1969年刊行であることがわかる。なお石蕗は「つわぶき」と読む。

 

Q.興文社取締役の石川寅吉の生没年が知りたい?

A.円本ブームの全盛期、「小学生全集」を刊行して出版史にその名を残した石川寅吉。「出版人物事典」(出版ニュース社)など調べても、生年は1894年東京生れ、とあるが没年は太平洋戦争中に故人となり不詳である。

 

Q.2021年の全国の交通事故死者数は?

A.警察庁が発表した統計によると、2021年の全国の交通事故死者数は2636人で、1948年の統計開始以来、過去最少を更新した。参考;令和4年警察白書

 

Q.中村真一郎の言葉に「人生では無理はいつかほころびてしまうものだ」とあるが、出典は何か?

 

A.中村真一郎の昭和29年発表の小説「夜半楽」の中にでてくる。

 

Q.銀行原理とは何か?

 

A.「経済辞典」(有斐閣)の「銀行原理」の項には、「銀行は私企業ではあるが、公衆の資金を取り扱っていることから公共的な性格をもっており、銀行の投資行動には収益性・流動性と確実性が要求されるということ」(147p)と解説がある。

 

Q.日本で最初のロシア文学の翻訳「露国奇聞 花心蝶思録」(プーシキン「大尉の娘」)。高須治助訳。「英米児童文学年表翻訳年表」研究社では発行所不詳とあるが知りたい。

A.発行所は東京の法木書屋で明治16年に刊行。

 

Q.喫茶去の読み方?

A.きっさこ。禅語で、「お茶でも飲んで去れ」という意味の言葉。元々は相手を叱咤する語であったが、後には「お茶でも召し上がれ」の意として、日常即仏法の境地をなす語と解された。

 

Q.日本で最北端にある小学校は?

A.稚内市立大岬小学校。宗谷岬の約1.7㎞南東、北緯45度30分50秒に位置する。明治27年に開校し、今年6月1日をもって130年目を迎える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シャンソンの日

5969788  本日はシャンソンの日。1990年のこの日、銀座のシャンソン喫茶の老舗「銀巴里」が閉店した。

    日本にシャンソンが紹介されたのは、昭和2年11月15日に宝塚少女歌劇団がグランド・レビュー「モン・パリ」を初演したときで、以後「パリゼット」「花詩集」などの主題歌として歌われた。そして無声映画時代「巴里の屋根の下」「巴里祭」など映画主題歌のシャンソンも流行した。またダミアの「暗い日曜日」「人の気も知らないで」が淡谷のり子の歌謡でヒットした。戦後、昭和30年にイベット・ジローが来日して、シャンソン・ブームが起った。そしてエディット・ピアフ、イブ・モンタン、ジャクリーヌ・フランソアの歌がラジオから流れた。銀座にはシャンソン喫茶「銀巴里」が出現、石井好子や越路吹雪らが活躍した。岩谷時子による訳詩もシャンソンの大衆化に貢献した。ジュリエット・グレコ、シャルル・アズナブール、エンリコ・マシアス、サルバトーレ・アダモら若手も登場した。なかでもアダモは「サン・トワ・マミー」「雪が降る」など日本で最も愛されたシャンソン歌手といえる。シャンソン歌手にはフランスだけでなく他国出身者も多い。イブ・モンタン、アダモはイタリア生れ。エンリコ・マシアスはアルジェリア生れのユダヤ人。エディット・ピアフの「愛の讃歌」。愛をテーマにした曲は数々あるが、このシャンソンほど力強く、感動的な歌がほかにあるだろうか。今年の紅白にはシャンソンが一曲も選ばれていないのは残念だ。(12月29日)

 

 

 

 

2023年12月28日 (木)

ウェストミンスター大聖堂

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身廊の高さが34mもあり、イギリス国内の聖堂では最も高い

 ビッグベン、バッキンガム宮殿、トラファルガー広場など、世界的に有名なランドマークが集まるロンドン・ウェストミンスター地区。ウェストミンスター・アベィは、アベィ(Abbey)とあるように本来、7世紀にさかのぼる古い教会のあとに建てたベネディクト会の修道院で1065年12月28日竣工した。現在の姿の基礎をおいたのは、ヘンリー3世(1207-1272)の時代で、1245年にゴシック様式の聖堂として改築させた。1502~20年に造営されたヘンリー4世礼拝堂にはイギリス特有のバーベンディキュラー様式がみられる。ヘンリー8世(1491-1547)の宗教改革の際に、イングランド中の修道院が廃止され、この修道院は大聖堂となった。ゆえに現在の正式の名称はアベィではなくて、「ウェストミンスターの聖ペテロ教会」という。中世紀以後歴代の国王や皇后はここに葬られ、征服王ウィリアム以来戴冠式もここで行われるしきたりとなった。芸術家、政治家、科学者など代表的なイギリス人もここに葬られることを名誉としてきたが、とくに南の翼廊は「詩人の隅」と呼ばれて文学者の記念にあてられている。次の人たちが葬られている。

ジェフリー・チョーサー(1340年ごろ~1400年)中世イギリス最大の詩人で、近代英詩の創始者。

エドマンド・スペンサー(1552-1599)イギリス・ルネサンスを代表する偉大な詩人。代表作は「妖精の女王」(1609)。

ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)エリザベス朝のみならず、イギリスを代表する最大の劇作家であることは周知の通りである。彼はまた十四行詩の詩人としてもすぐれ、「ソネット集」(1609)は作者の深い人間理解を示す傑作である。

ベン・ジョンソン(1572-1637)シェイクスピアと並ぶエリザベス朝演劇を代表する劇作家であり、とくに喜劇において独自の境地を開く。彼の抒情詩はとくに古典的な典雅さにみちている。

ジョン・ミルトン(1608-1674)若い頃から宗教詩人として大成を志したが、清教徒革命に際してはクロムウェルの共和政府の秘書官となり、過労のため失明した。

エイブラハム・カウリー(1618-1667)詩人。牧歌劇「恋のなぞ」「保護者」内乱のためケンブリッジを追われ、一時パリへ亡命する。

ジョン・ドライデン(1631-1700)詩人。ケンブリッジ大学で学び、最初は清教徒の立場から詩作。その後、王党派に転じ、1668年、桂冠詩人となる。代表作「アブサロムとアキトフェル」。

サミュエル・ジョンソン(1709-1784)一般にドクター・ジョンソン(ジョンソン博士)と呼ばれる。英語における最初の学問的辞書といわれる英語辞典(A Dictionary  of the English Language 1755年)を刊行した。

アルフレッド・テニソン(1809-1892)ヴィクトリア朝詩壇を代表する詩人で、その繊細で美しい抒情性は特筆に値する。

チャールズ・ダーウィン(1809-1882)科学者で、進化論を確立した。代表作は「種の起源」(1859)。

ロバート・ブラウニング(1812-1889)テニソンとともにヴィクトリア朝詩壇を代表する詩人で、劇的独白(dramatic monologue)というテクニクを駆使して人間の魂の微妙な動きを描いた。

チャールズ・ディケンズ(1812-1870)サッカレーとともにヴィクトリア朝を代表する作家である。正規な学校教育は受けていない。ある新聞の通信記者となったたことが切っ掛けとなり、独自の才筆が生まれた。

トマス・ハーディ(1840-1928)若い頃建築家を志したが、のち詩や小説の創作に専心した。「ダーバヴィル家のテス」等の傑作によって小説家という名声を博したが、むしろ彼の抒情詩のほうに、彼の人間性そのもの、また人生観が鮮明に示されている。

ラドヤード・キップリング(1865-1936)兵士や水夫の生活を歌ったキップリングの詩作は、当時きわめて人気があり、「兵営の歌」はバイロンをしのぐといわれた。ノーベル賞受賞。代表作「ジャングル・ブック」。

ジョン・メイスフィールド(1878-1967)海洋にあこがれ船員となって、アメリカに渡って放浪したのち詩作を始め、「海水のバラード」Salt-Water Balladsなどすぐれた詩を書き桂冠詩人となった。

ウェストミンスター宮殿はヘンリ8世がロンドン市内のホワイトホールに王宮を移すまでの国王の主な住居で、1547年の寄進礼拝堂解散法により、国会議事堂として使用されるようになった。1834年の大火で大部分が焼失してしまったものの、1860年にゴシック・リバイバル様式で再建された。宮殿の北側にはロンドンのシンボルともいえる96mの時計台、愛称「ビッグ・ベン」がそびえている。

 

(Westminster Abbey,Big Ben)

ローマのカタコンベ

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 キリスト教は東方で確立したが、早い時期にローマに伝えられたのを別にすると、西方世界では3世紀まであまり受け入れられなかった。ローマ皇帝ネロは64年ローマ市の大火の原因がキリスト教徒であるとし確証のないまま多数のキリスト教徒を処刑した。ドミティアヌス帝は、ネロと同じようにキリスト教を迫害し、デキウス帝が250年に勅令を出して、迫害を行った。258年8月6日、ローマ皇帝ウァレリアヌスは第24代ローマ教皇シクストゥス2世がカタコンベで儀式中のところを捕らえて、その場で斬首したと伝えられる。ウァレリアヌスによる迫害のため、ヤヌアリウス、ウィンケンティウス、マグヌス、ステファヌス、ウェリキシムス、アガピトゥスら6人の助祭も共に殉教した。シクストゥス2世の墓は現在もサン・カッリストのカタコンベにある。 カタコンベとは帝政ローマ時代のキリスト教の地下墓所のことで、キリスト教が弾圧されていた時代に、信徒たちが地下に秘密の墓や礼拝所をつくったものである。ギリシア語のカタ・キュンバスに由来し、道路がそこを横断し、あるいは奥に通ずる自然の空洞わ意味したようである。ローマ周辺には大きいものでも40数カ所のカタコンベがあり、総延長はじつに560キロに達し、そのうち古い四つカタコンベ、カリスト、セバスチィアノ、ドミティラ、プリスキュラは、いずれも2~3世紀に由来する。

  サン・カッリストのカタコンベはローマの南のサン・セバスティアーノ門を起点とするアッピア旧街道に沿った場所にある。中に入ると墓所は地下4層からなり、全長10㎞以上の通路は迷路のように延びている。約10万人以上の人が葬られているが、最も注目すべき地下室墓は「教皇の地下室墓」である。3~4世紀、初期のローマ教皇12人の遺体がここに葬られている。最も古いのが第19代教皇ポンティアヌス(在位232-235)。20代アンテルス(235-236)、21代ファビアヌス(236-254)、23代ルキウス(253-254)、24代シクストゥス2世、25代ティオニュシウス(259-268)、26代フェリクス1世(269-274)、27代エウティキアヌス(275-283)、28代カイウス(283-296)、31代エウセビウス(311-314)、32代ミルティアデス(311-314)、そして第37代教皇ダマスス1世(366-384)である。キリスト教徒にとって最も聖なる教皇の墓が存在するこの地下室墓は、1854年デ・ロッシによって発見されたが、長い年月をかけて名前を確認することができたといわれる。(Catacombe di San Calisto,Pontian,SixtusⅡ,De Rossi、世界史)

八百屋お七に焼かれた芭蕉庵

    枯枝に烏のとまりたるや秋の暮

 

    延宝8年、深川に移る。これが芭蕉庵の始まりである。天和2年3月、「武蔵曲」においてはじめて芭蕉の号を用いた。この年12月28日、駒込の大円寺を火元とする大火(お七火事)があって、芭蕉庵も類焼した。芭蕉は辛うじて難を免れ、門人高山麋榯に招かれて甲斐国谷村の高山邸に身をよせ、ここに半年あまり寓居した。翌年5月江戸に帰ったが、其角によれば、この災難によって芭蕉は「猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発」したという。6月には郷里の実母の死去の悲報に接し、冬には素堂ら友人門弟の勧進によって新庵が落成し、ここに落着いた。このころから芭蕉の人生観、俳諧観が大きく変わったものと考えられる。

 

31  朝顔は 酒盛知らぬ盛りかな

 

32  蕣は 下手のかくさへ哀なり

 

33 朝茶のむ 僧静なり菊の花

 

34 朝露に汚れて涼し瓜の泥

 

35 朝な朝な 手習すすむきりぎりす

 

36 あさむつや 月見の旅の明けばなれ

 

37 あさよさを 誰まつ島ぞ片心

 

38 紫陽花や 帷子時の薄浅黄

 

39 明日は粽 難波の枯葉夢なれや

 

40 遊び来ぬ 鱁釣りかねて七里迄

2023年12月27日 (水)

朝型人間と夜型人間

  古今東西を問わず、言い慣わされている言葉がある。「早起きは三文の徳」。もともと宋の楼譄が詠んだ詩「早起三朝當一工」(3日続けて早く起きれば一人分の働きとなる)という句から来ている。三文は、江戸時代の通貨で現代に換算すれば100円くらいなるという。

   早寝、早起きに象徴される規則正しい生活習慣は、健康に欠かせない。肉体と精神の健康を保って仕事に励めば、お金もたまるし、賢くもなるのである。より古い形では「朝寝八石の損」という。それだけとりいれが減るというのを、お金に換算して「朝起三両」などともいう。

The early bird catches the warm.

早起きの鳥は虫を捕らえる(イギリスのことわざ)

  夜更かしをせずに、早く起きなさい、とよく親から叱られた。NHKシブ5時で精神科医の名越康文は生活のリズムを整えて、早寝早起きを主張する。年を取ると夜はなかなか眠れない。不眠症という病名があるほど眠れないと不安になる。そこで処方箋をもらって睡眠薬を飲んでいる。朝型生活が正常だろうか。教育学の斎藤孝はこの朝型至上主義に違和感をおぼえる。むしろ、静寂が知を育み想像力を醸成する。積極的に夜の時間を知的に過ごすことがいいと主張している。詳しくは著書「夜型人間のための知的生産術」(ポプラ新書)をご覧あれ。しかし脳医学の最新成果でも学習で得た知識ゃ情報は十分な睡眠に定着できるという研究成果がでている。他方、イギリスの研究によると、朝型夜型のタイプは本人の生活習慣や志向ではなく、脳内に先天的に決まっているという報告がある。

 

 

 

 

2023年12月26日 (火)

徳川家康

Photo   徳川家康(1542-1616)の人生はまさに「忍」の一文字であった。天文11年12月26日、三河の岡崎城で呱々の声をあげた。信長よりおくれること8年、秀吉からは5年。歳の順序に気がねしたわけではあるまいが、このとおりの序列で後を追い、天下をとった。元和2年4月17日(1616年5月22日)73歳で没した。死因は鯛のてんぷら説もあったが、近年は胃がん、梅毒説が有力である。ちなみにシェークスピアは同年4月23日に世を去っている。

    幼名は竹千代、父は松平広忠、母は刈谷城主水野忠政の娘於大。天文16年、三河岡崎城の広忠は、織田信長の猛攻をうけ、今川義元に援けを求めたが、このとき竹千代はわずか6歳で今川氏へ人質に送られることとなった。今川氏の本拠駿府への途中、義理の祖父である渥美郡田原城主戸田康光にだまされて信秀の手中に落ちた。康光がうけとった礼金は永楽銭五百貫とも一千貫ともいう。いずれにせよ家の仇、父の敵へ売りとばされたわけだ。だが、父広忠が信秀の脅迫にのらず毅然たる態度で臨んだのが逆に幸いして、信秀の心を打ち、人質とはいえその扱いは鄭重であった。幼い竹千代は、尾張の万松寺での人質生活のあいだに、14歳の荒くれ信長と知りあった。8歳のとき一度岡崎に戻ることがてきたが、半月ほどで再び今川氏の人質として駿府に移された。今川義元が桶狭間で仆れるまでのことであるから、前後を通じて足かけ13年の人質生活であった。しかし、その生涯をみると、ものごころついてから秀吉の死後に至るまでの50余年間、家康はいつも誰かに頭を押さえられて過ごしている。ひたすらの「忍」であった。誰にでもできることではない。家康には、信長のような鋭利で独創的な才能はない、また秀吉のような奔放・豪快、しかも機略縦横といった華やかさもない。だが、めだたぬ聡明さと組織力とで、打つ手の一石一石は実に着実であった。だからこそ波瀾ふくみの秀吉死後を無事に切り抜けとおし、ついに天下の覇権を掌中にしたのである。常用の印文には天下の匂いも布武の臭みもなく、「福徳」または「忠恕」という、道学先生を思わすような字句であったのも、いかにも家康らしいといえる。(参考:岡本良一「国民の歴史12 天下人」)

徳川家康関係図書

逸史12巻首1巻7冊 中井竹山、浅井吉兵衛等 明治9年

列祖成績20巻20冊 安積澹泊 徳川昭武 明治11-12年

仮名挿入皇朝名臣伝4 中沢寛一郎編 溝口嘉助 明治13年

東照宮実記仰晃雑誌1-9 細谷蕉露編 仰晃社 明治16年

日本百傑伝 第8編 松井広吉編 博文館 明治26年

東照宮御一代記 沼崎重孝 明治28年

徳川家康 本城正琢 公愛社 明治30年

徳川家康公 吐香散人 日吉堂 明治32年

 

 

2023年12月25日 (月)

12月25日はキリストの誕生日ではない

Leasu  イエス・キリストは、紀元前6年ないし紀元前4年ごろベツレヘムで生まれた。クリスマスはイエスの生誕を祝って12月に世界中で盛大で厳かな聖夜のミサが行われるが、12月24日とする古記録や資料はない。そして紀元後30年4月7日(ユダヤ暦のニサン14日、複数説あり)、生地からさほど遠くないエルサレムのゴルゴダの丘で磔刑に処せられた。むかしのユダヤ人の暦では、一日のはじまりは日没、つまり晩からであった。そのためイヴとは前夜ではなく、その言葉の通り、クリスマス当日となっている。しかしベツレヘムの12月といえば、雨の多い寒い季節である。この時期に羊飼いがヒツジの群れと共に一晩中野原で過ごすことはない。イエスは秋の初め頃、おそらく9月に生まれたのであろう。では何故、12月25日を誕生日としたのか。当時ローマ帝国で最も広く信奉されていたのはミトラ教である。そしてミトラ教の最大の祭日が12月25日だったので、クリスマスの制定に影響を与えたと考えられる。4世紀前半、教皇ユリウス1世が「イエスの生誕日は12月25日」と定めた。その後、キリスト教の行事のなかで12月1日から25日までは「待降節」といい、12月25日から1月6日までは「降誕節」という。3月5日から4月20日までが「四旬節」、4月20日から6月9日までが「復活節」である。12月25日のクリスマスは日本でもお馴染みとなったが、「エピファニー」はほとんど知られていない。キリスト生誕のとき東方から来た3人の博士の前に初めてキリストが姿を現したことを記念する日であるクリスマスから12日目の1月6日に行われる。(the Epiphany)

 

 

 

 

2023年12月23日 (土)

キリスト降誕

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Where did Jesus born in Bethehem? Jesus was born in a stable in Bathehem.

 

イエスはベツレヘムのどこで生れましたか? イエスは馬小屋でお生れになりました。(12月24日)

師走雑感

 去年今年貫く棒の如きもの(虚子)

 年去り年改まることに一喜一憂を託した時代もすでに過ぎている。去年も今年もいまは変わりがないのである。ただ一本の棒が貫くように、そこに変化なく過ぎてゆく歳月の一日一日であるにすぎない、という老いの述懐が感じられる。今年もあと8日となり、さらに特別の哀感がただよう。クリスマス、年末恒例のレコード大賞や紅白歌合戦ももうすぐ。テレビ・新聞では2023年の回顧の論評がさかんにおこなわれる。ヒット曲はYOASOBI「アイドル」、三山ひろし「北海港節」、小説では村上春樹「街とその不確かな壁」、凪良ゆう「汝、星のごとく」。流行語は「アレ(A・R・E)」。

  12月を師走と当てる。なぜ「師走」というのか古来より諸説ある。12月は1年の終わりで皆忙しく、師匠といえども趨走(すうそう=ちょこちょこ走るの意)するというので「師趨」となり、これが「師走」となったとする。第2の説は、師は法師の意で、師が馳せ走る「師馳月」(しはせづき)であり、これが略されたものとする。第3は、漢語「歳終月」を「としはるつき」と読み、それが略されて「しはつ」となったとする新井白石の説がある。第4は、「し」は年を意味し、「はす」を「果つ」と解する説。

    「十二月」を「しはす」と読むことは、万葉集の時代にあったもので、「師走」を書いたのは平安時代になってからである。「師走の月夜の、曇りをなくさし出でたるぞ」と源氏物語総角に見える。「奥義抄」(平安後期の歌学書)には「十二月、僧をむかえ経を読ませ東西に走る故に師走というを誤れリ」とある。師走とは本来、極限という意味があったようである。

 

お菓子が入ったクリスマスブーツの起源は?

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 へろへろとワンタンすするクリスマス(秋元不死男) 

 クリスチャンではないけれど、クリスマスが近づくこの季節になると気分がうきうきする。クリスマスのプレゼントを靴下に入れるのは、4世紀の聖ニコラスが貧しい家族に金貨を靴下に投げ込んだことに由来することは良く知られている。日本ではこの季節、銀のブーツにお菓子やおもちゃが入ったクリスマス・ブーツがスーパーの売り場などでよくみかける。日本独自のもので外国にはないらしい(韓国にはあるかもしれない)。おそらく戦後からだと思うがその起源についてははっきりしない。クリスマスプレゼントは1906年に救世軍が籠に果物や菓子・パン・玩具などを詰め込んだものを貧しい人にプレゼントしたという記事があるが、今日みられるような駄菓子を詰め込んだ市販用のクリスマス・ブーツが一般に普及したのは1960年頃といわれる。一説によると滋賀県の草津市の業者「近江物産」が1947年に売り出し、全国に広まったといわれている。1960年当時、わたしは小学生だったが市場の菓子店にクリスマスブーツがたくさん並んでいるのをはっきりと記憶しているので、おそらく1950年代にはどこの家庭でも、クリスマスを祝うスタイルが定着していたものと推測する。

 

 

 

 

ゴッホ耳切り事件

168651_1457627699_2_450    フランス西部ブルターニュにあるポン・タヴァンは、人口500人ほどの小さな村だったが、1886年にポール・ゴーギャン(1848-1903)が最初に訪れたころには、すでに画家たちにはよく知られた保養地となっていた。ゴーギャンはこの町で仕事に熱中するとともに、ボヘミアンのような生活を送ったが、ほかの芸術家たちは彼の強い性格を尊敬していた。ゴーギャンの周囲に集まった若い画家たち、エミール・ベルナール(1868-1941)、ポール・セリュジェ(1863-1927)、クーノ・アミエ(1868-1961)、アルマン・セガン(1869-1903)らは後にポン・タヴァン派と呼ばれ、20世紀美術を予告するような様々な絵画制作上の実験を行なった。

   1888年10月、ゴーギャンは2年ばかり前にパリで会ったことのあるフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)からの招きで、南フランスのアルルで共同生活をすることになった。ゴーギャン40歳、ゴッホ35歳。最初の数週間の共同生活は順調だった。しかし、共同生活するには、2人の個性はあまりにも違いすぎた。見たものしか描けないゴッホに対して、ゴーギャンは想像力を駆使して表現した。また、画材の使い方や、お金のやりくりなどで、乱雑さが目立つゴッホは、神経質で几帳面なゴーギャンに、何度もその弱点を指摘されている。そして1888年12月23日、クリスマスをひかえた町を歩くゴーギャンを、突然かみそりを持ったゴッホが追いかけてきた。驚いたゴーギャンが、それでも厳しい視線でにらみつけると、ゴッホは何もできず、そのままうなだれて走り去る。翌日になって、ゴーギャンが家に戻ってみると、ゴッホは血まみれになってシーツにくるまっていた。この「耳切り事件」によって、ゴーギャンとゴッホの2ヵ月間の共同生活は終わった。パリに戻ったゴーギャンは、1891年4月1日、マルセイユから船出してタヒチに向かった。(Paul Gauguin,Pont-Aven)

2023年12月22日 (金)

かぼちゃと柚子湯

   本日は冬至。太陽が冬至線に直射する時で、一年中で最も南に位置し、北半球における正午の太陽の高さが最も低く、日照時間も最短である。わかりやすくいうと、年中で昼がもっとも短く、夜がもっとも長い日である。冬至粥を食べ、カボチャやコンニャクを食べる。またこの日、冷酒を飲み、柚子湯に入る習慣がある。なぜカボチャを食べるのか?かぼちゃを漢字で書くと「南瓜(なんきん)」。つまり、「ん」のつくものを食べると「運」が呼び込めるという運盛りのひとつ。小豆(あずき)を使った冬至粥は、昔から小豆の赤は邪気を払うといわれているから。柚子風呂に入るのは、柚子(ゆず)=「融通」がきく、冬至=「湯治」。こうした語呂合わせから柚子風呂に入る習慣があるが、もともとは運を呼び込む前に厄払いするための禊(みそぎ)だと考えられている。柚子湯に入ると1年中風邪をひかないといわれる。

庭掃除すませ今宵は柚子風呂に  大原雅尾

鴉啼いて年が暮れゆく冬至かな  厄助

2023年12月21日 (木)

国定忠治、磔刑となる

Photo1 国定忠治慰霊碑

 

   戦前の日本の時代劇でいちばん人気があったヒーローは、四十七士の面々を別とすれば、「赤城の山も今宵限り」でおなじみの国定忠治(1810-1850)ではあるまいか。舞台では澤田正二郎だが、活動写真ではギョロリと目玉をむいた尾上松之助が国定忠治を演じている。「国定忠治(日光円蔵と国定忠治)」(大正3年)、「国定忠治」(大正7年)など。だが目玉の松ちゃんの映画は歌舞伎調で女優を使わず女形がでている。阪東妻三郎などのスマートな役者が現れると古臭く感じられた。そんなとき昭和2年に大河内伝次郎の「忠治旅日記」三部作が大ヒットした。群馬県の誇るモダニズムの詩人・萩原朔太郎も国定忠治に入れ込んでわざわざ自転車で忠治の墓まで出かけて詠んだ詩がある。

 

 わが村に来りし時

 

 上州の蚕すでに終りて

 

 農家みな冬の閾を閉ざしたり

 

 太陽は埃に暗く

 

 悽而たる竹藪の影

 

 人生の貧しき惨苦を感ずるなり。

 

 見よ 此処に無用の石

 

 路傍の笹の風に吹かれて

 

 無頼の眠りたる墓は立てり。

 

   萩原朔太郎は、おそらく伊藤大輔の映画「忠治旅日記」を見たことであろう。彼の訪れた忠治の墓は金城山養寿寺(伊勢崎市国定町)の墓だろう。これとは別に忠治の処刑場跡には「侠客国定忠治慰霊碑」がある。(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)

   国定忠治が大戸で磔刑になったのは41歳のときである。嘉永3年12月21日。師走で雪が降って、錆槍が縦横に突き刺した。忠治には一人の男の子がいたことはあまり知られていない。もちろん勘太郎ではない。勘太郎は勘助の子である。大谷国次(1844-1867)、幼名を寅次という。忠治の刑死後、その母お貞は寅次を連れて、貞の父である大久保一角の生地・野州都賀郡大久保村へ行き、出流山千手院にたくして僧となり千乗と名乗った。寅次は生来、武芸が好きであり、僧になることを好まず武術家になることを志し、還俗する。戊辰戦争の折には、慶応3年、官軍の出流山挙兵のとき、大谷刑部と改名し、軍資の調達に奔走する。岩船山の戦いで幕府軍に捕らえられて、慶応3年12月18日、佐野河原で処刑された。わずか24歳であった。大谷国次の名前は人名事典に収録されているが、勘太郎より年上であるが、お芝居には登場しないのはなぜだろうか。中風で病む忠治を訪ねて成長した国次と親子の対面。そのとき名刀の小松五郎義兼を渡され、父の形見の名刀を抱いて国次は幕末の国事に大活躍というチャンバラ映画があってもよさそうに思うのだが。どうやら国次の実在性を疑問視する学者もあるらしい。

2023年12月20日 (水)

水曜日は週の真ん中

Photo

 

平凡な日々のある日のきのこ飯
           日野草城

 

   炊き込みご飯といえば、栗ご飯、さつまいもご飯、かやくご飯、といろいろあるが、語呂が合うのはやはり「きのこ飯」か。

 

 

パタゴティタン(「ハ」事項索引)

20090701_hailuoto[  は  ]

 「パタゴティタン」アルゼンチン・パタゴニア・チョブ州のセロバルチーノ累層で見つかったティタノサウルス類の竜脚類の属である。英ロンドンの自然史博物館には全長37mの骨格模型が展示されている。▽「バンジージャンプ」1971年イギリス人がバヌアツの儀式から発案し、高い場所からジャンプしたのが近代的バンジージャンプの起源という。▽「バイイ」1736-1793。フランス革命期の政治家。▽「貝多羅葉(ばいだらよう)」貝多羅ともいう。かつて南アジアや東南アジアで広く使われたシュロやヤシの樹木の葉を利用した文書の材料。▽「パサロヴィッツ条約」1718年オスマントルコがオーストリア、ベネチアとの間に締結した条約。▽「バシーの虐殺」1562年に起こったユグノー教徒を多数殺傷した事件。▽「バシリク古墳群」ロシア南シベリア。スキタイ人の遺物が発見される。▽「ハガイ」イスラエルの預言者。前6世紀バビロニア捕囚から帰還後、荒廃したエルサレム神殿を再建すべきことをすすめた。▽「パイロットファーム」1956年北海道の根釧台地で機械を導入し近代経営の形態をとる先駆的な実験農場。▽「ハイアット」1870年セルロイドを発明。▽「パレイドレア(変像症)」意味のない対象に、特定の意味を認識してしまう幻視の一種。例えば、天井のしみが秘史の顔に見えてしまう。▽「パストラル」ベートーヴェン・ピアノソナタ「田園」。▽「半仙戯(はんせんぎ)」ブランコのことで、半分、仙人になった気分になるからとか。▽「牌符」元の駅伝制(ジャムチ)で使用された通行証。▽「ハイメ1世」イベリア半島東部のアンゴラ連合王国の王ハイメ1世は13世紀イスラム支配下の地域を征服してレコンキスタの大躍進を果たして征服王と呼ばれた。▽「バージェス頁岩」約5億500万年前の海棲動物群を化石として閉じ込めた、そのころ海底崖であったところの堆積層。発見者チャールズ・ウォルコットにちなんで命名された。▽「パシュート」平昌五輪で高木美帆ら三選手スピードスケート団体競技で金メダル。pursuitとは「追跡」という意味。▽「ハナミズキ」アメリカ原産で、大正初年に渡来し、庭などに植栽された。アメリカヤマボウシという。4月から5月、白・淡桃色の四枚の大きな花びらがあざやかである。▽「ハジチ」かつて琉球列島で女性の指から手の甲、ひじにかけて施された入れ墨。「針突」と表記する。成女儀礼、本土にさらわれないための魔除けの願いが込められている。▽「バンジュール」ガンビア共和国の首都。▽「バイオーム」生物群系。ある気候条件の地域で、それぞれの条件下での安定した極相の状態になっている動植物の集り(群集)をいう。気温と降水量が主な環境要因。バイオ(bio=生物)とオーム(ome=全体)という2つの言葉をつないだもの。▽「バージェス動物化石群」1910年にアメリカの古生物学者チャールズ・ウォルコットがカナダ南部のロッキー山脈でバージェス頁岩を発見。化石の中にはピカイアやアノマロカリスも含まれる。▽「パスカルの原理」密閉流体の一部に加えられた圧力は、流体のすべての部分に大きさが変わることなく伝達される。▽「パバーヌ」16世紀にヨーロッパで流行した緩やかな宮廷舞踊。▽「ハムン」咸興。北朝鮮・咸鏡南道。▽「パラリンピック」パラプレジア(脊髄損傷等による下半身麻痺者)+オリンピックの造語。第一回大会は1960年のローマだが、用語が広まったのは1964年の東京大会からである。▽「バルディヤ刺殺事件」前522年アケメネス朝ペルシャでカンビュセス2世がバルディヤを殺害、王位を簒奪する。その後、ダリウスが反乱を即位した。▽「バルバロッサ作戦」第二次世界大戦中のドイツ軍によるソビエト連邦奇襲攻撃作戦の名称。▽「パルモア病院」神戸市中央区にある病院。1956年に日本で初めて産婦人科と小児科が一体となって医療を提供した。▽「バレイドリア現象」曖昧な図形を本来と違うものに見てしまう錯覚現象。▽「パンソリ」18世紀初頭に全羅道を中心に、庶民の間で唱劇につけて歌われた、哀歓豊かな節回しと力強いこぶしで物語りを歌い綴る韓国の代表的な伝統音楽。▽「パンチャタントラ」古代インドの説話文学。世界の説話に影響を与えた。「イソップ」の原型がみられる。▽「ハンラサン」済州島にある漢拏山(ハンナサン)は海抜1950mある韓国で最も高い山。(ははは)

 

ハアバイ(群島) トンガ王国
バアルべク(レバノン)
バイアグラ
ハイアット
バイアブランカ(アルゼンチン)
バイイ
梅雨
バイオマス
バイオーム
バイオントダム災害(1963年)
バイカル湖
バイキング
バイクスピーチ(山)アメリカ・コロラド州
牌符(パイザ)
背水の陣
貝多羅葉(ばいたらよう)
ハイチ
ハイチ地震(2018年)
バイデン,ジョー
ハイヌウェレ
灰の水曜日
ハイビスカス
バイブル
ハイムリック法
ハイメ1世
バイヨンヌ(フランス南西部)
ハイルオト(島) フィンランド北西部(画像)
ハイレ・セラシエ1世
バイロイト音楽祭
パイロットファーム
バウハウス
パウロ
ハオルシア・オブツーサ
馬鹿
ハガイ書
葉隠
博多どんたく
袴田事件
バカヤロー解散(1953年)
ハギア・ソフィア(イスタンブール)
ハギオス・デメトリオス聖堂
パキスタン
萩原朔太郎
パーキンソン病
パグウォッシュ会議
パクス・ブリタニカ(イギリスの平和)
パクス・ロマーナ(ローマの平和)
白村江の戦い
バグダッド
バクテリア
ハクビシン(白鼻心)
ハーグ密使事件
バグラチオン作戦
箱根
ハサヴエルト協定(1997年)
ハザール王国
パサルガダエ
パサロヴィッツ条約
ハサンケイフ(トルコ)

バージェス頁岩
ハジチ
バージェス動物化石群
バージニア(州)
バシーの虐殺
ハシバミ
パシフィック・メイル汽船会社
パシュート
バジリカータ(イタリア南部)
パジリク古墳群(アルタイ共和国)
パスカルの原理
バスコ・ダ・ガマ
パストラル
長谷川如是閑
支倉常長
バセドウ病
バーゼル(スイス)
バタヴィア
パタカラ体操
パタゴティタン
パタゴニア
バターシーの楯
バターン死の行進
蜂須賀正勝
パチャカマック神
馬超
パチンコ
八甲田山
バッキンガム宮殿
ハックルベリー・フィンの冒険
パッサロヴィッツ条約
パテーの戦い(1429年)
パディントン(ロンドンの地下鉄)
パディントン駅列車衝突事故(1999年)
ハトシェプスト
ハドソン川の奇跡
ハード・ボイルド
ハドリアヌスの長城
ハドリアノポリスの戦(378年)
ハトロン紙
花川戸助六
パナマ運河
パナマ文書
ハナミズキ
バーナム効果
花より団子
パニック障害
バノックバーンの戦い
パバーヌ
バビロン捕囚
ハピントン陰謀事件
バベルの塔
パホイホイ溶岩
歯舞諸島
バーミヤン
ハムン
ハメーンリンナ(フィンランド)
はやぶさ(探査機)
バヤンカラ山脈
バラ
ハラッパ
パラティヌスの丘
バラモン教
パラリンピック
パリ
パリ・コミューン(1871年)
ハリー・ポッター
バリウム
ハリケーン・カトリーナ
パリスの審判
バリスカン造山運動
バリ島(インドネシア)
ハールィチ・ヴォルイーニ大公国
バルタザール
ハリファックス(カナダ)
バルサミコ酢
ハルシュタット文化
バルディヤ刺殺事件
バルバスバウ
バルバドス
バルバロッサ作戦
ハルピン
バルフォア宣言
ハルマ和解
パルモア病院
バレイドリア(変像症)
ハレー彗星
パレンバン
ハロウィーン
バロック
反意語
漢江(はんこう)
パン
パンアメリカン航空
バン・アレン帯
半襟
版画
樊噲(はんかい)
ハンカ湖
バンガード
ハンガリー
ハンガリー革命
ハンガリー動乱
バンクーバー
バングラデシュ
ハンゴンソウ(反魂草)
蛮社の獄
パンジャブ
バンジャルマシン(インドネシア)
バンジュール
バンギ
半規管
ハングル
パンゲア大陸
盤珪永琢
ハンゲショウ
万古焼
犯罪
半済令
ハンザ同盟
半紙
パンジー
阪神タイガース
反芻類
パンセ
万世橋
范成大
パンソリ
パンダ
半田鏝
パンチカードシステム
番茶
パンチャタントラ
蕃鎮
パンツァーリート(ドイツ戦車行進曲)
半仙戯
パンテオン
パンデミック(世界的大流行)
半島
パントテン酸
半導体
パントマイム
パンドラ
バンドン(インドネシア)
ハンニバル
パンの会(1908年)
パンノキ
ハンノキ滝(富山県)
パンパスグラス
ハンラサン(済州島)
万里の長城
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 パンノキ 

ブログの休止

 コンピューター故障のため当分の間、ブログは休止いたします。

2023年12月19日 (火)

租界と予備租界

  1984年のこの日、イギリスと中国で香港返還合意文書が北京で調印された。そして1997年には資本主義制度を維持したまま香港が返還された。

    中国には古くは唐・宋時代の蕃坊、明時代におけるポルトガル人のマカオ、清朝の広東夷館のような外国人居留地があったが、1842年のイギリスとの南京条約によって上海が開港場となると、諸外国が管轄する租界という地域が中国全土に増えた。第一次世界大戦までに、租界設定国はイギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、ロシア、日本、イタリアう、ベルギーの8ヵ国、各地の租界総数は28という盛況に達した。主な所在地は、上海、天津、漢口、広東、アモイ、蕪湖、蘇州、杭州、沙市、福州、重慶、鎮江、九江であった。とくに天津などは、イギリス、フランス、ドイツ、日本、ロシア、ベルギー、イタリア、オーストリアと8ヵ国すべてが集中していたので、予備租界といわれる、どの国にも属さない緩衝地域も存在した。中国人たちはこの緩衝地域を「三不管」(サンプーカン)と呼んだ。

    山田清三郎の小説「明けない夜はない」では、「三不管には、三国の軍警は、はいってはこなかった。いわばそこは、権力の真空地帯だったのだ。この権力の真空地帯に、いつとはなしに細民窟が、発達していった。世の落伍者、おたずね者、何かの事情から世をせばめなければならない者、そうした人たちによって、細民窟ができ、それはしだいに戸数と人口を、増やしていった。」とある。中国語の「三不管」のもとの意味は予備租界といったものであったが、やがて「無法地帯」といった意味で使われるようになる。屋台市や安宿、芝居小屋などのほかに妓院(風俗店)が並び、アヘン窟があり、ヤクザの拠点となる。戦後は、香港の九龍城砦も「三不管」と呼ばれている。(12月19日)

文明の発達と地球環境問題

  高校地理の副教材「図説地理資料」。新型コロナウィルス感染症の人・物の動きへの影響など最新情報もある。4年前の新詳地理資料COMPLETE2018と比較する。トランプ大統領と移民問題など記事も大きく変わっている。NOWでは「サスティナブルシティ構築への挑戦」としてエネルギー問題、地球環境問題を巻頭に特集している。そして、「SDGsについて探求ーしよう」を巻末で特集している。持続可能な地球を守り続けるために人間と自然環境がどう向きあっていくかが問われている。主要国要覧がないのは残念。地理学はここ数年でその重要性を大きく増した科目である。

 人間が少しでも自然を利用すれば、地球環境に影響が生じます。しかし、人間が動物の狩りや植物の採取で暮らしていた時代は、人間が与える影響よりも自然界の回復力のほうがはるかに勝っていました。そのため大きな問題は起こらなかったのです。その後、文明の発達になって人口の増加や都市化が進み、次第に人間の生活が地球環境に大きな影響を与えるようになってきました。18~19世紀に産業革命が起こると、蒸気機関の発明によって大量生産ができるようになってきたことから、人間はますます自然界の素材を利用するようになりました。そして自然界の回復力をはるかにこえてしまつたため、さまざまな問題が起き始めたのです。また、化学の発達によって簡単に自然にかえらない物質や、使い方をまちがえると有害な物質も生まれ、次々にいろいろな環境問題が表面化するようになったのです。

 

17世紀イギリス人は紅茶よりもコーヒーを飲んでいた!?

Photo_3  国立がんセンターの研究によると、コーヒーや緑茶を日常的によく飲んでいる人は、そうでない人に比べて死亡するリスクが低いとする結果が発表された。イギリス人といえば紅茶を思いうかべるだろうが、実は17~18世紀、むしろコーヒーを飲んでいた。イギリスで最初の本格的な「英語辞典」の編集で有名なサミュエル・ジョンソン(1709-1784)と彼の伝記を書いたジェイムズ・ボズウェルとはコーヒー・ハウスで知り合った。そのほか演劇俳優のガリック、画家のレイノルズ、思想家のエドマンド・バーク、音楽家のバーニー、歴史家のギボンらもこのコーヒー・ハウスに出入りして談話を楽しんだ。イギリスだけでなく18世紀にはヨーロッパ中にコーヒーを飲む習慣は広がり、ベートーヴェンやバルザックもコーヒーを楽しんだといわれる。

    アメリカでは17世紀の半ばころに移住してきたオランダ人によって喫茶の習慣が伝わり、当時一種の社交的手段となっていた。アメリカへ移住したイギリス人の間では最初は紅茶が飲まれていたが、ボストン茶会事件以後、独立革命の時代になって、アメリカ人はコーヒーを選ぶ国民となった。これとは反対に、本国イギリスでは18世紀半ば頃から紅茶を飲む習慣が一般化していった。ボヘアという安い紅茶が中国からの輸入により入るようになり、大衆の生活のなかで普及していった。イギリスで紅茶が普及したのはこんな話もある。ある時、植民地での不作によってコーヒー豆の入手が困難になり、イギリス人はコーヒーが飲めなくなった。そこで英国政府の役人が目を付けたのが、同じ植民地だったインドやセイロンから大量に収穫された「お茶の葉」である。これを加工して出来たのが「紅茶」である。「国を愛する心あらば、コーヒーよりも紅茶を飲むべし」という国を挙げてのキャンペーンにより、この頃から英国人及びその他の植民地では紅茶を飲むようになったと言われている。

    コーヒーブレーク(coffee break)とは、仕事の合間の、コーヒーを飲むための小休憩時間をいう。breakとは「中断する」という意味で、1945年ごろアメリカで使われだした俗語であるといわれる。コーヒーの消費量が一人当たり一番多いのは、フィンランドだそうだ。

 

 

 

 

大岡越前と天一坊事件

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 宝暦元年のこの日、大岡忠相死す。公正な裁判とすぐれた市政で名奉行とよばれ、映画などでは天一坊事件が広く知られている。享保14年(1729年)4月21日、将軍吉宗の落胤を名乗る天一坊改行(1699-1729)が品川で死罪の上、獄門となった。天一坊のもとに集まっていた常楽院(赤川大膳)や山内伊賀亮など浪人たちも遠島や江戸払いとなる。

    天一坊の正体は紀州田辺の生まれで、幼名は半之助というが真偽は定かではない。「大岡政談」では宝沢(ほうたく)という感応院というお寺の小坊主となっている。享保日録等の史料に見え、天一坊は実在の人物と思われるが、将軍家を揺るがすような大事件ではなかった。大岡忠相の名裁きの一つとされるが、実際には大岡忠相はこの事件には全く関係していない。(12月19日)

 

 

2023年12月18日 (月)

東京駅開業(大正3年)

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  6年の歳月をかけた東京駅は、大正3年3月19日、完成し、その年の12月18日に完成式と開業が行われた。設計者は辰野金吾(画像 1854-1919)。鉄骨レンガ、石材造りの3階建て。ルネサンス調建造物として近代西洋建築の頂点を示している。 

931   100年以上の歴史ある東京駅だが、最大の事件といえば、大正10年に起きた原首相の暗殺事件であろう。原敬(1856-1921)は11月4日、中岡艮一により刺殺された。66歳。背後関係はいまだ不明である。

2023年12月17日 (日)

ライト兄弟が初飛行に成功(1903年)

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   本日は「飛行機の日」。1903年12月14日、ウィルバーとオービルのライト兄弟はノースカロライナ州キル・デビル・ヒルズで大西洋からの風を利用して翼で浮かび上がる実験を試みる。キティホークの丘に上り駆け降りて風にのる。14日の飛行はわずか3秒半で失敗。3日後の17日、ついに852フィート(255m)の飛行に成功。この飛行はわずか59秒間であったが、人を乗せた機械がみずからの力で空中に舞い上がり、速度をおとすことなく前進しつづけ、出発したところと同じ高さの地点に着陸したのは、世界の歴史上これがはじめてのことであった。人類の長い間の夢は、ここに実現した。ライト兄弟の初飛行地に1932年、記念塔が建てられた。

2023年12月16日 (土)

紙の記念日

Kezdo  本日は「紙の記念日」。明治8年のこの日、東京・王子の抄紙会社の工場で営業運転を開始した。抄紙会社は渋沢栄一が大蔵省紙幣寮から民間企業として独立させたもので、王子製紙の前身。製紙法は古く中国、後漢の宦官蔡倫によって発明されたもので、その後改良により実用化され周辺諸国に広がり、東アジア文化圏の礎となった。8世紀唐代になってイスラム世界に伝わった。751年タラス川の戦いで唐が大敗した際、捕虜となってサマルカンドに連行された兵士の中に紙すき職工がいた。アッバース朝ではサマルカンドに製紙工場を設けて紙をつくらせ、やがてバグダッドをはじめとするイスラム世界の各地に製紙工場が設立された。ルートはサマルカンド(751年)→バグダッド(794年)→カイロ(900年)→コルドバ(1144年)→ナポリ(13世紀)→フランス(1320年)→イギリスには1494年に製法が伝わった。(12月16日、世界史)

参考:「紙の歴史」 桑原隲蔵 芸文2-9、10  1911
「紙幣発達史」 曽我部静雄 印刷庁 1951
「中国製紙技術史」 潘吉星著 佐藤武敏訳 平凡社 1980

2023年12月15日 (金)

年賀状じまい

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   郵便も やや遠のきし 六日かな (蘭聚)

 そろそろ年賀状の準備をする頃となった。やはり正月の楽しみは年賀状だろう。江戸時代には武家も町人も、年始回りで、新年の挨拶をした。江戸城には元日早朝から、将軍家に挨拶する人たちがぞくぞくと集まってきた。町人も得意先や近所に年始回り。職人は親方のところへ、子供も寺子屋のお師匠さんに挨拶に行った。ただ、年始回りに行ったが、先生も年始回りに行って留守だった、とか、あまりに年始客が多すぎていちいち顔を出していられない、という場合もあった。そういうときは、玄関に置いてある帳面に名前を書いて帰った。それでも、先生の家が遠方だったりして、どうしても回りきれないところが出てくる。そのため、松の内が終わってから、年賀状を書いて飛脚に託したり、お使いの人に持って行かせたりした。

   明治になっても、年始回りの習慣は続いた。ただ、社会的にも個人的にも人々の交際範囲は広がり、松の内の年始回りでは追いつかなくなった。いきおい、年賀状ですませるのだが、その時期に日本にも普及しだした郵便制度である。明治6年、郵便葉書の発行により、はがきで年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。もちろん、このころは年が明けてから書いた。ところが、知恵者がいて、正月に配達する年賀状を暮れのうちから受けつけたらどうだろう、と思いついた。明治32年、年賀郵便特別取扱制度ができた。明治38年には全国どこの郵便局でも前年のうちに年賀状を受け付けることになった。昭和12年には現在のように12月15日から25日までの間に投函する、元日に届く年賀郵便の特別扱いが開始された。ちなみにお年玉付き年賀状は昭和25年に始まり、京都の林正治(1909-1990)のアイデアである。近年は高齢化やメール、SNSの普及で、2003年が44億枚をピークで、そこから減少傾向となり、2021年はついに20億枚を下回っている。わが家でも家内が老人ホーム入ったし、私も体調が悪いので「年賀状じまい」にしている。

シューベルトの「未完成」はなぜ完成しなかったのか

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「シューベルトと婚約者テレーゼ・グローヴ」 オットー・ノーヴァク(1874-1950)の絵

 

 青春の夢と希望は未完のまま美しく閉じられる。

   1822年秋、25歳の青年フランツ・シューベルト(1797-1828)は「交響曲第8番ロ短調」を書き上げた。この曲が「未完成」と呼ばれるのは、当時の交響曲がふつう第4楽章だったのに、シューベルトは第3楽章を書きはじめたところで作曲を中止してしまい、2度と取り上げなかったためである。なぜシューベルトは「未完成」を完成をさせなかったのか理由はわからない。一説によると、別の曲を書きはじめているうち忘れてしまったのではないかともいわれている。往年の映画「未完成交響楽」(1933年)を見た人は「我が恋の終わらざるごとく、この曲も終わらざるべし」と失恋のためと理解したがるが、もちろん後世のフィクションである。実際にはテレーゼ・グローヴという歌の上手い女性がいたそうだが、3年後にパン屋に嫁いでしまった。「未完成」は、曲の外観が未完成であるがゆえに、シューベルトの生前にはついに演奏されなかった。シューベルトの親しい友人だったヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーが「未完成」の自筆楽譜のある場所をウィーンの高名な指揮者ヨハン・ヘルベックに教え、ヘルベックの尽力で自筆楽譜は世に出、かつウィーンで初演されたのだった。初演は1865年12月17日、作曲者の死後37年、作曲から実に43年間が経過していた。この日は奇しくもベートーベンの誕生日。生前、栄光が与えられなかったという点では、シューベルトはベートーベン以上に悲劇の天才であった。

 

 

2023年12月14日 (木)

カラスが飛んで梨が落ちる

   「カラスが飛んで梨が落ちる」韓国のことわざ。カマグイ ナルジャ べ トロジンダ。まったく関係のないことが同時に起きたために思わぬ疑いをかけられる、という意味でよく使われる。本来は仏教説話がもとにあり、四字熟語「烏飛梨落(オビイラク)」にもなっている。ある日、梨の木の枝で休んでいた烏が飛び上がったとき、その揺れで梨が落ち、下にいた蛇が死んだ。そのあと蛇がイノシシに生まれ変わり、烏はキジに生まれ変わる。今度はイノシシが間違って石を落とし、卵を抱いていたキジがその石で死ぬ。そのキジが人間に生まれ変わり、今度はイノシシを狩ろうとしている。それを見た一人の法師が、その2人の因縁を見極め、イノシシを殺さないように説得し、繰り返される因縁を切ったという話がある。

 

 

なぜ日本人は忠臣蔵が好きなのか

Img_0029 市川海老蔵の天川屋義平

 

   本日は赤穂義士討ち入りの日。今日の時刻では15日の午前4時頃だが、むかしから慣例として14日に祭りがある。映画「最後の忠臣蔵」舞台あいさつで、佐藤浩市が共演の桜庭ななみを暴露。大石内蔵助の娘・可音を演じる桜庭は初め忠臣蔵の話を全然知らなかった。亡君復讐劇ということも、赤穂義挙も、内匠頭と上野介も、松の廊下刃傷も、四十七士吉良邸討ち入りも、本懐達成、高輪泉岳寺墓参も知らない。つまり若い人で知らない世代もでてくるから、忠臣蔵はいつも新鮮な話で永遠に終わらないということだ。視点を変えれば、いくらでも話のタネはつきない。増上寺畳替、烏帽子大紋、脇坂淡路守、判官切腹、赤穂開城、勘平と定九郎、与市兵衛、お軽・勘平、山科閑居、一力茶屋、南部坂雪の別れ、徳利の別れ、天川屋義平、垣見五郎兵衛、神崎与五郎東下り、加古川本蔵、堪忍袋詫び証文、笹売り源五、毛利小平太など脱盟者、茶会、吉良邸絵図面、本所松阪町、俵星玄蕃、清水一角、南部坂雪の別れ、寺坂吉衛門など忠臣蔵外伝、エピソードの宝庫つまり忠臣蔵。それにしても日本人は忠臣蔵が大好きである。ところが最近は新作が無くなったのはなぜだろうか?理由は忠臣蔵はオールスター総出演が相場で、ギャラや製作費に膨大なお金がかかり儲からないからであろう。 (12月14日)

 

 

2023年12月13日 (水)

正月事始め

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買物の好きな女に師走来る(星野立子)

  本日は迎春の準備を始める「正月事始め」の日である。歳の市が各地で大きな神社や寺院の門前で開かれる。市では、正月飾りや注連縄、神仏具などをはじめ、羽子板、破魔弓、手毬など正月に使うものばかりでなく、日用品・衣類・食料品なども売られる。男児が生れた家には破魔弓、女児が生れた家には羽子板を贈る習慣がある。

2023年12月12日 (火)

なぜ年末になると第九が演奏されるのか?

 1824年5月7日、ウィーンのケルントナートア劇場においてベートーヴェンの交響曲第9番がはじめて演奏された日である。ベートーベン自身が指揮した。合唱曲「歓喜に寄す」が入った第九は、今日、世界中で平和と国際協調のための賛歌とされ、もっとも有名で人気のあるクラシック作品のひとつである。ところで日本では、第九は年末の風物詩といわれ、12月になると毎年全国各地でコンサートが開催される。その理由は明らかではないが、ベルリンでは戦前からニューイヤーコンサートとして、大みそかの深夜に、ただ幾第九を演奏することが多かった。その風習が日本に持ち込まれたのかもしれない。年末に第九を演奏するというのは、もともと第一次世界大戦後、平和を願うドイツのライプツィヒで始まった。いまでも伝統行事として、大晦日に第九の演奏会が開かれている。だが海外では、年末にはヘンデルの「メサイア」(ハレルヤコーラスで有名な曲)が一般で、第九を演奏することは少ない。ではなぜ、日本に第九演奏が定着したのか?これには諸説あるが、太平洋戦争で亡くなった人々への鎮魂歌だったという意味が大きい。日本交響楽団(現NHK交響楽団)が1947年12月9、10、13日にレオニード・クロイツァー指揮(1884-1953)で3夜も第九の演奏会で成功を収めた。これが契機となって全国各地でも第九の演奏会が行われた。つまり、第九の演奏は貧乏な楽団員にとって年越しの餅代稼ぎとなった。第九は大合唱付きで、チケットがさばきやすかった。また12月はベートーヴェンの誕生月でもあることや、日本人に第九は絶大な人気があることがあげられる。

 

 

2023年12月11日 (月)

租税の話

Williampitt   令和5年の世相を表す漢字が、「税」と発表された。4年ほど前の話だが、人気お笑い芸人が何年間も所得を無申告だったことが大きな話題となった。所得税にしろ消費税にしろ負担される国民の側からすれば嫌な話である。これからさらに高齢化が進むため、IMFのクリスタリナ・ゲオルギエバ専務理事は「日本は消費税を15%に引き上げる必要がある」と提言している。税の多くが福祉にまわされる欧州と異なり、大企業優先の日本では庶民の暮らしが成り立つのだろうか。日本は相対的貧困率はG7で2番目に高い。データを鵜呑みにするするアナリストの意見は危険であり、その国の文化と歴史を踏まえて提言すべきである。そもそも租税の歴史は古く国家の成立から始まる。古代エジプトのパピルス文書には当時の農民に対する厳しい搾取が記されている。近代的な租税制度はイギリスの経済学者アダム・スミスが1776年「国富論」を著したことに始まる。のちその学説が課税制度にも採用される。ウィリアム・ピット(小ピット、画像)宰相の時代にナポレオン戦争の戦費調達を目的として所得税が導入された。ところが評判が悪くナポレオン戦争の終結とともに廃止される。だが間もなく復活し定着する。イギリスの制度が19世紀の間に欧州に伝播する。これに対してアメリカでは所得税の導入が遅れる。1894年に導入されるが、憲法違反という最高裁判所の判決が下り、廃止される。そして長い時間をかけて累進制を検討し、1913年に所得税法が成立する。(世界史)

2023年12月10日 (日)

田中正造、天皇陛下に直訴す

    栃木県北部にある足尾銅山は、慶長15(1610)年に発見され、江戸時代から日本の代表的な銅山だった。その足尾銅山も明治になるとすっかりさびれていた。古河市兵衛(1832-1903)は奥州一円の生糸買付けで儲け、さらに足尾に隠れていた鉱脈に気づいて、明治7年ごろから鉱山業に乗り出した。足尾の銅山はみるみる甦り、明治14年に172トンだったのが、明治18年になると4000トンもの銅を生産するようになった。しかし、そのため、銅山から流れでた鋼毒が渡良瀬川に垂れ流され、付近の農民たちは甚大な被害をうけていた。その鉱毒問題で立ち上がったのが、折から第1回の総選挙で当選した衆議院議員の田中正造(1841-1913)である。

   明治34年12月10日、明治天皇の馬車に向かって、正造は直訴状を手に「お願いがございます」と駆け寄り、天皇に公害の被害を訴えた。「草莽ノ微臣田中正造、誠恐誠惶頓首頓首、謹テ奏ス。伏シテ惟ルニ、臣田間ノ匹夫、敢テ規和ヲ踰エ法ヲ犯シテ鳳駕ニ近前スル、其罪実ニ万死ニ当レリ」美濃紙五枚に浄書されたその書状は、そんな書き出しではじまっていた。

   「伏テ惟ルニ、東京ノ北四十里ニシテ、足尾銅山アリ。其採鉱製銅ノ際ニ生ズル所ノ毒水ト毒屑ト、久シク澗谷ヲ埋メ渓流ニ注ギ、渡良瀬河ニ奔下シテ、沿岸其害ヲ被ラザルナシ」

   このときの直訴文は、前夜、当時「万朝報」の記者であった幸徳秋水が田中の草稿に徹夜で手を入れて浄書したものである。新聞で大きく報道され、この直訴事件が世間に与えた衝撃は大きい。婦人会が主催したある演説会で、当時東大の法科の学生だった河上肇が、はじめて知る被害の実状に感動し、着用の外套や襟巻きを差し出したというエピソードは有名である。

「死なば死ね 殺さば殺せ 死んだ世に 殺されるとて かなしくもなし」

   そのころ田中正造が詠んだ歌である。明治天皇崩御の翌年、渡良瀬川のほとりで倒れた。「医者も薬もいらぬ。心配要らぬ。わしの病気は日本の山河が荒れているのが原因なのだから」と静かに息をひきとった。享年73歳。田中正造の壮絶な生涯をひと言でいえば、「正義の人」といえるだろう。(参考:油井正臣『田中正造』)

 

 

2023年12月 9日 (土)

漱石忌

Photo_2   夏目漱石は大正5年11月21日、築地の精養軒における辰野隆、江川久子(山田三良)の結婚披露式に出席した。翌日、机上の原稿紙に189と『明暗』の回数を書いたままうつぶせ、ひとり苦しんでいた。胃潰瘍の5度目の発作が起こった。真鍋嘉一郎が主治医となったが、11月28日、大内出血があり、12月9日午後6時50分、永眠。享年49歳。12日、青山斎場で葬儀が行われた。導師は釈宗演。戒名は「文献院古道漱石居士」。狩野亨吉が友人代表として弔辞を読む。28日、雑司ヶ谷墓地に埋葬された。漱石の死は明治という時代が終わったという感がある。

   その最期は、物静かに「有難い」と一口云って息を引き取ったと伝えられる。(別冊太陽、夏目漱石)漱石の臨終記録は、このほかに、

いよいよ臨終となった時、寝間着の胸をはだけ、「ここに水をかけてくれ!死ぬと困るから…」と叫んで意識を失い、そのまま息を引き取っている。

   とある。「則天去私」の境地とは程遠いが、おそらくこちらが真実であろう。

  また漱石家もその頃、家族8人、鏡子夫人、長男純一(1907生)、長女筆子(1899生)、次女恒子(1901-1936)、三女栄子(1903生)、四女愛子(1905生)、次男伸六(1908生)が住んでいた。それに、小宮豊隆、阿部次郎、森田草平、内田百閒、赤木桁平、松根東洋城、野上豊一郎、鈴木三重吉、岩波茂雄、安倍能成などの木曜会のメンバーたちが臨終にいたであろう。(未確認)

つまり漱石の最期はかなり賑やかなものだったと想像される。

  漱石の脳がエタノールに漬けられた状態で、東京大学医学部で保管されている。その重さは1425グラムで、日本人の男子の平均より75グラム重く、天才的頭脳の型であった。

 

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Photo  道後温泉本館三階の一室「漱石の間」には「則天去私」の掛け軸がある。直筆ではなく平田抱山が書いた偽物。そこには「小さな私を去って自然にゆだねて生きる」と簡潔な説明がある。弟子の小宮豊隆は「漱石先生は晩年に至って則天去私という悟りの境地に達しておられた」と書いている。東洋的な調和の境地はすでに初期の作品にもみれるが、漱石自身が晩年に至るまで「則天去私」という言葉を一度も書き残していないことから、ついに最後まで悟りの境地に達することができなかったのではないだろうか。つまり則天去私とは漱石の晩年の思想というより、悲願、こうありたい、という切実な求道であった。

 漱石揮毫の「則天去私」の四文字は最晩年に仙紙半紙より短い紙に、行書体で書かれたもの。日本文章学院編「文章日記」(大正5年)に初めて掲載されている。(参考:石崎等「漱石と則天去私」 跡見学園短期大学紀要 1978-03)

 

 

2023年12月 8日 (金)

太平洋戦争開戦記念日

十二月八日よ母が寒がりぬ(榎本好宏)

  昭和16年12月8日。この日から何年経っても、日本人には決して忘れられない日である。この日を境に人々は戦争に巻き込まれ、多くの人々の運命が暗転した。陸軍がマレー半島に上陸してイギリス軍を攻撃し、同時に海軍がハワイの真珠湾を攻撃した。米大統領ルーズベルトはこれを激しく非難して、アメリカ国民を結束させた。昭和17年6月、ミッドウェー海戦において日本は主要航空母艦3隻の沈没をはじめ致命的な敗北を喫した。8月には米軍はガダルカナル島上陸し反攻体制をととのえ始めた。昭和19年7月、日本軍がサイパン島で全滅、8月グアム島・テニアン島も占領された。米軍の進攻はさらに進み、昭和20年3月には小笠原諸島南端の硫黄島が、6月には沖縄本島が攻略され、日本の敗戦は濃厚となった。しかし、軍部は「一億玉砕」を叫び、本土決戦を強く主張した。昭和20年7月28日、無条件降伏を勧告したポツダム宣言が発表されたが、日本はこれを「黙殺する」との談話を発表した。米軍は8月6日広島、9日長崎に原子爆弾を投下した。昭和天皇は14日の御前会議でポツダム宣言の受諾を決定し、翌15日、降伏をラジオで放送し、ここに太平洋戦争は終結した。

  昭和39年に集英社から刊行された「昭和戦争文学全集」の第4巻には昭和16年12月8日の対米英戦争開始から昭和17年5月のコレヒドール攻略、珊瑚海海戦頃までの、緒戦の時期に関する記録・作品が収められている。なかでも12月8日の記録としては、太宰治、坂口安吾、伊藤整、高村光太郎、徳田秋声など諸家のものがあるが、上林暁の「歴史の日」(「新潮」昭和17年2月号)という手記が一番素直な気持ちで当時の空気を今日のわれわれに伝えているような気がする。

昭和16年12月8日は、遂に歴史の日になってしまった。(中略)隣のラジオが突然臨時ニュースの放送をはじめたのであった。「大本営陸海軍部発表、12月8日午前6時、帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れリ」(中略)その時、妹が庭で干し物をしていて、隣の女中が、垣根越しに、話しかけている。何を話しているのかと思って耳を立てると、「今朝はとってもひどい霜ね」と隣の女中が言った。「屋根が雪みたようでしたね」と妹が答えた。戦争のはじまった朝だから、霜の印象が深いのにちがいない。そうかと思って、私は目をあげた。隣の屋根が水びたしになって濡れている。うちの樋からは湯気が立っている。私はそれを見ながら、戦争のはじまった朝に、隣の女中が、霜の話をしたのが、印象に深く残るであろうと思った。

    当時、上林暁(1902-1980)は39歳。妻の繁子が昭和14年から入院中であった。上林は9年間患い死んでいった妻のことを書いた一連の作品「聖ヨハネ病院にて」(1946)などで知られる作家である。この「歴史の日」でも病妻のことに触れている。自分の心境を書く小説家と、未曾有の国家的事件発生でとまどう不安な心理状況が文面からうかがえる。

2023年12月 7日 (木)

クリスマスツリーの日

Tumblr_mfhf4o9lle1qbn3ato1_500  本日は「クリスマスツリーの日」。明治19年、横浜で外国人船員のために、日本初のクリスマスツリーが飾られたことによる。日本人が初めてクリスマスを祝ったのは、明治7年、米国長老教会の宣教師の指導の下、原胤昭(1853-1942)が東京・築地湊の第一長老教会で催したクリスマス祝会で、戸田忠厚という者が裃をつけ、大小脇差を携えて、大森カツラをかぶったお殿様姿でサンタクロースとして登場した。同年中、この教会で受洗し後牧師となる田村直臣も、この祝会に参加したが、「さんたくろすがとんなものか見たことはなく、クリスマスとどう関係があるかも知らず、ただのその名前が大変奇妙に聞えた」と述懐している。明治31年、進藤信義が日曜学校の子供向け教材として作成した冊子「さんたくろう」(三太九郎)の扉絵は、ロバを従えクリスマスツリーを抱えて、ややドイツ風のサンタクロースであった。(12月7日)

2023年12月 6日 (水)

産業革命(歴史総合)

  18世紀中期のイギリスでは、毛織物工業を中心とする工場手工業が発達し、鉄鉱石と石炭が国内で豊富に産出した。また、海外に広い植民地をもっていたため、原料の供給地と製品の市場があり、豊かな資本をたくわえていて、産業革命がおこる基礎があった。やがてジョン・ケイの飛び杼を初めとして、ハーグリーブスのジェニー紡績機、アークライトの水力紡績機、クロンプトンのミュール紡績機などの木綿工業で織布・紡績の機械の発明・改良がなされた。またニューコメンやワットなどの蒸気機関の動力発明が相ついで、技術的な革新が起こり、18世紀後半には、工場制、機械制大工場の工業化への道を開いた。産業革命は世界を大きく変えることになり、資本主義社会への幕開けとなった。しかし。一方で労働者階級を生み出し、貧困層の増大、大都市環境を悪化させるという負の面もあったことを看過してはならない。

  産業革命以前のヨーロッパ社会は、伝染病とくにペストの侵入によって大きな影響を受けた。14世紀半ばの黒死病の流行は、ヨーロッパの4分の1の人口を減少させた。これは荘園制度の崩壊と農奴制度の没落を来し、イギリスでは急激な人口減少が農地の維持を困難にしたため、広大な牧野と羊の飼育が行なわれるようになったことは、産業革命を促す引き金にもなったといわれる。しかしペストの流行も、1665年のロンドン大流行を最後に局地的な小流行を残すだけになった。産業革命のあとは、コレラ、腸チフスのような急性伝染病の流行や結核による急激な死亡の増加といった現象を生むに至った。

    とくに結核菌は、空気感染する疾病のため風が吹かない閉鎖空間で感染する疾患である。このため人口が集中し室内で社会活動が行なわれる大都市環境を好んで結核感染が起こりうる。イギリスでは工業化の進展によって、19世紀初頭にはマンチェスター、リバプール、バーミンガム、リーズ、グラスゴー、エジンバラなどの工業都市が出現し、都市環境が大きく変化したことにより、結核は「白いペスト」と呼ばれて大流行した。1830年ころのロンドンでは5人に1人が結核で亡くなったといわれる。当時の労働者は賃金が低く抑えられていたうえに、1日の労働時間が、14~15時間が普通であった。また急激な都市への人口集中によってスラムが形成され、人びとは生活排水をテムズ川などの河川に投棄し、その川の水を濾過して飲料水とするなど、生活環境も劣悪であった。過労と栄養不足が重なり、抵抗力が弱まったことから結核菌が増殖し、非衛生な都市環境がそれに拍車をかけたものと考える。

    産業革命後のイギリスの経済的発展のかげに、労働者階級の急激な結核死亡の増加は重要な社会問題となったが、この頃、今日の公衆衛生学的な考えの父ともいうべきエドウィン・チャドウィック(1800-1890)が現われた。彼は「最大多数の最大幸福」という哲学原理で当時有名であったベンサムの弟子で弁護士であった。1832年に救貧法制定委員会が設立され、チャドウィックはやがてその委員長になった。イギリスでは19世紀後半から、生活水準の向上に伴って結核の死亡は漸次低下の傾向を示していった。

  最近、ソサエティー5.0という言葉がよく使われている。狩猟社会が1.0、農耕社会が2.0、産業革命以降の工業社会が3.0、現代の情報社会が4.0。未来社会が5.0である。(世界史)参考図書:アーノルド・トインビー「英国産業革新論」 大日本文明協会 1908

 

 

 

 

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