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2023年12月31日 (日)

年越しそばの由来

    大晦日の夜を年越しともいい、除夜ともいう。現代日本に住むわれわれは「NHK紅白歌合戦」を見て、「ゆく年くる年」で除夜の鐘を聞くことを年越しと思うかもしれないが、これは比較的に新しい習慣であって、日本では大昔から、一日というのは日が暮れてから、次の日が暮れるまでであった。一日の境は真夜中の12時ではなく、日暮であった。だから大晦日の夜に、年棚に灯をつけ、神饌を供えて、家内そろってつく膳は、年を迎える祝いの膳であった。この夜にきまった食べものを摂ることになっていたのは、そのためである。土地によっては、新年最初の食事として、大晦日の夜に晴れの膳を家族にすえる所もあるが、これは年越しの古風である。

    年越しそば、みそかそばを食べる風習は、だいたい江戸時代に定着したものであるが、必ずしも全国的なものではない。地方によって食べ物は異なり、ある地方では田楽を食べる風習があった。豆腐と蒟蒻を焼いて味噌をつけたものである。

    年越しそばの由来については、①そばのように長く幸福にという縁起説、②金箔師が仕事場に散らばった金銀の粉を集めるのにそば粉をこねた塊をもちいたことから、金銀をかき集めるという説、③大晦日の深夜まで借金の取立てのため、夜明けまで集金して歩く町場の掛取りの慰労のため、など諸説ある。

 

 

70年代髪型の流行

   1960年代におこったビートルズ旋風は男性の髪型に長髪ブームをひきおこした。女子は以前から美少女=長い髪というアイコンが存在しており、1970年代における若者のアイドル女子の多くは長い髪であった。

 

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  日本では1980年代半ばに流行ったお嬢様ブームのとき、ロングが流行したが、2000年代になると肩のあたりで切りそろえた髪型のボブ女子が増えている。長澤まさみ、広瀬すず、浜辺美波など。皆さんは、ボブとロングどっちが好きですか?(画像:左上からパメラ・スー・マーティン、ドミニク・サンダ、ペギー・リプトン、シビル・シェパード、スーザン・デイ、アニセー・アルビナ)。

 

 

「なまはげ」祭りと歴史

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   秋田県男鹿半島本山の村々では「なまはげ」という奇習が古くから伝わる。かつては陰暦1月15日の行事だったが、戦時中に一時中止され、現在は大晦日または新暦1月15日に行われるようになった。

   この日は、恐ろしい鬼の面をかぶり、ケラ蓑、わらぐつ、腰みのをつけ、大きな木製の刃物を持ち、箱の中に小さな物を入れてからから鳴らして、二三人一組となった若者が、「ウォーウォー」と奇声をあげながら「くなもみコ剥げたかよ」「包丁コとげたかよ」「小豆コ煮えたか煮えたかよ」などと唱えながら家々を訪れ、「泣ぐ子はいねが」と小児を戒筋し、神棚に礼拝し、祝言をのべる。それを正装した主人が酒肴や餅などで迎える。鬼は酒だけ飲んで餅は従者に持たせ、次の家へ行く。仕事もせずに、火にあたってばかりいる怠け者には、ナモミ(火斑)がつくといわれ、これを引きはぐ「ナモミハギ」が「なまはげ」に転化したものといわれる。そのほか、「生身剥」の転化説もある。

   以上が「なまはげ」の語源であるが、習俗の由来については諸説あり、①漢の武帝が五匹の鬼をしたがえて男鹿に上陸し、年中鬼を酷使したので、その報酬として、正月15日、一日だけ村里に出て、自分のほしいものを勝手に探し求めてよいとの許しを与えたという説、②天狗伝説などにも見られる異邦人説、③男鹿の真山本山で修業する修験者がモデルになっているという説、④蓑笠をつけ、顔をかくして旅をするものを存在したことは「日本書紀」の神武紀のシイネツヒコとオトウカシの伝承とする説、などがある。

 ナマハゲの同様の習俗はナゴミタクリ、ナモミハギ,ヒガタタクリ、シカタハギ、スネカ、アマミハギ、オドシなどの名でよばれ、東北に広く、また北陸地方へかけて分布している。九州では「かせどり」という。(12月31日)

除夜の鐘

大晦日定めなき世の定めかな(西鶴)

 

ともかくもあなたまかせの年の暮れ(一茶)

 

高窓に星吹き寄せぬ除夜の鐘(花野女)

 

 大晦日を「除日(じょじつ)」ともいう。旧年を除く日ということである。除日の夜が除夜だ。除夜の鐘を108つくのは、中国の仏教儀式で、宋時代から始まったという。ただつけばよいというわけではなく、交互に、強く54点、弱く54点、そして107点までは旧年に、最後の一点を新年につく。一年の無事息災と豊作を祈念する意味がある。

   108の数は、1年12ヵ月と、立春などの24節気、それを三分した72候、の合計だというが、後に108の煩悩を一つずつ消すためといわれるようになった。108の煩悩とは、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)と六塵(色、声、香、味、触、法)におのおの好、悪、平があるので、計36程の煩悩が生じ、それが過去、現在、未来あるので108となる。

    古くは1日が夜からはじまって朝につづくと考えられていたので、祭は多く前夜から行われた。年越しの祭も前夜からはじまるとし、大晦日の夜を「おおとし」「としのよ」といい、年神(歳神)を迎るために厳重な物忌をし、夜通し起き明かすのが古風な作法であった。今でも除夜の鐘を聞くまで床に入らなかったり、早く寝ると白髪になるとか、しわがよるとかいい、また寝るというのを忌んで、「寝る」ことを「稲を積む」という地方もある。また年ごもりといって、この夜は神社に参籠(さんろう)して夜を明かすところがあったが、現代では一般にそれを簡略して夜中に参るか元旦未明に参るようになった。また「歳籠り」といって氏神の社にこもって夜を明かす風習もあり、京都祇園社の「おけら祭」などのように、古い社では除夜に、新しく火を鑽り出し、氏子に配る行事がある。農家などでは、大歳の晩から元旦にかけて、いろりの火を絶やさぬようにするところも多い。この際、火種にする薪を「ようぎほだ」「せちほだ」などと呼び重要視した。そのほかいろりや氏神の境内で大火をたくところもあり、兵庫県では「年越しとんど」といって、古い注連縄などの神飾りの不用なものを焼くところもあった。

2023年12月30日 (土)

迎春準備をお忘れなく

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  本日は買物の一日である。年末になると売っているお惣菜が高くなる。じゃがいもやタマネギのバラ売りがなくなる。正月商品は、普段100円だった蒲鉾が正月用の蒲鉾だと1000円以上する。高級品であるのはわかるが、100円商品が棚から消えるのは困る。うどんやお雑煮に入れる蒲鉾なら「寿」の文字や三色のものはいらない。値上がりする前に買っておけばよかった。ソフトブレーン・フィールドが調査したところ、好きな「おでん」の具はダントツで大根が1位だった。以下、たまご、こんにゃく、ちくわ、餅入り巾着、はんぺん、牛すじ串、厚揚げ、じゃがいも、しらたき、がんもどき、さつま揚げ、つみれ、ちくわぶ、ウィンナー、ごぼう巻き、こんぶ、糸こん、ロールキャベツ、お豆腐、さといも、おでん餃子。年末の買い忘れないようにチェックしておこう。

年越しそば、そばつゆ、海老天、にしん、お寿司、ローストビーフ、オードブル、雑煮の具、数の子、ごまめ、栗の甘露煮、ロースハム、さといも、たけのこ、伊達巻き、黒豆、田作り、煮しめ、棒鱈、千枚漬け、海老、カニ、キヌサヤ、たけのこ水煮、金時人参、百合根、ぐわい、銀杏、焼豚、昆布巻き、生珍味、餅、鏡餅、串柿、甘栗、みかん、とり肉、いくら、海老天、魚、イカ、うに、湯たこ、イクラ、ほうれん草、小松菜、三つ葉、トマト、レタス。ポテトチップス、チョコレート、ジュース、コーラ、アイスクリーム、牛乳、チーズ、ブロッコリー、サラダ、食パン、玉子、菓子、祝箸、しめ飾り、ごみ袋、乾電池。万一、地震発生のための非常時用に水など飲料水を備蓄しておこう!! ああややこし、ややこし。

 

 

 

 

 

 

勘太郎を殺した板割浅太郎

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   松竹キネマは新国劇「国定忠治」を題材に初のトーキー映画「浅太郎赤城の唄」を昭和9年に公開するや、映画主題歌である東海林太郎の「赤城の子守唄」が、流行歌の時代の到来を告げる大ヒットとなった。ただし新国劇では忠治の子分は定八や巌鉄だったが、脇役の板割浅太郎が、この映画では主役に昇格している。また、浅太郎に殺されたはずの勘太郎も生きて登場するし、浅太郎が勘太郎を背負って「赤城の子守唄」を歌って聞かせる場面がある。当時の人にとっては、かなり斬新な解釈の映画であり流行歌(作詞は佐藤惣之助という新感覚派の詩人)だったにちがいない。

   そもそも勘太郎の父というのは、博徒で目明しを兼ねた二足のわらじの男で中島勘助といい、浅太郎の叔父にあたる。浅太郎は勘助と内通していたと忠治に疑われ、その証のために勘助と勘太郎親子を斬るはめになる。伊勢崎市には勘助・勘太郎の墓がある。

   講釈師がいたいけな子供が犠牲になった事実をまげて語ったところ、大いに聴衆に受けたことが発端となり、その後「赤城の子守唄」の大ヒットで、浅太郎が勘太郎を背負って赤城山に登ることが定着する。東海林太郎の浅太郎、高峰秀子の勘太郎という芝居まで上演され大評判となった。

   浅太郎はその後、『赤城録』に「浅梟首」とあり、捕らえられて晒し首にされたとなっているが、浅太郎は逃亡の後、仏門に入り二人の菩提を弔いながらその生涯を終えたという説も有力である。神奈川県藤沢市の真徳寺に浅太郎の墓がある(画像)。明治26年12月30日没。享年74歳。(参考:川井正「勘太郎の頭蓋骨」歴史読本昭和59年1月号)

 

 

 

 

2023年12月29日 (金)

ジンジャ―・エール

  1月16日は禁酒の日。1920年、アメリカで禁酒法が実施された。20世紀初頭までに18の州で禁酒法が実施された。これが全国に及んだもの。下戸のわたしはショウガなどの香りと味をつけ、カラメルで着色したノンアルコールの炭酸飲料ジンジャーエールをたまに飲むことがある。1890年、カナダ人ジョン・マックローリンがトロントで製造したのが始まり。ジンジャー・エールはアメリカ禁酒法時代に人気飲料となった。なぜアメリカ人はアルコール依存症が多いほど酒好きなのに、一方で禁酒が根強く叫ばれるのか。根本にはキリスト教の思想があるからだろう。その点で東洋世界、とくに中国・朝鮮・日本はおおっぴらなお酒天国である。かつてお酒は「百薬の長」とも言われ、大酒飲みが豪快で男らしいとする風潮があった。モンゴルのことわざには「飲めば死ぬ、飲まなくても死ぬ」がある。コロナ禍明けごろからテレビでも「おつかれ生です」とビールをさかんに宣伝している。仕事の接待や付きあいでも居酒屋での飲酒が求められ、下戸にとっては飲めないことがつらい思いをする時期である。しかし医師などに相談するとビール1缶でも健康に悪影響があるという。WHOは「いかなる量のアルコール摂取であっても、健康にとって安全ではない」として発がん性物質が指摘されている。資本主義の経済活動を優先したものであるが、年末年始のアルコール飲酒の機会が多いと思うが、控えめにした方がいい。 ginger ale、John McLaughlin

 

 

 

 

 

 

名古屋はブスが多い!?

  女性の容姿を罵るときに使われる言葉の一つに、「ブス」がある。女性という言葉には「スケ」という隠語があるが、このスケを否定する意味の「ブスケ」という言葉を略したものだという。しかし近年は、女性を容姿で差別化するになるので、使用すると非難され、あまり耳にすることが少なくなっている。だがタレントや女芸人の中には、誰もが認める「絶世のブス」をキャラにして売れっ子になる逞しい女性もいる。富田望生(福島県出身)、ゆりやんレトリィバア(奈良県出身)、ガンバレル―ヤよしこ(愛知県出身)などなど。

   仙台、水戸と並んで、日本三大ブスの産地といわれているのが名古屋である。昔からいわれている話だがその理由については分からない。徳川御三家だった水戸藩、尾張藩では、将軍のために地元の美人をみんな江戸に連れて行ったからともいわれる。最近はバラエティ番組で大久保佳代子や光浦靖子がネタにしているので名古屋ブス説が拡散している。本当に名古屋はブスが多いかは分からないが、都市部のわりには経済圏が固定しているので、名古屋で生れて名古屋で結婚して一生を終える女性の割合は高いだろう。特異な名古屋弁がなくならないのもそのためだろうか。

古代エジプトの神々

 古代エジプト人の神に対する考えはきわめて種々雑多である。あらゆる自然物に神性をみるもので、光の神ハトホルはイチジクの木に住んでいるものとか、神々は牛や鷹やあらゆる鳥獣を住みかとしてそこにあらわれると考え、動物を神の化身と考えた。太陽はラーの神とされ、昼間は従者とともに舟に乗りかえて女神の体内を通り、朝ふたたび新しい太陽となって生まれると考えた。オシリスとその妻イシス、真実と正義の神マート。

最も数が多くしかも重要なのは地方神である。これはいうまでもなく全国の大小の町や村に発達した神々で、その運命はその町や政治的盛衰と結びついていた。エジプトの宗教に特有なものは神聖動物で、壁画やパピルスにしばしば描かれているものである。ライオンの頭をした女神セクメト、マントヒヒのトート、猫の女神バステット、河馬の女神トエリス。ある学者の調査によると実に二千種を数えたと報告している。

 

 

 

 

ケペル先生の何でも相談室2

「地下鉄の電車はどこから入れたの?」「銭湯の桶はなぜケロリン桶なのか?」「鉛筆は六角形なのに色鉛筆が丸軸なのはなぜ?」「海の中で昆布のダシが出ないのはなぜ?」それらを考えてると一晩中寝られない。世の中にはあらゆるギモンに満ち満ちている。日々の暮らしで生じたあらゆる疑問にケペル先生がお答えします。たとえば、壊れやすい物を梱包するクッション材「プチプチ」の正式名称は何でしょう。答えは「気泡緩衝材」または「エアクッション」です。

Q.数字に3桁ごとにコンマで区切るのはなぜ?

A.明治6年、福沢諭吉がアメリカの商業簿記の書物「帳合之法」を翻訳したとき、数字に3桁ごとにコンマで区切ることを紹介している。それが広く普及したためといわれている。

 

Q.忠臣蔵を題材とした流行歌は数多くありますが、四十七士の一人、矢頭右衛門七をテーマにした歌謡曲が知りたい。

A.舟木一夫の「右衛門七討ち入り」西沢爽作詩、遠藤実作曲。昭和39年11月発売。

 

Q 吉幾三の「人生(みち)」の三番目の歌詞にある「労而不怨(ろうじふえん)」の意味は?

 

A 四字熟語で「どんなに苦労をしても不満を持たないこと」。出典は「論語」で、里仁第四に「子曰く、父母につかうるには幾諫す、志の従わざるを見ては、又敬して違わず、労して怨みず」とある。孔子は子の親に対する心得の一つを説いている。解釈は学者により多少異なる。魚返義雄は「つらくてもうらまない」、下村湖人は「苦しいこともあるだろうが、決して親を恨んではならない」、木村英一は「どんなに苦労をしても遺憾がないようにせよ」とある。一般に「労」を「労苦」「親のために骨を折ること」と解されるが、金谷治は清の王引之の説により、「労」を「憂」の意味に読み、「心配はするけれど怨みには思わない」としている。

 

Q 「かっぱ読み」とは何?

 

A 一般に漢字の熟語は音読みどうし、訓読みどうしを組み合わせて読む。その例外として、「合羽」(かっぱ)のように、上の字は音で下の字は訓でよむことを「かっぱ読み」(または重箱読み)と言い、その反対を湯桶読みと言う。

 

Q 目の見えない人のため犬が歩行の補助をする盲導犬はいつ頃できたのか?

 

A 盲人の歩行の補助に犬が使われた例は古代ローマやポンペイの発掘品の中に見られるが、近代になって盲導犬として訓練されるようになったのは、1819年、ウィーンの神父ヨハン・ヴィルヘルム・クライン(1765-1848)が最初である。

 

Q 日本プロ野球で最初の退場者は誰か?

 

A 「日本プロ野球事件史」(ベースボール・マガジン社)巻末の退場者一覧によると、1936年12月20日、東京セネタースの苅田久徳(1911-2001)選手が二出川延明塁審を突き飛ばしたことにより退場とある。

 

Q 三一書房から昭和32年に刊行された「淀川」の著者である井上俊夫の没年が知りたい。

 

A 図書館での参考業務でよくたずねられる調べものの1つが著述家の没年である。今日のようなコンピュータの発達していない時代、文化人名録(著作権台帳)がたよりの参考書であった。赤色をした大部な本で、1951年から刊行され第26版(2001年)まで刊行されたが、現在は終了している。もともと著作権の保護期間を調べる目的で作られた本であるが、図書館では没年だけでなく、著者の略歴や名前の読み方を調査するために用いられていた。ところで、著者の没年を調べるには、現在は国立国会図書館のOPやウィキペディアが便利である。井上俊夫は1928年大阪生まれの詩人で、2008年に死去している。

 

Q フィンランドの初代首相 Pehr Evind Svinfuvud の読み方は?

 

A ペール・スヴィンヒュー(1861-1944)あるいはスヴィンフッヴド。

 

Q 英語「mebos(ミーボス)」の意味は?

 

A オックスフォード英語辞典によると、日本語umeboshi(梅干し)が訛って18世紀ころ英語となったらしい。

 

Q 「眠りが窪の伝説」という翻訳作品の作者と原題は?

 

A アメリカの文学者ワシントン・アーヴィング著「スケッチ・ブック」(1819-1820)の中にある短編「Sleepy Hollow」。1923年刊行の森巻吉「全訳スケッチブック」の下巻に「眠りが窪の伝説」が収録されている。

 

Q.最初にウェディングドレスを着て結婚式を行なった日本人女性はだれ?

 

A.明治6年に長崎で中国人と結婚した磯部於平(いそべおつね)といわれる。その2年後に森有礼も広瀬常と西洋式の結婚式を挙げている。

 

Q.昭和18年南方の海軍基地を視察中、ソロモン諸島上空で戦死した山本五十六。その時の護衛機は零戦6機であるが、うち5名はまもなく戦死している。唯一の生存者である零戦パイロットの名前が知りたい。

 

A.柳谷謙治(1919‐2008)。1988年4月、アメリカで開かれたシンポジウムに出席し、P38パイロットのレックス・バーバー米空軍退役大佐と面会している。(参考:高城肇「六機の護衛戦闘機」)

 

Q.大正の後期から昭和の初期に活躍した出版人、梅原北明が発行した「近世社会大驚異史」(白鳳社)のページ数は?

 

A.1864ページ。国立国会図書館サーチで調べても1冊とあるだけで、ページ数は明らかにされない。ネットには1800ページ以上という記載もあるが、鹿野政直「日本の歴史27」によれば1864ページと明記されている。内容は慶応4年から大正元年までの新聞記事から抜粋の性風俗を中心とした資料集。

 

Q.内山完造著「そんへえおおへえ」という本がある。その書名の意味は?

 

A.内山完造は戦前に上海で書店を開業していた。もともと「上海」という地名と並び「下海」地区も存在していた。上海及び下海の名称は、上海市内を流れる呉淞江の支流であった上海浦及び下海浦に由来する。「そんへえ(上海)」「おおへえ(下海)」はそれぞれ現地語の発音を表記したものである。

 

Q.明代、嘉靖年間から万暦年間の人で『陰隲録』の著者として知られる袁凡了(えんぼんりょう)は一般に生没年不詳とされるが、あえて知りたい。

 

A.一説には生年は1533年、没年は1606年。

 

Q.江戸時代、特に大名屋敷をねらって荒らしまわった大盗賊、鼠小僧次郎吉のお墓は?

 

A.両国の回向院(墨田区両国2丁目)にある。

 

Q.香港の女優、任剣輝の生没年。

 

A.京劇の広東版にあたる奥劇の人気女優任剣輝(じんけんき、ヤム・キムファイ)。1913-1989。

 

Q.蠶養國神社の読み方。

 

A.福島県会津若松市蚕養町にある神社で、「こかいくにじんじゃ(蠶養國神社)」と読む。「蠶」は「かいこ」の意味。

 

Q.「泣きぼくろ」という題の歌が知りたい。

 

A.現在までに和田弘とマヒナスターズ、天童よしみ、若原りょう、松原のぶえの四歌手によって「泣きぼくろ」という同名異曲の歌が確認される。

 

Q.赤穂義挙の後、四十六士は、それぞれお預けの四大名で切腹して果てた。大石内蔵助たち17人は熊本藩細川家の下屋敷において切腹した。このとき大石内蔵助の介錯を勤めた武士の名前を知りたい。

 

A.馬場一平。

 

Q.1886年、イギリスの貨物船ノルマントン号が紀州沖で座礁沈没した事件の船長の名前とその後の消息は?

 

A.事件の審理は領事裁判権によって、イギリス領事が行い、イギリス人の全員無罪が決定、日本国民を憤慨させた。再審で船長ジョン・ウィリアム・ドレークだけ禁固3ヵ月の軽い刑が科せられた。船長のその後の消息は目下調査中。

 

Q.趙樹里の農村小説「李有才板語」のタイトルの読みは?

 

A.「リユウサイウタモノガタリ」李有才のお話という意味。

 

Q.アメリカ民謡「峠の我が家」の作詞家、作曲家は?

 

A.作詞はブリュスター・M・ヒグリー(1823-1911)。作曲はダニエル・E・ケリー(1843-1905)。

 

Q.昭和期に活躍した文芸評論家、亀井勝一郎の著作「三人の先覚者 民族の独立」(要書房 昭和25年刊)の3人とは誰?

 

A.栗本鋤雲、岡倉天心、内村鑑三。

 

Q.「悪太郎の一生」の作者は?

 

A.イギリスのジョン・バニヤンの「The Life and Death of Mr.Badman」(1680年)のことか。高村新一の翻訳で「悪太郎の一生」(新教出版社)が1955年に刊行されている。

 

Q.何語かわからないが「コンノルモク」とは何か?

 

A.韓国語で「踏切」の意味。

 

Q.ベアト本とは何か?

 

A.中世ヨーロッパ、聖書の黙示録に挿絵を描いた写本の総称。現在ジローナ大聖堂など数カ所で保管されている。 ベアト(Beato)とはスペイン北部、アストゥリアス地方のリエバナ修道院ベアトゥス(Beatus)にちなむ。ベアトゥスは786年ころに「黙示録注釈書」を著したが、同書はモサラべ典礼の中で重要な位置を占め、10世紀以降の挿画には、竜や悪魔、火災等に苦しむ人間を色鮮やかに表現して、天の軍勢や天上のエルサレムと強い対照をなし、ロマネスク美術の形成に大きな影響を与えた。

 

Q.『南門鼠』という作品が読みたい。

 

A.「南門鼠(みなとねずみ)」は享和2(1802)年に刊行された塩屋艶二の品川・遊里の噂話を題材にした洒落本。活字化された本としては、「洒落本大成第18巻」(中央公論社、1983年)に所収。

 

Q 江戸八百八町といわれているが、実町数を知りたい。

 

A.幕末には1700以上もの町があった。(参考:「江戸ものしり用語事典」14p)

 

Q.ハリウッドの西部劇映画で乗馬などの危険なシーンを専門に演じたスタントマンとして長年、活躍したジャック・N・ヤングについて知りたい。

 

A.映画人の俳優や監督・カメラマンなどは事典で調査できるが、スタントマンは所載されないことが一般的である。英語版ウィキペディアに拠る。ジャック・N・ヤング(1926-2018)は誕生名はJack Norwood Young。アメリカ合衆国ヴァージニア州フィンキャッスルに生れる。乗馬のエキスパートとして、「ウィンチェスター銃73」、「OK牧場の決闘」、「リオ・ブラボー」などに出演。「アラモ」の撮影中に瀕死の重傷を負うも復活した。他に「西部開拓史」、「真昼の決闘」、「荒野のガンマン」など。後年は、キャスティング・マネージャーとしても活動した。

 

Q.中国とロシアのハンカ湖付近の国境の町トゥリー・ログについて知りたい。

A.トゥリー・ログ(Turiy-Rog)はロシア連邦沿海地方ハンカ地区にある町(村落)。「トゥリロゴ」と表記されることがある。2010年国勢調査による人口は472人。清朝時代の名称は快当別であった。

 

 

Q.「アンコール踏査行」(東洋文庫)の著者ドラポルトの略歴。

 

A.ルイ・ドラポルト(1842-1925)。フランスの海軍少尉でシャム駐在中の1866年カンボジアのアンコール遺跡に出会い、遺物を多くフランスに持ち帰る。1878年のパリ万博でクメール美術品が初展示される。

 

Q.歌詞に「外国で飛行機が墜ちました。ニュースキャスターは嬉しそうに乗客に日本人はいませんでした」とある曲名は?

 

A.THE YELLOW MONKEYの「JAM」(1996年)

 

Q.ヨーロッパで最も最初にできた漢籍目録は?

 

A.東洋史学者・坂出祥伸によると、19世紀のフランスで活躍したユリウス・ハインリヒ・クラプロートが1822年につくった目録とある。(『初学者のための中国古典文献入門』ちくま学芸文庫 214p)

 

Q.「365日をどう生きるか」(ダイヤモンド社)の著者である伝説的名医といわれる精神衛生学のシンドラー博士のフルネームと生没年は?

 

A.ジョン・A・シンドラー(John Albert Schindler)1903-1957。

 

Q.「♪勝ってくるぞと勇ましく誓って故郷を出たからは」戦時中、最も流行した軍歌「露営の歌」の作詞者、薮内喜一郎の生没年は?

 

A.薮内喜一郎は奈良県出身、京都市役所勤務。1905-1986。

 

Q.「長崎親切」という言葉があるが、どのようなことから生まれた語か?

A.長崎の人は親切である、と一般にいわれるが「長崎親切」という言葉の由来や語源に関しては文献が見つからなかった。歌手のさだまさしがコンサートで「長崎の人は親切」とふれている。

 

Q.「敖漢旗」の読み?

A.敖漢旗は「ごうかんき」、現地の発音では「アオハンチー」。敖漢という一部族名。中華人民共和国内モンゴル自治区赤嶺市を位置とする旗。

Q.16世紀後半から17世紀にかけてアフリカにあった「アクワㇺ王国」について。

A.15世紀、ポルトガル人がアフリカに奴隷貿易の城砦を建設。1642年アクワム要塞をポルトガルから奪取した。山口昌男の「黒い大陸の栄光と悲惨 世界の歴史6」に詳しい。174~176頁。現在のガーナに位置していた。

 

Q.1895年ごろの日清戦争の戦後交渉において、ロシア・ドイツ・フランスが日本に三国干渉する。当時、ロシアはニコライ2世、ドイツはヴィルヘルム2世。ではフランスの元首は?

A.第3共和政第7代大統領フェリックス・フォール。

 

Q.掃径迎良友の読みは?

A.みちをはきてりょうゆうをむかえる。茶道表千家十三代家元・即中斎の言葉。

 

Q.ゲンチオピクリンを成分として含んでいる植物の名前が知りたい。

A.リンドウ科の植物には含まれる。

 

Q.「石蕗の季節」という本は、いつ、どこの出版社から刊行されたか知りたい。

A.国立国会図書館サーチで書名検索で調べる。俳句の本で梅田桑弧句集「石蕗の季節」胴の会、1969年刊行であることがわかる。なお石蕗は「つわぶき」と読む。

 

Q.興文社取締役の石川寅吉の生没年が知りたい?

A.円本ブームの全盛期、「小学生全集」を刊行して出版史にその名を残した石川寅吉。「出版人物事典」(出版ニュース社)など調べても、生年は1894年東京生れ、とあるが没年は太平洋戦争中に故人となり不詳である。

 

Q.2021年の全国の交通事故死者数は?

A.警察庁が発表した統計によると、2021年の全国の交通事故死者数は2636人で、1948年の統計開始以来、過去最少を更新した。参考;令和4年警察白書

 

Q.中村真一郎の言葉に「人生では無理はいつかほころびてしまうものだ」とあるが、出典は何か?

 

A.中村真一郎の昭和29年発表の小説「夜半楽」の中にでてくる。

 

Q.銀行原理とは何か?

 

A.「経済辞典」(有斐閣)の「銀行原理」の項には、「銀行は私企業ではあるが、公衆の資金を取り扱っていることから公共的な性格をもっており、銀行の投資行動には収益性・流動性と確実性が要求されるということ」(147p)と解説がある。

 

Q.日本で最初のロシア文学の翻訳「露国奇聞 花心蝶思録」(プーシキン「大尉の娘」)。高須治助訳。「英米児童文学年表翻訳年表」研究社では発行所不詳とあるが知りたい。

A.発行所は東京の法木書屋で明治16年に刊行。

 

Q.喫茶去の読み方?

A.きっさこ。禅語で、「お茶でも飲んで去れ」という意味の言葉。元々は相手を叱咤する語であったが、後には「お茶でも召し上がれ」の意として、日常即仏法の境地をなす語と解された。

 

Q.日本で最北端にある小学校は?

A.稚内市立大岬小学校。宗谷岬の約1.7㎞南東、北緯45度30分50秒に位置する。明治27年に開校し、今年6月1日をもって130年目を迎える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年12月28日 (木)

ウェストミンスター大聖堂

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身廊の高さが34mもあり、イギリス国内の聖堂では最も高い

 ビッグベン、バッキンガム宮殿、トラファルガー広場など、世界的に有名なランドマークが集まるロンドン・ウェストミンスター地区。ウェストミンスター・アベィは、アベィ(Abbey)とあるように本来、7世紀にさかのぼる古い教会のあとに建てたベネディクト会の修道院で1065年12月28日竣工した。現在の姿の基礎をおいたのは、ヘンリー3世(1207-1272)の時代で、1245年にゴシック様式の聖堂として改築させた。1502~20年に造営されたヘンリー4世礼拝堂にはイギリス特有のバーベンディキュラー様式がみられる。ヘンリー8世(1491-1547)の宗教改革の際に、イングランド中の修道院が廃止され、この修道院は大聖堂となった。ゆえに現在の正式の名称はアベィではなくて、「ウェストミンスターの聖ペテロ教会」という。中世紀以後歴代の国王や皇后はここに葬られ、征服王ウィリアム以来戴冠式もここで行われるしきたりとなった。芸術家、政治家、科学者など代表的なイギリス人もここに葬られることを名誉としてきたが、とくに南の翼廊は「詩人の隅」と呼ばれて文学者の記念にあてられている。次の人たちが葬られている。

ジェフリー・チョーサー(1340年ごろ~1400年)中世イギリス最大の詩人で、近代英詩の創始者。

エドマンド・スペンサー(1552-1599)イギリス・ルネサンスを代表する偉大な詩人。代表作は「妖精の女王」(1609)。

ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)エリザベス朝のみならず、イギリスを代表する最大の劇作家であることは周知の通りである。彼はまた十四行詩の詩人としてもすぐれ、「ソネット集」(1609)は作者の深い人間理解を示す傑作である。

ベン・ジョンソン(1572-1637)シェイクスピアと並ぶエリザベス朝演劇を代表する劇作家であり、とくに喜劇において独自の境地を開く。彼の抒情詩はとくに古典的な典雅さにみちている。

ジョン・ミルトン(1608-1674)若い頃から宗教詩人として大成を志したが、清教徒革命に際してはクロムウェルの共和政府の秘書官となり、過労のため失明した。

エイブラハム・カウリー(1618-1667)詩人。牧歌劇「恋のなぞ」「保護者」内乱のためケンブリッジを追われ、一時パリへ亡命する。

ジョン・ドライデン(1631-1700)詩人。ケンブリッジ大学で学び、最初は清教徒の立場から詩作。その後、王党派に転じ、1668年、桂冠詩人となる。代表作「アブサロムとアキトフェル」。

サミュエル・ジョンソン(1709-1784)一般にドクター・ジョンソン(ジョンソン博士)と呼ばれる。英語における最初の学問的辞書といわれる英語辞典(A Dictionary  of the English Language 1755年)を刊行した。

アルフレッド・テニソン(1809-1892)ヴィクトリア朝詩壇を代表する詩人で、その繊細で美しい抒情性は特筆に値する。

チャールズ・ダーウィン(1809-1882)科学者で、進化論を確立した。代表作は「種の起源」(1859)。

ロバート・ブラウニング(1812-1889)テニソンとともにヴィクトリア朝詩壇を代表する詩人で、劇的独白(dramatic monologue)というテクニクを駆使して人間の魂の微妙な動きを描いた。

チャールズ・ディケンズ(1812-1870)サッカレーとともにヴィクトリア朝を代表する作家である。正規な学校教育は受けていない。ある新聞の通信記者となったたことが切っ掛けとなり、独自の才筆が生まれた。

トマス・ハーディ(1840-1928)若い頃建築家を志したが、のち詩や小説の創作に専心した。「ダーバヴィル家のテス」等の傑作によって小説家という名声を博したが、むしろ彼の抒情詩のほうに、彼の人間性そのもの、また人生観が鮮明に示されている。

ラドヤード・キップリング(1865-1936)兵士や水夫の生活を歌ったキップリングの詩作は、当時きわめて人気があり、「兵営の歌」はバイロンをしのぐといわれた。ノーベル賞受賞。代表作「ジャングル・ブック」。

ジョン・メイスフィールド(1878-1967)海洋にあこがれ船員となって、アメリカに渡って放浪したのち詩作を始め、「海水のバラード」Salt-Water Balladsなどすぐれた詩を書き桂冠詩人となった。

ウェストミンスター宮殿はヘンリ8世がロンドン市内のホワイトホールに王宮を移すまでの国王の主な住居で、1547年の寄進礼拝堂解散法により、国会議事堂として使用されるようになった。1834年の大火で大部分が焼失してしまったものの、1860年にゴシック・リバイバル様式で再建された。宮殿の北側にはロンドンのシンボルともいえる96mの時計台、愛称「ビッグ・ベン」がそびえている。

 

(Westminster Abbey,Big Ben)

ローマのカタコンベ

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 キリスト教は東方で確立したが、早い時期にローマに伝えられたのを別にすると、西方世界では3世紀まであまり受け入れられなかった。ローマ皇帝ネロは64年ローマ市の大火の原因がキリスト教徒であるとし確証のないまま多数のキリスト教徒を処刑した。ドミティアヌス帝は、ネロと同じようにキリスト教を迫害し、デキウス帝が250年に勅令を出して、迫害を行った。258年8月6日、ローマ皇帝ウァレリアヌスは第24代ローマ教皇シクストゥス2世がカタコンベで儀式中のところを捕らえて、その場で斬首したと伝えられる。ウァレリアヌスによる迫害のため、ヤヌアリウス、ウィンケンティウス、マグヌス、ステファヌス、ウェリキシムス、アガピトゥスら6人の助祭も共に殉教した。シクストゥス2世の墓は現在もサン・カッリストのカタコンベにある。 カタコンベとは帝政ローマ時代のキリスト教の地下墓所のことで、キリスト教が弾圧されていた時代に、信徒たちが地下に秘密の墓や礼拝所をつくったものである。ギリシア語のカタ・キュンバスに由来し、道路がそこを横断し、あるいは奥に通ずる自然の空洞わ意味したようである。ローマ周辺には大きいものでも40数カ所のカタコンベがあり、総延長はじつに560キロに達し、そのうち古い四つカタコンベ、カリスト、セバスチィアノ、ドミティラ、プリスキュラは、いずれも2~3世紀に由来する。

  サン・カッリストのカタコンベはローマの南のサン・セバスティアーノ門を起点とするアッピア旧街道に沿った場所にある。中に入ると墓所は地下4層からなり、全長10㎞以上の通路は迷路のように延びている。約10万人以上の人が葬られているが、最も注目すべき地下室墓は「教皇の地下室墓」である。3~4世紀、初期のローマ教皇12人の遺体がここに葬られている。最も古いのが第19代教皇ポンティアヌス(在位232-235)。20代アンテルス(235-236)、21代ファビアヌス(236-254)、23代ルキウス(253-254)、24代シクストゥス2世、25代ティオニュシウス(259-268)、26代フェリクス1世(269-274)、27代エウティキアヌス(275-283)、28代カイウス(283-296)、31代エウセビウス(311-314)、32代ミルティアデス(311-314)、そして第37代教皇ダマスス1世(366-384)である。キリスト教徒にとって最も聖なる教皇の墓が存在するこの地下室墓は、1854年デ・ロッシによって発見されたが、長い年月をかけて名前を確認することができたといわれる。(Catacombe di San Calisto,Pontian,SixtusⅡ,De Rossi、世界史)

八百屋お七に焼かれた芭蕉庵

    枯枝に烏のとまりたるや秋の暮

 

    延宝8年、深川に移る。これが芭蕉庵の始まりである。天和2年3月、「武蔵曲」においてはじめて芭蕉の号を用いた。この年12月28日、駒込の大円寺を火元とする大火(お七火事)があって、芭蕉庵も類焼した。芭蕉は辛うじて難を免れ、門人高山麋榯に招かれて甲斐国谷村の高山邸に身をよせ、ここに半年あまり寓居した。翌年5月江戸に帰ったが、其角によれば、この災難によって芭蕉は「猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発」したという。6月には郷里の実母の死去の悲報に接し、冬には素堂ら友人門弟の勧進によって新庵が落成し、ここに落着いた。このころから芭蕉の人生観、俳諧観が大きく変わったものと考えられる。

 

31  朝顔は 酒盛知らぬ盛りかな

 

32  蕣は 下手のかくさへ哀なり

 

33 朝茶のむ 僧静なり菊の花

 

34 朝露に汚れて涼し瓜の泥

 

35 朝な朝な 手習すすむきりぎりす

 

36 あさむつや 月見の旅の明けばなれ

 

37 あさよさを 誰まつ島ぞ片心

 

38 紫陽花や 帷子時の薄浅黄

 

39 明日は粽 難波の枯葉夢なれや

 

40 遊び来ぬ 鱁釣りかねて七里迄

2023年12月27日 (水)

朝型人間と夜型人間

  古今東西を問わず、言い慣わされている言葉がある。「早起きは三文の徳」。もともと宋の楼譄が詠んだ詩「早起三朝當一工」(3日続けて早く起きれば一人分の働きとなる)という句から来ている。三文は、江戸時代の通貨で現代に換算すれば100円くらいなるという。

   早寝、早起きに象徴される規則正しい生活習慣は、健康に欠かせない。肉体と精神の健康を保って仕事に励めば、お金もたまるし、賢くもなるのである。より古い形では「朝寝八石の損」という。それだけとりいれが減るというのを、お金に換算して「朝起三両」などともいう。

The early bird catches the warm.

早起きの鳥は虫を捕らえる(イギリスのことわざ)

  夜更かしをせずに、早く起きなさい、とよく親から叱られた。NHKシブ5時で精神科医の名越康文は生活のリズムを整えて、早寝早起きを主張する。年を取ると夜はなかなか眠れない。不眠症という病名があるほど眠れないと不安になる。そこで処方箋をもらって睡眠薬を飲んでいる。朝型生活が正常だろうか。教育学の斎藤孝はこの朝型至上主義に違和感をおぼえる。むしろ、静寂が知を育み想像力を醸成する。積極的に夜の時間を知的に過ごすことがいいと主張している。詳しくは著書「夜型人間のための知的生産術」(ポプラ新書)をご覧あれ。しかし脳医学の最新成果でも学習で得た知識ゃ情報は十分な睡眠に定着できるという研究成果がでている。他方、イギリスの研究によると、朝型夜型のタイプは本人の生活習慣や志向ではなく、脳内に先天的に決まっているという報告がある。

 

 

 

 

2023年12月25日 (月)

12月25日はキリストの誕生日ではない

Leasu  イエス・キリストは、紀元前6年ないし紀元前4年ごろベツレヘムで生まれた。クリスマスはイエスの生誕を祝って12月に世界中で盛大で厳かな聖夜のミサが行われるが、12月24日とする古記録や資料はない。そして紀元後30年4月7日(ユダヤ暦のニサン14日、複数説あり)、生地からさほど遠くないエルサレムのゴルゴダの丘で磔刑に処せられた。むかしのユダヤ人の暦では、一日のはじまりは日没、つまり晩からであった。そのためイヴとは前夜ではなく、その言葉の通り、クリスマス当日となっている。しかしベツレヘムの12月といえば、雨の多い寒い季節である。この時期に羊飼いがヒツジの群れと共に一晩中野原で過ごすことはない。イエスは秋の初め頃、おそらく9月に生まれたのであろう。では何故、12月25日を誕生日としたのか。当時ローマ帝国で最も広く信奉されていたのはミトラ教である。そしてミトラ教の最大の祭日が12月25日だったので、クリスマスの制定に影響を与えたと考えられる。4世紀前半、教皇ユリウス1世が「イエスの生誕日は12月25日」と定めた。その後、キリスト教の行事のなかで12月1日から25日までは「待降節」といい、12月25日から1月6日までは「降誕節」という。3月5日から4月20日までが「四旬節」、4月20日から6月9日までが「復活節」である。12月25日のクリスマスは日本でもお馴染みとなったが、「エピファニー」はほとんど知られていない。キリスト生誕のとき東方から来た3人の博士の前に初めてキリストが姿を現したことを記念する日であるクリスマスから12日目の1月6日に行われる。(the Epiphany)

 

 

 

 

2023年12月23日 (土)

キリスト降誕

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Where did Jesus born in Bethehem? Jesus was born in a stable in Bathehem.

 

イエスはベツレヘムのどこで生れましたか? イエスは馬小屋でお生れになりました。(12月24日)

お菓子が入ったクリスマスブーツの起源は?

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 へろへろとワンタンすするクリスマス(秋元不死男) 

 クリスチャンではないけれど、クリスマスが近づくこの季節になると気分がうきうきする。クリスマスのプレゼントを靴下に入れるのは、4世紀の聖ニコラスが貧しい家族に金貨を靴下に投げ込んだことに由来することは良く知られている。日本ではこの季節、銀のブーツにお菓子やおもちゃが入ったクリスマス・ブーツがスーパーの売り場などでよくみかける。日本独自のもので外国にはないらしい(韓国にはあるかもしれない)。おそらく戦後からだと思うがその起源についてははっきりしない。クリスマスプレゼントは1906年に救世軍が籠に果物や菓子・パン・玩具などを詰め込んだものを貧しい人にプレゼントしたという記事があるが、今日みられるような駄菓子を詰め込んだ市販用のクリスマス・ブーツが一般に普及したのは1960年頃といわれる。一説によると滋賀県の草津市の業者「近江物産」が1947年に売り出し、全国に広まったといわれている。1960年当時、わたしは小学生だったが市場の菓子店にクリスマスブーツがたくさん並んでいるのをはっきりと記憶しているので、おそらく1950年代にはどこの家庭でも、クリスマスを祝うスタイルが定着していたものと推測する。

 

 

 

 

ゴッホ耳切り事件

168651_1457627699_2_450    フランス西部ブルターニュにあるポン・タヴァンは、人口500人ほどの小さな村だったが、1886年にポール・ゴーギャン(1848-1903)が最初に訪れたころには、すでに画家たちにはよく知られた保養地となっていた。ゴーギャンはこの町で仕事に熱中するとともに、ボヘミアンのような生活を送ったが、ほかの芸術家たちは彼の強い性格を尊敬していた。ゴーギャンの周囲に集まった若い画家たち、エミール・ベルナール(1868-1941)、ポール・セリュジェ(1863-1927)、クーノ・アミエ(1868-1961)、アルマン・セガン(1869-1903)らは後にポン・タヴァン派と呼ばれ、20世紀美術を予告するような様々な絵画制作上の実験を行なった。

   1888年10月、ゴーギャンは2年ばかり前にパリで会ったことのあるフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)からの招きで、南フランスのアルルで共同生活をすることになった。ゴーギャン40歳、ゴッホ35歳。最初の数週間の共同生活は順調だった。しかし、共同生活するには、2人の個性はあまりにも違いすぎた。見たものしか描けないゴッホに対して、ゴーギャンは想像力を駆使して表現した。また、画材の使い方や、お金のやりくりなどで、乱雑さが目立つゴッホは、神経質で几帳面なゴーギャンに、何度もその弱点を指摘されている。そして1888年12月23日、クリスマスをひかえた町を歩くゴーギャンを、突然かみそりを持ったゴッホが追いかけてきた。驚いたゴーギャンが、それでも厳しい視線でにらみつけると、ゴッホは何もできず、そのままうなだれて走り去る。翌日になって、ゴーギャンが家に戻ってみると、ゴッホは血まみれになってシーツにくるまっていた。この「耳切り事件」によって、ゴーギャンとゴッホの2ヵ月間の共同生活は終わった。パリに戻ったゴーギャンは、1891年4月1日、マルセイユから船出してタヒチに向かった。(Paul Gauguin,Pont-Aven)

2023年12月22日 (金)

かぼちゃと柚子湯

   本日は冬至。太陽が冬至線に直射する時で、一年中で最も南に位置し、北半球における正午の太陽の高さが最も低く、日照時間も最短である。わかりやすくいうと、年中で昼がもっとも短く、夜がもっとも長い日である。冬至粥を食べ、カボチャやコンニャクを食べる。またこの日、冷酒を飲み、柚子湯に入る習慣がある。なぜカボチャを食べるのか?かぼちゃを漢字で書くと「南瓜(なんきん)」。つまり、「ん」のつくものを食べると「運」が呼び込めるという運盛りのひとつ。小豆(あずき)を使った冬至粥は、昔から小豆の赤は邪気を払うといわれているから。柚子風呂に入るのは、柚子(ゆず)=「融通」がきく、冬至=「湯治」。こうした語呂合わせから柚子風呂に入る習慣があるが、もともとは運を呼び込む前に厄払いするための禊(みそぎ)だと考えられている。柚子湯に入ると1年中風邪をひかないといわれる。

庭掃除すませ今宵は柚子風呂に  大原雅尾

鴉啼いて年が暮れゆく冬至かな  厄助

2023年12月20日 (水)

水曜日は週の真ん中

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平凡な日々のある日のきのこ飯
           日野草城

 

   炊き込みご飯といえば、栗ご飯、さつまいもご飯、かやくご飯、といろいろあるが、語呂が合うのはやはり「きのこ飯」か。

 

 

ブログの休止

 コンピューター故障のため当分の間、ブログは休止いたします。

2023年12月19日 (火)

租界と予備租界

  1984年のこの日、イギリスと中国で香港返還合意文書が北京で調印された。そして1997年には資本主義制度を維持したまま香港が返還された。

    中国には古くは唐・宋時代の蕃坊、明時代におけるポルトガル人のマカオ、清朝の広東夷館のような外国人居留地があったが、1842年のイギリスとの南京条約によって上海が開港場となると、諸外国が管轄する租界という地域が中国全土に増えた。第一次世界大戦までに、租界設定国はイギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、ロシア、日本、イタリアう、ベルギーの8ヵ国、各地の租界総数は28という盛況に達した。主な所在地は、上海、天津、漢口、広東、アモイ、蕪湖、蘇州、杭州、沙市、福州、重慶、鎮江、九江であった。とくに天津などは、イギリス、フランス、ドイツ、日本、ロシア、ベルギー、イタリア、オーストリアと8ヵ国すべてが集中していたので、予備租界といわれる、どの国にも属さない緩衝地域も存在した。中国人たちはこの緩衝地域を「三不管」(サンプーカン)と呼んだ。

    山田清三郎の小説「明けない夜はない」では、「三不管には、三国の軍警は、はいってはこなかった。いわばそこは、権力の真空地帯だったのだ。この権力の真空地帯に、いつとはなしに細民窟が、発達していった。世の落伍者、おたずね者、何かの事情から世をせばめなければならない者、そうした人たちによって、細民窟ができ、それはしだいに戸数と人口を、増やしていった。」とある。中国語の「三不管」のもとの意味は予備租界といったものであったが、やがて「無法地帯」といった意味で使われるようになる。屋台市や安宿、芝居小屋などのほかに妓院(風俗店)が並び、アヘン窟があり、ヤクザの拠点となる。戦後は、香港の九龍城砦も「三不管」と呼ばれている。(12月19日)

17世紀イギリス人は紅茶よりもコーヒーを飲んでいた!?

Photo_3  国立がんセンターの研究によると、コーヒーや緑茶を日常的によく飲んでいる人は、そうでない人に比べて死亡するリスクが低いとする結果が発表された。イギリス人といえば紅茶を思いうかべるだろうが、実は17~18世紀、むしろコーヒーを飲んでいた。イギリスで最初の本格的な「英語辞典」の編集で有名なサミュエル・ジョンソン(1709-1784)と彼の伝記を書いたジェイムズ・ボズウェルとはコーヒー・ハウスで知り合った。そのほか演劇俳優のガリック、画家のレイノルズ、思想家のエドマンド・バーク、音楽家のバーニー、歴史家のギボンらもこのコーヒー・ハウスに出入りして談話を楽しんだ。イギリスだけでなく18世紀にはヨーロッパ中にコーヒーを飲む習慣は広がり、ベートーヴェンやバルザックもコーヒーを楽しんだといわれる。

    アメリカでは17世紀の半ばころに移住してきたオランダ人によって喫茶の習慣が伝わり、当時一種の社交的手段となっていた。アメリカへ移住したイギリス人の間では最初は紅茶が飲まれていたが、ボストン茶会事件以後、独立革命の時代になって、アメリカ人はコーヒーを選ぶ国民となった。これとは反対に、本国イギリスでは18世紀半ば頃から紅茶を飲む習慣が一般化していった。ボヘアという安い紅茶が中国からの輸入により入るようになり、大衆の生活のなかで普及していった。イギリスで紅茶が普及したのはこんな話もある。ある時、植民地での不作によってコーヒー豆の入手が困難になり、イギリス人はコーヒーが飲めなくなった。そこで英国政府の役人が目を付けたのが、同じ植民地だったインドやセイロンから大量に収穫された「お茶の葉」である。これを加工して出来たのが「紅茶」である。「国を愛する心あらば、コーヒーよりも紅茶を飲むべし」という国を挙げてのキャンペーンにより、この頃から英国人及びその他の植民地では紅茶を飲むようになったと言われている。

    コーヒーブレーク(coffee break)とは、仕事の合間の、コーヒーを飲むための小休憩時間をいう。breakとは「中断する」という意味で、1945年ごろアメリカで使われだした俗語であるといわれる。コーヒーの消費量が一人当たり一番多いのは、フィンランドだそうだ。

 

 

 

 

2023年12月17日 (日)

ライト兄弟が初飛行に成功(1903年)

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   本日は「飛行機の日」。1903年12月14日、ウィルバーとオービルのライト兄弟はノースカロライナ州キル・デビル・ヒルズで大西洋からの風を利用して翼で浮かび上がる実験を試みる。キティホークの丘に上り駆け降りて風にのる。14日の飛行はわずか3秒半で失敗。3日後の17日、ついに852フィート(255m)の飛行に成功。この飛行はわずか59秒間であったが、人を乗せた機械がみずからの力で空中に舞い上がり、速度をおとすことなく前進しつづけ、出発したところと同じ高さの地点に着陸したのは、世界の歴史上これがはじめてのことであった。人類の長い間の夢は、ここに実現した。ライト兄弟の初飛行地に1932年、記念塔が建てられた。

2023年12月15日 (金)

シューベルトの「未完成」はなぜ完成しなかったのか

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「シューベルトと婚約者テレーゼ・グローヴ」 オットー・ノーヴァク(1874-1950)の絵

 

 青春の夢と希望は未完のまま美しく閉じられる。

   1822年秋、25歳の青年フランツ・シューベルト(1797-1828)は「交響曲第8番ロ短調」を書き上げた。この曲が「未完成」と呼ばれるのは、当時の交響曲がふつう第4楽章だったのに、シューベルトは第3楽章を書きはじめたところで作曲を中止してしまい、2度と取り上げなかったためである。なぜシューベルトは「未完成」を完成をさせなかったのか理由はわからない。一説によると、別の曲を書きはじめているうち忘れてしまったのではないかともいわれている。往年の映画「未完成交響楽」(1933年)を見た人は「我が恋の終わらざるごとく、この曲も終わらざるべし」と失恋のためと理解したがるが、もちろん後世のフィクションである。実際にはテレーゼ・グローヴという歌の上手い女性がいたそうだが、3年後にパン屋に嫁いでしまった。「未完成」は、曲の外観が未完成であるがゆえに、シューベルトの生前にはついに演奏されなかった。シューベルトの親しい友人だったヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーが「未完成」の自筆楽譜のある場所をウィーンの高名な指揮者ヨハン・ヘルベックに教え、ヘルベックの尽力で自筆楽譜は世に出、かつウィーンで初演されたのだった。初演は1865年12月17日、作曲者の死後37年、作曲から実に43年間が経過していた。この日は奇しくもベートーベンの誕生日。生前、栄光が与えられなかったという点では、シューベルトはベートーベン以上に悲劇の天才であった。

 

 

2023年12月14日 (木)

カラスが飛んで梨が落ちる

   「カラスが飛んで梨が落ちる」韓国のことわざ。カマグイ ナルジャ べ トロジンダ。まったく関係のないことが同時に起きたために思わぬ疑いをかけられる、という意味でよく使われる。本来は仏教説話がもとにあり、四字熟語「烏飛梨落(オビイラク)」にもなっている。ある日、梨の木の枝で休んでいた烏が飛び上がったとき、その揺れで梨が落ち、下にいた蛇が死んだ。そのあと蛇がイノシシに生まれ変わり、烏はキジに生まれ変わる。今度はイノシシが間違って石を落とし、卵を抱いていたキジがその石で死ぬ。そのキジが人間に生まれ変わり、今度はイノシシを狩ろうとしている。それを見た一人の法師が、その2人の因縁を見極め、イノシシを殺さないように説得し、繰り返される因縁を切ったという話がある。

 

 

2023年12月13日 (水)

正月事始め

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買物の好きな女に師走来る(星野立子)

  本日は迎春の準備を始める「正月事始め」の日である。歳の市が各地で大きな神社や寺院の門前で開かれる。市では、正月飾りや注連縄、神仏具などをはじめ、羽子板、破魔弓、手毬など正月に使うものばかりでなく、日用品・衣類・食料品なども売られる。男児が生れた家には破魔弓、女児が生れた家には羽子板を贈る習慣がある。

2023年12月11日 (月)

租税の話

   令和5年の世相を表す漢字が、「税」と発表された。令和6年度の国家予算が112兆717億円。お金に無頓着なのは罪である。4年ほど前の話だが、人気お笑い芸人が何年間も所得を無申告だったことが大きな話題となった。所得税にしろ消費税にしろ負担される国民の側からすれば嫌な話である。これからさらに高齢化が進むため、IMFのクリスタリナ・ゲオルギエバ専務理事は「日本は消費税を15%に引き上げる必要がある」と提言している。税の多くが福祉にまわされる欧州と異なり、大企業優先の日本では庶民の暮らしが成り立つのだろうか。日本は相対的貧困率はG7で2番目に高い。データを鵜呑みにするするアナリストの意見は危険であり、その国の文化と歴史を踏まえて提言すべきである。そもそも租税の歴史は古く国家の成立から始まる。古代エジプトのパピルス文書には当時の農民に対する厳しい搾取が記されている。近代的な租税制度はイギリスの経済学者アダム・スミスが1776年「国富論」を著したことに始まる。のちその学説が課税制度にも採用される。ウィリアム・ピット(小ピット、画像)宰相の時代にナポレオン戦争の戦費調達を目的として所得税が導入された。ところが評判が悪くナポレオン戦争の終結とともに廃止される。だが間もなく復活し定着する。イギリスの制度が19世紀の間に欧州に伝播する。これに対してアメリカでは所得税の導入が遅れる。1894年に導入されるが、憲法違反という最高裁判所の判決が下り、廃止される。そして長い時間をかけて累進制を検討し、1913年に所得税法が成立する。(世界史)

2023年12月10日 (日)

田中正造、天皇陛下に直訴す

    栃木県北部にある足尾銅山は、慶長15(1610)年に発見され、江戸時代から日本の代表的な銅山だった。その足尾銅山も明治になるとすっかりさびれていた。古河市兵衛(1832-1903)は奥州一円の生糸買付けで儲け、さらに足尾に隠れていた鉱脈に気づいて、明治7年ごろから鉱山業に乗り出した。足尾の銅山はみるみる甦り、明治14年に172トンだったのが、明治18年になると4000トンもの銅を生産するようになった。しかし、そのため、銅山から流れでた鋼毒が渡良瀬川に垂れ流され、付近の農民たちは甚大な被害をうけていた。その鉱毒問題で立ち上がったのが、折から第1回の総選挙で当選した衆議院議員の田中正造(1841-1913)である。

   明治34年12月10日、明治天皇の馬車に向かって、正造は直訴状を手に「お願いがございます」と駆け寄り、天皇に公害の被害を訴えた。「草莽ノ微臣田中正造、誠恐誠惶頓首頓首、謹テ奏ス。伏シテ惟ルニ、臣田間ノ匹夫、敢テ規和ヲ踰エ法ヲ犯シテ鳳駕ニ近前スル、其罪実ニ万死ニ当レリ」美濃紙五枚に浄書されたその書状は、そんな書き出しではじまっていた。

   「伏テ惟ルニ、東京ノ北四十里ニシテ、足尾銅山アリ。其採鉱製銅ノ際ニ生ズル所ノ毒水ト毒屑ト、久シク澗谷ヲ埋メ渓流ニ注ギ、渡良瀬河ニ奔下シテ、沿岸其害ヲ被ラザルナシ」

   このときの直訴文は、前夜、当時「万朝報」の記者であった幸徳秋水が田中の草稿に徹夜で手を入れて浄書したものである。新聞で大きく報道され、この直訴事件が世間に与えた衝撃は大きい。婦人会が主催したある演説会で、当時東大の法科の学生だった河上肇が、はじめて知る被害の実状に感動し、着用の外套や襟巻きを差し出したというエピソードは有名である。

「死なば死ね 殺さば殺せ 死んだ世に 殺されるとて かなしくもなし」

   そのころ田中正造が詠んだ歌である。明治天皇崩御の翌年、渡良瀬川のほとりで倒れた。「医者も薬もいらぬ。心配要らぬ。わしの病気は日本の山河が荒れているのが原因なのだから」と静かに息をひきとった。享年73歳。田中正造の壮絶な生涯をひと言でいえば、「正義の人」といえるだろう。(参考:油井正臣『田中正造』)

 

 

2023年12月 6日 (水)

産業革命(歴史総合)

  18世紀中期のイギリスでは、毛織物工業を中心とする工場手工業が発達し、鉄鉱石と石炭が国内で豊富に産出した。また、海外に広い植民地をもっていたため、原料の供給地と製品の市場があり、豊かな資本をたくわえていて、産業革命がおこる基礎があった。やがてジョン・ケイの飛び杼を初めとして、ハーグリーブスのジェニー紡績機、アークライトの水力紡績機、クロンプトンのミュール紡績機などの木綿工業で織布・紡績の機械の発明・改良がなされた。またニューコメンやワットなどの蒸気機関の動力発明が相ついで、技術的な革新が起こり、18世紀後半には、工場制、機械制大工場の工業化への道を開いた。産業革命は世界を大きく変えることになり、資本主義社会への幕開けとなった。しかし。一方で労働者階級を生み出し、貧困層の増大、大都市環境を悪化させるという負の面もあったことを看過してはならない。

  産業革命以前のヨーロッパ社会は、伝染病とくにペストの侵入によって大きな影響を受けた。14世紀半ばの黒死病の流行は、ヨーロッパの4分の1の人口を減少させた。これは荘園制度の崩壊と農奴制度の没落を来し、イギリスでは急激な人口減少が農地の維持を困難にしたため、広大な牧野と羊の飼育が行なわれるようになったことは、産業革命を促す引き金にもなったといわれる。しかしペストの流行も、1665年のロンドン大流行を最後に局地的な小流行を残すだけになった。産業革命のあとは、コレラ、腸チフスのような急性伝染病の流行や結核による急激な死亡の増加といった現象を生むに至った。

    とくに結核菌は、空気感染する疾病のため風が吹かない閉鎖空間で感染する疾患である。このため人口が集中し室内で社会活動が行なわれる大都市環境を好んで結核感染が起こりうる。イギリスでは工業化の進展によって、19世紀初頭にはマンチェスター、リバプール、バーミンガム、リーズ、グラスゴー、エジンバラなどの工業都市が出現し、都市環境が大きく変化したことにより、結核は「白いペスト」と呼ばれて大流行した。1830年ころのロンドンでは5人に1人が結核で亡くなったといわれる。当時の労働者は賃金が低く抑えられていたうえに、1日の労働時間が、14~15時間が普通であった。また急激な都市への人口集中によってスラムが形成され、人びとは生活排水をテムズ川などの河川に投棄し、その川の水を濾過して飲料水とするなど、生活環境も劣悪であった。過労と栄養不足が重なり、抵抗力が弱まったことから結核菌が増殖し、非衛生な都市環境がそれに拍車をかけたものと考える。

    産業革命後のイギリスの経済的発展のかげに、労働者階級の急激な結核死亡の増加は重要な社会問題となったが、この頃、今日の公衆衛生学的な考えの父ともいうべきエドウィン・チャドウィック(1800-1890)が現われた。彼は「最大多数の最大幸福」という哲学原理で当時有名であったベンサムの弟子で弁護士であった。1832年に救貧法制定委員会が設立され、チャドウィックはやがてその委員長になった。イギリスでは19世紀後半から、生活水準の向上に伴って結核の死亡は漸次低下の傾向を示していった。

  最近、ソサエティー5.0という言葉がよく使われている。狩猟社会が1.0、農耕社会が2.0、産業革命以降の工業社会が3.0、現代の情報社会が4.0。未来社会が5.0である。(世界史)参考図書:アーノルド・トインビー「英国産業革新論」 大日本文明協会 1908

 

 

 

 

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