無料ブログはココログ

« 私は勝利を盗まない | トップページ | 死と生について »

2023年10月 1日 (日)

石田三成の末裔

Photo_4
 高知九反田の地蔵尊は三成の娘を祀る

 天下分け目の関ヶ原の合戦は西軍の敗北で終わった。石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人は、慶長5年のこの日、京都・六条ヶ原で首を斬られた。石田三成の居城は近江の佐和山にあった。五奉行の1人として豊臣方を一身に背負うほどの男の城、さぞかし華麗に築かれているはず、と誰しもが思っていた。ところが、いざ入城してみると案に相違してのお粗末さ、壁は荒壁で上塗りはない。屋内はほとんど板張り、障子や襖には反古紙を張ってある。庭も庭園というほどのこはない。三成は私財を蓄えぬ清貧の士であった。敗れた一族には悲惨な運命がまっている。関ヶ原で敗れた石田三成は六条河原で斬首されたことになっている。秀頼生存説があるが三成にも生存伝説がある。それによると、生きのびて、主従4人で近江を出て、北国街道経由で、会津、米沢と移ろい、最後は秋田の佐竹義宣をたよって落ちのび、その地で僧侶に身を変えて生きのびたというのである。

    では三成の子供たちはどうなったのであろうか。一説によると2男5女いたらしい。秀吉の正室・高台院の養女だった3女辰姫(1592-1623)が当時8歳だった。高知の九反田には土佐に逃れて病死した幼い三成の娘の地蔵尊がある。辰姫は津軽藩主に嫁ぎ、3代目信義を産んでいる。4女は山田氏室、5女は岡重政室。石田三成の子孫は生き残っている。とくに津軽信義(1619-1655)には25男、26女の多くの子がいたというから、石田三成の子孫はいまも健在であろう。(10月1日)

 

« 私は勝利を盗まない | トップページ | 死と生について »

今日は何の日」カテゴリの記事

コメント

こんばんは

大河ドラマ「江」でも、まもなく登場してくる石田 三成に着眼するなんてniceです。

>辰姫は津軽藩主に嫁ぎ、3代目を産んでいる。
津軽 為信の三男、信枚の側室になったんですね。

三成の息子は、おそらく処刑されたんでしょうね。
男子には厳しい処罰が下ったでしょうから。

枯木ヶ谷(静岡県菊川市中内田6394番地付近)の奥に「じおんじ」という池があります。明治後期には各地に農業用水池がつくられました。この池もそのころつくられたものといわれています。昭和の中ごろ、土手がなおされました。いざという時に備え、静かに私たちを見守っています。枯木ヶ谷という地名は古く、古い書物によると、およそ1300年前、天武天皇の時代にはすでにつけられていたようです。
「それよりもずっと以前には渡来人が住んでいたと伝えれれていますし、素焼きの土器も沢山出土しています。」
 いくさに敗れた石田三成の娘「たえ姫」は何人かのおとも(そのまま枯木ヶ谷に住みついた人もいます.其の付近一帯の氏は水野姓ですが2件だけ石田姓を名乗る家があります。)を連れ、この地に落ちのびてきて、今の「じおんじ」池の右おくの小高い所に、そまつで小さな家を建て、なくなった一族の者たちの供養(死者の霊に物をそなえてまつること)をしていました。尼さんの茶をたてる金の茶がまの音が、枯木ヶ谷じゅうに鳴りひびいたそうです。しかし、いつのころか、尼さんは旅に出たきり戻ってきませんでした。金の茶がまも矢づつも、池の辺りにあった五輪の墓石もどうなってしまったのでしょうか。一説には、五輪の墓石は、池をつくった時、池の中におさめられたといわれています。今、残っているものは「とうすみ皿」と「古い石うす」だけです。
 お寺の名前が池の名前となって伝えられてきたのか、そのお寺の名前も「慈恩寺」が正しいのか「地音寺」なのか、はっきりしたことはわかっていません。注、一部の文章は内田百選より転記しました。

なんだか、しんみりとしますね。「軍師官兵衛」でも石田三成は、狡猾に描かれていましたが、歴史の本当のところはわかりませんよね。なにせ、勝者に都合良く書き残されるのでしょうから。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 私は勝利を盗まない | トップページ | 死と生について »

最近のトラックバック

2024年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31